彼の部屋に置いたマリアのキャンドルに火が灯る。
マリンノートの、マリンブルーのキャンドル。
葉月の部屋を使うと決まった時、ショッピングモールで買い物をしていたら目に付いたもの。
彼女の部屋なら、きっとこんなキャンドルが合うはず。そう思ったから買った。
ガラスの受け皿には、目の前の渚から掬ってきた白砂と小さな貝殻をちりばめて、彼女の可愛い机に置いていた。
マリアの趣味ではないけれど、でもそれは彼女の乙女チックな部屋を使うことになったマリアが、そこに似合うものとして自分で選んだ『お気に入り』だった。
それがいつのまにか……。
彼の寝室にある。
出窓の、彼が選んだ男っぽいオブジェの側に置くようになっていた。
つまり。マリアの趣味ではなかったが、それはそれで気に入っていただけあって、大好きな彼の部屋に持ち込むようになっていたようだ。
彼と眠る前、彼とベッドの中で素肌を合わせたまま、ただお喋りをする時に、このキャンドルは二人を照らしてくれた。
そして今夜もマリアはそのキャンドルに火を灯す。
炎の周りの蝋はうっすらと白く明るく透けるが、芯の蝋はより一層深い青みを増して、まるで海中のようだった。
「また、そのキャンドルに火を点けたんだ」
シャワーを浴びたマイクがこの部屋に帰ってきた。
今ではこの部屋に自分以外の誰かがいることが当たり前になっているようで、マイクは窓辺にいるマリアにいつものように笑いかけてくれる。
でも……。今夜のマリアは気持ちが沈んでいる。この家の、ここにいたファミリーの中で起こっていたことを思い返すと、とてもじゃないけれど、今までのような素敵な気分だけにはなれなかった。
「ああ、賑やかだったな」
夕食も、御園若夫妻とベビー海人、そしてベッキーも一緒に中に入ってもらい、それは賑やかだった。
マリアもそこではつとめて笑顔を保ち、楽しい会話に心がける。
だけれど、やはり……純一とは目が合わすことが出来なかった。勿論、あちらはマリアと言葉を交わす機会もないから、あまりこちらを見ることはなかっただろうけれど……。
窓辺でそんな胸の中に残ってしまった重いしこりを思いながら、マリアはそのままキャンドルの火を見つめていた。
ほのかに香り始めた、清爽感あふれるマリンノート。
「どうした? マリア」
彼が何かを意図している時に呼ぶ声と名前に、マリアはドキリとして振り返る。
「なんでもないわ。もう休みましょう。騒ぎすぎて、嬉しすぎて……疲れちゃった……」
笑顔を見せ、彼に気が付かれないよう……。マリアはガウンを脱いで、いつもの薄いスリップ一枚で、彼のベッドに潜り込んだ。
「そうだな。明後日はアンディの結婚式で、明日は支度で忙しいしね」
「そうよ。私もドレスの準備に、葉月の買い物に付き合うんだから」
明日は土曜。一応仕事は休みだが、明日はそんなスケジュールでいっぱいだった。
だから、マイクも風呂上がりのバスローブを脱ぎ捨て、彼も……いつもの下着一枚の素肌でベッドに入ってくる。
もう慣れたけれど……。彼が下着一枚で寝る姿は、今でも少しはドキッとさせられる。鍛えられた身体、程良く引き締まっている身体。そして清潔感のある肌、なのに風呂上がりには忘れない男のトワレの匂い。それがいつだって彼のベッドに染みついている。そしてマリアのガウンにも、新しく着替えた寝間着用のスリップにも肌にもあっという間に移ってしまう。だから、近頃はオフィスでも少しばかりメンズぽい香水をマリアは使い始めていた。それをする前、『それ、誰の匂い』とからかう同僚達の言葉にハッとさせられたことがあるからだ。きっと誰もが『ジャッジ中佐の匂いだ』と気が付いたことだろう。
肌を合わせていることもない時期でも、周りの人々は『あの二人は口ではステディなんかじゃないというけれど、とっくに寝ている』と囁いていたそうだ。同性の同僚がそう教えてくれた。
その匂いが今夜も──。
「マリー、おやすみがまだだよ」
「……マイク」
なんとかやり過ごそうと思っても、そんな男っぽい素肌の彼が熱く触れてしまうと、マリアはあっという間に溶けてしまう。
