午前中──。
康夫が訓練に出かけている間に、葉月と隼人は初めて向かい合い、これからの『研修』の打ち合わせを始める。
葉月が日本で組んできたスケジュール表をテーブルに広げると、『どれ?』と、隼人がまるで宿題を見る先生のように、それを手に取った。
葉月も、訳もなく緊張してしまう。
隼人は、早速に眼鏡をかけ、スケジュールを眺め始めた。
「すごいね。事細かく……」
隼人は、ニコリと一時微笑んで、すぐにあの無表情で集中し始めた。
「細かいけど。無駄なところがあるね」
「判らなくて。藤波中佐がくれた、大尉の役割を元に組んだから、すべての授業に対応できるように組んでみたの」
「なるほど? でも、メンテナンス実習はパイロットの中佐が監察しても、ただの監察ってだけで、時間の無駄だと思うけれど……?」
「私も、そう思います。ただ、やはり見て欲しいと言われたならばするだけの事で。もし、監察することになれば、パイロットなりの指導は出来るかも知れないからと……パイロットだって、自分たちが乗る機体のことは、一応は学んでいることだし」
「ふむ。なるほど。全対応型で組んできたって訳か」
すると、隼人は制服の胸ポケットから蛍光ペンを取りだして、葉月が組んできたスケジュール表に、なにやら書き込みを始めた。
「これで、どう? 俺なりに、ここは見て欲しいと思う所はマークしたんだけど」
隼人が差し出した表を葉月は手にとって眺めてみる。
(確かに。これなら私も無理せずに、良い所は集中的に指導が出来る)
確実な見定めが、自分が最初に組んだ『ポイント対応型』に似ていて葉月は唸った。
「解りました。これで……」
すると、隼人が葉月の鼻先に蛍光ペンを突きだしてきた。
葉月も、ちょっとおののく。
「本当に? それで納得?」
大尉如きが提案し決めた事に、すんなり同意するのか? ──と、言う事らしい?
「特には、強いて言えば……。大尉が今、受け持っている若いメンテナンス研修員と、藤波のパイロットチームの合同実習が見てみたいけれども 教官の大尉が、許可しないのならば、まだ実践段階じゃないと思える所かしら?」
葉月も、いつの間にか自分のいつもの冷たい表情になっていた。
それだけ、仕事上にあるべき自分のペースが戻ってきたことになる。
すると、隼人がそんな葉月のサラッとした“挑戦”めいた提案に、初めて“ぐっ”と、おののいたように見える──『自分が受け持っている生徒を実践させる自信はないのか?』と聞こえた事だろう。
「解りました。中佐が帰るまでには一度、その合同実習が出来るよう努力してみましょう? なんせ、新人ばかりなんで、何処まで出来るかは保証できないのですが」
「新人だから、楽しみにしてきたの。言ってみれば、彼らの『滑走路デビュー』でしょ? そんな瞬間に立ち合えるんじゃないかって。大尉の生徒がどう旅立つのかって……」
葉月が眼差しをふと伏せて微笑むと、なんだか隼人がちょっと戸惑った表情で見つめている?
葉月は首を傾げて、彼を見つめ返した。
そこには、26歳というあどけなさを残しつつも、どこか凛とした気品が急に備わったように見えて、隼人は、ハッとして見入ってしまっていた。
「? あ……また、生意気って言われるかしら?」
隼人の止まった表情を気にした葉月が、昨日のような『女の子』に戻っておどける。
隼人は、ハッとして我に返る。
そして、慌てて口を開いた。
「いや……中佐らしいお言葉だよ。うん……解りました。最終的に彼らを“デビュー”させるという目標で……」
隼人が、すんなり葉月の思うところに従うようになる。
また、蛍光ペン片手に、スケジュール表に書き込み始める。
「先程より、ちょっとメニューが増えますが?」
再び、葉月がそれを手にして眺める。
「ハイ。構いません、これで。今日から御願い致します」
葉月が、ニッコリ微笑んだ。
そこには、やはり中佐がいると隼人もやや戸惑い始める。
しかし葉月はと言えば、隼人が直したスケジュールを見てなんだか戸惑っているように見えるのだが……?
