白壁の街なみの中。石畳の街。繁華街。
葉月は基地からタクシーを拾って、これから二ヶ月を過ごす『予定』の宿にたどり着く。
外国らしく、素泊まりが可能な『月極の宿』。
いわゆる、マンスリーで契約できる日本ではあまり聞き慣れないシステムだ。
それも、康夫が見つけて予約してくれた。彼と雪江が暮らすマンションの側だった。
もちろん、基地から徒歩で行ける。
今日はスーツケースが重たいのでタクシーを使ったのだが──。
そんなに高級感はないが、汚そうでもなく、ごくごく庶民的な作りのホテル。
本当なら、男性がそうであるように『幹部将校』の葉月は、基地内の宿舎に宿泊しなくてはならないのだが、秘書科の女性もそうであるように、とりあえず『女性』と言うことで外への宿泊が許されていたのだ。
『男性と同じように』を、葉月はいつも主張するのだが、ロイが……。
『いいか? おまえのその気構えは正しいと思う。しかし、身体はどうしたって女なんだ。いくら、おまえが護身術に長けていても、おまえが護身術を使わなくてはならない程のことが起きたら、それは、間違いなく問題沙汰になり、どっちが正しいかなどという裁きも始めなくてはならない。おまえだって嫌だろう? お互いが傷つくだけだ。仕事上でもタイムロスだ。“女だから”というヤツには言わせておけ』
中将であるロイのお墨付きは嬉しかったが、どことなく腑に落ちない自分もいたりする。
『訓練』の時は、どうあっても男子達と寝食を共にせねばならぬのに、『訓練』以外では女として扱ってくれるのは何故か? と。
葉月は、どちらかというと『正々堂々』、男性陣と同じ事をして、気に入らないと、突っかかってくる者がいるなら『正々堂々』と、『喧嘩』をしたいのだ。
とっくみあいの喧嘩など、訓練校生の時に経験済みである。
それが、『幹部将校』には許されないこと。
つまり、一訓練生の時より行動がしにくい立場であるのだ。
とりあえず傷つけ合いは、やっぱりごめんだし、康夫に迷惑をかけるわけにもいかないので、“大人になれよ”と言い放つロイと康夫に言われたとおり外に宿を取ることにした。
『お手当』を頼るのは好きではないが──『仕方ない』──と、割り切ることにした。
これが本当に体でも張る任務なら遠慮なく『お手当』を受けるのだが、『気分転換』とか『自分にあったお相手探し』とかいう、なんだか『お嬢様の特別研修』みたいだから気が引けるし、葉月自身も『遠野の影』を見つけるのが目的と心では感じているので、なおさら、気が引けるのである。
「いらっしゃい! 藤波君の紹介だね? 藤波君はここらでも有名な日本人パイロットでねぇ」
フロントにいたご主人はチェックのシャツを着た、気さくそうな普通の男性だった。
「お世話になります」
外では、葉月も素直に笑顔が浮かべられたりする。
「パイロットだって? いやぁ……。そんな風には見えないねぇ。藤波君からね。良いところのお嬢さんだから、人の出入りには気を配ってくれって言われてね。うちはね、そこのところは、きちんとしているから。安心しておくれ」
もう60歳は超えていそうな、白髪で、頭髪の薄いご主人がニッコリ笑いかけてくれた。
『親父さん』と言う感じで、葉月も安心を得る事が出来たし、康夫の気遣いにも感謝をした。
葉月が親父さんに案内されたのは、4階の一室だった。
『好きに使っておくれ』と言う親父さんは、葉月にキーを手渡して、さっと出ていってしまった。
中は、ワンルームだったが入り口からすぐがリビングのような形になっていて、フローリングにムートンの敷物がありテーブルとソファーがセッティングされていた。
そして、部屋を二等分するかのようにリビングから向こうは一段、段差があって、薄くて白いカーテンで仕切られてあり、そこを開けてみるとセミダブルのベッドがおいてあった。
ベッドの足元には小さな丸テーブルといすがセットされている。
木の香りがするこの小さな部屋が今から二ヶ月間の葉月の住まいになるのだ。
(うん。なかなかいいじゃない?)
葉月は、康夫に再び感謝をしながら、夕日が入り込んできた窓辺に立ってみる。
窓は、外国らしい『持ち上げ式』の窓だった。
窓をゴトッと開けてみると……行き交う人々の声、車の音、そしてちょっと先には港が見えるのだ。
(こんないいところ。二ヶ月もいること出来るかしら)
葉月は、澤村大尉にハナからすっぽかされたことを急に思い出して、窓辺の潮風に揺られながらため息をついた。
(こうしていても、仕様がないし──)
葉月は早速、荷物を最小限ほどき始めることにした。
着替えの制服類、訓練着の飛行服、テキスト、そして化粧品など……。
ソファーも、テーブルもベッドも、小さな丸テーブルも。
自分が使い勝手のいい位置や向きに直して、気を逸らす。
すべてを終えた頃にはもう遠くの海の水平線に日が沈んで星がちらつき始めていた。
そこで、やっと、潮風にあたってじっとりとしている髪に気が付いて、今度はバスにはいることにした。
自宅から持ってきたお気に入りのミルク色になる入浴剤を放ってやっと一息お湯につかる。
そこで、またふと葉月は闇にはまりそうになる。
遠野大佐の笑顔がこうして落ち着くとより鮮明に思い出してしまうのだ。
『じゃじゃ馬? 素直になればおまえも可愛いのになぁ』
『帰ってきたらずっと、俺の側にいてもらうぞ』
『おまえは、月みたいな女だな。手に届きそうなところにいるのに、本当は遠くにあって輝いて見えるだけ』
『蒼く輝く月。名前通りだな』
最後に彼が自分をそう例えていったことが今も頭から離れない。
手に届くところにいるのに、本当は大佐にとっては遠い存在の自分だったのだろうか??
