『身体を動かしていると何も考えてなくていいから……』
『私。止まると息が詰まりそうなの……』
自宅に戻った隼人は、ベッドにて寝付き前の読書をしていた。
このアパートも石畳みの歩道に面している。
海は建物の隙間からチラリと見えるぐらいだった。
(彼女。何を考えているのだろう?)
今日の帰り際に見た葉月の一つ一つの表情を思い出しながら、解ったようで解らないもどかしさを感じていた。
恋人がどんなに強く愛してくれても。恋人がどんなに理解してくれても。
彼女が行かなくては息が詰まる道とはなんなのだろうと。
仕事も理解してくれた。忘れられぬ男の事も受け入れてくれた。
つい最近別れた彼は少しばかり気障そうなヤツだったが、この上なく彼女を大切に思っていたのは確かの様だ。
そして彼女も支えにして大切にしていきたい意志はあったようだが──何が、彼女を追い立てているのだろうかと。
(まあ、いいか……。俺が考える事じゃない)
恋人がどうしようもなかったのだから、一緒にいるだけ出逢ったばかりの男にはどうにも出来ないこと……。隼人はそう思い、ベッドサイドの灯りを消して横になる。
少しだけ……。手のひらに彼女の栗毛の感触が残っていた。
・・・*・*・*・・・ ・・・*・*・*・・・
翌日──。
週末だがこの日、藤波中隊は夜間当直日であった。
明日は日曜なので代休は月曜日になる。
一日の業務が難無くすぎて、康夫が中佐室に戻ってきた夕方のこと……。
「康夫。彼女はどうするんだよ? 彼女、当直に出る気でいるぞ」
隼人は、葉月がちょっと席を外した合間に康夫に尋ねてみる。
「いいのじゃないか? アイツらしいじゃん。きっと止めても『出る』と言うぜ」
「でも。彼女はただ研修に来ただけだし……」
いつになく葉月を大切に扱う隼人の様子を康夫が訝しそうにして見つめ返してくる。
「どうしたんだよ? 隼人兄らしくないじゃん」
女にはより冷たい兄貴に康夫は何かしら感じたのか、あの見透かした笑いを隼人に向けてくる。
「べ、別に?」
隼人もスッと顔を背ける。
そして康夫も分かっているのか、呆れたような溜息。そして、何故、彼女を止めないかを話し始めた。
「葉月が嫌だと言っても、今回は俺の方がいて欲しいんでね」
「なんだよ、それ?」
「今日。この後、アイツと飛ぶんだ。滑走路も押さえたし、当直だから今から滑走路は俺の所の管轄だから気兼ねなくやれる」
『滑走路を押さえた』に、隼人はかなり驚く。
そんな滑走路を押さえて、なにを……!?
「な、何をする気なんだよ!!」
滑走路を押さえてまで、彼女と何するんだと隼人は面食らった。
「あ、そうだ。隼人兄のクラスも『見学』させてやってもいいぜ?」
「だから! 何をするんだ!!」
自分の席から身を乗り出し、隼人は康夫に食いついた。しかし彼は“フフン”と鼻を鳴らして『お楽しみ』などと、訳を話そうとしない。
「彼女には話したのか?」
「もうその気だった。ただし。『チョット飛ぶだけ』としか言っていない」
「彼女を騙したのか!?」
「騙さなくてはアイツ相手してくれないと思うから」
騙さなくてはいけない程のことを彼女に押しつけるのか? と、隼人は不安になってきた。
だが、康夫はなんだか余裕の笑みを浮かべて“楽しみ。楽しみ”と一人でウキウキしているのだ。
「生徒達のためになるのかよ?」
「なるよ。メンテナンスの手際でも実践で生で見たらいいさ。葉月の指導のプラスにもなるだろうし?」
結局──。
その『葉月の指導にプラス』と来たので……隼人はため息をついて、寮に帰っただろう生徒達に連絡をしようと内線電話を手にしていた。
あれ? 彼女のプラスになるから──?
