「離婚した、と?」
「ええ、そうよ」
離婚したと告げながらも、イザベルは笑顔。妙に晴れ晴れしい表情。
当時、マイクが愛した長い栗毛のフランス人形のような姿ではなくなっていた。白衣を羽織っているのは同じだが、今まで以上にその科学者たる雰囲気がしっくりと収まっている落ち着いた中年女性。髪を短くし、出会った頃のようになんともこざっぱりとしたノーメイクの彼女。
数年前、別れた恋人。
彼女はマイクが傍にいる生活にピリオドを打つかのようにして、ロスアンジェルスの研究所へとこの基地を出ていった。
相手の男性は、ロスにある軍契約会社の社員で、このフロリダ基地に出張に来ていた際、イザベルと出会って彼女をマイクからさらっていった……。
その時、最愛の彼女は言った。
マイクだと背伸びをしすぎて、愛しているのに疲れてしまう。でも、彼は傍にいてとても安らぎ自分らしくいられると。
それが彼女が選んだ幸せではなかったのか。
──『私は死ぬまでマイクを愛するわ』
最悪の大失恋の夜。
彼女が残した言葉をマイクは直ぐに思い浮かべていた。
それに対して、マイク自身が叫んだのは。
──『同じように君を愛し続けるって事を。君は俺を選ばなかったけど、君が泣いて助けを必要としていたら何処にだってすっ飛んでいくよ!』
彼女に捨てられても尚、彼女への愛はよりいっそう強く噛みしめたというのに。
だからマイクは、突然に再会してしまった『元、最愛の恋人』を目の前にして、小さな溜息を落とした。
「それで。この基地に戻ってきたとして、俺にはなんの用かな」
もうマイクの中では、イザベルに関する何もかもは終わっている。
あれだけ未練が根強く残っていた哀しい日々も、いつしか薄れ、今に至っている。
今更、掘り起こされても困るし、もっと言えば、触られてもはね除けるぐらいの自信がある。
そんな時、マイクの頭の中には『マリア守護神様』が輝いている──のだ。
今は彼女が一番だ。
そう言い聞かせ、冷たい目線を元の恋人に注いだ。
でも、彼女イザベルは相変わらず。このマイクには余裕の笑みを浮かべ、それどころか今にも大笑いしたいところを堪えたかのように、小さく吹き出していた。
「あら、怖い中佐だわ。そうね、私なんかに声をかけられても……。私はもう、貴方の『特別』ではなくなって、そこらへんの女性と同じなのよね」
そこらへんの女性とは、声をかけて来たが為にマイクが無視をして切り捨てる女性の事を意味し、最愛の彼女だったイザベルも、もうとっくにその囲いに入れられてしまっているのだということ。
「当然じゃないか。だから、君が離婚して戻ってきた事など、俺にはどうでも良いね」
「貴方らしいわね。こちら側の女性には冷たいこと。私が如何に特別に大事にしてもらっていたか、よーく分かるわ」
なのに、彼女は笑っている。
それもマイクに対抗するかのような、強気な笑み。
可憐だった彼女からは想像できない、毅然とした顔だった。
これが数式に薬品に、研究に実験しか興味がなくて、それ以外にはなにもかも疎くぼんやりとしていた元恋人と同じ人物なのだろうか? と、思ったほどだ。
なんだか、彼女、強くなったような気がした。
「私、退官してしまった『登貴子ママ』の後継に選ばれたの」
「ママの、後継に! では、ママが置いていった科学班をまるごと引き継ぐと──?」
「そう、丸ごと引き継いだわ。そうね、先週に……」
知らなかった! と、マイクは固まった。
全ての情報が自分のところに来る訳ではないが、科学班の事もなるべく情報が入るように網を張っていた。ただし──、それは自分と縁が深い『登貴子ママ』が勤めていたからこそ。ママが退官してからは、申し訳ないがマイクの『情報網』の範囲からは外れていたのだ。
そこへ、元恋人の彼女がいつのまにか滑り込んできたようだ。
