-- W×B【婿殿ライフ】 -- 

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15.内緒のチョコレート

 予定が大幅に狂ってしまった……。
 ジュールはそう思いながら、丘のマンションの駐車場に、兄貴の黒い車を停める。
 今、買い物から戻ってきたところだ。

 この小高い丘の駐車場から見える蒼い海の景色。今まで隠れ家として三人、いや四人だったか、共に暮らしていたイタリア地中海小島の町を思い起こさせる風景。
 潮風が吹き込んでくれば、そこは兄貴と弟分のエド、そしてうるさい子猫と『ファミリー』として暮らしていた日々をも蘇らせるほどの穏やかな景色だ。
 ……と言っても、ジュールにとってそれが最高の期間だったなんてことはない。あの頃に戻りたいとも思わない。
 会いたければいつだって、この様に会える。エドも医療だ美容だファッションショーだと忙しそうに駆け回っているし、もうずっと顔を合わせていない『子猫』も若槻の下から独立したと聞かされているから、彼女も彼女らしく生きているのだと安心している。

 しかし、だからとて。と、眉間に皺を寄せるジュール。
 助手席に置いていた買い物袋を手にして、純一の部屋へと向かう。

 日本国内のこの離島にまだ滞在中。出来ることは、室内業務。今のところ東京にも何処にも用はないから、この離島のボスオフィスで事足りている。このまま暫くは、のんびり滞在型のビジネスが出来る。……いや、違った……。もとい。今、この島を離れることが出来ない、出来なくなったのだ。さらに言うと、『丘のマンションから離れられない』事態になっている。

 きっと、あまりにも幸せすぎるのだ。
 なんて、ちょっと嫌味を言いたくなる心境。
 それほどに、今、ジュールのファミリーと呼べる人々はこの素晴らしい情景の中で笑顔で過ごしている。だから、安心して『放置』していたのに、なにも自分がこの島へとファミリーのお手伝いに来た時にこんなことにならなくても?
 それとも、あのような騒ぎが起きたから、日頃、見えないようにお互いが隠している物が噴出してしまったのか。

 とにかく……と、ジュールはマンションに入った。

 

 純一のオフィスと繋がっているキッチンにて、本日の食材を整理する。
 買ってきたオレンジを冷蔵庫に入れ、夕食の材料をチェック。

 そこで『なぜ、俺はここまで?』と、ちょっと力が抜けてくるジュール。
 純一には『お前、もう、帰っても良いからな』と言われている。なのに居座っている。勿論、自己判断。こうして買い物をして冷蔵庫を満たし、給仕までこなしている。それだってジュールが自らやっていることであって、純一はそんなことを『やってほしい』だなんて一言も言っていない。

 それでもジュールはここで『留守番』をしている。
 ──『嘘の留守番』を。
 そこで気を取り直し、ジュールは溜息をつきながら、冷えている方のオレンジを手にしてスライスする。

「あの人、冷えていないと駄目なんだよなー」

 若き頃、姉と共に三人で暮らしていたことを思い出す。
 あの頃はまだ、ジュールは『純一』という男を全く信用していなかった。
 自分だけならともかく、男性不信に陥っている姉も共に、『純一』と言う見知らぬ男と暮らすよう言い残して逝ってしまったレイチェルを責めたくなるほどの気持ちを抱えたまま、同居生活に入った。
 しかしジュールより先に、姉のロザンナの方が純一に心を開いてしまったのだ。

『レイチェルママンが私達を託してくれた青年よ。悪い人じゃないわ、私、わかるもの』

 男性の暴挙で実母を辱められ失い、尚かつ父親も同時に奪われた姉。彼女はその以後、大人の男性や青年には一切心を開こうとしなかった。
 なのに、なにがきっかけだったのか。ジュールが姉の為にも警戒していた男に、あっさりと懐いてしまったのだ。
 『あの人、なんだか私達のことを良く知っているみたいな気がするの……同じようなものを』──。生まれ故郷と両親を一気に奪われ傷ついたその後、誰よりも人の心根には敏感になった姉。なによりもナタリーとレイチェル以外は誰も信じようとしなかった姉のその心変わりが何故なのか気になる。勿論、後に同じような痛みを抱えている男だと知ることになって納得する日がやってくるのだが……。その時、すっかり安心しきって笑顔で暮らし始めた姉を弟は信じてみることにした。
 その姉が、若いのに仕事ばかり没頭している純一によく差し入れていたのがオレンジだった。ある時、純一がロザンナに申し訳なさそうに言ったそうだ。『今まで黙っていたけれど、実は冷えているオレンジが好みだ』と。それから姉は純一の為のオレンジはちゃんと前もって冷やすように心がけていた。
 姉が嫁ぐまでの短い期間、二人は同い年と言うこともあって、時には夜遅くまで楽しそうに話していたのをジュールは思い出す。

