何故、十三歳の義妹の身体を奪ったのか。
目の前にいる当人、義兄に率直にその疑問を投げかけるマリア。
当然の事ながら、純一はあまりにも驚いたのか、一言も発しない。
だが一時すると、彼はふっと一息ついた。
「その問いには、どうしても返事をせねばならないのかな?」
どっしりとした低い声。とてもとても落ち着いているその声は、マリアが何に置いても『一番』と思っている男マイク以上の威圧感があった。
頭に血が上っていたが、どうしてか、なだめようとしたマイクの声より、すうっとその声の元に従ってしまうような……。
ネクタイを外したシャツの襟元から、マイクとは違うもっと濃厚な男の匂いを、マリアは感じてしまった。
そんな純一から放たれる、見慣れない嗅ぎ慣れない大人の男の色香を見てしまったマリアは、あろうことか『これなら、葉月が愛しちゃってもしかたがないかも〜』なんて思ったほどだ。
は。いけない。もう少しでマイクより強烈なムードを放つこのお兄さんに騙されそうになったと、マリアは我に返る。
こんなことに負けて流されるものかと、マリアはさらに食い付いた。
「答えてください! このままでは眠れません!」
「はあ、なるほど」
益々、悠然としている純一。しかも、マリアが真っ向直球勝負に出ているのに対して、純一はどこかとぼけた顔で飄々浪々と逃げて行ってしまいそうな笑みを浮かべている。
その余裕がまたマイクとはまったく違うではないか。こんな男性、初めてだとマリアは思った。
「ジュン先輩、別に答えなくてもいいんだよ」
「貴方は黙っていてよ、マイク! 私とジュン兄様が話しているんだから」
マリアが後先考えずに突っ込んでくることなど、いつものこと。真剣に取り合うなとばかりに先輩に進言するマイク。
それを見て、マリアの頭は再び瞬間沸騰! 『今更、掘り起こして話し合うことか』と阻止するマイクと、『終わったことでも、流してはいけないのだ。納得できない』と主張するマリア。二人が『やいやい』言い合っている間に、また静かな声がすうっと滑り込んできた。
「どちらも大人げない。二人きりの夜ならともかく、今日は客人がいる。それも赤ん坊が」
重厚でも静かなその声に、二人は揃ってハッと我に返り口を閉じた。
不思議な声だとマリアは思った。感情がないような無愛想な話し方なのに、どうしてか心の中で浮き上がっている何もかもを沈めてくれるというのだろうか。従わざる得ない。どうもマイクも同じようだった。
「マイク。悪いが、珈琲を一杯。彼女には、香りの良い甘いアルコールでもこさえて落ち着いてもらえ」
「先輩。夜中に珈琲だなんて、眠れなくなるじゃないか。それにこれは俺と彼女が言い合いしている問題で──」
そこで純一が、ちらりとマイクを見、そのまま凝視した。
たったそれだけなのに。あのマイクが押し黙り、『OK』と素直にキッチンに行ってしまったのでマリアは驚いた。
それを見て、マリアは初めて『とてつもないことをした』気持ちになってしまった。
(やはり、このお義兄様は御園家の『リーダー』なのだわ)
マイクすらも。そしてきっとあの隼人も。そしてジョイも、さらには小笠原にいるロイにリッキーも。この義兄様には一目置いて、御園の全てを任せてきたのだろうとマリアは思った。
いや。だからとて、負けちゃいけない。
自分の中で曲げたくないことを曲げることは、マリアにとっては誰にでもなく自分に負けたことになり、それが一番許せないことなのだ。
だが、次なる言葉がやはり出てこなくなってしまった。
純一は目の前で、ちらばっていた書類を片づけ始め、パソコンの電源を落とす準備をしている。
「あの、申し訳ありませんでした。お仕事の邪魔をしてしまったみたいで」
「まったくだ。俺はこの通りに夜型で、夜こそ集中して仕事をしているのだがね」
冷たい横顔。秘書室の鬼男よりもずうっと重く感じる怖い顔。なのに、心はきりりと痛むことはない。
それが彼独特の、人に与える雰囲気なのか。冷たいのに、重いのに、怖いのに……。胸にズキリとこないのは何故なのだろう。
マリアのそんな掴めない感触を、純一はすぐに分からせてくれた。彼がその後直ぐに笑顔になったのだ。
「おそらく。このようにハッキリ返答をした方が、マリア嬢自身もすとんと納得できる質。……だろう?」
まさに、その通り!
