もう、限界。すぐに家に帰って、眠りたい……。
そんな衝動とマリアは戦っていた。
「もう少し、あと少し……。これで終わりなんだから……」
だけれど、慣れているはずの職場のデスク。今日に限って、どうしてか集中力が散漫する。
ざわざわとしている同僚達の忙しく働いているあらゆる音が、マリアの頭の中でざわついて、妙に触るのだ。
「マリア。外に出ても良いぞ」
それを察してくれたのか、チーフデスクにいるマーティンがデスクを離れる許可をくれた。
「そのチェックが終わったら、自宅で休んでいるブルースと交替だ。彼に連絡をして、マリアも半休とっていいぞ」
「有難うございます」
では、そうさせてもらおうと、マリアは最終チェックに入った書類を小脇に抱えて教官室を出た。
四日──。長くて、そして短かった。
自分が何をしていたのか覚えていないほどに、企業の名前と実績データーとにらめっこ。
やっと今回、第一次として訪問する企業を決める事が出来た。これから行くだろう第一次訪問だけ決めれば良い訳でもなく、その後の第二次、第三次と予定を立て、誰がその訪問に行くかなどの担当割り。大抵はマリアかブルース、時にはマーティンも行くだろうが、その手伝いについていくアシストの隊員を抜擢したりなんだり……。
小笠原には、澤村精機に宇佐美重工、そして彗星システムズと揃いも揃っている。これに対抗できる、そして手を組んでくれる好意的な米側企業を探して上に報告しなくてはならない。
今後どうなるか分からないが、それでも、あの天敵男が突き出してきた分は全て捌いた。
これで当面の訪問スケジュールも出来たし、企業の選り分けも出来た。
昨日の夕方。ブルースが先に捌き終わり、その夜にマリアも捌き終わった。
それから夜遅くに二人で教官室に落ち合い、マーティンを挟んで、記念すべき第一回訪問企業を決めた。
あとは、天敵男──もとい、ジャッジ中佐に提出する報告書を仕上げるだけ。これはマリアに任された。責任者はマーティンになるが、担当はマリアだからだ。
その間、ブルースは自宅で一休み。マリアは報告書を仕上げ、上司のマーティンに提出して、やっと一眠りの半日休暇を取れることに……。
しかし、『あと一踏ん張り』の報告書がなかなか仕上がらない。
書面は出来た。あとはチェック。その集中力が教官室では保てなかった。
上司の気遣いで外に出たマリアは、芝の中庭にやってきた。
今日も天気が良く、スコールを降らせそうな雲もまだない。勤務が始まったばかりの庭は、とても静かだった。
暫く、外の気候も景色も見えなかったと、マリアは溜息をつく。一点に集中すると、周りが見えなくなる性分であるのは自分自身で良く知っていて、久々にそれに陥ったと思った。それがこのように何かをやり遂げる為に適している場合もあるし、逆にそれが行き過ぎて周囲に迷惑をかけてしまう場合もある。
最初は理解してくれる人が少なかったので衝突も良くあったし敬遠もされた。しかし年月を重ね、周囲を少し見渡して瞬速ではなく、一時立ち止まって根気よく向かう事を覚えた頃、それがマリア=ブラウンだと認めて付き合ってくれる人々で溢れていた。
それもこれも……。
マリアは日射しに輝き始めた芝を見渡し、振り返る。
一人の男性しか頭に浮かばない。この仕事をここまでやり遂げられたのも全部、あの人のおかげだと分かっている。
とりあえずの目処がたって、ほっとしたのか。今すぐ会いたくなってしまう。彼が見えなくなるほどに突き進んでいて、おかしなことに一緒に住んでいるのに一度も彼を見る事もなかった。
意図していた訳じゃない。本当に部屋に籠もっていたのだ。出勤は朝遅かったり、逆に教官室で徹夜をして朝方自宅に帰ったり……。もしかすると、本当は彼がそこにいたのに、マリアの性分だと頭の中いっぱいで見えなかったのかもしれない。
あれ? なんかこれってあの人が集中している時にそっくりじゃない?
