亮介も登貴子も、今はぐっすりと休んでいる。
その合間、隼人は病院の直ぐ側にあるスーパーで、とりあえず思いつく物を買い込む。
買い物の最中に、自分も夕食を取っていないことに気が付く。買い物が終わった後、スーパーの片隅にあるベンチで、買い込んだ握り飯を一つ頬張り、缶茶で一息ついた。
携帯電話をもう一度手にしたが、まだ繋がらない。
「メールにするか。着陸したら、義兄さんもチェックするだろう」
そして病状を知って、不安に思っているだろう葉月を安心させてくれるはずだ。
それでも側にあの義兄がいなければ、こうして夜に駆けつける交通手段もなかったし、妻の葉月は実父の状態が判明するまで離島の我が家で一人、心細く待っていることになっていただろう。
きっと、あの義兄が葉月を安心させてくれているはず。そして、メールを見て……。
『御園のお父さんは、椎間板ヘルニアによる腰痛で運ばれただけ。今は落ち着いて眠っています。お母さんと待っています』
手術が必要なことも、本当は登貴子も倒れたことも。そんなことは着けば否が応でも判ること。
今はとりあえず、安心してもらい、慌てて来ないようにしてもらう。
隼人はそのメールを純一の携帯電話に送り、さらに気が付いてくれる余裕があるかどうかは判らないが、妻の携帯電話にも送信しておく。
きっとそれだけでも、葉月は安心してくれるだろう。
「ふう。俺も、かなり焦ったな……」
スーパーの片隅。隼人はそこで、やっと人心地だった。
もうすぐ愛しい妻と、愛する子供達もやってくることだろう。
・・・◇・◇・◇・・・
病室に戻ると、亮介が目を覚ましてた。
だが、登貴子は処置室でまだ眠ったまま。この状態から言っても、医師の言葉は本当だったのだと隼人は思った。
登貴子は眠る前に言っていた。『お父さんには、こうなったことは言わないで欲しい』と……。隼人はいつもそうして誰にも心配をかけまいと頑張る義母らしいと思った。
だが、隼人はそれを重々承知で、目覚めた亮介に告げた。
「なんだって? 母さんも、倒れた?」
「はい。寝不足から来る疲労だとか……」
「疲労──」
亮介の顔が強張る。まるで何か、その原因となるものを解っているかのように。
そこを押して尋ねてみたい隼人だが、そこはぐっと堪えて、ただ様子を見る。
そしてやはり、亮介はその顔のまま、妻を思いやっているようだが、決して隼人には漏らしてくれなかった。
(水くさいな──)
もどかしく思う。
登貴子が『息子』と言ってくれたから余計かもしれないが、もう『婿養子』になって数年。困った時は頼って欲しいなと言う婿の願い。
だが、それだってまだ『数年』。婿養子となったからとて、やはり出しゃばってはいけない事はあると隼人も心得ているだけに。
「すまないね。隼人君がいてくれて助かったよ。特に母さんは心強かったと思うな」
「いえ、そんな」
その心情を見透かされたかのように亮介が労ってくれたので、隼人はどっきりとしながら微笑み返す。
「嘘みたいに痛くなくなった。でも、鎮痛剤のお陰なんだろうな。……手術か、私もポンコツになってきたかな」
「そんな。お父さんに武道で勝てた隊員は結局、一人もいなかったのですから、手術をすればまた……」
「いや。椎間板ヘルニアになった友人はゴルフをやめてしまったよ。きっと私ももう無理は出来ない身体なのだろうね」
寝たままの亮介は、やや寂しそうに天井を見つめている。
隼人もそれ以上は、気休めになりそうで何も言葉が見つからなくなってしまった。
「でも、お義父さん。うちの子供と真一という孫の為、そして娘の葉月の為、俺や兄さんの為だって……いえ、なによりも登貴子お母さんの為にも元気でいてくれなくちゃ困りますよ。俺、心臓が止まりそうになったんですから」
「……そうだね。そうだよね! 本当にごめん、ごめん! 別にゴルフが出来なくなっても、他にやりたかったこといっぱいあるんだ!」
「えー? なんですか、なんですか?」
