夕暮れ間近のリビングでは、まだまだ賑わいを見せていた。
久しぶりにマイクとジョイに会った小笠原の三人はいつまでも昔話や近況報告などで賑わっている。
ベッキーも念願の『お嬢ちゃんのベビー』を、ずっと抱いたまま感慨深い様子。眠っている海人を長い間眺めて嬉しそうな顔のままだった。
でもそのうちに葉月が頃合いをみて、マリアに耳打ちをしてきた。
「私が使っていた部屋に、海人を寝かせても良いかしら」
マリアは『勿論、OK』というサインを出して、微笑む。
まだまだ軍隊や飛行機やシステムの話で盛り上がっている男共を残して、お嬢ちゃん二人は揃って二階へと向かった。
男達も、こちらはお嬢ちゃん同士にしようとしてくれるのか、誰もこちらが静かに席を外したことにはまったく気にしない様子で話に夢中だった。
白い手すりの階段を上がりながらも、マリアと葉月は目が合うとそっと微笑み合う。
ママの腕の中、ちょこんと収まって眠っている海人の顔は、マリアから見ても本当に可愛らしい……。
「カイはお利口さんね。おじ様達が騒いでいても大人しくねんねして……」
「ふふ、小笠原でも賑やかだからきっと慣れているのよ」
それでも長旅の後。きっと、この家に到着して安心して寝たんだわとマリアが思ったほど。気持ちよさそうに眠った海人を見て二人は微笑みながら、二階のその部屋のドアを開けた。
マリアがこの部屋に来てから少しばかり月日が経っていたが、それでもこのドアを開けるとまだマリアとは違う匂いが漂う。
それはここに数年間過ごした少女の匂い。その匂いに気が付いたのか、葉月は嬉しそうに目を細めた。
「本当だわ。ちっとも変わっていない!」
水色のワンピースを着た葉月が、自分が産んだベビーを腕にその部屋の中へ。
開けていた窓から、さあっと潮騒が聞こえる海辺の風が入ってきた。
彼女の栗毛とスカートの裾をふんわりと揺らす……。
それを背後で見ていたマリアは、なにかの幻を見たような気にさせられる。
……そう、きっと。この部屋に閉じこもっていた『少女』は、あの頃も心の中ではこんな姿だったに違いなかったはず。その彼女が帰ってきた。あの頃、彼女が思ったままの姿を取り戻して帰ってきたようにマリアには見えてしまっていた。
やはり葉月も海人を抱いたまま、嬉しそうに自分の机に寄り、窓辺から景色を眺め、可愛らしいベッドに猫足のドレッサーを一通り眺め、とても懐かしそうだった。
「マイクから聞いたわ。貴女が変えずにとっておいてくれたって。有難う、マリア!」
葉月の輝く笑顔がマリアに向いて、ちょっと照れてしまった。
本当はその時、ちょっぴりあの人と喧嘩したんだけれど……。でもそれはマリアの心の中にしまっておく。
「ベビーベッドもあるわ! どうしたのこれ!」
葉月の可愛らしいベッドの横に、ベビーベッドもちゃんと用意しておいた。
「実はそれね。フォスター中佐が持ってきてくれたの」
「え、隊長が?」
「うん。リリィが使っていたんですって。貴女の赤ちゃんが来ると隊長もリリィも張り切っちゃって……。昨日、この家に来て、この部屋でフォスター中佐とリリィとマイクで大騒ぎで組み立てたのよ」
『まあ』と、葉月はとても感激したようで、早速その小さなベッドに海人をそおっと寝かせていた。
そして葉月は、すやすやと眠った海人のふんわりとしている栗毛を愛おしそうに撫でて笑った。
「やっぱりマイクは、海人にも水色を選んでくれたのね」
「そうよ。それだけは私も、その色が良いと意見が一致したのよ。だって、このお部屋の色じゃない」
「なあに。それだけは意見一致したって。相変わらず、二人で遠慮ない言い合いをしていそうね」
葉月にそう言われ、マリアも『実はそうだったのよ』と苦笑いをこぼした。
ここ一、二週間。御園夫妻を迎え入れる為の、マイクとの準備はまさにそれだった。
ベビーベッドに敷いた水色のタオル地シーツも、可愛いベアのイラストがある水色のタオルケットも、白いレエスが縁取る水色のピローも、全部、マイクとマリアが共に選んだ。
その買い物も、端から見ると可笑しかったのではないかとマリアは振り返る。
