良く晴れた日。
ジャッジ家のリビングでは、落ち着きのない人々がその時を待っていた。
この家の主、ジャッジ中佐はダイニングテーブルの周りでうろうろ。
この家のメイドである黒人のベッキーも、キッチンを出たり入ったり。
そして、この家の同居人であるマリアも、窓辺のソファーに座って悶々としている。
『俺達そろそろ、恋人でいいんじゃないかな』
この申し入れをもらってから数日が経っていた。
勿論、マイクは少しだけ考えてくれたらいい、返事はいつでもよいと言ってくれた……。
正直、彼がそこまで考えていただなんて思えなかったマリアには最初は衝撃だった。でも、後になってすぐに『いつもの日々』が戻ってきていた。それもこれもマイクが自分で言ってくれたとおりに、だからって……態度を変えたり、マリアに今まで以上の何かを要求する訳でもなく、さらには返事を急かすこともなく、本当に本当に『いつも通りの仕事一徹の彼』だったからだ。
そんな申し出。既に彼を愛しているマリアには……。既に恋人とかそれ以上の関係をなにも望んでいなかったマリアには、どうでも良いというか……。しっくりしない。このまま、このままが良いのに……。そう思う日々。
──でも、彼はどう思っているのかしら?
マリアは時々、そんなマイクをそっと見つめる。彼と目が合う前に逸らす。マリア自身が少なからずも動揺していることは見せてはいけない。彼が平然としているように、マリアも平然と。それが歳が離れている大人の彼に対する、ちょっとした背伸びだと言うことを、マリアはまだ気が付いていなかったが、この時はそんな自分であることに精一杯だった。
それに今はそれどころじゃない。マイクもマリアも、その話は取り敢えずおいておかねばならない『イベント』がやってきたのだから。
今、窓辺のソファーで『その時』を待っているマリアの目の前には、可愛いおもちゃがいっぱい。
この日の為に、マイクと一緒に喧嘩しながら選んで買った物ばかり……。
でも。それを何度も手にしては、マリアはにっこりと微笑まずにはいられなかった。
聞けば、ママの葉月にそっくりに生まれたのだとか……。
栗毛で茶色の瞳で目元口元そっくりなんだと、あの隼人が仕事では堅物のサワムラ中佐が、仕事用のメールに一度だけそう書き添えていた。
それをまた、マリアの仕事メールに早速に添えてくれた気持ちも嬉しかった。
『奥さんのフロリダのお姉さんには、早く伝えたかったからね』
そんな隼人の言葉も嬉しかった。
付き合いが長いようで、まだ始まったばかりのマリアと葉月。
でも、心がなかなか繋がらなかった時期でさえ、二人の間では離れていても『歴史』。日本に出張に行った際、葉月と一緒にそれを確かめ合った。
『素直になれない私をいつも気にしてくれていたこと、本当に嬉しかったのよ』
──有難う、マリア。
一人っ子のマリア。
姉を亡くして、一人娘になってしまった葉月。
父親同士が、固い絆で結ばれている仲間。
そして娘の私達も……やっと、姉妹のように。
小笠原に夫の隼人と戻ってきた彼女はとても幸せそうだった。
だけれど、それまでの日々を思い返すと、彼女の痛々しい少女時代を知っているマリアとしては直ぐには笑顔にはなれない重いもの思いに馳せてしまうこともある……。
マリアは結婚も経験している。それは幸せな時もあったし、苦しくて哀しい時期も同じようにあった。でも、それがあったからこそ得ているものがあるから、マリアはあの結婚を恨んでもいないし、後悔もしていない。
マリアにはマリアなりの幸せと苦難があったけれど、その間、妹分の葉月はもっともっと壮絶な物と一人で向き合っていた。
彼女の幸せはいつくるのだろう。そんな日々がいつか来ることを祈っていたマイク。やがてはマリアも……。彼女にもいつか『結婚』という女性としての幸せが来たらよいのにと心から祈っていた。
