・・フランス航空部隊・・

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23.緑の葉っぱ

 「あぁ、くそっ!」

 訓練から帰ってくるなり、康夫が荒れていた。
 康夫の席を借りて雑務をしていた葉月も、パソコンをいじっていた隼人も手元を止めて顔を見合わせた。

「どうしたのよ?」

 葉月が首をかしげて尋ねると、康夫は葉月を恨めしそう睨む。
 そして、入ってきたばかりの中佐室から本部事務室へと出ていってしまった。

「変なの?」

 葉月は両手の平を宙に向け、隼人に見せてくる。
 隼人も同じ仕草で『さぁ?』と苦笑いで返した。

 しばらくして帰ってきた康夫は、既にいつもの血気盛んな彼に戻っていた。
 それどころか、また、いつもの見透かし笑いを浮かべて葉月を見下ろしたのだ。

「な、なに?」

 葉月は、何か察したのかその笑顔に、おののいている。

「さあさあ、お前はもう帰っていいぞ。今からこの席は俺が使うから、どけ、どけ。ホテルに帰ってゆっくり休め!」

 康夫は急に元気になって、葉月が書き込んでいた書類を勝手に片づけ始めた。

「なに? なんのつもり?」

 いつもどつきあいばかりしている同期生が、親切なのがよけいに疑わしい様子だ。

「隼人兄も、もういいぞ。明日の週末は夜勤だからな」
「そうだけど……」

 だいたい三人揃って切り上げて退出していたから、 二人はそう思って、康夫が帰ってくるのを待って、作業をしていたのに……。
 この日の康夫は無理に二人を帰そうとしていた。
 隼人が葉月を見ると、彼女も戸惑った顔を向けていた。
 だけど、康夫は『さあさあ。お疲れ様』と、しつこいぐらいに勧めてくれる。

 本日のやるべき事は既に終わらせていた。
 だから、中隊長のその言葉に訝しみつつもそうすることにした。

 

・・・*・*・*・・・ ・・・*・*・*・・・

 

 二人は揃って外へ向かう。
 夕暮れの海が見える棟舎の外に出た。

 隼人の自転車が置いてある駐輪所まで二人で並んで歩いていた。

「明日はうちの中隊が当直夜勤だから、康夫も準備で忙しいんだよ。一人で集中したかったのじゃないかな? お嬢さんは出なくても良いと思うけど」
「でも。中隊にお世話になっている限りは、私も出るべきだと思うの」
「相変わらず。熱心だね」

 『息抜きを知らないのかな』と、隼人はそう思って呆れてしまう。
 でも──夕なずみの中。彼女が、焦げ茶色のまつげを、そっと伏せた。

「私にはこれしかないから……」

 その妙にしっとりした表情。
 いつもなにを考えているか、分かりにくいのに……。いつもふと見せた表情が、とても印象的な彼女だった。
 その彼女の栗毛が金色に透けて、潮風に流れていく。
 隼人はその髪をちょっと触ってみたい……と、また見とれていた。

 そんな気持ちにふと驚くように、隼人はハッとしてしまい、つい──。

「新しい恋人でも見つけるんだね。そうしたら、こんな仕事だけ。どころじゃなくなると思うな」

 また、天の邪鬼。
 恋人を失ってばかりのこの彼女が、泣きながらフランスに来たというのに……。
 言ってはいけない、なるべく避けるべき話題に、咄嗟に触れてしまうなんてと、隼人は一人反省にうなだれる。
 だけれども、今日の彼女のはムキになるわけでもなく、少し穏やかに微笑んでいた。
 でも──愁いを含むその微笑み。
 その静かさと柔らか、そしてこちらまで切なくさせるような顔に、隼人は見入ってしまった。