しかも、マイクの驚きはそれだけでは収まらない。登貴子の後を継いだと言う事は、ある意味『出世』を意味する。
それを……。登貴子が常に傍に置いていたアシスタントだったとはいえ、まだ若い彼女に軍が任せたところにもマイクは驚いているのだ。
「あちらの研究も終わったし。そこへ丁度、軍からこの話がきたの。迷ったわよ。何故なら、帰れば貴方がいるから」
「でも、引き受けた。どうして──?」
「貴方が驚く事、私が帰ってきて目障りなのは覚悟の上。だけれど、これだけは伝えておくわね」
率直に尋ねるマイクに、イザベルの眼差しが見た事もないほどに鋭く強く刺さったような気がした。
仕事以外はぼんやりとしていた可憐な彼女が、鋼鉄のキャリアウーマンに変身してきたようにマイクには見えた。
それほどに、強い意志をきちんと前に出せる口で言える女性になったと言う事か……。
目の前にいる女性は、自分が愛した女性というよりかは、仕事で初めて出会った女性に見えてしまう。
今度はイザベルが、なにかの覚悟をつきつけるかのように、マイクを冷たく見据えていた。
「ママの後を引き継いだのは、恩返しのつもりよ。少なくともここの科学班が落ち着くまでは、着任させてもらうわ」
それを聞いたマイクは──。ふいに感動してしまっていた。
以前、マイクは上司であったパパを、イザベルも上司であったママを。二人で共に御園夫妻を案じてきた。その時の意志疎通に、共同体と言ったような一致感も素晴らしいものだった為、だからこそ、マイクは彼女が傍にいる事を『生き甲斐』にしてきたのだから。
それがまだ、彼女には失われていたどころか、これからそれをしようとしているだなんて……。もうママはいないのに、彼女もまだ、ママが残したものの為に、『自分が頑張っても良い』と、プライベートを捨ててまで来たようだ。彼女の、マイクと通ずるその気持ちに、感動してしまったのは否めなかった。
しかし旦那との、離婚の訳はまさか??
「ご主人とは、まさか──」
「今回の着任とはまったく関係ないからご安心を。元夫の事はまあ、想像に任せるわ」
そこはマイクには全く触らせてくれない所存か。
勿論、これ以上、マイクからも問うつもりはない。というか、問いたくても問えない。
「そうか。こちらもご安心を──と言っておく。君が戻ってきたからとて、迷惑だなんて事はないよ。きちんと『お別れをした仲』なのだから」
仕事で帰ってきたなら……。ましてやそれがマイクの意志と通じる『御園家を思って』という理由ならば。
何も言う事はない。だから、マイクは特に『お別れをした仲』という一言を強調した。
「そう、私も安心したわ。きちんと『お別れをした仲』ですから、これからはお仕事関係の仲のみ、と割り切ってもらえそうで──」
まったく。こういう切り返しは、以前と代わらないのだなと、マイクは顔をしかめた。
可愛い顔をして、ぼんやりしているようで、マイクの前でだけは言う事は言う女性だった。勿論、そこが愛おしかったのだが。
「じゃあ。ご挨拶有難う」
「いいえ。ジャッジ中佐」
マイクはきっぱりと背を向けた。
その時、どうしてか脳裏にマリアの微笑みが。そして泣き顔が。
今のマイクは彼女がいて始まる日々を過ごしている。昔の最愛の女性が帰ってきたからとて、なんら揺るがない自信がある。
「マイク」
でも、昔、愛していた甘く感じる声が背に届く。
思わず、マイクは立ち止まったが、振り向く事だけはなんとか堪えた。
「今更だけれど。貴方の、私に対する考え方は正解だったわよ」
(正解?)
マイクはもう少しでイザベルの今の顔を見たい衝動に駆られる。
「貴方の、私を想うが為に『わざと離れてくれた距離』。あれが、私にとって正解だっただなんて……。今更、遅いわよね」
それは誘い? まさか、今更?