上手に気を遣って遠回りに接してくれることもマリアは嫌いじゃないが、こちらのほうがマリアにはすっきりする。
何故なら、自分がそうだからなのだろう。自分がハッキリ言うのに、お返しの返答がハッキリされて腹が立つだなんて、そんな無茶な筋が通らないことはまさに『自分勝手』というもの。それが純一には最初から分かってもらえていたようで、逆にマリアは嬉しくなってしまった。
「……その通りなんです。ですから、お義兄様のお邪魔になったと解ったからには、なおさら。本当に夜中に騒いでしまって、申し訳ありませんでした」
「なんの。丁度、区切りがついて、一休みしようかと思っていたところだったから、気に病まぬよう」
淡々としている言い草だけれど、マリアには好印象に逆転。
いやいや! また騙されるところだったっと、首を振って、問題を元に戻そうとしたのだが……。
「さて。先ほどの唐突な質問についてだが……」
束ね終わった書類を静かにノートパソコンの横に並べている純一。彼から切り出してきた。
マリアは固唾を呑む。引くに引けなくなって意地になっている部分もあるが、それでも真っ向からぶつけた質問、しかも当人から聞けるとあって、どうしても理解できないマリアにとってどのような答が突きつけられるか緊張した。
暫く、リビングの開け放している窓から、渚の潮騒が聞こえてくる間があった。
背後からは珈琲の香りも漂ってきた。そして、マイクがアルコールをシェイクする音……も。
その合間、マリアは一時も目を逸らさずに、直球を投げた相手純一の顔を見ていた。
彼はその答に躊躇ってはいるようだが、言いたいことは決まっているかのように、ずうっと遠い目を渚に向けていた。
「己のような男に資格はないと最初は躊躇っていた。だが義妹を、彼女を良く知りもしない男に任せるだなんて考えられなかった。俺が、義妹が死ぬまで支えてやりたい。そう思った。後先考えない若さもあったが、後悔はしていない」
「ですけれど、まだ未熟な……」
「手を付けた男の勝手な言い分と思ってくれても構わない。だが、義妹は『既になにもかも知っていた』。一番残酷な形で、だからこそ、彼女はその汚れを払いたくて暴れていた。未熟なんかじゃない。むしろ『もう知りすぎていた』──」
それが、目の前で犯され続けた姉を二晩以上も見ていることしかできなかった妹の後遺症。
その話題を出されてしまうと、マリアは本当に何も言えなくなる。想像を絶するものであることだけがわかる。その延長線上に、義兄との肉体関係が生じる結果に。……だから? 仕方がなかったと?
