葉月は、はやる胸を押さえながら藤波中隊の入り口をくぐる。
康夫の中佐室の前で、昨日、お迎えに来てくれた金髪の彼が座ってニッコリ微笑んでくれた。
後から聞いたのだが、彼は康夫の補佐の一人で葉月より一つ年上とか……。
葉月の中隊で言うと、弟分のジョイと同じポジションらしく、康夫としては側に置く補佐としては、キャリアがあって年上で同じ日本人の澤村大尉を選んだのだとか。
さらに康夫曰く……。
『あいつは隙あらば、おまえの横を狙っているかもな』
……らしい。人の良さそうな、金髪の青年だが『出世の近道』的に言い寄られるのならお断りであった。
「ボンジュール、御園中佐。本日はちゃんと澤村がきておりますよ」
彼が微笑みながら、ドアを開けようとしていたが、葉月は躊躇してしまった。
「? 中佐、お気に召さないのならハッキリとお断りしても差し支えないと思いますよ。なんせ、澤村から逃げたりしたんですからね」
彼のニッコリ笑顔と、康夫の言葉が重なってしまう。
(いけない。そんな風に決め付けては……)
「メルシー。大尉」
彼の心根を疑う自分を正そうとした。
彼は澤村大尉より若いが、同じ大尉である。
しかもフロリダにもいたのだ。
彼にしてみれば、若くて、本部があるフロリダ勤務の経歴があって、なのに、藤波の一番の補佐になれないことはどう思っているのだろう……? と、ついつい……『管理者』としての人格分析をしてしまう。
親切で丁寧なところは、さすがフロリダ仕込みと唸りながら、金髪の彼が、開けてくれたドアをそっと覗いてみた。
まず目があったのは、康夫だった。
「お! 来たな!! よっしゃ! 入れよ!!」
朝からかなりのハイテンション──。
そして、次に目が合ったのは……!?
そっと視線を康夫からずらした葉月の目とかっちりと視線が合う男性がいた。
その目が合った男性がニッコリ微笑んできた!
葉月はそこで、バタン! と、金髪の彼が開けてくれたドアを閉める!
「ど……どうされたのですか??」
金髪の大尉がビックリして、息を切らしてドアに張り付いている葉月を怪訝そうに見下ろしてきた。
(やっぱり!! あの人だわ!)
葉月は、腰から力が抜けそうになった。
再びグルグル頭の中で何かが回り始めている。
すべて、見透かされていた!? ……とか
からかわられていた!? ……とか。
嘘を見破られていた!!! ……など!
「なんだよ、葉月。お待ちかねの大尉がちゃんと出て来たんだぜ?」
康夫が訝しげにドアを開けてきたので、葉月はズルッと、ドアから半歩、中佐室によろめいてしまった。
康夫の胸に頭がこつんと当たって、康夫も“なにやってんだよ”と、怪訝そうに、いつになく間が抜けたことをしている葉月の頭を払いのけ腕を引っ張り、とうとう中佐室に入れられてしまった。
「では、さっそく」
康夫は、葉月を眼鏡をかけている大尉の前へと立たせ咳払いを一つ、なにやら得意げな顔に。
「大尉は、昨日はいきなり授業のあきが出て早帰り。中佐はフランスに着いたばかりで忙しく……」
康夫のそれらしい言い訳に、澤村大尉が“くっ”と笑いをこぼしたので、康夫がキッとにらみつけていた。
葉月も笑いたくなるところだが、それどころではない。
目の前の彼とは目が合わせられなかった。
いつもなら、冷たい表情で中佐の威厳でも放っていなくてはいけないところ。
いつになく、はにかんでいる葉月を見て、康夫も様子がおかしいのに気付いたらしい。
「どうした? 葉月?」
康夫が葉月の表情を覗き込もうとしていたが、葉月は顔を背けてしまった。
そんな中……。
「昨日は失礼致しました。御園中佐。フランスに着いたばかりでお疲れだったのでしょう?」
康夫の言い訳に彼が合わせようとしていた。そして──。
「澤村隼人です。宜しくお願いします。御園中佐」
彼から手を差し伸べてきた。
やっと顔を上げると、昨日そして先程、からかう様に笑っていたあの笑顔となんにも変わっていなかった。
それに、つられるように、葉月も自然と手を差し伸べる。
「小笠原から来た、御園葉月です。宜しくお願いします」
笑顔は浮かべられなかった。
いや、いつもそうなのだが、今日は意味が違う。
無表情じゃなくて、穴があったら入りたい……! と、言うところ。
その上、彼のニッコリが何にも言えない状態に追い込んでいる。
でも、葉月の白い手を、ちょっと傷だらけのメンテナンサーの大きな手が優しく包んでくれていた。
康夫もなんだか思っていた様なご対面でなかったのか安心したものの、ちょっと腑に落ちない顔をしている。
「これでよし。本日から、大尉は中佐と一緒に研修について、中佐は大尉に良きご指導をして下さい」
康夫の顔は満足に満ちていた。これで一安心というもの。
ところが──!
