お互いが、お互いの顔を凝視した状態で見入っていた。
それは『見つかってしまった』という戸惑いの顔。
皆が勤務中か訓練中の昼下がりに、裏庭にいること自体が怪しいのだから。
黒髪は艶やかにぴんと煌めいていて、眼鏡をかけている男性。
くっきりとした目鼻立ちだが、どう見ても東洋人だった。
向こうの彼は、葉月のことを、たぶん日本人とは確信していないのだろう。
(丁度いいわ。御園葉月は日本人だけれど、私と判らないように、フランス語で通しちゃおう)
葉月はそう思って……『ボンジュール』と、それとない挨拶をしてみる。すると彼の方は、戸惑いを隠せない苦笑いを浮かべながら『ボンジュール』と返してきた。
一応、癖なのだが階級を見定めるための肩章を見ようとしたが、彼も上着を脱いでいた。
そこで言葉が止まる。
これ以上、話すことなど当然ないし、きっと向こうも……。
せっかく見つけた気持ちが落ち着いた場所なのに、やはり後から来た自分が去るべきかと葉月は思い巡らせる。
だが気が付けば、彼の方はまだ……葉月をちらりと見ていたりする。その視線に葉月は緊張をしてしまった。
「あ、あなたもサボり?」
葉月は、訓練校で叩き込まれたフランス語で話しかけてみる。
でも『話しかける』など、それはちょっと珍しいことではあり、それだからこそぎこちない声になってしまった。そんな声が出てしまった後で、葉月は自分らしくないことをやっているのだと思い知らされる。
この顔で『日本人』だなんて、ばれません様に……。葉月の願いはそれだけ。
でも目の前の彼はとても硬い表情をしていたのに、少しだけ頬が緩んだようだった。ところが向こうの東洋人らしき彼の口から驚く反応が……。
「まあね。そんなところかな」
なんと彼が口にしたのは日本語。しかも平然とした顔で返してきたので、葉月は驚き面食らった。
その上、じっと葉月の反応をうかがい、何かに構えているようにも見える? 何故だろう?
どうすればいい? そうだ、日本語が解らない振りをすればいい。この『顔』なんだから、不自然じゃない……! そう解っているのに、何故か心はかなり揺り動かされていた。そう慌てているのだ。
適当に言葉を交わして、直ぐに去ろうと考えていた葉月は、次に予想していた『フランス語』が出なくなってしまった。
それにしても、だ! 葉月が問いかけたフランス語が解っていて、何故日本語で返事をする? と、葉月は戸惑う。しかも葉月も日本語が解かるかもしれないという様子を嗅ぎ取ったような顔の彼。せっかく緩んだ頬が、また硬い表情に変わった。
本当は、人と関わるのがあまり好きではない葉月──。
(もうっ。めんどうくさい)
に、逃げよう。
日本語が解らない振りをして逃げよう。
そう思った。それでも、だった。彼が何かを疑問に思っているような目つきで、逃げようとしている葉月を捕まえるかのような追い打ちをかけてきた。
「ここでは東洋人に日本人は珍しくないよ。君は? 俺の日本語、聞こえているようにみえるけれど……」
フランス語しか解らない作戦。通用していない?
そんな顔、一度とてしたことがないつもり……『やりこなしたつもり』なのに。でも、彼には『俺が言った日本語の意味が、ちゃんと分かって聞こえている顔』と判断されている。
葉月は益々、目の前の彼におののいた。
「しかも、ここで煙草を吸う女性も珍しいね。そんな勤務放棄の喫煙女性、この基地にいたかな?」
と、最後に来て、葉月は益々どきりとさせられる。
ここには葉月のような女性はいない。どこから来た? と、いう質問だったからだ。
小笠原から来たといえば、『栗毛の日本人は御園の娘』と繋げられるのを恐れた。
『御園の娘』と判明した途端に、彼の態度が変わるのは嫌だった。……とにかく、なにか答えよう。なにか答えてここを去ろう。頭の中はそれでいっぱい。そして葉月はなんとか言葉を……。
「少しね……。気晴らしよ。こんなにお天気がいいのに、仕事だなんて馬鹿らしいわよね」
本当にそう思っていたから、そう答えた。勿論、フランス語で──。
「そうだね。俺もそう思うよ」
まだ日本語で返してくる! 色無い淡白な返事と共に、未だに彼の視線が固いので葉月はヒヤリとした。
しかし、ここで彼に言われた。
「……気が付いていない? 君、俺の『ここで煙草を吸う女性も珍しい』という日本語の質問に、ちゃんと答えているよ。フランス語でもね」
初めて、彼がにやっと笑った。