「す、すみません。ご事情は重々、存じているつもりなのですが。やはり……どうしても……『その時』でなくてはいけなかったのか。なにを焦っていらっしゃったのか私には分かりません」
「解って頂かなくても、結構。後悔していないとはいえ、『成人にあるまじき非常識な判断』にて決行したことには変わりはない。そのように自覚をしているつもりなのでね」
彼の表情は変わらなかった。
むしろ、マリアにはそんな彼がとても潔く見えてしまった。
マイクが言ったとおりだ。人に良く思われたい理解されたいだなんてこれっぽっちも思っていないから、愛想なんて皆無。いい人いい顔で、なんて思わない人。マリアもそれを感じ、同感だった。
自分がやったことを後悔もしていないし、言い訳もしない。理解も求めない。責めるだけ責めたらいい。
マリアの中にそれが浮かんだ時、急になにかがストンと落ちていった。
彼がしたことには、マリア個人はまだ『理解できない』だが、彼が持ち続けている気構えに納得させられたのだ。
たぶん、マイクもここに落ち着いているのだとやっと解った。
「最後に、ひとつだけ教えてください」
「なんだろう」
「それはお二人にとって、良かったことだったのですか? それとも哀しいことだったのですか?」
後悔がないと言っているが、それでもマリアは念を押すかのようにもう一度純一に向かって尋ねていた。
そして彼も迷わずに答えた。
「俺の中にある想い出の中でも、特別な出来事のひとつで、決して忘れられないものだ」
『今でも愛していますか?』── もう少しでそれを問いそうになり、マリアはなんとか口を閉じた。
聞かずとも、目の前の彼の真剣な顔が物語っている。向かっているマリアに何を言われても仕方がないと覚悟しながらも、それだけは『譲れない』とばかりに……。
「義兄様は、そうして一生、葉月を守っていくつもりなのですね」
マリアの精一杯の『理解』。
純一はそんなマリアの言葉に返答はしてくれなかったが、少しだけの微笑みをみせてくれた。
つまり、それが答なんだと。『そうだ、守っていく。口では決して言えないが、愛しているから』と、マリアには見えた。
もう、なにも言いたいことはなくなってしまった。
そこに丁度、マイクが白い珈琲カップを純一の前に置いた。
話が途切れ、純一がカップ片手に立ち上がる。
「良い夢を」
おやすみなさい。と言うことらしい。
純一は書類を小脇に片手にカップを持って、そのまま二階の階段へと消えていった。
「気が済んだ?」
今度は、マリアの前に甘い匂いのするカクテルがグラスが置かれた。
そして、その隣にマイクが座る。
彼が作ってくれたカクテルを手に取り、マリアはひとくち味わう。
ラズベリーとクランベリーの甘酸っぱい、フローズンカクテル。
マリアの燃え上がってしまった心を、すうっと冷やし火照りを鎮めてくれる。
「ええ、気が済んだわ」
ふと、微笑んだ。
「不思議な人。もう、怖くないわ。素敵なお義兄様だと解ったから」
「どうだい。知らない愛もあっただろう?」
「……あったわ。あるのね。でも、なんだか切ないわ」
義兄妹の、長く紡がれながらも、結ばれることのなかった愛の軌跡をマリアは初めて思い描いた。
葉月が隼人を捨てるように駆け落ちをした話も知ってはいたが、そこは横に置いたままにしていたマリアでも、やっと少し、葉月の想いが解ったような気がした。以上に、義兄の元へと葉月を手放してしまった隼人が何を思ったのかも。だからなのだろうか。だから、葉月と隼人が結ばれたのだろうか。だから衝突したはずの義兄と義弟は今、共に御園を支える兄弟になれたのだろうか……。そんな気さえした。
気が済んで、マリアは甘いリキュールをすすりながら、ぽつんと呟く。
「あの、マイク……。ごめんなさい」
「どうして謝る? 俺はそんなマリーのことを、嫌いだと言ったことがあったかな? マリアはマリア、あのままで結構」
