・・フランス航空部隊・・

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30.男の約束

「ふう。今日もいい天気だ」

 訓練が終わった藤波康夫は、屋上にてカフェオレ一杯を片手に休んでいた。

「康夫? いるの?」

 屋上に上がってくる階段の影から葉月の声がした。

「おう。なんだ? ここだぞ」

 手にしている紙コップを掲げながら笑いかけると、それをみつけた葉月が笑顔で走り寄ってきた。

「隼人兄との講義は終わったのか?」
「うん。大尉は今、中佐室でレポート書いているわ」
「そっか。どうだ、慣れてきたか?」
「うん! 生徒達もよく言うこと聞くし。大尉がちゃんと私をたててくれるし!」

 葉月が元気良く笑ったので、康夫もちょっと心が和んでしまった。

「お前も……。ちょっとは吹っ切れたみたいだな」

 身をかがめながら葉月を下から覗き込むと、彼女がはにかんでうつむいた。

「……ごめんね、色々と心配をかけて。でも、あなたに言われた通り、こうしてフランスに来て良かったわ!」

 その元気な笑顔は、葉月が『じゃじゃ馬』と言われている通りの笑顔だ。
 康夫が春に彼女がいる小笠原に行ったときはまだ、何処か暗さを引きずっていて業務も『損害が出ない程度に、そつなくこなせばいい』というように、生気が無い様な淡々とした日々を過ごしていたから、その違いは分かる。
 フランスで隼人と出会った時もまだ、何処か淡々としていた。
 それが隼人と何があったのか? それとも隼人とウマが合ってきたのか? 葉月は以前通りの活き活きとした仕事を始めていた。
 まず、康夫の思う『企み』はここで一つ成功はしていたが、肝心の『側近抜き』については葉月は何一つ動こうという気配がない。
 葉月がフランスに来て一ヶ月。隼人の動向を探るような期間はもう過ぎている。
 康夫も今まではお互いがうち解ける時間と黙っていたが、そろそろ葉月のお尻を叩かねばならないなと思っていたところだ。

 ということで。葉月の気持ちを今から探ってみようと、康夫も今心を決めたところだ。
 さて、じゃじゃ馬はこの一ヶ月どう感じてきたのだろう、この『妙な研修』と……そして本当の目的である『側近抜き』、つまり『澤村大尉』のことを。
 康夫の隣に、栗毛をなびかせた葉月の穏やかな笑顔。

 康夫もふと微笑み返す。
 さて、じゃじゃ馬嬢のその気持ちを探ってみようと──。
 ところがだった。

「ねえ、康夫。聞いてもいい?」
「ん?」
「どうして。大尉のような優秀な補佐を私にくれるって言うの?」

 『お? やっと来たか!』と、康夫も願ってもいない葉月からの質問にちょっと気をよくした。

「そりゃあ、手放したくないんだが。『約束』とでも言うか」
「『約束』? 誰との?」

 カフェオレを一口飲み込む康夫の顔を、葉月がじっと覗き込んできた。
 『誰との?』──その彼女の質問に対し、康夫はその返答にやや躊躇ったが……。

「遠野先輩」

 その男の名を呟いた途端に、彼女の表情が止まった。
 まだ心に強く残っている男性だろう。

 彼女は暫くそのまま、そよ風に栗毛を流して動かないまま。
 康夫は彼女がどう感じているのか、今はどれだけ心の整理がついたのかと試すかのように、葉月の反応をただ待つように眺めているだけだった。

 

・・・*・*・*・・・ ・・・*・*・*・・・

 

 何故、優秀な自分の部下を『ライバル嬢様』の私に渡してくれるのかと問うたところ、そのライバルの返事は『約束だから』と言う。
 そしてその『約束』は、葉月がまだ心に強く残している一時期愛し合った男性の名だった。

