色々とあったが、また始まる月曜日……。
「おはようございます。大佐」
「おはよう。ラングラー少佐」
土曜日に、父親が救急搬送をされるというアクシデントはあったが、それもなんとか落ち着き、無事に『週明け』を迎えることが出来た。
海人も杏奈も、いつもどおりキャンプ内の幼稚園に通園。夫もいつも通りに工学科へ、そして義兄は葉月が住んでいた丘のマンションを拠点にし、今日も世界を相手にあらゆる仕事をこなすことだろう。
「連絡があって驚きました。あのいつも元気なお父様が、救急車で運ばれるだなんて……」
「ごめんなさいね。たいしたことはなかったのだけれど、万が一を考えたら、貴方には連絡しておかなくちゃと思って」
「当然ですよ。何か起こってから連絡を頂いた方が、私は怒りますよ」
すっかり専属側近として、一人で立ち回るようになったテッド。
仕事では、彼なしでは葉月は動けない。平日の勤務中は、彼とは『運命共同体』だ。
だから、プライベートは別とお互いに割り切っても、やはり多少は仕事のポジションとも繋がらざる得ない。こうして家族に緊急の事態が起きた場合は、必ず仕事にも影響するのは想定内として頭の隅に置いておかなくてはならず、やはりそこは『共同体』である以上はプライベートの一部も知ってもらわねばならぬのだ。
今回は、葉月の家族に関してだったが、逆に、テッドの家族に何かあれば葉月だってそれを把握しようとするだろう。
「貴方のアメリカのご両親はお元気? この前の長期休暇も短めに切り上げて帰ってきてしまって。申し訳ないわ」
「とんでもない。実家に帰ってきたというのに、ごろごろしているから、それなら帰って働けと父親に追い出されたんですよ」
テッドはそうして笑い飛ばしたが、葉月は『まさか』と小さく呟いた。
きっとテッド自身が落ち着かなくて、小笠原に帰ってきてしまったのだと……。
彼は、実家には弟がいるから大丈夫などと言っているが、親にしてみれば、どの子も変わりなく心配しているはずなのだから。
それでもテッドは葉月のその呟きを覆そうと続ける。
「両親は、特に父は、息子の自分が大佐嬢の専属側近になったことをとても自慢にしてくれていましてね。今度、大佐嬢がフロリダに来たら是非お会いしたいと、いつも言っています」
「そうね。私も遠い日本に息子さんをこうして預けてくださるご両親には一度お会いしたいわ。今度の式典は日本に来てもらったら?」
すると、テッドは『仕事に集中できなくなってしまうから』と、そうはしたい心がありながらも、それが照れくさいようだった。
葉月もそんな子供としての気持ちが分かるから、そっと微笑む。だけれど……今日の心境では、ひとつ、後輩に念を押したい気持ちが。
「ご両親を、大切にしてあげてね……」
「た、大佐?」
顔に出すまいと思えど……。気心知れている後輩だからこそ、葉月はついこの週末休暇に味わった気持ちを表情に出してしまっていたようだ。
テッドのちょっと戸惑う顔に、葉月自身も思わぬ気持ちを感じていたことにハッとした。
「あ、ごめんなさい」
「いいえ。当然のことですからね。お父様、お大事に」
葉月は『有難う』と、テッドに微笑む。
そうしてお互いの席で、朝礼を始める準備をしたのだが、今度はテッドの方がちょっと落ち着かない手の動き。そして今度は、彼が葉月をチラチラと見ている。
「な、なに?」
「ええっと。実家帰省の話が出たので、ちょっと」
それはもう、仕事をしている時の彼の顔じゃなかった。
ちょっとばかり頬を染めて、照れくさそうに栗毛の頭をかいて、何か葉月に伝えなくてはいけないけれど、言いにくいと言ったように。
「なによ。水くさいわね」
「実は〜。『工学科の彼女』……なんですけれどね」
ああ、『小夜』のことかと。どんなに名前を言わなくても、テッドにとって工学科と来れば一人しかいない。以前は『吉田、吉田』と言っていたのに、今では『工学科の彼女』と言う。……が、うっかり気が抜けてしまっていた時は『サヨ』と漏らしているのもしばしば。そんな時は葉月の方がにんまりしてしまい、テッドはそれに気が付いて、顔を背けてしまったり、その場を逃走したりしている。
まあ、ともかく……。いつからかは分からないけれど、この二人はいつのまにか『恋人同士』。そして彼は、御園若夫妻の妻の部下。彼女の方は、御園若夫妻の夫側の部下として努めてくれている。
さて、その彼女と、実家の話がどうなのだろうか? と、葉月は『言ってご覧なさいよ』と、ちょっと言い難そうにしている後輩をせっついてみた。
「今度の彼女の『岡山帰省』。俺、ついていこうと思っているんです」
