このままずっと、何も変わらないで。
そう思いたい。
目が覚めると、もう朝のようだった。
まだ眠い目をこすりながら、素肌を包んでいるシーツにもう一度くるまって、マリアは唸る。
もう少し眠っていたい。だって、昨夜……遅かったんだもの。
心の中でそんな言い訳をしながら、なんとかもう一度眠ろうとしたのだが。
「マリー。もう朝だ。月曜日だ」
誰が邪魔をするのかと目を開けて睨むと、そこには既に制服に身なりを整えている黒髪の男がいた。
「いや。まだ眠いわ」
「またギリギリまで眠っていると、ちゃんと朝食が取れないだろ。この前も夜中まで調べものに没頭しすぎて、トーストを慌ててかじって珈琲だけ。それは駄目だ」
まあ、なんて母親のような事をいう男であることか。
一緒に住み始めて、もしや……と予想はしていたが、思っていた事はビンゴ。
それでもまだ部屋が別々の間は彼も口うるさくなかったが、ゲストがこの家に宿泊している間に同じ部屋で寝起きをするようになると、彼の小言は如実になった。
マリアはさらにその男に訴えるように不機嫌な顔を見せる。
だが、あちら様も負けるつもりはないらしい。青い瞳を厳しく光らせ、裸のマリアを見下ろしている。
ここが基地なら、その顔、とてもセクシーで格好良いと惚れ惚れするところ。だけれど、二人だけでくつろぎたいこの寝室で、彼マイクがそんな『秘書室の鬼中佐』の顔で裸のマリアを見ているのが、なんだかすごく嫌な気分。
「マリー。起きないと……」
「誰よっ。昨夜、もう眠いって言う私を眠らせないとか言って、二時か三時まで頑張っちゃった人!」
思いっきり突きつけてやると、流石の『秘書室長』がぐっと頬を染めて黙り込んでしまった。
その隙にマリアはシーツにくるまって隠れた。
「いやー、だけれどね。マリー……仕事は……」
急に歯切れが悪くなるマイク。
昨日、友人の結婚式パーティで、初めて彼に『愛している』と言われた。
だからマリアも、ずうっと言えなかった気持ち『愛している』と同じように彼に伝えた。
昨夜の彼は、今まで以上に燃えていた。
まるで溜め込んでいた何かを爆発させたかのように……。
いつも余裕に微笑みながらマリアが崩れていくのを楽しんでみている彼がそうではなくて、マリアの身体の上も中も脇見もせずに一点に向かって駆け抜けていくような必死な姿に、マリアは感激して本当に泣きたくなったほど。
でも最後には彼に翻弄させられる。マリアから身体をいっぱいに開いて彼を深く受け入れ、そして……自分も狂ってしまったかのように、どこまでも感じるままに一緒に燃えた。
昨夜の二人はもう『友人』なんかではなかった。
紛れもない激しく求め合う男と女。
愛し合う、愛おしさを伝えあう……。どこまでも絡み合う繋がりを求める男女だった。
今まではずっと、惹かれ合っていたのに友人だった。
マリアには分かる。なにかきっちりとした境界線を引いてしまうと、全てが『決定的』になってくる。それがどれだけ重いか、『恋愛に失敗した二人』だからこそ分かるんだと思う。
そんなところまで、マリアとマイクは理解しあっていたのだろう。
だから、彼も怖かったんだとマリアは思う。
特にマイクはこの歳まで、ずっと仕事が一番で生きてきて独りで暮らしてきたペースがマリア以上に染みついているはず。そんな中、『同居人』という自分以外の人間と暮らすライフスタイルに変える決意をしたのだ。
今までの彼の人生にはなかった決意の中に、自分がいたことはとても嬉しかった。一緒に暮らすのは案外上手くいったと思う。そして楽しい。
でも、そこまでだと思う。二人でなんとか『友人以上』から駒を進めてみたけれど、それ以上の『決定的』なことに対すると、一緒に暮らすぐらいのことなんかでは、すんなりと馴染まない。
やはりそこで二人は立ち止まっていた。何故なら、それはとてもデリケートな急所に素手で触れるようなもの。鷲づかみにすれば相手は嫌がるだろうし、怖がって触らないのならそのままで日々が過ぎていく。そうっと加減を見ながら触れる、相手の反応を見る。それがどれだけ怖い事か……。
幾つかの恋愛をしてきたからこそ、そこで踏みとどまってしまうのだ。
ひとことで言ってしまえば、大人同士だから、やっかいなのだ。
「そうかい。では、マリーも子供ではないのだから、ご勝手に。俺は先に行くよ」
シーツにくるまって駄々をこねるマリアも、また……。そんな同居人に口うるさく言われる生活を拒否している。
