* ラブリーラッシュ♪ * 

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15.嘘つきマリア様

 

 おもむろに開けられたシステム手帳。
 ある時期を指して、彼女は言った。

「ここ、小笠原に集まろうという話があって……」

 愛らしいピンク色であるエナメルカバーの手帳。
 大人っぽいものを好む彼女には珍しいセンスだな、なんてマイクは思いながら、マリアが指さす箇所を覗いた。

「ふうん。そういえば、隼人君もそんなことを言っていたなあ……」
「でしょう。隼人中佐、このあたりはどうだろうかって」

 この家に滞在していた隼人が、同じプロジェクト仲間のマリアと専門的な話で盛り上がっていたのはマイクも知っている。
 その中で『また一度、メンバーで集まってミーティングをした方が良い』という話があがっていたのも本当だ。

 だが、マイクは……。それがマリアが『田舎帰省』から逃れる為にでっちあげた計画であることを、直ぐに見抜いた。
 よく考えれば、おかしいじゃないか。あの隼人がアメリカ人であるマリアに『感謝祭の時期にどうだろうか』だなんて提案をするはずもない。小笠原基地にいるアメリカ人は、なんとかこの時期かクリスマスに帰省したい為、日本で必死になって仕事を休む調整をして帰ってくるのだから。言い換えれば、アメリカ生まれの隊員を帰省させる為に、残る日本人が穴が空いたシフトをフォローするということ。管理職を兼ねている上官中佐の隼人が『そんな大変な時期』にマリアを誘う事など皆無だと判断できる。

 それでも尚、マリアはそんな予定を『納得してもらえる理由』と信じて、マイクに差し向けているのだ。
 なんでも一直線でハッキリ物を言うマリアが、こんな遠回しな断り方をするだなんて。
 しかも彼女らしくない断り方だから、ほうら、すぐにボロが出るような慣れない『嘘』になってしまっている……。

 だからとて。マリアに『本当に嫌な理由を、真っ正面から正直に言ってごらん』と言ったならば、その理由がマイクにとって酷な事ではなく、マリアにとって酷なことになってしまうことも判っているつもりだった。

「わかったよ。仕事なら、仕方がない。マリーには今の仕事で頑張ってもらいたいし、成功して欲しいからね」

 とりあえず。そういうことにしておく。
 まだ時間はある。マリアがそうして逃げたいなら逃げればいい。
 まだ自分が逃げている理由を自覚していない事だろう。

 今日のところは、それで良し。
 マリアが持ってきてくれた珈琲を飲み干し、マイクはソファーを立つ。

「うん、美味かった。ご馳走様」

 彼女に微笑み、上着とアタッシュケースを手にして部屋へと向かう。

「マイク……!」

 寝室へ向かう背を呼び止められ、マイクは振り返る。
 少し驚く。そこには今にも泣きそうな彼女がいる。
 マリアのそんな顔……。

「貴方の田舎が嫌なんじゃなくて、本当は行ってみたい。でも……でも……でも……」

 自覚していないし、まとまっていないから。
 だから彼女は自分で自分がどうしたいかも、どうしてこうなってしまったかも言う事が出来ない。 
 それにもマイクは、どうしようもなくなって……残念な気持ちより、そんな彼女が愛おしくなって笑ってしまう。

「マリア。いいんだよ。気にするな。また誘うよ」

 その一言で、彼女がほっとした笑顔を見せてくれた。

 だが、もどかしくてどうしようもなかった。
 今度こそ、大事に思う女性と解り合える日々を送る為に、どんな我慢でもする覚悟だった。でも、マリアを欲しいと思う走り出した本心は止まらない。

 マイクの本心は『雨降り』と言ったところだろうか。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 数日後、またジョイが妙な報告をしてくれた。