「え!? それってつまり!?」
「そのう……。ご両親には安心してもらいたいなあと……」
葉月は『まあ!』と、飛び上がりたいほどに喜んだ。
「行ってきなさいよ、行ってきなさいよ! 休暇、あげるわよ」
「あんまり長くは。俺も彼女も、やっぱり『ここ』が落ち着くので、三日ほどで良いのですよ。ただ、揃って休むのは」
「何言っているの? 部署が全然違うじゃない。行ってきなさいよ!!」
テッドも小夜も、三十代になり良い歳頃だった。
テッドはともかく、日本人の小夜となると、そういう『ご実家近辺』では、厳しい立場にでもなるんじゃないかと、隼人もまるで本当の『お兄さん』のようにして心配していた。それは葉月も同じ。喧嘩も人並み以上にやりあっている二人だが、ここぞという時の息の合わせ方なんかは天下一品だ。仕事だけじゃなく、プライベートでも、恋人としての姿になれば、それはもう……お似合い。と、葉月は信じて疑わない。なのに、そんな話が一向に見えてこないし、二十代の頃、あんなに可愛らしい女の子の感性を充満させていた小夜が、今じゃ、基地でトップクラスに入る『キャリアウーマン』に成長し、『結婚』の一言をちっとも口にしなくなったことを葉月は気が付いていた。それは彼女が気にしているからこそ口にしないのか、はたまた『仕事が一番好き』になってしまったから『恋人』で満足しているのか……。そこは葉月にも分からない。
それでも倉敷の両親に、恋人を紹介する気になったというのだから、これは『駄目』なんて言えるはずもなく『行け行け』と老婆心と言われたって、押しまくりたいところだ。
「では。まだ先なのですが、この頃……お願いします」
自分のスケジュール手帳を広げ、テッドが葉月に希望の時期を示したのは、来月だった。
葉月は『まだ先だから、良いわよ』と、自分の手帳にも『テッド、休暇希望』とメモをする。
「そう。小夜さん、貴方と倉敷に行くのね。いいわね〜。白壁の素敵な街らしいわよ。私も一度行ってみたいのよね」
「俺も楽しみですよ。あ、でも……。大佐はどうだったんですか? 澤村中佐を家族に紹介する時って……」
そう言われて、葉月はふと考える。
思い出せなかった。
テッドや小夜のように、揃って実家を訪ねてご両親にご対面?
「……なかったような気がするわ」
「え? そうでしたか? 俺の記憶では、澤村中佐が来て一年目に、横浜に行ったりフロリダに行ったりとかしていませんでした?」
「お互いの実家に行った時には、もう面識があったもの。そうね、父と彼が初めて会ったのは〜」
だいぶ遠い日となったあの頃の記憶を、葉月は懸命に引き出す。そうして辿り着いたのが……『岬任務??』と、気が付いて葉月はちょっと驚いて、黙り込んでしまった。
では、母と隼人が初めて会ったのも……? 『岬任務』!?
葉月と和之が初めて会ったのも……。『岬任務前』!?
葉月は大佐席に座り込んで、頬杖、溜息をこぼした。
「どうしたんですか? 大佐」
「我が家は、結構、ドタバタなんだわって、思い返しただけ──」
「まあ。あの頃は、大佐も澤村中佐も大変でしたもんね。今は、基地の中でも皆に羨ましがられるほどに、お幸せな夫妻になって……。女性達なんか、皆、貴女達ご夫妻に憧れているんですよ。まあ、『うちのサヨ』も、その一人ですが……」
今日は『うちのサヨ』と言った。と、葉月は頬杖をしている大佐席から、思わず『ニンマリ』とテッドを見上げてしまった。
勿論、テッドもそれに気が付き……。
「朝礼、始めますよ」
「はあい、少佐」
いつもの如く、さあっと冷たい横顔になり大佐室を出て行ってしまった。
葉月も席を立ち、少しだけ幸せな気持ちにさせてもらい一人で微笑んでいた。
「……そうね。幸せなんだわ」
ここ暫く──。
隼人と出会った時のような荒んだ自分は見る影もなくなった。
仕事の足場も固まり、達也と後輩達と上手く中隊を動かしている。家庭も、順調だった。
そこへ、父が体調を崩すというアクシデント。いつかはそんなことも起こりうる年齢になったのかもしれないが、ここ最近にない『ショック』だったのは確かだった。
でも、それもなんとかやり過ごし、こうして職場に出てきて後輩達の幸せを見守る。
やはり『幸せになったんだ』と、葉月は噛みしめる。
「おい! じゃじゃ馬、さっさと来い!」
大佐室の自動ドアが開いて、そこから背の高い黒髪の男性がいつもの口悪で葉月を呼ぶ。
達也だった。
「行きますよ、行きますわよ」
「ったく。近頃、ふぬけてないか? ミセス大佐」