憧れていた皐月お姉さんの悲劇。そして妹の葉月にも引き継がれる悲劇。
その悲劇の痛さはやがてマリアの中でも息づき、家族を案じるぐらいの気持ちになって、彼女の安泰の日々をマイクと一緒に祈っていた。
でも、彼女には最後の戦いが残っていた。
その戦いが始まった時、フロリダにも大波が襲ってきた。
揺るがない中将の地位を維持してきた亮介が、あっさりと退官。
そして初めて世間に明かされた御園家の事情。
同じように嘆き悲しんでくれる者もいれば、ここぞとばかりにフランク・御園派を貶めようとする反対派の動きに批判が活発になった。
フランク大将とマリアの父親、ブラウン少将が、反対派閥をなんとか抑え込む日々が続いた。
そんな中。マリアはマイクと一緒に、ただただ一日一日を御園家に何も起こらないことをフロリダで祈ることしかできなかった。
フロリダ基地でもその波紋は暫く続いた。そんな状況だったが、マリアはマイクに日本に行けと、けしかけたことがある。
──『仕事なんか放って、御園のパパのところに行きなさいよ。うちのパパがどうにでもフロリダのことは上手くやってくれるから!』
でも、マイクは首を横に振る。
──『フロリダ中将の席を揺るがすようなことは決してあってはならない。その席に座っているのが誰であろうと。座っているのがパパであろうと、ブラウン将軍であろうとも。パパが座っていた席は誇り高いままに残しておきたい。その席を補佐し安泰を維持するのが俺の仕事』
マリアは愕然とした。そして初めて思い知ったのだ。この男は御園を守りたい為だけに生きてきたのではなかったのだと。この男は『中将の座』を守る為に生きてきたんだと。さらにマイクは最後に言い切った。
──『それが俺を田舎から連れだしここまで育ててくれたパパへの恩返しだから。今、日本に追いかけていったら……怒鳴られて、追い返される』
でも、そう言ったマイクの声は哀しそうに震えていた。
マリアから背けられた横顔。彼の頬が震えている……。
彼の強い使命感。それもマリアには感動させられた。でも……もっと胸を熱くさせられたのは、その使命を貫こうとする意志の奥底に、『俺もファミリーと一緒にいたい』という気持ちを抑えに抑えている男の我慢。
──『私が、一緒にいるわ』
背を向け必死に本心を抑えている彼の背に、マリアは寄りそう。
──『私も、日本の妹の無事を遠くの空で貴方と一緒に祈るだけだわ』
何もできない私達。フロリダでできることを懸命にやるだけ。
そんな待つだけの日。マイクにもその役目がやってきた。葉月がついに『私と姉様を襲った主犯格らしき男を見つけた』との報せ。
マイクとマリアの間に、何とも言えない不安と激震が走った。
マイクがフロリダで御園家をサポートする為に、『犯人』と目星がついた男のことを調べ始める。マリアの父も、フランクの将軍兄弟も惜しみない協力をしてくれた。
その中で判明した恐ろしい事実。犯人の男は、このフロリダ基地を何度も出入りしている傭兵だった。『正義の男』というニックネームを持って……。
マイクの衝撃はさらに続く。その男は彼が先輩と呼ぶ御園の婿と言うに等しい葉月の義理兄の同僚であったこと。その男が皐月を殺した男だという事。
次々と襲ってくる真実に、マイクは毎日打ちのめされていた。それだけじゃなく、ほんの少し前に義理妹の葉月が生死を彷徨っている時でさえ、身体はフロリダにあれど魂は日本に飛んでいるかのような日々。その間、マリアは仕事時間以外は彼から離れず傍にいた。ただ横にいて黙って、見守っていた。
そんな中でも嬉しい報せも──『葉月が隼人と結婚する』だった。