隼人は自然に『彼女のため』と言う点で、そうなっていた自分の行動に後になって驚いていた。
・・・*・*・*・・・ ・・・*・*・*・・・
御園中佐との合同訓練と言うことで、康夫のチームが、夕方滑走路に集合した。
「お嬢さん。本当に飛ぶ気か?」
隼人もメンテナンスチームの手伝いに駆り出されていた。
ベージュ色の作業服に着替え車庫まで向かっているところ、葉月を見つけた。
そして既に飛行服に着替えてやる気満々の葉月を見つけて話しかけたのだが、『康夫が何かたくらんでるよ』とも言えずに、ただ彼女の横を追いかけた。
「もちろんよ。本当は他基地の者が研修以外で飛行するのはいけないんだけど。管理元中隊長の康夫がせっかく時間を作ってくれたんですもの。それに、毎日飛んでいたのに、研修に来てから飛んでいないから、腕がなまると叱られちゃうしね。丁度良い運動だわ」
髪を一つに束ねている彼女は、そのするりと流れる一本の栗毛を颯爽と揺らしながら、車庫に向かおうとしていた。
(何があるんだよ〜。参ったなぁ)
隼人にしてみれば、康夫もある意味台風だったりする。
こうと決めたらやり通そうとするのだ。
だから、年上で先輩の隼人がコントロール役に今まで徹してきたのだ。
康夫の企みをばらすと彼に叱られそうだし、彼女に言わないと彼女が何に巻き込まれるか解らない。
隼人は年下の二人に挟まれてどうにもならない状態になっていた。
「地中海の上を飛ぶのは初めて! でも、対岸国が目の前だから、接触しないよう気を付けないとね!」
はつらつとしている葉月は、『動く』とやっぱり活き活きするのだと──隼人は何にも言えなくなった。
「集合!」
康夫の掛け声で、機体を滑走路に出そうと準備中のメンテナンス員もキャプテンがいきなり何を思いついたか訝しそうなパイロット達も、そして突然呼ばれたメンテナンスの研修生達も一斉に集まった。
そして最後に康夫の横に飛行服姿の葉月が並ぶ。
向き合うようにして、一列目にパイロットチーム。
後ろにメンテナンスチーム。
最後の一列は隼人を先頭にして学生達が横に並んだ。
「本日只今から、御園中佐がせっかくいらしてくださったので、共に特別訓練を行う」
『ラジャー』と皆が一斉に敬礼をする。
「ご存じの通り、御園中佐は女性ながら立派な腕前をお持ちのパイロットである。一昨年、既に『航空ショー』も体験しておられて、若手で注目を浴びているコリンズ中佐のチームに所属している。その彼女に今日は実践的な視点からのご指導を賜ろうと思う」
康夫の紹介で葉月が『よろしく』と軽い敬礼をした。
康夫の若いチームはまだ、目の前のお嬢さんが『アクロバット』をするパイロットとは信じがたい様子だ。
「そこで──。先日、俺が島まで行って一緒に練習してきたその『フォーメーション』をこの藤波チームでも活かそうと思い、ここ最近の課題にしているのだが──。これが正直なところ、『まったくなっていない!!』。これでは、今年もフランス基地の『航空ショー』はよそのチームにさらわれていく!!」
康夫がいきなり大声で怒鳴ったので皆がビクッと背筋を伸ばした。
特に、隼人の横に並ぶ若者達は本当の訓練風景とトップの怒鳴り声に身が引き締まったようだった。
(まさか……! 康夫のヤツ)
隼人は、昨日、非常に苛立っていた康夫の様子を急に思い出した。
負けず嫌いの彼。もしや……! 今年の“ショー”に選抜されたいが為に、今、ここで、そのコリンズ中佐が考えたとか言う難易度の高いアクロバットを葉月を入れてやろうと試みているんじゃないかと。
そう思うと、康夫がかなり焦っているのが解ってきた。
葉月を巻き込むことを昨日思いついて、それで彼女に『帰って休め』などと親切だったのだと。
その上にしっかり滑走路の使用まで押さえている。
昨日、本部員に命令して押さえたに違いないと隼人は思った。
だから絶対に『小言』を言う兄貴の隼人も帰して、その間に他の者に手続きをさせたのだと!