なによ、週末は大変だったわよ! と、事情を知っているはずの達也に噛みつきたくなりながら、葉月は手元を整えて自動ドアに急いだ。
その口悪同期生の『海野副中隊長』と出口で肩を並べる。
事務室のいつもの場所に、青年達が規律正しい整列にて待っている。
海野中佐と共にそこへ向かう途中、その達也が耳元で囁いた。
「親父さん、手術だってな。その日はここを留守にしてもいいからな。行ってやれよ」
「有難う、達也」
彼の口の悪さは、出会った時から知っている。そしていざという時は、とても強い味方だって事も分かっている。こうして週末の出来事だって、心配してくれているのも……。だから、葉月もここは彼に笑顔で礼を言う。そんな時、達也はとても頼もしい笑顔を返してくれるのだ。
プライベートでは『親密なお隣さん』である彼。
昨日、隼人と純一とは顔を合わせて横須賀での出来事を知っているようだが、葉月とこの件に関して言葉を交わしたのはこれが初めてだった。
お隣の旦那さんと、お隣の奥さんという関係。
そうなってからは、むしろ家庭で親しく顔を突き合わせて会話をするということはなくなった。
本当に、職場で……。葉月が選んだ『仕事のパートナー』としての関係を徹底させていた。
その分、大佐室では相変わらずの『双子同期生』で後輩を驚かせ、そしてその息の合い方で打って出る強気の仕事姿勢にも周りを驚かせ、上手くやっている。そしてなによりも『口悪同期生』として、なんでもかんでもバンバンと言い合える気持ちよさも健在で、大佐室では二人は若い頃から変わらない騒々しさで大いに賑やかにして過ごしている。
そんな海野中佐と山中中佐と大佐嬢の三人が今、この中隊を回していた。
後輩のテッドは大佐嬢の専属側近へと成長し、柏木は立派な総合管理長として地道にそつなくこの中隊の中枢となる班を機能させているし、クリストファーも少佐に昇格し、テリーは相変わらず大佐室に欠かせないアシスタントで、もしかすると葉月以来の女性空軍管理班長になるのではないかと囁かれ始めているし、葉月と達也も密かに思っている。
そして、夫の澤村中佐はすっかり工学科の人となり、その隼人を慕っていた小夜もこの中隊から巣立って行き、今は工学科長室の立派な秘書官だった。
さらに──。故郷のフロリダへと帰ってしまったジョイは、無事に結婚し、なんと今では葉月を追い越し『三児のパパ』──どころか、今はあの可愛い奥さんのお腹には四人目がいるとか!? つまりここも葉月と一緒で年子でばんばんと子作りを励み、彼の目標は『十人兄弟』なのだとか!?……いつか、こちらの島に帰ってきたいというが、彼はフロリダで幸せにマイクの部下として『秘書官』の修行をしている。
そんな変化をしても、四中隊は前進をしていた。
そのいつもの中隊朝礼が終わる。
達也と山中と、側近のテッドと総合管理長のマー君を交えて、最後の確認を主要陣で軽く打ち合わせ解散する。
また達也と肩を並べて、大佐室に入った時だった。
「そう言えばさ。今朝、純兄さんがこの基地に来ていたのを見たぜ」
「え?」
「連隊長にも報告なのかな? だってロイ兄さんも御園の親父さんとは親しいだろ?」
そうだけれど……と、葉月は思いつつも、首を傾げた。
でも、そんなこと電話連絡で済む事じゃないかと葉月は思う。
歳が離れた兄様二人は、相変わらず。同じ島に住むようになったというのに、仲が良いのか悪いのか分からない関係を見せている。顔を突き合わせれば喧嘩腰だし、お互いの家に通っている様子もないかと思ったら、時々、二人一緒に外に出てお互いに酔いつぶれるほどになって帰ってくることもあると、ロイの妻である美穂から聞かされている。美穂曰く、『ロイは直ぐに酔うからともかく。あの純一さんまでもが酔っちゃうのは意外だったわね』だそうだ。葉月もそう思う。以上に、義妹の葉月の目の前で、あの凛々しい義兄が酔いつぶれるだなんて見たことはない。……ちょっと美穂に嫉妬してしまったり。勿論、筋道違いなのだが。それだけ、ロイとは距離があっても通じているということらしい。
それなのに二人にとっても色々な面でお世話になっているだろう『御園の伯父貴』が具合を悪くして、顔を突き合わせて急いで話すことってあるのだろうか? 葉月はそう思う。
「ふうん。兄様も、結構、暇なのね」
「またまた。そんな憎まれ口。お前、純一さんがこの島に、お前が出たマンションに住む事になった時、めっちゃくちゃ幸せそうな顔していたぜ」
達也にズバリと言われて、葉月は思わず頬を染める。
本当にそうだったからだ。
