* ラブリーラッシュ♪ * 

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3.可愛いマリー

 

 『マリー。一緒に暮らしてみないか?』
 彼からの、誘い。

 

 結局、OKをした。
 すごい戸惑いはあったけれど、『それさえ』考えなければ……違った『それさえ、気にしなければ』、マリアの願ったり叶ったり。

 

 

 既にマイクは、マンションから身の回りの物を『御園家』に運び始めているとのこと。
 週末、マリアも早速、直ぐに暮らせるだけの荷物を持ち込んだ。

 マイクが勧めたのは、葉月の部屋。
 実はマリアも、彼女の部屋を使いたいと思っていたから、それは異存はなかった。

 可愛らしい彼女の部屋はそのままだった。

「レイは、好きなように変えてしまっても良いと言っているんだ」

 水色で統一されているファブリック。小花柄のシーツに枕カバー。可愛らしい白いフレームのベッド。
 机にある小物も、マリアが少女だった頃、同じように好んだ乙女チックな愛らしいものばかり。
 極めつけは、猫足の白いドレッサー。それは童話に出てくるお姫様が使っているような……。昔、マリアも買ってもらって使っていた、同じような童話のお姫様の。ただし、それは十四歳までだったか。

 マリアが知っている『葉月』という少女は、一目見ればそれは同性とは思えないぐらいにボーイッシュな子だった。
 彼女がスカートをはいて女の子らしくしていることなど見たことはない。いつも訓練校の制服、たまに私服姿をみることがあっても、シャツにジーンズ。何処から見ても少年だった。
 しかし数年前。この部屋に入れてもらって初めて知った。あのボーイッシュな彼女がこんな乙女チックな部屋で過ごしていたことを……。彼女はこの空間の中だけは『少女』でいられたようだった。
 ここは少女葉月の箱庭。マリアはそう思っている。

 そしてマリアと葉月が共に三十代を迎えた今でも、その箱庭は残されている。

 マリアがこの部屋で過ごしたいと思ったのは、もしかすると得られることのなかった『少女葉月』をもう一度肌で感じたいからなのだろうか。
 それとも、自分と同じように可愛らしい趣味を好んでいた彼女の部屋に、この歳になって懐かしさを感じたからなのか。
 そして本来の気持ちでもある、『彼女が帰ってくる部屋として守りたい』からなのか。様々な想いが浮かぶが、マリアはこの部屋を使いたいと思った。

「なるべく、残しておこうと思うの」

 マリアはそれが当たり前とばかりに、マイクに伝える。
 それが良いことだと、思ったのだが……。目の前の彼は、妙に腑に落ちない納得できないような怖い顔をしていた。
 マリアもどきりと緊張した。でも今なら分かる。彼が今から言いたいこと……。それをマリアは先ず聞くことにした。

「レイは、未練はないと言っているけれどな」

 葉月の少女時代を保存しておきたいというマリアとは、相容れないものを心に宿している様子。

「でも、それが葉月の本心かどうかは分からないじゃない。葉月はあれから一度もフロリダに帰ってきていないのよ。それなのに、ご両親が帰国したから……」

 葉月がマイクに伝えたその言葉に気持ちを嘘だと否定したいわけじゃない。
 でも、妹のように思っている葉月の気持ちが、もうフロリダに未練もないと言うことなのだろうかと思うと、フロリダの姉としてとても寂しく感じてしまったのだ。
 彼女の両親が幽霊逮捕の後にフロリダに戻っていたのなら、葉月もここを頼る帰省をすることもあっただろうし、マリアの勝手な予想だが、姿とは裏腹に少女らしく過ごしていた部屋にもまだ思い入れはあると信じたい。そして彼女もこの部屋に気持ちよく帰りたいと思っていると……。
 ただ葉月が『好きに変えても良い』と言ってくれたのは、マイクの家になったからには、なるべく自分のものは邪魔になって欲しくないと言う、そんな葉月らしい遠慮深い気持ちも表れているような気がしてならない。