だから、彼が帰ってきたら本当に今度こそ、妻のことを気にせずに全力で愛してみようと待っていたのだ。
なのに、まるでそれが神からの罰のように彼は二度と帰ってこなかった。
その上……穴だらけの身体で帰ってきた。
顔は何故か安らかだったのがよけいに痛々しくて……。
葉月は再び、顔を覆ってすすり泣き始めていた。これが後悔というのだろうかと。
湿った肩先の栗毛が塩の味を含んでいた。
バスから、やっと落ち着いてあがり、葉月はいつも着込んでいるシルクのスリップドレスを着て、ガウンを羽織った。
(そう。私は彼がいたフランスから彼の影を見つけようとしてきただけ…。それだけのこと)
そう気付いて決心をした。
(帰ろう。日本に……。明日、大尉と会って、彼の本当の気持ちを聞いて、彼のことを尊重しよう)
早いうちが良い。
それなら、経費もかさまずに済むし、お互いが気にそぐわなかったで済ませることもできる。
康夫はがっかりするだろうが、彼の立場が悪くならないようロイを説き伏せればいい。
自分がここまで来た訳のことを思えば、大尉に逃げられて当然。
『研修』など、本当に名目であって、その上『側近』の話を持ち上げたら、頭が良さそうで、上に媚びない彼のこと……。
嬢様の秘書なんてやってられるか!! ──なんて言われるに決まっている。
葉月はそう思いながら、ベッドルームの小さな丸テーブルにて、大切にのばしてきた、唯一自分が女だと感じられる栗毛を櫛で解く。
お肌だけは、念入りに手入れをしていた。化粧はあまりしないが……。
いつもの夜の日課を終え、遅いランチを取ったこともあって、夕食には出掛けずに床についた。
窓辺には、星が散らばっていた。
波の音も微かに聞こえてくる。
(私の自宅によく似ている)
『島』に住んでいる葉月はそんなことで落ち着いてすぐにまどろむことが出来た。
(今日、逢った人。明日もし逢えたらお礼を言わなくちゃ。でも。私のこと知ったらもうあんな風には話してくれないわね)
嘘をついたことをほんの少し後悔をしていた。
それを頭にかすめたのを最後に葉月はスッと眠りの渕に落ちていった。
・・・*・*・*・・・ ・・・*・*・*・・・
次の朝も快晴であった。
心が決まった葉月は何処かしら今日は清々しく目覚めることが出来た。
「おはよう。おじ様」
フロントに出て来た葉月を見て、親父さんもニッコリ。
「レストランの方に食事が出来ているよ。今日は飛ぶならしっかりお食べ」
フロントの横には、喫茶店を兼ねた小さいレストランがある。
そこで、親父さんの奥さんが宿泊客の食事をまかなっていた。
素泊まりなので、そのレストランで注文するか、外で好きに食べるかになっている。
葉月の笑顔を見て親父さんはなんだか、かなり満足をしているようで昨日より優しかった。
奥さんも、田舎風の女性だったが、気さくで明るい小太りのママンだ。
「中佐。せっかくフランスに来たんだから朝はこれでね」
ママンは親切にお手製のフレンチトーストと自家製のヨーグルトを葉月だけに出してくれた。
(なんだか。出ていきにくいわね)
葉月はそう思いつつも人情的なところは島の島民と一緒だな……と、噛み締めてさわやかなモーニングを取ることが出来た。
「いってらっしゃい」
アパートの管理人ご夫妻に見送られた葉月は、気合い充分に出掛ける。
基地までは徒歩で十五分ほど。
いつも使っている黒いプラダのリュックを肩に掛けて石畳の街を一人歩く。
『ボンジュール』と言う声が町中で響き渡る。
魚が捕れてそれを車で引いている漁師、風景は『小笠原の島』と本当に似ているが、色彩はこちらの方がビビッドである。
栗毛をなびかす潮風は、今日はなんだか心をくすぐってくれた。
(なんだか。今日こそは何か上手に出来そう……!)
葉月も街の風情に乗せられてそんな気がしてくる。
制服姿の軍人たちが車で出勤する姿もちらほら目立ってきた。
自転車にリュック姿の栗毛の隊員。
ビジネスマンのようにアタッシュケース片手のひげの隊員。
黒塗りの車でご出勤の将軍らしき初老の男性の姿も……。
そんなところも島と変わらなかった。
葉月がそうして丹念にこの街の雰囲気を味わっていると、自分の横を自転車が通り過ぎたが……。
急にキッ!──と高いブレーキ音を響かせ、葉月の目の前で停まった。
(あ!)