その報せが届いた時のマイクの、久しぶりの笑顔をマリアは忘れない。
仕事中に届いた報せだった。あの仕事一徹の男が、どうしたことか『レイが結婚するんだ!』と、マリアがいる工学科の教官室まですっ飛んできたほど。
でも驚きながらもマリアもその時は飛び上がって喜んだ。そして二人でささやかなお祝いを日本に送った。
小笠原の空母艦で行ったという挙式も本当は行きたかった。でもやはりそこも『ジャッジ中佐』。彼はフロリダを離れることは出来ないと、本当は妹分の葉月の花嫁姿を見たいだろうに行かなかった。マリアは彼女の妊娠が判った頃、丁度その場に立ち会えるかのように仕事で日本にいたから、マイクよりかはその様子を先に観ている。だけれど、その友人と同僚との挙式には日本へは行かずに、彼の傍にいた。
後に、亮介から、沢山の写真とDVDが届いて、それを二人で見て楽しんだ。
だから特にマイクは、そんな幸せな奥さんになった『妹』に再会するのはこれが初めて──。
これがそわそわせずにいられようか。
一番近い民間の空港まで、ジョイが迎えに行ってくれている。
「そろそろかねえ。長旅で『カイト』ちゃんが疲れていないと良いけれど」
出迎えの準備は万端。
やることがなくなって、ただ待っているだけになったベッキーは海人の心配ばかりしている。
ベッキーにとっても、『あの葉月お嬢ちゃんがママになって……』という気持ちはひとしおなのだろう。彼女は常々『あの頃の葉月は、本当に痛々しくて見ていられなくて、可哀想だったよ』と言う。マリアもその気持ちは、接する形に距離はあっても一緒だった。ベッキーはその頃のマリアの様子もよく覚えているらしく、『一生懸命に接していたことを知っているよ。でも。マリアにとっても可哀想だったけれど、ああなるしかなかったんだよ』と……。だから今は、自分が見守ってきたお嬢さん二人が姉妹のように仲睦まじくしている姿を目にすることが出来て幸せだと言ってくれる。
御園家の向こうで、ただ見守ることしか出来なかった『フロリダの人々』。
今、私達は、その幸せが現実となってやってきたという証拠を、やっとやっと目にすることが出来るその瞬間を待っていた。
やがて、この家のチャイムが鳴る。
『キンコン』と、聞き慣れた音でも、今日はとても澄んだ音に聞こえる。
その音で、マイクは振り返り、マリアは立ち上がり、ベッキーは固まってしまった。
「やっと来た。なんだか待ちくたびれた気分だ」
あのマイクが……。あのジャッジ中佐が、少年のような笑顔で玄関に向かっていく。
それが本当の彼の笑顔だってマリアは知っていた。滅多に見せてくれない素の彼。今日のマイクはそれほどに、仕事のことは忘れて、心よりの自分に帰って妹を待っているお兄さんになっているようだった。
そんな彼を見ただけで、マリアは幸せな気持ちになる。そしてそれはもっと素敵な気持ちに変わるだろう。二人が待ちに待っていた妹が帰ってきたから!
玄関へ続く廊下をゆくマイクの後をマリアも追いかける。
彼が白いドアを開けると、まだ輝く日射しが残るフロリダの光がこぼれた。
そしてそこには、水色のワンピースを着た女性が……。
光の中で彼女はこの上ない微笑みをみせ、その腕には同じような水色のベビー服に包まれている小さなベビー。
煌めく母子がその光の中に突如として現れたのをマリアは見た。
「ただいま、マイク!」
「レイ! おかえり!!」
その母子にマイクが思い切り抱きついた。
その時の彼の顔ったら……。本当に少年のまま大きくなった男の人のようで、しかも、その笑顔。
なんだかマリアは泣きそうになってしまった。
きっとこの瞬間を、彼はずうっと待っていたに違いないから。マリアも傍で、彼と共にもどかしい思いを秘めながら感じ合いながら待っていたから……!
