──レイの傷を再び開こうとした男が、謝りに来たんだよ!
ここ数年、幽霊の影が薄れ、失った時より念願だった家族との幸せな日々を過ごしてきた葉月。
なのに、幽霊でもない他人の男が再び、葉月に暗闇を思い出させ、突き落とそうとしていた。
それは確かに、怒りを覚えるものがあった……。
その男が詫びに来たのだ。ここまで。彼の足で。でも……きっと違う。
彼は、黒猫に追い詰められて窮地に立って逃げ道がなくなったところを、さらにリッキーに不本意に連れられて、無理矢理に来ただけに違いない。そんなの、葉月には意味がない。
だから、葉月は頑と譲らない。
「海野中佐。警備口までご案内して頂戴」
「イエス、マム」
大佐嬢たる冷めた声で片腕の中佐に告げると、海野中佐は大佐嬢にシンクロ。直ぐに動き出す。
葉月はそのまま事は終わったとばかりに、大佐席に座り、元の書類に向かう。
達也が彼等の前に立ちはだかった。
「お引き取り下さい」
その場を退場したも同然の大佐嬢の代わりに、海野中佐が言いつけ通りに大佐室から追い出そうとしてくれていた。
それでもリッキーと共に微動だにしない客二人。
「海野、力ずくで結構よ」
「かしこまりました、大佐」
ペン先を書類に走らせながら葉月は淡々と指示する。
達也は特に、岩佐に対してどんとその気迫を漲らせ、威圧している。
今はもう、気力もなくなりそうな岩佐にはとても手厳しいもののようで、彼はただただ気圧されているだけのよう……。
本当の敵が誰か良く知っている達也は、岩佐に対してだけの『力ずく』の威勢を見せ、その手が岩佐の肩をグイッと掴みあげたのだが。そこでリッキーがやっと動いた。
「……わかったよ、『レイ』。職務中に、悪かったね」
『レイ』──。そう呼んだリッキーの顔をそっと見ると、彼はいつもの落ち着いた穏やかな顔つきのお兄さんに戻っていた。
大佐嬢ではなく、いつも親しんで呼んでくれる『俺達の小さなレイ』。彼程の人だから、自分が今まで決してやらなかったやり方でここまで突き進んできたことを己で自覚しながらも、それをやらずにはいられないからここまで来たことを、ちゃんと解っていると思う。そんな顔をしている。
そして、それももう……終わったのだ、俺がやりたいことは気が済むまでやったと、何もかもを終えた顔をしていた。
「いいよ、海野君。俺の一存でお連れしたので、俺が──。迷惑をかけた」
いつもの笑顔が、今日はなんだか痛々しい──。
それでも葉月は自分のやったことに後悔はない。
そうだ。いつもなら、この決断は『ホプキンス中佐』が誰よりも厳しく判断しているものだと葉月は思う。
お兄さんの気持ちを踏みにじる訳じゃない。でも……葉月は『そうじゃない』と思う。これは『御園の娘』として、そして華夜の会であれほどに思い出深く未だに懐かしんでもらっているレイチェルという『女傑』の『その孫』として。葉月は決して譲らない。
それに今は自分のことに染まりきってしまったすみれ色のお兄さんも、姉の一番の親友だったのだから、きっと、葉月の想いにも気が付いてくれると信じていた。
そのお兄さんが、いつもの微笑みを取り戻しつつも、どこか影のある眼差しを見せ大佐室を出ていこうとしていた。
「ホプキンス中佐」
ふいに、葉月はその背を呼び止める。
岩佐と篠原会長と出ていこうとしていた彼が背を向けたまま立ち止まった。その背に葉月は告げる。
「終業後、ハーバーホテルのラウンジまでお連れしていただけますか? 『主人』と共に伺います」
静かに言うと、リッキーがとても驚いた顔で振り向いてくれた。
「レイ……」
「以上です。ここに『御園葉月大佐』はいますが『御園葉月』はいませんから、以後、気をつけてくださいね。ホプキンス中佐」
「本当に、申し訳ございませんでした。以後、気をつけます。それでは、責任を持ってお二方をお時間に合わせてご案内いたします」
すみれのお兄さんは、いつもの凛々しいホプキンス中佐の姿で一礼をして、静かに去っていった。