「まず、釣りだろう? ピアノだろう。それから母さんと陶芸を習いたいと思っていたし、そうそう、これでも絵心があってね! がきんちょの頃、母が感心してくれて、絵画教室に入れてくれて通っていたんだ。それに隼人君のように、料理も上手になりたいなあー!」
次から次へと『これがやりたい』と言い出した亮介は、いつもの陽気なパパに戻っていた。
隼人も次から次へと出てきた『やりたいこと』の数々に面食らいながらも、それでも『良いですね!』と陽気に戻った亮介に微笑んだ。
でも、実はそれが隼人を安心させたい為の彼の気遣いだと知っていた。
「はあ、そうだな。まあ、還暦も過ぎればそんな『潮時』となる逃れられない事も起きるだろうと覚悟していたから。それが来たんだね。ゴルフはやめよう」
そこは本気の顔をみせていた。
やるせない、でも言葉通りに『覚悟をしていた時が来た』という偽りのない気持ちを込めた顔。
「お父さんの絵、見てみたくなりました」
「そうかい? 本当に、母は良く褒めてくれたよ。弟の京介ばかりが芸術肌ってわけじゃないんだぞー」
「噂のお祖母様のお墨付きなら、余計に見たくなりましたね」
「よし。本気出しちゃうぞ」
いつもの茶目っ気あるパパに戻って、隼人もやっと一安心、心よりの笑みがこぼれ、義父と笑い合っていた。
看護師の許可をもらっていたので、スーパーで買い込んできたちょっとした食べ物を亮介に食べてもらう。痛みも引いて、ほっとしたところ、空いていた腹も埋まって、亮介もすっかり落ち着いたようだった。隼人と話しながらいつもの明るいパパだったのに……。やはりそうはなりきれないようで、亮介が急にぽつりと呟いた。
「そうか、母さん。眠れていなかったのか……」
隼人はやはりここでも余計なことは探らずに、ぐっと黙る。
だが、知りたい。何があったのか知りたい。そして助けたい。
亮介も登貴子も、今は大事な家族。妻と子供達同様に、守っていきたい存在なのだ。
……そうだ。やっぱり聞こう。『息子』なら、聞いて尋ねても当然に違いない! 隼人がそう決意した時だった。
この個室のドアが開いて、そこに人が現れたのだ。
「パパ!」
そこには眠っている娘を抱いている葉月が、立っていた。
ベッドへと真っ直ぐに向かってくる視線には、父親の側にいる夫の隼人すらも目に入っていない様子。その目が父親を見つけ、葉月は泣きそうな顔になる。
そんな娘を一目見た亮介は、横になった姿勢のまま元気良く片手を挙げて、直ぐに微笑みかけている。
「おう! 葉月、ご覧の通りだ。まだ、くたばっちゃいないぞー」
きっと娘を安心させる為だろう。亮介はいつもの陽気さで、自分が心配させたことを誤魔化そうとしていた。
だが、娘の葉月にはそれは通用しなかったようだ。
葉月は娘を抱いたまま、亮介が横になっているベッドへと駆けてきた。
「腰が痛くなって運ばれたの? ここに来る途中、隼人さんからのメールを見て安心したけれど。それまで……どんなことが起きたのかって……私……」
「こらこら、大袈裟な。泣くんじゃない、葉月」
隼人がスーパーで送ったメールはとりあえず彼女を安心させる物となったようだが、それまでの不安は相当の物だったらしい。葉月は父親の笑顔を見て、逆に安心したのか、娘の杏奈をぎゅっと抱きしめながら、ぐずぐずと泣き出してしまった。
眠っている杏奈の首筋に、その泣き顔を隠すように……。そんな葉月を見た父親の亮介は、ちょっと申し訳なさそうに口元を曲げつつも、いつもの頼もしいパパの笑顔は決して消し去らずに娘の葉月を優しく見つめている。そして横になったままでも、そっと彼の大きな手が、娘の腕へと伸び、突き当たった葉月の手首を撫でていた。
「なんだ、嬉しいじゃないか。お前が、私の為に泣いてくれるなんて」
「な、何言っているのよ。当たり前じゃない……!」
「そうだろうけれど。有難う。素直に嬉しいよ。そして心配させて悪かったね」
父親のその余裕に、葉月は今度こそ安心したのか、すすり泣くのをやめた。
だが、隼人はそんな妻を後ろからそっと微笑みながら見守っていた。
