* ラブリーラッシュ♪ * 

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5.ここは愛の巣?

 

 それから、彼は三日も帰ってこなかった……。

 何故?

 

「仕方がないよ。将軍の秘書官というのは、そういうものなんだよ」

 朝食を取るマリアに、ハウスキーパーであるベッキーが珈琲を出しながら言った。

 元御園家、今はジャッジ中佐の新居となったこの家にやってきて四日目の朝を、マリアは迎えていた。
 ここで暮らす為にやってきてから彼といたのは初日のたった一日。翌朝、緊急の呼び出しがかかってからそれっきり。一度も帰ってこなければ、基地でも姿を見ることもなかった。
 それをベッキーは、『当たり前』と言い切りながらも、ちょっと待ちくたびれた様子のマリアを慰めてくれていた。

「分かっているわ……。そう、パパもそうだったもの」

 父は秘書官ではなかったが、似たようなもの。
 マリアも、分かっているつもり。
 それに今までもこんなことは何度もあった。基地に行けば少なくとも彼の姿だけでも見られる毎日。しかし今回と同様に『なにかあったのかしら』と思うぐらいに彼の姿が一時期見えなくなることはたまにある。でもそう思っているうちに、彼の姿が見えてほっとする。その繰り返しだった。
 では、今となにが違うかと言えば──今まではマリアは遠くから彼の仕事を見守り、距離を持って帰りを待っていた。だけれど今回はまるで、彼のスケジュールに付き添っているかのようにして、彼の帰りを待っている。そう、距離感が違う。しかも、彼が慌ただしく出かけていく姿を目の当たりにし、直に見送った──そんな違い。彼がどうしていないのかをはっきりと分かっているだけに。一緒にいるはずの家に彼がいないことも、より一層、傍にいないことを痛切に感じさせられた。
 これが『一緒に暮らす』ということなのだと……。マリアは数年前の結婚生活を、脳裏に蘇らせてしまっていた。

 前夫の達也も秘書官で、留守にすることはあったが、マイクほど機密的な立場ではなかったし、まだまだボスだった少将の父がカバーしている部分が多かった。
 でもマイクは、キャリアも積み重ねフロリダでは大事な要である中将の秘書官を長年こなしてきている。
 彼の徹底振りもマリアは良く知っている。
 だから彼は、出ていったら音沙汰なし。当然と思っても、マリアはやっぱり不安になる。
 『ひとりぼっち』になる不安じゃない。『本当に帰ってくるのか』という不安。
 幼い頃、そんな不安そうだった母マドレーヌと父親を待っていた記憶がある。それに似ている気がした。

(ママもこんなふうにして、パパを待っていたのね?)

 母の女性としての気持ちを、急に知った気になる。
 そこでマリアはやっと気を取り直し、珈琲カップを手にした。

「なによ。これでも私は、リチャード=ブラウン中将の娘よ!! これくらい当たり前だってよーく知っているわ!」
「その調子だよ、マリア。今晩も美味しいディナーを作って待っているから」

 私がいるから寂しくないよ──。
 ベッキーのいつもの陽気な笑顔が元気づけてくれる。
 マリアは照れながら彼女に『有難う』と呟く。

 きっとこのベッキーも、中将夫人であった『登貴子』を支える夜を何度も過ごしてきたんだろうなと思った。

「本当、ベッキーがいて良かったわ」
「そりゃね。マリアはこれから、私の『女主人様』ですから」
「やだ。私はただの同居人。一部屋借りているだけの……。ベッキーのご主人様はマイク一人よ」

 だが、ここでも。ベッキーが大笑いをして言った。

「なに言っているんだよ! そんな『部屋を貸したかった』だなんて、マイクの『建前』に決まっているじゃないか!」

 しかもベッキーはさらに『まあ、マリアまで照れてそんな憎まれ口』とまで言い出した。

「違うわよ! 本当に、本当に、もう、マイクにだって一ヶ月分のお家賃、払ったんだから! これは『契約の生活』なの『契約』の!」
「あはは! そんな部屋賃なんか当分は大家の顔で受け取った振りをして、きっと後でまとめて返ってくるよ。賭けても良いよ。これでも、マイクのことだって何年も私は見てきたんだからね!」

 だから、『今は大人になったマイクだけれど、よーく知っているんだ』と自信満々のベッキーの言い分に、マリアはおののいた。
 確かに。ベッキーなら、マイクが田舎から出てきた時から知っているだろう。しかもこの家の主だった元主人とは息子同然だったマイクだから、ベッキーにとってもある意味は『マイク坊ちゃん』とかいう感覚なのかも知れない? そう思うとマリアはなにも言い返せなくなってくる。

 ここでもジョイ的発言!?