まだ結婚もしていない将来のことなど微塵も考えていないカップルが、『妹分のベビーがくる!』と二人であれこれとベビー用品売り場を漁って、ひとつ何かを選ぶのに、ああじゃないこうじゃないと喧嘩ばかり。
側を通りかかった年輩の女性に『貴方達、生まれる前からそんな騒々しい喧嘩をしていたら、お腹の赤ちゃんが怖がってしまうわよ』なんて言われたぐらい。
その時、二人はハッと頬を染めあったが、でも直ぐに一緒に笑っていた。それでもマリアとしては、その後一時でも気まずい空気が流れないだろうかと密かに構えていたのだが、マイクはそんなところも良く知ってくれているのだろうか? 『参ったね』と笑っただけ。また直ぐにマリアに喧嘩を売ってきたぐらいだ。
それぐらいに。二人でぶつかり合ってでも一緒に真剣に選んだものだった。
葉月はマリアからその話を聞いて、やっぱり二人らしくて可笑しいと大笑い。なのに……急にマリアをじいっと静かに見つめたのだ。
マリアもそんな葉月気が付いて、面白可笑しく話していた口を閉じると、葉月が少し感慨深そうに言った。
「私、マイク兄様のこと、とても心配していたの」
うん、分かるわ……と、マリアは無言で頷いた。
妹分の葉月が心配していたことはきっとマリアがフロリダに残された彼と向き合って案じてきたことそのものだと話さなくても分かったから。
「パパとママが日本に帰国してしまって、マイク兄様は一人置いていかれて……。私が再度、事件に巻き込まれても、結婚しても、マイクだけはフロリダに残って遠いところからサポートに徹してくれていたわ。きっと私達が『日本に手伝いに来て』と言っても、マイクは来なかったと思う。彼、そんな一直線の生真面目な人なんだもの」
それも分かる……と、マリアは再度無言で頷く。
やはり彼女はマイクの妹に等しい人間なんだと、マリアは痛感する。そしてそれは同時に、マリアが思っていることも同じように思い感じ考え同感してくれる人なのだと、どこか頼もしくも思える。
その頼もしい妹分の葉月が、何か意を決したようにマリアに向かってきた。
「でもね、やっぱり。マイクはそれでもパパとママがいなくなったこと、寂しく思っていたと思うの。でも……マリアが傍にいることで、マイクはとても心強かったんだと思うわ。私には分かるわ。十代の時に貴女が案じてくれた気持ちを突っぱねた私だったけれど、でもそれが実はどこか懐がとても寛くて、もう少しで甘えたくなるような……そんな優しい頼もしさを感じていたんだもの。今だって、貴女とこうして姉と妹みたいに仲良くできるようになって、フロリダに行けば貴女に会えることをとっても楽しみにして……。そんな貴女だから、マイク兄様の傍にいることがどれだけ支えになっているか、私には分かったわ」
そして葉月は、マリアを神妙に見つめて呟いた。
「有難う、マリア。遠くで一緒に戦ってくれていたと、私、感謝しているのよ」
戦いを終え、幸せを手に入れて、この哀しいだけの部屋に輝く姿で帰ってきた葉月。
そしてそんな彼女を案じて、この一家の運命に途中から寄り添ってきたマリアにも、彼女からの感謝の言葉は……。今までのいろいろな哀しい気持ちを癒してくれたような優しさを感じずにはいられなかった。
胸が熱くなるまま、マリアは葉月を抱きしめる。
「おかえりなさい、葉月」
「ただいま、姉様」
マイクにとっても、これでやっと前に行けるのかもしれないとマリアは思った。
何が前に進むかだなんて、マリアには分からないほど漠然としているけれど、この時はそんな気がしたのだ。
そんなマリアを察しているかのように、マリアの胸に抱きしめられている妹分の葉月が言った。
「マイクは、たぶん。これからも生真面目に純粋に一直線だわ。でも、きっとマリアのことは離さないと思うの」
──だから、この家に貴女を招き入れたのだと、葉月が言う。
マリアは彼女を抱きしめたまま、ちょっと硬直。
この妹分まで……。
でも『マリアを離さない』という一言は、とても嬉しく思えたのは否めなかった。
こんな時、人は直ぐに『次は貴女達の番ね。結婚して幸せになって』なんて言い出しそう。
実際に、そういう激励は独身のマリアは何度も受けてきた。