「中佐。小笠原の御園中佐から、変な問い合わせが来ているんですよね〜」

 メールをチェックし、振り分けている彼が、隼人からのメールをマイクのデスクまで転送してくれる。
 それを眺めて、マイクは溜息をこぼす。──やはり、予感的中だった。

 隼人のメールの内容は、『ブラウン大尉から、この時期にメンバーを収集するミーティングを行いたいと、かなり強い意志を思わせる要望が届いたが、フロリダのプロジェクト本部でもそのつもりなのか……』と言うものだった。
 工学科開発関係は、マイクの場合見張り役であるだけで、指揮を執っているのは工学科の大佐だ。
 しかし小笠原の何処へどの時期に行くという最終的な許可を出す出さないの結論を言い渡す組織の一部にマイクは関わっている。勿論、それは中将の意志として下の者に許可をする訳だが、ブラウン中将が一人で判断している訳ではなく、こんなところもマイク達秘書室の側近が動いて動向データーや環境データーなどを即座に調べ、どうすればよいかを提案し、最後には中将や大将、他のセクションの責任者、何名ものゴーサインが出て、下の者がやっと動く……。そんなシステムだから、隼人がこちら秘書室にもそれとない探りをしてきたのだろう。

「マリアらしいね〜」

 ジョイは可笑しそうに笑っているが、マイクは仏頂面になるしかない。

 『嘘』をついたマリアが、『嘘』を本当にする為に必死になっている姿が目に浮かんで仕様がない。
 きっと隼人も勘づいていることだろう。なにせ、彼は『マリアアタック』を強烈に受けたことがある経験者だ。あの時のマリアも、それとない理由をでっちあげて隼人の側に近づき、葉月の事を探ろうとしていたのだから。

「あの時と一緒だ」
「もしかして、お嬢と隼人兄が一緒にフロリダ帰省した時の話?」
「そうだ。……彼女らしいけれど。変わっていないと言う事か……」

 正面から言えないから、こんな事までして……。
 マイクは哀しくなってきた。これでは小笠原に迷惑がかかってしまう。
 仕事でなら、今すぐマリアを呼びつけて、管理している中佐として叱りつけるところだ。

 でも、初めて。その気になれない。
 自分が関わっているせいだろうか?

「ジョイ。隼人君には数日待って欲しいと言っておいてくれ」
「分かった。俺もそれがいいと思うな。今すぐストッパーをかけると、マリアが意固地になる。でも、マリアは止めるべきだよ」

 毎度、ごもっともに言ってくれるが、マイクは弟分の判断に安心して、デスクを立った。

「何処に行くんだよ?」

 まだデスクに座って事務作業をしているはずの時間なのに、マイクが離席をしようとしているので、ジョイが訝った。

「散歩だ。たまには、いいだろう?」

 少し、ここを離れたいと思った。
 ジャッジ中佐でもなく、マリアの恋人でもなく。
 マイクという自分になって一人になって考えたい。

「うん、いいよ。何かあったら携帯に電話する」
「分かった。じゃあ、少しだけ」

 ジョイが快く送り出してくれ、マイクは携帯電話だけを手にして秘書室を出た。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 外は快晴。今日はスコールもまだだ。
 ランチタイムが終わり、何処を歩いても人もまばらで静かだ。

 中庭も、それほど人はいない。
 いつもはただ通り過ぎるだけの芝の広場。
 マイクはそこで立ち止まって、青々としている庭を見渡した。

 いつもスケジュールが詰まっていて、次はなにをせねば、何処に行かねば、と忙しくしている。
 だから余計に、女性に声をかけられて歩いている足を止められるのが億劫だった。こちらが急いでいるというのに、仕事で危機に瀕しなんとか回避しようとしている時に、甘い眼差しを向けられると、それだけでげんなりする。
 それほどに前へ前へと毎日、急いでいた。

 だが、この日のマイクは、今まで通り過ぎてきた芝庭の広場へと足を止めている。

 こんなに綺麗な場所だったかな。
 先ず、そう思った。
 しかも青い草の匂いがする。
 それも知っていたはずなのに、気が付いても直ぐに忘れて、秘書室へ向かっていた。