「ダメ。私はきっと男の人を幸せには出来ない女なのよ」

 その言葉に隼人は驚く。
 それを言う彼女の微笑みが、途端に歳を取ったような疲れた微笑みにも見えたから……。

「ど、どうしてだよ……? そんなこと言うなよ。もうすぐ26だろ? これからじゃないか」

 これから──なんて、ありきたりかもしれない。
 隼人が困ったように、でも心底彼女の為に言った言葉。だからなのか、彼女は急に元気に笑って髪をかき上げた。

「大尉こそ。人のことを言う前に、ご自分の奥さんでも探したら?」

逆に言われてしまった隼人は、やっぱりいつもの『生意気小娘』とムッとしたが、その元気があれば大丈夫かとホッともした。

「大きなお世話! 俺は一人でも充分楽しいの!」
「私だって。一人が気楽よ」
「なんだよ。『泣いて来た』くせに」

 心配しているのに、彼女の生意気さに、隼人はまた天の邪鬼に彼女の痛いところを口にしてしまう。

「だからよ。もう……人が傷つくのは見たくない」

 また、葉月が大人びた微笑みを浮かべる。

「一人ならば、別れはもう無いから?」
「……かも知れないわね」

 葉月が、海辺の水平線をジッと見つめてそっと微笑む。
 ガラス玉のような茶色の瞳がキラリと揺らめき、夕日を吸い込んでいくようだった。

 そんな彼女の顔に、妙に素直な気持ちに洗われていく気になっていく……。だから、今度の隼人は素直に呟く。

「お嬢さんなら、直ぐ見つかるよ。皆さ、結構、狙っているよ」
「そんなの。いらない」
「でもな……」
「あのね? 大尉。康夫は気を遣って、本当のことに気が付いているのに聞いてこないのかもしれないけど。大尉だから打ち明けるとね……」

 康夫にも面と向かって言っていない打ち明け話と判って、隼人は急に緊張した。

「大佐が亡くなったのは昨年の春。それから半年してから『彼』が出来たの」
「え! そいつと今も付き合っているとか」

 彼女が首を振った。既に終わった話らしい……。
 だが隼人は思った。やっぱりこの嬢ちゃんは男がほうっておかないのだと!
 フランスに来た時にはあんなに『大佐が、大佐が』と泣いていたのに。半年しか経っていないうちに彼が出来たなんて、どういった神経だ? と──。かなり彼女に絶望すら感じた。

 だけれど、葉月はそう思われることも覚悟の上か、怖じ気づくことなく話を続けた。

「彼、助けてくれたの。私……大佐が亡くなってチョット荒れていたから」
「荒れていた……?」
「大切な合同訓練で倒れるほど。夜……走り回っていたのよね」
「それは? 夜遊びを、ということ?」
「そう。車を飛ばしてね。お酒飲んで、すれ違った島の走り屋と意味ない喧嘩してね。大佐が毎日来ていた自宅にいられなかったの」
「そんなに……?」

 彼女が、こっくり頷く。
 そんな自分の過去の姿を悔いているように──。

 隼人は、ここに来るまでそれなりに彼女は泣いていたんだと掛ける言葉が見つからなくなった。
 お嬢様で、ただ部屋でメソメソと泣いていたのかと思えば? 『車、お酒、喧嘩』と来た。結構、感情的? やっぱり、じゃじゃ馬らしいかと唸った。

「その合同訓練は他の中隊と一緒にするんだけど。機体に乗る時間に来て、とうとう夜遊び寝不足のツケが回って、身体が動かなくなったの。その時、彼が助けてくれたの。探し回っていた皆に向かって、彼──『僕が突き飛ばして、彼女は手首を痛めました』──と。手首を痛めたら操縦管が握れない。彼が罪をかぶって私は格好悪い中佐にならなくて済んだの」
「それがきっかけか」
「きっかけ……。その訓練は大佐が亡くなって二ヶ月くらいの時。その後スグお付き合いした訳じゃないの。実は、彼がずっと私に好意を持っていたことは知っていたの。『達也』のこと知っている?」

 彼女が穏やかに微笑んで茶色の瞳で真っ直ぐに見つめるので、隼人はまた余計なことは考えず素直に『ウン』と頷いた。

「達也と付き合っていたのも知っていると思うけど、付き合っている時、彼がいつも言っていたの『アイツは絶対にお前に気がある』って。彼は私たちよりずっと大人の人なんだけど。もちろん、今度は独身よ? 遠くからいつも私を見ているって、達也がやきもち焼いていたぐらい。男性が突っ込んできて私がそっぽを向けば達也もそれで『一人消えた』と言っていたけど。彼はそんな向かってくる男性じゃなくて、大人しくて、控えめで大人だったから。遠くから見て、時々気を遣ってくる彼が、そうして息長く距離を保ったままなのが、達也は気に入らなかったみたい。そんな人だから……。キッカケが出来ても彼は直ぐには私に言い寄ってこなかったの。その後もいつも通り──遠くから距離を保ってくれて。でも、前よりずっと……見られているって私も気が付いていた」
「それで……?」