特に結婚した人はそう言ってくれる。自分達の幸せのお裾分けのように。
だけれど、この妹分は自分が結婚したからとて、やっぱり言うことが少し違った。
「マイクは若い頃からあんなふうで、女性を心配させてしまう程にストイックなところがあるけれど、それも純粋だからなの。貴女と楽しそうにこの家にいるマイク兄様を見て、私、思ったわ」
葉月がマリアの目に、何かを懇願するようにすがってきた。
「マイクは仕事で気力精力を出し切って疲れて帰ってきた時、そこにいる女性として貴女を望んだんだと思うの。だから、どんな形でもいいから……。マイクとマリアが決めた状態で良いから、だから……マイク兄様の傍にマイク兄様が帰る場所にいてあげて……」
マイクが帰る場所。
それはマリアなのだ。
妹分の彼女がそう言いきった。
それはどうしてかマリアにはとても新鮮なものに聞こえたのだ。
なにかこの家に来てから、ううん? マイクという男といつのまにか男女の仲になった頃からつきまとっていた漠然としたものが、ほんの少し輪郭を描いたような……ちょっとした新鮮さ、でも鮮烈な感触だった。
「この家のドアを開けたら、いつもの元気いっぱいなマリアがマイクの目の前を仕事以外のことでいっぱいにしてくれるの。マイク、それをとても生き甲斐にしているんだと思う」
まるで愛するあの人から言われているかのような揺さぶりがあるのは、やはり長年彼の妹分である葉月が言うからなのだろうか……。なんだか胸がドキドキしてくる。それほどにあの人に愛されているという実感が彼女の言葉で次々と襲ってくる。
「だから、これからも……私の兄様をお願いね」
彼女のちょっと心配そうな瞳が僅かに濡れて、マリアを見つめている。
その向こうに見えるのはきっと、あの兄様が前回の帰省で大失恋をしたその時を目の当たりにしてしまったからなのだろう。
葉月はあの時、マイクの最愛の恋人だったイザベルを必死に引き留めていた。きっと今、目の前でマリアに懇願している彼女は妹として兄様を案じているあの時とまったく一緒なのだと思った。
マリアにとってもあれは衝撃的だった。完璧だと思っていたあの男の、崩れゆく哀しい姿は今でも忘れられない。
大嫌いで苦手だった大人の、天敵の男。マリアは彼と接触するたびに緊張しては意地を張って強がって対抗してきた。
でも……あれから変わった。彼も完璧じゃないんだと思った時から、マリアの中でも何かが素直になっていくのが解った。そしてそれは向こうの彼も。マリアのことを急に『マリー』と呼んで、なんでも親身になって話を聞いてくれ、仕事の先輩としてアドバイスを惜しみなくくれ、若い人材を育てる先駆者として先頭にいる彼は、前へと突き進むマリアのバックアップを惜しみなくやってくれた。
そんなマイクは、葉月にとっても大事な兄様の一人。なかなか会えないだけに、彼女がとても心配してたことを改めてマリアは知る。
だから彼女を笑顔で抱きしめた。
「任せて、葉月。あの中佐が落ち込んでいたら、私、いつも蹴っているの」
そう茶化したら、心配そうに瞳を濡らしていた葉月がやっと笑った。
「蹴っているの?」
「そうよ、そう。喧嘩を売れば、あの人すぐにムキになるの。特に私には。なんたって私達元々が『天敵』なんですもの」
「元々? えっと、そんなふうだった? 天敵だったかしら?」
マリアは『葉月は知らないだけ』と笑う。
周りの人々には人当たりの良い頼りがいある『ジャッジ中佐』。マイクは特に可愛い葉月には滅法甘い顔のお兄さんだった。
でもマリアとは『ケンケンと言い合う仲』になってしまい……。でも、とマリアはいつもここで胸を張って微笑む。
──『天敵同士』。それは今となってはマリアだけの『特権』だからだ。
マイクと対等に言い合える者はブラウン嬢。それがフロリダ基地全体に行き渡った今、それだけでマリアはジャッジ中佐にとって特別な存在。
これだけは誰にも譲れない。だから彼が元気がなければ、マリアは喧嘩を売ってやる。……でも時には一緒に泣いてみる。そんな数年を彼と培ってきた。
彼が仕事一徹でも、マリアは覚悟できている。