「康夫。悪いけど彼女と二人きりにしてくれないか?」
中隊長の康夫に『康夫』と言う言い方にも驚いたが、彼の顔が急に迫真に迫ったので、康夫も葉月も表情を止めて見合わせた。
「いや、何故? 今から三人で打ち合わせを……」
康夫は二人がご対面を済ませても、隼人が名目の研修を飲み込むまでは安心できないから、まだ側を離れる訳にはいかない所なのだが……。
「今からは、彼女と俺の研修なんだろ? 二人で打ち合わせをする。それとも? お嬢さんだから、一対一では打ち合わせもできないとでも?」
隼人が訝しんでいる点は『康夫がいたのでは見定められない』と……言う彼なりの防御に出てきたのだ。
康夫がひるんだのを見て葉月はさらに驚いた。
『この康夫をここまでにさせるなんて!?』──と。
それと共に、自分も試されているのだと気が付いた。
隼人の冷ややかな視線が、年下の二人を制している時間がしばらく続いた。
「そ、そうね。当然だわ。藤波中佐。私と大尉で打ち合わせをするから、中佐は訓練に行ってもよろしいわよ?」
葉月は、目配せをして康夫に解ってもらおうとする。
無事に対面が済んでも、隼人はまだ研修については納得していないのだと。
康夫に何か企みがあって、康夫のサポートでお嬢さんがノコノコと日本からやってきたと、大尉は思っているのだ。
康夫がいなくては出来ない『お嬢さんの研修』なのか? と、試されている。
康夫にしてみれば、すっぽかしをするほどの兄様大尉──この目でハッキリと見届けるまでは、葉月一人には安心して任せられないところなのだ。
そして、葉月と同じく康夫も悟ったらしい。
ここで、『いや。俺もいなくては……』と、言えば、またこの大尉はへそを曲げると──!
「そうだな。じゃっ! お二人に任せて訓練にでも行くとするか」
余裕の笑顔を浮かべて訓練に行く準備を中佐席で始めたが、どことなくギクシャクしていたりして葉月の方がハラハラしてしまった。
康夫はどちらかというとポーカーフェイスは苦手なのだ。余裕がなくなると。
それを、この冷たい表情の大尉に読みとられていまいかと、葉月はチラッと隼人の表情を確かめてみる。
ところが、そこでも、バッチリ視線が合ってしまい、隼人が葉月の様子を観察していると知り、驚きそして焦ってしまった。
でも、隼人は目が合うなりニッコリ微笑んだ。
「さて。中佐、取りかかりましょうか?」
まったく余裕でどちらが上官だか判らなくなってきた。
「仲良くやってくれよ!」
渋々とした様子で心配そうに康夫が出ていこうとしている所に、隼人がさらに余裕の笑顔で一声。
「失礼な。こんな可愛いお嬢さんを俺がいじめるとでも? 御園のお嬢さんにたてつく気はないよ」
隼人が、ニヤリと康夫に微笑みかける。
(よくいうわよ)
『昨日逃げたくせに……』と、葉月はシラッとしてしまった。
「よっくいうよ。隼人兄」
康夫も、同時に言っていたが……“隼人兄”という愛称を聞き、葉月はビックリしていた。
やはり、それだけ親しいと言うことである。
康夫が頼っている男。それをなんだか、肌で感じたような気がした。
隼人は、大尉かも知れないが、後輩で年下の上官を上手に支えることが出来る縁の下の力持ちの点でエキスパートではないか? と。
(これは、うかうかしていられないかも!)
