あの男。いったいなんなの!
当然、『マリア様』はご立腹中。
ジョイがまとめたとか言うレジュメを握りしめ、ずんずんと工学科棟へと突き進む。
だけれど、かあっと頭に血が上ったのは一瞬。そんなマリアに直ぐに襲ってきたのは、腰から力が抜けそうなほどの悲しみ。
近くの壁に寄りかかって、マリアは一人項垂れた。
「やっぱり、怒っていたんじゃない……」
涙が出てきた。
直ぐにばれてしまうあんな『嘘』。だからこそ、彼も直ぐに察して聞き流してくれると思ったけれど甘えていたと、マリアは後悔していた。
やはり『嘘』は使うべきではなかった。真っ正面から向かっていく自分らしくない……。
でも、あの『嘘』をつかなかったら、どう断れば良かったのか。まだ田舎に付き合いたくない理由を正直に言う事は……。
──怖い。もうあんな重苦しいすれ違いはしたくない。
『離婚』は当人の夫妻だけじゃなく、互いの家族を傷つける。
マリアは、達也の家族を避けてきた。達也と結婚する時、お互いの勢いがすごかったので、どうもヤマナシにあるという海野の実家は反対していると聞かされた。
当然、マリアの両親も『落ち着いて、急がず、もう少しお付き合いをしてから』と言った。両親は明らかに『達也が本当に愛しているのはお前じゃない』と言いたそうだった。それがどういうことか、あからさまに言えない父と母。だが、父だけは……『達也はまだ葉月を愛していると思う。それでもいいのか』と一度だけ釘を刺してきた。
しかし若いマリアは、『彼女との事はもう終わっている。私達はこれから。きっと上手くいく』と信じていたのだ。
つまり。いつもの如く、『こう思ったら突き進め』。その勢いで達也と結婚しようとしていたから、ヤマナシにいる海野の義父が『ここで慎重になるために、今一度考えて欲しい』という思いから、わざと猛反対をしていたのだと今なら分かる。
そして二人は破綻した。マリアの両親の、言葉なき落胆。そして結局、会う事もなく許される事もなかったヤマナシにいる海野の義父を哀しませてしまったのだ。
だからこそ、『家族』に会うということは、もっと慎重にしたい。そう思った。
マリアが慎重になっているのは、それだけじゃない。
夫に対しての理解力があまりにも稚拙で不足していた自分も悪かったが、でも、本当に達也の事を愛していた。
愛していたという程度でなかったと言うなら、『大好きだった』だ。今だって大好きだ。達也は自分と同じで真っ直ぐで熱血で、意見が合えばこれほど自分にピッタリの人はいないと。ただ……意見が合わなかった場合の回避するスキルも経験値も無さ過ぎたし、そこを二人で乗り越える事は出来なかった。
では、今度はそこを上手く乗り越えられるはずだと言い聞かせればいいじゃないかと自分でも思う。
でも、駄目なのだ。特にマイクとは良く意見が対立する『天敵』だ。あまりにも立ち向かいすぎると、直ぐに破綻してしまうのではないかとマリアはいつだって慎重になって彼を窺っている。その慎重になれるようになった事を『大人の分別がついた』と思っていた。
でも違う。彼を窺っているのは『意見が対立して引けなくなる性分』で彼を傷つけるのが怖いからだ。
だから、初めて──『嘘』という回避法を取ってしまった。
その結果がこれ。
と思ったマリアの胸の中、次第に炎がごうごうと巻き起こる。
壁にもたれて俯くマリアは、握りしめている書類をもう一度広げてみる。
それがなに? 『可愛い嘘』のお返しが、この『大仕事』?
こんなこと、一教官の私ができるわけないでしょ!!!!!
無理難題をさも当たり前のように突きつけてきたということは、これが彼の『お返しの嘘』!?
出来るわけないとマリアが泣きついて、『あれは嘘だったの〜』と白状させれるための作戦??
今頃、ジョイまで手伝わせて『いかにもそれらしく指令した仕事』をマリアが真顔で受け取っていったのを、二人で指さして笑っている!?