 イギリスへと嫁いでいく前に姉が言った。

『ジュール。あの人について行きなさい』

 姉まで、レイチェルママンと同じ事を言った。
 ──純一についていけと。

 姉が結婚した夜。純一から初めて『姉妹の悲劇』を聞かされる。
 そして姉は嫁ぐ前に、ジュールより先に聞かされていたようだった。
 姉は後に言った。『貴方達、お互いに支え合って兄弟のように生きていけるわよ』と、『そして私は、ジュンの親友でお姉さんになってあげるの』と幸せそうに笑って……。

 オレンジをスライスしながら、ジュールは姉を想う。
 綺麗な金髪で、控えめな微笑みを浮かべる女性だが、近頃は亡くなった皇后義母にそっくりになってきた。
 それが嬉しいことでもあり、そして母親に似てきたことを自覚している姉自身もジュールもどこか切なく胸が痛くなるのだった。

「まいったな、くそ。ボスのこの依頼が終わったら、ローザに会う約束だったのに」

 ジュールはちっと舌打ちをしながら、オレンジをスライスするのだが、そこで姉の優しい声が聞こえてきた。

『ジュール、オレンジはしっかり冷やすのよ』
「わかってる、ローザ。本当にもう、いつだってジュンサイドで俺の味方になってくれたことがない」

 柔らかくて優しい声すらも、あの皇后ママンにそっくり。その声を聞いただけで、きっとジュールは少年に戻ってしまうのではないかというぐらいに『弱い』のだった。ロザンナは、そんなジュールの『弱くなってしまう女性』のうちかなり最強のポジションにいる。
 その彼女を守る為にも頑張ってきたと言っても良い。彼女は唯一血の繋がった家族。苦楽を共にしてきた姉弟。もう、何も出来なかった少年ではない。絶対にあのような目には遭わすまいとジュールは固く誓っている。

 その優しい姉に言われちゃあ、仕方がない。
 純一の言うことをジュールがきくようになったのではなく、本当は姉が言うからあの兄貴の言うことをきいてやっているんだ……。

 と、思いながら、ジュールはまた一人で笑っていた。
 それもそうなのだけれど、もう姉がいなくても、きっとこうしているだろうと。

『俺は今、留守。わかったな』

 その兄貴が先週、義妹と何かあったらしく、オフィスをクローズにしてしまい、一番奥にある自室に籠もってしまった。
 それからジュールは『嘘の留守番』をしている。
 純一は取引先にもきちんと『長期休暇に入る』旨を連絡してる為、この丘のオフィスにビジネスの連絡は来ないが、家族からの連絡さえもシャットアウトしている。
 それもどのような心境かは問う気にはなれなかった。何故なら、義妹の葉月となにか……昔のようなことが湧き起こってしまうような出来事があったというなら、純一が避けたいのはむしろその家族ということになるだろうから。

 対面式キッチンカウンターの向こうにあるダイニングテーブル。
 そこに数機の携帯電話が電源が落とされたまま、並べられていた。
 ビジネス用もファミリー用も、プライベート用も黒猫用も全て。彼が所有している物全てが……。それだけ誰とも会う気がないらしい。

 まだ籠もり始めて数日だが、それでも『また、こんなになった』とジュールが驚愕する日々を彼は送っている。
 いつだったか。そう、あれは葉月がコークスクリューの四回転に挑戦しようとしていた小笠原基地式典の前、彼女を隼人から奪う奪わないで彼がごろごろと父島の別荘で悶々と考えていた時の『不摂生な日々』とよく似ていた。
 とにかく、なにもしないのだ。好きなことをしている。だからジュールが家事をしている。

『やらなくて良いと言っているだろ。お前、ロザンナに会いに行くのじゃなかったのか?』
『その姉に側にいてやれと言われましたよ。今、貴方を放ってイギリスに行ったら姉に追い返されてしまいますよ。それの方が困る』
『お前、また、ローザに俺のことを喋ったのか!?』

 だから、姉が毎回しつこく聞くのだとジュールは純一に言い分ける。『ジュンには葉月さんしかいないのだから、貴方、ちゃんと見守ってからこっちに来なさい! 二人が離れるようなことにしちゃ駄目よ!!』──と彼女が言うのだと。すると純一も、姉にはどこか弱いところがあるらしく、やや困った顔になりジュールを責めるのをやめる。だが、純一の近況には根ほり葉ほり聞いていつも案じている姉のせいにしたいが、純一が言っていることも実は半分は合っている。何故なら、ジュールの方が姉に直ぐに喋ってしまうからだ。彼女の前では『やや』口が軽いのも、彼女がしっかり者の親愛なる姉だからなのだ。

