-- W×B【婿殿ライフ】 -- 

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17.秘密の王冠

 涼やかな夕の風が、今、葉月が居るところまで吹いてくる。
 潮の香りがする我が家のキッチン。  葉月は海が見えるその場所で、『おにぎり』を握っているところ……。

 今日は土曜日。
 初夏の良い気候になってきた為、久しぶりの『二家族食事会』は御園若夫妻宅の庭でバーベキューをすることになった。今、その準備に追われている。
 ご自慢のキッチン台では、夫の隼人も忙しそうに立ち回っていた。

 庭からは子供達の賑やかな声と、お得意の野外設営係をしている達也の声。いつもの騒々しい賑わいが聞こえてくる中、やんわりとした女性の声も。

「あなた達。良い子にしないと隼人パパがなんにも食べさせてくれなくなるわよ!」

 体調が良くなった泉美の明るい声も聞こえてきた。
 そんな優しくて柔らかいママの声に、これまた賑やかな反撃が始まる。

「そんなことないもーん、泉美ママ」
「ぱぱ、やさしいもんっ」

 御園チビ兄妹のいつもの声に葉月は思わず微笑んでしまう。

「そうだよ。かあちゃん、いつもうるさい! あっちいけ!」

 今度は自分の子供より『しっかり生意気』な声に、葉月は思わずぎょっとした。
 お隣海野家の一人息子『晃』だ。

「なんですって? 晃!」
「あっかんべえ〜! カイトとアンナも一緒にやれよ」
「あっかんべー!」
「あっかんべえ」
「こらー! お〜ま〜えた〜ち〜〜! かあちゃんが駄目なら、とうちゃんが怒ってもいいんだぞ〜〜〜」

 達也の『もうすぐ怒る寸前の怪獣』のような詰め寄る声。いつも子供達をそこで黙らせようとする。この二家族で一番怖い人は『達也お父さん』。今までも子供達は容赦なく大声で怒鳴り飛ばされてきたので、このお父さんが怒るのを一番怖がっている……はずなのだが。だけれど今日は効果がないようで、子供達が『うわー』『きゃー』と楽しそうに逃げ回っている声。
 その光景が見えなくても見えてしまった葉月は思わず頬を緩ませ笑ってしまっていた。今日は無理無理。久しぶりの食事会なのだから。子供達も『どうしてやらないの』とずうっと言っていたのだから。しかも、ダイニングでの食事会ではなく、待ちに待っていた『お外』庭でのバーベキュー。これが騒がずして収まる訳がない。

「あはは! チビ達のスイッチがはいるの早いな。仕方がないか。久しぶりだもんな〜。あの元気、食事会をやらなかった回数分有り余ってるな」

 隼人も笑っている。葉月も『本当ね』と楽しく笑い返し、一緒に手料理の準備を進めていた。

 そんな夫は何をしているのかというと……。
 毎度のお得意オードブルを作っていた。

「なあに、それ。『いつもの』スモークサーモンの和風カルパッチョ?」

 隼人の手元がちょっと止まる。
 そして何も感じなかったように彼は『ああ』と答えただけ。
 葉月はそのメニューのチョイスに、夫も自分と同じ事を思っているのかと感じた。
 それは、義兄の純一が義弟の隼人がつくるオードブルの中で特に気に入っているものだったからだ。

「そういうお前は、なに。『いつもの』──鳥五目飯を、握り飯にしているのかよ」

 葉月はドッキリとする。
 『いつもの』の言い方が、葉月が隼人に向かって言った『いつもの』とは、もっと違う意味深な言い方に聞こえたのだ。
 握り飯にしているのは、今日は庭で野外パーティーだからなのだが……。
 つまり──『お前も義兄さんが好きな炊き込み飯を作ったんだな』と。──そして、それはまさに『正解』。
 葉月は海苔を巻きながら『それが?』なんて素っ気なく言っていた。

「大丈夫。義兄さん来るよ」

 妻の素直じゃない様子もなんのその。
 それすらも慣れているとばかりの夫の落ち着いた様子に、葉月も少々焦り気味に小波が立った心が、すうっと凪いでしまった。

「そうね。私もそう思っているわよ」
「俺もだよ。まったく『休暇』なら、ひとことぐらい伝言しろっていうんだよ。『家族』がどういう心配をするかって、義兄さんは相変わらず、ちっとも分かっていないな!」