「あー、ドキドキした。あのリッキー兄さんがこんなことしちゃうなんてなー」
一嵐去り、達也はほっと肩の力を抜いて姿勢を崩していた。やる気満々の姿勢を漲らせていたくせにと、葉月は少しだけ笑える気持ちが戻ってくる。
そして側近席で静かに見守っていたテッドも、やっと口を開いた。
「でも、俺達補佐官が憧れて目標にしているホプキンス中佐にも、あんなふうに心を乱されてしまう弱い部分があるのですね。いつも何処までも冷徹だから、ちょっと人間味があることが知れて……俺は今までよりずっといい人だなって思えました」
その一言に、葉月を達也は顔を見合わせた。
ホプキンス中佐としての姿しか知らない者なら、日頃は決して垣間見られはしないリッキーの今回の姿は、もしかすると『中佐らしくない、見損なった』と思われてもおかしくはないものだったかもしれない。
それでもテッドはそこを汲んでくれ、お兄さんの思いをはね除けてしまった馴染みの妹分の葉月としては、何処かほっとさせられた。
「そうね。特にリッキーは本当に姉様と仲が良かったから……」
でも、あのような哀しい姿からでも……。そこから姉とお兄さんの楽しそうな姿が、じんわりと蘇ってくる。そんな昔を懐かしむように葉月もしみじみとしてしまう。
「でも、俺も分かるなあ。俺だって葉月が侮辱されたら、あれぐらいやってやる気持ちありありだぜ。職務なんてクソクラエ! 大佐じゃなくて葉月が優先!」
「俺だって海野中佐と同じですよ! ただの部下でも後輩でもなく!」
現在、葉月の両腕二人の頼もしい言葉に、葉月は『ありがとう』とさらに笑顔になるのだが。
「テッドはともかく、達也なんかリッキーより熱血暴走しそうよね。猛犬注意って感じ」
「ああん!? なんだと、それをいうならお前なんか、ぱっぱか暴走ポニーだろが!」
『なんですって』、『なんだと、このやろ』と毎度の対立が始まると、テッドが間でおろおろと仲裁に入るのが、近頃の大佐室の光景。
相変わらずの双子同期生だけれども、そんな毎度の騒々しい言い合いの文句も、心の底では『皐月姉様とリッキー兄様にも負けないほど、私達も俺達も強く繋がってやっていこう!』と囁き合っているように葉月には聞こえた。
きっと、姉とリッキーもそんな強い絆があったのだと……。
この後、葉月自ら工学科の夫の元へと内線連絡を入れた。
隼人には『職場だから我が家の事情は避けた』と報告。夕方、港のリゾートホテルのラウンジで岩佐と話す事になり、そこには一緒に来て欲しいと頼んだ。
『そうか、分かった。終礼が終わったらまた連絡をくれ』
隼人からはその一言だけ。
どのような対処をしたのか、またはどうしてそのような対処をしたのか等──。そんなことはまったく聞かれなかった。
その硬い声の一言。でも、そこには『お前が決めたこと選んだことだから信じている』と言ってくれているように聞こえ、葉月はそんな夫の冷たく淡々としている返答にも、ひっそりと一人で暖かく感じることが出来る微笑みを浮かべていた。
・・・◇・◇・◇・・・
「しまった。遅くなった」
腕時計を眺めながら隼人は急いで自転車を港へと走らせる。
定時が過ぎ、妻からの連絡を待っていると『やっぱりまだ離れられないから、先に行っていて』との内線があった。隼人は自転車で妻はいつもの愛車で『現地集合』ということになった。
定時の終業ラッパが鳴り響いたとて、そこであの大佐室をすっぱりと出てこられることなど、まあ出来ないだろうと思い、隼人も少しだけ残務……のつもりだった。なのに結構没頭していたようで、気が付けばもう既に科長室を出ていなければいけない時間を過ぎていたと言う訳だった。
港のホテルは、帰り道の途中にあるので自宅に帰るよりかは近いところにある。
もうすぐ夏が来ようかという季節。夕暮れに包まれるハーバーには、ヨットが数隻揺れている。こういう景色は、マルセイユにいる時に似ているなと、隼人は自転車を降りてふと見とれていた。
