「はぁ。ママンには参るよ」
ママンの勢いに押され、とうとう葉月の部屋に入れられてしまった隼人は呆れた溜息。
ママンはホットサンドとサラダ、そしてデザートにお手製のムースを付けたトレイを置いたら、意味深な笑顔を残して直ぐに出ていってしまった。
「本当。あんなに強引とは知らなかったわ」
リビングのスペースについているカウンターで、葉月は既にお茶の準備を始めていた。
落ち着いている様子の葉月に安心はするのだが、それでも隼人は念を押すように尋ねる。
「俺、本当にいていいのかな?」
そして、それは葉月に尋ねると言うより自分に問いかけているようにも隼人は感じた。
「もう、いいじゃない? どうせ、今も外は土砂降りだし」
ママンの強引なやり方に翻弄されてしまった葉月は、もうどうでも良くなったようで笑いながらお茶を入れてくれる。
そんな明るく気さくそうな彼女の軽やかな笑顔を見ていると、隼人もいつも基地でそうして向かい合っているような気持ちになれてきて、ついに『まあ、いいか』と、観念……。観念した隼人の目の前に、葉月が早速お茶でもてなそうとカップを差し出してくれた。
「はい。これ日本から持ってきたの」
懐かしい渋く甘い匂い。
日本茶だ。
「ああ、久しぶりだ。いいねえ」
外国暮らしを続けてきた隼人には本当に久しぶりだったので、つい目を輝かせてしまった。
持ってきたものを喜んでもらえたのが嬉しかったのか、葉月もニコリと微笑み隼人の向かいに座った。
そうして暫く。二人は日本茶をすすり、せっかくだからと、ママンのご馳走をいただくことにした。
「おいしい! やっぱりママンはお料理上手ね!」
相変わらず。目の前の彼女はばくばく食べるので、隼人は呆れてしまう。
「ほんっとうによく食うな。お嬢さんは」
「当然よ。パイロットは糖分を蓄えないとね。血糖値がいかれるのよ!」
『大食らいみたいに、失礼ね』とぼやきつつも、葉月は本当にばくばく食べ続ける。
それを見ているだけで、隼人はやっぱりいつものお嬢さんだとホッとして自分も遠慮なくホットサンドに手を付ける。
なんでも綺麗に平らげる葉月の食べっぷりが気持ち良かった。
男の隼人もそれにつられるほど。気兼ねなく一緒に食べられる。
隼人は、落ち着かなかった女性の泊まり部屋の雰囲気にも慣れてきて、ふと、テーブルの上に積み重ねてある本の山に気が付いた。
「なんだろう? これは」
隼人はそれを手に取ってみた。
「うん、それはね。隼人さんの授業を見学することになるかもしれないと思って『復習』がてら持ってきたの」
問いかけに返答しつつも、葉月はサラダをつついて食べることに夢中になっている。
隼人が見たことのない本だった。
開いてみると──。テキストのようでページの空白に英語で赤く走り書きのメモがたくさん書いてある。
(特校のテキストか!?)
隼人は息を呑み、食べる手元が止まってしまった。のだが、次にはそれらを手にとってパラパラとめくり読み始めてしまった。
「この、横にいっぱい書いてあるメモはお嬢さんが?」
『うん』という何気ない簡単な一言が返ってきた。
葉月はまだ食べることに夢中になっているだけ。隼人は益々呆れたが……。
(すごい! こんなに勉強していたのか?)