 隼人は彼女がいつになく自分のことを話すので『これは聞いてやるべきだ』と、耳を傾けた。
 すると、葉月はチョット照れくさそうに俯いて、側にさしかかった木の葉っぱをつまんで隼人に背を向けた。

「私が、合同訓練でそんなになったから夜遊びをやめた頃。彼がやっと近づいて来たの。私は、彼の好意を知っていたからよけいに頼っちゃいけないって拒んでいたんだけど。大佐のことも忘れられないし……。だけど彼、私が夜遊びしていたの知っていたんですって。それに大佐のことも。『それでもいい。もう今のハヅキは見ていられない。お願いだから頼ってくれないか』と……。それでもやっぱり拒んだんだけど…。あの大人しい控えめな彼がその時ばかりは強引だったわ。『悲しい女を利用している』──私は酷い女だから、そう思ったわ。でも、彼が……『どう思われても、直ぐに捨てられてもいいよ』と言ってくれた瞬間に、私の中で何かが崩れた気がした……」

 (キザな男)

 隼人はそう思った。まぁ、落ち込んでいる女が、ひっかかりそうなものだと、呆れたりもした。
 そんな隼人の様子を知ってか知らずか、それでも葉月は続ける。

「彼がいたから……。なんとか大佐がいなくなっても中隊を管理できたと思うの。どんな時も優しくしてくれたわ。それで救われていたの。キャプテンのコリンズ中佐は私と彼のことは気付いていても知らぬふりをしていたから、康夫はもしかしたらキャプテンから聞かされているかも知れないわね。別れたのは、実は康夫が二ヶ月前に日本に来たでしょ? その直前のことなの」

 葉月は気まずいのか、葉っぱをつまんで背を向けたまま、今度はブーツのつま先をモジモジとさせていた。
 『酷い女の告白』だからだろう。男も女も本当の意味で繋がった訳ではない、そんなお互いの心の隙間を埋める為だけの……。
 だけど、葉月の俯いている横顔を見ていると……やっぱり哀しそうだった。
 それはそれで彼のことを、想っている顔に……隼人には見える。
 そのどこまでも優しかっただろう彼に、甘えていた時の顔なのだろうか?
 見ているこっちがドキッとさせられた……。

 さっきまでは、彼女も結構、男と軽く付き合うのだと呆れたが。
 彼女の様子ではそれぞれが真剣だったけど上手く行かない。と、言っているようで『非難』する気が失せていた。

「それ、つい最近だね」
「そうなの。別にいいの。私が悪いんだから」
「そこまで、話したなら教えてくれる? どうしてその彼と別れたの?」
「だから、私が悪いの。彼、辛抱強く私が一心に見つめてくれるのを待っていてくれたの。私は、大佐は忘れられないけど……。向き合い始めてからは彼のことは必要だったし、大切にしていきたいって思っていたの。だけど、春になったくらいから彼が……。気付いたのよ、本当の私に……」

 そこで背を向けていた葉月が手にしていた葉を、プチンと静かにちぎった。

「本当のお嬢さんに?」
「そう。私が本当は誰も信じられない女なんだって」
「どうしてだ? 康夫だって、雪江さんだって、そのコリンズ中佐だって──。それに、遠野先輩のことも。みんなのこと信じているんだろ?」

 その中に、こうして打ち明けてくれる『俺』も……!と、隼人は心でつぶやきつつも、『誰も信じられない』という言葉に内心ショックを受けていた。

「それは『人』としてならね。私が言っているのは『異性』の事。だから、大佐にも素直になれなかったんだし。彼はそこに気が付いたの。彼、最後に私に言ったの。『待っているから、戻っておいで』と──」
「なに? 彼から別れを?」

 葉月がまた、頷く。
 ちぎった緑葉をみつめながら、先程よりも重く、頷く──。

 その恋人とやらは、彼女が自分ではない他の男性を好きになったわけでもないと分かっているし、大佐を忘れられないことも受け止めていた。
 その恋人が、まるで葉月が何処かに行ってしまうかのように、別れを切り出したと聞いて隼人どんな心理なのかと困惑した。