「ゆ、許せないっ!」
どんなにマリアが『嘘』をついたと言っても、あの仕事には鬼のジャッジ中佐が職場でやること!?
本当にそうならば、マリアとしては『幻滅』!
あの天敵め!!!
もたれていた壁に向かって、マリアは握りしめている書類をバシバシと叩きつける。
悔しい思いを気が済むまでぶつけた。
……だが、やがて。マリアの中で炎が消えていく。
腕で壁を叩く力が萎え、またがっくりと身体中の力が抜ける。そして、涙。胸の中には『情けなさ』が広がってくる。
「私が悪かったわ……。マイク、ごめんなさい」
一人きりの廊下で、マリアは涙を拭った。
握りしめてしまった書類を、マリアはもう一度眺める。
仕返しのお仕事命令。
表紙の皺をのばし、マリアはもう一度、めくってみた。
ジョイが提供してくれた資料。そこには本当に彼が調べたとしか思えないデーターに、企業のリスト。
「これが嘘なら、ジョイも馬鹿ね」
そして、マイクが『嘘』で提案してくれたことは……。
「小笠原のミーティングで、私が提案しようとしていたことに似ているじゃない……」
マリアが尊敬する中佐は流石。
部下のマリアがやろうとしていることを、もうちゃんと見据えていたのだと思った。
あながち嘘でもないかもしれない。そう思う。嘘で出てきたのだとしても、ある程度、仕事らしくするなら……と、マイクが真っ先に思いついたのがこの仕事だったのかもしれない。
嘘か、本気か。
マリアは再び、書類を握りしめる。
「やってやろうじゃないの! 見ていなさいよ。天敵ジャッジ中佐の『仕返し』、何倍にもして返してやるわ!」
泣きつくものか。結果は駄目でも『この仕事を投げ出さなかったのだ』と、やり返してやる!
息巻いて、マリアは工学科へと突き進む。
突撃女の本気を見せてやろうじゃないかと。
・・・◇・◇・◇・・・
ところが。直属の上司であるロジャー=マーティン少佐に報告すると、意外な反応。
握りつぶしてしまったレジュメを手渡すと、彼はそれを開いて暫く眺めこう言った。
「そうか。ジャッジ中佐もそろそろと考えてくれていたか。丁度良い。御園工学中佐から打診があったミーティングには、これを提案しようとしていたのだから。すぐに取り組もう」
あれ? 急に大仕事を振られたと驚かないの?
そう思ったが、マーティンは真顔でマリアにその書類を返してきた。
「ご指名のようだから、マリアにやってもらおうか。フォローはするから、日程割りに担当割りをしてくれ」
「……あの。ご指名かもしれませんが、本当にわたくしでも??」
これ、マイクの仕返しなんだけれど?
こんな大仕事を工科の一女教官に貴方まで任せてみようというご判断?
マリアはなんだか腑に落ちない。
まさか。この直属の上司までマイクの息がかかっていて? 大がかりな『マリアへの仕返し』をしていると?