「田舎を思い出すな」

 暫く帰っていない。
 二年に一度、帰れたら良い方だ。
 いい大人になったので、たまに『元気だ』という連絡を入れさえすれば、もう両親も『なんとか帰ってこい』と強く言う事もなくなった。

 ついに、通り過ぎていただけの芝庭へと踏み出す。
 広場の端には、ちょっとした緑木が並んでいる。そこの木陰には幾つかの白いベンチが設置されている。
 ランチタイムには、そこに座ってお喋りを楽しみながら食事をしている女性隊員達が多い。
 今は誰もいなかった。マイクは迷わずにそこに向かい、涼しい木陰の下、座り込んだ。

 ジャッジ中佐の基地での時間が止まる事は、初めてかも知れなかった。
 マイクはそこで馬鹿みたいに、ぼんやりしてみた。
 他の隊員がこんな自分を見たら、絶対に何か大変な事があっておかしくなったのだと思う事だろう。

 それでも構わない。

 それにこの草の匂い。
 なんて懐かしいのだろう。
 自分の身体の奥には、確かに、土や草の匂いが生まれた時から側にあった物として刻まれている事を実感する。
 ずっと忘れていたようだが、久しぶりに思い出せたようだ。

 だから、マイクは思った。

「今年は帰ろう」

 とにかく、帰ろう。
 今まで、精一杯、御園に尽くして、全力で走ってきた。
 それが終わってからも、なんとかこうして走っている。
 でも……。なんだか分からなくなってきた。
 自分が本当に欲しいものが、目の前にあると思っていたが、そうではなかったのかもしれないと。

 これからもマイクは仕事を続けていくだろう。
 ここまで得た地位を捨てる気もさらさらない。
 でも、ここで少し、足を止めてみても良いだろうか?
 中佐として秘書官として張りつめて生きてきたこと意外の何かを、マイクは考えたくなったのだ。

 それがマリアだったというのに……。
 彼女の様子を見ながらと思っていたのに、彼女の昔の恋人が現れただけで、マイクは『愛しているから、田舎の両親に紹介したい』だなんて、急いでしまったのだ。それがマリアを追い込んでいる。
 やはり急ぎすぎたと思った。

 ぼんやりしたいのに、それを思うと頭が痛い。

「あら、また元気がないのね」

 そんな女性の声を耳にしただけで、マイクはまた頭が痛くなった。

「良かったら、隣に座っても良い?」

 イザベルだ。
 白衣を着ている彼女がまた現れた。
 だが、彼女は片手に紙カップを持っていて、もう片手にはドーナツの袋を持っていた。
 どうやら、遅いランチタイムだったらしい。

「困るな。今、女性と一緒にはいたくないんだ」

 そう言ったのに、イザベルはいつもの勝ち気な微笑みで、マイクの隣に座ってしまった。

「私も困るわ。本当のことを言うと、『ここ』、私のお気に入りのベンチだったんだもの。それになあに? 貴方がこの時間にベンチに座ってぼんやりしているだなんて、有り得ないわ」

 何故か、彼女の方が怒っている始末。
 マイクは益々顔をしかめた。女性に声をかけられて苛々する事もあるが、どうしてかこっちの方が質が悪い。
 彼女にはある程度手玉に取られてしまう部分がある。そういうところが『元彼女』。マイクの事はよーく知っているのだから。

 だから彼女は、平然としている。
 マイクがいたから声をかけたというよりかは、元からここに座って食事をする事が目的だったから近づいてきたとでも言わんばかりに、食事を始めたではないか。しかも、このマイクにはっきりと突きつけてきた。

「元気のない顔なら、余所でしたら? どこでも出来るでしょ。ここは、昔から私の場所なの。貴方は知らないでしょうね。いつだって早足でここを通り過ぎていくのですもの。私がこのアイドルタイムに人も少ないこの中庭でこっそりと食事をしていても、気が付かないで通り過ぎて行ったこともあったもの」