 彼のその一言に、葉月の心臓はドキリと固まった。

「大佐と、いつ? そんな約束を?」
「遠野先輩が少佐に昇進してフロリダに行くとき」
「……それ。私が聞いてもいいの?」

 遠野がフロリダに転属する時の話なら、かなり昔のことだと葉月は躊躇した。
 そこには遠い昔の『男同士の約束』という密かなる交わし事のような気がしたのだ。

「まぁ。お前には話さなくともいずれ『見抜くだろう』と思っていたんだが」
「見抜く? なにを?」

 オウム返しに聞き返してくる葉月の前に、康夫がなにか気合いを込めたかのように、しっかり向き合った。
 いつもは『おふざけ、からかい、喧嘩相手』の彼に葉月も背筋を伸ばして改まる。そんな真剣さがうかがえたのだ。

「どうだ? 隼人兄という男の事をどう思ったか?」
「どう思うって……」

 それは沢山思うところはあるけれど。
 今となってはそんなこと『一言』でなんて言えやしないと、葉月は口ごもる。

「例えば。時々変に何かにこだわっている姿が目立つとか。頑固というか、殻にこもるって言うか。そんなふうに感じることは?」

 康夫の『例えば』に、葉月は『ある!』と心の中だけで即答をしていた。

「まだないか? 実はな、隼人兄はそんなふうになる原因については、心を開かないんだよ。俺も大方の予想はつけているんだけど。遠野先輩もそう思い当たる原因があると言っていた。雪江と俺も同じように大方の予想は立てている。そして俺達のその『予想』は一致しているんだ」
「心を開かない原因?」

 あの隼人にそんなことが? と、葉月は自分と重ねた。
 葉月にも『言えない沢山のこと』と、それからくる『警戒心』があるだけに……。葉月はまだ予想は立てていないが一つ判るとしたら、隼人が『フランスから出ていく気がなく何処か日本を避けているように思える』ことだけだった。
 それが当たっているかどうかは判らないから、そのまま黙っていると康夫は葉月もきっと『同じ事を感じている』と確信したのか、考えていることをすっかり見通してくれたようだ。

「そう。隼人兄はここから動こうとしない。その気になればとっくに少佐にはなっていて、上手く行けば俺と同じ様な中佐になっているはずなんだ。それはお前もこの1ヶ月隼人兄の側にいて肌で感じただろう?」

 『うん』と葉月は頷いた。
 側近にするなら言う事無しの隊員だった。
 後は彼がどうしたいのかと言う点と、葉月自身が一緒にやれるという確信を得るかだった。
 葉月自身。その確信を得るキッカケがまだ掴めていなかった。
 だから1ヶ月も経ったので、こうして康夫にやっと隼人の内側を探ろうと聞くことに決めて、今日、やってきたのだから。

「遠野先輩が昇進する実力があるのに、どうして『少佐試験』を受けずに『教官』で留まっていたかは、お前も知っているな?」

 葉月もそこは力無くそっと頷いた。

 遠野は妻と若くして結婚した。彼女と日本で幸せに暮らすために軍学歴を持っていてもそれを活かさずに海外転勤がない『教官』に甘んじていたのだ。
 だが、教官職が優秀だったが為にフランスへと行くハメになった。
 その時、妻が頑として海外にはついてこなかったという。
 遠野の『単身赴任生活』はそこから始まり、そこから愛していた妻との溝が出来たのだ。
 どうしても日本で親元を離れたくないと言う妻に裏切られたという気持ちだったらしい。
 その内に妻は暇を持て余してそれを埋めるために外へ遊びに行くようになった。
 男遊びはしない女だったがその代わり女友達との交流。女姉妹との旅行。そういう事に精を出すようになったと。
 それで、今度は『収入を増やしてほしい』と、夫に初めて昇進試験を勧めたとか。

 そこから彼の『寂しい人生』が始まったようだった。

 愛する妻のために自分の実力を押さえて彼女の側にいたかったのに、彼女はついてきてくれない。昇進試験に反対していたのに『収入のため』に初めて勧められる。息子と暮らしたいと言っても彼女は息子のために日本にいることを望んだ。だから彼は『女遊び』に走った。そんな人生だったのだ。