 隼人の横顔は本気で怒っている……。
 葉月はそれを見て、夫も待っているのだと……。彼が綺麗に仕上げたスモークサーモンの和風カルパッチョを見て思う。

 あの晩、この家にちゃんと帰ってきた葉月は、夫の隼人には正直に義兄を訪ねに行ったことを告げた。
 純一が一年の内に数回、まとまった休みを取ることは夫妻も知っているところだが、そんな時の義兄は前もって『オフィスを閉める』と今までは教えてくれていた。それにその間も、純一は島の中をドライブしたり、仲良くなった島の地元民と一緒に釣りに出かけアクティブに過ごしたり、または今回のように一日中マンションでゆっくりとした時間を過ごしたり……。そんなことは周知の所だった。
 それが今回に限っては、『あのようなこと』があった直後に『気配なしの音信不通』になってしまうのだから……。
 それはもう……。葉月が思ったように、隣の夫も『やはり、俺達が三人一緒は無理か』と感じたに違いない。

 それでも、葉月は純一の『心』を知って、『精一杯』のことをした。そしてそれを選んだ。
 あの晩のことは……。純一の様子を見に行って夕食をこしらえてきたことだけは、自宅に帰ってから隼人には伝えた。それで隼人も純一が『勝手に休暇中』というのを知ることになったのだが。しかし、それで葉月がどうして丘のマンションに行って、それで何を義兄に思ったのかなんて……それは決して言えない。言いたくても言ってはいけないもの。

 でも……。やはりここでも隼人はなにもかもお見通しなのだと葉月は思っている。
 それも帰ってきてから隼人に報告した時のこと。隼人は無言で暫くは葉月の顔をじいっと見ていた。ほんの少しだけの時間、夫が妻の表情に瞳の色を見つめる。葉月もそこは決して顔を逸らさずに夫の目を真っ直ぐに見つめ返した。
 義兄に心があることはもう誤魔化しようもないこと。それを隠すつもりはないという意志を夫に向けた。

『おかえり、葉月』

 その時、隼人はそう言ってただ葉月を抱きしめてくれただけだった。
 でも、彼はやっぱり昔のまま『春風』のように優しくふんわりと葉月を包み込む。なにもかもを知っているのに、なにもかもを許してくれる笑顔もそのままだった。
 葉月はその『春風』を抱きしめ微笑む。『貴方、ただいま』と。

 答など、まだ誰も出してはいないと思う。
 でも、葉月は今回のことは、自分の中で『私はこれでいい』というところに辿り着いた。
 そして隼人も妻を『おかえり』と抱きしめて、終わったのだと思う。
 それで、『義兄』はどうするのだろう?

 『三人は無理』と思ったなら、義兄は二度とこの島で暮らすことを選ばないだろう。
 もし、そうなったなら……。葉月はおろか、隼人だって引き留めることは出来ない。
 今度こそ、以前がそうだったように『お元気?』と言うだけの遠い関係になってしまうに違いない。
 そう、その覚悟だって、もう出来ている。
 葉月の『精一杯』はあそこまで。それでも駄目なら、本当にもう駄目。

「葉月」

 気が付けば、傍に隼人がいて葉月を心配そうに見下ろしている。
 『そんな顔、しないで』──そう言いたくて、言えなかった。そんな私の為の優しい顔なんてしないで。今にも、あの人を今度こそ失うのかも知れないと、夫以外の男性のことを案じている妻なんて……。ひどすぎる。そんな女を案じる顔なんてやめて。葉月は心の中でそう言っている。
 だけれど、この男の前程、本当になにもかもを誤魔化すことなど無に等しい。これほどに全てをもって『そんなお前が、葉月なんだ』と言ってくれる人がこの人なのだから。
 だから、葉月はもう泣いていた。そして思っていることをそのまま口にする。それが隼人が葉月に望んでいることだと思ったから……。