きっと数年前なら、あのように父親の前だからこそ『泣かない娘』だったはず……。無感情に。泣きたいのに、泣けなくて。どう顔に出して良いか分からずに。
だから亮介は、それを豊かになった感情表現のひとつとして『お前が泣いてくれるなんて嬉しい』と言っているのだろう。
そして葉月も落ち着いたのか、そんなあからさまに泣いてしまったことがちょっと照れくさいようで、今度は頬を染めて父親から顔を背けているのだ。それを見て、今度の隼人はちょっとした笑いを口の奥に押し込めるのに必死になっていた。
だが、目の前には娘を抱きしめている妻の顔。
今度はちゃんとその茶色いガラス玉の瞳には、隼人だけを見つめている顔があった。
父親の前では泣くのを堪えたのに、葉月は隼人と向かい合った途端に、涙を流してしまっているではないか……。
隼人の方が驚いて、直ぐに妻に歩み寄り、娘と一緒に抱きしめる。
「貴方……。メール、有難う。私の携帯にもちゃんと……。不安だったけれど、直ぐに安心できたから」
「そうか。良く来たな。俺もびっくりしたよ。杏奈、俺が抱こうか?」
「うん……」
よく眠っている娘を、気が抜けそうになった葉月から受け取る。
母親から父親へと抱き替えても、幼い娘はよく眠ったままだった。
「お前も頑張ってきたんだな。お祖父ちゃん、喜んでいるよ」
眠っている杏奈の顔を、腕からちょっとだけ祖父の亮介に見せると、見る見る間にふにゃふにゃのお祖父ちゃん笑顔に変わる亮介。
それは娘を見つけた時の笑顔とはまた違う輝きがあり、それが励みになって元気になれるという喜びも滲み出ている。
隼人もそんな義父の顔を見て、やっと心よりの安心を得られる。──やはり孫の力は凄いのだなと改めて実感だ。
「あれ? カイはどうした」
チビ姫がママ抱っこを独占していたのなら、お兄ちゃんウサギはどうしたんだと隼人はあたりを見渡した。
「あら? 海人も眠っていて、兄様が抱っこしてくれていたのだけれど……」
葉月も一安心してやっと気が付いたらしい。
全面的信頼を寄せている義兄に息子を預けているものの、姿が見えないのはやはり不安になるようで、葉月は慌てて病室の外へと出ていこうとしたのだが。
「じいじー! 大丈夫!?」
「きゃっ! 海人!?」
葉月が開けようとした引き戸がさっと開いて、そこから小さな栗毛の男の子が弾丸のように飛び込んできた。
驚いた葉月がさっと避けたが、弾丸ウサギはそんなもの見えていないも同然の勢いで駆け込んできて、目の前にあるベッドに一目散に飛びついていた。
「じいじ! どうしちゃったの!?」
「おお、海人! お前も来てくれたんだね! 眠くないのか?」
「うん! 飛行機の中で沢山寝たもん、もう大丈夫っ」
元気良くお祖父ちゃんのベッドに飛びついてきた男の子を見て、亮介がまたくにゃくにゃのお祖父ちゃん顔に崩れる。
『良く来てくれたね。じいじ、嬉しいよ』と、亮介は崩しっぱなしの顔で、ベッド脇にやってきた栗毛の孫の頭を、何度も何度も愛おしそうに撫でている。
「そうか、そうか。じいちゃん、大好きなゴルフをやりすぎてね。ちょっと痛い痛いになっちゃって、お医者さんに治してもらうんだ」
「ええ!? ど、何処痛いの? 立てないの?」
『お祖父ちゃんが痛い』と言うだけで、息子の海人はとてつもなく驚き、この世にとんでもないことが起きたかのような困り顔になって、亮介の脇に抱きついていた。その息子が急に、もの凄い切羽詰まった顔で父親の隼人に振り返った。そんな顔をいきなり向けられて、隼人の方がどっきりする。
「パパ! じいちゃん、なんとかしてあげて!」
「え? ええっとパパはお医者じゃないからなあ。うん、じゃあ……お祖父ちゃんのここを優しくさすってあげてくれ」
隼人は息子の隣に行き、まだ小さいその手を横になっている亮介の腰のあたりへと伸ばして触れさせた。
「いいか。強く押したりしたら駄目だぞ。優しく、優しく。杏奈の頭をイイコイイコするみたいにな」
「こ、こう?」
「そうそう。上手いぞ」