隼人は思わず目の前の女の子を見入ってしまった。
走り書きのメモの数は半端じゃない。おそらく教官が漏らした一言も逃さずに記してきたのだろう。どれだけの姿勢と集中力で講義に向かっていたか、その彼女の迫力が伝わってきそうだ。そう……昨日の『空を飛んでいる彼女』と同じ彼女がここにもいたのだと。
「汚い字でしょ? 自分でもなんて書いたかもう判らないところがあったわ」
葉月がにこりと微笑みかけてきたが、隼人は引きつり笑いしか返せない。
それに彼女がすごいだけじゃない。やっぱり、特校の授業はすごい! そう、思った。
葉月が読み返せないくらいに書き込むほどのスピードと、読めないといっても書き込んであるメモを見れば、授業の濃密さを窺わせた。
そんな参考になりそうなメモが書き込まれているのだ。
その内に隼人はそのテキストに集中してきた。
シャツのポケットから眼鏡まで取りだして……。
雨の音が遠のき、目の前の女の子の姿もぼやけてきた。
隼人の目の前には、もう活字と走り書きの赤いメモだけだった。
・・・*・*・*・・・ ・・・*・*・*・・・
「ご馳走様」
寝起きでお腹もすいていた。丁度良いタイミングのご馳走を夢中で平らげてしまった。
葉月はそうそうに食べ終わったが、隼人のお皿は全然進んでいなかった。
そこで葉月は、やっと気が付く。
隼人が『本に取り憑かれてしまった』と……。
木陰で出逢った日のように、隼人は眼鏡を掛けて食事もそっちのけにしていた。
あの時、葉月を驚かせた集中力が今、彼を支配しているのだ。
暫くはそんな隼人をジッと眺めていたのだが、とりつくしまもないようなそんな気迫が伝わってくる。
「あの」
やっと声を掛ける。
「ああ。お嬢さんはやることあったらそうして。せっかくの休日。やること色々あるのだろう? 俺のことはお構いなく」
先ほどまで帰るだのなんだのとごねていた男性が急に『お構いなく』ときた。
いったいなんなのだと葉月がその態度の変わりように半ば呆れそうになったところで、テキストを食い入るように見入っていた眼鏡の顔がいきなり上がってきて葉月の目の前に……。
「あ! 勝手に……ごめん。これ、俺は、これを読んでいて良いかな?」
「……」
「だから、お嬢さんは俺のことは放って置いてくれて良いから。自由にしてくれよな」
すっかり。ここにいる気になったようだった。
それもまた。『お嬢さんは、自由にどうぞ』と言ってくれた時には、その一言すらもテキストを読みながら言うからよけいに葉月は置いていかれた気になった。
だからといって、そこまで夢中になられてしまっては『ダメ』とも言えない。
「そう? じゃあ……私は適当に。ごゆっくりどうぞ」
『ごゆっくり』に対して、もう……彼は相づちすらも返してこない。
本当にもうおもてなしなどしなくても良いのかと戸惑っている間も、隼人は食い入るようにテキストに取り憑かれている。
『お勉強好き』
葉月はそう思い、唸ってしまった。
葉月がソファーから腰を上げると『他のも読んでもいいか』と、またページをめくりながら読みながら尋ねてくる。『どうぞ』と葉月が返答しても、やはり『そう』と短い返事で集中しているだけ。
そこまで『お返事も煩わしい』なら、無理にお相手しなくてもいいかなと思うことが出来る。
葉月はそっと。彼の周りを取り巻いている『集中力の空気』を揺らさないかのような静かさで、カーテン一枚向こうのベッドルームに戻った。
窓辺視線を向けると、雨がまだ激しく降っていた。
ベッドルームに戻った葉月は、小さい丸テーブルに鏡や化粧品を置いてドレッサーにして置いたので、そこに取り敢えず腰をかけた。
結い上げていたバレッタを外して櫛で髪をとく。
いつも通りに、お肌はしっかり整える。お化粧はいつも軽くファンデーションに薄い色合いの口紅だけ。そんな素っ気なさの原因のひとつは、空を飛ぶ日は、日焼けしないよう日焼け止めをベッタリ塗るから、色とりどり化粧しても意味がないからだ。それに今日はお休みなので化粧はしない。お肌を整えて軽くおしろいをはたくだけ。
その間も、カーテンの向こうにうっすら見える隼人の背中を見つめていたが、ちっとも動く気配がない。
聞こえてくるのはページをめくる音と雨音だけだった。
今度は爪を切ろうかと思ったけれど、その音が彼の集中力を妨げる気がしてやめた。