「……お兄ちゃまがいなくなったら、私」

 そんな葉月を見て、隼人はなにかとても胸に迫ったような顔になり、次には葉月を力強く抱きしめてくれていた。

「大丈夫。お前がそう思っているなら、義兄さんも同じように思っているって……」
「そうかしら……?」
「これでお前から離れていったら、もう二度と、この島には来るなって義兄さんに言ってやる……!」

 また、隼人の声は怒っている。
 抱きしめられてその声を聞いていると、妻を優しく包み込んで励ましてくれているというのもその通りなのだろうけれど、葉月にはそれ以上に、この夫も義兄は何処にも行かないと彼自身も言い聞かせているのだと思った。

 この夫にとっても……。
 義兄は傍にいて当たり前になってしまっているのだろう……。

 涼風が舞い込んでくるキッチンの窓辺で、何故か葉月と隼人はお互いを見つめ黙り込む。
 そこに何もかもが言葉ではない形で溢れている気がした。
 葉月の心の中のなにもかもを見つめている隼人と、夫に全てを見つめられそこにさらけ出している妻もまた、そのままそこにいる夫を見つめ返していた。
 そのまま、葉月はやっと夫の腕の中へと全てを委ね、預けた。隼人もそっと抱き返してくれる。
 何故──。これほどに柔らかい帰ってくる場所があるのに、他の場所を無くすまいと必死になってしまうのか。柔らかい夫の腕の中は、またとても切なかった。隼人の腕の中、このような気持ちになるのは初めてではないけれど、今日はより一層に切ない心が痛い。『貴方のことだって、こんなに愛している』──そう言えば、葉月の気持ちだってダイレクトに隼人に伝わるだろうに、なのにこんな時に限って簡単には言葉に出来なくてもどかしい。
 大人になったと思ったのに。なのに今でも恋人の時のような不安定な心は残っている。……上手くなれない恋。愛になって穏やかになったはずなのに、まだ、僅かに恋の痛みも残っている。
 その想いが溢れ、葉月は隼人の肩先に瞳を押しつけて涙をこぼしていた。

「葉月……。なんだ、まいったな……」

 いつも以上に感極まってしまったのか、隼人は狂おしそうに葉月を抱きしめると、そのまま柔らかく妻の唇を塞いだ。

「……うん、はや・・・と、さん」
「葉月。そのままで、いい。ずうっと……そのままでいい……」

 まだ心の中に残っている、あの頃の『ウサギ』。
 それを見つけて、今度は夫が懐かしい恋をしている。
 大人と少女の狭間で立ち止まったままうずくまっていた不器用なウサギを見つけて。そう……出会ったあの頃のように。この人の『春風』が、私の心を温めて、そして、今……。 

 庭からはまだ賑やかな声……。
 だけれど、キッチンにいる二人には微かに聞こえるだけで、今はもう、そこは二人だけの世界に包まれていた。
 夫の唇は熱くいつまでも心地良く吸い付いたまま。温めてもらうどころか、葉月の頬はかあっと熱く火照っていた。
 もう慣れたはずの、何度も交わしてきたはずの、良く知っている口づけ。なのに、今でも時々、本当に狂おしくて切なくて、そして痛くて何処に行くのか分からなかった恋をしてきた時の情熱のまま、その口づけだけでとろけてしまう。
 隼人の吐息が熱く葉月の身体の中に吹き込まれ、時には葉月の首筋を撫でていく。やがて葉月の頬を包み込んでいた大きな手が、さらりと夏の薄いスカートの中へと入っていってしまった。

「あ、貴方……ダメ」
「分かっているんだけれど、さぁ……」

 それでもあっと言う間に隼人の指先はショーツの中へ潜り込み、葉月の柔らかいヒップにある谷間に滑り込んでいった。

「ほ、本当にダメだってば」
「だから、分かっているんだけれど」
「わ、わかっていない……っ」

 先に行きたいのに、先に行ってはいけないと堪えている夫の指先にも、葉月は身体が熱くなる。
 庭からは『パパとママはどうしたかなあ』という息子の声……。やがてこちらに覗きに来るだろう、そんな気配。
 それでも隼人は妻の柔らかい尻肌を握りしめ、耳元で狂おしそうな熱い息をついていた。