「逆に俺が、隼人兄さんの立場だったら気が気じゃないのになあ。今では、あの二人の兄さんの方が仲良かったりして。まあ、俺も谷村の兄さんには、めっちゃ助けてもらっているし、やっぱりあの人、頼れる存在だよな……」
しみじみと呟く達也。
それほどに、純一の島での存在感は定着しつつある。
あんな無愛想で不器用な義兄だけれど、不思議と男性達には慕われる。あっと言う間に島の男達と親しくなり、そう……あの『なぎ』の屋台の主人『将さん』とは、今じゃとっても仲良しだ。そこから通じる地元の漁師仲間にもいつの間にか認められている。余所から来てこんなに短期間で慕われるのは『あの兄さんの天性だ』なんて、隼人も達也も言うが、葉月としては『あんなに意地悪なお兄ちゃまなのに、絶対に何かの間違いよ』と、今まであの義兄の性格に手を焼いてきた義妹としては、そう叫びたくなったりする。そこはどうしてかロイと気が合い『そうだ、そうだ。お前、島中に金をばらまいたに違いない』と、否定しあったりしている。……でも、分かっている。本当はそう言う人だって、義妹の葉月も、長年悪友であるロイも、分かっている。
そして、葉月もロイも、純一が同じ島の人になってくれたことを、心の底から喜んでいた。
それにロイは未だに純一の組織を密かに使うこともあるようで……。しかし、そう言う場合はこうして表立って純一が基地を訪ねに来ることはないはずだ。
(なんなのかしら……)
ふと、大佐嬢の中に久しぶりの妙な違和感。
特に、近頃は『お嬢様奥さん』と義兄と夫に言われ、彼等は葉月には内緒で『物事』を知らない間に運んでしまっていることが多い。
それは大佐嬢としてではなく、本当に『御園のお嬢様』としての、家庭内のことが多い。
葉月だって思っている。
あの父が。あの事件のことも、知り合いの間で知れるようになってしまった今、それほど社交的ではないことを。
それなのに、ゴルフに散々出かけていたと言うのも何か違和感だった。
それに……。父、亮介のあの涙ぐんだ目。孫に労られた感動、歳のせいだけとは、娘の目から見ても、そうとは思えなかった……。
また、隠されている。
義兄弟二人だけで、何かをしようとしていないか?
そんな気にさせられていた。
・・・◇・◇・◇・・・
と、なると。かなり気になりはじめる大佐嬢。
ランチの時間がやってきて、今日も側近のテッドと共にカフェテリアに出かけるのだが……。
「だいぶ空きましたね。今日は、遅くなったもんな」
テッドが一息つきながら、腕時計を見る。
午前中の『空部隊長』会議が長引いて、昼を過ぎてしまったのだ。
空部隊はまだ出来ていないが、その前衛的存在として、小笠原の空部に関わる上官が顔を突き合わせての『今後に向けての話し合い』なものだから、毎度、毎度、気合いが入っているのだ。
今、その先頭に立っているのは『佐藤大佐』。彼も甲板訓練を降りたのだが、以前、隼人がメンテチームを作る時に点けられてしまった火、『情熱』を、今は退官前の花道とか豪語して率先して新しい組織化に向けての先導をしてくれているのだ。そして、その佐藤大佐を大きくサポートしているのが我が夫『澤村中佐』。今は、工学科科長室の副科長になってしまった……。皆は佐藤大佐が大きく動いていると口で言いながらも、密かに『あれはまた、澤村が裏でばっちり動いている』と囁いているのを葉月は知っている。まあ、その通りなのだが。それで葉月はどうなのかというと……。
「まったく、貴女は本当に相変わらず。また欠伸をしていましたね。マクガイヤー大佐が笑っていましたよ」
「はあ……」
後輩の小言にも、葉月は少し、上の空。
それも分かっているのかテッドは溜息はこぼした。しかし次に出てきたのは小言ではなかった。
「でも、皆、分かっているんですよね。何か意見がまとまる度にどうしてか、貴女の顔を窺っている……。特に澤村中佐は、合意か否かと、まるで貴女に挑むかのように真剣なんですから。あの顔、怖いですよねー。夫婦なのに、会議では敵同士みたいな顔をして」
え、そんなふうに見えるの? と、葉月は驚いてしまった。
テッドは『今度、ビデオでも撮りましょうか』と冷めた顔つきで言い返してきた。
「そうなの。私達……ううん、うちの旦那さん、私にそんなふうに向かっていたの? 私、怒られているのかと思っちゃった」
本気でそう言ったのだ。
何かあるごとに『大佐嬢はこれで如何でしょう』とか『大佐嬢のお考えを伺いたく思います』と、『突っかかってくる』。