マリアは急に可笑しくなってきた。
一緒に住んで、仕事に集中している時の彼には冷たく切り捨てられる事もあるだろうと覚悟していたのに、それを自分もやっていたと……。
天敵同士なのに、よく意見が対立するのに、仕事に向かうスタイルの根本は、とても似ていると、初めて……彼との共通点を見つけたような気がした。
「はやく仕上げて、ぐっすり眠って……」
綺麗にお化粧をして、髪もきっちり結って、『ブラウン大尉』の顔をしっかり仕上げて、あの天敵中佐の所に行こう。
その後に、謝ろう。今度はちゃんと言おう。田舎に行けないと言った本当の理由を……。マリアはやっとそんな素直な気持ちにほぐれていた。
木陰にあるベンチを目にして、マリアはそこで最終チェックをすることに決めた。
風の音に、青草の香りが心地良い。人々のざわめきもないし、この中で一時集中すれば、すぐに終われるような気がしてきた。
マーティンが外へ行くよう進めてくれたのは正解だったようだ。
木陰の葉が風に揺れる音の中、マリアはやっと人心地ついた気持ちになって、書面のチェックをやっと終えた。
「終わったわーー!」
ベンチから立ち上がって、マリアは一人、風の中で叫んだ。
仕上げた書類を眺め、マリアは泣きたい気持ちになってくる。嬉しい方の泣きたい気持ち。
本当は、なにか実績が欲しかった。
今、マリアがこの仕事が出来るようになったのは、『単なるひらめき』だった計画を専門家の大御所工学大佐が気に入ってしまったという幸運があったから。
マイクはそんなマリアの事を、『君は閃きの天才。それも才能』と言ってくれる。でも、マリアにはやはりそれは『ラッキー』だったに過ぎない。つまり、『手応え』がないままだったのだ。その後も、自分の持っているものフルに使って頑張っては来たが、その中にも『ジャッジ中佐』と言う、やり手の将軍秘書官がバッグについているお陰でここまでこれたと言った方が良い。つまり、やはりマリアはまだ自分に納得していなかったのだ。
そして今回の、『これから大変な仕事』をジャッジ中佐が提案してくれた。彼が振ってくれたという幸運もまたあったかもしれない。でも……この後は、マリアの仕事だ。
その第一歩を踏む準備が出来た。
私だって……。
大佐嬢の葉月のように。
工学中佐の隼人のように。
御園中隊を副隊長として支えている元夫の達也のように。
そして、尊敬する中佐──マイク=ジャッジ中佐のように!
なにか『これぞブラウン』という実績を、マリアは待ち望んでいた。
これがまさにそれだと……。
これから始まることにマリアの胸が熱くなってくる。
もう、胸の中の熱い塊が、マリアの身体より先に走り出してしまいそう。
はち切れそうな胸の中で暴れている……。それがさっとマリアの胸から芝庭へとフライングをしそうだったので、マリアは『待て』と掴みたい気持ちで深呼吸をした。
大きく息を吸ったその時、この広い庭の向こう側に、男性が一人立っている。そしてこちらをじいっと見ている。
「マ、マイク……!」
書類バインダーに、分厚い資料を小脇に抱えている彼が、そこで立ったまま……。遠目に見ても、マリアをそこから見つめて微笑んでくれているのが分かった。
そして、小さく手を振ってくれている。
マリアはそのまま立ちつくす……。
何日ぶりだろう。彼を見たのは。
彼の事を忘れた訳ではなく、心の片隅に追いやって夢中になっていた。周りが見えなくなる性分。必死になると周りへの気配りが出来なくなる性分。だから、なるべくマイクには接しない方が良いと思ったのだ。
そして彼は見事に、マリアを切り離してそっとしてくれた。何日も……。一緒に住んでいるのに……。
彼はまだ微笑んでいるけれど、遠慮がちに振ってくれていた手を寂しそうに小さくすぼめてしまった。
それを見て、マリアは切なくて泣きたい気持ちに駆られた。
だから今度は自分から手を振った。彼と同じように小さく、遠慮がちに……。
「ひさしぶり……」
彼には聞こえないことなど分かっているけれどマリアは呟いていた。
そうしたら、それが聞こえたかのように、彼も口元で何かを呟きながら笑顔を見せてくれた。
だけれど──。今も、彼は遠くからマリアを見守っているだけで、近づいては来ない。
向こうの渡り廊下にいる彼。
広い庭の端にあるベンチにいるマリア。
二人はただ見つめ合っていた。
マリアは思う。
──これが、私とマイクの距離?
急にそう思った。
しかも、マイクがマリアの為に取ってくれている距離。
私の為に?
それとも、これが私がマイクに強制している距離?