「また今夜……」
「うん」
「さっきのような顔、してくれよ」

 『どんな顔?』と葉月は分かっていてはぐらかした。
 最後にもう一度、隼人に唇を塞がれる。葉月の下の方で遊んでいた夫の手は、いつもの優しい手つきで頬を包み、栗毛をさらりと愛おしそうに撫でてくれる。
 今度は、葉月もなにもかもを忘れて、うっとり……と……そのまま……。

 

「あ、しまった」

 

 そんな男性の声がキッチンの入り口から聞こえてきて、葉月も隼人もドッキリと振り返る。

「に、義兄さん──!」
「兄様……!!」

 そこには純一がバツが悪そうに立っていたのだ。
 今度の葉月は違う意味で、頬がかああっと燃え上がった。
 またどうしてこうもタイミングの悪いお兄ちゃまなのだろう……! と。しかしそれは目の前で密着していた夫も同じ……はずなのだが、隼人は純一を見るなりムッとした顔になり、また、目の前にいる葉月をぎゅっと抱きしめてきた。隼人だって気恥ずかしさから葉月を手放すかと思ったのに。また抱きしめられた葉月がどうしてかと戸惑っても、隼人は次には『にんまり』と意地悪い笑みを純一に見せながら、さらに葉月を腕の中に囲う。

「なんだよ、いいところだったのになあ」

 隼人のいつにない意地悪な顔。
 その顔で、夫が妻を抱きしめているのは当たり前とばかりに、腕の中から離さない。
 まるでなにか挑発しているようだった。
 さっきまで熱かった身体。さあっと何かが引いていくように、葉月の心臓がドキドキと緊張している。

「みたいだなあ。悪かった、悪かった」

 そして義兄も、最初こそ『夫妻熱愛現場』を目撃してしまいバツが悪そうだったのに、こちらももう堂々と開き直っていた。
 何故かそこで、義兄弟の二人が何かを牽制しあうように睨み合っているのにも、葉月はハラハラさせられた。

「なに。ここから出ていったんじゃなかったんだ」
「誰が出ていくなど言ったのだ?」
「……てっきり。うちの奥さんが可哀想なぐらいに心配していたもんだからさあ。本当に出て行ったのかと思っちゃったよ。だからさあ、俺がいるじゃないか、俺だけで充分だろうってね。今、慰めていたんだけれど〜」

 それは、からかいなのか本心なのか? それでも、あの純一にそこまで投げつけてしまう隼人の思いきりに葉月は目撃された恥ずかしさもなにもかもすっ飛んでいってしまった。
 しかも目の前で、あの義兄がぴくりと『こめかみ』に青筋を立てたのが判った。

 これは嫌味とか意地悪とかなんかじゃない。
 それ以上の『義弟からのお仕置き』なんだと葉月は思った。
 普段は穏やかで控えめで、周りを広く見渡して寛容に受け止めている夫が……。いざとなるとこんなに『恐ろしい意地悪』を秘めているだなんてと葉月はおののいた。
 しかし、それもきっと『義兄さん』だから、遠慮なく尖っているのだとも葉月は思った。
 それに純一も負けていない。隼人が売ってきた『意地悪』に対して、受ける気満々の余裕の笑みを浮かべていた。

「誰が出ていくか。まったく俺がいないぐらいで義妹が泣くくらいの男じゃ、まだまだ任せられたもんじゃないなあ」

 葉月はまた『ひやー』と血の引く思い。
 今度はあの穏やかな夫が、頬を引きつらせている。
 そしてついに葉月は、隼人の腕の中から『ぽい』と放り出される。今度の夫の顔は真剣で、そのまま義兄へと向かっていった。

「だいたいなあ! 休んでいるなら休んでいると一言だけでも連絡しろよ! 家族用の携帯電話まで不通にするのは『家族』じゃない! 家族失格だ!!」
「俺が十日程いないだけで、お前はなにも出来ないって言うのか? お前、次期当主だろ。それぐらいなんだ」
「はあ? なんだって? それにここは俺の家! 気配もなく入ってこられちゃ驚くだろ、ドラ猫兄貴」
「ああ、そうさ。俺は猫訓練をしてきた男だからなあ。しかし、庭から入って達也とチビ達と挨拶をしていたのに、お前達には聞こえなかったのか? だろうなあ〜。まだ明るい内から『ご夫妻の営み』に夢中じゃあ、外の気配などまったく分からなくて当然といったところかねえ〜」