息子は真剣だった。
そんな息子のお祖父ちゃんを思いやる姿に、つい微笑みが浮かんでしまう。
だが、ふと気が付けば、そんな孫に腰を撫でてもらった亮介が涙ぐんでいるじゃないか。
枕元に戻ってきていた葉月と共に、それに気が付き、隼人は顔を見合わせた。
いつもは何事も明るく茶化し、誰よりも陽気な亮介のふいの涙。その涙がいつにない物だというのは、隼人だけじゃなく、当然、娘の葉月にも感じられたようだ。
しかし、それが分かっていても……。葉月は父親がなんとか明るくしようとしている気持ちを汲むかのようにして微笑みを見せている。
「や、やあね。パパったら……。もう、本当にお祖父ちゃん、年寄りになってきたわね」
「う、うむ。そうかもな。近頃、どうも涙腺が緩くなっていかん、いかん。軍隊の第一線を離れて、ゆるゆる祖父さんになってしまったかもしれないよ」
亮介はほんのちょっぴり滲んだ涙を指先で拭うと、娘の葉月にはいつもの陽気な笑顔を見せようとしている。
葉月もそんな父親に微笑み返していたが、どうもここで流石に不審に思ったようだ。そんな疑念を抱いた眼差しが、夫の隼人に一瞬注がれたが、隼人も少しだけ首を振って『判らない』と示す。すると、先ほどまでは気弱に不安そうだった妻の表情が引き締まった。
「パパ。この際だから、じっくりと腰を治してしまった方が良いわね。きっとそういうお告げで時期だったのよ。今日は、パパのマンションに泊まっても良い? 明日は島に帰るけれど、その前にもう一度、子供達とお見舞いに来ても良いでしょう?」
「ああ、マンションは隼人君と勝手に使ってくれ。子供達も早く落ち着いた場所に行って寝かせた方が良い。私はこの通りに大丈夫だから」
「まったく、退官してからゴルフのしすぎ! 真剣に心配しちゃって損したわ!」
葉月はいつもの生意気な娘に戻って、海人が丁寧にさすっている亮介の腰をバンと叩いた。
すると懸命にお祖父ちゃんを労っていた海人が、母親の荒っぽいひと叩きにびっくりした顔。そしてその顔が見る見る間に怒り顔になって、母親に向けられた。
「ママ! じいじ、痛いのになにするんだよ!」
「ゴルフやりすぎの、お仕置き」
「でも、じいじ痛いんだからね!!」
「はいはい」
「じいじに謝れ!」
「ごめんなさい」
とりあえず、葉月が亮介に頭を下げたので息子は納得はしたようだが、それでも何かしら母親のそんな悪びれぬ態度に安堵していないのか、まだまだ葉月を睨みつけながら、お祖父ちゃんのミニ介護を続けていた。
「あはは。不良娘に苛められても、強い味方がいるぞ、私には」
「誰が不良娘ですって? でも……。そうよ、パパには海人と杏奈、それに真一もいるんだから、まだまだ元気で頑張ってよ。本当に気を付けてね……」
「うん、分かっているよ。我が娘」
今まで散々振り回されてきたじゃじゃ馬娘のしおらしい顔に、亮介はまだ涙ぐむ顔を見せたが、今度はぎゅっと堪え顔を逸らしてしまった。
それを知った娘の葉月も、やや……切ない顔を父親に向けている。そしてその妻のやや困惑している顔がまた隼人へと向けられた。
だが、『まだ答は知らない』という眼差しだけで応えることしか、隼人には出来なかった。
「葉月。ここにいてくれ。義兄さんは外にいるんだろう?」
「ええ。ママがそこにいたから、今、二人で話しているわ」
「お母さんが? 兄さんと話していたのか?」
「そうよ。ここに来たら、ママが丁度、この病室の前に立っていたから、声をかけたのだけれど……」
と、言うことは。登貴子はこの娘が駆けつける前に目を覚ましていたことになる。
そして上手い具合に、娘には倒れた姿を見せることなくやり過ごしたということにもなる。
隼人は驚いて、抱いていた娘を再度、何も知らない妻に任せ病室を飛び出した。
案の定。廊下には黒いスーツ姿の純一と登貴子が向き合って、小声で何かを話している。
そして二人は同時に、個室から出てきた隼人に気が付き揃ってこちらを見た。
純一が渋い顔をしている。
何か聞かされたのか?