 白い丸皿に、スライスしたオレンジを並べ、目の前にある小さなミントの鉢植えから一枚ちぎって飾った。
 まったく。ジュールが作った食事もちゃっかり平らげているのだが、ここのところ時間もかまわず酒も飲み放題。そして何をしているのかと言えば、DVD映画鑑賞か読書。広いプライベートルームのど真ん中にあるソファーにどっかりと座り込んで、とにかくだらだらとグラスを煽って過ごしているのだ。

 まあ、たぶん……。一週間か十日も経てば、彼自身もすっきり立ち直るだろうと思っている。
 このオレンジを持っていった後は、洗濯でもしようとジュールは心に決めながら、一番奥、角部屋になっている純一の部屋へと向かった。

 すると、今日の彼の部屋、そのドアに今までなかった『貼り紙』が……。
 『只今、バカンス中』と、でかでかと仏語で書き殴った貼り紙。しかも角には、南の島を気取ったのか下手くそな椰子の木の落書きまでしてある。
 そしてその椰子の木の横に、『今日は侵入禁止、飯も不要!』とある……。
 ジュールは腹が立ってきて、『下手くそ! 絵心センスゼロ!』とその貼り紙を勢いよくはがした。
 なにが『飯も不要!』だ、と、ここで足止めされている弟分としてジュールの頭に血が上り、思わずドアを蹴ってしまう。
 だが、音沙汰無し。今日は本当に籠もりたいようだ。

「ボス! 腹に何か入れないと酒ばかりでは身体に悪いですよ! ここにオレンジ、置いておきますからね。冷えていますからね!」

 どうだ。冷えていなければ食べられまい。常温になるその前に出てこい──。なんて、何かをおびき出す餌を撒く気分で、ジュールは彼の部屋の前にオレンジの皿を置いた。
 そして、去っていく振りをする。大袈裟に足音をたてて……。そうしながらもジュールはひっぺがした貼り紙をぎゅっと握りしめて思った。
 姉に喋ったこと、余程、気にしたのだなあと。これ以上あの有様を報告されると、立つ瀬がなくなるから、今日は立てこもりを決めたのかと思った。

「ったく、なんだ。お前まで真一みたいなことをするなよ」

 ジュールはぎょっとして振り返る。
 冷えたオレンジという餌の効果は絶大だったのか、それともこの貼り紙はただの当てつけだったのかと思うほどに、純一があっさりと部屋から出てきたのだ。

「おー、本当だ。冷えてる、冷えてる」

 そしてちゃっかり。ジュールが床に置いたオレンジの皿を身をかがめて引き寄せているのだ。
 ジュールは大股でドアの前に戻り、彼がオレンジをさらっていく前に、がっしりとその皿を足先で踏みつけた。
 身をかがめて引き寄せていた純一が、下からジュールを見上げていた。

「殿下、行儀悪いぞ」
「うるさい。あんたは調子良すぎ」

 久しぶりの、兄弟分臨戦態勢。かち合った視線の合間に火花が散る。

「お前、早くロザンナのところに行け」
「俺はまだ、お嬢様がどうされるか見届けていませんしー」
「はあ? では、なにか。岩佐が葉月に頭を下げる瞬間を見てから帰るって言うのか?」

 ジュールは腕を組んで『えーえ、その通りです』と、胸を張った。
 そして純一は『それはいつのはなしだ』と、いつかも決まっていない瞬間を待つというジュールに突っ込んできた。ジュールもそこで口ごもる。実際に滞在できる期間もあと僅か。一度はイタリアとフランスに帰って任されている会社の状態を確認しておかねばならない。もし見届けるなら、それからまた日本に来るということになる。

「ロザンナに会う時間がなくなるだろう? この通り、俺は元気だ。ただ一人になりたかっただけだ。落ち込んでいる訳でもない。お前も、知っているだろう? 俺が自分の時間を作るようになったのを。その間に、取り寄せたまま溜まっていく一方のDVDを鑑賞し、山積みになっていた本を読み倒しているだけだ。そのお供に楽しみにとっておいた酒を堪能しているだけなんだぞ」