「安心したわ。だってマイクってやっぱり一途すぎるんだもの。そのくせ、女の人にはちょっと意思表示が弱くて……」
「まあ、そうかもね。でも、慣れちゃったわ」
軽々と言い退けると、葉月がやっと安心した顔をみせてくれる。
これからも兄様をよろしくと……。マリアも笑顔で頷いた。
それからも葉月はクローゼットを覗いたり、ベッドに腰をかけたりして、久しぶりの部屋を堪能している。
でも、やがて葉月はマリアに言った。
「もう、いいからね。私が帰ったら、マリアの好みに改装してね」
「でも……」
「有難う。心残りだったのは確かだけれど、今回、見納めができたから」
「名残惜しくないの?」
マリアにはこの部屋は葉月が帰ってくる部屋にしておきたいのだと、その通りに彼女に訴えてみた。だが葉月は小さく笑って首を振った。
「本当にいいのよ。確かに……。私のフロリダでの十代はあまり良い想い出はないわ。でも、貴女が思ってくれたとおりに、この部屋だけが私の『女の子らしい場所』だったと思うわ。でも、もう卒業しても良いと思うの」
卒業? と、マリアは首を傾げる。
それにその言葉にすこしどっきりとさせられる。
この部屋にやっと帰ってきた彼女が、この家を本当に出ていってもう帰ってこないかのような気にさせられたからだ。
でも、可愛らしいベッドに腰をかけている葉月が、急に──窓の向こうに見える渚を遠い目でみつめ、瞳を陰らせた。
「──私にとって、この部屋は『成長が止まった女の子の部屋』だったわ」
マリアはその眼に久しぶりに会ったような気がして、急に胸に痛みを覚える。
その眼、その眼差し。マリアが捕まえたくて捕まえられなくて、その眼で見える視界に入りたいのに、入れなくて……仲良くなりたい葉月を捕まえられなかったもどかしい少女時代。
あの頃、葉月が見せていた眼が、今、またこの部屋に帰ってきたよう……。
やはり彼女にとっては、この部屋は……マイクが言うとおりに哀しみの方が先立ってしまう良くない想い出ばかりの部屋だったのだろうかと思ってしまったのだが。そんな眼をした葉月が、渚を見つめたままの遠い目で、ぽつりと言った。
「そして私にとって、初めて好きな男性と結ばれた部屋」
マリアは『え!?』と、固まった。
なんですって? あの頃、少年訓練生と見間違うほどにボーイッシュで、男の子と喧嘩ばかりしていた葉月が?
私と一緒に女の子らしくなって少女時代を謳歌したいと願っていた女の子が、そんな早熟なことを!?
それっていつの誰なの!? と、聞きたくても聞けないるつぼに陥っているマリアの目の前で、葉月はいとも簡単にそれを口にした。
「私、十三歳だったわ。あの純兄様と、この部屋で──。そう、この部屋の中だけで、私は『女の子』だったわ」
マリアに衝撃が走る。
じゅ、十三歳!?
マリアの初体験など、はるかに上回る……若さ。幼さ?
マリアだからこそ、葉月はそれまで黙っていたことを話してくれているのだろうが、マリアにとってはそれは想像を超えるもの……だった。
葉月が窓辺へと、立つ。
今度の葉月は渚ではなく、庭を見下ろしていた。
そこには、あの黒いスーツの『ジュン兄様』がいる。
彼も渚を見つめているのか。
背を向けて、芝庭で一人、煙草を吸っていた。
知らなかった。
葉月は、そんな少女の頃から『愛』を知っていたなんて……。
マリアの心まで、まるで遠い少女の日に帰ったようになる。
「葉月。貴女……」
マリアはその先を言おうとして口をつぐんだ。
思わず、『だから、あのお兄様と駆け落ちをしてしまったの?』と言い出しそうになったからだ。
もう終わったことだから二度と口にすまいとマリアは決めていた。
葉月が勘当されていると知った時に、勿論マイクから教えてもらっていた。葉月が隼人を捨てるような形で、義兄の元に走ってしまったのだと……。
だけれど、それは葉月の問題として、あるいは御園家の根深い問題の一つとしてマリアは余計な口出しはしなかった。
だから、この問題はそれで良しとしようとマリアはここでは思う。だが、『十三歳で──』は、ちょっと聞き捨てならないものがあった。
いったいどうして!?