二人はまだ、歩み寄っていない……。初めてそう思った。
向こうも動かないがマリアも動かなかった。
本当なら、『マイク、私、やったわよ! 出来たわよ!』と駆けていって飛びつきたいのに。それが出来ない。まだ、駄目……。
だけれど、この基地で一番忙しく動く男と言われているマイクが、そこにずっと立ちつくしてマリアだけを見つめてくれている。
ついに……マリアの足が一歩、マイクへと向かい始めたのだが、その時、マリアはハッとする。
遠くの渡り廊下で立ちつくしているマイクの側、白衣の一団が近づこうとしていた。眼鏡をかけた栗毛の女性が颯爽と先頭を行き、数人の白衣の青年達を引き連れている。
──イザベルだった。
マリアはその堂々としている女博士を目にして固まる。
もっと以前。彼女がこの基地を去る前。マイクが盛大に振られた時の彼女は、まだ髪が長くて、どこか頼りなげな、年齢の割には可愛らしい雰囲気を持っている女性だった。パーティでドレスアップした彼女はとても綺麗だったが、マリアはそれまで彼女の存在を気にした事もないほどに、質素な日々を送る『女性科学者』で目立たない人。
なのにその女性は今、古巣のフロリダ基地科学研究室に戻ってきたら、以前の室長だった登貴子を彷彿とさせる威厳を見せ、部下を引き連れて歩いている。
彼女がその堂々としたムードを漂わせ、マイクの側に差し掛かった。
声は聞こえないが、イザベルからマイクに声をかけ、そしてマイクも挨拶を交わしているようだったが、マリアの手前か戸惑っているように見える。その上、イザベルは後にくっついている部下達を先に行かせ、自分はマイクの側に留まったまま……。暫く、二人の会話が続いている?
分かっているけれど……。
マリアは目を背けてしまう。
忙しい中、偶然にマリアを見かけて足を止めてくれたマイク。手を振って微笑みかけてくれたマイク。マリアの事をちゃんと気に留めてくれている。久しぶりに目にした同居人を見つけて素通りなんかしない。
──愛されている。分かっている。
彼は『もう、恋人ということでもいいだろう』と言ってくれ、まだ答を曖昧にしているままだったのに、その返事も待たずに『愛している。両親に紹介したい』と誰も誘った事がないと言う田舎帰省をマリアに申し込んでくれた。それだけで充分、彼にとってマリアが何よりも必要だと言ってくれている気持ち、充分に通じた。
マリアも愛している。でも、まだ……それしか言えない。その先に『どうしても欲しい』と言える願望が『ない』。それをマイクに言わなくてはいけない時期に来てしまったのか。
噛み合わない。マリアが『まだこのままでいたい』という気持ちと、その先を君と行きたいと願っているマイクの願望と噛み合わない。
遠く向こうにいる『元恋人同士』。
いつの間にか、戸惑っていたマイクは別れた恋人、出世した元恋人と向き合って何か真剣に話し始めていた。
もしかすると、こんなふうに自分の我が儘な感覚に付き合わせて彼を疲れさせてしまうのなら……。何がいけなかったか何を失ってしまったのか互いに分かっている彼等がやり直した方が上手くいくのかもしれない……。
哀しいが、マリアはそれをふと頭に掠めてしまった。
それに彼女イザベルは、恋も結婚も上手くいかなかったけれど『キャリア』は手に入れたのだ。
彼女は胸を張って歩いている。そんな彼女が、……羨ましい。
堂々と、部下を引き連れて胸を張っている彼女が。
出来上がった書類を握りしめ、マリアは思った。
(私、まだ──なんにもない)
胸を張れるものがなんにもない。
自分が納得できる、自信が持てる何かが欲しい!
今はそれが一番、欲しい!
マイクと彼女はきっとそれをもう手にしている。
でもマリアは……。結婚は失敗した。その後の恋は臆病に距離を置いて彼に甘え、尚かつ彼からの申し込みも曖昧に濁して逃げてばかり。仕事だって……『ラッキーの連続』。
この仕事も、そう。自分が逃げる為に使った嘘だったのに、いつのまにか『大きなチャンス』になったのもマイクの後押しがあったから。恋を愛を申し込んでくれた彼に応えられないマリアを見て、『それならマリアはこれで頑張りたいのだろう』と投げかけてくれたからだ。
そう、マイクが。
出来上がった書類を小脇に抱え、マリアはベンチから歩き出す。
遠くの渡り廊下では、まだ二人が向き合って話している。
何を話しているのだろう?