「夫とは近すぎたわ。別れた原因はありきたりなもので、私の我が儘よ。謝るわ、最後に貴方を傷つけて去っていった事。それが言いたかったの──」
消え入りそうな弱い声。でも言いたい事をきちんと伝えようとしている声。
ついにマイクは振り返ってしまった……。
だが今度は、彼女が背を向けて芝庭を歩き始めている。
ショートカットになった彼女。その後ろ姿はマイクが知らない女性だった。
白衣を翻し、無くしたはずの最愛の女性が去っていく。そしてマイクも、もう彼女には聞こえないだろうがそっと呟いた。
「ああ、遅いよ。それにもう、今の俺にはあの距離の愛し方がもう無理だ」
無性に、帰りたくなった。
今の家に。金色の笑顔を振りまいている彼女がいる家に。
彼女を抱きしめて、忘れたい。
忘れたい?
忘れたのではないのか、と、マイクはハッとしてしまった。
・・・◇・◇・◇・・・
やはり、平然とした気にはなれなかった。
どことなくもやもやとしたまま、秘書室に戻った。
「おかえりー。陸部隊はどうだった?」
いつも留守番をしているジョイが一人いるだけの部屋。
彼は自席にて、ノートパソコンのキーボードをパチパチと打ち、そして顔はモニターを直視している。
マイクはそのまま窓辺にある『主席側近』のデスクへと向かった。
「何事もなく、こちらの依頼もスムーズに受けてくれたよ」
「そお、良かったじゃん。まあ、マイクが直々に行って、断るだなんてことはないだろうしね。中将代理そのものだもんな」
「そんな例えはやめてくれ。ただの側近に過ぎない。いつも言っているだろう!」
小脇に抱えていたファイルバインダーを荒っぽく机の上に投げ置いた。
「あーれー? 珍しいじゃない。マイク兄さんが不機嫌だなんて。そういうの、絶対に顔に出さない主義だよね、ジャッジ中佐」
若い部下なら、ここで察したとしても『触らぬ神に祟りなし』とばかりに知らぬ振りをしてくれるが、この坊ちゃんはそうもいかないらしい。
見逃してくれよとマイクは思いつつも、そうは問屋が卸さないジョイが見透かした笑みを見せながら言い放ってきた。
「もしかして〜。もう、会ってしまった? 『モ・ト・カ・ノ』さんに〜」
言い当てられ、マイクはドッキリとする。
しかもうっかり、その顔をジョイに見せてしまっていた。こんなところは、一族の仲と言おうか、ジョイは部下と言えども弟同然。
さらに驚きを隠せなかったのは、元恋人である彼女に会ってしまったという出来事をあてられてしまった事よりも、ジョイが『イザベルが帰ってきている事を既に知っていた』から驚いてしまったのだ。
マイクはそのままジョイの机へと足早に向かい、彼が没頭している手元に、荒っぽく手を付き、こちらの気を向かせる。そして、ジョイの顔へと詰め寄った。
「どーして、知っている?」
「え、当たり前の事じゃん。俺、基地に出入りしている人を結構チェックしているよ。マイクが手の届かないところも……。じゃなくて、『手を付けなくなったところも』かな〜」
マイクにとって科学班はとても近くて、そして密かに大事に守っていきたい部署だった。
愛するイザベルと敬愛する登貴子ママが居た場所。だが、二人が去ってしまった科学班にはすっかり興味を示さなくなっただろ? と、ジョイは言いたそうだった。つまりマイクが放棄した場所を、ジョイはちゃんと拾って目を光らせていた事になる。
なんだか傷心を揺さぶる部署であるが為に、そんなチェックを軽んじていたマイクの心理を見抜かれている。ジョイは幼い頃から、こうした大人達の動向をひっそりと観察して、こっそりと丸く収まるように動いている事がある。それを、やられたようだ。彼が言っていることに言い返すことはない。ぐうの音も出ない。