「マイク、会いたかった……」
「俺もだよ、葉月」
誰もが耳を疑ったかもしれない。
少なくとも、このマリアは……。
フロリダのほとんどの昔馴染みの男達は『レイ』と呼ぶ。それは一番親しい男であるマイクが、彼女が幼い頃からその愛称で呼んでいたからだ。
その男が、この日は彼女を本名で呼んだ。
それはマリアのことを、親しみを込めて『マリー』と呼んでくれる反面、彼にとって本当に気持ちがこもっている時こそ『マリア』と呼んでくれる時と一緒だと思った。
今日は妹とはそんな再会なんだと、マリアはもう涙をこぼしていた。
「本当だ、レイにそっくりじゃないか!」
葉月の腕の中にいる小さな男の子をみつけたマイクは、もう一目で感激している。
妹分の葉月に『兄様、だっこしてくれる?』と言われ、少し戸惑いながらも、マイクは目尻をさげにさげたどうしようもない笑顔を見せ、そうっと……その大きな腕に小さな栗毛の男の子を抱いた。
マリアはその瞬間、ちょっとドッキリとさせられた……。
愛している男が、独身主義の男が……。そんな優しい顔で赤ちゃんを抱っこしている姿なんて今まで想像が出来なかった。
でも、彼はとても柔らかな姿で、逞しい腕にちょこんと乗った水色の男の子を抱いて微笑んでいる。
そんなマイクに、また一人。白く輝くような男性が微笑みかけてきた。
「お兄さん、ご無沙汰しております」
「ハヤト君──」
仕事では『サワムラ中佐』と『ジャッジ中佐』。
でもいつからか、この二人も義兄弟になったのだろうか。
プライベートでは、マイクは隼人のことを『ハヤト君』と呼び、隼人はマイクのことを、鎌倉に集うファミリー同様に『お兄さん』と呼ぶようになっていた。
「ああ、こうして並べると、君にも似ている!」
マイクは隼人と再会の握手をするどころか、小さな海人を抱き上げ隼人パパと並べて『似ている、似ている』と大騒ぎ。
隼人もまんざらでもないようで、一目見ればそれは妻の葉月にそっくりなのに、やはり自分にも似ていると言われると照れるほど嬉しいような笑顔。
仕事にはシビアな青年中佐だった二人が、マリアにはとことん仕事の厳しさを教え込んでくれた二人の中佐が小さな赤ちゃんを挟んで、それはもう、どうしようもない頬が緩んだ顔を見せていて、マリアはそっと笑ってしまっていた。
しかもこの夫妻だけじゃなかった。
「お前、相変わらずに、にやけているんだなあ」
あら? マリアが聞いたことない低くて渋い声?
しかも白く輝くシャツを着ている隼人とは対照的に、後ろから真っ黒な固まりがずいいっとこの家の白いドアに現れた。
その男を見て、マリアはハッとした……。
何年ぶりだろうか。その男の人に会うのは。きっと彼と以前会ったことがあるとしたら、少女の頃……。そう、皐月が生きていた頃。御園&フランクファミリーのお兄様達の中にいたひときわ重厚な存在感を見せていた日本の、お兄さん……。
(皐月お姉さまの……!)
──結婚するはずだった。お姉さまが愛したという……男性。
確か『谷村純一』という人!
いつもパーティではそっと影にいた人。でも、皐月姉様が見逃さなかった人。マリアも少しだけ話したことがある?