「せめて……。葉月が今度来る時までは、残しておいてもいいでしょう?」

 マリアはマイクに同意を求めるように問いただす。

「いいと思うよ。マリーがそう思うなら」
「貴方はどうなのよ?」

 マイクは黙ってしまう。
 ほら。時々、御園家のことを挟むとマイクとマリアの間には溝が出来るような感覚に陥ることがある。
 今がそれ。
 マイクの目が、それを物語っている。マリアの意見を受け容れているものの、『マリーには知り得ない深い御園の心』を俺だから良く知っていると言いたげな目。

 マリアはむくれて、さらにマイクに向かって問いつめる。

「じゃあ、なにもかも。私の好みに変えてもいいって事なのね? 今の私の好みに! それで本当にマイクもいいのね?」

 すると彼は無言で背を向け、白い手すりの階段を一階へと下りていってしまった。
 マリアも、すかさず背を向け、ふてくされる。
 こんな喧嘩だって、今もしょっちゅうだ。
 マリアの、『こうした方がきっといいはず』と信じていることに対して、マイクは『それは君だけの勝手な思い込み』と否定することがよくある。
 元々、昔からそんな間柄。葉月が隼人と一緒に帰省してきたあの時だって、マリアのやることなすこと、この男は否定し拒絶し突き返してきたのだから……。

 ほんと、『天敵』!
 今だって『天敵』!!

 どうして、分かってくれないのだろう??

 『でも』と……。現在のマリアは、ここで思いとどまる。
 前ならここで、直ぐに自分の思いを貫き通そうと、辺り構わず突進していたところ。
 だけれど、今は違う。マリアだって自分の何が悪かったのか分かるようになったと思っている。僅かでも。

 だから、そのまま直ぐに、階段を降りていったマイクの背を追いかけた。
 すると、彼も階段を降りたところで、こちらを見上げていたのだ。

「ごめん。感情的になりすぎた」

 彼から謝ってきて、マリアもそこで足を止め俯いた。

「私もよ。ごめんなさい……。また独りよがり……」
「でも、マリーは間違っていない。それだけは、俺も分かっているし信じている。ただちょっと、さっきのはレイを見守ってきた兄貴として、俺には……そうとは言い切れなかっただけで……」

 彼がとても言いずらそうに口ごもった。
 きっと。彼だけが見てきた『痛々しいばかりの葉月』を、あの部屋を見て思いだしてしまったのだろう。
 マリアが知らない葉月を……。暖かみがありそうな愛らしい少女の部屋でも、葉月にはどう見えていたかは、マリアにもマイクにも本当のところは知り得ないところに違いない。なのにマリアは『それでも葉月は思い入れがあるはず。残しておきたい』と言い、マイクは『それでもレイには辛い時期を過ごした部屋。もう終わったと彼女が言っているのだから、残さなくても良い』と、二人して勝手に決めつけている。

 二人は一緒に黙りこくって俯いていた。
 だがやがて、マイクから笑顔になる。

「マリーの言うとおり。レイがアンディの結婚式にくるまでそのままにしておこう」
「そうね。模様替えするにしても、もう一目だけ……葉月に見てもらいましょう」

 やっと互いに笑顔になる。
 そしてこんな時は、いつだって大人の彼から歩み寄ってくれる。
 マイクはマリアが立ち止まっている段まで上ってきてくれ、そのまま優しく抱きしめてくれた。

 彼の胸に抱きしめられる時、いつだってマリアの胸は高鳴る。
 学生時代。好きだった男の子を見かけただけでときめいていたような、そんな気持ちになる。
 この歳になって、こんな気持ちにさせられるとは思わなかった。だけど……彼はマリアより九つも年上の大人。しかもフロリダ本部基地では、誰もが知っているナンバーワン秘書官。女性達の憧れの的。
 だからそんな彼に抱きしめられて、子供っぽい真似はしたくなかった。
 高鳴る鼓動とざわめくときめきを胸の奥に閉じこめる。瞼をふっと閉じれば、心も鎮まる。そしてマリアも柔らかに彼を抱き返す。──落ち着いた大人の女の振りで。

「さあ。お互いに急いで整理しよう。夜になってしまう」

 彼の大きな手がマリアの長く伸びた栗毛を柔らかく撫でる。
 抱き合うことも、見つめ合うことも、触れあうことも。それは日常で既に慣れていて、互いに許している行為。
 そして、『キス』も……。