「そんな先輩だから、判るんだよ。隼人兄が『ここ』に閉じこもっているわけが。何かあって隼人も前には進みたくないんだって、先輩も言っていた。隼人もその気になればきっと上に行けるって。そのタイミングがあったら俺に頼むと……言って……。それが最後に交わした言葉だったかな……」

 康夫も遠野のことを思いだしたのか、悲しそうに顔を伏せた。
 葉月も……。いつも意地悪そうな彼がそんな哀しそうにうつむくと心が痛んだ。

「それで、俺だって隼人兄がいなくなるのは寂しいけど。俺も遠野先輩と同じ気持ち。ここにいつまでも置いておいちゃいけないと思ったんだ。タイミングが来るまでは俺の下だろうが上だろうが見守ろうって。そのタイミングが来た。俺の所に『御園の側近』の話。葉月ならその点でも隼人兄を引っ張ってくれるポジションにいるし、なんと言っても『男と女』とかは抜きにして扱ってくれる。だから今回その話が来たときは『俺』じゃなくて、『隼人兄のチャンスだ』と思ったんだ」

 康夫がなんだか悲しそうに呟いて話してくれるので、葉月は何にも言えなくなっていた。
 それだけ──。遠野の事も、隼人のことも……彼等のもどかしい進めない姿を長く見守ってきたという『男友達』の姿がそこにあったから。
 葉月を騙し討ちのようにしてフランスに来させたのも、日本でワザと『企画書』を作り上げたのも、そういう事だったのかと初めて知ったように思えた。

「そうだったの……」

 『そう言ってくれたら良かったのに』とも言えなかった。
 葉月も隼人に直接会わなくては今の話は、受け入れられない納得できない話で終わっていただろうから。

(そんな約束。大佐としていたの……)

 『男の約束』が何年経っても生き続けていること。
 葉月はその重さを感じた。

「葉月。お前なら、もしかして隼人兄の心を開けるんじゃないかと……」

 いつになく康夫がすがるような眼差しでみつめてくるので、葉月は驚く。

「な、何言ってるのよ! わ、私なんて!」

  心の中にあらゆるものを隠し持っている自分が、そんな真っ正面から人と向かえるはずはない──。自分のことをそう思うから、葉月はその康夫の言葉におののいた。
 だけれど康夫は何かを確信している強い眼差しになり、その目のまま、葉月の胸を指一本で指してきた。

「お前も持っているだろう? 『開かない扉』を──」

 葉月はそう言われて硬直した。

「でも。それは──もしかすると『傷のなめあい』かも……知れない……し」

 すると康夫が首を振る。

「お前には判るはずだ。お前は本当は優しい女なんだよ」

 親友に改めてそう言われるとカッと身体が熱くなった。

「な、何を言ってるのよ!? 私がどんな女か康夫は良く知っているじゃない……? とてもじゃないけど良い方じゃない……って」
「他から見ればそうかもしれない。だが、ひとつ。今更、言いたかないけどな。お前、達也と別れるとき良くやった方だ。仕様がない事だったし、達也だって辛かったろうさ。でも一番傷ついたのはお前だ。なのにお前は達也を自分と同じ中佐に昇進させて、尚かつ良い条件の所に送り出した。立派だった。そういう意味でも隼人兄をなんとか良い方向に行かせてくれる。そう信じているから『譲る』んだ。俺の方は心配するな。次の候補はもう目星をつけている。お前を迎えに行った『金髪の大尉』にな」