当然、この時の葉月は──。もう皆が周知のことではあるが、そこで本気で聞いてるようで聞いていなく、持参したメモ帳に落書きをしたり、思いついたことをメモしたり。どうでも良い日のメモ用紙を丸めて大佐席横のゴミ箱に捨てると、テッドが慌てて拾いに来るぐらい。『とんでもない重要な閃きを捨てるんですか!!!』──と、どうでも良いと思ったから捨てたのに? と、おののいたことがある。葉月のメモは『大佐嬢の本音』とテッドは位置づけているらしく、葉月がどうでも良くても彼がそれを眺めてさっと動き出してしまうこともしばしば。いわゆる側近故の見事な先回りをしてくれている時がある。それからは捨てずにとっておく……。
まあ、つまりは、葉月が『お遊び』をしている時ほど『こいつ、絶対に何か考えている』と思われているようなのだ。それは側近のテッドがこのように把握している今、元側近で今は夫である『御園工学中佐』が、そこを見逃すはずがないのである。
だからなのだろうか? 彼は葉月がぼんやりしている時ほど、『突っかかってくる』。
今日の会議も、最後までしつこかった。──『大佐嬢のお考えは?』、『特に何もありませんが? 佐藤大佐と御園中佐の意向で異存はありません』、『本当ですか? 本当にこれでよろしいのですね?』──の、繰り返しだった。なるほど? 佐藤がちょっと大袈裟なハラハラ顔をしていたのはそう言うことかと、葉月はやっとここで理解する。
どうやら、奥様大佐がぼんやりしているので『何を考えているか引き出してやる』と、旦那さんの方がムキになっていたようだ。
(というか、今日は他のことで頭が一杯だったのよね〜)
今日のメモ帳。訳の分からない点と線の落書きの下に隠された葉月のみのテーマは『家族の状況』だ。
会議を真剣に進行していた夫には、大変申し訳ないのだが、本日、大佐嬢の『怪しいメモ帳』に、空部隊は存在していない。
それこそ、あそこまでしつこく突っ込んできた夫に、このことがばれたら……。ああ、怖い。『貴方が真剣に取り組んでいることとは、まったく別のことを真剣に考えていました』だなんて、絶対に知られてはならない。このメモをした数枚は帰ったら捨てよう! と、葉月は一人で拳を握る。
「大佐は、サンドですか? 俺、買ってきますよ」
「ううん、空いているから自分で買ってくるわ。席も空いているし、先にオーダーが終わった方が席を取って、一緒に食べましょうよ」
テッドはあたりを見渡し、『そうですね』と微笑み、定食コーナーへと向かっていった。
いつもの軽食コーナーのカウンターへと向かう。
繁忙時を越えて、軽食コーナーには数人の女性隊員がオーダー待ちをしているだけだった。
「お疲れさま、大佐嬢」
「お疲れさま。今日は何かしら?」
「マスタードポテトと、レタストマト・オーロラソースですよ。私もここのサンド、大好きなんです」
「私もよ。殆ど、毎日。ランチで食べなくても、少佐におやつに買ってきてもらっちゃうの」
そこにいる女性隊員達と、そんな会話を楽しむ。
若い彼女達は陽気に笑い飛ばしてくれ、向こうでトレイを手にして定食を運んでいるテッドをチラリと見た。
「ラングラー少佐って、すっごくきめ細やか、気が利きそうですよね」
「まあ、そうね。助かっているわよ。私がいい加減だから」
「やだ。大佐ったら……!」
彼女達がまた笑う。でも、その視線はラングラー少佐へ向かっているのだ。
残念。空いていなければ、大佐嬢の為なら何処でも飛び込んでいくあのラングラー少佐がこのカウンターに来ていたはずなのに……。と、そんな声が聞こえてきそうな彼女達の顔。
今、若手の中でも注目株のラングラー少佐に憧れる女性は少なくはない。女性が多いこのカウンター、混み合う時間帯に、男のテッドが大佐嬢の為と女性達と揉み合いながら『お馴染みサンド』を買いに来る姿も今じゃ、有名なことだった。
「おっ、嬢ちゃん。今日は遅いね! サンドだろ、サンド。あるよ〜」
「お疲れさま、ロブ。じゃあ、いつものサンドセット。ドリンクは温かい紅茶ね」
コック長のロブが、いつもの笑顔で『あいよ』と、葉月が差し出したカフェチケットを受け取ってくれる。その時だった。
「同じものを、もうひとつ。私は珈琲で」
葉月は頭の上から聞こえてきたその声に、どっきりと固まった。
今でもその低い響きを持つ声を聞くと、一瞬、緊張に見まわれる……。
そこにいた女の子達さえも、息を止めたかのように静止し、彼を見上げていた。そして、葉月も見上げると、そこには黒いスーツ姿の『義兄』がいる。
「おや、今日は社長も来ていたのかい。『妹さん』と同じでね」
「お代も、大佐嬢から貰って下さい」
「あはは! 兄妹喧嘩になっても知らないよ〜!」