 なんで皆、あの仕事人間が『人との共同生活』程度に申し込んだだけのことを、『マリアと愛の巣をつくろうとしている』だなんて言い切るのだろう!?

 そりゃ。既に甘い一夜を交わしてしまったのだから、マリアの言い分には説得力はないかも知れない。
 でも、あれだって『割り切った関係』の中にある『それも有りでバランスが取れる私達』とマリアは信じている。

 私も賭けたっていいわよ?
 絶対に、マイクは仕事人間。
 人が待っている生活なんて、きっと彼には息が詰まるだけ。
 彼も男。たまには女を抱きたくなることだってあるだろう。それが特定の相手が単に『マリア』であるだけで、したくなるからお互いに抱き合う。身も心も許し合える関係。

 だから『愛している』はない。
 『可愛い』と『綺麗』があっても……。

 そんなのいつもキスをしているから良く知っている。
 そんなの、いつも彼といるから良く知っている。
 そんなの……彼と肌と肌を合わせたからこそ、知っている。

 『愛』なんて。一緒に住めば、結婚すれば、なにもかもが愛を証明したかのように成立するとは限らない。
 『愛』なんて。忍ばせているだけで充分。自分さえ、ちゃんと分かっていれば充分。なにも彼に押しつけることなんてない。
 なにも『愛』を否定しているわけじゃない。こんな気持ちなんて、持つだけ無駄とか、そんな否定をしているわけじゃない。
 マリアだってまだ『愛』を信じている。でも言葉や状況じゃなくて、今度こそ『実感』が欲しい。
 今までマリアが信じていた『恋愛神話』や『語り継がれてきた一般論』のような愛し方じゃなくて、私とマイクだけの……『ふたりらしい形』で良いと思っている。

 だから、これまでの状態がベストだと思っている。
 一緒に住んだって、それは出来るはず。いや、した方がなにか崩壊しないような気がしている。
 今のままで良い。
 そう思っているのに……。

 

 でも、ベッキーが最後に言った。

「そんな難しく考えなくても。遅いよ。マリアはもうマイクに捕まったも同然じゃないか」

 それってつまり? この家に来た時点で、まんまとマイクの巧い導きのまま捕まったということ?
 私にはその自覚がないってこと?

 マリアは珈琲を飲み干し、出かける為に準備していたバッグを手にし、ベッキーに言い放った。

 いいえ! そんなことはありません!!

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 あんまりにも音信不通だから、今夜、彼が帰ってこなかったら実家の母にも聞いてみようと、マリアは心にそう決めて出勤をする。

 この日もランチタイムを迎え、マリアは工学科の講義を終わらせた後、一人でカフェに向かった。
 工学棟に新しくできた小さなカフェ。殆どが顔見知りで、一人で出かけても誰かと自然と共になることもあれば、マリア一人で済むこともある。そこはその日任せ。
 そんなカフェに辿り着くと、ドアを開けるなり直ぐに目が合う男性がいた。と言うより、彼がそのカフェで一人だけとっても浮いているのだ。何故なら、彼は体格が良く、そして服装は迷彩柄の戦闘服だったからだ。
 金髪の彼は、マリアを見るなり笑顔を見せ、こちらに真っ直ぐに向かってきた。
 そして、マリアも彼を笑顔で迎える。

「まあ、フォスター中佐。珍しいわね、こちらのカフェまで来てくださるだなんて」
「ちょっと目立つけれど。この時間だったら、ここしかないだろう」

 彼は変わらずに、中将付の特攻隊隊長。
 つまり、今はマリアの父親を体を張って守ってくれている男性。
 今は、彼とも彼の家族とも親しい付き合いをしている。
 土曜となれば、元『御園道場キッズ』として武道の稽古を続けてきた隊員達が、あのフェニックス通りの家に集まる。まとめ役の亮介がいなくなった為、今はマイクとフォスター中佐がまとめ役をしていた。