 そこまで決心をして、康夫が中佐として中隊長として動き始めていることに葉月は驚きを隠せなかった。

「それで。澤村大尉は藤波中隊長が既にそう決めていることを、どう思うのかしら?」

 『康夫に捨てられた』そう思わないだろうかと、葉月は心配になってきた。

「そこはお前の腕だろ?」
「なに? それ! 押しつける気」

 すると康夫がキッと険しい眼差しを投げつけてきたので葉月は固まってしまった。

「まだそんなこと言っているのか? いいか? もっと真剣に考えろ! 自分の中隊のこともだ。ハッキリお前が先に行かない限り、下の者に迷惑を掛けるだけだ。見ろ。お前がふらふらしていた時に、下の者が苦労していたことも思い出せ! ここで男とか女とか傷のなめあいとか、言っている場合か? 遠野先輩がいたら叱られるぞ! 『ビジネスはどんなもんだ』ってな!!」

 その通りなので葉月はグッと黙ってうつむいた。
 自分に力が無くて思わぬ部署に転属させてしまった者がいたのも本当の事。
 今度も上司が来れば自分が楽なだけ。
 康夫が言うとおり『甘えている』とうなだれた。
 上司がこないなら自分が動きやすい様になる側近を早急に見つけることだ。
 なのにそのチャンスが来たら、本来の目的に向かう前に『男女だから』とか仕事とは関係のない部分ばかり気にしてみたりしている……?
 ともかく、康夫の言っていることは間違いない。
 そうして自分の至らなさを親友にさらけ出されてうつむいていると……。

「まぁ、葉月。焦る事もないさ。今までだってお前は誰よりも若い中佐で女身で良くやってきたんだ。だからフランク中将が『隊長』にしようとしているんだ。亡くなった大佐のためにも、フランク中将の期待にも、応えることがまず先決だ。『側近』はその為の第一歩だからな」
「分かったわ」

 珍しく葉月がすんなりと折れたのを見て、康夫はまたいつもの調子で『ニヤリ』と見透かし笑いを浮かべてきたので葉月は首をかしげた。

「どうだ? 隼人兄ってお前の『タイプ』だろう?」

 その一言。何故かダイレクトにがつんと葉月に響いた。何故だろう!?
 そして、葉月はまた顔が火照って康夫に腕を振りかざした。

「なんなのよ! 真剣に諭してくれたと思ったら、からかってんの!!」

 葉月の額を片腕で押しのけて康夫は大笑い。
 余裕いっぱいの彼に葉月も益々ムキになる。

「お前がよく言っている『真兄様』ってかんじだろ? 俺も長年の付き合いでそう感じていたからさあ。隼人兄を見ているとちょっと真さんの雰囲気に似てるなあと思ってさ!!」
「何よ! お見合いじゃないんだからね!!」
「そりゃ? 側近以上になるならその先は俺には関係ない話だからな。そうなったら『大人』だろ? 勝手にやってくれ」

 『もう、何よ〜!』と、葉月は康夫に食ってかかったが、男の腕に払いのけられて歯が立たなかった。
 投げ飛ばしてやろうかと思ったがそれは行き過ぎなので堪える。
 だけど最後に康夫にもう一つ聞いてみた。

「大尉が心を開かない何かって、何?」
「それは本人からはっきりと聞いていないから言えないな。それに隼人兄がもしお前のこと知りたいと来ても、絶対俺からは言えない。お前だって嫌だろう?」

 康夫が真顔になって今度は葉月の左肩を指さした。

「だから、それを知りたきゃ本人から聞くんだな。お前のこと向こうから聞かれても同じ事言うからな。俺は」
「そうね」

 康夫のその双方に対する気遣いの素晴らしさは元より、そうして自分の事も大切に尊重してくれる『親友』に葉月は感謝する。
 そして康夫が言うとおり……。葉月も自分のことは自分で『告白』したかった。
 だから、気になることはやっぱり隼人にも本人から聞くべきだと思う。

「側近にしてみるか?」

 康夫がサラサラの黒髪を風になびかせて上空を飛ぶ編成機を見上げた。
 青い青い大空に白い雲間を縫って戦闘機が白煙を描いている。

「うん、そうね。やってみる」

 葉月も心が決まってきた。
 康夫がそっと肩を叩いて微笑んでくれた。

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