長い指がマリアの頬に伸び、そして寝ているマリアの顔の上には、既に彼の深海のような夜空のような真っ青な瞳が揺らめきながらみつめてくれている。
『おやすみがまだ』。この人はマリアをどこまでも、まだまだ子供のようなお嬢ちゃんに据え置くような言葉を囁く。ちょっとシャクに障りながらも、歳が離れている大人の彼に言われると嫌ではなかった。
最初は『子供扱いしないで』とマリアも文句を言っていたが、ある時から気が付いていた。これは大人の彼が『若いマリア』に接する時の照れ隠しの一種なのだと。
お嬢ちゃん扱いの言葉を囁いたのに。ほら、もう……目の前の男が触れた唇は『優しい男性』なんかじゃなくなる。
マリアという女をどこまでも食べ尽くそうという欲望を秘めた、甘い唇。
その唇が、今夜はいつもより激しくマリアの中を愛し続けている……。
それはただのおやすみではなく、その続きを欲している……口づけでマリアに訴えてくる肌への申し込み。
だけれど、今夜のマリアはそっと顔を背けてしまう。
マイクの熱い求愛はいつだって逆らえないほどに素敵なものなのだけれど、今日は駄目だった。
特に、マリアの胸に凝り固まってしまったものが『セックス』である限り、どこかでそれがちらつき、純粋にマイクの愛撫に彼との交わりに集中することが出来ないとマリアは思った。そこをおざなりにして、流され、自分を誤魔化すことはマリア自身には許せないことなのだ。
「……今日は」
「どうして? 客がいるから? 部屋は離れているよ」
そしてマイクは諦めてくれなかった。
ついに彼はマリアの上に覆い被さり、マリアの頬を包み込み、深く深く唇を塞いでしまう。
小さく漏れるマリアの呻き声。
……今夜は嫌。でも。と、霞んでいくマリアの思い。
共に暮らすようになって週末の分かち合いは当然のことだった。時々、彼は帰ってこない日もあるけれど、帰ってきた日には絶対にマリアと一緒に眠りたがる。その時は必ず……愛してくれ『ただいま』と言ってくれた。
それまでお互いに一年間、抑えに抑えていたせいか、暮らすと言うことで留め金が外れると、肌を合わせることは頻繁になった。
マリアはそれに溺れている。そしてマイクも夢中になってくれた。言葉ではまだマイクだけが『恋人でいいんじゃないかな』と言っただけで、マリアはまだなんとも返事をしていないけれど……。確実に『愛している』。そんなの言葉にしなくてもマイクには通じているとマリアは信じていた。だから返事なんてなくてもいいじゃないと。そしてマイクもきっと……申し込んでみたものの、その返事を言葉で表さないのが『マリアの答え』と思ってくれているはず。
その分、マリアは彼を必死に愛している。言葉じゃない。肌で唇で、笑顔で、そして彼の目を見て、彼の傍にいて、この家にいて彼の帰りを待って……。
今夜は乗り気じゃないのに……。
でもマイクの手は、マリアのスリップの肩ひもをゆっくりと指先に絡めて外していき、そのまま降りた指は流れるように当たり前のようにマリアの大きな白い乳房へと柔らかく触れる。
挨拶のような、胸先への愛撫。その時、マリアはいつだって堪らずに濡れた吐息を漏らしてしまう。
そしてその口も。彼が目の前に見つけた小さな赤い実を口先で摘むようにして、その次にはその甘さを舌先で転がして味わうようにして、マリアの唇の動きを奪ってしまう。
「……や、」
「嫌がるの、初めてだね」
彼の口元が楽しそうに崩れる。
マリアは息を荒げながら、それをただ見つめるだけ。
嫌がっても。マリアはきっと、このまま彼の手先指先舌先で、思うままに甘い世界にさらわれ諦めてしまうだろう。
マリアの身体の隅々を愛撫することに慣れた手が、迷うことなく、いつもの手順で滑り回る。そして甘美な薄桃色の花びらが舞っているような渦の中にさらっていく。
マリアが望んでいる全てを、マリアの羞恥的な囲いを取り払って、くすぐりだす。だけれどその愛でる手はまるでマリアという女王に許しを乞うような、じれったい先に進まないもの、ゆっくりしたもの。なのに、何故、それほどにマリアの身体を芯を焦がしてしまうのか……?