隼人は『やられた!』と思った。
ふと前を見ると、康夫の隣に並んでいた葉月も同じように事の大きさが解ってきたようだった。
「ちょっと待って、藤波中佐。話が違うわ。今日、私が飛ぶのは『ならしでいい』って……」
葉月は康夫の袖を引っ張ってささやいた。
他基地で研修中の葉月は、決まったこと以外の指導をしてはいけないのである。
その上、自分のチームがやってきた企業秘密のようなことを他チームに易々教えることは、コリンズの許可なくして出来ない立場なのだ。
すると、康夫が急に勝ち誇った微笑みを浮かべ、なにやら妙に自信満々な顔だ。
「コリンズ中佐は『出来るならやってもいい』と言ってくれたぜ?」
「それは、キャプテンのあなたが指導する責任があるならって事でしょ!?」
葉月の声が日本語で荒立ってきていた。
「あなた、昨日随分と苛立っていたわね! もしかして出来ないから? 当たり前じゃない! あのフォーメーションをこなすのに私達コリンズチームだってそりゃ苦労したのよ!! 一朝一夕で他のチームに簡単にやられてしまったら私達の立場がないわ。あれは、少しずつ、本当に少しずつ、チーム全員で合わせて最後にやっと通しで出来たんだから!!」
葉月の苦労を語る力説に、負けず嫌いの康夫の顔が痛いところをつかれて険しくなった。
「なんだと? じゃあ、何か!? お前はあれはコリンズ中佐としかできないって言うのか? 一回きりの“お兄様頼り”のまぐれだったのかよ!!」
目の前の中佐二人が日本語で顔を突き合わせての言い合いをしているが、何を言っているか解らないメンバー達はおろおろしだした。
そして今度は隼人に視線が集まる。
日本語が解るならどうにかしてくれって所らしい。
(まったく!!)
隼人が前に進み出したので皆はホッとしたようだった。
この場合、康夫が悪い。お嬢さんが言っていることが正しい。
それが、隼人の判断だった。
だが隼人が二人の目の前に来て、一言口を挟もうとした時だった。
「どうやら『お嬢さん』は『島のお兄様』がいないと怖くて飛べないらしいぜ? 航空ショーはまぐれだそうだ!? こんな女にお前ら負けたくないだろ!」
なんと──。今度は葉月を煽るために、フランス語で大きく喚いたのだ。
そこだけフランス語で言われたら、他の者は『お嬢様が怖じ気づいて飛ぶのは嫌だ』とごねていると簡単に思わせてしまうではないか!?
「コラ! 中佐!!」
隼人は今度こそ止めに入ることが出来たのだが、そんな康夫の隣にいる葉月の目が燃えさかっているのに気がついた。
見たことない『闘志の輝き』──。
隼人は、ヒヤリとして言葉を失ってしまった。
このようにたきつけられては、チームの威厳を守るためにも『島の中佐』のプライドとして引き下がれないと言ったところらしい。
だが、ここで彼女まで止まらなくなっては困る!
「二人とも、落ち着けよ」
葉月が康夫のように点火しないうちに、隼人は慌てて間に入る。
二人の間に入ってお互いを引き離したのだが……。今度は康夫ではなく葉月に軽く突き飛ばされてしまった!