 眼鏡の横顔が、つんとしていた。
 だが、マイクはそんな『今更の話』ではあるが、結構、驚いてしまった。

「それ、本当かよ? 俺、君がここで食事していることに気が付かなかったことがあるって?」
「あるわよ。何回も。でも、あー、頭の中いっぱいなのね。前しか見えていないわーとしか思っていなかったから」
「よく我慢していたなー」
「別に、それぐらいなんでもなかったわ。私だって数式に薬品の事ばかり考えていて、気が付いたら、貴方の背中を見たということも結構あったもの」

 大きな口を開けてドーナツを頬張るイザベルは、割ととぼけた顔で笑っている。

「つまり……。私達は『余裕がある時だけの恋人』だったんだもの。もし、私があのまま平気でも、いつかは貴方が私に疑問を持ったかも」
「……かもなあ」

 なんだかマイクも、すとんと落ち着いてしまった。
 終わった事だからだろう。いつしか自分を置いていった彼女を許していたからだとマイクは思う。

 マイクもやっと肩の力が抜け、別れた恋人に微笑みかけていた。

「ふうん。そのドーナツ、相変わらずなんだな」
「ええ。また食べられて嬉しいわ」

 食べる時間も惜しんで、研修室に籠もって没頭していた彼女。
 だから彼女の手元にはいつだってドーナツがあった。マイクも良く差し入れをした。
 何が好きとか嫌いではなく、イザベルの場合、とにかくデスクに貼り付いたまま食べられるもの、煩わしい手間のかからないものが側に用意されていた。それがだいたいドーナツだった。

「ちゃんと昼飯、食っているんだ。外に出て買いに来るだなんて、君こそ珍しいじゃないか」
「これから一人ですからね。健康には気を付ける事にしたの。今まで無頓着すぎたわ。若い身体に頼りすぎていたし……。これから気を付けないとね」

 そこは少しだけ致し方ないとばかりに微笑んだように見えたマイク。
 そんな元恋人の『これから一人で暮らしていくだろうから、きちんとする』という、見た事もない生活習慣を目の前にして、『元彼』として溜息をついてしまった。

「なんだよ、その決意。せっかく送り出したのに、君もバツイチだなんて。がっかりだ」

 死ぬまで自分への愛は消えないと言ってくれた最愛の女性だからこそ。マイクだって、本当は無念ながらもイザベルの幸せを祈っていたのに……。結果はこれだ。
 そして彼女は、落ち込む訳でもなく、そこも先日のようにへっちゃらに笑い飛ばしていた。

「ふふ。『君も』バツイチって言ったわね」
「ああ、言ったよ」

 と自分で応えて、マイクはハッとした。
 もしや。と、彼女の顔を見ると、意味深な笑みを浮かべ……。

「聞いたわよ。ブラウン中将のお嬢様とお付き合いされているのですってね」

 『バツイチお嬢様』と付き合っている。無意識のうちに、マイクは『君も』と言ってしまっていた事に気が付かされた。
 基地の男女関係の噂では、有名な話の一つ。
 イザベルの耳にも早速、入ったかとマイクは観念する。

「……しかも。一緒に住んでいるのですって?」

 そこは急に。イザベルが俯いた。
 気のせいか、声が震えているようにも感じてしまったマイクは、彼女を見下ろして確かめるのだが……。イザベルは静かにドーナツを食べているだけだった。

「うん。つい最近、一緒に住み始めた。俺から誘った。今度は……どんなに忙しい職柄でも、少しでも側にいられるようにと……」
「ママの家に、一緒に住んでいるのですって?」

 彼女の顔がついに見えなくなった。
 頬骨と眼鏡の縁、そして無造作に口に運ばれるだけのドーナツ。
 彼女にとっても思い出深い家だろう。マイクもそれを思うと苦く感じる。しかし心を鬼にして言い切った。