でも、もう……いい。
今、自分がすべき事は『これだけ』。
これだけは逃げちゃいけない。
それでも、胸が痛い。
やっぱり、彼が深く愛した女性と向き合っているのを見ると、自信がなくなる。
だって、二人は別れたかもしれないけれど、それを犠牲にした後に互いに努力して地位とキャリアを確立させて成功している者同士──『対等』なんだもの。
マリアは唇を噛みしめ、芝庭を離れる。棟舎に入ろうとする時に、ふと肩越しに振り返ってみたが、まだ二人は話している──。
帰ってきた元恋人と向き合っている彼は、マリアがベンチから消えた事など気が付いていないようだった。
・・・◇・◇・◇・・・
「お疲れさま。ジャッジ中佐。如何されましたの? そんなところに立ち止まって──」
科学班の班員と、側を通りかかったイザベルと遭遇。
彼女は挨拶をしてくれ、『貴方達は行って』と部下達に先に行くように促すと、そのままマイクの前に留まってしまった。
部下を見送った彼女が、妙に意味深な笑みを浮かべて言う。
「また珍しいわね。貴方がこんなところでぼんやりと庭を眺めているだなんて……」
そう言いながら、イザベルはマイクが何を見つめて心を奪われていたのか確かめるかのようにその目線を追ってしまった。
マイクは顔を背けたが、遅かった。イザベルの目線の先には、マリアが……。
「あら。彼女がそこにいたの……」
別れた女である自分の時には、ここで立ち止まってもくれなかったマイクが、今は立ち止まって恋人を見つめていた──イザベルはそう感じたことだろう。
そんなところを、別れた恋人に目撃されてしまったのだ。もう耳も頬も熱くなる思い。
「嫌味ね。私の時には立ち止まってもくれなかったのに……」
「会っていないんだ。四日ほど、久しぶりに彼女を見かけたんだよ……」
元恋人にこんなところを目撃されてしまい、ちょっとバツが悪い。何故か言い分けてしまうよな言葉をマイクは吐いていた。
別に。そうでなくてもマリアがいたなら、立ち止まってあげたいとマイクは思っているのだが。でもそう思うようになったのも、先日、この別れた恋人が『基地にいる貴方は仕事だけ。他は見えていなかった。この私でさえ──』と言ってくれたせいもある。だからこそ、この四日間はよりいっそう、周りを見渡してマリアを探している自分がいた。そうしたらここで見つけた。
なのに、最悪にも『それを責めた元恋人』に、『反省し、今度はきちんと実行している姿』を見られてしまうとは……良いのか悪いのかという複雑な心境だった。
「同居しているのに、四日も会っていないってなんなのよ、それ」
「彼女は君と俺と同じで、没頭したら周りが見えなくてそこに集中する──と言えば、『近くにいても会えない』のはどうしてか解るだろう?」
さっさと理解して欲しくて、マイクは妙に荒立てた声をイザベルに突きつけてしまっていた。
でも、そんな男の様子などなんのその。イザベルは冷めた目つきでマイクをじいっと見返しているだけ。
「そうなの。じゃあ、部屋に籠もって食事もしたくなくなるタイプってわけ。意外ね。彼女、パワーはあるけれど、目先の事だけしか見えなくて一気に仕上げてしまう。だから出来上がったものは荒が目立つタイプかと思ったわ」
マイクは『う』と固まった。実は『若い頃、二十代のマリア』がそれだったからだ。
つまり、イザベルがここにいた時に見えていたマリアが全くその通りであったから、そのまま印象として残っていたのだろう。──にしても、よく見ているじゃないかと、イザベルの変わらぬ洞察力にマイクは感服だった。
だが、今のマリアは違う。マリアが『荒っぽいスタイル』だったのは、工科軍人として仕事に慣れるまでは、どうしてもそんなスタイルでしかこなせなかっただけのこと。元々、学生の頃から培ってきた『勉強をする』という点での集中力は揺るがないスタイルとして、マリアはきちんと備えていたのだから。それが年月を経るごとに、元々身に付いていたスタイルを勉学だけでなく、仕事や職場、社会で活かせるように成長することが出来たのだ。それが今のマリア。
きっと、今回の仕事では、キャリアを積み重ねたマリアの『今までの成果』が開花するはず。マイクは中佐としてもそう睨んでいた。
「彼女も、頑張っているんだよ」
「みたいね。工科のプロジェクトの噂、聞いたわよ。彼女が『夢』のようなことを言い出したら、マクティアン大佐が本気にして、日本の企業が腰を上げてしまったと──」
「そうなんだ。軍も動き始めているんでね。俺が『監視、監督役』を上から仰せつかっているもので──」
「そう。私もなにか思いついたら、貴方、協力してくれるかしら」
「勿論、画期的なら。中将に取り次ぐよ」