今のマリアはどうあっても、そこまで勘ぐってしまう。
だが、目の前の上司が急に厳しい目つきで立ち上がった。
「誰がやっても一緒だ。それとも? ブラウン大尉。まだ新人気分で『私には出来ない』というなら、そこそこ仕事が出来るようになった二、三年がキャリアの工員にさせるがね」
まあ、厳しいお言葉とマリアはおののいたが、受け取れなかった秘書室からの書類を、マリアの胸に突き返すマーティンは真剣だった。
『若い者にさせても良い』だなんて彼は突き返してきたが、どう見ても、まだ新人上がりの隊員に出来るような規模じゃない。しかしマーティンが言いたいのは、そこに大袈裟な喩えを置きたい程に今のマリアでも頑張ってやれば出来る……、キャリアのない隊員が上を目指して頑張るぐらいの根性でやれという判断らしい。
男達の手厳しい判断。
マリアはついに腹をくくる。
「わかりました。やらせていただきます」
「といっても、規模が大きすぎる。ブルースをパートナーにつけよう。ブルースいいな」
マリアと向かい合うデスクにいる先輩ブルースがちょっと嫌そうな顔をしたのだが。
「ちぇ。ジャッジ中佐の仕事なら、それはやってみたいのが本心。仕方がないな。でもな『アシスト』じゃなくて『パートナー』だからな」
「分かっているわ」
先輩だという威厳は決してなくさないとばかりの念押しも毎度の事。
それに今となっては、この先輩が突撃女マリアのストッパーの役割を買って出てくれている。上司マーティンはそれを良く知っているというわけだった。
「それからマリア。御園中佐と話していたというプロジェクトメンバーとのミーティング、実現しそうなのか?」
マリアはどっきりと固まる。
マイクに断る為に『感謝祭頃に日本に行く』なんていう無理なスケジュールを立て、既にそれを隼人に打診していた。
当然、アメリカ人の部下を沢山抱えている隼人も『どうしてこの時期なんだ。もう一度、よく考えてみてくれないか』と訝る、渋い返事がきたばかり。
まあ、隼人にこのように不思議がられるのは承知の上のスケジュールだったわけだが、これが上手く通れば、嘘が本当になると思って、小笠原の隼人にまたもや突撃してみたのだ。その結果、この大仕事を振られることになってしまったのだが……。
「ミーティングは実現すると思いますが……。直ぐに実現させたい為に、つい、来月には実現できるような無茶なスケジュールを御園中佐に提案してみたのですが……」
「それでいい。このプロジェクトはフロリダ側から発したのに、今はマクティアン大佐が先頭に立ち始め、さらに御園中佐が工学科に異動してから、小笠原で活発化してしまった。これではフロリダはアシストのアクセサリー状態にさせられる。そのうちにこちらでもパイロットを使ってテスト機を動かす事が必要になる。これから日本の協力企業と連携できる好意的な企業を探さなくてはならない時期に来ていると思う。この企業協力の話もその為にジャッジ中佐が急げと言い出したのではないかな?」
「で、では……」
上司の胸中、心積もりに、マリアの胸が震え始める。
これは予想外の展開だ。
まさか……。自分と同じ事を考えている人間がいたのかと、マリアは恐る恐るマーティンに尋ねる。
「では、感謝祭頃のスケジュールでも、少佐は構わないと?」
彼がちょっと困った顔で固まる。
それは向かい席にいる先輩ブルースも。
やはりどこの家族も、それなりの予定が感謝祭にはあるはずだ。
特にマーティンは、昨年、結婚したばかり。しかもマリアの古い事務系の友人と。あの工学科の溜まり場であるバーに彼女を連れて行ったのがキッカケで、二人はあっと言う間に結婚をしたのだ。その新婚時期の、感謝祭を過ごせなくなっても……?