こんなふうにマイクが小言を言うのは、同居したからこそ。だが、マリアが必要以上に触れてきた彼を突き放せば、マイクもそれで直ぐに諦める。
マイクが本当に、ドアを出ていった音がした。
そこでマリアはやっとシーツの隠れ家から顔を出す。
「ごめんね、マイク」
なにもかもが溶けあってしまう事がまだマリアは怖い。
どこかで『私達はお互いに自由であるのだ』という強調をしたかったのだ。
マリアは溜息をこぼしながら、ベッドを出た。
自分もちゃんと出勤の身支度を始める。
白いショーツにブラジャーをつけて、ブラウンのスリップドレスを身に纏う。
その時、彼の姿見に映る自分に目がいった。
肌の上に少しだけ残っている小さな痣が数カ所。胸元に点々と。首元を避けてくれたのは、流石、大人の配慮なのかと思った。
彼がそれだけ強く愛してくれた跡を指先で触れて、マリアは暫く見下ろす──。
「これだけで良いのよ、マイク……」
彼を縛りたくない。
重荷になりたくない。
この素敵な生活が崩れてしまうようなすれ違いはしたくない。
そしてマリアは鏡に映った自分にも言う。
「そして私も、自由でいたいんだわ」
彼の為というのも本当だけれど、マリアは自分のためであることも分かっていた。
彼を愛している全てが綺麗な訳でもない。でも、それで良いと思う。マイクに……『綺麗な愛』は今はきっと重すぎる。彼は純粋で、本当はそうと判れば何に置いてもきっと大事にしてくれる。それはもう、御園に尽くしてきたように。マリアにはそれが見えるのだ。
だから、彼に『マリアもある程度は適当なんだ』と思わせておきたいのだ。
一緒に暮らすと言っても、それ以上はいらない。
愛し愛されている事が分かって通じ合っても、それ以上はいらない。
それまで、お互いが別々に思うところに向かっていたように。
そのままでありたいとマリアは思う。
彼は今まで通りに基地で一番の秘書官でありつづけ、マリアは走り始めた次世代へのプロジェクトの一員として精進し続ける。その後に、愛し合っている事を思いだして……。
「それに。私はもう……ウェディングドレスは一度、着たしね」
かっちりとした白いシャツを羽織って、マリアは笑う。
マイクの為にウェディングドレス?
「有り得ないわ」
鏡の前で笑った。
制服姿が似合っている彼の横にいる女もまた、制服姿で良い。
もう結婚を夢見る時は終わっている。
でも──。
マリアは今日の空を窓辺の方へと見つめる。
でも、彼の一番でいたい。
そしてずっと一緒にいたい。
愛していると言っても、愛しているよと言われても。
マリアはなにも変わらないのだと……。言い聞かせた。
・・・◇・◇・◇・・・
真っ白い花婿はハネムーン。
彼を見送った人々は、昨日の賑やかさを心の中にしまって、また基地の中での真顔の日々に戻ったことだろう。
「あーんっ。仕事が長引いたわ〜!」
週明けの月曜日のせいか、あれこれとした雑務が重なり、なかなか仕事を終える事が出来なかった。
でも、直属上司のマーティン少佐が、『今夜の事情』を知ってくれて、マリアを早く帰してくれた。
──『大佐嬢が明日の朝、帰ってしまうのだろう。今夜はゆっくり相手をしてやれ』。
一時は、打算的な上司でマリアも振り回されたけれど、今はマリアにとってもなくてはならない上司で先輩。マリアも彼にお返しが出来るような仕事を心がけている。今、マリアがいる教官室のチームワークはばっちりだ。
駐車場にやってきて、マリアはやっと赤い愛車に乗り込み、フェニックスの家へと向かう。
葉月は明日、朝一番で日本へ帰国する。
今日はそのお別れの晩餐をするのだ。
勿論、今日は内輪だけ。あの家の主人であるマイクと、マリアと、御園夫妻と純一義兄様と。
マリアはハンドルを握りながら、短かったけれど、また御園と過ごした日々を振り返って微笑む。
今回も……色々あったけれど、また『彼等』を知る事が出来たし、解り合えたんじゃないかなと思うと、マリアは嬉しい。
「もう〜。結局、私も御園かぶれなのよね〜」
可笑しくなって一人で笑った。
それはマイクという御園ファミリーを愛している男を好きになったからなのか。いや、違う。マリアは首を振って思い出す。
なによりも。御園と言って一番に思い出す古い記憶は、レイチェルと皐月だった。それに併せて、あの陽気でハンサムなおじ様、亮介。そして周りにいる大人の兄様達。