しかし、葉月はそれどころじゃない。『や、やられた。やってしまった』と、いつにない失敗を犯したことに、さあっと血の気が引いていくような感覚に陥ってしまったのだ。
……終わった。これで『フランス人の振り作戦』は失敗、『私は日本語OK』が確定してしまった。
葉月はがっくりと……。黒髪の彼がくつろいでいる芝の上に座り込んでしまう。
隣の彼は先ほどまでの固い警戒心はもうなくなってしまったのか、静かに笑っている。
葉月はもう……。恥ずかしくて目も合わせられず、顔を背けたままひたすら煙草を吸った。
「日本から何をしに?」
日本語が通じても、まだ日本から来たとも言っていないのに。彼はもうそう決め付けたらしくて、葉月は『やりにくい人』と再び表情を固めてしまった。
「上司に付いてきただけ。今、上司が仕事中で私はフリー」
今度はこちらが警戒心いっぱい。
固い声。そしてどこか悔しさを滲ませるつっけんどんな言い方に……。
そしてそんな声が出ていた自分にがっかりするのと同時に、そう、そんながっかりしなくてもきっといつもの私もこうなのだから、ここでも取り繕うことないと思った。しかもどう関係もない、余所の基地の人間……。なにも愛想良くする必要だってないはずだと、言い分けた。
「ふうん。じゃあ、君はサボりってわけなんだ」
「そう。正真正銘サボり。だから内緒よ。本当はこんな所にいるんじゃなくて、中で大人しくしているはずなんだから」
また、葉月は冷たく返してしまう。
でも彼の声、とても優しくなった。
とても温かくて柔らかい、穏やかな男性の声。
いつも大声を張り上げて騒々しい軍人男に囲まれてきた葉月の耳には珍しく、とても心地が良い種の音に入る。
だから、ふっと背けていた顔を、彼の方に向けてしまう。
すると、眼鏡の彼がやっとにっこり微笑んだ。
男性と目を合わせるのは好きじゃない……。でも、葉月はその笑顔が何処かで見覚えのある笑顔のような気がして……。ドキリと、ときめいてしまった。
そして彼も、葉月が目を合わせると、その声にぴったりと言いたくなるような優しい顔をしている。
「そうなんだ。通訳? もしかして秘書室所属? それとも事務系秘書科?」
なんて都合の良い『言い訳』を提供してくれることだろうか……。
「え……? ん──。そうなの」
彼のその問いに、葉月は『それは良い言い訳だ』と思いながら、彼がそう思うなら、そういう事にしておこうと静かに返しておく。
秘書室とは、将軍クラスに専属でついている『側近部署』の事──エリートが多いレベルの高い仕事が望まれる。
なのでそうでなければ『事務系秘書科』。女性が多い部署で『通訳ぐらいの付き添い』ならここから連れて行かれる事も多いのだ
すると彼はどうしてか可笑しそうに笑っている。
かと思ったら急に、手元に開いていた本を彼は読み始める。今度はあの硬い表情で。
でも葉月は、その姿にほっとする。自分への興味がなくなったから話も終わったのだと思って。と同時に、彼の黒髪に葉月が吸っている煙草の青白い煙がたなびいたのでハッとした。
後から来たのに、こんなに真剣に本を読んでいるこの人の集中力を邪魔したくない──。
葉月はそう思い、慌てるような指先で、芝が生えていない土の上に吸いかけの煙草をもみ消した。
すると、いつのまにか……。隣に腰をかけていた彼がそんな葉月を無表情に眺めている。
「別に、構わないよ。俺も昔、吸っていて止めたクチだから」
葉月の密かな気遣い。それが通じていたよう……。
また冷たい声に戻っていたけれど、葉月はちょっと嬉しくて一人静かに頬を染めているようだった。
それがどこか……。『ここにいても良い』『気も遣わなくても良い』と聞こえてしまった。都合の良い解釈だろうか?
でもそんな彼は、再び読書にいそしむのだ。
先ほどの、葉月もちょっと気が緩みそうになった素敵な笑顔はどこへやら。
またあの色ない声、固い顔に戻って、黙々と本に向かっている。
そうなると声がかけづらい人に変身してしまうようだと葉月は思ったが、根ほり葉ほり突っ込まれるよりかはずっと楽だと思った。
葉月が空を眺めてぼんやりしていても、隣の眼鏡の彼は邪険にもせずに、黙々とその分厚い書籍を読み込んでいた。
邪魔とか思わないのだろうか? 後から来て隣で煙草を吸っている女。そこまで集中して読んでいるのに、隣にいる存在が気にならないのだろうか。
でも、どうしたのだろう?