 なんという言い合いなのだろう……。
 葉月はらしくない二人の言い合いに、あっけにとられていた。
 なんか、子供の兄弟喧嘩みたい??
 二人は本当はそんなこと思っていないだろうに、でも心の片隅で少しはそう思っていただろう小さな事をうんと大きくして、どちらも負けぬ勢いで相手を怒らせることを競い合っているようだった。

 さらに二人の言い合いは『あまりにもくだらない』ことに発展し、ますます子供っぽくなってくる。
 流石の葉月もだんだんと付き合いきれなくなって、ここは『仲の良い義兄弟』こそ、二人きりにしてやろうと思った。
 『おにぎり』を並べた大皿を手にとって『じゃあ、私はお先に』と出ていこうと思った時だった。

「くそ。今度そんな事があったら『勘当』だ、『勘当』!」

 隼人の方が、自分がこしらえたカルパッチョの皿を持ち上げていた。

「ああ、望むところだ。当主様に勘当されたら、今度こそ、俺は出ていくよ」
「ああ、そうしてくれ! だから次からは許さない。分かったな、義兄さん!!」

 そうして隼人はあっと言う間にその皿を持って、素早くキッチンを出て行ってしまった。
 先を越され葉月は唖然とした。
 でも……やがて、それが葉月の為だったと知ることになる。
 だって、目の前に。待っていた人がいて、葉月の方が『二人きり』になっていたからだ。
 今頃、怒りながら出ていった夫はキッチンを振り返りながら『葉月、良かったな』なんて、我が事のように微笑んでいるような気がした。

 そしてそれは目の前にいる義兄も同じように感じているらしく、ちょっと申し訳なさそうに隼人が出ていった方を眺めている。

「なんだ、あの男は。まったく最近、益々敵わない」

 何度か隼人にやりこめられて困っている純一の姿を目にしたことがある。
 その時、いつも純一に対しては黙って何も言えなくなってしまう義妹としては『隼人さんって、すごいっ』と目を丸くするほどに、容赦なく果敢に純一を丸め込んでいるのだ。
 先ほどもそれに近い感じだった。だから、義兄も余程参っているのだろう。手強くて仕様のない一目置いている男だからこそ、こんな時はより一層『敵わない』らしい。
 そんな純一を見て、今日の葉月は笑ってしまった。

「まるで、昔の純兄様と真兄様みたい」

 亡くなったもう一人の義兄も、兄の純一には容赦なく徹底的に意見していたのを何度も見てきた。
 今まではそんなふうには思わなかったが、今日という今日は、あまりにも遠慮ない兄弟に見えてしまって、昔を思い出さずにはいられなかった。
 純一も葉月のその言葉を聞いて、ふと呆れたような溜息をつきつつも、同じように笑っていた。

「そうなんだよな。こう、生意気なところ似ている。あ、でも隼人の前ではそれは言わない方が良いぞ。あれ、この前もロイにそう言われて、隼人のやつなんだかムキになって『俺は真さんじゃない』と怒っていたからな。代わりじゃないって怒るんだ」

 葉月もそれはどことなく感じ取っていたので、頷いた。
 確かに似ているようなところがあるから、葉月も出会った頃、自然と傍にいられた経過があるのは否定しない。だけれど、やはり隼人は隼人なのだから。

「でもね、お兄ちゃまも隼人さんも、なんであんなにいきいきと喧嘩をするの。喧嘩なのに喧嘩に見えなくなっちゃうわ」
「なにいっているんだ。真剣に喧嘩だ、喧嘩。しかもいっつも隼人から売ってくるんだ」

 と、純一もムキになって、その触れあいがあってこそ『心地良い』という本心を隠そうとしている。
 葉月は思った……。義兄がここに居るようになったのは、なにも義妹である自分の為だけじゃないのだって。本当は……もっと他の沢山のことも義兄はこの島で手に入れて、それで彼は今回は『ここにいる』と言うことを決められたのだって。
 ちょっとだけ傲っていたかもしれないと、葉月は夫に心配をかけさせたことを反省した。
 そうだ。もう……お兄ちゃまが全てだった猫姫ではないのだから。もう……あの時の自分ではないし、あの頃の私達でもない。