「だから、私がいつまで経っても『全開』にならないから──。彼は、こうも言っていた。『僕と中佐。どっちを取る?』とか……」
「それは、彼の勝手じゃないか? 男が女の仕事に嫉妬するというものでは?」

 ありきたりな経過じゃないか。と、隼人はそんな男と彼女は合わないと思った。
 しかし。葉月は首を振った。

「彼が言いたかったのは『葉月は軍人であるべきだ』と言う事。今はその軍人に専念したそうだよ、と……。でも、彼は私の仕事はいつも応援してくれていたの。戦闘機に乗る私が好きって言ってくれた。このまま一緒にお互い仕事して頑張ろうって。でも、その仕事をする上で僕は邪魔なんだって。だから。彼は私が今の中隊管理が落ち着いてそれでも僕が必要だったら“待っている。戻っておいで”と、言ってくれたの。それから、逢っていないの。基地の中でも彼の姿は滅多に見かけなくなって、避けられているようで……。それで、多分もう元には戻れなくなったと私は思っているの。彼は待っていてくれているかも知れないけど……」

 葉月がやっと振り返った。
 そっと浮かべた微笑む口元に、ちぎった葉を近づけて指でくるくる回している。

 無理な微笑み。
 隼人はそう思う。

「なんだ、だったら帰国したら彼と仲直りしろよ。今度はもっと甘えたらいいじゃないか。男はそういうのは結構、待っているものだよ」

 すると葉月がまた微笑んで首を振った。

「ダメ。また彼を苦しめるから。きっと、一緒に進んでいきたいのに、私の進むところがあまりにも違う所なのだと、彼は気付いたのよ。私、ダメなの。『偉くなりたい』とか『上に行きたい』とか、そんな理由で軍人になった訳じゃない」
「軍人になった訳……?」
「ウン。ただ。何かしたかったの。何かを忘れるくらい……。何もかも忘れたいくらい、夢中になりたかった。そんな生き方が、恋人の自分より葉月には大切なんだって気づいたのだと思う」
「恋人と仕事をしながら進むよりも『大切な道』?」

 隼人には解らない。
 彼女の『そんな生き方』とやらが……。

 だけど、彼女は口元で、葉っぱをくるくる。
 まるで何かの呪文をかけるように、回している。

「そう。私は……止まると息が詰まりそうになる」
「息が詰まる?」
「息が詰まるの。私は『異性が望む女にはなれない』のだと、その彼と別れた後に気が付いたの。だから、大佐の時も何処かで彼を幸せに出来ないと思っていたんじゃないかと、もちろん、生きて帰ってきたら、今度こそと、思っていたんだけど。次にお付き合いした彼も結局、満足させてあげられなかった。だから、そういう訳なの……。もう『異性とはお付き合いしない方がいい』のだと」

 これから、結婚を望む年頃の女の子がこんなに割り切っているのは初めて見た。
 隼人は、この前からずっと感じて仕方がない。彼女が何かしら背負い込んでいるような気がして。

「それが──“男嫌い”の訳?」

 そう尋ねると、彼女はまた僅かに微笑んで、指でつまんでいた葉を落とした。
 葉が頼りない軌道を描いてヒラヒラと彼女の足元に向かって落ちていく……。

「私って。こんな感じ」

 その葉が地面に落ちていくのを、彼女はなんだか切なそうに見つめるので、隼人は堪らなくなってきた。
 身をかがめて、隼人はその葉を拾い上げる。

 そして、彼女と向き合った。

「そんなふうに。自分のことを『落ちていく』様に例えるなよ」

 緑色の葉を、隼人はそっと葉月に握らせた。
 その時の彼女の……驚いた顔。

 でも、直ぐに夕なずみの中、柔らかい笑顔を浮かべてくれた。

「“男嫌い”はまた別の理由。またね」

 急に葉月が、小さい女の子のように微笑んだので隼人はドキリとしてなんにも言葉がでてこなくなった。

「いいよ。またね」

 すると、彼女が瞳を輝かせてニッコリと微笑んだ。
 初めて彼女の愛らしい笑顔を見た気がして──。
 隼人は、気持ちが赴くままに手を伸ばし、ついに彼女の栗毛をそっと撫でていた。

「はっぱ。有り難う」

 ちょっとはにかんだ彼女が、緑の葉っぱを指先でくるくると回す。
 初めて触れた彼女の栗毛は柔らかく、手触りがとても優しかった。

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