言われたとおりに、マリアは二本のボトルを手にして、マイクがいるテーブルにそれを持っていった。
キッチンを出ても、マリアに声をかけてくれたはずの彼は、まだ秘書室の横顔で黙々と仕事をしていた。
なんだ。マリアが冷蔵庫へ行ったのをこれ幸いと、使っただけかと思った。だから、まだ淡々と仕事をしている彼の側に、ペットボトルを一本置いて、静かに去ろうとしたのだが。
「そこに座っていてくれないか」
何か戦いを挑んでいるような目を、書類の活字に向けている彼なのに……。その顔で、マリアは引き留められる。
いつもなら『なんでよ。私はもう眠たいから寝るの! 人を小間使いみたいに使っておいて、なによ、その偉そうな言い方! 私は秘書室の部下じゃないんだから!!』──とでも言っていそうな場面なのだが、今日はどうしてか、そんな『天敵を撃墜する言葉』が出てこなかった。そして彼の隣の椅子に大人しく腰をかけてしまっていた。
一緒に暮らすことになって、初めての夜だから。
おやすみの挨拶もなしに勝手に寝るのもちょっと気が引けていたマリア。
きっと彼もそうだと……思いたい。やや邪な予感があるがそれは頭の彼方に押しやった。
マイクはそんな大人しいマリアを不思議に思ったのか、せっかく集中していた書類から、目を離してしまった。
そしてちらりとマリアを見た。
「なんだ。大人しいね……。私を小間使いみたいに使ったのかと、怒るかと思ったのに」
彼の見透かした笑みに、マリアはまったくその通りの言葉を思い浮かべていたので、ぐっと赤くなる。
ほら、当たっていたと、仕事に夢中だった男が笑い出してしまった。
「もう、邪魔をしたくないから静かにしていたのに! 笑う為に呼んだなら、もう、私、部屋に帰るから!!」
やっといつもの自分らしい口が出ていた。
さらに目の前で、マイクが笑い出す。
そして彼はついに、広げていた書類を片っ端から片づけ始めてしまった。
「ちょっと。仕事、まだ残っていたのでしょう? 笑っていないでちゃんとやってよ! まるで私が来たせいで続けられなくなって終わったみたいじゃない!!」
マリアが二階から降りてきたから、集中できなくなったとばかりに……。
そんなの嫌だ。一緒に暮らすことになって、今まで彼が一人で集中してやってきた自宅での仕事の習慣を変えたくなかった。
だけれど、マイクは綺麗に書類を束ねると、マリアにはっきりと言った。
「いいんだ。マリーがやっと降りてきたから、俺もやめる」
「ちょっと、待ってよ……! そういうのやめましょうよ。私達……」
「勿論。邪魔をされたくなかったら、俺はきつい口調になると思うから、覚悟しておいてくれ。やめられない時も、マリーを無視するかも知れない」
そこは真顔でマリアに言う彼。
マリアはそれで、何も言えなくなった。
きっと彼は、そうなるだろうとちゃんと予測していたからだ。
ならば、今日はやめられる程度だから、やめたんだと……やっと納得できた。
「それで、いいと……私は思っているわ」
「そ、有難う。流石、中将の娘」
中将の娘、という要素も大いにあるだろうが。
マリアという女が、彼にそれを願っているのだと……。そう言いたくなったが、言えなかった。
「話はそれだけ? それなら、私はもう戻るわね。おやすみなさい。貴方も、ゆっくり休んでね」
マリアはなにか急くような気持ちで、椅子から立ち上がる。
彼のいつもの『グッナイ』の一言を待っていたのに、それが返ってこなかった。
そんな彼を見下ろすと、彼はどうしたことか真顔でマリアをじいっと見つめている。
胸がドキドキしてきた。
その顔、その眼差し。深い夜空色の瞳がふうっとマリアを包み込むような感覚に陥る。
そんな時、マリアはいつも動けなくなる。
「マリー、覚えているかな?」
なにを?