そして義兄は、言った冗談を本当にする為、目の前にいる義妹の背をツンツンとつついてくるのだ。
「大佐嬢、ご馳走様」
「に、兄様! なんなのよっ」
女の子達の目の前、いつもの格好良いお兄ちゃまの顔で、ここは『俺がおごる』じゃないの!? と、葉月は顔を真っ赤にして叫びたいが……。女の子達の手前、これ以上、『やられてばかりの妹の姿』を見せる訳には行かず……。
「はい、ロブ! 義兄の分です。珈琲にはお砂糖を五杯入れてください!」
本当は『ブラック』。そこを分かっていながら、葉月は大佐嬢の淡々とした顔つきに戻しつつ、チケットをカウンターに叩きつけた。
「え? 社長はブラックだよね」
「流石、コック長! 覚えていてくれたんですね。妹の意地悪なんかすぐに見抜いてくれる」
「まったく。お嬢も、社長お兄さんの前ではすっかりお嬢ちゃんだねえ。兄貴孝行でここのサンドならお安いものだろう? そんな子供っぽいお返ししちゃって」
結局、大人のおじさん達に『お嬢ちゃん』に据え置かれた『ミセス大佐嬢』。
頬がかあっと熱くなる中、先ほど、純一の威厳に気圧されていた女の子達がリラックスしたかのようにクスクスと笑っている。
「お疲れさま、谷村社長」
「貴女達も遅いランチですか? お疲れさまです」
「いつも仲がよろしいですね。では、私達はこれで失礼致します」
純一が、気の良い笑顔を女の子達に見せる。
そうすると彼女達は、とても喜んだ顔になり肩の力もすっかり抜けたのか純一に今まで以上の可愛らしい笑顔を返し、去っていった。
葉月はちょっと、むくれる。私にはいっつも無愛想な顔、何を考えているのか分からない顔をするのに。なのにこうして彼が『社会』という枠組みで行動しているのを島で見るようになると、前にも話したように男性達には慕われるし、女性にだって結構『ソフトな物腰』だと言うことも『発覚』。──『なんで、私には意地悪なのよ』と思うのだ。自分の夫と言い……本当に、なんだか意地悪なのに……。
「ここに来たらお前が見えたから、ついな」
「……つい、ねえ」
意地悪なのに……。どうして、そういう頬が直ぐに緩んじゃうことを言ってくることかと、葉月は益々悔しくなる。
カウンターに、二人が頼んだ物が乗せられたトレイが、同時に並んで出てきた。
それを二つとも義兄が、ひょいと持ち上げていく。
「俺も今から昼飯。一緒に食おう」
「なによ。私のおごりじゃない!」
ケチケチするなと純一は笑いながら、颯爽とジャケットの裾を翻しながらトレイを両手にホールへと向いた。
すると、純一の目に、やっと……大佐嬢を待っているテッドの姿が目に付いたようだ。
「おっと。少佐と一緒だったか……。悪い、邪魔した」
「いいじゃない、三人一緒で」
しかし純一はテッドを見て、躊躇している。
ここは義妹の職場。義妹の関係の方が優先なのだ。
だが、こちらの義兄妹にも気が付いたテッドが、さっとトレイを手にして席を立ってしまう。葉月が『あ、待って』と言う前に、彼は瞬く間に、窓際の席に固まっていた青年達の輪に入っていってしまった。
「しまった……。彼、気を利かせてくれたな」
「みたいね。でも、あそこにいるのは、本当にテッドと親しいアメリカ青年達だから、大丈夫よ」
その通りに、テッドが輪にはいると、青年同士らしい賑わいを見せ始めた。
そう……。テッドは側近になってから、親しい友人や同期生を見かけても挨拶だけで、いつだって大佐嬢のお供。そして仲間達もそんなテッドの側近としての姿勢を良く知ってくれていた。
「たまにはテッドにも、お友達との時間をあげなくちゃね。丁度、良かったのよ」
「それなら、いいがね……」
壁際の席を選んでトレイを置いた純一は、それでも気後れした顔で、テッドに謝るような眼差しを向けていた。
「そうそう。お兄ちゃまが悪いのよ。私におごらせた、罰よ罰」
そんなに悪く思うなら、義妹を見つけるや否や『意地悪をかっ飛ばしてきた悪戯』を、この義妹が懲らしめてやろうとばかりに、葉月は口悪を吐きながら、純一が選んだ席に先に座った。
義妹が据えると、純一も気に病むのは終わりにして、葉月の目の前に落ち着いた。
そこで『いただきます』と、やっとのランチを義兄と二人、一緒に食べ始める。
「工学科に隼人に会いに行ったのだが、会議だとかで不在だった。お前もここで見かけたってことは、長引いていたんだな」
「そう。しつこいの」
「しつこい? なにがだ」
葉月は『旦那さんがムキになる』とは言わずに、『色々と』の一言で済ませる。
すると流石の純一でも、そんな僅かな一言では真相が掴めなかった為か、『そうか』とだけ、溜息をつきながらサンドを頬張っている。