だが、マーティン少佐は言い切った。
「構わない。今年は俺も無理押しをしてでも、遅れは取りたくないと思っていた所なんだ」
そのゴーサインを耳にして、マリアも言い放つ。
「それなら、私を行かせてください! 感謝祭でもクリスマスでも、日本のニューイヤー『正月』になっても、小笠原に突撃します!!!」
そう叫んだが、流石にマーティンもブルースも唖然とした顔で呆けていた。
「そうと決まれば、『思い立ったが吉日』! 日本ではそう言うのだそうですよ。少佐」
「落ち着け、マリア。日本のニューイヤーはやめておけ。御園中佐に迷惑をかけるのは、もう勘弁してくれ」
マーティンが苦笑いで、今にも自分にも突っ込んできそうに胸を突きだしているマリアを手で制して止めようとした。
マリアも『例えばに決まっているじゃないですか』と付け加えたが、ブルースは『お前はやりかなねない』と、もうストッパー鬼の角が出てきそうな怖い顔だったので、マリアは引っ込んだ。
「ですが、今から直ぐならこの時期しかありません。感謝祭を超えては今度は日本側の予定を考慮しなくてはいけない時期になり、年を越えると言う事になります。そうなると、一ヶ月半ほどのロス」
「そこだな。だから、まあ、いいだろう。それなら御園中佐との交渉はマリアに任すことにしよう。ミーティングが実現するなら、それに合わせて第一次の企業訪問も実現できるように、そして、小笠原に提案しよう」
どうしたことか、マリアの嘘の仕事がマイクの仕返しの仕事が、動き始めてしまった。
だが、マリアは本気だった。そして心強い上司と先輩が一緒に動いてくれる事になったら、これも乗り越えられるような気持ちになってくる。
ブルースが直ぐに席を立った。
「マリア。隣のミーティング室で、大まかな手順を話そうか」
「そうね」
「その資料。俺にも見せてくれ」
数年前は、この先輩にも疎まれていた。
だが、彼も小笠原の大佐嬢の大計画に引き込まれ、マリアと共に密着した仕事をするようになってからは、後輩であるマリアにも大きな信頼を置いてくれるようになった。もっと言えば、あれからのマリアが職場で成長したというなら、この口悪くも手厳しい先輩が密かな先輩愛を隠し味にして、上手くリードをしてきてくれたからだと思っている。
栗毛のブルースと、教官室を出て、壁一枚隣のミーティング室に入る。
二人きりになると、彼が言った。
「ジャッジ中佐、上手く後押ししてくれたな。ロジャー、急いでいるだろ。実は今の室長が、そろそろ退官で、ロジャーが次期室長候補に挙がっているんだ」
「それ、本当に!」
マリアは驚く。ロジャー=マーティンとも一頃、男と女という間柄でごたごたしたことはあったが、そのアクシデントを上手く消化した後は、こちらも良き上司。
マリアには甘くなく、そして、決して見捨てず。ブルースという先輩と共に上手にリードしてくれた。それはマリアだけじゃない。彼はリーダーシップがある。この教官室では皆に信頼されている少佐だった。
今はマリアの班だけじゃなく、他のいくつかの班の責任者。マリアと同世代で若いが、その指導力は徐々に評価されている。
「いいか。ここで俺とお前がうまく成果をあげれば、ロジャーの評価に繋がる。俺、あいつとは長年一緒にやってきたから、絶対に上に行って欲しいんだ」
ブルースとロジャーは親友。彼はロジャー=マーティンの片腕として彼を支えてきた。そうすることで自分の評価があがると信じているのだ。
しかしそれはマリアも一緒だ。
「室長になれば、中佐昇進間違いなしね」
「だろ。そうなれば、小笠原の大佐嬢と手を組んでいる大型合同研修でも動きやすくなる」
「後に続く訳ね」
そこで二人は頷き合う。
「俺も小笠原に行く」
「分かったわ」
「後がないと思って、絶対にやり遂げるぞ」
マリアも神妙に強く頷く。
二人は教官室でもそうしているように、向かい合って座り、ジョイが作った資料を広げた。
「俺が半分、下調べする。マリアも半分、四日間ぐらいで片づけて、最終ピックアップをしよう」
「そうね。ジャッジ中佐への報告は五日後を目処に……」
膨大な作業が始まってしまった。