まだ大人になりきらない葉月を?
あの兄様はどうして?
誰も気が付かなかったの!?
唇があからさまに震えていたか?
マリアの驚愕する様を、葉月はしっかり感じ取ったようで、表情を陰らせてしまった。
でも、葉月はマリアに構わずに話を進めていく。
「……なにもかも異常だったと思うわ。今はね。それでも、それは私の中では消せない大切なものなの。そして、もう『終わったこと』よ。この部屋に帰ってきて、なにを一番に思いだすかと言えば、『それ』だわ。だから……」
この部屋は、彼との『初めての愛』を象徴するもの。
あの男性とはもう『終わった』から、だから想い出だけ残っていればいい。
この部屋にいた少女はもういない。今回で最後、『もう出ていく』。そうしたいから、残さなくても良い。
葉月がそう言いたいのだと、マリアも直ぐに察した。
でも……。
「分かったわ。そう……させてもらうわ」
なんとか、葉月に返事をした。
その声が、固く震えてしまっていた。あまりの衝撃で、マリアの価値観の奥底から湧いてきた『怒り』のようなものがそうさせていた。
そしてきっと顔つきも、『わかりやすいマリア』と言われるとおりに強張っていたことだろう。
だけれど葉月は、自分の過去を聞いて受けとめがたい態度を見せる人間が目の前にいても逃げはしないとばかりに、神妙な眼差しでずっとマリアの目を見ていた。
それは、己のなにもかもを自分の中でしっかりと受け止めて生き返った少女が、綺麗な大人の女性になった姿なのだとマリアには思えたほど、確固たるものだった。
「でも、ここに確かに私がいたことを大事にするように残しておきたいと言ってくれて、有難う。その通りに、私はこの部屋だけが、私の居場所だったと思うわ。そのように感じてくれて……」
葉月は優美に微笑むけれど、マリアは笑えなかった。
だから目の前の葉月は、ちょっと致し方なさそうな微笑みを浮かべると、彼女も黙ってしまった。
そしてマリアはそっとこの部屋を、妹分の葉月を置いて出てしまったのだ。
・・・◇・◇・◇・・・
うーーん! 久々の、大失敗!!!
頭を冷やす為に、葉月の目の前から去ったつもりだったが、やっぱりあからさますぎたと、一人落ち着いてから大反省。
どうも、彼女の目の前だと、いつだって『本来のマリア』になってしまう。考える前に走り出してしまう性分。でもそれもかなりコントロール出来ようになって、少しは大人になったと思ったのに。
マリアはひとり、マイクの寝室でしょんぼりと項垂れていた。
御園若夫妻があの部屋で寝泊まりする間、マリアはマイクの寝室で寝させてもらうことになっている。
だから、この部屋に籠もっていても彼も不思議に思わないのだろう。とくに様子を覗きに来ることもなかった。
夕暮れの遅いフロリダ。
季節的には秋なのだけれど、まだまだ暑い日が続いている。
夕方、あの部屋を飛び出してすぐに、フロリダではお決まりの『スコール』が降ってきた。
激しい雨音が、マリアの暴れている心の音を隠してくれるかのようだった。
雨が降り出すと、賑やかな再会話をしていた男共は解散をしたようだ。
隼人はきっと葉月の部屋へと向かい、可愛い寝顔の海人を挟んで、妻の彼女とゆっくり休憩していることだろう。
そしてなかなか目が合わすことが出来なくなってしまった『ジュン兄様』は、どうしたことか、あの雨の中、どこかへ出かけてしまったようだ。
マイクは、マリアに一声かけて、寝室の隣にある小さな仕事部屋へと籠もってしまった。
マイクは『レイと話し合ったかい?』と聞いてきたが、マリアは『改装することにした』と笑顔で報告してなんとか、彼の目線をかわした。
彼は一時、マリアの顔をじいっと見たが、ほっとしたような顔で仕事部屋に戻っていった。
……気が付かれなかったと思う。
その雨も一時間ほど降ってやんだ。
マリアは彼の大きなベッドに横になって、溜息をついた。
分かっている。葉月は、信頼してくれているマリアだからこそ、変に隠さずに思っているとおりのことを話してくれたのだと。
そして自分も。あの葉月だから、こんなふうに感情的になる。そう、ちっとも大人になれない少女のように。