「そうだ。楽しく暮らしているよ」

 小さくなっていくドーナツ。最後の一切れを、イザベルが頬張った。
 その途端に、彼女が紙パックを片手に立ち上がった。
 表情が見えない白衣の後ろ姿。流れてくる昼下がりのそよ風が、青草の香りを運んでくる。マイクはそんな中、立ち上がったイザベルを見上げた。

「そう。貴方も変わったのね」
「そうだな。……君を傷つけたから。俺も……反省して。今度こそは……と」
「当然よね。そうなってもらわなくちゃ、どの女性も貴方に愛されただけで可哀想だわ」

 結構、きっついこと言ってくれるなあと、今の恋も上手く運べないでいるマイクにはかなりずっきりと胸に突き刺さった。

「君も、相変わらず、きっついな」

 本気でマイクは項垂れる。

「あら。まさか元気がないのは、恋煩い?」

 ほうら。振り向いたイザベルは、もう意地悪な微笑みを見せていた。
 少しだけ別れた彼女に気後れをした自分を呪ったぐらいだ。だから今度もはっきりと言ってやる。

「ああ、そうだよ。そうだ。俺は、恋はてんで駄目」
「仕事が出来るジャッジ中佐になかなかお相手が出来ないのは、そういうこと……なんて、知られないと良いわね」
「うるさいな。そこ気にしているんだ」

 黒髪を掻きむしり歯ぎしり。本当に困っている顔を、イザベルにはそのまま見せていた。無意識に──。
 そして彼女もいつもどおりに笑い出す。

「まあ、頑張ってよ。じゃあね」

 食事も終わったからと、立ち上がったイザベルはそのまま去ろうとしていた。
 マイクも立ち上がると、目の前の歩き始めたイザベルが、空を見上げながら言った。

「──もしかしたら。ママの家に一緒に住んでいたのは、私だったかも」

 マイクは驚く。イザベルがそんなことを考える事もあったのかと……。
 でも、確かにそうだったかもしれない。マリアでなければ、イザベルだっただろうと思う。あのまま別れていなければ、マイクはイザベルだけを愛し続けてきただろう。どんな形でも、だ。

「ひとつだけ、教えてあげる」

 肩越しに振り返ったイザベルの顔が、今度こそ、目に見えて寂しそうだったので、マイクは固まった。
 その眼差しで彼女が言う。今にも泣きそうな顔で……。

「彼女もきっと、結婚に傷ついているわ。どんなにこちらの我が儘だったと分かっていても……。やはり相手の男性に理解されなかった事は、どれだけ寂しい事か……」
「分かっているつもりだ……よ」
「だったら、根気よく頑張ることね」

 彼女の、哀しみを知ってこそのアドバイスに、マイクは何も言えなくなる。
 さらに、どうした事か、自分まで哀しくなってくる。
 見た事もない、彼女をさらったロスの男をぶん殴ってやりたい気持ちになってきた。
 こんな素敵な彼女を、俺が夢中になった女を、捨てるだなんて──。本気でそう思った。

「サンキュ。イザベル……」

 少しだけでも。そんな自分をさらけ出しただけで楽になった気がした。
 彼女なら、これぐらいのことは気兼ねない。背伸びをした仲だったけれど、こんな会話は良くしていた。だからつい……。

 向き合う二人の間に、急に銀色の筋が幾つも舞い降りてきた。
 小さな滴がぽつぽつと……。二人はハッと顔を見合わせる。
 午後のスコールがやってきたのだ。あっと言う間に、マイクがいる木陰にざあっという音が響き渡る。
 目の前のイザベルが走り出そうともしないで、そこに立って呆然としている。彼女が瞬く間に濡れていくのに驚いて、マイクはなりふり構わずにイザベルの腕をひっつかんで木陰に引き戻した。
 その勢いで、ベンチの側にある木の幹に彼女を押しつけてしまっていた。