こんなに美しい景色が色々と見られる島を、自分達のホームにしようと妻と家庭を持った。
妻が長年恐れていた影の正体は定かとなり、それに対する最後の始末として『取り調べ』や『裁判』があったが、御園の両親と妻は良く耐えたと思う。
『死刑にはしないで下さい。私が死ぬまで、死なさないで──』
横須賀の担当刑事『今井』から、妻がそう言ったと聞かされた。
何があっても何を聞いても顔に出さないようにしているという今井が静かに聴取する中、妻は彼が内心は驚いている様を見抜いているかのようにこう言ったのだと。
『誤解しないでください。慈愛でもなんでもありません。本当は首を絞めてやりたいぐらい、死んで償ってもらわねば気が済まない。そんな気持ちならどんなにも、充分あるのです。でも……それも当然でありながら、違う。やはり違うのだと、近頃、思うようになりました』
そして、最後にきっぱりと今井に言い放った妻の言葉。
『あの男と私は、最後まで一緒に生きて行かねばなりません。だから……』
今井はいつも通りに神妙に頷くと、葉月が安心したように微笑んだという。
正直、隼人には葉月が言っている意味が分かったようで、やはり妻であっても理解しがたい部分もあった。
勿論、隼人だって『死刑』にしたところで意味などないと思いながらも、婿という本来は他人ではあるが家族が苦しみ抜いてきた様を見守らせてもらった者としても、極刑に処されなければもっと意味がないと思うのに──。
実際に、瀬川は無実の人間を幾人も巻き込み、さらに姉妹に対して非道な仕打ちをし多大なる犠牲にしたその罪から、数年の裁判で『死刑』が確定してしまった。葉月の両親は欠かさずに傍聴に通っていたが、葉月は傍聴までは至らなかった。そして隼人も『無理をしてまで行かなくていい』と言っていた。
自分の思いとは裏腹に瀬川の刑が『死刑』と確定した事を知っても、葉月は何も言わなかった。それを望んでいたはずで、そして望んでいなかったからなのか。その知らせが届いた時、隼人は妻の無感情そうな様子は目にしても、心の中まで問うことはしなかった。
なんといっても、葉月にとって『死刑』だろうがなかろうが、どちらも意味がないこと。瀬川が鎌倉の外人墓地で葉月に詫びる心を宿していたことが分かっても。……結局、葉月は泣いていた。葉月にとって瀬川に望むものなどなくなってしまった今。なおさらに、今まで以上に心が救われない事を痛感するはめになったのだと隼人は知った。
そして数年、瀬川が『死刑確定囚』として二度と社会復帰することがない人間となった今でも、妻は彼に襲われる夢を今でもたまに見る。闇に終わりはなかった結果になった。
それでも、このホームとなった島で。妻は新しい家族の形を得て、幸せに暮らしていた。
葉月は島の美しい景色に癒され、取り戻した御園の家族と明るく集い、そして基地の中で氷のような期間を過ごしていた間に自ら勝ち得た沢山の友情に囲まれ、その心を穏やかに和らげていた。
その妻に、闇を思い出させた男が現れて……。いや、忘れていた訳ではないのだが、ひっそりと色が薄れているところを、色濃く思い出させたと言うべきか……。
達也からも密かなる内線連絡で、大佐室に連れられていった岩佐と妻の間でどのようなことがあったかの報告があった。
ただそこでは『大佐嬢』としての妻がいたと聞かされた。
そして、ただ追い返して終わらそうとはしなかったと……。
達也は、そんな葉月の選択を『そうでなければ、苦しんだ意味がない選択だったと思う』と感慨深げで、彼は妻に同調していた。
そして、隼人は『どちらでもない』。
妻が無情な男を許そうが許すまいが、追い返そうが逃げ道を残していようが……。ただ、夫として、妻がすべき事を見届けるだけだ。
自転車を駐輪場に停め、ホテル裏側の駐車場を歩いていると、角を勢いよく曲がってくる車が隼人の目の前を慌ただしく通り過ぎていった。
──葉月の赤い車だ!