隼人の中にある『嫌な予感』が渦巻き始める……。
だが、疲れた顔をしていた登貴子が、いつもの凛とした気丈な顔つきでこちらに向かってきた。
登貴子は病室の前に立ちつくしている隼人の前に来ると、にっこりといつもの優美な、しかし何処か圧せられる満面の笑みを見せつけてきた。
「隼人君。今、純ちゃんにも釘をさしたけれど、私が寝込んだことをお父さんに言ってしまったことはまあ良いとしても、葉月には『絶対に』言わないでちょうだいね」
「は、は、はい──」
「絶対よ。いいわね」
にっこりとした笑顔に、隼人は何故か緊張し硬直した。
亮介に報告したことは、どうもばれてしまったが、娘の葉月には絶対に知られたくないらしく、隼人が恐れている余裕の笑顔で制される。
登貴子は隼人も制したことが分かったからか、そのまま病室に入っていった。
『ママ!』
『葉月、ごめんなさいね。私達は大丈夫だから、マンションで一休みしなさい。あらあら、子供達まで巻き込んでしまったわね』
『ばあちゃん! お泊まりして良いの?』
『いいわよ〜海人。冷蔵庫に海人が好きな牛乳プリンがあるから、杏奈と仲良く食べてね』
『やったあ!』
『ママ、明日も出来ることは手伝うから何でも言ってね』
『有難う、葉月──』
閉まったドアの向こうからそんな母子の会話が聞こえてきた。
「まったく、いつも気丈なおふくろさんだ。看護師に病状を尋ねたら、『お母様も過労で先ほどまで横になっていた』と聞かされて。伯母さんを問いつめたら、『葉月には絶対に言うな』と、俺もビリビリと釘をさされたぞ」
隼人の隣に、細長い義兄が並んだ。
この義兄でも、あの義母にはちょっと頭が上がらない弱いところがあるようで、そこの不思議な威厳はいつも二人で共感するところでもある。
「俺もー。お義母さんのあの笑顔が、どうも、怖いんだよな〜。見てくれよ、鳥肌立っているもん、俺」
隼人は制服の上着をめくって、義兄に見せる。
本当に鳥肌が立っていたので、一瞬、純一は面くらい、でも次には笑い出していた。
「大袈裟だな、おい。お前、実は小便が近いだけなんじゃないか?」
「あ、そうだ。俺、トイレ行っていない。行ってくる」
「あはは! そうだろ、そうだろ! 伯母さんの怖い笑顔で鳥肌立つなんて、余計に怒られるぞ」
隼人は『それも勘弁です』と肩をすくめると、義兄はまた可笑しそうに笑い続けている。
そんな彼が一番落ち着いて、妻を安心させながらここまで連れてきてくれたのだろうと、隼人は笑っている彼を見上げた。
「兄さん、ここまで有難う。きっと葉月は心強かったと思うよ。俺も兄さんがいて……」
「いやいや。お前も葉月の携帯にメールを入れてくれただろう。俺より先に葉月が気が付いて、凄く安心していたからな。お前は遠くにいても、ちゃんと妻を安心させている」
「そっか……」
そこでお互いが同じように黙り込んでしまった。
どちらが葉月を安心させたかなんて、『どうでもいいこと』だったからだ。
何故なら、二人は言葉にはしないが分かっている。
──『二人一緒に、安心をさせれば良いのだ』と。
どちらが側にいて良かったとか、離れていても安心させられるとか。そんなことはどうでも良いし、どちらがどの立場でも同じ事をすると分かっているからだ。
「まあ、オジキもたいしたことでなくて、良かった」
「うん……」
でも、違うんだ。兄さん。お父さんとお母さんは何かを俺達に隠している気がするんだ。隼人はそう純一に言いたい。
しかし、ここも流石純一か。隼人が言う前に、呟いた。
「どうも、何か引っかかるな。オジキは日本に帰ってきたからってそんな社交的に活動することはなかったのに、ゴルフに出かけてばかりいたとか。登貴子おばさんにしても、寝不足が疲労となるぐらいに気に病むことがあるだなんて」