「聞いたよ。マイクとあの家に一緒に住むようになったとか……」

 四日目。早速、この先輩の耳にも届いたかと、マリアはちょっと顔をしかめつつ……。直ぐに『ええ』と笑顔で答える。

「アンディががっかりしていたけれど、まあ、マイクが引き継いだなら彼も納得だって……」
「私もよ。それが自然だったのだわって」
「でも、安心したよ。あの道場が続けられると分かって」

 フォスターは嬉しそうに笑った。
 マリアも『本当に』と微笑む。

「ところで、マイクがまた留守のようだけれど……」

 マリアはドキッとした。
 そうだ。この隊長なら、なにか大変なことがあれば直ぐに耳にはいるだろう。もしかして、今回も何か知っているのかと思ったマリアに安堵感をもたらす期待が胸の中に広がったのだが……。

「なにか知っているかい? 次の土曜日の稽古、どうするのかなあと思って」

 マリアはがっくりとうなだれた。
 中将付きの特攻隊長が何も知らないとは……。つまりそれほどに機密的な仕事に出かけているのかと思った。

「私も分からないんです、隊長。その……同居を始めた翌朝に彼、出ていったきりで」

 そしていつも通りに『音信不通なの』と、マリアはおどけて見せた。
 勿論、フォスターもマリアからそれを知りたかっただろうに判らなくなったと知ってがっかりした顔。

「秘書室にいないみたいなんだよな」
「そうなのですか?」

 マリアがマイクと親しくしていることは、今では基地中でも有名な話。なので秘書室には足を向けなくなった近頃。
 ましてや、父親が中将となったならば、娘としてなにか便宜を図ってもらっていると思われてもいけないので、あの場所は『私が行ってはいけない場所』と決めていた。まあ、先日のようにお伺いを立ててからジョイに会いに行くことはたまにはあるが……。
 なので、フォスターからのその一言は、マリアにとってはかなりの情報。……でも、この基地にはいないという、残念な気持ちになる情報だった。

「隊長、秘書室に行かれたのですか?」
「うん。無理矢理用事を作って、部下に様子見に行かせてみたんだ。でもロビンとジョイがいるだけで、当然──二人ともいつもの様子を崩さず笑顔でも口は堅いし、直ぐに出ていって欲しいというかんじだったみたいだな。もし、将軍に少しでも危険が伴う用事なら、秘書官だけでなく、俺達、特攻隊の方に護衛の命令でも届きそうだけれど……」

 でも、今回はそんなお声がかからなかったから『そうは危険な用事ではない』とフォスターは判断しているようだ。
 それでも声がかからないことも不思議に思っている様子。
 しかし、マリアは特攻隊の護衛が必要ではないことなら、父もマイクも大丈夫なのだろうとほっとした。

「そうだ。マリアに用事だったのは、次の土曜稽古のことなんだけれど。マイクがいないのなら、マリアに伺いを立てておいた方が良いかなと思って」

 つまり、マイクがいなくても、同居人のマリアが許可してくれたなら、主が留守でもあの道場を開けても構わないか? と、いうことらしい。
 しかし、マリアは即座に首を振る。

「駄目だわ。あの家の主はマイクだもの。私はただの同居人だし……」
「道場のこととかは、マイクはなにも? 彼が留守の間、君に任せてくれたことなど、なにもなかった?」

 マリアは再度、首を振る。

「まさか。たった一日よ。まだ彼ともなにも話していないわ。それにほんとにただ実家から独立しようと思っていた矢先に、彼があの家を譲り受けたものだから。丁度良いってことで、彼から一室借りているだけなの」
「そうか。では、マイクが帰ってこなければ、今週の稽古はなしということかな。うん、分かった。皆に、そう周知しておこう」

 『それがいいわ』と、マリアは心苦しく思いながらも、フォスターの判断に頷いた。
 そして、凛々しい特攻隊長の彼の顔を見て、マリアはふと気にしていたことを彼に尋ねてみた。