お前、危ないだろ! と、叫びたくなるほどの荒っぽい進入に、隼人は思わず頭に血が上りそうになった程に。そしてその車も、隼人を確認したからなのか直ぐ目の前でキッとブレーキが掛かり停車した。運転席のウィンドウが開き、そこから葉月が顔を出した。
「貴方──! びっくりしたじゃない。曲がったら人影があってドッキリとしたわよ!」
「この、じゃじゃウサ! びっくりしたのは歩行人の俺だ! 夕暮れはライトを点けろといつも言っているだろう! カーブは減速!!」
赤い愛車に乗れば、独身時代に戻ったかのような荒っぽい運転に、隼人はおかんむり。薄暗くなってきた夕暮れの駐車場で叫んでしまった。
──なんだ、思ったより元気じゃないか。
と、隼人はちょっと安心し、心配して損をしたと、ちょっと苛ついたり。複雑な気持ちに揺さぶられるのも今では、毎度のこと。
そんな葉月が車を駐車し降りてくると、隼人の下に駆けてくる。
「やだ。私から時間を指定しておいて、遅刻しちゃうところだった」
肩先の栗毛がくるりと跳ねしまっているし、朝の化粧も何処へやらという殆どすっぴんの顔。隼人の所にその顔で必死になってやってきた。
本当に、恋人だった時と変わらない顔をして俺の所にやってくるんだからな。と、隼人はもう笑っていた。
「俺もだよ。きっと、お前もギリギリまでやるのだろうと思って没頭していたら、この時間になってしまったよ」
「貴方も相変わらずね」
白い家に帰った時と同じ笑顔を見せてくれる。
いつも夕暮れから見られる大佐嬢じゃない妻の顔──。
その夕暮れの中、隼人は言う。
「どんなこともお前が選んだことだって、俺は横で聞いているからな」
すると葉月は元気な笑顔まま、『うん』と頷いた。
相変わらずのウサギの顔に隼人もほっと微笑むのだが……。その後直ぐ、妻の顔は夕暮れに溶け込むように染まる。悲しみの中だけにいた妻の顔になってしまった。
そう見えてしまったのは隼人だけかも知れない。ただ単に、岩佐という無情な男とどう分かり合うか気合いを入れただけのことで、それですっとした顔になったのかも知れないが。夫の隼人には、あまりにも可愛らしい変わらぬ妻の顔の後に見せられるその顔は、どうしてもそう見えてしまうものなのだ。
茜色の空の下。制服を着込んでいても基地を出てきた今は、もう『夫妻』だ。
だから、隼人はそっと妻の肩を包み込んでロビーへと共に向かった。
・・・◇・◇・◇・・・
横浜の父が訪ねてくる時、父はここに良く泊まる。
息子夫妻の白い家で寝泊まりするのも楽しみにしているが、最後の一泊はここに……という程に気に入っているようだった。
離島だが、このホテルはリゾートを目的として造られている為、ロビーからのその雰囲気は格別だった。
カウンターとロビーの隣には、喫茶ラウンジ。空間を贅沢に使い、ソファーや椅子も大きめでゆったりとしたものが配置され、そして隣のテーブルとの間隔も広めに取られている。プライベートの感覚を存分に堪能できる造りになっていた。
窓際の席を取れば、ヨットが揺れるハーバーを眺められる。その情景に包まれながら、お茶に読書等が時間を気にせずに楽しめる。BGMは小さめの音量で、微かに波の音が聞こえるように。そこまでの気遣いが施されているとか……。和之はそれが気に入っているようだった。
しかし、リッキーが連れ添っている今回の客二人は、その窓際の席ではなく、中程にある六人がけのソファーがある席で静かに待っていた。
