・・フランス航空部隊・・

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7.ランチ

 

 眼鏡の彼につかまって、葉月は自転車の荷台に乗っている。
 そしてついに基地の外へと出てしまった。

 彼を背中から肩越しの顔をじっと眺めて見る。
 綺麗な直毛の黒髪。爽やかな初夏の太陽の下にでると、彼の黒髪は艶々と照り輝く。歳はいくつくらいなのだろう。あの落ち着きから見ても、二十代半ばの葉月よりはずっと大人に見える。

 その時、ふと……。途中から感じていた『どこか見覚えのあるような笑顔』がなんであったのか、葉月は徐々に判ってきたような気がした。
 きっと『義兄』のことだと思った。眼鏡の彼は、そんな義兄のような大人の落ち着きと、そして安心感があるのだと思った。
 歳が離れている義兄は、葉月にとっては完全なる『大人の男性』だった。葉月の中で数少ない心が許せる男性の一人、だった。
 ……だった。つまりその義兄は既にこの世にいない。若くして亡くなってしまったから。

 しかし、その義兄には男手ひとつで育てていた息子がいる。
 その息子、実は葉月の甥っ子。つまり義兄の息子は、姉の子。
 これまた残念なことに、姉はその男の子を産んで直ぐに亡くなってしまった。だから義兄が一人で育てていた。
 なのに、その義兄まで亡くなってしまい、甥っ子は一人……。

(どうしているかしら。シンちゃん)

 葉月は日本に置いてきた甥っ子を想う。

 甥っ子は、『御園の子』だから葉月と同じく栗毛だが、父親似のふんわりとした癖毛で、小さな頃は男の子なのにフランス人形のように可愛かった。
 顔は、亡くなった義理兄、彼の父親の方がいかにも日本人的。甥っ子の彼は御園の異国の血を色濃く引いて彫りが深い顔立ち。
 そして甥っ子も、葉月の『四分の一、クオーター』に対して『八分の一、エイティス』とでもいうのか? 鼻筋が葉月に似ていてちょっとツンとしていて、やっぱり何処かエキゾチックな表情。でも瞳は同じガラス玉のような茶色い瞳でも葉月の涼やかなのと違い、義理兄譲りでくりくりした大きな可愛い瞳をしている。

 そんな甥っ子は今は十五歳。もうすぐ十六歳になる。葉月とは叔母と甥っ子であっても、十しか歳は違わない。それはどこか姉弟のような感覚になることも……。
 彼は今、葉月と同じ小笠原にいる。

 そんなことを思っているうちに、小笠原に置いてきた可愛い甥っ子が急に気になってきた。
 甥っ子は、亡くなった父親を見習って軍医を目指すべく、葉月がいる『小笠原基地』の中にある『医学訓練校』に在籍していてた。
 訓練生は殆どが『全寮制』なので甥っ子は寮で日頃は暮らしている。
 時には、週末などは外泊許可をもらってきて葉月の自宅に泊まりに来ることもある。
 幼くして両親を亡くしたせいもあって、甥っ子の『真一』は母ともよく似ている葉月に、それはよくなついているのだ。

『葉月ちゃん! 二ヶ月もいないの?』

 研修や出張に行く度に甥っ子はふてくされる。
 十五歳になっても両親がいない彼は未だに無邪気なままだった。

『夏休みがあるのに何処にも一緒に行けないじゃん!!』
『フロリダのお祖父ちゃんが何処か連れていってくれるわよ』

 葉月の父親、中将の『亮介』は、長女が残していった初孫を、それは目に入れても痛くないと言う程に可愛がっていた。
 葉月の両親……つまり、真一の母方の祖父母はアメリカを拠点に働いていたので、真一は父方の祖父母に預けられて日本で育った。

 十三歳で『島』の基地へと『予備訓練生』(普通に例えると中学課程と同じ)として入学するまでは、父方の『谷村』を名乗っていたが、軍人生活を心に決めたので『御園』に姓を改めた。
 その方が、軍人としては血筋が良いから……と、いうのが大人達が決めたことだった。

 『谷村』と『御園』両家は近所同士で鎌倉にその家がある。
 『谷村』の真一の祖父は『内科開業医師』であって、つまりのところ、真一は医者の家系育ちでもある。
 『御園』の鎌倉の実家は今は、国際派の長男に代わって、葉月の叔父・横須賀訓練校校長で准将の『京介』が守っている。
 だから姉と義理兄は幼なじみであったのだ。
 そんな縁で、真一が生まれた。