葉月は、急に気が引き締まる思いがした。
こんな、自分が試されるような緊張感は久しぶりだった。
康夫の方が上手に付き合ってもらっているのを、目の前で見てしまったからには、葉月も適当に、あしらわれる可能性が高いと言うことだ。
いつも、気にしてきたよけいな警戒心は、もう、この大尉には必要ない。
葉月は直感していた。
この男は本物だ!……と。
だけれど、まだ、側近にしたいという気持ちはなかった。
逆に自分が振り回されては仕事にはならない。でも、彼が上官なら別であるが?
いつも自分と対等、いや、二つ年上の分だけお兄さんの康夫とこんな風にやりとりをする男。
葉月の方がやり込められる恐れがある。
いつもなら、すました顔をして警戒心を漂わせ、生意気いっぱいに、数々の事をやりのけてきたじゃじゃ馬も、今度こそは真の姿をさらけ出さねばならない? そんな気にさせられた一瞬だった。
まるで後ろ髪引かれるような感じで、康夫が訓練に出掛けていった。
「さて。邪魔者がいなくなった」
昨日、食事をしていたときのような無表情で大尉がつぶやいて、葉月はヒヤリとした。
それすらも、見抜かれて……。
「はは……! そんなに緊張しなくても。知らぬ仲でもあるまいし?」
またまた、ニヤリと返され葉月は固まるばかり。
「昨日のことがなきゃ、今日だって俺は来なかったかもよ?」
今度は、あの優しい笑顔が照れくさそうに葉月を見下ろしてくる。
「昨日のこと……?」
嘘をついて、逆に嫌われるかと思っていた葉月には意外なお言葉だった。
「まぁ、いいじゃないか。ホントに本腰で、今後の予定とやらを聞こうか? お嬢さん」
“お嬢さん”と言われると、からかわれてるように聞こえてもいるのに……。
何故か、本当にすんなり聞ける響きでもあって、嫌な感じがこの大尉からは感じられない。
葉月は『そうですわね』と、ため息混じりに答えて、彼が勧めてくれた応接用のテーブルへリュックを手に腰をかけた。
葉月が持ってきた企画書と、自分が組んできたスケジュールをリュックから出していると。
「参ったな。実は俺、本気で眺めてなかったんだ。お嬢さんには悪いけど……」
あの書類や書籍が積まれている席を、彼がごそごそと探って何かを探していた。
「解ります。たぶん。そんなことだろうと……」
『変な研修』──葉月がそう思っていたように、この彼もそう思って……。
元々やる気がないから昨日の様にハナからぶち壊すつもりですっぽかしたのだろうから。
葉月が一人、ソファーでうなだれていると、デスクをあら探ししていた隼人の動きが止まり、こちらもため息混じりに葉月に視線を投げかけてきた。
葉月は小首をかしげ、彼を見つめ返す。
「申し訳ありませんでした。御園中佐。私は職務人としてはやってはいけないことをしておりました」
急に、大尉が深々と頭を下げてきたので、葉月は驚く。
「あの……。よろしいのよ? 私の方も、大尉の気持ちも考えずに押し掛けてきたことだし……」
遠野の影を追ってきたことを考えると、その言葉が自然と出てきていた。
すると、大尉も気まずそうに黒髪をかく。
「その事なんだけど。ちょっと、言いたい事もあって。それで康夫を追い払ったんだけど」
『あ…あった』と、大尉は企画書を見つけたのか、それを手にして葉月の向かいにやってきた。
「言いたいこと?」
葉月はドキリとする。
この研修についての不満を語られるのか? と。
しかし昨夜、決心したこと。
大尉の気持ちを聞く覚悟と、断られる覚悟もできていた。
それなら、本当に康夫がいない方が語りやすいのも確かだった。
大尉は腰をかけると、企画書をめくらずに、開いた膝の上に両手を置いて暫くうつむいていた。
葉月も、その様子をジッと眺めて待ってみる。
「率直に言おう。俺が昨日君を避けた訳。君のことだ。持って回った言い方より、ハッキリしていた方が気持ちいいだろ?」
中佐と判っても、言葉遣いは昨日と変わらないが、この方が葉月にはやりやすかった。
急に『御園のお嬢様扱い』になるのを嫌っているからだ。
そして気持ちは緊張するが、彼の言うとおり、ハッキリとした意見が欲しかった。
だから、静かに“コクン”と頷く。
その途端に大尉が指を三本つきだしたので、葉月はのけぞる。