葉月とはまさにそんな関係。いつだって、あのころと変わらない。
本当は自分でも分かっていた。十三歳の葉月のこと、本当は『誰よりも大人っぽい』と感じていたこと。それは女の子らしくからくる『色気』のことではない。
訓練生の葉月は、暴れ者だったけれど、男顔負けに頭も良かったし、何事にも才気に溢れていた。だから男の子達がやっかんでばかりいた。
そしてなによりも、教官に叱責されるほどの悪さをしても、褒められるほどの功績をあげても、何事にもどっしりとしていて年に似合わぬ『落ち着き』があった。
マリアが思いついてだあっと走り出してしまう性分なら、葉月はマリアがざあっと遠くに先に走り去ってしまっても、そこからマリアが先に行ってしまったその場所になにがあるか、まずじっと見てからゆっくりと走り出し、いつの間にかスピードが増して追いついている。そんな感じだった。
彼女は『男の子みたい』で、ちっとも色気もない愛想もないとっつきにくい女の子だったけれど、本当は誰もが感じていたはず──『彼女はどこか大人っぽい』と。色気抜きで感じる『大人っぽい』は、『精神的な大人っぽい』。だから余計にあの年頃の少年少女達には葉月はミステリアスで、『誰よりも大人』にみえたのかもしれない。だから成長しきれない男の子達もやっかむほど、本当は誰もが何かを頑なに貫こうとしている葉月の向かう姿に、『密かな憧れ』を感じていたのではないだろうかと、大人になってからマリアは思い返している。
それは今だってそう。葉月が怖じ気づいていることは、マリアがバンバンと後押しをしてしまうこともあるが、逆にマリアが暴走したら、そっと静かにそして大らかに受け止めてくれているのは葉月だったりするのだ。
さっきのもまさにそれだった。
マイクが知ったら、なんて思うだろうか?
元々は『改装派』だった、兄様のマイク。
彼はやはり妹分の葉月がどんな結果を見出すかちゃんと知っていたことになる。
勿論、マリアが知らない『葉月の過去』を何もかも知っているからだろうけれど……。
それでも、姉妹で話し合って、その中でマリアにとって受け入れ難い何かが飛び出して上手く受け止めきれずに、まるで怒ったかのように飛び出してしまうだなんて……。
マイクがいつも空かしている窓から、さあっと優しい夕風が入ってきて、横になっているマリアの身体を撫でていく。
雨の柔らかい匂いも鼻をかすめ過ぎていく。
大丈夫。
夕食になれば、また葉月は笑ってマリアを見てくれる。
そしてマリアも、彼女に微笑み返す。
ちょっとびっくりしただけ……。
そう、葉月が言うように『終わったこと』なんだと──。
スコールが去って、少し夕闇が空に広がったころ、マリアの心も落ち着いてきた。
マイクの部屋は、もはや、マリアにとっては『とても落ち着く場所』。
何度も一緒に眠ったベッド。彼の匂い。彼の好みで統一されている部屋にまるで逃げ込んできたよう……。だから暫くすると、彼の匂いに包まれて落ち着いて物事を受け止められるようになる。そんな存在になりつつある彼の部屋。
マリアの中で妙に綺麗すぎるものばかりが蓄積された価値観が、マイクと付き合い始めてから柔らかく変化したように。彼の匂いは、マリアにとっては凝り固まった自分を解放してくれるものなのだ。
でも……。落ち着いて受け止められるようになっても、やはり『どうしてそうなったのか』はマリアの中では消えそうになかった。
変に言えば、あの頃の葉月のことをマリアは馬鹿にしていたのかも知れない。あんな男の子みたいにして。喧嘩ばかりして。女の子らしくなりたくないの? そう思っていた。
でも、違っていたようだ。外見では彼女は苦しむままに意地を張った姿を貫き通していたが、中身はしっかり女の子だったのだ。
マリアの心配なんかお呼びでもないほどに、彼女はやっぱり身体の方も、誰よりも大人になっていたんだと。
あの年頃の女の子達は、『誰が一番先に大人っぽいレディになれるか』と競い合う。ちょっと無理な背伸びだってしょっちゅう。そんな中、早々に初体験をした事務課へ進んだ同期生の女友達を何人か知っている。でも誰も、葉月ほどではなかったということらしい。
本当に、この家ではなにがどうなっていたのだろう?