隣に座っているマイクが、いつもの笑みを見せながら抱き寄せてくれる。
マリアもグラス片手に彼の肩に寄り添った。そしていつもの優しい挨拶のキス。仲直りのキスだとマリアは思った。唇が離れると、二人はまた鼻先をくっつけて、ただ笑い合った。それでお終い。
熱くなったなにもかもを、彼が作ってくれた甘くて冷たいお酒が冷ましてくれる。
静かになったリビングには、二人の家にいつでもある潮騒。
それを耳にしながら、二人はずうっと静かに寄りそう。
その合間に思うことは、もう『同じ思い』に変わったとマリアは感じていた。
・・・◇・◇・◇・・・
翌朝。少しだけしか寝付けなかったマリアは、早いうちから渚を散歩していた。
でも頭の中はすっきりしている。心も清々しい朝だった。
ふうん。あんな男の人もいるのだわ。
初めて、あのような男性に会った。
面識はあったのだけれど、その時は子供だったマリア。フランク・御園ファミリーのお兄様方とは縁遠い関係だったから、これが初めてだった。
とても新鮮で。それでいて妹分の葉月の家族とも言える人々と、ひいてはマイクと長年親しい人々と理解し合えるようになっていくのは、マリアにとっても嬉しいことだった。
白いハウスワンピースの裾が潮風に揺れる秋の渚。
まだ気温も高いフロリダだが、朝方の気温はだいぶ過ごしやすくなってきた。
そろそろ戻らなくては。ベッキーが通いにやってくる。今日は休日、手伝いをしたいマリアは家へと足を向ける。
家へと渡る道路。その手前の砂浜に伸びるフェニックスの木陰。
そこで海人を抱いている隼人がいた。
遠目に見ても、隼人はとても楽しそうな顔で抱いている息子と向き合って、なにかを一生懸命に話しかけている。
そんな微笑ましい姿を目にして、マリアも引き寄せられるように歩み寄った。
「おはよう。隼人中佐ー」
「マリア。おはよう。君も散歩していたんだ」
「ええ。この家に来てから。だって目の前に渚があるんですもの。中佐はカイとお散歩?」
パパの胸にしっかりとしがみついている海人だが、ご機嫌のようでなにかうーうーと声を発していた。
「外が好きなんだ。機嫌が良いとこんな声を出すようになって……」
もう、隼人の嬉しそうな顔。
小さな息子のちょっとした成長も嬉しくて仕方がないといったかんじだった。
「本当に、みればみるほど葉月に似ているわね」
「だろう。もう、葉月のお腹から出てきて直ぐに抱かせてもらったんだけれど、その瞬間に思ったもんな。あ、これはママとそっくりだって」
「でも、男の子だから、大きくなったらきっとパパに似ているところがいっぱい出てくると思うわ。輪郭とか、仕草とか」
「そうかな」
「絶対よ。男同士の親子はそうだって良く聞くわよ。それにマイクの兄弟も、田舎のお父さんに皆似てきたんですって」
隼人は『そうなんだ。それは楽しみだな』と言ってくれたが、その後、妙に意味深な目つきでマリアをニヤニヤと見ているではないか?
「な、なに? 隼人?」
「いやいや。噂には聞いていたけれど、これほどに熱々とは思わなかったなあと」
何をからかっているのか判ったマリアは、ぐっと頬を染めた。でも一瞬で、彼はなにか思う穏やかな微笑みに変わった。
「……葉月は、嬉しいみたいだな。ここに一人残してしまった大好きな兄様が、楽しそうに暮らしているのを見られて良かったと。昨夜、寝る前はその話ばかりだったよ」
「そうなの。でも……葉月が安心してくれて良かったわ」
「葉月は、マイク兄さんのことも、マリアのことも好きだから。昨日は本当に楽しそうで幸せそうで。そうだな……。数年前に俺とここに来た時のように、ちょっとばかり子供みたいになって……。きっとここに帰ってくると葉月は『小さな女の子』になれるんだなと」
それを聞いて、マリアは改めてハッとさせられた。