葉月はただ空を見上げているのだが、とても気が楽になっていることに気が付く。
先ほどまで『逃げよう』と思っていたのに……。なに? ここに根が張ったように、葉月は座り込んだまま立てなくなっていた。
隣に人がいる『裏庭サボタージュ』は初めて。そしてとても気にならない。それほどに彼がこちらに入ってくる気配がないということ、そして、さらに邪魔にもされていないってこと?
不思議な感覚だった。
いつも人を……避けてきたのに。
そんな彼が気になった。
日本人。どこの部署の人?
休憩中。サボり? 本当はどっち?
(何を読んでるのかしら……)
さすがに葉月も気になって、ふと、背表紙のタイトルを目にして息をのんだ。
「すごい!! それ……フランス語をきちんと理解していないと読めない原本じゃない! 日本人が百パーセント理解するのは難しいのに!!」
彼の部署が判ってきた。
彼は『工学科隊員』! 葉月は確信した。きっと日本の何処かの工学科から留学研修か何かに来ているのだと。そう思えた。
葉月が思わず出した声に、彼も驚きの顔。そして葉月の顔をじっと凝視したまま固まってしまった。
その本は、航空学が特に発展しているフランス国産の『航空工学書』で、葉月がフロリダの特別訓練校で使った教材と一緒だったのだ。
日常会話のフランス語を覚えたくらいでは絶対に理解できない。
フランス人だって、難しいと言っていた『専門書』。
だから、葉月はフランス語を徹底的にマスターせざるを得なかったし、そのようなカリキュラムを選択していた。
隣の彼が、二、三年の転属でここにいるぐらいでは使いこなせない『代物』だ。
しかし、ここは『航空部隊』の基地──。
読んでいる者がいても不思議はないが、日本人が……と、いうのに驚いた。
葉月もそれだけ苦労して使った教材だったのだ。
勿論、それは彼も解っているようだ──だから彼もかなり驚いた様子で、葉月に詰め寄ってきた。
「これ……どんな本だか知っているのかな?」
当然、パイロットかメンテナンサー、または工学科員でなければ知っているはずがない。
若い『通訳専門』の女が知る『代物』でもないのだ。
葉月もここで正体がばれてなるものかと、慌てた。
「あ……ええ。その、上司がね? いつもそう言って見せるものだから……」
「その上司は、パイロット? メンテ専門? それとも工学科? 男性だよね?」
彼の妙に迫真に迫った質問に葉月は眉をひそめたが、つき始めた嘘はつき通そうと思ってとっさに『小笠原連隊長』のことを思い浮かべた。
「も、もちろん男性よ。アメリカ人。金髪のね。パイロットじゃないけど……詳しいの。パイロットの部下も結構いるから」
これは小笠原連隊長に関して本当のことなので、すらすらと言えた。
その途端に、眼鏡の彼が急に表情を和らげた。
「この本はね。空軍にいるなら必読だよ」
葉月は『その通りです』と心でつぶやいて、口では『私の上司もそう言う』と取り繕っていた。
彼が再びにんまり笑った気がして? 葉月は何か見透かされているような気になってドキリと胸を押さえたくなる。
「良く知っているね。そうなんだよね。と、いうことは君は空軍関係の秘書ってわけか」
『うー、空軍関係は避けたい』と葉月は思ったが、とりあえずこのまま彼を、『御園の娘』と驚かす事もなさそうでホッとした。
もうそれでいい。日本から出張となれば、小笠原からだけじゃない。空軍関係となっても横須賀基地に浜松航空基地に岩国基地、そして三沢に小松に沖縄──いろいろある。そこからフランス語と日本語が話せる混血の秘書女がくることなら、別に葉月だけとは言いきれない。
もう、それでいい。きっと彼もそう信じてくれただろう。
さて、思わぬ展開に引き込まれてしまい不覚だったが、今度こそ、さらっと去ろうと葉月は決める。もう、これ以上の『芝居』はごめんだった。
葉月は時計を眺めた。
基地内のカフェテリアで食事をとっていたのなら、もうそろそろ、康夫の元に帰らなくてはならない時間であった。
しかし、何も食べていないし、帰ってもすっぽかされた身では、手持ち無沙汰な時間を過ごすし、その待っている姿は好奇の目にさらされることが目に見えている。そんなのバカみたいだ。
葉月がハァ……と、ため息をつく横で彼はやっぱり黙々と『専門書』を読み込んでいるだけ。
まるで、葉月の存在などお構いなしの様子だった。
それがどうしてか心地良い……。
そんな彼だからかもしれない。
葉月から尋ねてみた。
「あの。ここで安くて美味しいランチが食べられるお店を、知っているかしら?」
葉月は、人目が気にならない外へ行こうと心が傾いていた。
勿論、それは職場放棄に近いことだったが、今は何ら気にもならい心境だ。
すると眼鏡の彼は──。
「そうだね。カフェテリアは安いけど……美味しいとは言えないね」
などと言いながら、隣の彼が本を読みページをめくりながら答えてくれたのに驚いた。
『すごい集中力』と、葉月は唸る。
「行くなら外になるよ。無理だろ? 上司に叱られる」
本を読みつつ囁く彼。
でも葉月は、彼が言った『上司に叱られる』に急に腹立たしさが復活。
「いいの! どうせ今は仕事の真っ最中でこうして私をほったらかしなんだから!!」
葉月は、腹立たしさも手伝って半ば本気を込めて言い放っていた。
すると、彼がやっと本から目線を外した。でも、なんだか複雑そうな表情を刻んでいるので、葉月は首を傾げてしまったのだが?