「俺も、同じ事を感じていた。それにお父さん、変に気弱くなっているというか……。葉月が少しばかり怪訝そうだった」
義兄の純一も即座に気が付いてくれたことに隼人も『流石』と安堵だが、まだ不透明なことばかりで溜息がこぼれた。
そしてそれは隣の純一も──。
「何を隠していることか。話してくれないなら、調べれば分かることだ」
「調べる? お父さんとお母さんが何をしているかを?」
「長く離れていた日本で、フロリダほど友人がいるわけでもない隠居生活をしているのに、出かけるとなるとその場も限られてくる。まあ、数日中に調べるから、お前は葉月と何も気が付かない顔をしていてくれないか」
「分かった」
いつもの『義兄弟だからこそ』の感覚が隼人の身体の中、脳の中に、電気のように走っていく。このぞくぞくっとする感覚は、妻とあの大佐室で疎通していた何かに似ていると隼人はいつも思う。
それは純一も同じようで、自分がこれからすることに対して多くを話し合わずとも、即座に上手く合わせて対処してくれる『義弟』だと言う信頼を感じる無言の頷きを見せてくれていた。だから、隼人も同じように義兄に頷き返す。
そこで二人で息を合わせた途端だった。
目の前の病室に入る引き戸が開いて、そこから葉月が顔を見せた。
「純兄様? どうしたの? パパが呼んでいるわよ」
「どれどれ。あの頑丈な親父さんが、情けなく横になっている姿を拝んでみるか」
「やあね、純兄様はいっつもそんな憎まれ口ばっかり! お兄ちゃまも『不良婿』って呼ばれるわよ?」
『俺も不良とはなんのことだ』と純一は首を傾げていたが、いつものように義妹の葉月と笑いながら病室に入っていく。
葉月もすっかり安心したのか、いつも我が家で明るく過ごしているウサギの彼女に戻っている。
とりあえず、これで娘の葉月も一安心。
夜も更けてきたので、この日は登貴子が付き添いをして過ごすことになり、葉月と子供達、そして純一と共に横須賀のマンションへと戻った。
・・・◇・◇・◇・・・
この騒動があっても、明日も仕事だ。
横須賀御園家のマンションに着くと、だいぶ夜も更けてしまい、元気だったチビウサギの息子も直ぐに寝付いた。
妻の葉月は慣れた両親の家、そして心もほっと一安心した様子で、いつものゆっくりとした入浴をしている最中。
子供達も寝静まった中、隼人はダイニングのテーブルを借りて、明日の仕事の準備を急いで始める。
暫くすると、妻の葉月がバスローブ姿で出てきた。
「落ち着いたら貴方も入ったら」
「ああ、そうする」
もう片づいたので、隼人はノートパソコンの電源を落とし扉を閉じる。
「明日も仕事なのに、こんな騒ぎになってごめんね」
「お前、謝るなよ。俺もこの家の者なんだからな」
「そうね。でも、本当に有難う。ママも助かったと言っていたわ。直ぐに対処してくれて、なんでも用意してくれて流石だって──」
「それは兄さんもだろう? 兄さんがいなくちゃお前、直ぐにはお父さんに会えなかったのだから……。あ、そうだ! 兄さんから聞いたぞ! やっぱり夕方まで、めちゃくちゃ散らかしていたそうじゃないか!?」
それを言うと、葉月はそそくさと隼人の前を通り過ぎ、広いリビングの大きなソファーへと身を沈めて隠れてしまった。
妻が座っている隣に、隼人も腰をかける。
「いつも言っているだろう? ひとつのことをしたら──」
「──次のことをする前に片づける。でしょ?」
「そうだ。兄さんも言っていた。あの家には『子供が三人いる』ってな」