返事が出来ないマリアの手をマイクは握りしめ、まるで魔法にかけた女性を手元に引き寄せるようにして、自分の方へと引っ張っていく……。
そしてマリアもそのまま……。
駄目だ、このままじゃ、きっと……。
でもマリアは既に、もう一度、彼の隣の椅子に座らされていた。
「覚えているはずだ。忘れているだなんて言わせないよ」
だから、なにを?
声にならないまま、彼の紺色の目を見つめていると、やがて彼の手がマリアの頬を包み込んでいた。
「逃げただろ。あの朝」
マリアはぎょっとした。その一言の意味が分かって、固まるしかなかった。
今頃、それを言う!? いったいどうして?? これから一緒に暮らそうと初めて一緒に迎えた夜になんで? マリアの心は一人騒ぎ始める。
そして魅惑的に和らいでいた彼の青い目も、急に不満げな色を宿し、マリアを責めているよう……。
「マリーは、あの時、俺が寝ていると思っていただろうけれど」
「……まさか、起きていたの!?」
今度は勝ち誇った笑みの彼が、『ああ』と頷いた。
マリアはあの時の慌てて彼の部屋を脱走した自分の姿思い返し、恥ずかしい思いで身体中がかあっと熱くなった。
「可愛かったな。『どうしよう、どうしよう』って、まるでティーンの女の子みたいに慌てて出ていったのが……。途中で大笑いして引き留めたかったけれど、それ、嫌だっただろう?」
『ぎゃーー!!』とマリアは叫びたくなったが、心の中だけでなんとか収める。
その代わり、もっともっと熱くなる。あの、『恥ずかしい』という思いで脱走していった一部始終を、この男は笑いを堪えて眺めていただなんて!!!
「ひ、ひどい……」
「どっちが? なんで逃げたのか……。俺が予想できるのはひとつだけれど、それが当たっているのも、ちょっとなあって感じだよねー」
その予想って何!?
でもマイクの予想は当たっている。きっと当たっているとマリアは確信した。
だってこの人には、いつだって手玉に取られているお嬢ちゃんなんだから!
その証拠に『こっそり逃げることに成功した』と一年も安堵していたのに、彼の方はそんなマリアの心情を知り抜いているから『笑い出さず、君の思い通りになるように寝たふりで見送った』と言うのだから。
「じゃあ、じゃあ! その後暫く顔を合わすことがなかったのも!?」
マイクはさらににっこりと微笑んだ。
「そうだよ。きっとマリーは顔を合わせたらまた逃げそうな気がしたから。『恥ずかしくならなくなった頃』を見計らって、俺から近寄ったのが、四日目だったかなー」
マリアは再度『ぎゃー!!』と、心の中で大叫び。
なにもかも! この男に見透かされて、この男に手玉に取られていたんだと、大混乱!
マイクはそんなマリアを見て、一年前の仕返しをしたかのように暫くは楽しそうに笑っていたのだが……。
「そんなに、俺と寝たのはまずいことだったのかなと……」
まだ湿っているマリアの栗毛を指先に絡め、急に神妙な顔に。
「ち、違うわ……」
素敵なひとときだった。
なのに逃げたから、彼が気を悪くした……。あの時はそんなことを心配した。
だから今度は誤解されないよう、ちゃんと、言う。
「す、素敵だったわ。だから……」
だから、『恋人』でもないのに、どんなふうに顔を合わせればいいか分からなかった。
そう言いたいのに、『恋人』という一言を含む限り、それは口に出来なかった。
「良かった。だったら、いいね」
マイクのほっとした顔。
でも『だったら、いいね』とはなに?