お互いに会話をしている様子もなく、なんだかそこの席だけ妙に空気が淀んでいるような雰囲気を感じ取った隼人は、同じように感じた様子の葉月と顔を見合わせた。
「お待たせ致しました。遅くなり、申し訳ありません」
その席に夫妻で辿り着いて声をかけたのは妻の葉月。
隼人はあくまで『付き添い』という心構え。今からも多くは口を挟むつもりはない。
そして待ち人が来たことを知った男達は、三人揃って席を立ち、これまた揃って葉月に丁寧に一礼をしたのだ。
リッキーはこの際、中佐という立場だから上官に……という姿勢であるのは分かるのだが、今回はそれほど関係もなかっただろう篠原までが、そしてまだ工学科科長室では謝る気配もなかった岩佐までもが、しんなりとした様子で葉月に丁寧に頭を下げた。こうして妻の背中からただその様子を見ていると、詫びるか詫びないかというような話題の席ではなく、ビジネスで会合する為に集まったように見えてしまうほど、岩佐もきちんとした姿に戻っていたのだ。
彼になにか心境の変化があったのか。それとも平常心を取り戻したのか。
隼人はそう思いながら、二人の社長が並んでいる向かいに妻と一緒に座った。
そしてリッキーは席を立ち、いつもの側近の顔で大佐嬢の横に起立した姿勢に。
「リッキー、もういいわよ。貴方も、隼人さんの横にいて」
葉月がそういうと、リッキーは『有難う、レイ』と、いつもの笑顔を妻に見せ、そのまま隼人の隣に座った。
隼人は思った。大佐室ではこのお兄さんの心情に応えることが出来なかったが、ここではそれに応えるつもりで側に置いたのだと……。
だが、隼人の隣にいるリッキー兄さんはもう……。科長室にいた時のように怒りに燃えている様子は消えていて、いつもの落ち着いている彼に戻っているようだった。
「岩佐さん、篠原会長。せっかくこの離島まで訪ねてくださいましたのに、先ほどは失礼致しました」
葉月が軽く無礼を詫びる。
「いいや。実は大佐室まで伺うのはどうかと思いながらも、そうでもせねば、葉月さんは会ってくれないのではないかという、こちらの強引で勝手な判断でしてね。お断りされて、やはり……と思ったところを……」
篠原の葉月に返答する言葉を聞きながら、篠原に任せるままで黙って俯いている岩佐を見ていて、隼人はやはり腹が立ってきた。
今までも、サロンでも、あれだけ偉そうに堂々としていた割には、最後の己の尻ぬぐい、きっちり出来ないのかと。こういう時は意に添わなくても、己で葉月に返答しろと……。偉そうな時だけ意気揚々としていて、分が悪くなると人任せなのか。勿論、この男にそんなこと期待してはいけないのかもしれないが。
しかしスラックスの上で拳を握ることで耐えている隼人の横で、もっと怒っていそうなお隣のお兄さんは、全然……いつもの涼しい顔をしている。だが、彼の目線はやはり岩佐に真っ直ぐに向かっていた。それを知り、どこまでも彼からの詫びを待っているのだと隼人は悟る。
「岩佐君、彼女に何か言うことはないのかね」
やはり篠原も、ただ黙っているばかりの岩佐に業を煮やしたのか、眉間にしわを寄せた顔で隣の青年を促し始めた。
するとやっと岩佐が顔をあげ、葉月をじっと見つめた。
……気のせいか? 隼人はその岩佐の顔にどきりとさせられた。
今まで、隼人が一番望んでいただろう『真摯に向かう決意』をしたと思わせる顔だったからだ。
おそらく、隼人が気が付いたぐらいだから、リッキーも篠原も気が付いたと思う。そして、それはきっと妻の葉月も……?