 確かに。そんなに思い詰めている様子もない……ようだ。
 だらだら過ごしているのは、いつもきちんとした一人暮らしを守っている彼の反動なのかも知れない。
 それに、彼が言うとおりに、ダイニングテーブルの下には、パッケージを開けていないDVDが籐かごの中に積まれていた。それと同様に書籍に文庫本も同じ籐かごに積まれ、DVDの籐かごと並べられていた。
 聞けば、宅配業者から届けられてそのまま箱も開けないで置いている為、訪ねてきた義妹の葉月が業を煮やして開封し、籐かごを買ってきて整理してくれたのだそうだ。
 その中に彼女が『私も観たい』と言っているDVDが数枚あるとかで、純一は『早く観て貸してやらねばと思いつつも、そのままなんだ』と言っていた。
 試しに、『お嬢様が観たいものとは、どれなのですか』と聞いてみると、アメリカアクション映画ばかり。ジュールはあちら育ちのお嬢様らしいなあと思いつつも、ちょっとはロマンティックなラブストーリーもお好みにならないのだろうかという微かな願いを感じてしまった。
 その映画DVD。アメリカアクション映画のシリーズもの三作目『3』というのがあり、『1』と『2』は既に純一が貸して葉月も観ている為、彼女は特にその三作目を早く観たがっていたそうだ。
 では。彼が仕事ばかりではなく、『俺の時間をたっぷり取る』と決めたのは近頃の良き傾向だとジュールも歓迎していたのだが、その中には義妹にその映画の続きを早く見せたいという目的も含まれていて、ただ単にそれを実行しているだけなのか? と、割とスッキリしている様子の兄貴を見て、そう思えてきた。だがそれでも、ジュールはまだ計りかねている。そう見せかけて、ジュールを安心させようとしているのではないか? 帰った後にがくんと落ちて、姉と俺が揃って心配しているように転がり落ちやしないだろうなという不安も決して拭えない。

「部屋、入りますよ。洗濯しますからね」
「はあ、落ち着かないな。独りでいたいのだがねえ。こう度々、邪魔が入っては、一年に数回の『俺様休暇』が台無しだ」

 とか言いながら、純一はドアに背を預けながら、ジュールが邪魔をするように持ってきたオレンジをかじっているではないか? ジュールはじろりと純一を睨みながら、彼の角部屋に入った。
 あまり日が入らない林側の角部屋。日当たりはリビングに負けるが、それでも暑い小笠原では、これぐらいの日当たりの方が柔らかで丁度良いぐらいだった。それに角部屋故に、窓も二面で、一面は裏の雑木林の木々が揺れているのが見え、一面は海が見え、なかなか雰囲気は良い。
 ベージュを基調にしている為、部屋全体も明るく、そして彼は綺麗にその部屋を使っていた。
 整理整頓もちゃんとされていて、ベッドメイクもきちんとされていた。
 そしてそれは、彼がだらだらと過ごしている現在もだ。不摂生な生活をしている割には、部屋はそれほど散らかっていないのは感心だった。
 散らかっているのはローテーブルと、ソファーの周りに脱ぎ散らかっている前日の服。室内にあるシャワーで入浴もきちんとしているようで、下着とバスローブもソファーの上に丸められている……ぐらいだ。
 それらをかき集めたジュールは、邪魔者扱いをする純一の部屋を出ていこうとする。……きっと、姉の所に早く行くようにワザと嫌味を言っているだと……本当は彼の意地悪の奥にある『気遣い』なのだとジュールも分かっている。だからこそ、ジュールも素直じゃない振りで、今は何処か崩れかけているかも知れない兄貴の側についているだけ。

 しかし、その部屋を出ていく前に眺めたテーブルを見下ろして、ジュールは『おや?』と思った。
 彼が大事に保管していた『シャンパン』が開けられている。それに冷蔵庫にあった『高級チョコレート』も。そしてテレビを見ると丁度、葉月に早く貸さねばと言っていた『3』が流れていた。
 何かが一つの線で繋がり、ジュールはハッとした。
 葉月が観たいと言っていた映画。そしてそのチョコレートは葉月がよく食べたいと言っている高級チョコレート店のもの。シャンパンは分からない。でも、大事にとっておいたところにジュールは何かを感じずにいられなかった。

「そのチョコレート……食べてしまったのですか?」

 今朝はまだ、冷蔵庫にあった。
 では、ジュールが買い物に行っている間に? ワインクーラーに氷を入れボトルを冷やし、自分でグラスを用意し、そして……義妹が好物のチョコレートをひっぱりだし……? 純一はどちらかというと甘い物はそんなに食べない。チョコレートだって一粒二粒楽しむぐらいだろう? それが結構、食べられていた。
 そのテーブルだけが、妙な空気を醸し出している。
 そしてジュールはそこに見てしまったのだ。そこの白いソファーの真ん中に栗毛の女性が優雅に座っていて、優しく彼に微笑みかけているかのような情景を……。