「はあ、マイク……。今日は駄目……」
「駄目な理由は、どこにもないようだけれど?」
「いや、私の話……聞いて」
僅かに残っているマリアの理性。己が崩壊してしまう前の僅かな抵抗が、マイクの手首を掴んだ。
だけれど、それもマイクは許してくれなかった。
「駄目だよ。話は、終わってからだ」
「……っやぁん」
客人がいるから。なるべく声を堪えていたのに。マイクはまったく怯むことなく、いつもそうしているように遠慮ない指先でマリアの中を泳ぎ始める。
そこでマリアの身体はぎゅうっと熱く燃え上がる。
頬が火照って、間違いなく真っ赤になっていることを自覚する。
それだけじゃない。声だって……いつもより出さない努力をしながらも、そのぶん喘がずにはいられなかった。
女王の許しを得て全てを手中に収めた男は、どこか満足げな笑みを浮かべている。
「マリー。今日はいつもと違うね。でも、いつもよりずっと可愛いね」
「っ、また……。そうして私を……」
「お嬢ちゃん扱いをして、からかって楽しんでいる? お嬢ちゃんにこんな激しい要求はしないよ」
にっこりと笑った彼は、今は王様。
全てを許してしまったマリアは、王様と深く結ばれる。
そして王様は憎たらしいほど楽しそうだった。マリアを空高く上げられたかと思うと、すとーんと振り落とすかのように……。そんな激しいアップダウンが繰り返されるほどに、深く激しく愛されて……。
彼がなにをしようがマリアはもう彼のもの。
自分でも額に汗を滲ませているのが分かる。
四十を過ぎた男が、まだ自分より若い女性の中を思いのままに動きながら余裕顔。
その笑顔でマリアの額を指でなぞって汗を拭い、そこにも口づけを繰り返す。
その時はもう、マリアは遠い世界にいた。
彼が耳元で囁く。
「これぐらい時間が経つと、俺の部屋はマリーのキャンドルの匂いでいっぱいになる」
──キャンドルの淡い灯りの中で、マリアの肌を愛することが習慣になりそうだ。
彼がそうも囁いている。
マリンノートの香り。
遠いさざ波の音。
耳元で、彼が切ない吐息を漏らしながら、我を忘れて夢中になった時。
マリアも彼の背を抱きしめ、そして自分も激しいほどに彼の肌に唇を寄せ、歯形を付けていた。
・・・◇・◇・◇・・・
なにもかもとろけてしまったままに、まどろみたい。
でもと、マリアは裸で起きあがる。
出窓でまだゆらゆらと揺れているキャンドルの炎を静かに消した。
ふっと部屋が暗くなるのと同時に、遠い潮騒の音が聞こえてきた。
マイクも裸のままベッドに横たえ、静かに黙っていたのだが。
「いいね、俺はマリーのキャンドルが気に入ったよ」
マリアはひっそりと喜びの笑みを浮かべてしまう。「じゃあ、今のキャンドルがなくなったら、また買わなくちゃ。新しいのがいい? それとも同じのがいい?」
するとマイクが黙ってしまった。
その間が長い……。だけれど彼は一人、幸せそうな横顔を見せ微笑みを携えている。
でもなにを考えているのか分からなくて、その間、マリアは結構焦れてしまった。
やがて彼が思い巡らせていたことをぽっと呟く。
「……同じのがいいね」
「新しいものは嫌いなのね?」
「ああ。これが良いと思ったら、ずうっとそれがいい」
そして彼が、遠い目をしてしまった。
マリアは少しドッキリさせられる。彼のそんな目を時々見てしまう。こんな時、マリアは彼のことを、自分では決して推し量れない思慮深い大人なのだと感じずにはいられない。
でも、マリアには彼の『同じのがいい』が嬉しかった。決して、移り気などしないという誠実な彼の本質が現れている気がしたのだ。
「それなら、このキャンドルの在庫があるうちに買いだめしておかなくちゃ」
半ば、本気だった。
明日の買い物でショッピングモールに行ったら、あの雑貨店の店員に頼み込んであるだけ買い占めてしまおうと。
だけれど、そこでマイクが大笑い。
「あはは。ほどほどに! マリーのことだから、飽きるほど買ってくるんじゃないかと、今、ハラハラしてしまったよ」