彼等が集まると、なんて煌びやかだったことか。
友人であるパパとママに連れられて一緒に行った『パーティ』で、マリアはその世界に圧倒されたのだ。
そして『マリアと同じ年頃の女の子が日本にいる』と聞いた時の嬉しさ。それがまた、あの太陽のように綺麗なお姉さまの妹だと聞いてとても期待した。皆が口々に『皐月に似ているよ』とか『お祖母様にも似ている』と言うから、二人に憧れていたマリアは、もう、会ったら絶対に友達になりたい!!! と、願っていたのだ。
それが、蓋を開けてみたら『あれ』で……。どれだけがっかりして、だからこそどれだけ執着した事か。
前夫、達也を小笠原へと見送る別れの時、彼も言っていた。
──『結局。俺もお前も、御園とか葉月に惚れているんだよ』。
それにはマリアもハッとさせられた。自分達の結婚が、どこかで御園という一族に互いに思いを馳せていたからシンクロしてできたものだった。円満に別れる事が出来たのも、それだけのことだったからなのだ、と。まあ、マリアとしては、『憧れの職業、秘書官の男』であった達也を初めて見た時に、一目惚れしてしまったからというのも本当だったが、その後二人を引き寄せた経過を思っても最初から御園を通じてのことであったのも確かなことだった。
達也と別れても、マリアの心にはいつだって『御園』。
一家の事情を知ったのは最近ではあるが、不可解な面をみせながらも、一族が各々で振りまく魅力にマリアは惹かれていた。
そしていつのまにか……。
それともいずれはこうなるはずだったのか。
遠くで輝いていたお兄様軍団の一人である男と、愛し合う日々を送っている。
『私ね、鎌倉で姉様と兄様達が楽しそうに賑やかにしていた世界に憧れていたの。早く、姉様や兄様達のような大人になりたいって……』
葉月もそう言っていた。
その話を彼女がしてくれた時は、マリアもすっごく同感!
彼女に、『実は私も憧れていた』と抱きついたぐらいに。
それは葉月も喜んでくれた。
……本当に、皐月が生きていて、そして葉月がつつがなく日々を送れた女の子だったなら。葉月とマリアはもっと早く姉妹のようにくっついて離れないほど仲良くなっただろうに。今でもそう思うと、あの御園を苦しめた犯人の首を絞めてやりたくなる。私達の貴重な十代を返せ! と──。
まあ、もう……どうしようもないこと。
「でも、私達は自分達の手で取り戻したんだわ」
──私達、勝ったんだわ。
マリアはそう思う。
本当に嬉しかった。
やっとこんなふうに。
「しかし、憧れの兄様達の中で、まさか一番目立たなかったあの人と付き合う事になるとはねー」
マリアは昔を思い出して、ちょっと溜息。
あの頃のマイクを思い出そうと思っても、残念ながら思い出せないのだ。
記憶の片隅に残っている事には残っている。素朴な、黒髪のお兄さんだ。たぶん、ロイやリッキーの中にいたのだろうけれど、霞んでいたのか記憶がない。
あの輪の中のどこにいたのか……その映像がマリアの記憶にないのだ。
まあ、田舎から出てきたばかりのころは最悪だったと、マイク本人も言っているのだから、きっと『その程度』の存在感だったのだろう。
でも、亮介の目に狂いはなかったのか。その当時、マリアの目にも止まらなかった『黒髪の原石』は、いまや、基地のエリート秘書官の筆頭だ。
「だけれど。あのマイクより、重厚なあの兄様は流石よねー」
当時の純一も蘇ってきた。
あの頃から、あのムードだった。
そして誰もがそんな純一に一歩引いて接していたような気がする。
マリアの憧れの範囲には決して入らない人で、きっと近寄りたいとも思わなかっただろうけれど……。でも、今回は彼とも素敵な想い出が出来たと思う。
マリアはそんな純一のことを思い、笑みがこぼれてくる。
実は、今日の晩餐に着るドレスを、あの純一がプレゼントしてくれたのだ。
『皐月との思い出話が出来て、とても楽しかった。彼女を忘れずに大切にしてくれて、有難う』
最初は諍いになりかねない話題で対面した二人だったけれど、その後、マリアと純一は機会があればちょっとずつでも声を掛け合って会話を楽しんだ。
そんな純一と直ぐに話題になるのは、『昔話』だった。それも皐月の事。
純一はとても楽しそうに、懐かしそうに。そして時には切ない目元を滲ませて、皐月の事を話してくれた。そんな彼を見た時はマリアも泣きそうになった。
今回、純一がフロリダに来た理由のひとつに、そんな皐月との懐かしい想い出の場所を訪ねる事も含まれていたのだそうだ。