「で、彼女が帰ってきたのを知っていて、俺にワザと黙っていた??」
「別に。『終わったこと』なんだから知っても知らなくても同じじゃない??」
目の前で、ニンマリと笑う青年。
ジョイは姉貴分である葉月から、マイクの大失恋の事件と現場を報告されて知っている。だから、イザベルが帰ってきたことが目についた時に、直ぐに気が付いたのだろう。
そしてそんなジョイが言っていること全てが、『ごもっとも』。マイクは彼の思惑に対抗する事など諦めて、その手から解放した。
自分の中佐席に戻って、大きな溜息をこぼしながら椅子に座った。
「そうさ。終わった事だ。知っても知らなくても、帰ってきた事が判明しても、彼女と少しだけ数年ぶりの会話をしても、なんにも変わらないさ」
「そうそう。それでいいじゃん──」
いつものように、何事も軽く受け流してしまうジョイらしい。
しかしこの後、彼が……妙に真に迫った冷めた目つきで、マイクに言い放ってきた。
「でも。ここらで本気になって、マリアを捕まえないと、こじれてしまいそうな予感がするな」
マイクは硬直する。
それはマイク自身にも、さあっとこの後の展開が浮かんだからだ。
『田舎に共に帰省して欲しい』という申し込みの返事を保留されている時点でも『手こずっている』というのに……。そんなマイクの心配の種を、ジョイはあっさりと口にしてしまう。
「あれでいて、マリアって繊細で傷つきやすくって。だから、あんなに明るくして自分を騙し続けているんでしょ。これ以上『我慢』することが増えたら、今より頑なになって、マイクから逃げていく」
この、小僧め! 全部、お見通しでもそれ以上俺の前で言うな!! と言いたいところだが、マイクが考えている事とまったく一緒だ。
しかも自分の中だけで考えている時よりも、第三者の客観的な目でばっちりと言われてしまう方が『確定した』ようで、ショックは大きい。
マイクは思わず、机に座ったままの状態で呆然とした。
「……田舎に一緒に来て欲しいと、申し込んだんだけれど」
ぽろっと出た一言に、ジョイが飛び上がった。
今度は彼がマイクのデスクに駆け寄ってきた。
「マジっ、マイク兄!! それ、絶対に実現した方が良いよ!!」
「直ぐにOKがもらえなかった。彼女、躊躇っているのが目に見えて……」
「あったりまえじゃんか! マリアがそこで躊躇うだなんて、マイクだって予想済だったんだろ!?」
まあ、そうだけれど。
でも、やはり目の前で躊躇われたのはがっかりであったのも本当。
だからこれから、感謝祭に向けてなんとかなんとかと密かに思っていたのだ。その矢先にイザベルが帰ってくるとは。
マリアには、マイクの大失恋、いや、大失態を見られている。まあ、それはもう、終わった事だからマイクも気にしない。マリアも気遣ってくれ、マイクが思い出さない努力をしてくれたのが伝わってきた。だからこそ、ぱっと見の第一印象が好まない女性だったお嬢ちゃんの彼女のこと、マリアの本質を知る事が出来たのだから。
だが、現実問題。マイクの情けないほどに崩れた姿を見てしまったマリアにとっては『それほどの想いを寄せた女性だったのだ』と印象付いていることだろう。
そんなイザベルが帰ってきたと知ったら、きっとマリアは……。
マイクの頭の中にある一言が浮かんだ。
だが、やっぱり生意気小僧君が……
「マイク。ここは勝負所だよ!」
先に言いやがった……。
マイクはがっくりと項垂れる。
何故かジョイの方が力んでいて『俺、応援するから!!』なんて、張りきっている?
のんびりと、彼女のペースに合わせて……。
それはもう無理なのだろうか?