マリアがそう思って目の前にいる彼を見ると。……もう、唇を塞がれている。
しかも、いつもの握手のキスじゃなかった。
「っう。マ、マイク……」
なんて大胆なんだろう? 口づけた途端に、マリアがそれがキスだってやっと認識した時にはもう、唇をこじ開けられていた。
あっと言う間に滑り込んでくるマイクの、舌先。そして封印でもされたかのようなマリアの唇。それを逃げ場を探すかのように動かせば、また彼の大きな唇にすっぽりと覆われてしまい、息も逃げ場を失うほどに……。
そして、唇だけじゃない。たったそれだけでマリアの心に身体も逃げられなくなってしまう。
ああ、身体のそこから湧き出てくるこの焼けるような感触……。
一年前の、彼との素敵な一夜を思い出すには充分すぎる、愛撫。
自分を愛してくれている彼の顔を見たいけれど、湧き上がってくる焦がれる感触が痛いぐらいにマリアの身体の底を疼かせ、それが止まないからぎゅっとつむる瞼。
思わず漏れた小さく掠れた喘ぎ声に、彼も小さく息だけの笑い声を漏らした。
「明日の朝も、逃げないだろうね? 実家に帰っているだなんてなしだよマリー」
え、それって今から!?
彼は、彼は、これを待っていたというのだろうか?
その為にマリアを?
彼への沢山の疑問。心の準備は出来ていないのに、マリアの肌はもう、彼の手を許していた。
これから、きっとこんな繰り返しになる。
甘くて逆らえない、熱いひとときを傍に置いて……。
どこまでいくのだろう。私達はどうなっていくのだろう?
「マリア。俺は一年、黙って待っていたんだ。分かるかな……俺の、この、きも……ち」
マリアの耳元に深い口づけ。
迷いなくマイクの手が、マリアの胸元に滑り込んできた。
・・・◇・◇・◇・・・
この一軒家の主になった彼が自室に選んだのは、一階奥にあった元ゲストルーム。
そこはとても広い部屋で、既に彼が新しく買ったという大きなベッドがあった。
新しいベッドの、木の香り。
新しいシーツには既に、彼の匂いが移っているのがマリアには分かった。
既に何度かこの家で寝泊まりをしていたからだろう……。
そのベッドの縁にマリアは座らされ、彼は床に跪いてマリアを優しく抱きしめる。
『可愛いマリー』。いつもの囁き、いつもの大人の微笑み。優しい手つきで彼が、あの夜のように静かにマリアが身に纏っている物を肌から落としていく。
夜灯りに浮かび上がるマリアの、豊かな乳房。
狂おしそうに動く彼の長い指先。小さく、大きく、また小さく……マリアの胸先の周りに輪を描いて柔らかくほぐす仕草。
そうだった。彼は最初は優しかった。一年前のあの夜も、マリアはそれを意外に思っていた。最初から、その逞しい腕で強く抱かれることばかり想像していたから。
でも、これが大人の余裕なのか。彼は静かに柔らかく、女性の身体を先にほぐすことを信条にしているのかとマリアが思ったほどに、女が敏感に感じそうなところは、存分に愛し抜いてからやってくる。
それがあったから、マリアは忘れられなかった。
そして怖かった。これが何度も続いたらきっと……溺れてしまう。
今夜だってほら。逆らえなかった。彼に誘われたら、マリアじゃなくても、どんな女性だって言うことを聞いてついていってしまうに違いない。
その上、こんな愛され方を知ってしまったら、もう……。きっと、いつでも期待してしまう。
こんな時に、思い描くのはなんだろうけれど。あのテイラー博士が、あんなふうに距離を取りたくなったことも、それとは裏腹に離れられなくなってしまったことも、マリアには分かる気がしていた。
だから、あんなふうになったらどうしよう。マリアは思う。
今夜も、彼はマリアを優しく抱きしめながらも、指先はゆっくりながらもとても巧みだった。
着ていたガウンにスリップドレスは、肩から落ち乳房より下に引き下ろされ、マリアの腰に残っていた。
なのに彼はそのままにして、下からはマリアの太腿を滑って裾を腰までたくし上げ、その影に隠れてしまう。
裾の下でうごめく彼の……。寄せられた唇は柔らかだけれど、とても刺激的だった。
「マ、マイク……。や、優しく、して……」
裾の下にある彼の黒髪を、マリアはぎゅっと握りしめる。
震える息を吐きながら、下を見やると、裾の影から不満そうな彼の青い瞳が覗いていた。
「どうして。これ以上? 俺はまだその気になったばかりで、これより手加減は難しいところだけれど?」
分かっている。
貴方が、小さく唇を動かしただけでも、駄目なの!!