短い間の、フロリダの訓練生生活。恋人同士ではなかった時期だけれど、そんなじゃじゃ馬で元気でうるさかった皐月との年頃の駆け引きを思い出すと、純一も今だからこそ胸が熱くなるのだそうだ。
そんな四十を超えた男性の、取り戻しようもない十代の……。上手くは生きられなかった不器用さだけが残っている、でも輝かしい想い出を巡る思いと姿にマリアは感動したのだ。
彼の中で、ちゃんと皐月姉様が生きている事も嬉しかった。
葉月の事を愛していることも確かだけれど、このお兄さんの中では皐月も一番のようだった。
マイクも言っていた。皐月が生きていれば、それはどうなったか分からない結果。今は妹が生きているから、彼は彼女を選んだのだと。
それもそうだ。そして彼は亡くなった花嫁と、長年共に生きてきた義妹を愛し続けている。
そして、マリアは彼のそんな生き方をこれからも見守っていきたいと思う事が出来た今回。
だけれど、そんな葉月や御園の人々ともまた暫くお別れ。
今夜は純兄様がプレゼントしてくれた素敵なドレスを着て、ファミリーと呼ぶにふさわしい大好きな人々と楽しく過ごしたい。
マリアの心は夕暮れる程に浮き立つ。
フェニックスの家に辿り着き、車を停めた後、マリアは一目散に芝庭に向かう。
庭に入ると、そこには黒いスーツ姿の純一が海人を抱いて立っていた。
「おや、お帰り。マリア」
「ただいま。お兄様」
もう彼が見せてくれる微笑みは、マリアから見ても、とても優しいものになった。
それになんといっても。生涯独身だろうこのお兄様が海人を抱いている姿が、どうしてかとても馴染んでいる素敵な姿なのだ。
本当のパパの隼人にはこう言ったら悪いのかも知れないけれど、この独身を通しているお兄様も、子供を抱いている姿はパパそのもの。とても愛おしそうに小さな男の子を見つめている優しい目と微笑み。
だからといって、それは海人が愛する女性の子供だから──という訳でもないよう。海人の子守をしている純一に声をかけた時、彼が言った。海人を抱いていると『生まれたばかりの息子を思い出す』と。そう、彼は独身だけれど、今でもパパだ。いろいろと大変な事があって、彼は生まれたばかりの息子から離れてしまったのだけれど、こうして抱いていた日々もあったことを思い出すのだと言っていた。だから、素敵に見えるのだとマリアも納得だった。
今日も、そうして純一兄様は、可愛い甥っ子を抱いて幸せそうだった。
マリアもうっとりしてしまう。
「そうだ。葉月に客が来ていたのだが、マリアの知り合いだそうだな」
純一にそう言われ、マリアは首を傾げた。
どんな客かと思った時だった。
「帰ってきたか、マリア。お邪魔しているからな」
そんな声がリビングから聞こえてきて、マリアは庭から振り返る。
そこで目にした男に、マリアは固まった。
「ケ、ケイン!!」
「マリアの新居、見せてもらったぜ」
元恋人の男が、何故か堂々と……! マリアと愛する男が住まう家にいる!
・・・◇・◇・◇・・・
「どーして、貴方がいるのよっ!!」
「またまた。直ぐに怒る」
マリアの全てを良く知っている昔の男が、呆れた顔で溜息をこぼしている。
こっちがその顔、その態度をしたいわよっと、マリアは彼を睨んだ。
「そんなに怒るって事は、なに、俺の事で『今の大事な男』と喧嘩でもした?」
見透かしたケインの笑みに、マリアはドッキリと固まった。
まさにその通り。昨日の結婚式でマイクとやり合ったのは、この元恋人と懐かしむ会話を楽しんでいたからだ。
「まさかね。あのジャッジ中佐と付き合って、しかも御園の元実家にこうして住んでいるとは思わなかった。でも、願ったり叶ったりの状態になったってわけか」
そこでマリアは黙り込む……。
あの頃、御園に近寄れなくて泣いていたマリアをケインが一番良く知っている。
そんなマリアが、今では『御園ファミリー』の一員みたいな状態になっているからだろう。
仲良くなりたかった葉月のお姉さんみたいな存在になり、そして御園ファミリーの一員であるお兄様と同居生活。そんな状況になって『すごく幸せ〜』という顔をしているのは確かだからだ。あの頃願っていたものが手にある今を、当時、泣き言をこぼしながら相談にのってくれた元恋人から見れば、それこそ彼の言うとおり『願ったり叶ったり状態』で間違いはない。
だからって、それを確かめに来たのだろうか?