その黒い重厚感漂う男が現れるなり、それまで嬉しさいっぱいの笑顔だけ見せていたマイクがしらけた視線を彼に向けていた。
「あー、忘れていた。先輩もいたんだねえ」
「なんだと? 海人が疲れないようにと自家用ジェットを手配したんだぞ。それに俺は海人の伯父だ。結婚式に夫妻で出席する間のベビーシッターだ」
黒い重厚な渋い中年男性が『伯父さんだからベビーシッターに来た』の一言で、マイクがついに大笑い。
「あははは! 先輩が、あのジュン先輩がベビーシッターだって!!!」
「あら、マイク。これでも義兄様は、海人の面倒を見るの上手なのよ。オムツだってミルクだって……」
「ジュン先輩がオムツにミルク……あははは!!」
「そんな笑わないでよっ。隼人さんはもっと上手なんだから!!」
「いやー、ハヤト君はしっくりする。笑わない」
だけれどマイクはずうっと笑っていた。
そして重厚そうな黒い格好のジュンさんは、ぶすっと強面に。
ああ、そう言えば。いつもそんな顔をしていて一番怖いお兄様だった記憶が蘇ってきたマリア。
ちょっと緊張してしまった……。
だけれど、そのうちに、車を駐車して遅れて玄関にやってきたジョイまで加わって、海人争奪戦で大騒ぎになった。
「マイク! 俺も運転ばっかりで我慢していたんだから、海人をだっこさせてくれよーー」
ジョイがだっこしたいとねだっても、マイクは嫌だとちっとも海人を手放そうとしなかった。
そこに在りし日のファミリーが蘇ったかのような……。誰もが少年に戻ったかのような穏やかさに満ちていた。
マリアはずっと後ろからそれを見守っているだけ。
でも……。わざと一歩引いている訳でもない。ただ、あの人がとっても幸せそうな、やっとファミリーの幸せなぬくもりの中に仲間入りさせてもらった気がして、ほっと一安心の涙に濡れていたから。それを誰にも見られたくなかった。
でも、マリアの側にベッキーがいて、そっとその肩を撫でてくれる。そして彼女が耳元で囁いた。『あんたもあの中に入っても全然いいんだよ』と……。
しかしそんな時、目の前に、マリアを真っ直ぐに見つめている葉月がいた。
「マリア……」
「……葉月」
彼女の薄い茶色の瞳は、前よりもずっと綺麗に透き通っていて、そしてマリアを真っ直ぐに見つめ濡れている。
それの顔がちょっと崩れたのでびっくりした。
「会いたかった……!」
彼女から走ってきて、少女のようにマリアの胸に飛びついてきたのだ。
──考えられなかった。
いつだって落ち着いていて静かな女の子。なにかを内に秘めて決して感情的にはならない女の子。
でも……。マリアはすぐにそっと微笑んで彼女を抱きしめていた。
本当は知っている。彼女がうんと熱く叫んでくれたあの夕暮れの、砂浜の日。二人で波間にもまれてずぶ濡れになって、今までのわだかまりをぶつけて、静かな波を一緒に迎えたあの夏。
葉月、本当は胸の内に熱いものを抱えている女性。
その彼女が、こうしてマリアに会って、こんなに心を高ぶらせてくれるだなんて『感激』の一言に尽きる思い。
向こうで騒々しかった男性陣が、いつの間にか静かになり、そんなフロリダ姉妹の再会を微笑ましく見ていてくれた。
「マリア、貴女も抱いてくれる」
「え、いいの?」
「勿論よ! だって、私のお姉ちゃま同然なんだから」
「えー。だったら、私は伯母ちゃまになったってことかしら!」
そこまで考えていなかったのでマリアとしては、とても新鮮な感覚だった。
そう、兄弟姉妹がいないマリアだからこそ……。この感覚はこのファミリーに与えてもらっているんだと思った。
やがて、マイクが抱いて離さない海人と一緒にマリアの元に来てくれた。
「マリー、見てくれ。本当にレイにそっくりだよ」
なんて、まるで自分の子供を抱いているようなマイクに、ちょっとマリアは戸惑いながら……。
頭の片隅でほんの少し。この人もこんなふうになれる日があるのかと、まるで他人事のように思ってしまった。でも、とてもしっくりしているマイクは意外だった。この人が、こんな子煩悩な顔をみせてくれるだなんて。
でも、マリアはそれほど触れたことがない赤ん坊を目の前にしてちょっと緊張していた。
実はマリア──。『子供が欲しい』と思ったことがあまりない。ないことはなかったが、欲しいと切望したこともない。あの達也との結婚生活の中でも、どちらかというと達也が『子供が欲しい』と言う中、マリアは丁度、仕事に夢中になり始めた時期で……。達也に無理に同意させるようにしてピルを服用していた。きっとその強引さも、彼の心が離れいってしまった原因のひとつなのだろうと、今は認めている。
今でも、マリアの頭の中は……。愛するマイクと仕事だけ。子供が欲しいと思ったことはない。
そんな女が子供を抱く。愛する男は思わぬ子煩悩な顔を見せたのに、自分は?