「近頃、リリィはどうしているの? お稽古でも見なくなった気がして……」

 すると、フォスターは『ああ』と、力無い表情に変わってしまった。

「ほら、反抗期ってやつだよ。マーガレットが、手を焼いている。なにかにつけては『ママ、うるさい。ほうっておいて』ってね」
「まあ、そんな年頃になったのね!」

 マリアも毎回、土曜稽古の様子を覗きに行っている訳ではないので気のせいかも知れないが、父親について御園家の道場に遊びに来ていた彼女を目にしなくなったことを気にしていたのだ。
  実はリリィ。いつからか、父親の真似事をしているうちに、なんと道着を着込んでめざましい成長ぶり! しかも『私も、ハヅキみたいになる』とか勇ましいことを言い出して、暫くは皆を驚かせていた。
 実際に、リリィは大柄な父親に似たのか、あの年代の少女にしてはすらっとした背丈に伸び周りの同級生より目立つらしい。その上、両親譲りの煌めく金髪は綺麗に肩より下に伸ばし、母親のしっとりとした顔つきまで似てきて、若い隊員達が『可愛い。将来が楽しみ』と少しばかり浮かれているのをマリアは目にしたことがある。
 なのに、父親譲りの運動神経故か、あんまりにも上達するので、ついにマイクが本気になって教え込み始めたのだ。
 フォスターは娘の才能を喜びつつも、ちょっと心配顔。勿論、母親のマーガレットも『女の子らしくして欲しい』と心配顔。さらにマリアも『マイクが余計なことを教え込むから、リリィが本気になった』と彼に食ってかかったこともある。これは同じ女性として、母親であるマーガレットの気持ちに同調してだった。
 なのに、あの男ときたら! 『リリィ、秘書官になってみるかい? 女の子はそれがいい』なんて、吹き込み始めたもんだから、マリアの頭に血が上り『無責任なことを言うな!』と喧嘩になったことがある。
 だけれど、リリィは『そんなのまだ決められないわよ。私の将来を勝手に決めないで』なんて、おませな口振りでマイクをかわしている。

 そんな可愛く成長しているリリィを、最近見なくなったとマリアは気にしていたのだが、なんか納得した。
 そして父親のフォスターも、やや渋い顔で言う。

「まあ、気まぐれだったかなとマーガレットと言っているんだ。身体を動かすことは良いことだから、運動程度でいいかなとね」
「それもそうね。安心したわ。でも、分かるわ。あの歳の女の子は気難しいらしいから、これからパパは大変ね」
「そうなんだよ。時々、無視されるのが悲しいね〜」

 マリアはまた『まあ』と、嘆くフォスターに同情した。

「マリアはそれはなさそうだね。なんだか、素直に真っ直ぐすくすく育ってきたって感じで。お父上も穏やかだしね」

 マリアは黙ってしまった。
 実はマリアは、こう言われるのが一番辛かったりする。
 フォスターが言うとおり、自分でも『反抗した覚えがあんまりない』のだ。
 当時、もし悩みがなんだと言われたら、仲良くしたかった葉月に避けられてばかりいることや、御園関係の男達に敬遠されていたこと。それ以外は彼等が言うとおり、マリアは自分の思うままにのびのびと過ごしてきたと思う。
 そして皆が言う。『君は、貴女は、お嬢様育ち』なのだと。なんの苦悩もなく真っ直ぐに気ままに伸びやかに生きてこられたから、だから必要以上な正義感や正当とされる論理を当たり前の如く振りまくのだと。嫌味に言われることも多い。実はそれが私にとっての苦悩だとはお嬢様育ちと言う人々には分かってもらえない。
 今のフォスターも、悪気がない発言と分かっているが、マリアが一番気にしているところを言い放ったのでマリアは憮然としてしまうのである。

「でもマリアが気にしていたと伝えておくよ。また、ベッキーのご馳走目当てに顔を見せると思うから」
「そう、楽しみにしてると伝えておいて」

 彼に悪気はないので、マリアもすぐに笑顔になって彼を見送る。
 フォスター中佐が手を振って工学科のカフェを出ていくと、遠巻きにしていた男性教官達がマリアに寄ってくる。

「ブラウン、なにを話していたんだよ」
「格好良いよな。特攻隊長。俺も道場見学が出来ないかな!」
「あら。それなら隊長に聞いてみても良いわよ」

 特攻隊長は、理数系の男達の憧れの的。
 マリアはそんな知り合いが多いので、いつもこう聞かれる。
 時には父親の将軍とはどんな話をするかなんて探られることも。

 なんか、中将の娘って気を遣う〜。
 マリアは近頃そう思っている。

(なんか、葉月の気持ち分かるような気がするわ)

 親子なのに、将軍とその部下である大佐として、父娘の距離を保っていた御園父娘。
 なにもそこまでとマリアは思っていたが、分かってきた気がする。
 しかも、葉月の場合は……もっと若い頃から。彼女のあの頃の素っ気ない顔つきの意味や重さが、妙に身に染みるこの頃だった。