葉月は自転車に乗っている男性が黒髪の人だったので、すぐさま上着を脱ぎたくなったが──遅かった。
「ボンジュール! 昨日はどうも!」
ニッコリ、二本指で敬礼をしてきた男性は昨日の眼鏡の彼!
……無駄な抵抗と分かっているが、肩章が見えないようにリュックを背負って肩を隠そうとしたのだが……彼には既に見られていたようだ。
「中佐──だったんだ。もしかして、通訳ってお偉いさんの側近って事?」
彼があきれたように、でもニッコリとしたあの笑顔を見せてくれたので、葉月はリュックで肩章を隠すのをやめた。
「ウン……そ、そうなの」
未だに嘘をつこうとしていて自分でもあきれた。
「中佐と言ってくれたら、俺だって、それなりの礼儀は尽くしたのにどうして?」
まるで『どうして騙した?』──と、詰め寄られているようで、葉月は黙り込んでしまった。
そんなうつむく葉月を見ても彼は昨日と変わらぬ笑顔でクスクスと笑う。
だから……今度は本当のことを口にしていた。
「礼儀なんて、いらなかったの。あの時は……」
「ふ〜ん。なるほどね」
彼の眼鏡をかけていない瞳がなんだか康夫そっくりの見透かしている眼差しに輝いたので、葉月はドキリとし、おののいた。
「そうなんだ、それは有り難かったね。じゃあ、そういう事にして。俺としても、普通のお嬢さんとサボったことにしておくよ」
彼のこの上ないニッコリ笑顔に、葉月は顔が赤くなるのに気が付いて、さらにうつむいてしまう。
その上彼は、葉月が中佐と判っても、からかうようなクスクス笑いをこぼして、まったく余裕だ。
中佐と判ったからとて、まったく昨日と変わらない彼の様子を知って、葉月は思い切って切り出した。
「あの! 昨日はごちそうさまでした。本当に美味しかったわ。ここに来たいい記念になったと思っているの!」
葉月は、帰る前に再び会えたのだから、後悔無きよう素直に言っておこうと、本当に心にあることを彼に伝えようとした。
「本当に? だったら良かった。もっと良い所にすれば良かったのかなと、俺もあの後、後悔していたんだ」
葉月は『ううん!』と、首を振る。
「ああいうところの方が良かったの。海の側で落ち着けて……素敵なところだったわ! それに、マルセイユそのもののお食事が出来たし。あなただって、ほかにお勧めは出来ないっていっていたし、そういう所の方がフルコースよりずっと良かったの」
葉月は、ここぞとばかりの心にある感謝の気持ちを述べていた。
彼に“御園の娘”と、ばれる前に──。
御園の娘と知ったらおそらくビックリして、この素直な言葉も、もしかしたら社交辞令に取られ兼ねない。
葉月はそう思われるほどの……『資産家軍人の娘』なのだ。
皆が直ぐに『おまえはいいもん食っているだろ?』とか思うからだ。
「オススメの木イチゴのタルトすっごくおいしかったし! あの……」
そこで、名前も知らない彼を『階級』で呼び、お礼を言おうと思い、葉月は彼の肩章を見て……息をのんだ。
(大尉!?)
葉月の目線を見て、彼が寄り一層、余裕気に微笑んだ気がした。
葉月はそこで頭の中でグルグル回る物を感じる!
大尉で! あの航空書籍を読みこなして! 日本人! もしかして!? と──。
葉月が、彼を指さしているまま唖然としていると……。
「じゃぁね。またご縁があったら連れていってあげるよ。お嬢さん」
彼はニッコリ笑ってまた、二本指の敬礼で颯爽と自転車で去っていってしまった。
(うそ! まさか!! だとしたら、どうして!?)
もし彼が、澤村大尉だったとして……?
いつから、自分を『御園中佐』としてみていたのだろう!?
それとも? 未だに何処かの側近のお嬢さんと思ってるのか?
それとも? 大尉はごまんといるし、あの本を読む人も航空基地にはいっぱいいるだろうし!?
──等々が、グルグルと頭の中を回り、混乱してきたが!
葉月の直感は『澤村大尉』と言う答えを出していた……。
だが、はずれていて欲しいと願った。
(ちょっと……待って?)
葉月は一時、街の白壁に手をついて落ち着こうとした。
(これは幻とか……嘘とか……違う人だっていって!? 神様!!)
葉月は心で叫んで、がっくりと、うなだれた。
そして隼人は──?
(面白いお嬢さんだなぁ)
などと、クスクス笑って自転車で基地に入る。
警備口でIDカードで身元証明をするのだが──『サワムラ君 なんだか楽しそうだな』と、言われた。
「まぁね。ひょんな事があってね」
隼人は基地の外をもう一度覗いて、トボトボ歩いてくる葉月を見て、またクスクスと笑いをこぼしていた。