隼人もマリアがそのように気が付くことを分かって話したのだろうか。彼から直ぐに言ってくれた。
「だから、部屋が変わってしまっても、変わりはないと思うんだ。ここにマイク兄さんとマリアがいてくれるだけで、葉月はここに帰ってきたら、あの頃の良いも悪いも全てひっくるめて『小さな自分』を懐かしく思い出すんだよ」
部屋が変わっても。
だから、葉月の部屋がなくなっても大丈夫。
そこにマリアとマイクという、彼女の大事な『家族』が待っているだけで良い。
「やだ。私、どうしてそれに気が付かなかったのかしら……」
呆然としているマリアに、隼人はいつもの優しい笑顔を見せてくれる。
「充分だよ。マリアらしく、葉月が所有しているなにもかもを大事にしてくれようとした気持ちは、彼女に充分伝わっている。葉月はそのことも嬉しそうに俺に話してくれたよ」
「そうなの? でも……私、葉月にちょっと酷い態度をしてしまった話があって……」
それも隼人は当然の事ながら妻から聞いているようで、『そうだったね』と静かに頷いた。
「たとえば、だけれど。マリアは葉月と義兄さんの関係とか俺達が知らない二人だけの出来事とか、そんなことは『なかったら良かったのに』と思っているのかな?」
妙な質問と思ったマリアは、直ぐに浮かんだ答は『そうよ』とだったが、思慮深い隼人に対している今、答は慎重にしたいところ直ぐには答えなかった。
だけれど隼人はそこも分かっているような顔。
「でも、俺は。葉月の今までの人生の出来事で『なにかひとつでも欠けていたら』。今はなかったと思っている」
「どんなことも回避さえ出来れば、葉月はもっと幸せに、もっと苦痛を減らして生きてこられたかも知れない」
今度の隼人は、ちょっと残念そうに顔を歪め、マリアの答を否定するように首を振った。
まるで昨夜のマイクのように……。また、マリアの清々しい朝を壊してしまうような気分に急転落!
そうだ。この中佐もマリアの思考には意地悪な人だったと思いだしてしまったり!
でも、そんなマリアの目の前に、ご機嫌にお喋りをしている海人が突き出されていた。
顔はママにそっくりだけれど、気のせいかしら? 目つきが抱っこをしているパパに似ている気がしてきた?
可愛らしい顔でうぶうぶと口を動かしているけれど、海人はママと同じ茶色い瞳で、でもパパの隼人のような真っ直ぐな眼差しを見せている。
「葉月に起きた何かが欠けていたら、この海人は存在しない。俺はいつもそう思っている。葉月が迷って歩いて、俺がいるマルセイユに現れたのも。彼女が、忘れられない義兄さんのところに行ってしまって、そこで俺達の最初の子が駄目になったことも。葉月と幽霊瀬川との邂逅で死にかけたことも、なにもかも。そうでなければ、海人ではない子が生まれていたかも知れない……」
それにもマリアは驚かされ、視界が開けていくような衝撃を味わってしまう。
「本当だわ。どんなに忘れられない悪いことが起きても、それもこの子が生まれるまでの『軌跡』というわけね」
「そう。勿論、俺と葉月の出会いもね。いつも二人でそう言っているんだ」
なるほど。この夫妻らしい『考え方』だとマリアはとても感嘆させられた。
「すごいわ。やっぱり貴方達は、だからこそ結婚したのね」
こちらの愛は、だからこそ結びついたのだとマリアは納得だった。
「この子が俺達のところにやってきてから、俺は特にそう思うようになった。あったことは忘れられないけれど、でも、もう振り返らない。葉月も、海人が生まれてからよりいっそうに、振り返らなくなった気がするんだ。」
今度は海人とパパの目線がピタリと合うのをマリアは見た。
パパのシャツを握りしめ、海人は一生懸命にご機嫌なお喋りをして口元が可愛らしく笑っている。
まだ会話など出来る訳もないパパと赤ちゃんだけれど、そこには既に会話があるようにマリアには見える。
そんな小さな息子との語らいをする隼人の顔もまた、基地にいる御園中佐の顔ではなかった。