『もう、イイよ! お仕事なんでしょ? フランス!? じゃあさ。康夫兄ちゃんの所なんだね!』

 康夫は真一を幼い頃から知っていて、可愛がってくれていた。
 真一は葉月が出かける遠いところが康夫の所と安心してくれたものの、やっぱり出掛ける前の晩には無理に外泊許可をもらってまで、葉月の自宅に泊まりに来て『葉月ちゃん、葉月ちゃん』と、甘えっぱなしだった。
 もう……小さいときのように肌に甘えてこなくはなっても、真一にとって葉月は、唯一女親に近い匂いをもっている大人。
 葉月も孫には滅法甘い父のことは言えないほど、弟のような甥っ子は可愛くて仕様がないのは確か。特に葉月は親戚筋では一番の年下で末っ子だから、こんなに可愛い存在は生まれて初めてで、そして今もその気持ちのまま、真一と一緒に過ごすことは安らぎの一つで大切なことだった。
 真一は無邪気ではあるのだけれど、子供の割には妙にしっかりしたところがあって、気まぐれにこんな行動を取る葉月を『あっぶねえなあ』と言い、いつも見張っているような所がある。
 今回も、彼は遠野の死を未だ引きずる若叔母が、異国の地、自分の目の届かないところで『無茶』をやりゃしないかと心配している。
 葉月が任務に出掛けて怪我でもしてこようものなら、彼は泣きそうな顔になって『もう、いっちゃダメ!』と叫ぶ。
 葉月が側で大人しくしていないと、真一は落ち着かないらしい。
 それほど、葉月と真一は一心同体とも言えた。
 葉月の甥っ子の可愛がりようは基地内でも有名な話だった。

「マルセイユは初めて?」

 甥っ子の真一の愛らしい笑顔を思い浮かべてる中、眼鏡の彼が自転車をこぎながら尋ねてきた。
 葉月もそこではたと現実に戻り、目に前に広がるコバルトブルーの海景色で目が覚める。

「初めて──」
「そっか。じゃあ、仕事だなんてつまらないよな」
「そうね。うん、その通りだわ」

 それほどに、綺麗な海の景色が目の間にずっと続いている。
 背を向けている彼の、風に送られてくる声がとても柔らかい。そしてもう、仕事に関わる話も気にならないようだった。外に出てきたから『忘れよう』──そんな彼の声が聞こえそうな爽やかな横顔には、もう、先ほどの木陰でお互いを探り合うような緊張感はなくなっているように感じる。

 葉月も葉月だった。
 こうして男の人の背を頼って自転車に二人乗りしているだなんて……。

 信じられない自分だった。

 でもなんだろう。
 ここに来た時の重い気持ち、いつのまにか忘れていた。
 仕事もない、中佐もない、御園もない。ただの『私』を彼が外に連れだしてくれたような気がしている。
 葉月の独りよがりの気持ちでも、もうなにも背負わなくても良い、本当にまっさらの自分がただここにいるように思えた。

 それが彼のお陰だなんて──。
 この時はまだ感じてもいなかったけれど。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 彼が連れていってくれたのは、海辺に石を積んだ塀が並ぶ坂道の一角にある煉瓦造りの田舎料理店だった。
 そこで上着を羽織っていない二人が店内にはいると、レジにいたマスターらしき年輩男性が、眼鏡の彼を見るなりにこりと微笑み手を振って迎え入れてくれたが、葉月を一目見て驚いている様にも見えた。
 彼の方は、マスターの反応にお構いなし。
 無表情に手を挙げてお返しの挨拶をすると、日当たりのいい窓辺の席へと葉月を手際よくエスコートしてくれる。

 彼が知らない女性を連れてきたせいなのだろうか?  マスターが席に座っても、こちらを物珍しそうな目でまだ見ている?

(彼女でもいるのかしら……? 悪い事したかしら?)

 そう思ったが『プライベート』な話も避けたかった。
 自分が聞き返されるのが嫌だからだ。

 マスターもオーダーを取りに来ても、彼の事を知り抜いているのか、からかいの一言もいわなかった。

「ここに来たんだから、魚介類がオススメだね。果物のソースとの組み合わせが特に。デザートは……今なら木イチゴのシャーベットかタルトかな?」

 地元の人のお薦めは聞くに限る。
 葉月はそう思うので、彼が選んでくれたメニューに同意した。
 フルコースではなく、日本でいう『定食』みたいなメニューだった。

 食事が運ばれるなり、葉月は目を輝かせる。

(おいしそう!!)

 期待以上のひと皿が目の前に現れたので、葉月はつい一人で感激をしていた。

 だが、そこで彼が『くすり』と、微かな笑い声をこぼした。
 葉月はそんな彼が笑ったので、首を傾げる。なにが可笑しいのだろう? と。

「よっぽど、時間を持て余していたんだね。不機嫌は美味しいもので直してくれよ。俺もそうする」

 額にかかるちょっと長めの前髪をかき上げて、彼が面白そうに笑っている。
 どうやら、美味しいものを目にして案外喜びを見せる女の子の調子良さが可笑しかったらしい。

(そりゃね……。美味しいものは裏切ったりしないもの)

 葉月はしらっとした平坦な表情に戻した。
 それにしても……。この人は葉月があれやこれやと言葉にしなくても、表情一つ一つをしっかりと読み込んでしまうと、少しばかり怖くなってきた。
 だけれども、目の前の美味しそうな『誘い』には勝てない。

「頂きます! ほんと、お腹空いたもの」 

 葉月がやっぱり嬉しげにナイフとフォークを手にすると、彼もにこりと笑って食事を始めた。

(うん。うん。おいし〜い)