「取り次ぐ? 中将の権威はもちろん、貴方の上官であるブラウン中将のものなのでしょうけれど、実権の半分は秘書室長の貴方が握っているのも同然じゃない。貴方が良いと思えば、将軍も良いと思う。つまり、そういう『権威』を貴方は確立しているわ」
またそこ、突っ込んでくるかと、マイクは溜息をつく。
長年、中将室の秘書官を任されてきたせいか、部外者の隊員達が『ジャッジ中佐は影の実権者』と囁くようになったことを、小耳に挟むようになった。
それで先日もジョイが、『マイクの申し出なら、誰も断れない。将軍の依頼と一緒だから』と言い出した時に、『それを言うな』とたしなめてしまったのだ。
秘書室はあくまで『秘書』ではあるのだが、やはり将軍という象徴を守って行くには、そしてボスの権威を確立するには、やはり秘書達が『プラス、マイナス、メリット、デメリット』を選り分け判断し、そして『プラスとメリット』となるものは引き寄せて行く目を光らせねばならない。その目で見つけたのが、マリアのプロジェクトだったり、葉月の大型合同研修だったりするのだ。彼女達が実績を上げれば、そのまま将軍の実績ともなるのだ。だから、マイクはそれらを『これは良い』と思ったら手元に引き寄せ、協力し、そして失敗がないようフォローをし、中将のマイナスにならないよう監督する。そういうポジションに今いる。つまり、イザベルもそれを既に熟知しているから、マイクに協力を願っているということらしい。
「なにか、あるのかよ」
「今すぐではないけれど、あるわ。そういう意味でも、貴方とは仲良くしておきたいわね。この基地で一番信頼できる実力派の中佐だもの」
イザベルの目がにっこりと和らいだ。
だが、マイクはその彼女の微笑みに少しばかり怖れを抱く。
彼女がなにかを狙っている時、『それを勝ち得たい』と思っている時に見せる『挑む目』だと知っているからだ。
その目は、女性の目ではなく信念を持つ科学者の目だった。
「そうか。それなら一度、形になったら俺のところに企画を見せてくれ。それか連絡をくれたら、秘書官に取りに行かせるよ」
「そう。有難う……」
そこでイザベルがちょっと俯いた。
「……この前の事なのだけれど。忘れてね」
この前の事がなんのことか、マイクもすぐに察した。
誰にも言えないが……。切り捨てられるように逃げた恋人が、まだ貴方が一番だと言ってくれた事は本当は嬉しかった。あの時にざっくりと付けられた傷が、変な言い方かもしれないが、彼女のそんな愛の告白で、綺麗に治ったような感覚を覚えた。
でも、それだけだ。彼女の愛が戻ってきても、もう、マイクの胸はイザベルの為に再燃する事はなかった。
何故なら、その後の虚しさも寂しさも、そして痛さも苦しさも、存分に味わったからだ。それを思えば、あの頃のように君の為に熱く燃えた俺に戻れる──だなんて皆無だったのだ。
つまり、『忘れた』。初めてそう思えた時だった。
イザベル。彼女を恋しく想って、ぼんやりしていた彼女をなんとか振り向かせようと懸命だったあの日々も忘れない。気持ちが伝わって、肌と肌を合わせることができた夜の高揚感も今だって忘れない。どんなに仕事に没頭していても、それが終わったら一直線に君に会いに行った事も……忘れない。
全てがきっと、マイクの中では決して消えない、素晴らしい恋の想い出となるだろう。こう言ってはなんだが、もしマリアに『前の恋人の事は、全て忘れて欲しい』と言われても、きっと死ぬまで忘れることは出来ない想い出だと感じる事だろう。
だが、そこまで解っていて、敢えてイザベルに答える。
「ああ、あのこと。うん、忘れる」
そう言えば、今すぐ、イザベルもマイクへの未練を断ち切れるだろう。
そしてマリアも『マイクは忘れない』と思っても、マイクの『今もこれからもマリアだけだ』という気持ちを解ってくれるだろう。
想い出は、自分の中だけで大切にしまっておけばいい。彼女達にはもう関係のない、そしてこれからも関係のない、マイクだけのものだから。
そんなマイクの気持ちも、イザベルには通じたのか。
彼女は少しやるせない笑顔を見せた後は、いつもの食えない彼女の顔に戻っていた。
「すっきりしたわ。これからは、仕事でね」
「勿論」
「でも、一番のお友達になりたいっていうの……嘘じゃないのよ」
「俺だって。君の事は、信頼できる女性だと思っているよ。これからも、そうなれたらいいね」
それはこれから、二人で築いていくものになるのだろう。
彼女がそっと言う。『有難う』と。マイクも微笑み返した。
「あら。彼女、いなくなっているわよ」
そう言いだしたイザベルが見ている方向を見て、マイクはハッとした。
──しまった。最悪だ!