 栗毛を撫でていたマイクの手が、いつものようにマリアの頬を包み、親指の先が唇に触れた。
 彼の紺色の眼差しが、マリアに許しを乞うようにじいっと見つめている。
 だから、マリアは目を閉じて許した。

「可愛いよ、マリー」

 ただ唇が触れ合うだけのキス。
 それなら幾らでも何度でも、いつでも。
 今ではお互いに握手をするような感覚。

 彼の口からも、マリアの口からも『愛している』は出てこない。
 『好きだよ』もない。
 マイクはそんな時はいつでも『可愛いマリー』と言ってくれるだけ。

 この挨拶のような、握手のようなキスなんて。下手すれば、本当に『可愛いお嬢ちゃんに、妹に』キスしているようにしか見えないかも知れない。そんなライトなだけの、大したこともないキス。

 ディープなキスだって、ない訳じゃないけれど、かなり稀だった。
 そんな時は、彼の瞳の向こうにも、マリアの脳裏にも、ベッドの気配が漂う。
 二人はそれを分かっていて知らない振りで、濃厚な口づけに留める。

 それは、なんのために?
 そこまで思って、今のマリアは考えるのをやめる。
 それ以上を思い描きたくないし、今の状態でいたいと思ってきた。

 でも、これから一緒に暮らすことになってどうなるのだろうか。
 マイクからの誘いだから、彼は彼なりに既に打って出ている気がする。
 でもマリアはまだ、考えあぐねている。
 しかし『OK』をしたと言うことは……?

 ジョイが言っていたような『先がある』ではなく、マリアはそれよりも『今がなんなのか』。それを見てみたくなったから、ここに来たような気もしていた。

 

 夕方──。  ひとつ屋根の下で互いを共にした途端にもめた葉月の部屋。そこにマリアが実家で使っていたベッドが運び込まれた。
 これだけは、自分が日常を共にしているインテリアとして持ってきたかったから。

 葉月が使っていた可愛らしい白い机に、ノートパソコンをセットし、仕事の資料に書籍を積み上げる。
 そして葉月の可愛らしいベッドがあった位置に、マリアが愛用してきたシックなベッドを置いた。
 葉月のベッドは、ドレッサーがある壁際に寄せたが、可愛らしい青い花柄のアップシーツで、マリアは綺麗にメイクしておく。

 まだ、少女葉月の匂いに包まれたこの部屋。
 でも、マリアはこの部屋から暫くは、あの時逃した少女を探したい感じたいと思っている。

 部屋の片隅に、寂しそうにこちらを見ている少年のような彼女がいるような気がした。
 でも、今は笑っている。彼女は少女の顔で笑っている。
 マリアも微笑みながら、明日の仕事の準備が出来るように、机の上を整える。

 一階では、マイクも静かに自分の部屋の整理をしているようだった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 夏も終わろうとしている季節。
 空が暗くなり星が見え始めた頃、マイクとマリアは近所のレストランにとりあえずの食事に出かけた。帰ってきてから、二人はまたそれぞれの部屋に籠もって、荷ほどきを続けている。
 この家の素敵なところは、潮騒が聞こえることだ。そんな心安らぐ潮騒が、窓から柔らかな夜風に紛れてやってくる。
 そんな中、マリアはノートパソコンをオンラインに繋げる設定をしながら、この海辺の家に来る今日までを思い返していた。

 もう、帰っては来ない……。
 御園中将夫妻が揃って退官した後、この言葉を頭に思い描いては、寂しそうな顔をする人々は沢山いた。

 御園中将夫妻が出ていっても、暫くはマイクとベッキーがこの家を管理し守ってきた。
 管理はマイク、家の中の掃除などは長年ハウスキーパーをやってきたベッキーが。日本にいる亮介に雇われたままの状態で彼女はこの家を綺麗にして……。そうきっと彼女も、待っていたのだと思う。
 しかし御園夫妻は完全に、息子同然だったマイクにこの家を譲る手続きも弁護士を通じて済ませたとのこと。
 今、この家の所有者はマイクになった。