「ええ? 飽きることも有り得るって事なの?」
「そうだよ〜。なにごとも程々。やりすぎは直ぐに飽きる元だ」
せっかく嬉しい気持ちになったのに、なんという展開にもってきて濁してくれるんだと、マリアはふてくされた。
睦み合いの後、いつもと変わらないちょっとした言い合いで和んで、さあマリアも彼の肌に寄り添って眠ろうとベッドに腰をかけた時だった。
「それで? マリーが初めて嫌がったほどの話はなんだったのかな?」
ああ、その話かと、マリアも思い出す。甘い誘いに流されてしまったから、もう言うまいと思っていた。
素敵な気分になったから、このまま眠ってしまいたい。
だけれど、やはり彼は察していたのだろう。マイクもそっと起きあがると、マリアが後に引き返せない言葉を口にした。
「レイと喧嘩した? 部屋のことで。それとも、『ジュン先輩』がちょっと苦手のようだけれど……」
どちらもズバリ。
この男に、隠し事は無理かとマリアは思った。
だいたいにして、そうだ。マリアはマイクにとっては特に『分かりやすい人間』なんだと思う。だから逃げ場がなく袋小路に追い詰められた気分にさえなってしまうことなんてしょっちゅう。それが心地良い時もあるし、あまりにも的を射すぎているところが癇に障り、気分が悪い時もある。
今夜は後者、癇に障る。だからこそ、マリアは黙っていられなくなった。
でも、なんとか堪えて、穏やかに──。
今夜はただでさえ、客人がいる。
いつものように二人きりだからこその遠慮ない大喧嘩は避けたい。
「なんだか、変わった人……。怖いわ」
やっと出た一言がそれだった。
今のマリアには、あのお兄さんのなにもかもが腑に落ちない。
そしてそんなマリアの言いたいことを分かっているかのような溜息が隣から聞こえてきた。
「ジュン先輩は、そこらへんにいる男とは確かに違う。あの人は昔からあんなふうで、そしてあの人を一番理解しているのは、レイなんだよ。それはもうハヤト君も良く理解していることなんだ」
しんみりとした静かな声でマイクがそう言う。
だけれど、マリアにはさっぱり解らなかった。
そんなマリアが自分の気持ちを持てあましている最中、拍車をかけるようにマイクは純一を擁護する。
「あの人は御園家の為に、『孤独』と隣り合わせで生きてきて、今も、そしてこれからも……きっと、その覚悟なんだろうね。だからこそ、あの人は自分が思っていることはいちいち外に出して表現はしないよ。人に良く思われたい理解されたいだなんてこれっぽっちも思っていないから、愛想なんて皆無。いい人いい顔で、なんて思わない人なんだよ」
マイクの全面的な擁護を耳にして、マリアはかあっと頭に血が上ってしまった。
だからなに? その前に彼が義妹に対してしたことがどうしても理解できない。その後、彼が御園や義妹の為に何をしたと聞いても、もうマリアの感覚では全てが許せなくなっていた。だからついに……マリアはマイクに吠えてしまった。
「だから、なに!? まだ十三歳の葉月を女性として奪ったことは、だからこそ許されたことだというの!? それも事件の後、男性に対して沢山傷ついてあんなに警戒して荒れていた葉月を手込めにしたって言うの!?」
あのマイクが、とても驚いた顔を見せ、固まってしまった。
口を開いたまま、この男さえ、そのことについてはどう言い返せばいいか分からないといわんばかりの戸惑い顔。
だけれど、それは一瞬で、マイクは直ぐに諦めたように肩の力を抜いて溜息をこぼした。
「──聞いてしまったのか」
「ええ、葉月からね」
「それで? 『マリア』は、どうすれば一番良いことだと納得できるんだ?」
そう問い返され、マリアはここで一人苛む。
これでは、本当に『本来のマリア』に戻ってしまっている。
許せないものは許せない。人によく言われた『お嬢様育ち故の、綺麗すぎる正義感』というのはこれなのだろうか?