しかし既に遅し。マリアがいた木陰には、彼女が忽然と姿を消してしまったかのよに、誰もいないベンチが見えるだけ。
「あーらら。誤解されるかも」
イザベルが妙に疲れた溜息をこぼしたが、マイクは思わず彼女を睨んでしまった。
「あーらら。じゃないだろう!? 君が急に話しかけてくるから──」
「私のせいだって言うの? 貴方、私がここに帰ってきた事を彼女が知った時、ちゃんとフォローしたの?」
「し、したよ……」
フォローをしたのだが、まだ払拭できない不安が残っているのが正直なところと感じているマイク。
歯切れの悪い返答をした為、また敵わぬ元恋人に呆れた顔をされた。
「なにしているの。貴方って、ベッドは上手だったけれど、女心の扱いの方はもしかして本当に『下手くそ』なんじゃないの」
今現在、もの凄く気にしている事を別れた恋人にはっきりと言われ、大きな一撃を食らったマイクはそのまま放心状態に陥った。
その隙に、別れた彼女が容赦なく切り込んでくる。
「また『上手く距離を取って』とかやっているの? 私とあの子は違うのよ。それにあの子は今『先が怖い』のだって、教えてあげたでしょう。ちゃんとリードしてあげなさいよ」
大人しかったはずのイザベルがもの凄い切り口上で、ケンケンとマイクに向かってくる。
なんてことだろう。愛らしくも清楚で静かでぼんやりしていた彼女が……離婚して帰ってきたら『これ』??
「あの子が嫌がってもがっちりと捕まえて丸め込むぐらいの手際、出来ないの? 貴方、仕事では結構、危ないことを平気でやってのけているでしょうに」
「仕事と女性と向き合うのは勝手が違うだろ?」
「強引にやれってことよ」
「彼女は、あれでもデリケートなんだよ」
「ああ、じれったいわね。さっさとくっついてよ。目障りよ」
そこまで言い切るかと、マイクはイザベルの変貌におののいた。
そんなマイクを見て、イザベルがさらに大きな溜息をついた。
「なに。『おばさんになった』とか思った?」
「い、いや……。はっきりと言うようになったなあと……」
「言わなくてどうするのよ。言えないままに変な方向に行ってしまった自分自身の失敗を悔いているのよ。これからは言って、守って行かなくちゃいけないものが出来ましたからね。いつまでもあんな自分じゃ駄目だと思ったのよ」
そしてイザベルはマイクにたきつけてくる。
「貴方もよ。格好付けていないで、はっきり言ってやれば?」
なんか。ぐうの音も出ない。
格好付けずに、はっきり言う。
そこまで元恋人に気にしている事を言い当てられるかと。しかも、実行しているつもりなのに、その成果が一向に出ないという情けないところも見抜かれている。
『ドクター、会議に遅れますよ』
その声で二人の会話はピタリと止まる。
揃って振り返ると、先に行っていたはずの白衣の青年が一人、イザベルを呼ぶ為に戻ってきていた。
黒髪の、自分達より若い青年だった。
「サミー、すぐ行くわ」
イザベルが微笑みかけると、その若い青年が少し照れた顔。
「若いな。いいなあー」
「でしょ。今度は若い子にしようかなー。出会った頃の貴方を思い出すのよ、彼を見ていると」
そっか。あのぐらいの年齢だったか。イザベルを振り向かそうと必死だった……そういうことになりふり構わずに必死になれたのは……。マイクは急にそう思えてしまった。