もう一度、彼に何をしに来たのかと突っ込もうとしたら、白い階段から葉月が下りてきた。
「ケイン。もう、帰るの?」
「ああ。ハヅキの可愛いベビーも見させてもらったし。旦那の御園中佐とも新機種の話が出来たし、訪ねてきて良かった。サンキュー」
「そう。もう少し、ゆっくりしていけばいいのに。まだ夕食まで時間があるから、マイクも帰ってこないわよ」
「いやいや。遠慮しておく。ファミリー水入らずで楽しんだほうが良い。だから帰るよ。なあ、マリア」
どうやら、葉月に会いに来た……ようだった。
しかもこの男。マリアが思っている本音を手に取るかのように分かっている。『ファミリーで水入らず』でいたいというマリアの気持ち。お前そう思っているのだろう? とでも言いたそうな笑みでマリアを見下ろしている。
「ハヅキ。元気でな。今度は甲板で会おう」
「そうね。貴方も研修からシアトルに帰ったら、トーマス大佐に宜しく伝えてね」
「勿論。これ、きっと一番の土産になると思うよ。じゃあな」
そんなケインが手に持っていたのは、葉月が隼人と並んで海人を抱いている写真だった。
それはトーマス大佐も喜ぶだろうと、マリアも思った。
それにしても。久しぶりに再会した同期生と親しく話したかったのだと、如何にもそれが名目で訪ねてきたように見えるが……。
(本当に、葉月に会いに来ただけ?)
いちいちマリアを意味ありげに見ては、にやついてるケインを睨んでみた。
彼は益々楽しそうな顔。
「じゃあな、マリア」
「ええ、さようなら」
もう二度と来ないでよ。
マイクが帰ってくる前に、早くいなくなって!
マリアはそんなことを心の奥で呟きながら、ツンとケインを見送ろうとした。
昨日は楽しい再会を喜んでいたけれど、期限付きの恋人になってほしいだなんて申し込みをしてきたり、今や適当に女性との関係を楽しむ生活をしていると聞いては、マリアもガードが堅くなる。
ましてや……。あのマイクが、余裕の顔を見せておいて、あんなに嫌がっていたから。
でもちょっとだけケインに感謝している。彼が元恋人でありながらも、マリアを口説いている姿をマイクの目の前で見せたから……。昨日、思いがけない愛の告白を聞く事が出来たのだ。
でも、もう……彼を思い悩ませたくないから、この元恋人とはなるべくならもう関わらない方が良いとマリアは感じてしまっているのだ。
葉月と隼人と別れの挨拶を交わし、ケインが庭から帰ろうとしているのを見届けて、マリアはほっとしてた。
「ただいま」
垣根からそんな声が聞こえてきた、マリアはドッキリと飛び上がりそうになる。
その声が、マイクだったからだ。
芝庭に、アタッシュケースを持っている黒髪の彼が間違いなく立っていた。
マリアの心臓は爆発しそうになった。
だが、マイクから思わぬ事を言いだした。
「もう帰るのかい、ケイン」
ええ!? どうしてケインがこの家に来ている事を知っているの!?
マリアは唖然とした。
マイクはにっこり、ケインを受け入れている笑顔。
マリアは幻を見ているのかと思ったが、やっと気が付いた。
だとしたら? マイクからこの家に来ても良いと許可をしたと?