葉月は再び、彼が直したスケジュールを眺めて唸っていた。
たとえ、彼を側近として『確保』出来なくとも、これなら、本当に良い研修になりそうだと……日本に帰るどころではなくなってきたのだ。
そこで、暫く──二人の間で、お互いを探り合うような沈黙が流れた。
(マジで…この嬢ちゃんは…)
(なんだか。彼の方がやっぱり先輩って感じ)
二人は、目が合っても、なんだか妙な笑顔を浮かべあっていた。
「じゃぁ…。早速、午後一番の講義が、奴らのクラスだから──見学をするかい?」
隼人は、変わらずの言葉遣い。
葉月としては、今まで不安に思っていた『令嬢扱い』や、『出世の道具扱い』などを気にしなくても良い『人間性』を隼人から感じ取ったし、康夫とのやりとりを見て『私たちより、キャリアは上の先輩』と感じ始めたので『階級』抜きにして受け止めることが出来始めていた。
だから、その言葉遣いは、隼人なら注意する気は少しもなかった。
「そうね。そうします」
葉月の方が、まだ時々敬語っぽくなるぐらいだ。
「楽しみだなぁ。実は、フロリダ仕込みってヤツ興味があるんだ」
隼人の方は、既にこの研修を飲み込んだようだった。
康夫の喜ぶ顔が葉月の脳裏を横切って行く。
「君が七光りだけの中佐じゃないと判っていれば、面白そうな研修とは思っていたんだ。だけど……」
「宜しいのよ。そう見られることには慣れているし。本当に七光りですから」
葉月も、“気にしないで”と、ニッコリと微笑む事が出来る。
それに今のお言葉は、認めてもらえたという喜びがあったのだ。
「そうかい? 実は、昨日ね。『もしかして…御園中佐?』とは思っていたんだ。でも……お嬢さんの方もそうは見られたくなさそうだったし“騙されてみるか”ってね。もし、目の前のお嬢さんが“中佐”だったら、俺、うんと失礼なことしちゃったなって思って。それで“機嫌を直してくれよ”なんて、せめてものお詫びのつもりだったんだ。あのランチは」
またまた、照れくさそうだったが、今度は笑顔の隼人だった。
葉月は、隼人の心内を聞いて“そうだったのか”と思うと同時に『やっぱり鋭い人?』とも思ったが、『私って鈍感……?』と、情けなくもなったりした。
「いつから、私だと?」
「ハッキリ知ったのは、ほら……昨日、雪江さんの所に君も行ったんだろ? 雪江さんも俺がすっぽかしたことを知って不機嫌でさ。君のことも誰だか教えてくれなかったけど、俺の方は予感があったんで、カマを掛けたらポロッとね……」
(雪江さんまで、ひっかけたわけ?)
葉月は絶句してしまった。
「それで? 今朝は解っていて、あんな風に?」
『やっぱり、からかっていたのね』と、葉月は再び、往生際の悪い自分を思い出して恥ずかしくなってきた。
「だってさ。あんなに必死になって隠そうとしているんだもんな。『もう、ばれてるよ』なんて、あそこでは言わない方が良かったと思うんだけど? 俺も、あそこで、見かけたのはちょっとビックリしたけど、どうせ、後で会う時にショックは柔らかい方がいいと思って。俺が、日本人の大尉と知れば、お嬢さんも気付くだろうなって……」
(そうだったのね。すべてこの人の思惑にハマっていたんだわ!)
葉月は、隼人がやったことよりも、すっかり自分が手のひらに乗せられていた事に、呆れてため息をこぼした。
すると、そんな葉月を見て隼人も…。
「本当に、ゴメン。すっぽかしたのは悪かったし。でも、騙されたフリは、悪気はなかったんだけど」
「いいの。さっき思っていたんだけど。これで良かったんだって。こうして、大尉にはなんとか向き合ってもらえるようになったことだし」
葉月が、ホッとした笑顔をこぼすと、彼がふと目を逸らしたような気がした?
淡々としている彼らしくなく照れているように葉月には見えるが? どうしたのだろうか? と……。
そんな隼人が何かを誤魔化すように話し出す。
「俺の方もね。すっぽかしは無駄ではなかったんだ。って、いいわけかな!?」
隼人が、やっぱり何かを誤魔化すように笑い声をたてたので、葉月もなんだか可笑しくなってきて一緒にクスリとこぼしてしまった。
すると、また隼人が葉月の目の前に手を差し出してきた。
「改めてよろしく。君がね、康夫の親友って事、よーく解ったよ。でも、康夫のヤツいつもこういうんだ『じゃじゃ馬。跳ねっ返り。強情ぱり。融通が利かない』これだけ聞かされたら、誰でも怖じ気づくと思わないか? 康夫のせいにするわけじゃないけど、誤解したままで終わらなくて良かったよ」
(まったく! 元をたどったら、康夫のせいじゃない!? 何処でなんて言いふらしてるのかしら!?)
葉月はふてくされ、破れかぶれに付け加える。
「でも、じゃじゃ馬は本当かも知れませんわよ。父も、私をそう呼びますから」
葉月は、シラッとして隼人の手を握り返す。
「ハハハ! ホント? それは楽しみだね。将軍お墨付き、噂のじゃじゃ馬が拝めるかも!!」
「……」
じゃじゃ馬が楽しみという男も珍しいな? と、葉月もなんだか可笑しくなって微笑んでしまった。
(本当にお兄さんっぽい人ね。なんだか解り合えそう……)
葉月は憂鬱さを引きずってフランスに来たが、初めて心がゆるんだ気になれた。
それも、目の前の彼の、こんな人柄のおかげ──。
やはり遠野の後輩で、康夫の先輩だと納得が出来た。
「さてと。お互いを分かり合うためにちょっと色々話そうか? お茶を入れて差し上げましょう“中佐”」
なんだか、やっぱり……隼人の方が主導権を握っているように思えてきた。
手際が良いし、気配りがとてもきめ細かい。
(内勤向きって訳ね?)