「一つ。いつも負けず嫌いでお嬢さんとタメ張っている康夫が、自分の中隊改善とか言い出し、自分の中隊を良くするためにライバルのお嬢さんを頼ったこと。あいつなら、君の力なんて借りなくても、俺一人で充分出来ると言いそうなのに? 今回は、何が目的で君をフランスまで引っ張ってきたかが判らない」
葉月は『うっ!』と、唸る。
それは研修は名目で、側近候補として目の前の彼を探りに来たからだ。
「二つ。君が、つい最近まで遠野大佐の側近であったこと。これには、思うところあるけどプライベートな話なので一応ここでは除外」
初めて、彼が遠野の後輩なのだと感じた。
それも『プライベート』の一言でだ。
つまり彼は『遠野という男は女好き』で、葉月にも手を出したに違いないと既に見抜いているのだ。
葉月をその気にさせて、死んでしまった男。
その男の影を引きずって後輩の所に来たのじゃないか? と。
これにも『ううっ!』と、葉月は息をのんでしまった。
「三つ。君が御園のお嬢さんだって事。悪いけど。俺、ガジガジのキャリアウーマンって嫌いなんだ。気が合わないなら仕事は最初からしたくない。頭ごなしに叱りつけて、やっと手に入れた地位に必死にしがみついて仕事している女って嫌いなんだ。確かに、近頃は女の地位も上がってきたけど、余裕ってヤツが見られない。柔軟さがない。男をすぐに押さえつける。どこかで、指導の意味をはき違えている。もちろん。きちんとしたキャリアウーマンもいると思う。だけど俺はそういう女性に会ったことが今までない。悪いけど……君も恐らくそうだろうと……」
そこは、前の二項と違って妙に力んでた様に見え、葉月は首をかしげて、うつむく隼人を眺めていた。
彼は、どうしたことか黒髪をポリポリとかいては恥ずかしそうに、よそに視線を落としていた。
「あの……そのイメージは妥当だと思いますけど? 私だって、中佐と言うからにはそれなりに怒ることもあれば、余裕がないことだって」
じゃじゃ馬の無感情令嬢と言われているのだから、今更、猫をかぶる気もなく、イメージが崩れるなら先に崩しておこうと思い、葉月は正直に女性幹部側として述べておく。
しかし、隼人の反応は少し違った。
「ウ〜ン、お嬢さんもね。頭からそうだろうと決め付けていたけどね。ちょっと違うんだよ」
「は? どのように??」
「だから、昨日な。例えばだよ? 俺が何処から何しに来たのかと、聞いただろう? あの時に、ふてぶてしく煙草を吸っていてもさ、ヘッチャラで吸い続けられてたら、かなり嫌だったかもな。まぁ、もしそうだったとしてもそれは百歩譲ったとして。本を読んでいた俺の横で“中佐の私から逃げた不届きな男がいてすっごい腹立つ!!”などと愚痴をこぼしていたら、まず、ランチにもつれていかなかったし、今日もここに来ていなかったな」
葉月は、その真意を聞いてドキリとした。
「それは、たまたまかも知れないし。本当は愚痴だってこぼしていたかも」
「だったとしても、よく嘘をつき通そうとしたね。あんなに自分の身分を隠そうと必死な人は初めて見たよ。特に、お嬢さんなんか、誰も敵わない素晴らしい経歴の持ち主なのに。あそこで、一言御園の名を振りかざすことだって、中佐の地位で脅すことだって出来たんだぜ?」
隼人の笑顔に、葉月はまた言葉を失った。
彼の言うとおり、葉月は身分を必死になって隠していたのは確かだ。
だけれども、彼が言っているような『キャリアウーマン』としての、いかつさがあるのも確か。
葉月がそうして表現に困っていると……。
「とにかく。君から感じたのは、“名家を振りかざすお嬢さん”でもなく“地位を盾にする女”じゃ無かったと言うこと。“普通の女の子”というのも、中佐としては失礼だと思うけど……。つまり……。“ワガママいっぱいの嬢様”じゃないなら、とりあえず会っておかないと、今度は、俺の常識を疑われると思ってさ」
照れくさそうな彼が、黒髪をまたかき上げてうつむいた。
葉月としてもちょっと驚きだった。
(昨日のことがなかったら。こんな風には解ってもらえなかったかも?)
案外、すっぽかされて、思わず出逢っていて正解だったのでは?
葉月はなんだか、狐につままれたような気持ちになり、世の中、何がどうなるか判らないもんだと一人で頷いたりしていた。