その瞬間、マイクの中で何かが明確になった気がした。周りがさあっと明るくなったような……。
「貴方も、すぐに追いかけた方が良いのじゃない?」
マイクは空に向かって微笑んだ。
「いや。今は追いかけない」
だがマイクその笑顔を見て、別れた恋人も微笑みを空に向けてくれた。
「そうね。私の知った事じゃないわね」
今度は顔を見合わせ微笑み合う。
そして、別れてしまった恋人が白衣を翻し、マイクの元から去っていく。軽やかに手を振って──。
「頑張ってね、応援しているわよ」
「君も……」
『君もな』──。
そう言おうとした時には、もう……彼女の横には黒髪の青年がすかさず並び、彼女の関心を奪っていった。
顔は科学者の、室長の顔になったイザベル。でもその横には既に、熱烈な信者がいるようだった。
結構、まんざらでもないかも。
マイクは微笑んでいた。
・・・◇・◇・◇・・・
彼女から連絡があった。
『明日の朝、報告に伺います』と、工科教官室から、この秘書室へ内線で。
五日目の朝を迎えていた。
勤務が始まったばかりの秘書室は、妙にピンとした空気で充満している。
室長のマイクを筆頭としたその日一日を無駄なくこなす為のミーティングを終えたばかりで、数名の秘書官達は自分の担当である仕事の再確認に手配に精を出して集中している時間帯だ。
だが、マイクはなにもせずに、秘書室長のデスクで彼女を待ち構えている。
悠然と大きな回転椅子に座っているのだけれど、肘掛けに置いている手の先、指先が落ち着きなくこつこつと動くばかりに……。
やがて、ドアからノックの音。
──『失礼いたします』。
イアンがドアまで向かい、訪ねてきた者を迎え入れる。
マリアだった。彼女がやってきた。
「おはよう。待っていたよ」
「おはようございます。五日も、お待たせ致しました」
中佐席までやってきたマリアが敬礼をする。
その姿も、いつも通りに凛としていた。
化粧も綺麗にしている。長い髪もきっちりと結い上げて髪留めでまとめている。いつものブラウン大尉だった。
ただ、やはり少し……やつれたか。
マイクはちょっとばかり、切ない想い。
彼女の小さな嘘を本当にしてやるなら、プラスになるようにと、大きな課題を突きつけてしまった。でも、彼女マリアは──。マイクの『恋人になろう』とか『田舎に行って両親に会ってくれ』と言う申し込みよりも、こちらの無理難題とも言える大仕事の方へといとも容易く取り組んでしまったのだ。
しかし、それが彼女が望む事ならとマイクは応援していくつもりだ。
「では、早速、見せてもらおうか」
手を差し出すと、流石のマリアも緊張した面もちで数冊の書類を手渡してくれる。
「ジョイ。後チェック頼む」
「かしこまりました」
あの教官室が一丸となって、マリアのこの仕事の後押しをしたことだろう。
その成果が詰まった書類冊子をマイクは広げた。一通り眺め、マイクはそれをジョイに回す。ジョイも違う目で眺めてチェックをしてくれる。
だが……。ページをめくる手が徐々に震え始めてきた。
マイクの胸に、とてつもない熱の塊が襲ってきたかのような、驚きからだった。
ジョイも時々、マイクを窺っている。きっと、彼も驚いたのだろう。
予想以上の出来だった。
今回の訪問先さえ決まれば、『取り敢えず、着手するための計画』が提出されれば上々だと思った。
(これは、あの工学科教官室が本気だと言う事か!)