でもマリアの口はそれを言っていなかった。
だって……。彼がマリアのその要望を受け入れられないとばかりに、また、唇を寄せて……。
「あん……っ」
ああ、もう駄目。
もう、どうなってもいい……。
好きにして!
心で叫んだマリアの気持ちが通じているように、彼の口先は攻撃的になる。
目をつむっていれば、何をされているか分からないぐらいに、どうにでもされ……。
最後、マリアの唇も乳房も指先も、身体中の何もかもが震える。
もう駄目だった。
だって……。『本当は焦がれていた彼との睦み合い』。ここまでされたら、マリアに抵抗する術も理由もない。
うっすらと汗ばんだ肌をやっとベッドに横たえると、マイクが目の前で着ていたポロシャツを脱ぎ始める。
大人のマリンルックを思わせる白に紺を合わせたそのお洒落を、マリアは一日満足げに眺めていた。
彼がそのシャツを脱いで素肌になると、違う人になったよう……。何故なら、将軍の側近として鍛えられた身体が露わになるから。常に将軍の側にお仕えする以上、彼には『護衛』の能力も必要となってくる。実際にマイクは、特攻隊長のフォスター中佐と、今でもこの家の道場で鍛え合い、さらに後輩に部下達にも稽古を付けている。
その身体が、既に気を抜かれてしまったマリアの上に、躊躇いもなく覆い被さってきた。
マイクの胸の下、マリアの胸の上。お互いの肌がピッタリと合うと、彼がマリアの大きな乳房をその手に包み込んで微笑んだ。
「マイク……」
「初めて見せてもらった時と変わらず、綺麗だ」
この人。こういう甘いこと平気で言えるのだわ……。
今夜が初めてじゃなくて、一年前のあの夜に初めて思ったこと。そりゃ、普段も『可愛いマリー』とか他に色々、甘くしてくれる。それでもベッドの上でもマイクのその言葉は変わることはなく、むしろ格別だった。
女が期待していること。でもなかなか言ってくれないことを、本当に言ってくれる。お世辞かも、でもお世辞に聞こえない。それって彼に既に女心も手玉に取られているマリアの錯覚? でも本気で言ってくれているとマリアは信じていた。彼の、深海の目がそう思わせる。
深く交わる口づけは、もうマイクだけの愛撫じゃなく、マリアも積極的に彼の口先と交わる。
「マイク、マイク……。私……」
「マリー、可愛いよ。マリー……」
止まない口づけは、まるで一年分、それを分かっていて知らない振りをした分を繰り返しているようだった。
マリアの肌は既にしっとりと汗ばんでいたけれど、徐々に、マリアの乳房の谷間からもふわっと熱気を含んだマイクの匂いもたちこめてきた。
湿っているマリアの金茶の髪を大きな手ですくい上げながら、マイクの口づけは唇に留まらず、マリアの鼻先に頬に目元に耳元にあちこち忙しなく繰り返される。堪らなくなってマイクの背にしがみつくと彼の肌もとても熱くなり汗ばんでいる。
シャワーも浴びていないマイクの身体からは、彼のいつものトワレと彼の汗の匂い。
マリアの脳裏に深く刻み込まれた、彼の男としての匂いがそこらじゅうにたちこめ、マリアを包み込んだ。
それだけでもう、マリアの身体の芯は熱く灼け、身体の底からとりとめなく潤っていくのがわかった。
それを指先で確かめながら、マイクはマリアの顔の側でじいっと見つめている。
それも駄目だから。そんなに見つめないで? 側でそんなに、貴方を感じている身体を確かめながら、見つめないで。マリアの恥じらいを観察されているようでたまらない。
でもマイクは少しだけ微笑むと、それはもうどちらも逃げられない大事なことのように、マリアの潤いに迫ってきた。