 それを茫然として眺めている弟分が何を悟ってしまったのか、純一も気が付いたようだ。
 オレンジの皿を片手に溜息をついて戻ってきて、その皿をローテーブルに置いた。
 だが、彼は……ジュールが思い描いたことを口にはしなかった。

 その代わり、沢山積んであるDVDケースの山から、一番上の物をひとつだけ手に取った。
 それは、今、彼の部屋のテレビに流れている葉月が観たいと言っていたというアクション映画のシリーズ『3』のケース。
 純一はそれを見ながら、さらなる溜息をついて呟いた。

「溜まっていたDVD。これが最後になった。後は読書三昧になりそうだな」

 それを耳にしてジュールは確信した。
 義妹が観たいと言っていたDVDを最後に残していたところに……!
 本当は『そうしたかった』から、何もかも手をつけずに取っておいたのだと。
 では? それに手をつけてしまったと言うことは……?

 そんな純一に、ジュールの心はすっかり『弟』になって叫んでいた。

「さ、誘ったら良かったじゃないですか……! 映画を二人で観るぐらい……」

 すると、純一が鋭い目つきでジュールを見返してきた。
 流石のジュールも、こう言う時はボス猫に従えられてしまう。そんな眼……。

「側にいたいからこそ、出来ないこと、やってはいけないことがある」

 分かる、彼が言っていること。ジュールは痛いほど分かる。
 でも、彼はそれでも願って、そこまで準備をしてしまっていた。
 それともただ夢を見ていただけだと?
 あの隼人のことだ。義兄さんが義妹と映画鑑賞を二時間だけしたいと……それぐらい難なく許してしまうとジュールも分かっている。
 それでも、だからこそ『駄目なのだ』と純一は言っているのだ。そんな義弟の優しさがあるからこそ、やってはいけないのだと。

 分かっていて、ジュールは唇を噛みしめていた。
 そして、彼の貼り紙の意味も一緒に噛みしめた。
 ──本当に、今、邪魔をされたくなかったのだと。
 残していた夢の箱を開けている最中だったのだと。
 それなのに、オレンジを取りに出てきてしまったのは、やはり居たたまれなくなって?

 ジュールの胸は痛むばかりだった。

 黙り込んだ弟分のジュールに、純一が言った。

「流石にこれは俺には甘すぎて、もう食べられないな。お前、チョコレート、食う時があるよな。あとは食べてくれ」

 大きなその箱を純一が差し出した。
 確かに彼には全部は食べられないだろう。
 だからジュールはそのまま受け取ってしまった。

 彼はまたソファーに座ると、ジュールが持ってきたオレンジをかじりながら、シャンパングラスを傾け始める。

「丁度良い口直しだ。メルシー、ジュール」

 そして流しっぱなしになっていたアクション映画を、ジュールの邪魔が入る前のシーンまでリモコンで戻し始めた。

「まあ、別々の鑑賞でも。観ておけば、あいつとどうだったと話すことが出来るからな……」

 それで充分だとでも言いたそうな顔で、純一はシャンパンを微笑みながら飲んでいる。

 ジュールはそのまま、静かに部屋を出た。

 嘘だ。『駄目なのだ』と思いながらも、本当は『そうしてみよう』と思っていたはずだ。
 ジュールは受け取った箱を握りしめ、そのまま冷蔵庫に戻しておいた。

 後は洗濯や他の家事に専念した。
 そしてその日の晩は、夕食は作っても声はかけなかった。
 彼自身が『腹減った』と出てくるまでは、独りにしておくことにした。

 その夜、あのホプキンス中佐から連絡があった。
 葉月が岩佐に指輪を貸すことにして、宝石展は中止ではなく続行を望んだと。彼の言葉で『何故、不幸が起きる指輪なのか』それを紹介してもらうのだと。そこから岩佐がどうするか、最終的に見定めることに決めたという報告。
 その報告も、ジュールは純一にはこの日は報せなかった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 やっぱり、義兄の電話に繋がらない……。
 葉月は携帯電話を手にして、溜息をついていた。
 それならと、今日は意を決してメールを一通だけ送信した。それも『お元気? どうしているの?』という一行だけ。
 きっとこれが夫の隼人宛に送ったのなら、彼はきっと『お前って本当に淡泊だよな』と呆れるところだろう。でもそんな文章しか思いつかないのだ。そしてきっと、夫も義兄も同じ事を分かってくれ口にするはず。『でも、お前らしい』とか『これだけでも必死だったのだろう』と……。