 それでベッキーは、どうなったかというと。雇い主が替わっただけ。彼女の新しいご主人様は、マイク=ジャッジ中佐になった。
 それは人情で引き継いだわけでもなんでもなく、今のマイクにとっても一軒家の主になった以上、ハウスキーパーは不可欠という判断からだった。
 主席側近という忙しい身。彼は長く留守にすることも多いし、生活時間も不規則。そんな彼一人の手では当然、この家の管理はやりきれない。だから今まで通りに、ベッキーにこの家を守ってもらうことにしたのだそうだ。
 勿論、ベッキーは新しい仕事をみつけなくてはと覚悟していたところ、同じようにこの家を守っていけるとなって大変喜んだらしい。
 マリアと一緒に暮らすことも既に知っていて、彼女はこれから仕事で忙しいマイクやマリアの食事の世話も一手に引き受けるとはりきっているそうだ。

 さらに。マリアの父も、未だに寂しがっている一人。
 先輩、先輩と若い頃から亮介の後をついて今の地位になった父。
 なのに最後の置きみやげは、亮介自身が持っていた地位。父はもっと亮介先輩に頑張って欲しいから、先輩の跡は継がないから辞めないで欲しいとギリギリまで拒否をしていた。だが最後には納得し折れた。引き受けたからには、先輩のように守っていくと、今『ブラウン中将』として奮闘している。

 そんな中、誰よりも一番寂しがっていたのはマイクだった。

 亮介が退官してその後、マリアの父に地位も仕事も引き継いだ中には、亮介とマイクが大事に育て上げてきた『中将秘書室』もあった。だからマイクも秘書室ごと、新任したマリアの父であるブラウン中将の側近として就くことになった。
 しかし長年、仕えてきた主人がいなくなったこと。しかも、息子同然に過ごしていたのに、『パパ、ママ』と慕っていた二人がいなくなってしまったこと。そして己の全てを懸けて見守っていた『御園家』が目の前にいなくなったこと。彼にとっての全てがあっと言う間にフロリダから出ていってしまった、消えてしまったのだから無理もなかった。
 彼も解っている。それが彼自身も長年望んでいた『御園家の幸せの形』なのだと。
 その為に彼は、『パパ』の為にと頑張ってきた。少年の頃、自分に目を付けてスカウトをし、ここまで育ててくれた亮介への恩返しなのだと、自分に出来ることは何でもすると彼は全てをかけて守っていた。
 そのうちに、亮介や登貴子にとっても『息子同然』となり、ここのひとり娘の葉月には『アメリカのお兄様』としてとても慕われるように。そして彼も葉月を心から可愛がっていた。今だって……。
 マリアもそれは少女の時からずっと、遠くから見ていた。それがあっという間に無くなったのだから、どんなに分かってはいても、その虚無感はどれだけのものか……。亮介や登貴子を送り出す時は笑顔だったマイクだが、その後の彼は……見て、いられなかった……程……。

 毎度のお節介だと自分で分かっていても、やはりそれが自分なのか……。マリアは毎日、マイクの様子伺いに行った。
 なるべく仕事の邪魔にならないよう。秘書室だけを避けて、彼の帰りを待ち伏せしたり、彼の携帯に『バーで待っている』と勝手に約束を投げかけたり。たぶん、以前のマイクだったら『君の押しつけがましいお節介は、鬱陶しいだけだ』と言っていただろうことを、マリアは『そう言われても構わない覚悟』で繰り返した。

 でも。マイクはその度に、ちゃんと連絡を返してくれ、駄目な時は駄目、いけそうな時は何時頃には約束できるとマメに返事を返してくれた。

『分かってやっているの。鬱陶しいなら、言ってね』

 マリアのお節介に、こんなに真面目に答えてくる方がマリアとしても『マイクらしくない』気がして……。ある時、工学科溜まり場のバーで一緒にお酒を味わっている時に、彼にそう言ってみた。
 だけれど、彼は──。

『ふうん? 鬱陶しいこと覚悟の上、それを分かってやっていたんだ。俺の寂しい心の隙に、上手く入って? それなら、かなりの確信犯だ』
『隙をついた確信犯だなんて、失礼な!』