以前も、間違ったことをしている人間がいたら、どうしても許せなかった。
ひどく喩えると『悪いことをしている者を一目でも見たら、片っ端から許さない』だ。
マイクとこのような仲になるまではまさにそれで、なんでもかんでも白黒はっきりさせないと気が済まなくて、マリアの中に『グレーゾーン』なんていうものは存在しなかった。しかもその場で短期間で、きっちりと白黒決着をつけないと気が済まない。
しかしマイクと日々を過ごすうちに変わった。そしてそんなマリアを見て彼がはっきり言ってくれたのだ。
──『マリーはきっちり分けすぎる。世の中、そんなに綺麗に分別できる世界じゃない。そればかりしていたら、君が苦しくなるだけだ』
当たっていた。自分の中で『白黒分別しきれない事柄』が多すぎて、その度に、人じゃなくてその人の中にある『割り切れない事柄』に喧嘩を売っては自己嫌悪。そしてその感情を持っていた対する相手を知らないうちに傷つけてきたのかも知れない。そしてマリアも後になって『しまった』と思うが、それは後の祭り。彼が言うとおりに『苦しくなる』のは最後は自分だった。
割り切れない間も、ひとりで悶々と苦しむ。時には、その当人にストレートにぶつかっていた。そうそう、葉月を捕まえようとしていたように……。マリアとしては喧嘩を売っているわけじゃなく、単に『その人を理解したい』からこそ、ぶつかってきたつもりなのだが……。そこが周りからも当人からも誤解されてしまう。
──『どうして君は距離が置けないんだ。真っ正面からぶつかることだけが、たったひとつの正当な術だと思っているのか?』
これもマイクにはっきり言われて、ハンマーで頭を殴られたような気持ちになった。
流石にこの時は、マイクの目の前で大泣きをした。でも彼は……はっきり言ってくれるけれど、その後崩れたマリアのことは、その胸で寛く包み込んでくれた。
だから、マリアはそれまでどのようにすれば上手く自分で納得できるかという道筋に気が付かなかった自分を改めてきた。
葉月と義兄の事は終わったことだけれども、とても理解できなかったこのファミリーの中で起きた出来事。
自分を改めたい大人の理性が『そういうこともある。他人様の事情』と言い聞かせながらも、マリアという個人の素直な気持ちは『やっぱり納得できない』だった。
マリアが言いたいことはたったそれだけ。
『どれが納得できる一番良いことか』は、マリアにはまだ浮かばない。
ただ『十三歳の女の子を抱こうとする気持ちが分からない。大人の分別ないのか』と思っただけ。
そうだ。葉月より、ずうっと年上の義兄さんが、その時思いとどまるべきだったのだ! そう言いたい。
「ちゃんとした大人なら、葉月が大人になるまで待てたと思う」
だが、マイクは間髪入れずに言い返してきた。
「先輩とレイには年齢なんかなかった。特にレイは、生まれた時から傍にいて慕ってきた男性だ。二人は惹かれ合っていた」
まだ、マリアは納得できない!
「愛しているなら、それこそ大人になるまで待てるわよ!! マイク! 貴方もその時、この家と関わっていたはずよ! どうして止めなかったのよ!!」
「俺が知ったのは、もっと後だった」
「知っていたら、止めてくれたわよね!!」
もう終わったこと。それをこうして言い合っても仕様がない。マリアにもそれは重々分かっている。
でも! 心が暴れてどうしようもない。マイクの前だからこそ、マリアはそれを解放していた。彼ならこれを真っ正面から受けとめてくれる。そして──マリアはマイクに求める。『貴方もその時分かっていたら、私が感じたようにやめて欲しかったわよね?』と。
だが全てをぶつけた男は、そのまま黙ってマリアを見つめているだけ。
そして彼の口から出てきた言葉に、マリアは愕然とした。
「当時の俺も、いや、今の俺も、きっと止めない」
目を見開いて、マリアは硬直していた。
──止めなかったですって!?
そのまま幼い葉月が男の勝手で奪われるのを黙認したと?
マイクはそれでも怯まずに、マリアの驚愕する心にいつもの落ち着いた声を差し込んでくる。
「なによりも、二人はどんなに離れていても愛し合っていたよ」
それさえあれば、年齢なんて関係あるのか?