マリアの頭の中は、ぐるぐるに回り始め、目も回りそうになった。
二人がにこやかに挨拶を交わしたので、マリアは目を丸くした。
「僕の無理なお願いを聞いてくださって有難うございました」
「いいや。大佐嬢と御園君ともう少し空軍の事で話したいとなれば、それはこちらの大佐嬢も喜ぶだろうと思ったからね」
「休暇で来ているから基地には来ない彼女に会うなら、ジャッジ中佐にお願いするのが一番だと思いまして──」
「いつでも。仕事で役に立つ事なら幾らでも協力は惜しまないよ」
二人が庭先で握手を交わす。
マリアは彼等が気の良い会話を交わしているだけでも、ひやひやだった。
元恋人と、そして現最愛の男。だからこそ分かるのだ。
二人は気の良い会話をして握手をしているが、ケインは『もっともらしい理由をひっつけただけで、本当は現在のマリアの生活を覗きに来た』のだと。そしてマイクは『俺の女を口説いていた、女性問題有りの軽い男がしつこくやってきた』と思っている顔。
互いににっこりにこにことしているが、その腹の中では何を探り合っている事やら。特にマイク。昨日、ケインが現れたことで変貌してしまった彼を思い返すと、嫌だとも言えない申し出でケインから仕掛けられて、腹の中が煮えたぎっているのではないかとマリアは思った。
でも『同期生の大佐嬢と、御園中佐に会いたい』という名目で、しかも『取り次いで欲しい。それには貴方しかいない』なんて頼られては、どんなに男の私情があっても、そこも『男の度量』。聞かざる得なかったのだろう。
(いやね。ケイン──マイクを試したんじゃないの!?)
しかし、それも分からずじまい。
ケインはそのまま気の良い少佐の顔で、帰っていった。
そしてマイクは──。
「マリー。いつまで庭にいるんだ。今夜はジュン先輩からもらったドレスを着るのだろう? 早く着替えないと、夕食が遅れる」
庭からリビングにあがる彼の声は、分かりやすいほどに不機嫌だった。
『早く着替えろ』。それはつまり、今すぐ部屋に来いと言われているようにマリアには聞こえた。
・・・◇・◇・◇・・・
今二人で寝起きをしている彼の寝室に、一緒に入った。
「ケイン。貴方にわざわざ頼みに来たのね」
彼は恋人だった。それを隠すつもりもない。ただ、いちいち言う事でもない。
そう思っていたから黙っていただけであって、こうなったなら、もう正直に言っても良いと思って、マリアは腹をくくった。
そしてマイクは、本当に不機嫌な顔でアタッシュケースをベッドに放り投げた。
「ああ。マリーを口説くだけじゃなく、レイにも会いたいと? まあ、いいだろう。レイと彼は同期生だ。それにレイも喜んでいるし……」
「でも、貴方は今、あまりいい気分じゃないみたい」
ズバリと言ってやると、マイクは益々顔をしかめた。
「ああ、気分は良くない。これでも『勘は良い方』だと思うよ、俺は」
「ええ、勘も良いでしょうね。だったら、判った事はなあに?」
その言葉、機嫌の悪さ。もう確定だった。
ケインがマリアを口説いた、その上、この家に来たがったのは何故か。その向こうにある可能性。それだけで彼には判ってしまったのだろう。
マリアだって覚悟が出来ている。だから、狼狽えるものですかと、マイクに真っ正面から向かった。
「彼と……恋人だったとか」
「ええ。初めてのね、あっちの方も」
「あっちの方の、初めて……!?」
きっちり認めた上に『初めての男』とマリアが堂々とくっつけたせいか、あのマイクがすごく驚いた顔。皆に見せてやりたいぐらいの。
「驚いた。じゃあ、あの頃、付き合っていたんだ」
「そうよ。貴方達に冷たくされている間、彼が私のこと何でも聞いてくれて親身になって、そして理解してくれたの。彼も葉月の事が解らなくて、もやもやしていたから、とっても通じ合えたのよ」
ある程度。当時の寂しかった気持ちを思いだして、冷たい態度をしてくれた当てつけも含んだ気持ちで言い放っていた。
「そ、そうか……。そうだった、かもな」
ちょっと呆然としている彼の顔。
マリアもそこで、少しだけ悪い言い方をしたと心を痛めた。
「でも。昨日の私を信じてくれるでしょ」
「勿論」
と、言いながらも。マイクはまだ良い顔を見せてはくれない。
「……信じてくれない顔、しているわ」
「昨日、マリーが『一番大切』と言ってくれたこと。それで俺もあんなになってしまっただろ。本当に嬉しかったんだ。でも……」
でも? と、マリアはそこで止まった言葉の先を待つ。
「でも……。そう聞いてしまったら、悔しいのは当たり前だろ」
「当たり前って……」