葉月はテーブルから立ち上がってもう一度隼人の姿を確認した。一向に様子が変わらないので『本当に放っておいても大丈夫』と確信し、そっとベッドに腰をかける。
フランスに来て買ったファッション雑誌が枕元にあったので、葉月も読書をすることに決めた。
夜勤の前の晩に見ていた『マニキュアの特集』記事の続きを読む。
色とりどりの綺麗な色を見ているだけで、心が和んでくる。
(あ〜あ。パイロットでなければ他の女の子みたいに塗れるのに)
葉月はふとそう思う。化粧は自分の好みで薄化粧なのだが、マニキュアはやっぱりちょっとは塗りたいと思った。
しかし葉月の場合、ごつくて分厚いグローブをして硬い操縦桿を握るので、塗ってもスグに剥げ落ちるから意味がないのである。
それでも『帰りにパリで買おうかな』と思う。だけれど、いつもそうして買い込んだ数々のマニキュアは、インテリアのように飾るだけで終わってしまう。
それを甥っ子の真一が『キレイ、キレイ』と言って眺めたり、面白半分に自分の爪に塗るオモチャになったぐらいだった。
洋服は興味がない。気に入ったものが目に付いたときだけ買う。探す暇などないし、制服で事足りる日々だからだ。
母親の『登貴子』が女親ゆえそんな葉月に呆れては、『見つけたのよ。着てね』と、よく洋服を送ってくれるが、部屋着以外は殆どクローゼットの中に『お蔵入り』で、ほったらかしだ。
そんなことを思いながらフランス語を読むうちに、また眠気が襲ってきた。
はっきりいって雑誌は『文字』で見るより『視覚』で捕らえるタイプなのだ。
だから何処か気を遣うフランス語は読むのは疲れるし、内容も正直なところ葉月にとってはただの時間つぶし。
お腹もいっぱいだし、マスターのお茶の効果はまだ身体に効いているようだ。
外からは雨の音が規則正しいリズムのよう。母親の心臓の音に似ている。
あくびを一つして雑誌にもう一度集中しようとしたが──とうとう、うつらうつら。ハッと気が付いてカーテンの向こうに振り向く。隼人は丁度、一冊読み終えたのか積み上げている束からもう一冊手にし、間を置かずにまた黙々と読み始めていた。
(彼がいること、忘れそうだった?)
葉月はうっかりウトウトしたことに驚いた。
また『男性がいるのに』と、警戒のなさを叱られるとことだ!
もう一度、目に力を込めて雑誌に目を向けた葉月だが……。
なんて心地の良い音達と静けさと空気なのだろう?
どうしてなのだろう?
ぜんぜん……不安じゃない。むしろ……。
(いいの? ほんとうに、これで……)
今度、葉月は気がつかぬ内に横になってしまったようだった。
・・・*・*・*・・・ ・・・*・*・*・・・
窓辺にはうっすらと日が射し込んでくる。雲間からも光が降りてきた様だった。
遠くの水平線にはやっと顔を出した太陽が、もう沈もうとしていた。
隼人は二冊目を読み終えて三冊目を……と手に取ろうとして、やっと外から雨音が聞こえなくなっていることに気が付いた。
そこで集中力がとぎれる。
ふと周りを見渡すと葉月の気配がちっともない。
ソファーから立ち上がって腰を伸ばして伸びをする。
振り向くとカーテンの向こうが光が射し込んでうっすらと透けていた。
その柔らかな光に包まれているカーテンにそっと近づくと、その柔らかな光の中、彼女が寝ていることにやっと気が付いた。
(本当に俺をほうってくれていたんだ)
隼人はちょっとばかり、自分も彼女を放っておきすぎたかと反省をした。
柔らかいベールのようなカーテンをそっと開けてみる。
ベッドの上でまるで猫のように丸まって枕を抱えていた。
(不用心だな。まったく……)
これが下心ある男だったらどうするんだ? とまた呆れた。が、安心されて寝付かれるのも『信用』の証かも知れないと、隼人は栗色の髪をシーツに広げ、すやすやと寝入っている葉月を見てなんだか微笑みがこぼれてきた。──なんていうか、悪戯に駆け回って周りを引っかき回しておいて、寝てしまえばなんてことないただの女の子じゃないか……なんて。そう思える無防備な姿が、妙に彼女じゃなくてでも彼女らしくも見えて可笑しかった。
丸テーブルにはきちんと女性らしく化粧品と鏡、そして櫛などが並べてある。
クローゼットの外側には、いつも着ている制服がハンガーに掛けてある。
それだけの間に合わせの生活をしているようだが、彼女がやっぱり女の子なんだと窺える空間だった。