 本当に何処にいるのだろう。
 昨日、思い切って隼人に『義兄様と連絡が取れない』と言うと、夫も妙に重たい口調で『俺もだよ』と教えてくれた。
 つまり、葉月だけじゃなく、隼人も連絡が取れない状態に陥っているのだと。それで益々、危機感にさらされた。
 本当にどこかに行ってしまう前触れなのではないかと。

 四中隊通信科の小池の所に顔を見せに行った帰り。葉月は階段の踊り場の隅っこで携帯電話を握りしめ、連絡がつかないことに諦めをつけて大佐室に戻った。
 大佐室の自動ドアをくぐると、ちょっと前に見たのと似た光景があった。
 目の前のソファーに栗毛のお兄さんが座って葉月に微笑みかけてきたのだ。

「やあ、レイ。ご機嫌よう」

 ……また、リッキーがにこやかな笑顔で、悠々と大佐室のソファーに座って待っていたようだ。
 宝石展までまだ日にちがある中、岩佐報復待機中のお兄さんが今度は何かと葉月は構える。

「リッキー? 今度はなに? 言ったわよね。ここに『レイ』はいません!」
「不機嫌だなあ。せっかく、ジュン先輩の近況を教えてやろうと……」

 葉月は『え』と即刻反応、固まった。すぐに『リッキー、教えて!!』と飛びつきたい。でも、首を振って大佐嬢であろうとした。
 しかし分かっているだろうに、葉月の痛いところをつつくように、リッキーが容赦なく崩しにかかってくる。

「知っている? 今、ジュン先輩、仕事を休んでいるらしいよ」

 また、にんまり笑顔で教えてくれるその情報に、葉月はリッキーの隣へと吸い寄せられそうになる。

 テッドが入れてくれたお茶を、呑気に味わっているその『ポーズ』がまたまた彼らしいわざとらしさ。
 今度は俺に偉そうなことを言わせないよと言わんばかりの、大佐嬢への勝利確信満点の『にっこり笑顔』を見せつけられた。この恐ろしいお兄さんのそんな裏ばかりの笑顔をみせられたら、葉月は固まるばかり。絶対に無謀に前に出てはいけないのだ。
 というより? これはもしかして? この前、この基地では敵う者無しの『ホプキンス中佐』に手厳しくしてしまったこれこそ『報復』!? と、葉月はおののいた。
 大佐嬢へのちょっとした仕返しに満足したのか、リッキーが楽しそうに笑い出す。

「まあまあ。そう固いことは無しにしようよ、大佐嬢。ちょっとだけ一緒にサボタージュはどう? 俺も連隊長に内緒で来たんだから、共犯だって」

 彼がなにかの鍵の束を握りしめ、それを葉月に見せた。
 それ、なに? と、葉月が首を傾げても、リッキーはいつものにこにこ顔をしただけで、教えてくれなかった。

「あの……。行ってきてはどうですか。俺が留守番していますから」

 義兄純一との一件で、様子がおかしかった葉月を黙って見守っていた後輩テッドの進言。葉月は思わず頬を染める。
 彼の目が『このままでも仕方がないでしょう。行ってすっきりしてきて下さい』と促しているようで、今度は頬だけじゃなく顔全体、耳まで熱くなってしまう。

「ラングラー君の言うとおり。俺はレイにはどうしても来てもらいたくてね」

 急に、リッキーの表情が引き締まった。
 岩佐を引きずりだしてきたあの顔のように。にこにこ笑顔がすうっと消えていく。
 それを目にして、葉月は少しばかり背筋をひんやりとさせた。つまり、それほどに『大事なこと』のよう。さらに、純一に関してそれほどのことなら、行かずにはいられない……。

 葉月は静かに頷いて、鍵束を片手に立ち上がったリッキーの後をついていくことにした。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 リッキーの後をついて連れてこられたのは、六中隊の隣にある陸部訓練棟。さらにそこも越した場所までやってきた。
 そして基地の五階建ての建物が数棟並んでいる中の本当に端の端。こんなところに何があるか十年以上ここにいても把握していない場所へと葉月は連れられてきた。
 静かな廊下……。そこにリッキーが鍵束をしゃらしゃらと音を立てながら、進んでいく。葉月もついていくとそこの部署は『陸部訓練科訓練班』というプレートがかかっている。そんな部署、あっただろうか? と、古株隊員になってきた葉月ですら首を傾げ……その後直ぐに『ピン』と来た。