「あー。早く会いたいわ」

 きっと、日本にいる妹分はマリアの『お嬢の苦悩』を分かってくれると信じていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 結局、勤務中にマイクを見かけることはなかった。

 こぢんまりとしている元御園家には、門に二本のフェニックスがありそれが皆の目印。
 今日もマリアは一人。ガレージに赤い愛車を入れようとしてハッとした。
 彼の──黒いスポーツカーがある!
 彼の隣に慌てて愛車を駐車すると、マリアは運転席から瞬く間に飛び出して家の中に入った。

「マイク!」

 玄関に入るなり、彼の名を呼ぶ。

「マイク、マイクー!」

 廊下でも叫び、そしてリビングに入っても彼の名を呼ぶ。
 リビングはシンとしていた。この時間、キッチンに来ているはずのベッキーもいない……?
 じゃあ、彼は部屋にいるのかもと、マリアは階段裏に続く廊下へと向かう。
 一応、キッチンを覗いて『ベッキー?』と呼んでみたが、いろいろと下ごしらえの準備をした跡があるのに、ベッキーの姿はなかった。

「ベッキー……なら、買い物……かな……」

 そんな声がマリアの背後から聞こえてきて、びくっとして振り返る。
 すると、リビングにあるソファーに寝そべっている男が一人。彼が気だるそうにむっくりと頭をかきながら起きあがった。
 マリアはその男を見て目を見開いた! ぼ、ぼさぼさの、頭。真っ黒なヒゲだらけの顔! くちゃくちゃの白いシャツにはだけた胸元。 どこの山男がこの家に忍び込んだのか──!

「いやー! きゃーー!! 誰なのよ!!!!」

 思わず叫んで、ハッとした。
 そんなの誰か判っているじゃないか?
 でも! それでも一目見たその姿はかなりショック!?
 当然、同居人である彼女にそんな疑いをかけられたマイクもショックなのか唖然とした顔。しかし直ぐに憤りの顔を見せた。

「ひどいな! やっとの思いで帰ってきてみれば! あんまりにも疲れて帰ってきて直ぐにここで寝てしまったんだ。それだけなのに!」
「ご、ごめんなさい……っ! だって、貴方のそんな姿、初めて見たし、信じられないんだものーー!」

 ぶすっとふてくされてしまったマイクは、マリアをじっとりと睨んでいる。

「ほら、だって……」

 ほら、だって……。貴方はいつもきちんと整えた身だしなみだからと言おうとしたら、そんな彼に手招きをされた。

「いいから、こっちに来てくれないか?」

 何故か、マリアは後ずさる。彼の目が笑っている。それが一番怖いことを、マリアはここ数年で身に染みて理解していた。
 でも、マイクじゃないような、他人に見えるもっさい彼の傍にはなんだか近寄れないマリア。
 それでもマイクは、おいでと手招きをやめない。
 後ずさりながらも、その眼力に負けてしまうかのように、マリアの足は一歩二歩と動きだし、彼の目の前へと辿り着く。でも、ちょっと控えめ離れ気味。

「ええっと。マイク、何処に行っていたの?」

 聞いても無駄と分かりつつ、マリアは直ぐに彼に抱きつけない間を埋める為にそんなことを聞いていた。

「ずっと基地にいたけど」
「うそ! 秘書室にはジョイとロビンしかいなかったって……」
「フォスター中佐から聞いたのかい?」

 なにもかも知っている様子のマイクの口振りに、マリアは驚いて息を止めた。

「確かに。秘書室を留守にはしていた」
「それで、そんな格好!」
「シャワーが浴びられるかどうかって場所かなあ……。これ以上は言えない。ちなみに、マリーのパパは中将室で待機していただけ」

 そしてマイクは言う。『それ以上は、秘密だ』と。

「分かったわ。それ以上を、私も探るつもりもないわ。でも、安心しました」
「……ごめん。気にしていたんだ。まさかマリーと一緒に住み始めてたった一日でこんなになるとは……」
「謝らないで。困るわ。秘書官の貴方がどんな生活か知っているつもりよ。いちいち謝られたら、私、逃げたくなる」