マリアの中で『嘘だったのに』という思いは、ついに消えてしまった。
そしてマリアは思い出す。『俺を信じて欲しい』と言って、愛してくれた一晩……。
もしかすると、これは彼がくれた『チャンス』なのかもしれないとも思った。
・・・◇・◇・◇・・・
天敵マリア様は、どうしたことだろうか。
この日もマイクは空が暗くなってから自宅に戻った。
何度かやってくれてせいか、ここ二日、マリアが『おかえりの一杯』を持ってきてくれる。
この日もそれを楽しみにしてマイクは帰宅した。
「おかえりなさい。お疲れさまだったね」
しかしこの日、珈琲を持ってきてくれたのは『今まで通り』にハウスキーパーのベッキーだった。
つい、一瞬……彼女を呆けて見上げてしまう。
「悪かったね。マリアじゃなくて」
「いや、そうではなくて……」
「そうだって言っているよ。嬉しかったんだねえ、マリアが『おかえり』と声をかけてくれる挨拶と、可愛らしく持ってきてくれる珈琲が。それ、嬉しかったとちゃんと言っておき!」
説教めいたベッキーの言い方に、マイクはたじろぐばかり。
彼女は御園家の時分から、親子で二代、この家の家事を担ってきた。それだけに、マイクが田舎から出てきた頃から良く知ってくれている、いわば『昔馴染みのおばちゃん』と言った方が良い。その馴染みのおばちゃんには、基地でのポーカーフェイスで誤魔化す事など皆無。もしそれをやろうとしても『なに偉そうな顔をしているんだよ』と彼女には部下も恐れる真顔は通用する事はないだろう。
いつだって十五で南国フロリダにやってきた『僕』と、それを見守ってきた『おばさん』なのだ。
そのベッキーが不機嫌な声で言った。
「もう嫌だからね。立派になったアンタが、大泣きする顔なんて見たくないよ。今度はしっかり捕まえてくれよ。失敗したらこの家のお手伝いこないからね」
それ、凄い脅迫だなーと、マイクはおののいた。彼女以外のハウスキーパーなんて全く考えられない。特に食事の面では既に彼女は『お袋の味』を持っているに等しい人だ。やめられたら困る。
それだけにベッキーも、ここのところ、マリアとの間に波風が立っていることが不安のようだった。
「大丈夫だよ。まあ、暫くは落ち着かないかもしれないけれど」
マイクは割と悠々と構えていた。
彼女の嘘を本当にしてしまおうと逆手に取った作戦で、臨んでいるわけだが、どちらに転んでも上手くいくと思っていた。
しかしどうせ転ぶなら、マリアのプラスになって欲しいと願っている。そして信じていた。マリアなら、あのパワーを取り戻して元気いっぱいに動き始めるだろうと。
マイクとの愛に揺れてしぼむばかりのマリアになってしまうというならば……。マイクという男に全てをかけるのではなく、仕事でも良い──そこに賭けて、マリアらしくいて欲しい。
なにせあの台風娘である小笠原大佐嬢が『彼女のパワーを借りたい』と言っているほどに、太鼓判をもらっている『突撃娘』。やってくれるはずだ。
しかしベッキーはまだ怒っている。
「だといいけれどね。あたしゃ、知らないよ!」
そんなに怒らなくても……と、マイクは思った。
こちらもいつもの彼女ではないような気がしたのだが、ベッキーはプリプリと苛立っている様子でキッチンへと行ってしまった。
珈琲を飲み終わったマイクは、部屋に戻ろうと差し掛かった階段を見上げた。
きっとまた、夕食までの時間、調べものに没頭しているだろうと……。
もしかすると、今日、差し向けた仕事に手を付け始めたのではないかと……。
さて、彼女がどんな顔で夕食の席に現れる事か──。
どんな報告をしてくれるのか。教官室ではどんな反応だったのか。どんな話が聞けるだろうかと、マイクの胸は、密かな期待で沸き立つ。
しかし、そんなマイクの予想は『呑気だった』と思い知らされる事になる。
着替えて、毎日の食卓の座に着くと、ベッキーが溜息をつきながら、マイクの席にだけ食事を用意してくれた。
いつも向かいに座るマリアの席には、なにも、ない──。
「マリアは?」
その問いに、ベッキーは先ほどの不機嫌さも払拭されないままに、マイクを睨んでいた。
「まさか……」
マイクに、『マリアらしい』予感が過ぎった。