マリアまでそんな隼人を見ると、素敵なパパだとうっとりしてしまう。
彼の腕の中にいる栗毛の男の子が、マリアには太陽に見えてくる。
きらきらのおめめに、きらきらの笑顔。
二人はこの子に癒されているのだと感じた。
「だから、マリア。葉月は気にしていないよ。ただ、つい……。マリアだから、決して自分から言わないことを教えてしまった。きっと気にしていると、言っていた。でもいいじゃないか。本当の姉妹なら、それぐらいはやり合うよ。葉月は、それも本当は嬉しかったんじゃないかな」
「葉月が、嬉しい? 本当?」
恐る恐る聞き返したマリアに、隼人は笑顔で頷いてくれた。
「もう起きているよ。マリアと買い物に行くんだと、頑張ってお洒落をしている。声をかけてやってくれ」
彼女の夫からそんなことを聞かされ、マリアはたちまち笑顔になる。
『私、行ってくる!』と、直ぐさま駆け出した。
はしゃぐように走るマリアも『少女の気持ち』だった。
葉月がいるとそうなる。
距離はあったけれど、私達は常に意識し合っていた。その時から本当は惹かれ合って、そしてどことなく気持ちはいびつでも繋がっていた。だから、『今』がある。
道路を渡って庭に入ると、丁度、葉月が外に出たところだった。
「葉月、おはよう」
「おはよう、マリア!」
彼女は元気いっぱいに挨拶をしてくれた。昨日の出来事などなにも気にしていないと言う気持ちの表れなのだろう。
それで思った。もう昨日のことはそっとしておこうと。
だけれどこれだけは言っておきたい。
「葉月、あの……昨日の部屋で聞かせてくれたこと。ごめんなさいね」
「ううん。驚かせてしまって私こそごめんね」
葉月の笑顔。
彼女の笑顔は変わったなとマリアは思う。
あの頃、彼女がこのような笑顔だったらと……今でも思う。
でも、隼人が言うとおりに、あの時の彼女があったから、あの可愛い男の子が生まれたんだろうなと、そしてだから葉月は今、この笑顔なんだろうなと思った。
「ねえ、それより」
彼女がその話をすぱっと切ってしまった。
「うちの旦那さんと海人を知らない? 面倒を見てくれるのはとっても助かるのだけれど、時々、二人だけでふうっと何処かに平気で出かけて、私をおいてけぼりにすることがあるのよ」
「そうなの? 〜あ・・。それってよっぽど可愛いのね。隼人中佐ったら……」
まあ、無理もないかとマリアは笑う。
隼人が息子とひっつきあって楽しそうにしている姿を見たら、もしかしてママに渡すのが嫌なのではないかと思うほどだった。
「そこの渚で、楽しそうにお話ししていたわよ。海人、とってもご機嫌だったわ」
「もう〜。ミルクも飲まさないで……。海人が外だと機嫌が良いからってすぐに連れ出すっ」
葉月は早速、渚へと二人を追う。
だが、隼人が海人を抱いて帰ってきて、その垣根から姿を現した。
「ママ、ごめん。つい調子に乗った」
マリアと葉月はそろって目を丸くした。
ほんのちょっとの間だったのに、いつのまに? 隼人も海人もずぶ濡れになっていたのだ。しかも砂まみれ。
「な、なにをしたのよ〜! パパとカイ!」
葉月が驚いて怒り出した。
「なにって。海人とちょっと波打ち際で海水を触ってみようかな、なんて試してみたら、うっかり転んでしまって……。だってこいつが俺の腕の中で、はしゃいで暴れるんだもんなー」
パパの隼人はバツが悪そうだが、何が起きたのか分かっていない海人は、パパの腕の中でジタバタととっても活発。興奮気味な楽しそうな声を『うきゃうきゃ』出している。
葉月もそんな楽しそうな息子を見て、怒る気も失せた様子。
「もう、カイったら。楽しかったの? 仕方がないわね。パパも着替えて!!」
「はあい、ママ」
あのじゃじゃ馬嬢を上手く乗りこなしている隼人が、葉月ママに怒られている姿も見物だと、マリアは大笑いしたいのを隼人が消えるまでなんとか堪えた。