マリアにとって、この家に住む限り、そしてあの部屋を使う限り、さらには御園の義理息子と言っても良い男を愛している限り、それはやっぱり知っておきたいという衝動の方が強かった。
『こんばんはーー!!』
ドアの向こうから、そんな女の子の声が聞こえてきた。
マリアはその声が『リリィ』だと判って、ベッドから起きあがる。
案の定、外が、リビングが騒々しくなってきた。
きっと、待ちきれないリリィは父親のフォスターにねだって、この時間でも葉月に会いに来たのだと思った。おそらく、マイクが許可したのだろう。
マリアは彼の姿見を覗いて、泣いた目がおかしくなっていないか確かめ、身なりを整えて部屋を出る。
リビングに行くと、やはり葉月とリリィが感動の再会を果たしているところ。
「お姉ちゃん! 久しぶり!!」
「まあ、リリィ!! 大きくなって……! すっかり素敵な女の子ね!」
二人はしっかりと抱き合っては、お互いの顔を確かめ合っている。
こうして見ると、リリィは本当に大きく成長したとマリアははっとさせられる。なにせ、抱き合った葉月よりほんのちょっと背が低いだけ。この前のように、ちょっとませた格好をすれば、ハイスクールにいそうな立派なおませな女の子にだって見える。
「ねえねえ、赤ちゃんはどこ?」
「ふふ。今丁度目を覚ましたところで、旦那さんがおむつを換えているところだったの」
「ええーー! 旦那さんって、ハヤトのことだよね!!」
「そうよ」
リリィは早速、『ハヤトにも会いたい、会いたい』と葉月にせがんでいる。
葉月も先ほどのことなどなかったかのように、あの優美な微笑みをみせ、リリィの手を取り二階へと連れて行った。
……やっぱり、リリィはマリアには目もくれず。
まだまだ尾を引いている状態は続いていた。
(まあ、もういいわ……)
今日はちょっと疲れた。
マリアはそのまま、またマイクの部屋に戻った。
葉月の二階の部屋から、とても賑やかな声が暫く聞こえていた。
マイクのベッドに独り腰をかけ、マリアはこの家の夕暮れを眺めていた。
この渚の家の夕暮れも、だいぶ、馴染んできた。
彼の部屋の夕暮れは、渚が見えるマリアの新しい少女部屋とはまた違った味わいのもの。
出窓に彼が置いたモノクロのインテリアの中に、マリアが一つだけ置いたロマンティックなキャンドル。それを手にとってそっと微笑む。
本当にこの部屋はマリアを包み込んでくれるようだった。
そんな時、マリアが独りでいるこの部屋のドアからノックの音が……。
マイクが様子を見に来てくれたのかと思った。
なるべく……。二人きりになるまではなんでもなかった顔でいようと思った。
だけれど、ドアを開けると、そこにいるのはマイクではなかった。
「リリィ……?」
彼女はまだ怒った顔をして、マリアを睨んでいる。
今度はなあに? 私の何が気に入らないの?
きっとそんなことだろうと、今日はなにもかも投げてしまいたいマリアはそう思った。
「なんで一人でいるの。葉月お姉ちゃんが帰ってきたのに……」
「え? なんでって……」
勿論、リリィより先に色々とお話をしたから、今はもういいの。
心ではそう言っているが、今のマリアにはそれを多感な女の子にどう言えばよいか考えを巡らす余裕もなく、黙り込む形に。
すると益々リリィの顔がふてくれされてしまった。
「私がいるから、いやなんだ」
「そうじゃないわよ。リリィ」
今度は泣きそうな顔になってしまい、マリアはちょっと慌てふためく。
でも、その瞬間だった。
「この前からごめんね、マリア!」
リリィからマリアの胸の中に、どんと強く抱きついてきてびっくり!