 相変わらず。以前の犬猿の仲で、天敵だった時のような言い方はお互いに残っていた。でも今となってはそれは彼と自分の間にある、誰にも真似できない二人だけの大事なコミュニケーションのひとつ。
 それだけ元気があるなら安心と、言いたかったが……。でも、それもこの時は彼の空元気にとしかマリアには思えなかった。

『私は本当に貴方のことを……』

 ──心配して。
 なんて、こんな九つも歳が離れているお嬢ちゃんに言われるのは、彼には耐えられないだろうかと、マリアは黙り込む。

『マリーの優しい気持ちは、ちゃんと通じているよ』

 途端に、あの深海の眼差しで真剣に見つめられ……。
 マリアは涙が出た。恋の気持ちじゃない、切なさ。彼の忠誠心の果てに残った形が、切なくて……。
 その時、彼の大きな手がマリアの頬を包んだ。

『名の如く、君は優しい。俺がどれだけ救われていると思う? マリーがいなければ、俺は、どうなっていたかな。感謝しているんだ』

 ──どれだけ感謝しているか、知りたい? 試してみる?
 彼の息だけの囁き声が、マリアの耳たぶをくすぐった。
 とても意味深な、これは彼の誘い……?
 マリアだっていい大人。その試す意味が分かっていて……最後は彼の魅惑的な深海の瞳に屈したように、頷いていた。

 

 黙って連れて行かれたのは、やっぱり彼の部屋。
 そこで、言葉もなく、語り合いもなく。ただ、大人の彼に全てを任せて、素肌になった。
 寂しい顔をした彼はどこにもいなくなった。マリアを見るマイクの目は、とても透き通っていて、それでいて熱くて、そこにはマリアの為に情熱的になった男がいるだけ。

 そして、マリアは彼に初めて抱かれて思った。
 この人って、本当に純粋なんだわ……と。

 基地では、若手でナンバーワンの秘書官。中将室の主席側近、エリート中佐。
 遠くから見ていれば、彼は仕事にストイックな男で、その為なら女性からの甘い行為もばっさりと切り捨てる。だから近寄りがたく見える。なのに秘書官という仕事柄磨きがかかったスマートな仕草、そして艶やかに光る黒髪に魅惑的な深海の瞳の持ち主で、いつだって女性達の憧れの的。
 誰もが知っている『ジャッジ中佐』はそんな人。マリアだってそう思っていた。
 でも、マリアだけは知っている。
 ほら、こんなふうに……。マリアの柔らかい胸元に静かに飛び込んできた彼が、少年のような顔でくつろいでいるように。
 彼は頼りがいある大人の顔をしているのも本当だけれど、こんな愛おしい柔らかい真っ直ぐな部分を隠し持っていることを、マリアは感じ始めていた。

 そんな純粋な少年を癒すように、暫くそこで眠るように安らいでいた彼の黒髪の頭を、マリアはぎゅっと抱きしめていた。
 ……いつだったか。彼のライバルであるリッキー=ホプキンス中佐が、このマイクのことを『内地の農村から出てきたままの、ピュアピュアボーイ』とからかっていたけれど、マリアは彼と素肌で抱き合って、ふとそんな言葉を思い出していた。
 一生懸命に、一家を支えた彼。その一家の幸せを願っていたからこそ、笑顔で見送った彼。寂しさを心の奥底に隠して、祝福の笑顔を絶やさなかったマイク。
 でも、本当はこんなに寂しがっている。
 彼の心、本当にとても綺麗。
 彼の夜空のような紺色の瞳のように、優しく静かで、そしてどこまで続いているか分からないほど透き通っていて……。彼の心も、澄み切った夜空と一緒。マリアはそれが愛おしく思えてしかたがなかった。
 もっと、私の中でいっぱい安心して欲しい。そう思ったから、彼をその胸いっぱいに迎え入れて抱きしめた。