 マリアがそういうと、彼はやっとほっとしたいつもの穏やかな笑顔を見せてくれる。

「マリーが待っているかと思うと……。会いたかった、帰りたかったよ」

 その言葉に、マリアの心はすうっと緩んでいく。
 そんなふうに思ってくれていることが、すごく、嬉しい。
 なのに素直になれない。

「駄目よ。貴方の一番は、秘書官としての使命。……それから帰ってきて……」

 ほとんど本心。
 でも、彼を待っている間の不安も本心。
 そんなマリアの揺れる迷いを察してくれたのか、もさっとしているマイクでも、いつもマリアが愛している彼の顔で側に来て抱きしめてくれた。

 いつもぱりっとしている真っ白なシャツが、薄汚れていてしわくちゃで男っぽい汗の匂いはするけれど、ちゃんと彼愛用のトワレの香りもする。
 その逞しい彼の胸にマリアは顔を埋め、やっと彼を抱きしめる。

「マイク……。帰ってきてくれたら、それでいいから」
「ああ。絶対に俺は帰ってくるよ」

 約束よ。マリアはそんな一言を口先で小さく呟きながら、マイクの青い目を見つめた。
 マイクの指がマリアの頬をなぞって唇に辿り着く……。そこから先をマリアも察して、そっと瞼をふせる。
 もうすぐ、きっと、彼の柔らかくて熱い唇が降りてきて……。でもそこでマイクがちょっと可笑しそうに小さく吹き出した。

「安心してくれ。歯は毎日、磨いていた。帰ってくる前も、磨いてきた。マリーの為に」
「なに、それ。キスをしようと思っている確信犯じゃない」

 こんな良いムードの時に、そんなことを言って茶化したマイクに、マリアは一瞬ムッとしたが。同じように可笑しくなって笑いだしていた。
 その後は、笑いながらの口づけ。それもお互いが笑ってばかりいるので、ちっとも甘い雰囲気にならなくて、どちらかが笑っては唇が離れ、結局、何度も何度もやり直して、最後には諦めてやっぱり一緒に笑うばかり。

「もう。そのヒゲ、痛いから剃ってきてよ」
「そうする。目も覚めたし、ベッキーのご馳走が出来るまでに、さっぱりして、マリーとディナータイムとするかな」

 やっと。この家の食卓で彼と向き合って夕食が取れる。
 マリアも急に心が浮き立ってきた。

 彼が帰ってきてほっと一安心。
 でも……。これから、彼と共に暮らす中、もっとすごいことを目の当たりにするのだろうなと、マリアの心に僅かな影が落ちる。

 この後、ベッキーと一緒に三人で食事をした。
 この家の新しい門出をこれから共に過ごす三人でお祝いをした。
 ベッキーは、もうすぐ葉月がベビーを連れて隼人と久しぶりに渡米してくることをとても楽しみにしているようだった。
 そしてマリアは、この日のランチでフォスター中佐に会ったことと、彼が今週の土曜稽古の心配をしていることをマイクに告げた。

「そうか。分かった。クリスに後で連絡して、予定通りに行うことを言っていくよ」

 同世代の二人は、岬任務以来、そして数年前の葉月帰省以来、とても親しくなったようで、マイクは『中佐、隊長』と呼んでいたフォスターのことを、今は親しく『クリス』と呼ぶようになった。

「リリィにも会いたいわ」
「分かった。俺から直接、声をかけてみよう。そうか、リリィが暫く来なくなったと思ったら、反抗期ってわけか」

 マイクも『成長している証だけれど、彼女がこないと寂しいね』と気にしたようだった。

 リリィはマイクのことをとても慕っていて、彼の言うことには素直なところがあった。
 そのせいか、やっぱり……。食後にマイクがフォスターに連絡をし、電話口にリリィを出して欲しいと頼み彼女を誘ったら、即OKの返事があったとのこと。
 マリアはちょっと、苦笑い。葉月の時もそうだったが、マイクは『小さな女の子』にはすごく好かれるようだった。

「マリー。どう? 俺の部屋においでよ。詰め込んでいたから、人肌恋しいんだ」

 フォスター家への連絡が済んだマイクが、携帯電話を片手でたたみながら、さらっと申し込んできた。

 少し戸惑うマリア。
 これじゃあ、本当に新婚みたいだった。
 このままでいいのかと思いながらも、マリアだって彼のことをどうしようもなく愛しているのは変わらないこと。
 そのまま静かに、頷いてしまった。

 遠くでベッキーがにんまりと静かに微笑みつつ、見守っていることはマリアは気が付かなかった。

 それぞれの夜の仕事準備と寝る支度が済んで、マリアはマイクの寝室を訪ねる。
 彼が買った大きなベッドに、お互いに素肌に近い格好で寄り添って眠った。
 眠りにつくまで、この前のような睦み合いがあったことは、もう当然と言ったところ?