そら見ろ。このじゃじゃ馬ウサギのことを『お前は子供と一緒か』と小言を言うのは俺だけじゃないと、隼人は『参ったか』とばかりに純一を味方にしたのを良いことに、葉月に説教をこぼす。勿論、いつもの如く、ここで妻の顔はふてくされる。
だが、隼人の説教もここまでだ。
何故なら、本当はあれだけ無邪気に子供達と遊ぶ妻が大好きだからだ。
だから、隼人はそれ以上は何も言わず……。そのままバスローブス姿の妻を抱き寄せた。
「……良かったな。お父さん、腰だけで」
「うん」
「俺も、慌てた」
他に不安に思うことは隼人にもあるし、父親の気弱な顔を見てしまった葉月にもあるだろう。
だからか、葉月は何も言わないが、抱き寄せる夫の胸の中に、そのまま頬を預け暫くは甘えるようにして寄り添ってくる。
その頼ってきた妻の両肩を、隼人はもう一度抱きしめる。
「大丈夫だ、きっと」
「そうね」
隼人の胸から妻の頬は離れて行き、目の前には安心して微笑む彼女の顔がある。
その妻の笑顔を見つめながら隼人も微笑み返し、指先でそっと彼女の顎先に触れて上を向かせる。
いつもの綺麗な栗毛は風呂上がりでしっとりと濡れている。この家の清楚な石鹸の香りは、いつもの風呂上がりの妻とは違う香りだが、そのバスローブ一枚の姿は今でも、隼人の男心を掻き立てる。だが……。この夜は堪える。妻に口づけるだけで、堪える。
それでも直ぐに情熱的に応えてくれる妻の口先、舌先。彼女が労ってくれるように夫の隼人の唇を優しく愛し返してくれると、ここが何処で今日がどんな日だったかもどうでも良くなりそうだった。
今にも暴れ出しそうなその手先を、隼人はなかなか離れていかない口づけを交わし合う妻の背中でぐっと握りしめる。
「貴方……。貴方がいて、良かった」
うん、有難う。と言い返したくても、声にもならず。そんな可愛らしい声で労われた日には、ああ、本当にこのまま……。
そうだ、いつもならこうした週末はあの白い家の海が見える寝室で愛し合っている時間帯だ。
……だが、隼人はぐっと堪え、唇を離す。まだ、妻の唇は物足りなさそうに、隼人の口元を追ってきたが、隼人はもう一押しだけ軽いキスで唇を塞いで離れた。それで葉月もとりあえずは満足してくれたようだ。
「私はもう、大丈夫よ。明日、純兄様と先に島に帰るけれど、貴方が帰ってくるのを待っているわ」
妻の長い指先が、どこか艶っぽい仕草で隼人の頬を伝い、『待っている』と唇を愛撫される。
その妻のちょっと誘うような指先を恨めしく思いながら、隼人は軽く噛み返す。そしてその恨めしさは、先ほど『週末の欲望』を握りつぶしたはずの拳、その指先にも乗り移った。
その指先は、妻の肌を包み込んでいるバスローブの襟元をなぞり、ついには彼女が着込んでいるバスローブのタオル地ではないその下の、しっとりとした肌の上を襟に沿って滑り始める。
この指先で外側に襟を弾いて、肩から滑らせたらお終いだ。妻の素肌を目にしたら、ベッドどころかこのままこのソファーで燃えてしまいそうだった。だから、夫の欲望を秘めたその指先は、妻の肌を僅かに触れ、襟を沿うだけでなんとか止め、『明日』へとその勢いは収めることにする。
「そうだな。俺も……早く帰りたい。明日、待っていてくれ」
「ええ、待っているわ」
夫の欲望を堪える指先を分かっているかのように……。葉月はその夫の指を捕まえて、ほんのり桜色に染まっている唇で口づけてくれた。
余計なことをしてくれるなと、隼人はここでもそんな愛らしい妻の仕草に心を侵されながらも、なんとか堪えた。
「じゃあ、子供達と眠るわ」
「うん、そうだな。明日、早いから俺は先に仕事に出るけれど、終わったら病院に直行するよ」
「うん。お休みなさい」
「お休み、お嬢さん……」
いつもの口づけを交わす。