それを葉月も食べながら、眺める。……すると不思議な気持ちになってくる。
「この基地に何年もいて、ここに骨を埋める覚悟でもいるけれど。まさか、この職場のカフェでお兄ちゃまとランチを取るなんて、予想外よ」
「なんだ。俺がお前とこうしているのは、不満なのか?」
ちょっとばかりふて腐れるように呟いた為か、義兄は不本意そうな顔をしている。
だって、そうじゃないか? 絶対に葉月のテリトリーには踏み込めない立場だった義兄が、今はまるでここの隊員のように『谷村社長』と親しまれ、基地内を当然のようにして闊歩してるのだから。そして、長年の付き合いがある義妹の『大佐嬢』との仲の良さも、その義妹の夫である義弟の隼人との仲の良さも、誰もが知っているところ。あの御園夫妻と寄り添っている義兄というポジションすらも、あっと言う間に基地内で確立されてしまった。
だから、こうして二人……『軍服と黒スーツ』の異なる格好でも、誰もが微笑ましく見てくれるのは『仲の良い義兄妹』だからなのだ。
こんなこと……。誰があの時、想像した? あんなに壮絶に傷つけ合った逃避行事件を起こしたにしては、余りにも穏やかすぎる瞬間を迎えている。
むしろ、葉月にはこれこそ『勿体ない夢』。そして壊れて欲しくない夢……で、在り続けて欲しいという密かなる願い。
「ふうむ、美味かった。じゃあ、俺はこれで。マンションに帰って、午後の仕事に取りかからねば」
葉月のそんなちょっとのもの思い、その間はほんの少しだったというのに、目の前の純一はもう、二つのサンドイッチを食べ終わり、珈琲を味わっていた。
「お兄ちゃま!? もう食べちゃったの?」
「一分、一秒を短縮したいという生活が、俺をここまでさせた」
「ちゃんと噛んでいるの? 信じられない!?」
だが、純一は目の前で『それが?』とばかりに、淡々と珈琲を飲んでいる。
それにもう『帰る』という。葉月が『このカフェでお兄ちゃまとランチをしているなんて夢みたい』と、密やかに喜びを噛みしめているほんの僅かの間に、純一から『もう終わり』と締めくくろうとしているのだ。
「ほんっとうに、お兄ちゃまって、信じられない!」
「なにを怒っているんだ?」
せっかく『夢みたい』と思っているのに、結局、こうした甘い想いをちらつかせ湧き起こしておいて、当の本人はそんなささやかな時間を味わう気などなかったのだから。
葉月はそれ以降は、むすっとむくれながらサンドイッチを頬張る。純一がそんな義妹分かっているのか分かっていないのか、何かを探るような目で見ているが、葉月はもう顔を背けて『無視』だ。
ひとつ目のサンドを食べ終わったので、ティーカップを手にして一口飲み込んだ時だった。
「おい、今、何時だ?」
カップを持っていないテーブルに置いている左手の甲。そこを純一が指先で、つんつんとつついた。
その左手には、この義兄から結婚祝いでもらった腕時計をしている。
葉月の場合、時計の文字盤は手のひら側の手首になるように着けているから、手の甲をつつかれて、その文字盤が見えるようにひっくり返した。
着ている白いカッターシャツの袖口を、純一が長い指先ですっと除けて、文字盤を覗いた。
この時、ふと思った。自分の時計を見ればいいじゃない……と。でも、その義兄の指先に……葉月は見とれていた。
「もう、こんな時間か。悪い、本当に帰らねば」
「そう……」
そんな義兄の事情はよく分かっているから、葉月も駄々なんてこねない。それにもう……、いい大人だ。いつまでも、我が儘で困らせるチビ姫じゃない。
その時、ほんの少し手のひらが上を向いて開いていたそこに、何かが置かれた感触。
ふとそれを確かめると、力無く開いていた手のひらに、小さな小さな茶色い箱が置かれていた。黄色い小さなリボンが付けられている箱は、葉月が好きな『チョコレート専門店』のミニボックスだと分かった。
驚いて向かいの義兄を見ると、彼はもう、トレイを片手に立ち上がっていた。
「ランチを食わせてもらった礼だ。じゃあな」
軍人でもないのに、そういう場だからか……。純一は敬礼をしながら、葉月が次の言葉を発するのを避けるようにして行ってしまった。
あっと言う間に、一人きり。ぽつんと壁際に置いて行かれる。
「ばか。お兄ちゃまの……ばか……」
葉月はぎゅっと小さな箱を握りしめる。
これを渡したくて? いつ、買ったのだろう? もしかして、これを渡したくて義妹を探していた? 会議が終わったからカフェにいるだろうと思って? 渡すのは照れくさいから、だから『ご馳走の御礼』とこじつけたの?