マリア一人では決してここまでは……。
いや、分かっていたはず。上司のマーティンが全面的バックアップをしてくれていたことも。
だが、ここにはマリアを後押しするだけじゃない、マーティンやその他の工学科員の『これからここまでやってみたい』という願望の塊がそこに込められていると感じた。つまりは、そういう成果が見えたのだ。
だからジョイも驚いたのだろう。ジョイが調べた以上の、さらに事細かい情報も追加されている。そして第二回、第三回の訪問がすぐに実行できるように、スケジュールも全て組み終わっていた。
これからマイクが徐々に指導してスピードをあげてもらおうと思っていた全てが……工科員の手で既に構築されていたのだ。
最後まで見終わって、マイクは静かに立ち上がった。
「お疲れさま。ブラウン大尉」
神妙な面もちで、ジャッジ中佐の反応に固唾を呑んでいたマリアにマイクは微笑みかけた。
「あの……不都合はありませんでしたか。出過ぎたところや、やってはいけない計画がありましたら……」
自信なさそうに問うマリアに、マイクは答える。
「ない。今のところは、だが。でも素晴らしい出来だ」
「……本当ですか?」
何事も手厳しく、彼女を仕事で褒めた事など一度もない。だからマリアが半信半疑で聞き返してきた。
「良くできている。俺がやって欲しいと思った事、そちらで全て網羅してくれている。完璧だ」
本当にそう思った。
ジョイもまだ真剣な顔で、最後の書類を眺めているが、彼も絶句しているようだった。
『嘘』への『大きなお返しの嘘』だったのに、これではもうどうしようもない『本物』になってしまっていた。
なんてことだろう。
彼女がここまで飛躍するとは予想外だった。
本当に彼女は『予想外の女』だ。
あんなに、周りが見えなくなって周りを巻き込んで、自分が思う事だけをストレートに突き進んできた荒っぽい彼女が。
仕事ではまだまだ先輩がついていないと危なっかしいばかりだった彼女が。
そんな彼女を見てきたマイクにとっては、マリアはまだ仕事でも『女の子』だった。どんなに才女と言われても、まだ落ち着きのない、判断力がない、危うい発展途上の……。
でも、もう……そうではなくなったと思った。
これからこのブラウン大尉なしではあの工科の発展はないのではないか。そうすら思えてきたほどだ。
彼女ならやるだろう。それだけの情熱も資質も才能もある。
初めて、マイクは確立した女性としてマリアに惚れたと思ったような気さえした。
その時。マイクの中で、まだ理知的に計画していたことがガラガラと崩れていく音がする。
昨日芝庭で彼女を見失った後も、イザベルに『追いかけないのか』と問われても、マイクはある事を思い描いて『今は追いかけない』と答えた。
だが、それすらも。まだまだ甘い決断だったのではないかと思わされる。
「あの、ジャッジ中佐」
そんなことを考えていたマイクに、マリアが感極まった顔で話しかけてきて我に返る。
「なんだい」
「有難うございます。こんな私に大きなチャンスを、そしてステップになる課題を与えてくださって。感謝しています」
それは君ならやると思ったからだよ──。
そう言いたいのに、いつもの偉そうな中佐の顔で言いたいのに、どうしてか今日はなにも言葉が出てこなかった。
その変わりに、マイクはただひたすらマリアを見つめていた。
彼女の満ち足りた顔。やり遂げたという自信と、これからさらにこれを実現していくんだという情熱。
マリアがマリア自身で掴んだだろう光の中で、頬を高揚させて煌めき始めている姿に、マイクは目を奪われるだけ……。
「マリア」
「は、はい……」
この部屋では『ブラウン大尉』と呼ぶべきところ。──なのにと、向かっている彼女も少し怪訝そうな顔。だが、彼女はまだ部下としての姿勢を保って返事をしてくれる。
だが、マイクはもう一度、彼女を呼んだ。
「マリア」
「……はい」
「惚れ直したよ」
そう呟いたマイクを見るマリアのぎょっとした顔。
それと同時に、マイクの周りで仕事をしていた秘書官達の手が一斉に止まってしまったようだ。
だがマイクはそのまま続けた。
「マリア。聞いてくれ」
「あの、ちゅ、ちゅうさ?」
マイクの様子がいつもと違って中佐として変であることに、マリアもジョイも、そしてマイクの後輩に部下も気が付いたようだ。
それでも構わずに、マイクは席を離れ、マリアの目の前へと歩み寄る。そして彼女の正面に向かって言い放つ。
「マリア。俺と結婚してくれないか」
彼女の手を握りしめ、マイクは真顔で申し込む。
秘書官達がぎょっとした顔を次々に揃え、こちらに向けている。
そして驚きのあまりに唖然としているマリアは、ただマイクをぽかんと見つめているだけ。
それでもマイクはマリアの手を握りしめて、繰り返す。
「君には降参だよ。ずっとこのまま傍にいてくれないか。俺と結婚してくれ」
朝一番の、忙しくもピンとした秘書室の空気がぴたっと静止し澄んだような瞬間。
その中、マイクだけが動く。
「マリア、本気なんだ」
まだ大尉の顔で固まっているマリアを、部下達の目の前でマイクは堂々と抱きしめた。
マイク=ジャッジ中佐。ポーカーフェイスのクールな鬼であるはずの秘書室で、ついに大崩壊。
Update/2008.2.18