そういいたげなマイクの青い目に、マリアは信じられないとばかりに頭を小刻みに振って否定しようとした。
さらに冷たくもマイクは言い切った。
「どんなにマリアが怒っても、納得できなくても、『そうならざる得なかった出来事』は他にもいっぱいあると思う。マリアが言うところの『それは絶対に間違っている』という事が彼と彼女の間に起きた。当人達がその当時に、そこまで思い詰め『その間違い』を起こすに至ってしまった気持ちを、君は考えたことがあるのかな?」
マリアの頭の中が真っ白になった。
全てを否定された気持ちにさせられた。
彼はやはり『天敵』だ!
時にはこうして、残酷なほどに切り捨ててくれる時がある。
それは容赦ない。恋人なんかじゃなくて、本当にそこにいるのは秘書室の鬼男だ。
そのうえ、彼は揺るがない深海の眼差しをマリアに突きつけて言った。
「マリア。怒るのはそれからだ」
今、そうして怒るのは間違っている。
……分かっている。
でも、貴方の前だから、素直に思った通りに飾らずに……叫んだだけなのに。
それを貴方は『間違っている』と言うの??
──声にならず、マリアはただ震えていた。
「──馬鹿! 貴方なんて大っ嫌い!!!」
そこにあったガウンを握りしめ、マリアは羽織りながら部屋を飛び出した。
『マリー!』
彼が慌てて呼び止める声が廊下を走るマリアの背から聞こえてきたけれど、立ち止まらなかった。
(今更、慌てても遅いわよ!)
追いかけてきて、マリアの背を捕まえて、あの長い腕で力強く胸の中に抱きしめて、そうして『マリー、ごめん』と言っても、『絶対に許さない』とマリアは本気で思った。
「マリー。待ってくれ」
「絶対に口もきかない。もう一緒に寝るもんですか!」
マリアの心は頑なになっていく一方、そして燃え上がる一方だった。
しかしリビングに出た時に、とうとうマイクに捕まってしまう。
「マリー。落ち着いて」
「私はここで眠るから、もう、放っておいて!」
彼を押しのけるが、マイクはその腕の中にマリアを収めてしまおうと必死だった。
しかし、マリアも必死だ。ぜえええったいに、今夜はもう、この冷たい男の横では心穏やかに寝ることなど出来ない! 苛々してきっと朝まで文句を言っていることだろう。……それこそ、彼には迷惑。だからせめて……。
「なんだ。それが噂の派手な喧嘩なのか」
暗がりのリビングでそんな声が聞こえ、二人は揃ってハッとした。
だが全てが暗いわけではなかった。
窓辺にある大きなソファーセットの周りだけが、ほんのりと明るい。
そこには、マイクのテーブルスタンドを使ってソファーで仕事をしている純一がいた。
それまで黒いスーツ姿だった純一は、今は砕けたワイシャツ姿で暗闇のほの明るい中にいるが、その気配のなさ、その姿が彼のネーム通り『黒猫』そのものだとマリアは息を呑んだ。
だがマリアは『喧嘩の原因』が目の前にいることと、マイクが腕の力を緩めてしまった事に気が付いて、その純一にめがけて走っていく。
「マ、マリー! 駄目だ!」
飛び出していったマリアにマイクが叫んだ。
さーすが。マリアがなにをしようとしているか、マイクは判っている。
だからあの落ち着いているジャッジ中佐が、その慌てぶり。いい気味……と、言いたいところだが、今、マリアの目の前には『酷い義兄様』しかいない。
目の前まっしぐら。僅かな明かりの中ノートパソコンと向き合っている純一の側に、マリアは座り込んだ。
だが、純一は表情一つ変えない、こちらはかなりどっしりとした落ち着き。
しかし今、マリアの頭には『それ』しかない。
ぐいっと純一の顔を見ながら、マリアは向き合う。
「マリー! やめるんだっ」
マイクの叫びも虚しく、マリアの口はついにまっすぐにご当人に向けて『投球』。
「ジュン兄様! どうして十三歳の葉月を抱いてしまったんですか!」
後ろから『マリ〜……』という、とても力無い声が聞こえていた。
そして、目の前の『直球』をくらった男も面食らっていた。
あまり表情を変えなかった固い顔つきの純一が、その目をゆっくりと見開いて唖然とマリアを見ていた。
──剛速球、直球ストライク?
Update/2008.1.10