・・・◇・◇・◇・・・
田舎から出てきたのは十五歳の時。
フロリダに出てきた頃の自分を思い返すと、かなりの苦痛とコンプレックスが生まれる。
今や、誰もが認めてくれるポジションを維持しているが、十五の『マイク』という少年は、それはそれは何も出来ない子だったのだ。
亮介が見初めてくれた才能が開花するまでは数年かかった。その間にどれだけの苦渋を味わったことか。
フランク・御園ファミリーと言われる者は、ほとんどが血縁関係か縁故だった。その中に、新参者の少年が御園亮介大佐のバックアップを受けて田舎から出てきたものだから、一世隊員のほとんどの同期生達にはやっかまれたものだった。
彼等は二言目には『田舎者』と言う。まだ街に馴染めないでいるマイクの戸惑いや失敗を直ぐに嘲笑った。
皐月の事は好きだったし、尊敬はしていた。でも、いつか彼女を追い越して彼女に『マイクには勝てない』と言わせるのが目標だった。
しかし、それを見届けて欲しかった、そして追い越したかった彼女はあっと言う間に別の世界へと旅立っていってしまった。
だからマイクは、走り続けるしかなかった。そのうちに、フロリダでの生活も慣れ、軍隊での世渡りを覚え、それまで自分の事を馬鹿にしていた同期生達をあっと言う間に追い越していった。
特別校卒業頃には、マイクはトップ班に食い込む事が出来た。『さすが、御園が見つけた男』と、教官達にも言われるようになり、その後の道を確かにしていく基礎を作り上げた。
でも、だ。
どんなに上手くやりこなせる大人になっても、あの『最悪の少年期』を忘れる事はない。
たまにあの頃の同期生を見かけると、隠れたくなる。逆に、あちらも避けていくのを見た事もある。
今はナンバーワンの秘書官と言われるようになっても、あの頃を思い起こすと、どこかに隠れたくなる。自分の過去を消したくなる。
それを知っているライバル同期生のリッキーが『仕方がない。でもお前はなにも悪い事などしていない』と言ってくれても、マイクにとっては誇れない過去なのだ。
それを。自分より年若いマリアは知らない。
彼女とは学生時代を共にする世代ではない。
さらには、葉月もジョイもその目では見ていない話だ。
マイクも隠すつもりはなく、『田舎から出てきた俺は、本当に田舎者で失敗ばかりだったよ』と笑い話にして平気な顔で、年若い彼女達に言ってみるのだが、実はそれも『大人』という位置からの余裕を見せる為の『強がり』だったり……。
彼女達も『そんなマイク、信じられない』と先ず言ってくれる。そして『でも、それを乗り越えたからこそ今の凄いジャッジ中佐がいるのじゃない』と、現実として感じることなどないから『想像できない昔話』ぐらいにしか思っていないのだ。
だが、マイクはそれをやめようと思っている。
『背伸びの俺』を、だ。
気が付かなかったのだ。
三十歳過ぎて、自分でも大人の男になったと自負していたが。イザベルと別れて初めて知った。
──『イザベルだけじゃない、俺も背伸びをしていたんだ』と。
そしてマリアを愛おしく思う日々に、いつの間にか染まっていた。
彼女から見れば、マイクはキャリアを積み重ねてきた年上の、大人の男。頼られている事が判る。そしてマイクもそれが嫌ではないし、今まで自分が積み重ねてきた物で彼女の救いになる役に立つ事があるなら、いくらでも助けてあげたいと思っている。
だが、それだけじゃあ駄目なのだと悟った。
どんなに年齢を重ねてきた大人の男と彼女に頼られていても──。
今度こそ、『本当の自分』で彼女にぶつかって愛していきたい。
イザベルではなく。
それはもう、マリアに対してだ。
だが、それはマイクの押しつけに過ぎない。
今のマリアには、それは……まだ早すぎる気がするのだ。