「あー分かっている! 『お互いに過去はある』って言いたいのだろう? そうだ、マリーだけの過去だ。俺だって関与できない、出来るはずもない。でも、悔しいのは悔しい!」
「どこが悔しいの??」
過去があるのはお互い様。
そう言ったのはマイクの方だ。
なのにこの人は今になってどうしてしまったのだろうと言いたいところだが、それが実は、昨日マリアがちょっと願ってしまった『嫉妬』だと分かって、ワザと聞き返していた。
「私の初めてのおと……こ……」
「言わないでくれ。頭が沸騰するっ」
「マイクの初めての女性ってどんな人だったの?」
「マリー!!」
何食わぬ顔で聞き返してみたら、彼が真っ赤な顔で怒ったので、ついにマリアは笑い出してしまった。
そしてマイクも……。そんなマリアを見てやっと楽しそうに微笑んでくれている。
「……なんだか嬉しいわ。マイク」
「本当は昨日も、マリーを口説いていると感じていた時、ハラハラしていたんだ」
「ただ、昔の恋人同士だから話が弾んだだけ。彼は裏表なくて、はっきりしているの。今日だって特に深い意味があって来た訳じゃないのよ。葉月に会いたかったのも本当だろうし。そしてちょっと私達をからかいたかっただけなのよ。手の込んだ企みなんてあの人はしないわ」
マイクももう『そうか』と静かに笑っていた。
マリアがそう言うなら、それでいい。そんな穏やかな顔。
「さあ。お腹空いたわ。さっさと着替えて、お夕食、お夕食」
マリアはご機嫌に、クローゼットへと向かう。
いつも余裕で大人の彼から、本当に愛されているという実感。そして受け入れてくれる懐も今までと変わらなくて、マリアは嬉しく思った。
クローゼットを開けて、昨夜、純一から贈られたドレスを手に取った。
ピンクベージュという淡い色合いで控えめなデザインだけれど、質の良い生地で仕立てられているせいか、とても品良くそこはかとなく華やかだった。純一も『物足りないようにみえるだろうけれど、スタイルの良いマリアが着れば、ぐっと華やかになる。スタイルで着られるドレスを選んだ』と言っていた。
葉月がちょっと羨ましそうにしていた程に、純一の品選びは、贈る女性に合わせるのがとても上手なのだと隼人が教えてくれた。
その通りで、マリアも今夜袖を通す事をとても楽しみにしていたのだ。
手にとってドレスを眺めている時だった。
「マリア──」
いつのまにか、後ろにマイクがいて、背中から抱きすくめられていた。
「マイク、どうしたの」
また彼が昨夜のように、愛おしそうに、マリアを抱きしめてくれる。
マリアも肩越しに振り返り、そんな暖かな表情で微笑んでいる彼を見つめた。
その彼が唐突に言った。
「今度、俺と一緒に田舎に帰らないか?」
マリアは驚いて固まった。
「両親に会って欲しいんだ」
何故だろう。マリアは直ぐに返答することが出来なかった。
・・・◇・◇・◇・・・
今朝方、御園若夫妻と純一が帰国した。
彼等が去ったリビングは、やはり少しばかり寂しく感じた。
ちょっと前までこの家には、陽気なパパがいて、穏和なママがいて、二人が暖かにマイクを迎え入れてくれ包み込んでくれていた。
それが急になくなってしまい、とてつもない虚無感に襲われる事になり……。
しかし、それにも慣れてきたと思っていたが、可愛がっていた妹分の葉月が来ればやはりそこは賑やかになり、在りし日を思い出させてくれる。
だから、去っていけば、また同じような虚無感がマイクを取り囲もうとしていた。
でも、彼等が去った後。その虚無感に襲われかけていたマイクの隣には、いつも元気な彼女の笑顔があった。
『あーあ。帰っちゃった。またいつもの毎日の始まりね』
彼女が軽く言いのけるから、マイクの心も軽くなる。
そうだ。またいつもの毎日に戻るだけだ。
そしてそこにはこの子がいる……。マイクはそう思っただけで明るくなれる。
(しかし、急ぎすぎたか)
そんな可愛いマリーがいる幸せを感じてしまうあまりに、マイクは今まで誰にだって言った事もないことを彼女に申し込んでいた。
『俺と一緒に田舎へ……』
だが、彼女の答は予想をしていない反応だった。
『えっと……。仕事、スケジュール立て込んでいるから、暫く、考えさせて』
ごもっともなお断りだったが、彼女がちょっと困った顔をしていたような気もしたマイク。
『いいよ。感謝祭頃、どうかなと……』
『そうね。それまでに考えておくわ』
田舎。
やはり内地の田舎など、このフロリダで育ってきた彼女には行きたくない場所なのだろうか?
彼女はそんな女の子ではないとマイクは思っている。分け隔てない性格だし、懐も広い……。
だとしたら……?