 でもそれだけじゃなかった。マリアの胸で彼が安らいでいたのはほんの最初だけで、マリアの体温が彼の肌に馴染んできた頃、マイクは変貌した。
 その時の彼は大人だった。マリアが知らない大人の──『男』。
 マリアが若さという勢いで夫となった男性と愛し合っていたあの頃、夫妻になった男女となっても感じ得なかったものを、マイクから感じてしまった……。
 それはマリアが心から彼を愛し始めているからなのか。彼が経験豊富な大人だからなのか。それともこの夜だけ二人の波長がビリッと合い燃え上がった一夜だからなのか。それは分からないけれど、マリアにとって今までない夜になったのは間違いなかった。
 マイクが大事にマリアを抱いて、マイクが激しくマリアを求め、マイクが熱くマリアの中を駆け抜けていく。その繰り返しの一晩。
 セックスで最後に泣くだなんて、マリアには初めてだった。
 あんまりにもすごすぎて。セックスだけじゃなくてマリアの心を掻き乱す何とも言えない狂おしいものが最後に襲ってきて……。

 心より愛してしまうって、こういうこと?

 そう思った。

 朝、マリアはマイクが寝ている隙に、逃げてしまった。

 愛していることが分かっても。
 その先が怖かったから。
 マリアは思った。
 また結婚して、仕事のことが先立つ男と折り合いが合わなくなる。
 そしていがみあう。もう、そんなのまっぴらごめん……。
 だって。今度は彼のこと大事にしたいから。
 前は達也のこと、ちゃんと真っ直ぐに見てあげられなかった。自分のことばかり優先にして……。
 今度は、そんな愛している人の重荷にはなりたくない。

 翌朝、彼とどう顔を合わそうか思い悩んだ。
 特に深い理由があった訳じゃないのに、自分でも訳が分からないまま、感情だけが突っ走って逃げ出してしてしまうなんて──。『子供、子供! やっぱり私って彼と並んだら、お嬢ちゃんなんだわ!!』と頭をバシバシ叩いて一日を過ごした。
 気が付けば、三日ほど、向こうも音沙汰なし。もしや、嫌われたのかと思ったりした。
 せっかく素敵なひとときだったのに。それが本心なのに、逃げ出してしまったから、彼が気を悪くしたのだと思った。
 あんなに優しく情熱的に愛してくれたのに、翌朝、彼が寝ている隙に熱愛の余韻を共に噛みしめるひとときを蹴っ飛ばすかのようにして消えたのだから。
 分かって彼の誘いに応じたのに、実際に彼に抱かれてしまってびっくりしたといった方が良い。
 翌朝、目が覚めて、素敵な素肌の男性が隣にいるのを確認しただけで、マリアの何もかもが爆発しそうだった。
 直ぐに飛び起きて、『あーん、どうしよう。どうしよう』と小さく喚き、一人でジタバタしながら制服を着て、彼の部屋を飛び出したのだ。
 今思えばあれは『恥ずかしかった』の一言で済むことだった。それをマリアは一人で大騒ぎして逃げだした。ただ『恥ずかしい』だけで。

 四日目。やっと彼と基地内の廊下で会った。
 鉢合わせたと言った方が良い。マリアは突然現れた彼に、何も言えなくなった。でもマイクはいつもの笑顔だった。
 『今夜も、一緒に食事をしないか?』。彼のいつもの笑顔。あの夜のことは触れてこない。
 マリアはこっくり頷いただけで、彼は直ぐにいつもの颯爽とした秘書官の背中を見せて去っていった。
 食事で再会した時も、いつも通りの彼だった。あの夜のことはいっさい触れず。それ以降はいっさい触れず。──それは御園中将夫妻が去っていった頃、今から一年ほど前の話。そして二人の状態は今に至る。
 マイクがあんまりにもいつも通りに戻ってしまったから、マリアからも触れることはなくなってしまった。

 また元通り。
 お互いを労る抱擁と、握手のようなキス。たまに激しく気持ちが絡み合う、ディープキスで男女の匂いを感じ合い、そして何故かそこで踏みとどまることが一年続いたのだ。

 それがここに来て、マイクが『一緒に住もう』と言い出すだなんて……。

 