補佐だけはある。と、言う事はそのワンランク上の側近も向いていると言うことだ。
それに、葉月はここで一つの企みが中佐として働き始めていた。
葉月の亡くなった祖父、そして現役の父……いや、この二人にかかわらず『御園一家』の人間は『お茶入れ』に厳しいことでも有名だった。
それは、御園一家でなくてもレベルある良い仕事をする高官たちは、皆、お茶入れには厳しい。
礼儀とか、作法はそこから来るが亡くなった祖父の口癖だった。
その為。鎌倉にいる准将の叔父などは『茶道』を極めていたりするぐらいだ。
叔父は、武道家の父と違って、のんびり屋の風流人だったりする。
しかし叔父は『茶道の道は作法も然り。人をもてなすには精神統一』などと言って、横須賀訓練校の授業の一つに『茶道』を取り入れたりして若い隊員に煙たがられていたりするのだ。
そして葉月はまた、思い出す。
初めて、遠野大佐を迎え入れた日。
側近としてお茶を入れるよう命じられたときのことを…。
彼は、葉月が入れた日本茶を口にして──『合格だ。さすが、おっさん(御園中将)の娘だな』と、かなり誉めてくれたが、お茶入れ一つで、最初から試されていた手厳しい上司にビックリした一瞬だった。
それと共に、『こんな人なら信じてついていけそう──』と信望を得たときでもあった。
しかし、遠野は『カフェオレ』だけは『上手になった』とは言ってくれても『合格』はいつまでも言ってくれなかった。
康夫もそうだと、昨日こぼしていた。
誰一人、フランス仕込みの大佐の『カフェオレ』を再現できなかった。
確かに彼、遠野が作るカフェオレは美味しかった……。
葉月は、隼人が備え付けのコンロに立ってコーヒーを入れる姿を眺める。
大佐にならって、お茶入れを試す心もあった。
ひどく非難するつもりはないし、心の中で見定めるだけだ。
でも……フランス暮らしが十五年、入隊して十年の遠野の後輩の彼はもしかしたら……?
また、よこしまな心が動いて葉月はハッとして、首を振った。
(いけない。大尉から影を探そうなんて……失礼よ)
『研修』を共にすると決めたからには、この心はもう捨てようと思っていた矢先なのに……。
葉月がそうして、一人で思いふけっている内に『はい、どうぞ』と、隼人が、薫り高く、そして表面にきちんと泡が立っているカフェオレを差し出してくれた。
『泡が立っていなくちゃ本物じゃない。ミルク多めの7:3が決まりだ!』が遠野の口癖だった。
(泡立ってる……)
葉月はゴクリと喉を鳴らして、“頂きます”とカップを手に持った。
「!!」
「!? ど……どうしたんだい? 中佐?」
向かい側に腰をかけた彼が、自分も一口飲んだ途端に、目に前で葉月が一筋だけ『涙をこぼしていた』ので驚いている。
「あ……」
葉月も自分が今泣いてるとやっと気付いて、黒カフスで目元を拭ったが。
なんだか、泣いているんだと気が付いた途端に、意志とは関係ない涙がぼろぼろ流れ始めて、自分でも慌ててしまった。
「嘘……」
泣いているのに……。
自覚していないように泣いている自分のことを『嘘?』と慌てている女の子を見て、隼人が茫然としている。
きっと向き合っている彼の方が『嘘だろ』と言いたくなるような光景だったのだ。
「な、なんだ? “先輩”仕込みのカフェオレがそんなに泣けた?」
隼人が、呆れた口調で、スラックスから白いハンカチを出してくれた。
そういわれて、葉月もやっと気が付いた。
『これ、あの人が作ったそのものだ』と──!
「紅茶にするべきだったな。でも、俺も自慢でね……先輩が唯一合格をくれたことがね。ちょっと、気配り足りなかった。そ……だ。ちょっと、ドーナツでも買ってこようかな?」
隼人は、なんだか“しまった”というような気まずさを漂わせて、そっと中佐室を出ようとしていた。
「ドーナツは結構いけるんだ。カフェテリアの……じゃ、行って来る」
葉月を一時ジッと眺めて出ていってしまった。
葉月は、隼人が出ていった途端にどっと涙が溢れてきた。
(大尉。もう判ってしまったわね。きっと……。あんなに慌てて……)
それでも、さりげなく出ていってくれた隼人の気遣いがなんだかひどく身に沁みた。
その事が、再び涙が溢れ出してくるのに、拍車をかけていた。
葉月が顔を覆う隼人のハンカチから、異国の洗濯石鹸の香りが漂っていた。