「マリー、ごめん……。俺、あれ以来なんだ、だから……」
『あまり我慢できないかも』──なんて、そう言いながら、彼がそこで躊躇っていた。
まるで手前で焦らされているかのよう。もうすぐそこに彼が来ているのに、そこにもう触れているのに。そんなところで彼が立ち止まっている。
でも、彼が躊躇う意味を、もうお嬢ちゃんではないマリアも分かっている。他に、マリアの他にはいなかったという意味でもあって、彼はその欲を禁じてくれていたのだと。
「……そんなの、同じよ。私だって、あれ以来」
「……みたいだね。こんなに、嬉しいな」
当然でしょう。もう、あれ以来。私の身体は貴方を忘れてなんかいなかったんだから。
だから、知らない振りを続けてきた。
なのに貴方から仕掛けてきた。
こんな素敵な貴方を見せつけられたら、もう駄目よ。はしたなくても、いやらしくても、構わない。
貴方を、身体いっぱいに感じている。
「でも、がっかりさせない……から」
ああ、彼が力一杯、マリアの身体に入ってくる。
一瞬で、マリアの身体はとろけてしまった……。
マリアをぎゅっと自分の肌に抱き寄せ、耳元で彼が切ない声を漏らしながら息を切らして……。
嘘つき。あれ以来だから、きっとあっと言う間だよとか言いながら、マイクはそんな経験も積んでいるのか巧みに調整してはちゃんとマリアを愛し続けている。
だから、嘘つきじゃないかも。決して、がっかりさせないよ。って……嘘じゃなかった。
彼にしては、それは『がっかりに思わせてごめん』と思う時間だったのかもしれないけれど、マリアには充分。
むしろ、そのままうっとしりして……。彼の肌に寄り添ったまま、言葉もなく眠ってしまったようだから。
微かな潮騒の音と、良く知っている彼の匂いに包まれて。
今夜も彼はマリアに囁く。
『可愛いマリー』。
愛しているという言葉は、まだ彼からも出てこない。
そして、マリアも囁かない。まだ囁けない。
甘くて熱いひとときを迎えても。
私達はまだ、そのまま。
・・・◇・◇・◇・・・
ピリリ──という、何かの音でマリアは目を覚ます。
『分かった。直ぐ行く……。うん、そうだな。そうしておいてくれ。俺が行くまで動くなよ』
彼の声で、マリアは益々目を覚ました。
まだ眠い目を開けると、部屋は青く薄明るく、夜明けのよう……。そしてマリアの隣には、昨夜のまま裸のマイクが携帯電話を手にして溜息をついていた。
彼がマリアを見下ろす。……それと同時に、マリアは何故か目を閉じて寝たふりをしてしまう。
また、彼の溜息だけが聞こえてきたが、マリアはぎゅっと目を閉じて寝たふり。
直ぐに分かった。秘書室には必ず誰かが一人宿直するシステムになっていて、その宿直をしている部下から緊急の連絡が入ったのだと。
マリアが起きていたら、気兼ねするかも知れないと……。だから、眠ったふり。
行って。早く行って。
私のことはいいから、行って。
寝たふりのマリアが心で念じたことが通じたかのように、彼が潔くベッドを降りた。
その後の行動は素早い。クローゼットから白いカッターシャツを取りだし、昨夜の愛し合った肌をまたたくまに包み込む。スラックスをはいて、ベッドサイドに置いてあった腕時計をはめると、携帯電話、システム手帳などかき集め、ベッドの足下に置いてあったアタッシュケースに放り込んだ。中佐の肩章がついている軍制服の上着を小脇に抱えて、彼がドアへと向かうには数分しかかからなかった。
だけれど、彼がそこで立ち止まる。
なにをしているのかと、寝たふりを我慢しているマリアは『早く行きなさいよ。パパに怒られるわよー』と心で叫んでいるのに……。彼の足音が近づいてきたのが分かった。