 久しぶりの会話も落ち着いて、二人きりの沈黙。目の前で、まだ気後れした様子の義兄を葉月は見つめた。
 するとやっぱり、お兄ちゃまは照れたように顔を背けてしまう。本当にこういうところ、昔から変わらない。

「……お休みは、もう、いいの?」
「ああ、もう充分だ」
「待っていたわ。待っていた……お兄ちゃまがまた私の目の前に見える日を」

 あの頃の猫姫ではなくなっても、葉月はやっぱり言っておきたいと思う。

「いなくなっちゃ、嫌」

 小さな声でそっと呟いた。
 少し驚いている義兄の顔。そしてやっぱり照れくさいからそれを隠す為にぶすっとした顔になるのも変わらなかった。
 潮騒だけが聞こえてくる夕暮れのキッチン。庭からは隼人が参入したため、子供達がまた騒がしく『隼人パパ』にまとわりついている賑やかな声が聞こえてくる。
 ふと純一を見上げると、彼はどこか遠い目をしながらも、その庭の和やかな声を聞いて頬を緩めていた。

「ちょっと待っていてくれ」

 そう言うと純一はキッチンを出て行ってしまった。
 葉月はなんだろうとそのまま待っていると、彼が玄関へと行って戻ってくる足音が聞こえる。
 再び、キッチンに戻ってきた義兄の姿を見て、葉月は目を丸くした。

「な、なにそれ? どうしたの? お兄ちゃま」
「お前にと思って、取り寄せたんだ」

 長身の純一が抱えても、彼の顔が隠れてしまうほどの植物。その鉢植えを抱えて持ってきたのだ。
 緑の低木鉢植え。スッとした葉と茎の先には、暖かみのあるアイボリーの花がいくつか咲いていた。そして鉢もエレガントにラッピングされている。
 ……にしても、どうしてそんなにおっきな鉢植えを!?

「プルメリアなんだ」
「プルメリア? ……えっと、ハワイのレイにするお花?」
「ああ。と、思って右京に頼んだら、沖縄の園芸店から取り寄せてくれてな。そうしたら、こんなでっかいのが届いて俺も驚いた」
「だって、プルメリアって低木の植物でしょう? どうしてまた……」

 葉月がフロリダで見ていたものは、低木でももっとそれなりの高さがある木だった記憶がある。
 それを鉢植えにしたものをわざわざ取り寄せたというその義兄の真意が分からなかったのだが……。

 やがて純一はその大きな鉢植えを、葉月の足下に置いた。
 そして惜しむことなく、頂点で咲き誇っている白い花を一つだけ摘み取った。
 その瞬間、甘い香りが漂う。その香りを掴み取ったかのような純一の手が、葉月の顔に近づいてきた。

「純兄様……?」

 何がしたいのかと戸惑っていると、純一は手にあるその花を、葉月の耳元、栗毛にかんざしのように挿してくれた。
 だけれど、どうしてこの花を葉月に贈ろうと思ったのがわからなくて。その仕草はとても嬉しかったのに、不思議すぎてまだ心から喜べない。
 だが、目の前の義兄はとても温かい眼差しで葉月を満足そうに見つめている……。いつまでも、そのたった一輪の花を髪に挿している義妹を、ただただ眺めている。

「あ、有難う。いい香りね……。夏らしいお花よね。あ、夏だから……?」

 いつも思わぬ贈り物を思いついてくれる義兄の、ちょっとしたサプライズなのかと思った。
 だが、目の前の純一は優しく穏やかに微笑んだまま、そっと首を振った。

「違う。見たんだ、お前の夢を」
「え?」
「そうしてプルメリアの花を挿しているお前をな。……それを目の前で現実で見てみたかっただけだ」

 それだけをしたいがために、この花を取り寄せたということらしい。それにも驚いたが、でも純一が……。自分のことを夢に見てくれているのを知って、葉月は泣きたくなってきた。それは切なさとか哀しさとかではない、確実に喜びだった。
 そしてそれは夢ではなく、義兄にとっても義妹の自分が目の前にいることは現実なのだと確かめようとしてくれたのも、葉月には喜びだった。
 このお兄ちゃまの傍に置いてもらっている。どんな形でも、どんな状態でも。昔のままの遠慮した口づけが精一杯なだけの葉月のように。義兄にとっては、これが精一杯……? あのキスマークのお返し? 葉月はそう思った。