だから、少しずつ、少しずつ。彼女の負担にならないように。お互いがいつの間にか惹かれ合っていたように、自分らしい男と女としていられる相手と、いつの間にか暮らしていた。そうなりたい。
だから、マイクはそれとなく『同居』を提案し、これからスタートだと『長期戦』を構えていたのだが……。
元恋人との急な再会をした夕。
空も暗くなり、当直の部下に秘書室を任せ、マイクはフェニックスの家へと戻る。
ガレージには既に、マリアの赤い車がある。
マイクも黒い愛車を停め、家を見上げると、彼女の二階の部屋には明かりがついている。
きっと夕飯までの時間、机に向かって、また調べ物に没頭しているのだとマイクは思った。
勉強熱心な女性だった。
本当に、暇さえあれば本を読んでいるし、ネットで検索をしたり、図書館へ出かけたりしている。
それほど興味もない好みでもない女性だったので知らなかったのだが、いつのまにか傍にいた彼女を知ると、本当に彼女は勉強が大好きなのだ。
トップの成績で工科大を出たのも、彼女の向上心というよりかは、勉強好きが高じて……と言ったところのようで、マリア自身にとっては、トップにいた順位自体はあまり大きな意味を持たないようだった。
そんなところも、マイクが彼女を見直してしまった点でもある。
家の中に入り、リビングのテーブルに取り敢えず座ると、いつもベッキーが『お疲れさま』の珈琲を出してくれるのが日々恒例。
「ただいま、ベッキー。マリーはまた勉強かな」
制服の上着を脱ぎ、ソファーの背にかける。
マイクはシャツのボタンを緩めながら、ソファーに座った。側に置いたアタッシュケースを開け、秘書室に届いた日本の新聞を手にして広げてみる。
海外の新聞は興味深い。特に……それほど足を運んだ事もない日本は。でも、敬愛する夫妻の母国にいつも思いを馳せる。二人が去っても、マイクは二人がいる日本社会を眺めて、二人の生活を案じている。これはもう殆ど習慣だった。
いつもの一杯が、目の前にやってきた。
香りで判ったので、マイクは新聞をたたんだ。
ベッキーにいつもの御礼を伝えようとしたのだが……。
「おかえりなさい。マイク」
毎日の一杯を差し出してくれたのは、ベッキーではなく、マリアだった。
既に私服に着替えている彼女。キュートなリボン飾りがついている白いキャミソールにラフなデニムパンツ姿。
すっかりプライベートのムードに落ち着いてはいるが、なんだか表情が強張っているように見えた。
それが直ぐにマイクには嫌な予感へと変化していく。
「話があるの。隣に座っても良いかしら」
「ああ、勿論」
取り敢えず、笑顔で応えてみる。
マリアも直ぐに隣に座った。
いつもの距離感……ではなかった。
同居を始めた頃、彼女マリアは少しだけ、マイクを窺うように距離を取っていた。だがそれは直ぐに消えた。彼女はいつしか、肌が触れ合い温かな体温を感じるぐらいに隣に寄り添ってくれるようになった。どんな時も明るく笑って、マイクの隣にいてくれた。
このソファーで、二人でくつろぐ時は、彼女はいつもぴったりとマイクの隣に座る。
テレビを見て大笑いしている時もあるし、今にも眠ってしまいそうな顔で静かにくつろいでいる時もある。
だが、今の彼女は少しだけマイクとの間に隙間を作って座っていた。
しかも背筋をピンと伸ばして、妙に緊張している様子。
それで、マイクはだいたいを察した。
「いいよ。遠慮せずに言ってごらん」
「そ、そうね」
ぎこちないマリアが、予想したとおりの事を言った。
「あのね……。マイクの田舎に行く話なんだけれど、今回は、無理……かな?」
いつだってハキハキしているマリアが、そんな歯切れ悪く、申し訳なさそうな顔。
そんな彼女に、この俺がさせてしまったのかとマイクは思いたくなる。
「そうか。仕方がない……」
心とは裏腹の言葉を、マイクは呟いていた。
Update/2008.2.5