隼人が感じたとおりなのか、空気の流れが止まったような妙な間が生まれていた。
その間に、妻のいつもの落ち着いた凛とした声が滑り込んできた。
「岩佐さん、先ほど主人から聞きました。なんでも大変なことになられ、蘭子さんとのお話の為に指輪をお返し下さるとか……」
妻の問いに、今度の岩佐は華夜の会で彼を初めて目にした時のまま、自信に溢れた顔、迷いのないキビキビとした動作で、アタッシュケースを開けた。そして隼人にも差し出した時のようにビロードのジュエリーケースを取りだした。
「こちらをお返し致します」
厳かな手つきで、それを妻の前に差し出す岩佐。
しかし、彼の口から出た言葉はそれだけだった……。
ただ、『返す』。それだけ。
一瞬、彼が謝るような顔を見せた気がしたのは、隼人の勘違いだったのだろうか? それで隣の妻はどう受け止めるのだろうかと、ちらりと横を窺うと、なんと葉月は余裕ある微笑みを見せていた。
「では。お返し頂きます」
葉月は、そのまま何事もなかったかのように……。ただ単にその指輪を短期間だけ貸していただけと言わんばかり様子で、あっさりとその指輪を受け取ってしまっていた。
受け取ったジュエリーケースを手に取った葉月は、そのまま自分の手の中で開けた。妻の手の中には間違いなく、あの紅い指輪が顔を出す。
「確かに。『姉』の指輪ですね。間違いなくお返し頂きました」
「こちらの勝手で出品を無理にお願いし、さらに、身勝手な返品となりまして申し訳なく思っています」
……岩佐の口からやっと出た神妙な言葉。
隼人は思わず『おおぉっ』と心の中でそんな声が響いていた。隼人だけでなく、目の前にいる篠原も隣にいるリッキーも意外に思ったのか? それとも隼人同様に、先ほどの反省の色を思わせた表情を垣間見たのは見間違いではなかったという驚きなのか。とにかくそんな岩佐の少しだけの変化に釘付けだった。
しかし、男達の密かなる驚きの渦の中でも、妻は本当に静かな佇まいのまま微笑み、誰よりも落ち着いていた。
そしてやはり──。
ただただ湖のように静かな妻が、男達を驚かすことを言い出したのだ。
「では、改めまして。岩佐さん、こちらをお貸し致しますので、受け取ってくださいますね」
今、やっと我が家に帰ってきた指輪を、葉月は指先を綺麗に揃え、ケースごと岩佐の手元に元通りに返してしまったのだ。
そこにまた──。このじゃじゃウサ奥さんを中心にして周りに据え置かれた男達がしんと静止した空気が生まれていた。当然、隼人もその静かな渦の中に巻き込まれた一人で、唖然としてしまっていた。
また、この奥さんは、なにを考えているのか? と──。さらには隣のお兄さんも見当がつかない様子で、思わず二人で何かを求め合うようにして顔を見合わせてしまった。
勿論、岩佐も唖然とし、最後にはどうして良いのか分からない顔で頬を引きつらせていた。
「あの、葉月さん。仰っている意味が……」
「岩佐さんは、この指輪を必要とされているでしょう?」
岩佐がその指輪を必要としているという一言で、隼人はやっと妻が言わんとしていること、岩佐に何を突きつけようとしているのかが判った!
しかしそれも同時に、岩佐の隣で同じようにぎょっとしていた篠原にも判ったようで、彼がポンと膝を叩き、葉月に向かう。
「つまり……! 葉月さんは、『世界の宝石展』をこのままやるべきだと!」
それに気が付いた隣のお兄さんもハッとした顔に。
しかし、その先の妻の思惑はまだ誰も判らないだろうと夫の隼人は思った。
この展開に一番驚きを隠せなかっただろう岩佐が、険しい屈辱的な表情を刻み、葉月に向かってきた。
「そんな『お情け』は無用。己の力で出来なかったのだから、雑誌で噂されている通りに『中止』にする決意。なによりも、僕にはもうなにもない。力も資金も……」
再度、指輪を貸すから、ご自慢の指輪を披露する宝石展を続行させてはどうか。貴方の面子を守ったのだから、これで私には頭が上がらないはず。岩佐には葉月が言っていることは、そんな仕打ちに聞こえたのだろう。
だが、隼人はそうは思わない。『夫』の隼人だから判る、岩佐や他人が知らない妻がそこにいる。
そして、葉月はその静かに浮かべている微笑みのまま、隼人が思っていたままのことを岩佐に言った。
「誤解しないでください。『お情け』なんて生易しいことを私は一切考えておりません。それに私はまだ貴方のお詫びなど聞くつもりもありませんし、本日、ここで心より詫びて頂いても、受け取るつもりはありません。大佐室でそうしたように、直ちにお帰り頂きたく思っておりますから」
妻の『今日はまだ許さない』という言葉に、さらに夫として感じ取ったことは間違いないと、隼人は確信をした。
そしてこの時点で隣にいるリッキーお兄さんも葉月の意図を見抜いたようで、彼女の言葉一句一句に頷き始めていた。
「宝石展で、何故、この指輪が『不幸を呼ぶ』と云われているのか。岩佐さん、貴方自身の言葉で紹介してください。私と夫は、貴方からのご招待をお受けして、伺いたいと思っております。どのような宝石展になるのか、楽しみにしておりますからね」
妻のその想い。岩佐には通じただろうか?