「リッキー……ここって……」
「あたり。俺の管轄ね。まあ、レイは大佐だから知っていても構わないよ。他の隊員に聞かれても、秘密を隠し通すぐらいの教育もしているしね」

 一班、二班とあり、そこの事務室のドアは開いていた。
 しかも人の気配がする。……見覚えのある隊員の顔が見えて、葉月はドッキリとした。

「分かっているだろう。全部、仮の職務。そしてここが彼等の仮の身の置き場ってわけ。人目に付く場合の階級は低くしているけど、実際の軍籍では上になっているんだ」
「い、いいの? ロイ兄様に内緒で、たかが中隊長如きの私なんか連れて来ちゃって」
「たかが中隊長じゃないでしょう、レイは。『これからの人』なんだから。そんなの」

 リッキーが軽々と言いのけたので、葉月はあっけにとられた。
 確かに、達也や山中、そして外に出ていった隼人にジョイともその誓いを立て、それぞれ違う道へと次に進んだ。
 でも……それはまだ先の話で、でも……こうした上だけの事情もこれからは知っていかねばならないところ。
 葉月はリッキーにその時期が来たと認められたのだと、身も心も引き締まる思い。

 それでこの『秘密隊員の巣窟』に連れてきてくれたとして、どうして義兄のことと関係が? と、葉月は首を傾げた。
 すると一班、二班と通り過ぎ、廊下突き当たりの『三班』という事務室の前でリッキーが立ち止まった。
 そこは、一、二班と違って人気がない。葉月がそう感じたとおりに、そこはリッキーが握りしめていた鍵束を手にして、事務室の鍵穴に差し込んだ。

「今からレイに会いに来る男がいるから、ここで待っていてくれ。俺は隣の二班で待っているからね」

 そう言ってリッキーは三班事務室のドアを開けた。
 鍵がかかっていたのだから、そこの室内には誰もいなかった。
 そしてリッキーはそれだけ言うと、葉月が質問することを避けるかのようにして、さっと隣の事務室へと行ってしまったのだ。

(誰? 誰が会いに来るの?)

 葉月は誰もいない机だけが並べられている『第三班室』へと入る。
 まさか、純一? リッキーが連れてきてくれた? だとして、純一もどうしてそんなことを? リッキーに頼んでこそこそと会わねばならないことなど何もないはず。それなら、携帯電話をオンにしておいて私達の間だけで、連絡を受けたり連絡をしてみるなりで充分じゃないかと思う。
 では、純一ではない? 今度は誰と会わせようとしているのだろうか?

 そして、その男はそれほど葉月を待たせることなくやってきた。
 ドアからノックの音。葉月が『どうぞ』と声をかけると、そのドアが開き、葉月も良く知っている男が現れた。

「お嬢様、お仕事中にお呼び立てしまして申し訳ありません」

 そこに立っていたのは、ジュール。
 葉月と会う時に時々着てくる紺の上質なスーツ姿。
 相変わらず、彼がその紺のスーツを着ると、義兄の部下であることを忘れるぐらいに優雅で際立って見える。
 そう、まるで……その時だけは、黒服の猫ではない、本当のジュールとして見える感覚にいつも陥る。
 今日の彼は、そんな雰囲気だった。

「ジュール。この度はいろいろと有難う。……でも、もう小笠原にはいないと思っていたわ。ゆっくり話せなくて残念に思っていたの」

 華夜の会で彼の姿を見た後も、彼と会うことはなかった。
 後になって隼人からは『実は兄さんの所に滞在して協力してくれていたんだ』と教えてもらい、その後も暫くは島にいたことを遅れて知った。
 それでももう、純一が『俺の役目は終わった』と言った時点で、彼もそっと姿を消したものだとばかり思っていた。
 なのに、彼はまだこの島にいたようだ。

「いえ、私も用事だけのつもりでして。この後もいろいろと予定があったのですけれどね」
「今日はどうして?」

 葉月に会うにしても、ジュールがわざわざ軍隊の中にやってくるだなんて。
 ロイや純一からも『リッキーとジュールは最高の天敵でライバル』と言うほどに、張り合っている仲であるのを教えてもらっていた。なのに、ジュールは軍内で葉月に会う為にリッキーを頼ったのだと。そしてリッキーもジュールのその要望に応えたのだと。二人の連携の間になにがあるのかは葉月には分からないが、そうしてジュールがリッキーのお陰で葉月の目の前にいるのは間違いがないと思った。

「では、お嬢様もお仕事中ですから手短に……」

 早く知りたいという顔をしていたのだろう。そんな葉月を見て、ジュールは片手に持っていたペーパーバッグから、ひとつの箱を取りだした。
 見覚えのある箱、いや、良く知っている箱だった。