「ほら……」
愛する男が、当たり前のように差し出してくる小さな赤ん坊。
本当に葉月にそっくり。柔らかいふわふわのの栗毛、ぱっちりとした茶色い目がマリアをきょろっとみた。小さな口元をくちゅくちゅと動かし、ぎゅっと握っている小さな手。
「まあ、なんだか。柔らかそうで怖いわ」
「大丈夫だよ。ほら、こうして……」
マイクが直ぐ傍に肩を寄せ並んでくれる。
そして彼の腕からマリアの腕へと優しくそっと移してくれた。
その瞬間に広がった甘いミルクの匂いに、マリアはふうっと包まれた。
やはり腕の中にやってきた水色の男の子は、ふわふわしていて怖かった。あんまりにもか弱くて。でも、ちゃんと重みはあって……。
「やあん……。なんか、すごく気持ちいいわ」
マリアまで、海人の優しい柔らかさに、とろんととろけそうになってしまった。
それでハッと我に返った。
──これが子供の、赤ちゃんの可愛さってこと? 尊さってこと?
ふと気が付くと、そこには同じように柔らかく微笑んでいるマイクがいた。
「あれあれ〜? そちらさんもいずれ、かなー!!」
ジョイが急に……。そんなマリアとマイクを見て、茶化してきた。
側にいた隼人に純一も『かもしれない』と笑っていたが、マリアはびっくり頬を染めてしまう。
だけれど、それはマリアだけじゃなかったようだ。隣にいるマイクも……。あのマイクが、顔を真っ赤にして俯いてしまったのだ。
「ふふ。お似合いね」
そして葉月も──。
「思っていた以上に、アメリカの兄様がとっても幸せそうで、私も嬉しいわ♪ 仕事一筋の兄様だから、ちょっと心配していたの」
自分の息子を囲んで仲睦まじい、お兄さんとフロリダのお姉さんが並んでいる姿を嬉しそうに眺めていた。
そんな彼女の優美な微笑みを目にしてしまったら……。マリアもマイクも顔を見合わせて、微笑みあった。
「いらっしゃい。水色のエンジェルちゃん。私、マリアよ」
海人の小さな鼻をちょんとつついた。
初めて味わった小さなベイビーの愛らしさ。
この子がいつか、ママのお姉さん『マリア』と呼んでくれる日が楽しみになってきた。
そのうちに、一人でフロリダにいらっしゃい。
おばちゃま、真っ赤な車でどこにでも連れて行ってあげる。
マイアミで美味しいお菓子をいっぱい食べましょう。
マリアは海人を腕に、心でずっと語りかける。
彼はむにゃむにゃと口を動かして、時折マリアをじっと見ている。
そして、どうしたことか……。
そのまますうっと眠ってしまったのだ。
それには皆もちょっと驚きの顔をしていた。
「やっぱりママのお姉さんだって、分かったのかもな。そしてこの家も、ママが安心している家だから、カイも心地良いんだ」
息子がすやすやと、初めて会った女性の腕の中で眠った様子を見た隼人が笑った。
マリアはそのまま、優しいパパの顔をしている隼人の腕の中に怖々と返した。
「カイ。お前のフロリダの家だよ」
ここは親戚の家。
隼人はそれを息子に教えているようだった。
白いシャツに、デニムパンツ姿の隼人。
相変わらず、堅苦しい飾り気など気にしない、こざっぱりとしている爽やかな人だった。
その彼が慣れた手で小さな水色の男の子をこの上なく、愛おしそうに抱いて見つめている姿は、またとても眩しかった。
きっと彼が眩しいのは、沢山の苦難を通り抜けて、愛する女性を守ってきたからなんだろうなとマリアは思う。その上でやっと得た、愛する女性の子供。その子供を大事そうに抱いている姿。一人の男性として、マリアも惚れ惚れしてしまう。父親になった男の人って、すごく綺麗なんだなと思ってしまった。それは隼人だから?
それはもしかして。隣に寄り添ってくれるマイクも?
そんな片鱗を見てしまったような気がした。
Update/2008.1.4