いや、その顔は判っちゃいないなと隼人は思う。そんな唖然とした顔のままだった。
彼には無理だ。葉月、諦めろ。と、思った。
だが、岩佐の目が、皆にかしずかれていた青年実業家だった時同様の眼の輝きを宿した。
それはさながら、目の前の御園嬢から何かの仕事でも請け負ったかのような気迫……。
「分かりました。葉月さんのそのお気持ちに応えられるように致しましょう」
その手がまた再び、彼が望んだ指輪へと伸びた。
また……『鮮血の花』が彼の下に旅立っていく。
だが、葉月はただあの静かな微笑みを見せているだけ。
そして篠原も、岩佐の気持ちはともかく、葉月が言わんとしていることは気が付いているようだった。
「どうかね、葉月君。それなら私も参加したいのだがね。なにせ私も『不幸の指輪の片割れ』の持ち主だからね」
「……そうですか。持ち主のおじ様がそうおっしゃるのならば」
「うむ。では、本日から『世界の宝石展』は、岩佐君と私の共同企画に変更ということでよろしいかね」
岩佐にとっては今まで、妙に敵視してきた大御所の篠原との共同企画にはなってしまうが、これが唯一残された道。受けざる得ない顔をしている。
そして葉月はそんな岩佐を見ながら溜息をつき、不機嫌そうな納得できない顔でこっくりと頷いている。
「致し方ありませんわね。岩佐さんの周りの方達は無責任に放ってしまったようですから。出来れば蘭子さんに主催協力をお願いして、宝石展の収入は岩佐さんが落としてしまった寄付金に充ててもらおうと考えていたのですが……。では、今後はおじ様と岩佐さんのお二人でなんとか……」
なんて葉月は致し方ない顔で篠原の参加を許可しているようだが、実はその裏では『岩佐を助けてやって欲しい』と言うのを篠原に暗にほのめかしているように隼人には思えた。
そしてきっと、真意を汲み取っている篠原の先導で岩佐も気が付いてくれるのではないか……。
やはり、『逃げ道』をつくっていたか……と、隼人はちょっと悔しい気もするが妻が選んだ選択に、『やはりお前らしかった』とふと微笑んでいた。
「それでは、私の今回の用件はそれだけです。宝石展までお会いするつもりもありません」
葉月はそのまま、『これで失礼致します』と、さっと席を立ち上がった。
隼人も気持ちは妻に同意だったので、同じように立ち上がる。
今回の件の結末は、今日ではない。葉月が最後に託した宝石展で、岩佐自身が締めくくる。
その時、彼は妻に何を見せてくれるだろうか……。妻が望むものが彼から返ってくるのか……。それはまだ分からない。
そして岩佐も、今日はまだ何も見つけていないようだった。
葉月に礼もなければ、挨拶もない。
ただ、再度自分の手に戻ってきた『目玉商品』をじっと真顔で見つめているだけだった。
葉月も今日の彼にはまだ何も期待はしていない顔を見せ、何も思うことがない様子で彼から顔を背けていた。
最後に篠原と一礼を交わし、御園若夫妻はそこを後にする。
ロビーを出ると、リッキーが追いかけてきた。
「レイ。今日はごめんよ」
「いいの、私こそごめんね。リッキーがうんと怒っている気持ち、分かっていたんだけれど」
だが、もう彼はいつものお兄さんの顔で葉月に微笑んでいた。
「いいや。気が済んだよ。それに最後の結果は宝石展に先延ばしにしたことで、楽しみが増えたからね」
「た、楽しみってねえ……お兄様」