「お兄ちゃま……の夢に私が居るの?」
「ああ。お前を追いかけて捕まえていた」
「本当に……?」

 いつも逃げていた義兄を捕まえようとしていたのはこの義妹の方だった。
 なのに。今の義兄は、葉月を追いかけて捕まえようとする夢を見てくれて、そしてそれを平気で口にしてくれている。
 葉月の目に、また……涙がこぼれた。

 義兄の長い指先が、葉月の涙を止めようと頬に触れた。

「俺は何処にも行かない」

 葉月が一番待っていた言葉を、純一は微笑みながらはっきりと告げてくれていた。
 いつもいつもひねくれていて、意地悪で、ちっとも心に思っていることを見せてくれなかったお兄ちゃまが……! いつだっていつだって、葉月が望んでいる一言も言ってくれなかったお兄ちゃまが……! 今日はとても優しい笑顔でちゃんと言ってくれた。

「お前と隼人が小笠原を出ていっても、俺は出ていかない。まあ、つまりは此処が気に入っている訳だ。どうだ?」
「なによ……! 私だって、お兄ちゃまがいなくなっても、小笠原にずっといるんだから……!」

 やっぱり最後はちょっと意地悪な素直じゃない一言に、葉月もいつものムキになるおちびになって言い返していた。
 ……それでも。やっと聞けた一言で心が落ち着いてきたら、またまた涙が溢れてきた。

「ほんっとうにお前は、チビなんだからなあ」

 純一が、葉月の頭だけを引き寄せ肩先に抱いてくれる。
 なにもかもをぎゅっと抱きしめられる抱擁ではない。義兄として自然な仕草だけ。それでも葉月には、昔から愛し続けてきた男性に力強く抱きしめられていることに等しかった。

 『チビ』、『おちび』──。
 もう、『モン プチ ココ』じゃなくなったと思った。
 あの時もらった特別な王冠も、また、心の奥にしまって──。
 おちびの王冠の横には、猫姫のティアラもある。
 そしてそれらはもう、二度と葉月の頭に乗ることはない。
 でも、いつまでもそれは心の奥にそっと取っておく。

 葉月は義兄の温かい肩先から顔をあげて、微笑む。
 そして純一に言う。

「純兄様、私、もう……大丈夫」
「俺もだ」

 あの時、共に倒れかけた心がまた立ち上がる。
 しかしそれはまた『義兄妹』というはっきりとした線のこちら側とあちら側に戻ったと言うこと。
 だけれど、その線一本があるだけで、二人はとっても近い隣同士で寄り添っていることが、今回のことでよく分かったと葉月は思った。

「お。俺の好きな炊き込み飯」

 早速、葉月が用意していた好物が目に付いたようだ。
 それだけ純一の心も波が穏やかに落ち着いたということなのだろう。
 純一はその皿を颯爽と手にとって、庭に行くと言う。
 葉月もそれを頼んで、純一を家族の賑わいの中へと送り出す。

 そんな純一は、キッチンを出ていく時、ふと振り返って葉月に呟いた。

「この前の飯、美味かった。俺はお前の料理を食って生きていくぞ」

 その言葉にも葉月は驚いて固まってしまった。
 けれど純一はそのまま笑って上機嫌に出ていった。

 どうしたのだろう?
 今日のおにいちゃま……!
 絶対に変!

 もっと少女だったころ。恋して止まなかったあの頃に今日言われたことを言われていたら、葉月は喜びのあまり卒倒していたかもしれない。
 いいや、今日だってそう。大人になった今だって……

「今でも結構、くるわね……」

 葉月は熱くなった心がありそうな胸の位置を手のひらで包み込み、微笑んでいた。
 ほら、ここにまだ小さな私がいる。
 夫も義兄も、私のここを良く知ってくれていたのだと……。
 そして私も、無くしてはいなかった、まだ持っていたのだと思った。
 それがなんだか今日は愛おしくて、嬉しい……。