マリアは唖然としてしまった。
「本当はすぐに謝ろうと思ったんだけれど、恥ずかしくて……」
「リリィ……。そんなこと、気にしないの。私も覚えのあることだもの。十三歳はみんな、一緒よ」
自分の胸の中に顔を埋めて泣いているリリィの金髪を、マリアはそっと撫でた。
──十三歳はみんな、一緒。マリアはそう言って心の中では『嘘』と吐き捨ていていた。
リリィ……。十三歳で変に大人になろうとしてしまった女の子もいたみたいだわ。なんて、言えるはずもなく。マリアだって、この歳になって初めて目の当たりにし、大きな衝撃だったのだから。
でも、そんなことは知る必要もないリリィは、やっと涙を拭いて久しぶりの可愛らしい笑顔をマリアに見せてくれた。
「あのね……。あの部屋、マリアがそのまま残しておいてくれたのに、『最低』って言ってごめんね」
「いいのよ。リリィの葉月への思い入れも知らずに、あの部屋を使うことにしちゃったんだもの」
「でもね……。さっき、葉月お姉ちゃんが、もう素敵な場所が他に出来たからこの部屋はマリアにあげるんだって言って……」
そこはマリアは、葉月との間にあったことは『大人の部屋の片隅』にそっとおいて、上手に諭してくれた葉月に同調するように『そう』とリリィに微笑んだ。
だけれど、葉月はもっとそれ以上のことを考えていたようで、リリィの口からマリアはそれを知ることになった。
「そうしたら、葉月お姉ちゃん。あの部屋にあるインテリア、私に欲しいだけあげるって……」
「葉月が……?」
「うん! またリョウタみたいに可愛い女の子が引き継いでくれたら嬉しいって」
それを聞いて、マリアも『それは良い考えね』と笑った。
でもやっぱり……。葉月は未練もなかったのだと、ちょっと寂しくなる。彼女にとっては今回の帰省もある意味『置き去りにした想い出の片づけ』だったのかもしれないとマリアはやっと分かった気がしてきた。
本当に大切にしてくれる女の子が、また少女の夢を乗せて、新しい想い出を紡いでいく。
葉月はそれをリリィにバトンタッチするんだと思った。
「マリア、リリィ」
いつの間にか……。マリアとリリィがいる廊下に、葉月もやってきてこちらに微笑みかけている。
「リリィが持っていく前に、少しだけお片づけ手伝って。姉様の想い出がある物と私が取っておきたい物と分けたいの」
それだけは持って帰るという葉月。
ほんの少しだけの、少女時代の欠片は自分の側に置いて残しておくようだった。
マリアとリリィは微笑み合い、葉月の手伝いに向かう。
片づけの中、葉月が手元に残したのは、姉の皐月からもらったという少しのアクセサリーと、母親が選んでくれたという絵本を数冊。それとクローゼットに入っていた『フロリダのヴァイオリン』。
後はどれでも好きなように引き継いでくれても、処分しても良いとのことだった。
リリィは特に猫足のドレッサーが気に入ったようで、お姫様のようなスツールにずうっと座って、長い間鏡を眺めていた。
金髪の可愛らしい少女を映し出した鏡。
リリィという健全な十三歳の少女。
でもマリアの目に映ったのは……栗毛の少女の裸体。まだ幼さを残しているけれど、確実に艶やかな女性へと遂げていく白い裸体。
葉月がこの鏡の前で、たった一人。自分と兄様だけが知っている大人になっていく裸体を、ひっそりと眺めていたような気がしてきた。
そうして彼女は、その柔らかで大人の匂いに満ちていく肌を、少年の味気ないシャツとスラックスに包み込み、封印してきたのだろう。
この部屋で妙なところだけ大人になっていった栗毛の少女のそんな姿が、鏡に映るリリィの向こうにちらついて仕方がなかった。
Update/2008.1.6