葉月の中に、いつもの義兄らしい行動と心の全てが襲ってくる。
本当に、どうして……。もっとストレートにしてくれないのかと思う。
「ばか。もっと、大きい箱の……買ってきてよ」
でも、きっと。いつでも渡せるような……。そう、先ほどポケットから出していたように、いつ渡しても『自然』であるようにポケットに入れられる大きさの物をその時に買ったのだと、義妹の葉月には分かった。本当に小さな一口サイズのチョコレートが四つほどしか入っていない小さな小さな箱。でもいつも『あそこの、食べたい』と言っている、葉月でも滅多に買わない高級店の物だった。
ふと見ると、義兄の純一はさっとトレイを片付け、こちらを振り向くことなく下りのエレベーターに乗ってしまった。
本当に……。傍にいても、純兄様は純兄様だった。それがどうしてか、とても暖かくて、とても切なくて、そして熱くて、そして……愛おしい。
「あれ、社長は、ちゃんと食べたんですか? 早かったですね〜」
早速、テッドがこちらに戻ってきてくれた。
見ると、こちらも男性故かあれだけの量をもう食べ終わったようだ。やはり、義兄だけじゃなく、こういう男達は『早食い』になってしまうのだろうか?
だが葉月はそんなテッドが来て、顔を背けてしまった。
「……見ないで、テッド」
「え……。あ、はい……。では、先に大佐室に戻っていますね。『ごゆっくり』……」
テッドは葉月を見て一瞬、驚きの顔を見せたが。直ぐにどんな葉月でいるか悟ってくれ、そのまま立ち去ってくれる。
その時、葉月の頬には一筋の涙がこぼれていた。
まだ、心の中には『彼』がいる。
本当は誰にも見せてはいけない葉月だけの『真実』が、ほんの少しだけ顔を出してしまった瞬間……。
後輩のテッドは、それも良く知ってくれている。
・・・◇・◇・◇・・・
心が落ち着いて、いつもの『葉月』に戻り大佐室に戻る時、再び純一に対しての腹立たしさが復活。
「しまったわ。あれって兄様のペースに、はめられていたのかも!」
切ない涙を流した割には、あれは義兄の陰謀ではないかと思ってしまう義妹。
何故なら、義兄がロイのところに何故に来たのかという探りを入れる隙が、どこにもなかったからだ!
こういう『優しい』時の純一は、要注意! 義妹の気を逸らして、何かをしようとしてるのじゃないかと、『益々』疑わしい!!
もしそうならば、義妹のこのささやかな気持ちを弄んでくれてっと、葉月にとっては、ただごとじゃないのだっ。
そしてその『疑わしさ』は、益々『疑わしい』ことになる事が……。
大佐室に戻ると、ちょっと困惑顔のテッドがソファーに座っている男性に、厳かにお茶を出しているところだった。
「やあ、レイ。待っていたよ」
にこやかな笑顔で、葉月を待っていたのは『リッキー』だった。
彼が連隊長秘書官としてここに来る時は『大佐嬢』とか『お嬢さん』という口振りで来る。幼い時の愛称で彼が『レイ』と呼ぶ時は完全なるプライベートのはず……。それも、大佐室にそのまま訪ねてくるなんて滅多にないはずなのに?
「ど、どうしたの。リッキー?」
やはり純一と言い、リッキーと言い、葉月の胸騒ぎは当たっているのかと思う。
だがリッキーはいつも通り、にっこにこ顔のお兄さんだった。
しかし、逆に言えば。彼はどんな時も『にこにこ』と言えばいいのか。だから、その顔で彼はさらっと言った。
「どう。このお兄さんと、ちょっとした悪戯を楽しんでみないか?」
葉月は『なんのこと?』と、首を傾げた。
益々、にっこり笑顔のリッキーお兄さん。彼はそんなに楽しいことを見つけたのだろうか?
そんな彼が葉月に教えてくれたのは『華夜の会』という、社交サロンのことだった。
Update/2007.4.20