「それ。チョコレート?」
「ええ。お嬢様がいつも食べたいと仰っております店のものです」

 この間、純一が葉月にくれたミニボックスのチョコレート。葉月がいつも『あそこの食べたい』と言っている高級なチョコレート店の……。
 そこの店の大きな箱をジュールが手にして、葉月に差し出していた。

「あ、有難う……。ジュールもいつもお土産にしてくれて……」

 葉月がいつも口にしているから、ジュールが島に来る時はいつもこのチョコレートをお土産に持ってきてくれていた。そしてそれはジュールだけじゃなく、エドも、そしてナタリーも、横浜の義父も。そして近頃では真一までもが格好をつけて持ってきてくれる。ファミリーの誰もそうしてくれるほどに、葉月の好物だった。
 でも、葉月はしっくりこない。ではジュールが、そのお土産を渡すのなら、いつもは丘のマンションで顔を合わせた時か、もしくは、彼自身が葉月の今の自宅に出向いて持ってきてくれるのに? 何故、今日に限って、こんな秘密の部屋で?
 そうして不思議で仕方がない顔でジュールを見ていると、彼がちょっと致し方ない微笑みを浮かべ、葉月をどこか哀しそうに見ていた。

「その箱を、開けてくださいますか?」

 言われたとおりに葉月はその箱を開けようとする。
 そこで初めて気が付いた。いつもの包装紙は既になく、新品なら箱は透明な丸シールでとめられているのに、それすらも剥がされている。つまり……既に誰かが開けたと言うことだ。
 それは何故? このような箱をどうして? そう思いながら箱を開けると、中身も既に十数個はなくなっている。誰かが食べたと言うこと?
 食べかけの箱をわざわざ持ってきた真意が分からず、葉月は困った顔でジュールを無言で見つめる。
 するとジュールは微笑みを消し、哀しい眼差しに変わり、沈んだ声で葉月に言った。

「ボスが食べたのです。貴女に渡したいのに渡せないから、ご自分で食べてしまおうと思ったのに、甘党ではないから食べきれなくて私にくれました」

 葉月はそこでやっと驚く。この前は、あんなにひねくれたやり方でやっと渡してくれたのがあの小さな箱。
 なのに、彼の自宅にはこんなおっきな箱が用意されていたのだと。
 もしかして、葉月が遊びに来たら、夕飯の支度に来たら、その時に開けようとしてくれていたのだろうか?
 ここのところ、亮介の入院から岩佐のことでゆっくり出来ずじまいで、週末の食事会もしていないし、丘のマンションにだって……この前おしかけた以外には足を運ぶこともなかったから。

「どうして? 待っていてくれたら、私……」

 そのうちに落ち着いて丘のマンションに行った時にでも出してくれたら、大喜びで食べたのに……。
 そこで葉月は思った。もう二度と丘のマンションでは葉月と会うことはないと決めたから、始末をしていたのかと。やっぱりもう……! お兄ちゃまは会うのはやめようと決めてしまったから、取っておいてくれたチョコレートも食べてしまおうと思ったのだと!
 箱を握りしめ、葉月はぎゅっと目を閉じた。もう、それだけで、涙が滲んでしまっていた。

「お嬢様、ボスはまだ丘のマンションにいますよ」
「え? どこかに出かけているのではなかったの?」

 ジュールが切なそうな眼差しのまま、うっすらと微笑んだ。

「いいえ。島から一歩も出ていませんよ。今、自分のために我が儘に過ごす休暇を取っているだけです。自室で酒を供にして、映画鑑賞に読書三昧しているだけです」

 島から一歩も出ていないという一言に、逆に葉月は驚いた。あんなに気配がなかったのに、そこにずっといたと言うのだから。
 そしてやっと心がふと緩まって、今度は安心の涙が出てしまう。
 ジュールの前だからだろうか。このお兄さんの前では、ひた隠しにする必要もない気にさせられるのだ。
 そのジュールが、涙をこぼした葉月に、どこか厳しい声で告げた。

「お兄様は、貴女の為に取っておいたシャンパンを開け、貴女の為に取っておいたチョコレートも開け、そして……貴女が観たいと言っていたアクション映画を一番最後に残して、たった独りで観ていたんです。いつまでも開けずに取っておいたのに、ついにパッケージを開けて……。分かりますか? この意味が」

 それが、何を意味するのか……。
 葉月は直ぐに分かり、胸を痛く貫くほどの衝撃に襲われた。

 

 

 

Update/2007.7.20
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