 オンラインに繋がったパソコン。マリアは懸命に動かしていたマウスを手放して、葉月の机の上、額を抱えて項垂れた。

「うーん。本当は好きなのよ、大好きなの」

 素敵なの。本当に彼、素敵なの。
 誰にも渡したくないわ。
 でも、マリア一人の彼になってくれることが怖い。

 ……マリアにも予感がある。
 本当は自分も、テイラー博士のように、彼から仕事を奪いたくなるほど、深く愛してしまったら?
 同じ女だもの。自分は大丈夫だなんて、決して言えない。

 だから、今のままがいいの。と、マリアは呪文のように何度も唱えてきた。
 でも。こうして彼が傍にいる息遣いを感じる毎日を過ごせることになったことにも、とっても幸せを感じる。これは本心。
 だけれど幸せに思うのは、そこまで。これから先、どうなのか。それは今までならある程度の距離があったから息が出来ていたこと。しかし彼と一緒に日常を共にすると言うことは、彼と一緒に息をすること。そんな中、マリアをちっとも見てくれない日々を目の当たりにしてしまったら? 『同居をする』というのは、そんなリスクが生まれることを、結婚生活を経験しているマリアは良く知っている。
 愛している彼と一緒に暮らして、傍にいるだけで幸せ。そんなのは可愛らしい憧れに過ぎない。それは結婚する前の自分だったけれど、今のマリアは違う。

 一緒に暮らして、貴方がいることで、窒息しそうになったら、どうしよう。

 そんな不安がある。

 それでもマリアはここに来た。
 ……彼を愛しているから。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 元御園家での、初めての夜が更けていく。
 気が付くと、いつの間にかいつものように資料を読みあさったり、ネットで検索をしまくったり……。仕事の為の調べものに夢中になっていた。
 明日は日曜だが、僅かではあったが新居で暮らす準備に追われた一日で、急に眠気がさしてきた。
 この部屋には、シャワー室があるので、マリアはそこで簡単に入浴を済ませ、眠る準備支度をする。

 風呂上がりは、真っ白いバスローブが定番。
 汗が引いたら、スリップドレスを身に纏い、ベッドに入るまではお気に入りのシルクのガウンを羽織る。
 それが今のマリアの習慣だった。

 喉が渇いたので、一階のキッチンへ、ミネラルウォーターを取りに行こうと部屋を出た。
 食事の後、マイクとマーケットで買い物をした時に、ペットボトルを沢山買い込んだ。お互いの好みの飲み物に、ちょっとつまむチーズやクラッカーなど。彼とそんな買い物をした。

 それも思えば、とても幸せな時間だと、マリアはふわりと微笑みながら振り返る。
 結婚していた時は、そう……達也ともそうしていた。それ以来。
 一緒に暮らすということは、そんな素敵な時間を得られることも多くなるのかと、心が浮きたつ。

 白い手すりを伝いながら、階段を降りると、この家の広いリビングにあるテーブルで、彼が仕事をしていた。
 部屋の灯りは消されていたが、ノートパソコンの側に置かれたライトスタンドが、彼の周りを明るく照らしていた。
 ノートパソコンの周りには、沢山の書類に、資料。マリアよりもずっといっぱいに広げ、それを彼が食い入るように眺めている横顔。

 秘書室での顔。
 鬼気迫る秘書官の顔だった。

 それをまさか、このプライベートで見ることになるとは……。
 マリアはそのマイクを階段から眺めて思った。
 そうだった。彼はプライベートでも秘書官なのだと改めて思い知らされた気がした。

 そんな彼の邪魔にならないよう、マリアはそっと気配を殺し、キッチンへと入って冷蔵庫を開けた。
 そんな時だった。

「マリア、俺にもひとつ持ってきてくれないか」

 冷えたペットボトルを手にした途端リビングから聞こえてきた声に、マリアはドキリと固まった。
 気付かれないようにしていたつもりでも、彼はちゃんとマリアの気配を感じ取っていたようだった。
 いやそれ以上に……。彼が『マリア』と呼んだ。たまに彼がそう呼ぶ時は、なにかがあることをマリアは知っていた。

 同居、第一夜が更けていく中、マリアは思う。
 彼はいったい、どんな思いで、マリアとの同居を決意したのだろうかと。

 

 

 

Update/2007.11.22
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