 葉月は感情表現が上手くできないといわれているから、心の中で一人で喜んでいたりする。
 そこで、彼も『美味い?』と、聞いてくるのかと思えば、ただ、ただあの淡泊な顔で黙々と食している。

 彼が時々『日本は今どう?』とか『マルセイユの食習慣』などについて話しかけてくるだけで、仕事のこと、基地のことなどは一切尋ねてこなかった。
 だから、葉月も気兼ねなく……黙々と食べながら、彼からの他愛もない質問にはいつもの調子で短く答えて話を聞き入って……そんな気にならない時間を過ごす事が出来た。

 彼はカフェオレ、葉月はミルクティーで。デザートを楽しみ終わる頃には、時計は十六時になろうとしていた。
 だが葉月にとってみれば、今日はもうキャンセルに近い仕事状況だし、康夫は解ってくれるという余裕もあって慌てなかった。

「俺……そろそろ戻らないと。いい加減ヤバイかな」

 彼が時計を見て、そうつぶやいた。

「お嬢さんはどうする? 大丈夫かな?」

 『お嬢さん』と呼ばれ、どきりとした。
 葉月の事は、小笠原の基地では『お嬢』と呼ぶ者が多いのだ。
 ちょっとしたからかいでパイロット兄様の中では『嬢ちゃん』と言うものもいるし、将軍の中では『小娘』と呼ぶ者までいる。
 それが本当に嫌とは思ってはいないのだが、時にはあからさまな嫌味に使われて『むっ!』とすることもある。
 特に、初対面の人間にいわれると、速攻嫌味と取れることが殆どだ。
 いつでもどこでも『お嬢ちゃん』。でも彼からは、どうしてかその言葉には抵抗感はなかった。工学科の彼は葉月のことを『若い秘書女性』と思っているわけだし、確かに大人の彼から見れば『お嬢さん』で『マドモアゼル』であるわけだから自然な言い方になって当然か……と。

「私の方は……。定時には上司が戻って来いと言っていたくらいで……」
「そう。俺も、そうは急いでいないんだけどね。空きが出来たとはいえ、明日のことはチェックしておかないと」

 『それでは』と言うことで二人は席を立って、基地に戻る事にした。
 その上、彼がおごってくれたので申し訳なくなってきた。

「あの……私が言い出したのに」
「あ……いいよ。俺の方も良い時間つぶしが出来たし。母国に帰っても日本人に『こんなにされた』とは言われたくないしね」

 彼が優しく笑ったので、その笑顔には弱くなった葉月は何にも言えなくなった。

 

 彼と店の外に出て、自転車に乗ろうとした時だった。
 彼が今まで以上に、葉月の瞳の奥の奥まで覗き込むような真剣な目を見せて言った。

「俺に名前とか聞かないね。どうしてかな?」
「え?」

 葉月は今度こそ、答に詰まった。

「そっちも名前を聞かれたくないから?」

 無表情に冷たい視線が、上から降りてきてさすがに葉月は緊張してしまった。
 そして上手い言葉が見つからない。

「まぁ……いいけどね。こういう付き合いはこれぐらいで、丁度いい」

 彼が一人で結論を出したので葉月はまた、そのままにしておく。

 帰りの自転車に乗って葉月は思う。
 初めて会った男性に、腹立たしさ紛れに強引なお願いをしたのに、こんなにすんなり、嫌な思いもせずに一時が終わろうとしていることを不思議に思った。
 いつも、心の何処かで『令嬢』と言われ『七光り』と言われる自分に構えてどんな人にも警戒していた。
 上着を脱いだって、突っ込まれたらお仕舞いである。
 嘘をつくにも限界がある。
 例えば『日本語をどうして覚えた? フランス語はどこで覚えた?』とか『君はハーフ? 国籍はどこ?』などと聞かれたら、誤魔化しきれない答をその内にしていただろう。

 だけど、彼は何一つ聞いてこなかった。仕事のことも……。
 最初から、そんな雰囲気を感じたから『連れていって!』と、言ったのかもしれない。
 それで、こうして間が保ったこの時間は、葉月にしては『珍しい』──。
 いつもなら、ぎくしゃくした時点で『逃走』だ? それを煙草を吸っていたあの時にやろうと思っていたのに。妙に誘ったのは葉月だったじゃないか。

 なんてことだろう。
 でも、こんな不思議なことも、もう終わり。

──上司にはお互い内緒──

 それを合い言葉に、葉月は基地の駐輪所で、さわやかに、そして笑顔で眼鏡の彼と別れた。
 きっとこれだけのこと。葉月と他人は深く結びつくことなど滅多にない。

 でも、葉月は遠くに去って行った彼の背にそっと呟いていた。

「メルシー。楽しかったわ」

 彼が目の前にいるうちに、ちゃんと目の前で言えればいいのに。
 人に素直に気持ちを伝えられない自分が、いつも情けない。

 

 

 

Update/2007.9.8
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