彼はその顔のまま、カッターシャツの胸ポケットからペンを取り、脱いで木の幹においていた上着からシステム手帳を取りだした。
「基地から東の方になるし、徒歩では遠いところにあるよ。地図を書いてあげるから、夜にでも明日にでも行ってみたら?」
『夜と、明日じゃダメなの! 今、ランチじゃなくちゃ!』と、葉月は心で言い切っていた。
「もっと、近くにないかしら?」
こうなったら葉月は、どうしても外に行きたいのだ。
彼の方もそんな葉月に困り果てたようだったが……。
「美味しくないところはお勧めできない。俺が一番のお勧めはそこだから」
冷たい表情できっぱりと言われたし、それが本当の心遣いだろうと、葉月は彼から頂く情報はそれ以上はない……と、諦めてうつむいた。
それでも彼は黙々と破った白紙に地図を書き込んでいた。そんな彼を見ている内に──。
「いつまで……暇?」
思わぬ事を口にしていた。いつもなら知らぬフリのはずの男性に。
それも、この男性が葉月に素っ気ないし、空気の様だし無表情だったせいもあったからかもしれない。そしてどこか安心できた笑顔……。
「俺? 俺はねぇ……そうだなぁ……夕方まで。俺の方も上司が空けてくれた思わぬ時間でね」
ペンを顎に当てた彼の方も、いやに疲れた表情でため息をこぼしていた。
その上司のことを思うと、仕事に戻るのが嫌な様子。それでサボりに来たのだろうか……?
──が、彼が急にはたと我に返った様子で、葉月を驚き顔で見たのだ。
「あ! それって……俺に『連れて行け』って事!?」
彼が初めて素らしい声を上げて、葉月はその通りに見透かされておののいた。
「あら、強引……よね?」
葉月も本当に自分らしくないことを……と、恥じらって繕い笑いを浮かべていた。
そうしたら、また彼がまたあの笑顔を浮かべたので、心の中の潜在意識を揺さぶられるように葉月は再びドキリとした。
「断ったら……。怒られかねない勢いだねえ」
彼がとても楽しそうに笑いだしたので、葉月は自分らしくない行動に出たが故によけいに恥ずかしくなってうつむいてしまった。
「いいよ。母国から来た女性には親切にしておかないとネ」
眼鏡をかけていた彼が、にっこり。
優しく微笑んで眼鏡をサラッとそよ風の中、外したのだ。
その仕草にも、葉月は柄にもなく、どうしてか胸がドキリとうごめき……。自分でも訳の分からない何かに包まれたような気持ちになる。
ここの風が頬に心地良く過ぎていく。いつのまにか火照っている頬を……。
「さて。それじゃぁ。俺の自転車に乗せてあげるよ」
そうと決まると、いざとなって戸惑っている葉月とは反対に彼は先へと行動を取り始めた。
「実は、俺も昼飯、食っていないんだ」
にっこりとした笑顔を浮かべる彼につられるように葉月が立つと……。日本人にしては結構、背が高い。葉月の頭を優に越している。
葉月はそんな眼鏡を外した彼の後を歩き始めていた。
お互いに上着を小脇に抱えて……。
「日本より暑いだろ?」
そう言う彼が自転車の前に付けている、布製のバッグに上着をしまい込んでくれた。
そうして葉月は、初対面にもかかわらず彼の後ろに腰をかけて遅いランチに……『サボタージュ』に出掛ける事となった。
Update/2007.9.8