 髪に挿してくれた白い花の甘い香り。
 それがいつまでも葉月を包み込んでいた。

 また、今日もらった王冠を忘れずに胸にしまって……。
 葉月はそう思いながら、綺麗なガラスの器に水を張り、そこにそっと髪から取った花を浮かべた。

 この白い花も秘密の王冠。また葉月の胸の奥で、瑞々しく咲き続けるだろう。
 密やかな甘い香りが指先に残り、葉月はそっと一人、微笑んだ。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 それから、やや時が経ち──。
 季節は真夏になっていた。

 

 その日、東京のとあるホテルで『世界の宝石展』が開催された。
 今日の葉月は、タイトでかっちりとした黒いスーツに身を包みそこにいた。

「こちら招待状です」

 そして葉月の前には、同じくかっちりとした黒いスーツを着込んだ夫が、岩佐から送られてきた招待状を受付に差し出しているところ。
 するとその受付の女性が招待状の名を確認して止まってしまった。彼女は『少々お待ち下さいませ』と笑顔で言うと、手元にある携帯電話で岩佐を呼びだしてくれたようだった。

「お待ちしておりましたよ。御園さん、そして奥様」

 会場から覇気を取り戻した様子の岩佐が笑顔で駆けつけてきた。
 その急いで来てくれた様子から、彼も夫妻がやってくるのを待ち構えていたようだった。

「早速ですが、こちらへどうぞ」

 早速──。つまり、葉月が貸した我が家の指輪が展示されている場へと案内してくれるということらしい。
 宝石の輝きを引き立たせる為か、会場はやや明かりが落とされていて、少しばかり暗い。それでも結構な人がいて、中にはマスコミらしい人もいて、その人々が岩佐の方をずっと見ているのに葉月は気が付いた。

 その時、ここに来る前に達也から見せてもらったあの情報雑誌の記事を思い出す。
 ──『宝石展無事開催決定。岩佐社長自らの指輪紹介があるとのこと。不幸の指輪の秘密を解けるのか……』と、あった。

「お陰様で大盛況ですよ。特に、そちら様のお家から出た指輪は大変人気でしてね」

 岩佐は上機嫌だった。
 つまりは自分が目をつけた企画は、やはり大成功と言いたいのだろうか?

 そんな岩佐と目が合う。
 彼は葉月と目が合うと、ちょっとばかり落ち着きがなさそうだった。
 その度に、ネクタイの結び目を締め直したりするものだから、余計に──。

「なんか、こんなに緊張するの久しぶりですよ。特に葉月さんにどう思っていただけるか……なんて。昨夜は眠れなかった程で」

 本当だろうか?
 以前の彼の調子良い顔を思い出してしまい、葉月はまだ安心できない。
 隼人はただ黙っているが、葉月の隣から離れず、そしてその隣にいる夫からはどこか内に秘めている熱い何かを抑え込んでいるのが伝わってきた。

 ──もし。
 葉月が彼に望んでいたようなものがなかったら。
 ──もし。
 彼がやっぱり葉月を踏みにじっていたら?

 隼人の出方はそれからのようだ。
 それまでは黙って、目の前にいる家族を傷つけた男とは言葉を交わす気もないよう……。

 やがて会場の中程にやってきて、あるところに他の所より人が集まっているガラスケースが目に付いた。

「ね、どの人も立ち止まって長い時間眺めていくんですよ。やはりなにか持っている指輪なんだと僕は思いましたよ」

 ついに。我が家の門外不出の指輪が人々の目に晒されているそこへとやってきたようだ。
 何故か、葉月の身体に寒気が走る。ぶるっとなにか譬えようのない恐怖のようなもの──。
 そのケースを取り囲んでいる人々が、まるで『御園』そのものを興味津々に穴が開くほどに眺めているような感触に陥ったのだ。
 不幸の指輪をもつ一族の、不幸。それを知らなかったのに知ってしまった世間の人々の顔。そんな構図に見えたのだ。

「大丈夫だ。行こう」

 ぴっしりとしたスーツを着ている夫はどこまでも凛として、葉月の横に寄り添ってくれている。
 葉月も冷や汗が額に滲みはじめた今、自分が決めたことだからと、前へと一歩踏み出していた。

 

 

 

Update/2007.8.5
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