「まあ、それでも皐月の指輪の紹介。レイの真意が通じない答だったなら、次回こそは、俺も直接に殴っても良いってことだよな」
もし、葉月が思うような展示会ではなかったら……。
隼人と葉月の目の前で、リッキーは拳を握ってシュッと空を切る。
「も、勿論。その時はそれぞれのお兄様達の好きにしてもらうわ」
まだまだ追撃を諦めていないリッキーお兄さんのしつこさに、葉月は苦笑いをこぼしていた。
「でも、レイ。あそこで止めてくれて有難う。……そう、きっと皐月なら、同じように止めていたと思い出したよ。うん……」
だがその後のホプキンス中佐はいつもの清々しいエスコート役の顔で、戻っていった。
「あれならもう、ホプキンス中佐も大丈夫だよ」
「そうね」
いつものお兄さんに戻った背を見送った葉月は、ホッとした顔をしていた。
もうすっかり夕暮れ、夜の帳が降りようとしている外へと二人で出る。
「子供達、泉美さんと待っているな……」
「うん。もう、今日は帰るわ」
潮風が海の香りを運んでくる夕べ。
人気のないの薄闇の駐車場。
今度は妻から、隼人の腕にしんなりと寄り添ってきた。
二人はそのまま、寄り添い家路に向かう。
宝石展のことは、もう、二人の間では話されなかった。
それはもう葉月の中では終わったことなのかも知れない。岩佐が望むものを答えても答えなくても。もう、葉月自身の中では終わったことなのかも知れないと隼人は思った。
もう後のことは、岩佐自身がやるべきことなのだから。
赤い愛車に辿り着いた葉月は運転席に乗り込むと携帯電話を手にし、そのまま帰ることを大佐室に連絡したようだ。
「じゃあ、貴方。悪いけれど、先に車で帰るわね」
自転車にまたがっている夫に手を振って、葉月は愛車でホテルを後にした。
隼人も手を振りつつ、自分も帰ろうとペダルに足を置いたのだが……。
どうしても気になっていることがあって、そのまま自転車を発進させずに、自分も携帯電話を手にした。
この結果をまず一番に知らせたい男がいる。
そして葉月という女性が選んだことを、一緒に噛みしめたい男がいる。
──なのに、その男の影も匂いも近頃は全くない。
今回のことも、ジュールとリッキーに任せきりにしているのだろう。
その後に必ず義妹の目の前に岩佐がやってくると分かっていて、弟分二人のやることを黙ってみていて、尚かつ義妹がきっちりとした方向付けをすると信じていたはず。
今は気配を消してしまっているが、それでも、どうなったかを知りたいはずだし、隼人は知らせたい。
(さて、そろそろ良いのではないだろうか?)
妻の葉月からもあの『甘い熱気』が薄れていた。
彼女の心も落ち着いてきた証拠。
隼人も今日のことで、ぽやぽやと舞い上がっていた甘い熱気を吹き飛ばされてしまったかのように目が覚めてきた。
そして、義兄もそろそろ……と思いたい。
隼人の携帯電話の電波は連絡したい義兄の元へと発信される。
だが、ここ数日間、まったく繋がらなかったように、この日も義兄のどの携帯電話も電源が落とされているようだった。
「まったく。こうなるとこの兄さんもやっかいなんだよなあー」
ちっとも繋がらない携帯電話を片手に、隼人は溜息を落とした。
いったい、何をしているのやら。
丘のマンションにいるのかいないのかも定かではない近頃だった。
Update/2007.7.16