そうね。あんなに幸せそうな二人だもの。
もう、過去に起きたことは……。
マリアはそう思い、心の中が光でいっぱいになったような、気持ちの良い朝を迎えていた。
そんな葉月を確かめることが出来て、マリアも幸せだった。
・・・◇・◇・◇・・・
フロリダの真っ白な太陽の光が降り注ぐ、海際の教会。
真っ白な砂浜と真っ青な海が見える外の会場。そこで愛の誓いを終えた二人が、青空に舞う色とりどりのフラワーシャワーの中。
誕生したばかりの新婚夫妻に、同僚、友人、知人は、花びらに乗せた祝福を惜しみなく贈る。その幸せな彩りの中、真っ白な軍正装服で凛々しく決めているアンドリューが照れくさそうに皆に手を振る。
花嫁は、少しだけ歳が離れているらしく、可愛らしい若妻だった。
「アンディー! もっとくっついてよー!!」
「違う、違う! 花嫁を抱き上げろーー!」
二人が歩いている道の横で、マリアはデジタルカメラを構えて叫んだ。
その隣で煽っているのは秘書室のイアン。マリアも『それは面白い!』と目の前にやってきたアンドリューを、イアンと一緒になって煽った。
そうしたら、アンディもまんざらでもない様子。皆の前で可愛いウェディング姿の花嫁を両手で抱き上げて、くるりと一回り。その後、誰が煽った訳でもないのに、見つめ合った花婿と花嫁がまるで二人だけしかいないような顔でキスをした。しかもいつまでも続いて、何度も繰り返している。当然、周りから祝福とからかいの歓声があがった。
もうデレデレのアンドリューは、花嫁を腕から降ろすと、マリアの前にやってきた。
「おめでとう、アンドリュー」
「有難う、マリア」
すっかり頬が火照っている様子のアンドリューも、今までにない笑顔。
これもあの凛々しい顔でコックピットに乗っている男には見えなかった。
アンドリューはあちこちに呼ばれて直ぐに行ってしまったが、彼と『有難う』の握手が出来た手をずうっと見つめていた。
彼ともすれ違いがあったけれど、このように親しくなれて良かった。
また、このように彼が幸せになる日に立ち会えて……良かった。
マリアはこの時、葉月にドレスを着せる着せないでアンドリューと諍いを起こしてしまった『葉月の誕生日パーティー』を思いだしていた。
彼にとって葉月は、パイロットという同僚で同期生。女性じゃなくて、彼女は彼にとっては一番認めている『軍人』だった。
そんな彼女を軍人達を集めたパーティーで、ドレス姿の大佐として皆にもみてもらいたいと頑張ってしまったマリア。それを彼にも否定されたあの日。
でも、今日は……と、マリアはこの会場を見渡す。
今日はマリアも葉月も。マイクも、そして隼人までもが……。今日は誰も、真っ白な軍正装をしていないのだ。
そう、今日、真っ白な軍服正装で決めているのは花婿のアンドリューだけ。
だからマリアもドレス。そして、マイクも、隼人も。秘書室の男達も、パイロット同期生のケビンにダニエルも、皆、スーツ姿。
そして葉月も、なのだが……。彼女はドレスではなく、夫と色を合わせたキリッとした濃紺のスーツを着ていた。それは華やかなドレスを身に纏う花のような女性達の中で、これまた目を引くものだった。
軍服ではなくても、彼女のそのきりっとした佇まいは『大佐嬢』だった。装いは変えても、彼女はこの日は『私も軍人男達と共にスーツで』と、気持ちを合わせてきたのだろう。
それでもシックなスーツの襟元からこぼれるブラウスの豪華なフリル。それが彼女を華やかに見せている。
そんな葉月のシックでエレガントな装いを一目見て、マリアは思った。『葉月、登貴子ママに似てきたんじゃない?』。それだけじゃなかった。遠い昔、マリアも良く目にしていた彼女の祖母、レイチェル=御園に似てきたとも思ったのだ。
装いはシックでもそこに凛と香り立つ華やかさと気品。御園の女の雰囲気がそこに漂っていて、誰もが必ず一度は葉月に釘付けになったのをマリアは気が付いていた。