あんまりよく眠っているのでこのままおいとますることにしようと思った。
ただちょっと外が気になるので足音がフローリングの板張りに響かないように、そっと抜き足差し足でおじゃまして窓辺に近づいてみた。
(へえ。結構、いい眺めじゃないか)
隼人は窓辺に広がる日暮れ港町、マルセイユらしい風景に見とれていた。しかし、さて。雨も上がったし、このまま彼女を寝かせたまま帰って、フロントでこの部屋の鍵が開いていることだけ伝えようと、また足音を忍ばせる。そうして──帰ろうとしたのだけど。今度はどうしてか、そこで足が動かなくなり葉月に見入ってしまった。
じっとベッドの足元でたたずんでしまい眺めていると、今日の彼女は本当に年頃の女性だった。
いつもはがっちりした軍服に身を包んでいて体の線が出てないせいか、柔らかい生地のワンピースで寝ている彼女の姿はとても淑やかな女性。きっと、本当に下心ある男だったらここで放って帰らないだろう。そう思うくらい。彼女が綺麗な女性に見えた。
窓辺から差し込む夕日が葉月の栗毛をハチミツ色に所々反射して輝いている。
彼女の寝顔はどう見ても隼人よりずっと若い女の子。
彼女の恋人ならやっぱりこんな風な姿を見たら『閉じこめたい』と思うだろう。
「う……ん」
日射しが目に入ってきたのか、葉月が枕を放ってそっと寝返りを打った。
目が覚めるのなら挨拶ぐらいしようと、そう思って隼人は、ちょっと恐る恐る一歩前に踏み出した。
だけれども。葉月は仰向けになってまたすやすやと、寝息を立て始めてしまった。
『まったく。のんきなお嬢さん』だと隼人も苦笑い。
その時、寝返りを打った葉月が寝ぼけた猫のような声で唸りながら、柔らかにゆっくりと左手をシーツの上へと投げ出した。
夕暮れる日差しの中、ハチミツ色に輝く彼女の栗毛の上、透き通るような白くて、そしてほっそりとした女性らしい線の腕が綺麗に伸びる。
その拍子に、彼女がワンピースの上に羽織っていたショート丈の薄いカーディガンがふっと肩と胸元からはだけてしまった。
その時……! 隼人はハッとした。
そのノースリーブの肩から、ちょっと目を疑いたくなるようなものが見える……!?
今、眼鏡をかけているから間違いない。見間違いじゃない。
はだけたその肩に──。
赤くもないが彼女の白い肌とは色合いも質感も異なる縫い目のような線が目に付いたのだ。
それは間違いなく『傷跡』だ。隼人はそれが『傷跡』だと判って身体が硬直した。
何も考えずに、隼人はそっと葉月のそばに近づいていた。
上から見下ろすと葉月の左肩から胸元にかけて、確かに『傷跡』がある。すべては見えないが、その傷の長さ太さのそれは『怪我したものではなく、引き裂かれた』ものだとしか思えなかった。
心臓がヒンヤリと固まるような衝撃が隼人に走った。
(何故──!?)
航空訓練ではこんな怪我をするはずない。他の訓練でしたとしても、彼女の傷は『誰かに刺されて引き裂かれた』と言うようにしか見えない。
他にあり得るだろう『加害者がいない想定』も考えたが、そうとしか思えなかった。
傷の具合から見ても最近のものでない。『古傷』の様で、それは既に彼女の肌と同一化し張り付いて離れない『異生物』のようにも見える。
葉月が時々暗い眼差しを伏せる訳。時々妙に悟りきった顔をする訳。なんだかこの傷と関係があるような気がした。
隼人はそっと、そっと……。葉月の肩にカーディガンを羽織らせ、その傷を隠した……。
そして急に力が抜けてきて、隼人はベッドサイドの床にひざまずいた。
(こんなに安らかに眠っているのに)
やっと解った気がした。
彼女はやっぱり『軍人』として生きていかねばならない何かがあるのだ。
そして、そうして生きてきたんだと初めて思った。
テキストに書き込まれたメモにはそんな気迫すら感じさせられていたのだ。
『止まると息が詰まりそう』──そう思って彼女はただ前に向かうだけだったのだろうか……!?
隼人はシーツに広がっている葉月の栗毛の毛先を、シーツの上でそっと撫でていた。
この前と変わらない手触り。
しなやかで優しい。けれどもう、どこか優しいだけの手触りでもなくなった気がした。
どこかしっとりと湿った重さを感じる。ここにきっと幾分かの涙も含ませてきたのではないだろうかと……。
そうして葉月の寝顔を見守るように、暫くはそこを動けず、隼人は葉月を眺めていた。