それでもマイクにとって、『田舎』は未だに多少のコンプレックスがあるものだった。
そこを思い切って彼女に申し込んだのだが……。
本当はもっとずっと前に彼女を連れて行きたいと考えていた。
それだけじゃない。彼女を抱きたい事だって。彼女の全てを独占したい事だって。いつからか生まれたこの気持ちを、急かす本心を抑えに抑えて今日の状態に持ってきたのだ。
でも、田舎は早すぎたのかと。
自分でも何処か急いでしまった感はある。
マイクは舌打ちをしながら、基地の廊下を歩いていた。
芝の中庭。
自分の秘書室がある高官棟に行く為の渡り廊下を歩いている。
近頃は、女性からお声がかかる事もなくなった。
まるで『マリア守護神様』。随分前に将軍のお嬢様と付き合っているという噂が流れた為、大抵の女性が『彼女には敵わない』と諦めてくれたようなのだ。
一緒にいると、彼女は騒々しくて何事も一直線の賑やかな女性のように見えてしまうが、あれでいて、基地ではお嬢様である上に、スタイルもばっちりの美人と評判で、そのうえ工学科での将来を有望視されている『才女』でもある。だから大抵の女性が、マリアと張り合うのを諦めてしまうのだ。
でもマリアはあれで自然体。彼女は自分の美貌を意識している事もないから当然自然だし、将軍の娘ということを鼻にかける事もないし、工学にしても本当に勉強をする事が好きで堪らないから、いつのまにか『才女』と呼ばれているだけのこと。他の人間がみれば、彼女はとても輝いて見えるだろうが、あれでいてマリア本人は『自分は全然駄目なのだ』と、意外とコンプレックスを持っていたりする。
しかし今のマイクは、そんな彼女といるのが楽しい。そして、大事な存在だった。
だからこそ。自分もなにもかもを彼女にさらけ出したいと思っているのだが、これがなかなか。
マリアは気が付いていないようだが、彼女は固いバリケードで自分を守っているのだ。その中には、マイクが己をさらけだすなどというセオリーはないようなのだ。
これがなかなか手強い。
ここ数年、マイクは『もっとも親しい友人のふり』をして、ずうっとマリアとの距離を保ってきた。
近づきすぎると駄目。彼女は逃げていく。そして遠くても駄目。彼女が寂しがっているのが分かるから。
どうしてマリアがあのようになってしまったか、マイクは解っているつもりだった。
だが本人が気が付いていないようだから、そうっと大事に、彼女から囲いを解いてくれるのを待っている。
でも、それもちょっとしたことでマイクの方が突っ込んでしまいそうになる。
今回の田舎の件も、『失敗した』と項垂れていた。
「元気ないのね」
そんな声が背中から聞こえてきて、マイクは立ち止まる。
女性に声をかけられて立ち止まる事は今までも皆無だった。
それでもマイクは立ち止まってしまった──。
何故なら、その声に……聞き覚えが。
さらには、この廊下を歩いている時に良く声をかけられた場所でもある。
しかし『幻聴』とマイクは思いたい。
だから振り返る事が出来なかった。
「仕事で失敗でも?」
マイクは目をつむった。
間違いない『彼女』だ。
ここで、そんな文句で、さりげなくマイクに声をかける。
しかもマイクにとっては、言い返したくなる文句。『仕事で失敗』だなんてことを、このジャッジ中佐に向かって意地悪に投げかける言葉。
『彼女』しかいない。
でも、何故、ここにいる!?
今度こそ、マイクは思い切って振り返った。
芝の上に、白衣を羽織った女性が変わらぬ微笑みをマイクに見せていた。
「イザベル──!」
「久しぶり、元気……そうね?」
眼鏡をかけている栗毛の……。かつての最愛の恋人がそこにいた。
マイクは暫く硬直していた。何年ぶりか。そしてこれは幻なのだろうか?
もう二度と会う事もないと思っていた最愛の……。
しかしマイクは心を強くして彼女に向かう。
なるべく、いつもの落ち着いた顔を保とうと努める。
そう、彼女とはもう関係ない。たとえ今、思わぬ再会をしたとしても、ここでは『基地の中佐と科学班の学者』としての関係性だけで向き合えばよいと言い聞かせ……。
「なにか、この基地で?」
いつもの秘書室のジャッジ中佐の顔で、彼女に問い返していた。
「ええ。帰ってきたの」
「帰ってきた……?」
その答にも、マイクも驚いてしまうだけ。
つまり? マイクを切り捨ててここを出ていったのに帰ってきたと!?
しかも彼女は、その変わらぬ笑みを絶えず見せながら言い放った。
「離婚したから、身軽になったの」
マイクは絶句した。
かつてのように、密かに向き合う二人がそこにあった。
Update/2008.1.27