違う部署で勤めている今、平日はすれ違いの生活が多い。
そんな中だからこそ忘れない『挨拶』。毎日必ずではなくても……。『おはよう』と『おやすみ』は、なるべく心がける。いつの間にかある夫妻の習慣。
軽く口づけ合う挨拶。それにお互いに満足して、その日を締めくくる。
そうしてバスローブ姿の葉月は、癒された笑顔を残して、ゲスト用の寝室へと姿を消した。
隼人は少しだけ汗ばんだ額の黒髪をかき上げて一息……。ここが自宅ではないことを恨めしく思う気持ちをまだ引きずりつつも、なんとか気持ちを切り替える。
さて、自分も入浴をしてビールをひと缶拝借し、身も心もひと休めさせて眠ろうかと頭に描き始めたころだった。
ノートパソコンの横に置いていた携帯電話が、ブルブルと震えている。
それを手にするとパネルには、この御園両親宅の向かい宅で落ち着いているはずの義兄からだった。
だいぶ夜も更けているのに、それでも構わずに連絡してきたことに隼人はふと何かを感じて、直ぐに電話に出た。
「はい。兄さん?」
すると純一は『オジキと伯母さんのことが分かったから、隣に来て欲しい』と言う。
妻も子供も寝静まったところ。隼人は、葉月に気取られないようにしてそっとこの家を出て、向かいの義兄宅に行く。
その今は誰も住んでいない義兄宅のリビングに通されると、そこもダイニングには既にノートパソコンがセッティングされ、彼の幾つかの携帯電話がずらっと並べられていた。そして散らばっているメモ用紙も。
帰ってきて直ぐに、調べまくっていたようだ。
「亮介伯父貴と登貴子伯母さんが、ここ最近どこに出かけていたかが分かったぞ」
それはどこなんだろうか? と、隼人が問う前に、純一が一枚のメモ用紙を隼人に突きだしていた。
どうやらそれが答のようで、隼人はそれを躊躇わずに受け取り眺める。
「華夜の会──?」
なんの会合だと隼人は純一を見上げた。
すると純一はちょっと不機嫌そうに顎をさすって、何かに困っているかのように見えた隼人に、ふと不安が込み上げてくる。
その純一がやっと口を開いた。
「御園の祖母さん。つまり……レイチェルばあやなんだが……」
「え? 葉月のあのお祖母さんがこの会となにか?」
何故、ここで噂のお祖母様の名が出てくる? と……。だが、それだけで隼人の胸には込み上げていた不安がさらに大きな波となり盛り上がり始める。
「その『華夜の会』と言うのは、実は『ばあや』が作った『サロン』と言えばいいのか? つまり、まあ、ばあやが日本に滞在している間に、ばあやのような財界人が集まって楽しむ〜という会」
「へえ。それが残っていると言うこと? それで、創設者であるお祖母様の息子であるお義父さんが呼ばれてってこと?」
「それなら、俺も良いことだと思うのだがね。それはばあやが生きていた時の話になると思う」
『では、今は?』と、隼人が純一に尋ねると、彼はもっと困った顔になって唸り始めたではないか。
「さて。俺は表には顔を出さない主義だから、今はこの会はどうなっているか分からない。だが言えるのはひとつ。今、ここを仕切っている『女』もただ者じゃないし、密かに『ドン』と言われている『爺さん』なんかは、かなりの曲者で触らぬ神に祟りなしと言えばいいのか? ちょっとやそっとじゃあなあ……。まさか、『こんなところ』に、伯父貴と伯母さんが、のこのこと顔を出していただなんて……」
『こんなところって、どんなところ!?』と、隼人は目を丸くする。
この世界には誰よりも精通しているはずの義兄が、もの凄い困惑した様子で唸っている。
あの噂の祖母『レイチェル御園』が作った『華夜の会』とは、いったい?
Update/2007.4.15