しかもその気配が寝たふりをしている自分に降りてきた。
「マリー、ごめん」
彼のキスが頬に落ちた。
『ごめん』って……どうして? マリアはそう思った。
貴方は将軍の側近なんだから、こんなこと当たり前。しかも貴方のボスは私のパパ。パパを守る為に頑張ってくれているのに、当たり前のことでごめんなんて言わないで。──マリアは心でそう言いながらも、『翌朝はもう逃げないでくれよ』とマリアに釘を刺した本人が、また共に朝を迎えられず、今度は自分が逃げていくことを心苦しく思っているのだと感じた。
それだけで。マリアは泣きたくなった。彼が逃げていくのが哀しいのではなくて、彼のその優しさが。
彼がドアを開ける音。それを耳にして、マリアは起きあがってしまった。
「待って、マイク!」
シーツをはね除け、マリアは裸のまま、ドアまで駆ける。
そして素肌のまま、制服姿の彼に抱きついた。
「マ、マリー。起きていたのか……」
驚いている彼の顔。でもマリアは構わずに彼の首に抱きついて、そのままマイクの唇を塞いだ。
自分から積極的に絡める唇に、今度はマイクが圧されて呻いていた。
「気にしないで。気を付けて行ってきて。そして、帰ってきて……。それだけでいいから」
「マ、マリ……っ」
彼がたじろぐほどに、もう一度口づける。
やがて……。マイクも負けたのか、裸のマリアにぴったりと抱きついてきた。そして唇も昨夜のように熱く溶けあう。
「いけない。貴方、急いで行かなくちゃ……」
マリアははっと我に返って、彼から離れようとしたのだが……。遠退こうとした身体を、マイクの逞しい腕でぐっと引き戻される。
「マイク……!」
「まったく。こんな出かけ際に裸で抱きつかれたの、初めてだ」
嬉しそうに彼が笑っているのだけれど、マリアはちょっとムッとした。
「私が初めてって……。今までは、どうだったというの?」
拗ねたマリアの顔を見たマイクが『しまった』と言う顔に。
今まで複数の女性と付き合ってきたことが分かっていても、もう一押し、文句を言ってやろうと思った。
「誰と誰の時は『こんなことなかった』と言っている……のっ!?」
文句を言う口を、今度はマイクにきつく塞がれる。
そして制服を着た彼が乳房を片方だけ包み込み、意地悪な手つきで愛でる。
思わぬ反撃にマリアはびっくりして、でも直ぐに、自分でもこんなにエッチに……と恥ずかしくなる声で呻いていた。
「マリー。それはおあいこだろ?」
俺にも君にも、過去はある。
彼がいつもの勝ち誇った笑みで大人しくなったマリアを見つめていた。
そしてまた塞がれる唇。もう何度も交わした口づけで、マリアの唇はひりひりしそうだった。
「こんなにされたら、直ぐに帰って来たくなるな……。思い切って、一緒に暮らそうと君に申し込んで正解だったよ」
反撃をしていた手が、優しくマリアの素肌を抱きしめた。
「有難う、マリー。行ってくるよ」
マリアの栗毛をひと撫ですると、マイクはいつもの颯爽とした秘書官の姿で手を振り、部屋を出ていった。
夜が明ける部屋にひとり。
取り残されても、熱い身体を自分で抱きしめてマリアは微笑んでいた。
私も、貴方と暮らして……
良かったと、マリアはまだ言えなかった。
愛し合えることは嬉しいのだけれど……。
まだ消えない、不安。
こんなに素敵に愛され、こんなに熱く愛してしまうと……。
私は周りが見えなくなるほど、夢中になってしまう性分だから。
マリアは自分のことも、本当は怖く思っていた。
Update/2007.11.24