そしてベッキーの表情が、不安そうに崩れた。
「なんか大きな仕事を任せたんだって? 暫くは食事も面倒だから簡単なものを部屋に運んでくれと言われたよ。当分はアンタとは食事は取らないと……。でも、それは悪く思って避けている訳じゃないと伝えて欲しいと。家に帰るなりパソコンに向かい合ったり、どこかに電話をかけてばかりで、ちっとも動かないんだよ。何か必要かと話しかけても、無視されたりしてね」
本当に、マイクの予想などことごとく覆してくれる女の子! マイクはその徹底振りに絶句した。
そこまで追い込んだつもりはないが、確かに……自分が振った仕事はそれほどの意気込みを要するものだ。
つまり──。マリアの上司であるマーティンも本腰で動き始めたということをマイクは感じ取った。
(そうか。彼等も感じ取っていたか……)
まだ彼等も動くつもりはないかと思っていたが、それはマイクが侮っていたようだ。
ということは、マリアが一生懸命に彼等を動かそうと働きかけなくても、すっと教官室ごと動き始めたのだと思った。
それは期待以上の嬉しきものでもあり……。逆に……。
「ベッキー、彼女の言うとおりにしてやってくれ。頂きます」
突き放したのは自分だ。
『嘘』に対して、もっともらしい『嘘』で仕返しをしつつも、マリア様のパワーで『本物』になってしまえばそれは彼女のプラスになる。
そんな仕掛けをしたのはマイクの方だ。
田舎の両親に紹介をして、彼女と甘い休日を過ごしたかった。だが、マイクは彼女を社会の荒波に放り投げてしまったのだ。そして彼女が泳ぎ始めてしまった。
目の前にいるはずの、金色の彼女がいない。
この家に来て初めて、一人きりの食事をする。
おかしいな。以前は、恋人がいても一人きりの食事に疑問など持たなかった。
こんなに寂しいものだったとは……。
マイクは思い知らされながら、スープを口に運んだ。
「マイク。あの子の仕事は当分続くのかい? あの子の仕事をしている姿勢を見ていると、どう見ても集中しすぎて根を詰めるタイプのような気がしてね」
「そのとおりだよ。ベッキー。彼女は突き進みだしたら止まらないタイプだ」
「今日は帰るけれど、明日からはここに泊まってもいいかい? 夜食とかちょっとした隙にちゃんと食事が出来るように、お世話してあげたいんだよ」
この家を見守ってきたキーパーの、プロ意識。
マイクは当然、了解した。というより、こちらからお願いしたいぐらいだ。
「ベッキーの泊まり部屋はそのままにしてあるから、今まで通りに使って良いよ。悪いけれど、よろしく頼む」
心強い見守り役がいてくれて、マイクは幾分かほっとした。
その日の夜も、マイクがいつも通りに夜遅くまで仕事をしていても、マリアも部屋から出てくる様子はなかった。
ベッキーが帰る前に、夜食や飲み物を差し入れていたから大丈夫だと思うが……。
しかし翌朝も、マイクはマリアの姿を見る事が出来なかった。
朝早くこの家にやってくるベッキーが、出勤時間が迫ってきても姿を見せないマリアを案じて起こしに部屋へと行ってくれたのだが……。
「どうだった? ベッキー」
待ち構えていたマイクに、ベッキーは溜息をつきながら報告してくれる。
「今日は十時頃の出勤で構わないんだと。上司からお許しが出ているし、当分は不規則な出勤態勢になるから、後で決まったスケジュールを教えてくれるってさ。それまで寝かしてくれと──」
なんと。マーティンの許可付の変則勤務態勢になっているとは!
(これはマーティンもかなり本気になったと言う事か)
これもマイクには予想外だ。
やると決めても、そこまでやるか?
何を急いでいる?
自分で振っておいてなんだが、あの教官室で何が起こったのかとマイクは逆に不安に駆られた。
しかもあのマリアがいつにない根の詰めよう……。
「わかった。ベッキー、時間になったらマリアを起こして、ちゃんと送り出してくれ」
ベッキーがいることで、ひとまず安心をして、マイクは出かける。
しかし、この状態が四日続いた。
その間、一緒に住んでいるにもかかわらず、マイクはマリアの姿を一度も見る事はなかった。
部屋に確かにいるのに、気配があるのに……。
Update/2008.2.13