「いいわ。条件があるの」
「お嬢さん! やめろって!」
「なんだよ。言ってみろよ」
康夫は葉月が乗ってきたのでニヤリと彼女を見下ろした。
「まず、一対一。つまり、私とコリンズ中佐がやった上空急降下。滑走路上でクロスするフォーメーション。これを私とあなたですること。これが出来なくちゃ他の機と一緒に飛ぶことは責任上危険だから」
「いいぞ。お前とコリンズ中佐の『それ』が一番の難関だからな」
「なに言ってんのよ。私たち二機は四対四機がクロスする寸前の間を抜けてさらにクロスしたのよ。そんなの、あなたが指導しきれていないチームに任せられないわよ。挟まれて機体が衝突して、十機全部が爆破する危険があるんだからね!」
葉月のもっともな言葉に康夫が悔しそうに唇をかみしめた。
静かになったが、二人の間には激しい火花が散っているのが分かる。
「ちょっと待った! 二人とも本気か!?」
隼人はライバル心に燃えた二人があっというまに『実行』しようとしているので慌てて止めに入ったのだが……
「責任は俺が……」
「私が…」
『取る!』──。
二人が瞳を輝かせて口を揃えたので、さすがの隼人もグッと引き下がってしまった。
「よし! 俺と中佐が飛ぶから、他の奴らは見学だ。いいか、『島仕込み』をしっかり見ていろよ!! 彼女に出来て、お前らが出来ないって事ないんだからな!!」
康夫がチームメイトに檄を飛ばした。
葉月は乗ろうとしている機体に既に向かっている。
隼人は彼女の後を追いかけた。
「中佐! 待って下さいよ!! こんなの無茶だ!! もし事故でもあったら……! この前、聞かせてもらったコリンズ中佐の『アクロバット』は聞いただけでも危険だ! 康夫とは島で、手合わせでもしたのですか?」
真っ直ぐに突き進んでいく彼女の背に向かい、隼人は必死に叫んだ。
すると、彼女がやっと立ち止まり肩越しにひんやりとした眼差しで振り返る。
「していないわ。康夫はコリンズ中佐と手合わせしたの。つまり『御園機の役』でね」
葉月はそれだけいうと、一本に束ねている長い栗毛をヒュルリと流し、冷たい顔でどんどん機体へと向かっていく。
隼人はその迫力に気圧されつつ、気を強くしてもう一度追いかけた。
「だったら、より危険だ! やめるべきだ!!」
するとまた彼女が振り返る。
今度はあの不敵な微笑みで瞳を輝かせて……。
「さっきの康夫の言葉聞いた? 『女の私に出来てお前達に出来ないはずない』って。つまり。康夫は私が出来るところをメンバーに見せて彼等を『俺達にも出来るはず』と煽るつもりなのよ。『事故』にならなきゃいいんでしょ。大丈夫よ」
彼女が動くと本当に輝く──。
隼人はその勢いに圧され、今度は追いかけずにそこで立ち止まってしまっていた。
「それより、大尉。研修生達に『ストップウォッチ』でも持たせたらどう? 滑走路離陸だからカタパルト発進じゃないけど、先輩達の手際とやらを感じるいいチャンスだと思うわよ? 先輩達も研修生に時間を計られてると思ったらいつも以上の手際を見せてくれるかもね?」
にっこりと微笑む葉月の『さらなる考え』。
その考えにも隼人はぐうの音も出なくなってしまった。
「メンテナンスキャプテンにお願いするのも『教官の仕事』でしょ」
葉月にしつこく引き留めるのを上手い具合に払われてしまい、隼人は彼女の指示もごもっともなので引き下がるほかなくなってしまった。
「わ、解りました。中佐。お気を付けて……」
敬礼をして、彼女を見送ろうとする。
すると、葉月が深緑の飛行服の胸ポケットから何か取り出した。
「新しいお守りよ」
彼女がニッコリと微笑みながら手にしていたのは、昨日、隼人が拾い上げた『緑の葉』だった。
『落ちるように例えるなよ』
彼女が──空を飛んでも落ちないようにとお守りにしてくれた事に、隼人は驚いた。
「じゃぁね」
背中を向けて肩越しに手を振る彼女。
そんな彼女が、今日は『じゃじゃ馬』と『弟』とか『若様』とか……?
そんな若葉のような少年らしさと共に、颯爽とした潔さを隼人は感じた様に思えた。
彼女は前に立ち向かう。
息が詰まらないよう…。
やっと……そんなふうに見えた。