マリアとアンドリューが喧嘩した時と逆になっていた。
これはマイクがアンドリューと話し合って決めたことだった。
『アンディ。レイまで正装となると、大佐嬢の立派な正装に花婿の影が薄くなるぞー』
それを聞いたアンドリューは、非常に焦ったらしい。
なんともまあ、微笑ましいとでも言おうか?? 『この日の一番の男に俺達は花を譲ろうじゃないか』なんてちょっと意地悪な提案だったが、そこも本当は男達の気遣い。マイクのそんな勧めもあったせいか、アンドリューも素直に甘えてくれたそうだ。
この話を聞いて、マリアは『あの件、これでおあいこってことなのかしら〜』とマイクのその提案を、勘ぐってしまった。
でも、これで良かったとマリアはこの日の会場を見て思う。
間違いなく、今日、真っ白に輝いているのはアンドリューだった。
そのアンドリューと葉月が今にも泣きそうな顔を揃えて、ずうっとなにかを語らっている。
マリアはパイロットではなかったから、彼等の青春の日々がどのようなものであったのかは知らないけれど。
事情を知っていたアンドリューもきっと……。目の前で冷え切った心で突き進む葉月のことを、心痛めながら見守ってきたのだろうなと思った。
二人は今、輝かしい花婿と凛とした人妻として向き合っているけれど、でもやはり最後に微笑み合い、なにかを讃え合うように抱き合った姿は、どこからみても『かけがえのない同期生同志』だった。
マリアも今日は、淡い色のドレスでここにいる。
自分にしてはちょっと『可愛らしすぎる清楚さ』かなと思う。二十代の頃には決して選ぶはずもない大人しいムードのドレスだった。
でも、今朝。マイクがそんなマリアを見て言ってくれた。
『エレガントなマドレーヌママに似てきたね。素敵だ』
──夜までそのままでいてくれ。
なんて、耳元で囁かれた。
それは今夜の予約? このドレス姿で?
でもマリアだって『ママ』は憧れだった。
その母親に似ていると言われると、マリアも素敵なレディになってきたのかと嬉しかった。
マイクも言っていた。『レイとマリーが並ぶと、その昔のレディママを彷彿とさせるね』と。葉月もママやお祖母様に似てきたと言われるのが、御園の女として嬉しいようだった。今日のマリアもそんな気持ち。
今日は素敵な一日になりそう。
皆がとても楽しそうで、マリアも彼にこの姿を気に入ってもらえて嬉しいし……。
外での祝福がすみ、人々は芝生のガーデンパーティーの会場へと移っていく。
会場に着くと、流石というか……。もう秘書室の男達が『お手伝い』のポジションについているのだ。
その様子だと、今日もマイクはあちこち歩き回って、じっとしていないだろうなとマリアは思ったけれど、パーティーがあれば毎度のこと。
アンドリューも今日はマイクのそんなところを頼っていたようだから、仕方がないだろう。
シャンパングラスが手元にやってきたので、そろそろ、葉月と隼人の側に戻ろうかなと思ったそんな時……。
スーツ姿を揃えた軍人ばかりの会場の中、隣のビュッフェテーブルに佇む一人の男性が、こちらをじいっと見ている視線にマリアは気が付いた。
グレーのスーツ姿。三十代の男性?
黒髪の、短髪の……。
その男性がマリアと目が合った途端に、それを待っていたとばかりにこちらに歩み寄ってくる。
彼が近づいてくるたびに、マリアは胸騒ぎがした。
黒髪の、黒い目の? あら? どこかで会ったことがある?
ええっと……。 あ! 思いだした時には彼が目の前にいた。
「久しぶり。マリア」
「ケイン……!」
彼はパイロット。
フロリダではなく、今はシアトルの湾岸部隊にいると風の噂で……。
でもここにいてもおかしくない。彼はアンドリュー達と同期生なのだから。
そして彼は、マリアの『初めての男』……だった。
Update/2008.1.17