「マ、マイク! 痛いわよ!」
「わっ。ごめん、つい……! き、君だって少しは慌てろよ。まったく、ぼんやりしているというか……」

 土砂降りの木陰。
 そこで二人は互いの胸を押しつけ、向かい合っていた。

「どいて。か、帰るわ……」

 濡れた彼女から、懐かしい花の匂いがたちこめてきた。
 マイクはその香りに躊躇する。
 今、自分の胸に昔の恋人。
 マイクの胸の中に、雨から守られた自分を感じてか、イザベルは昔のように恥じらう顔をマイクから逸らしている。
 白衣の下に、濡れたブラウス。そして透けて見えたランジェリーに流石のマイクも、ドキリと胸が締め付けられた。

「ご、ごめん」

 イザベルの胸元から、マイクは離れる。
 そして制服の上着を急いで脱いで、イザベルの濡れた胸元に宛った。

「そのままじゃ、研究室まで帰るのに、何人の男がその気になるか」
「そんな男、いらないわ。それにこれもいらない」

 制服の上着を突き返された。
 どうしてか、イザベルが泣き始めている。水色の瞳に涙をいっぱいにためて。
 その顔は、強くなって帰ってきたと思わせるキャリア女性の顔ではなく、マイクが良く知っている恋を知らない女性だった頃の彼女の顔。
 その顔で、イザベルが言う。

「最後のキス、覚えている?」

 唐突な質問に、マイクは戸惑う。
 直ぐには応えられなかった。

「私は、あのキスばかり思い出すわ。貴方の事、まだ愛している。図々しいけれど、貴方と……もしかしてと思った」

 眼鏡を取り払い、溢れるばかりの涙をぐいっと拭う彼女を、マイクはただ見下ろしていた。

「でも、当然よね。貴方、素敵だもの。やっぱり、新しい恋人がいたわ。それでも好き。やっぱり貴方が一番。だから……せめて、貴方の、一番のお友達に……元気がない時の良き相談相手に……私ならなれるって……」

 涙を拭ってはいるが、イザベルの涙は溢れるばかり。
 徐々に、マイクの胸にも妙な熱いものが込み上げてきてしまったではないか。

「でも、無理よ。お友達だなんて……。やっぱり貴方が、あんなに若くて綺麗な、しかも工科にいる将軍のお嬢様と暮らしているだなんて……」

 イザベルはそこまで言うと、いつかのように、マイクの胸から突然に飛び立っていった小鳥の如く、飛びだして行ってしまった。
 彼女が突き返し、マイクが受け取らなかった中佐の上着が、濡れる芝の上にひらりと落ちた。

 白衣を翻し、スコールの中を走っていく元恋人の姿をマイクも泣きたい気持ちで見送る。
 それは大人の顔をして、やっぱり背伸びをしてマイクが困るほどの受け答えをしてくれた頭の良い彼女ではなく……。みっともないことさえ厭わず、恋するままに一生懸命になった女性の姿だった。

 恋って、みっともない。
 それぐらいじゃないと、自分の中でも本当じゃない。

 マイクはそんなイザベルを見て、痛感した気がした。

「そうか。俺だけじゃないか……」

 落ちた上着を拾った。
 マイクもそのまま、上着を雨よけにして屋内へと走る。
 その時、決めた。急に、そう思えるようになった。

「仕方ない。『嘘』を本当にしてみるか」

 

 

「おい。マリア、何しているだよ。空部隊の工科講義、遅れるぞ」

 中庭を通る廊下で、先にいる先輩にそんな声をかけられる。
 マリアはスコールが通る中庭を見ていた。

「なんだよ。マリア、何を見ているんだ」
「……科学班の、新しい人が来たの?」

 先輩のブルースが訝しい顔で、窓辺に立ち止まっている後輩マリアの元に来た。

「なに。誰もいないじゃないか。行くぞ」

 先輩が歩き出す──。
 でも、マリアは足が動かなかった。
 そんなマリアにまた先に行った先輩ブルースが振り返る。

「ああ、そう言えば。ロスから新しい博士は来たって噂は聞いたな。若い女の博士だってさ」

 マリアはスコールに濡れる芝庭を凝視し、力無く応えた。

「そう」

 

 

 

Update/2008.2.7
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