 このままでいいのかしら?
 でも、気持ちはこれで自然。

 だったらいったい。私はなにを躊躇っているのだろう?
 そして彼はどうしてこんなにどんどんとマリアを引き込んでいるのだろう?

 それでも彼に愛されてしまったら、そんなことは忘れてしまう夏も終わる夜。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 土曜日。早速、この家に『元・土曜キッズ』の稽古生が集まってきた。
 キッズと言っても、元主だった亮介から見たら子供だったり部下だったりする男達のことを指していたので、半分は中年の男達だった。
 後はマイクの部下。秘書官達が護衛の能力を高める為に、若い彼等も参加している。

「アロー。ひさしぶりー」

 そんな中、キラリと煌めく金髪を揺らすすらっとした少女が混じっている。
 彼女が現れると、少女ながら、道場にいる男達の目が一気にそこに集まった。
 彼等は口々に『リリィ! 久しぶり』、『待っていたよ』と笑顔で迎える。

 これから稽古だというのに、リリィはフリルの付いた、でも大人っぽく胸元が開いたワンピースを着て登場。しかも足下は、ヒールが高いサンダル。なのに肩には帯でまとめている道場着を引っかけているので、かなり人々の目を引いてしまう、稽古に来たにしては異様な雰囲気だった。

 それだけじゃない。マリアがもっとびっくりしたのは、つい最近まで本当に可愛らしい子供だった彼女が化粧をしていたことだった。

「リリィ? ど、どうしたの?」
「なに。マリア、私の顔、変?」

 変なものですか。ちょっとやばいくらいに素敵じゃない!?
 そう言いたいのに、彼女のすぐ後ろにはとっても不機嫌な顔をしている父親のフォスターが睨んでいるのだ。
 ここで大人のマリアが褒めたら、調子に乗るからやめてくれ。そう訴えてくるかのような目線に、マリアは口をつぐんだ。

「ふん。マリアみたいな厚化粧にならないように、気を付けているんだ」

 マリアはその発言にも目を丸くした。
 まあっ。この子ったら、なんて口をきくようになったのでしょう!?
 怒りたくなる前に、もの凄くショック。とっても残念な気持ち。

「こら、リリィ! マリアになんてことを……」
「あー。かったるい。パパ、マイクが呼んでいるわよ」

 その通りに道場着に着替えたマイクが、フォスターを呼んでいた。
 フォスターは娘に見えないように、マリアに『すまない』という仕草を見せて去っていく。マリアも『気にしないで』という笑みを返しておくのだが……。
 本当にかったるそうなリリィと向き合って二人きりになると、彼女が急にマリアを睨んだのだ。

「ねえ。マイクと一緒に住むようになったって本当?」
「え? ええ、そうね」

 すると彼女はさらにマリアをきつく睨んでくる。
 いくら反抗期で口が悪くなっても、さすがにマリアも狼狽えた。
 その目は、マリアに対してかなり敵意を含んでいると感じたからだ。

「さっき、マイクから聞いたんだけど。ハヅキお姉ちゃんの部屋を使うようになったっていうのも本当?」

 マリアは答えに詰まったが、しかし、いつまでも隠しておくことは無理だろうし、ここで嘘をつくのは絶対に良くないと思い『本当よ』とリリィに答えた。

「あんたって最低!」

 リリィはそれだけ吐き捨てると、マリアの前から踵を返して去っていってしまった。
 マリアは呆然……。

 ついこの間まで、あんなに可愛らしい小さな女の子だったリリィが?
 ちょっと待って。私の話を聞いて。と言いたいし、さらに何故リリィはそう思うの。とも聞きたいのに聞けずじまい。
 でもリリィはマイクには可愛らしい笑顔で甘えている。

 それを見て、マリアは額を抱える。
 これは、母親のマーガレットが手を焼いているはずだと。
 フォスターが遠くから、またもや申し訳なさそうな苦笑いをマリアに向けていた。

 

 

 

Update/2007.12.04
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