薄暗い棟舎を足早に出るようにして、葉月は潮の香りが混じる外へと出る。
滑走路は海辺に沿っていて、相も変わらず騒々しい轟音を響かせていた。
それとは、反対側の裏庭へと葉月は向かうことにする。
そよ風を頬に感じるなり、ベージュグレーの生地に黒い肩章が付いている上着を脱ぐ。
それでも……物足りず、むしゃくしゃついでに上着を裏に返して『中佐』の肩章が見えないようにしてみる。
白いカッターシャツの肩先にワンレングスに伸ばしている栗毛がパサリとはためいた。
タイトスカート姿で、上着さえなければ葉月も普通の二十五歳の『女の子』になれた気になれる。
その上、葉月はヨーロッパ系のクオーターだからこのフランスではよく溶け込めるとも言えるところだ。
皆が勤務中の裏庭が葉月は大好きだった。
昼下がりのこんなお天気のいい日は、『裏庭』に限る。……というくらい。
人の目もないし、おまけに静かだ。
ポプラ並木の裏庭が目に飛び込んで、やっとにっこり微笑むことが出来た。
たったそれだけで、自分のいつもの場所を見つけたような開放感に包まれる。
潮の匂い混じりのちょっと湿気のあるそよ風。六月に入っても、南フランスはもう夏。ポプラ並木の小道に入って、一つ、二つ、三つ……と沿って歩きながら、葉月は日に透ける新緑の葉を見上げる。
『これは立派なこと』……と、感じた木の幹を見つけて葉月はそこで立ち止まった。
その大木の影にはいると、ひんやりとして気持ちがよかった。
空を見上げると、白煙を上げる戦闘機が編成を組んで空高く上昇している。
そうして、いつもガタイの良い兄様パイロット達にもまれる訓練を離れ、若い青年ばかりが所属する主を失った中隊の管理を離れ……。葉月は今、一人きり。遠い異国のこんな所にいる……。
もう……まだ会えぬ大尉にすっぽかされた事など、どうでもよくなっていた。
そんな今さっき起きた事よりも、もうずっと前から心の重りになっている事のほうが大きいからだ。
ここで一息……葉月はタイトスカートのポケットから煙草を一本取り出し、口に挟む。
そして、制服の胸ポケットから、シルバーのジッポーライターを取り出した。
握りしめた銀色のライターの蓋を、親指で跳ね上げる。すると『キン──』という澄んだ金属音が葉月の耳に飛び込む。
いつもの仕草で火を点けて、やっとできた一服に深い溜息も乗せてみた。
──カチン。
蓋を閉めて、ここ一年、このライターをいつまでも見つめてしまうのが癖になってしまった。
このライターには、決して触れない一部分があった。
そこには、葉月の指より大きな指の跡。錆びたような使い込んだ跡がある。
遠野の指の跡だ。
あの日──。
『絶対に帰ってこれるよう。何かお守りをくれないか?』
彼が遠征に出かける日。
彼、遠野大佐は、空母艦に乗り込む前の大佐室で葉月にそう頼んだ。
孤独に生きてきた彼は、会った時からとても鋭い眼をしており、流石の葉月でも何度も怯み、そして、その威厳に畏怖してきた。そんな彼が目尻にしわを寄せて、今までにない笑顔でそういったのだ。
その時、なにも思いつかなくて自分が身につけているものを探っているうちに見つけたのが、昔から親の目も気にせずに煙草を吸っていた葉月に、祖父が冗談で作ってくれた青いスリムのライターだった。
蓋の留め金の所に、旧貴族の家柄である祖母が、その実家からもらってきた衣装箱の装飾に使われていたという、かなりの希少価値がある小さなサファイアをあしらったものだった。
もちろん大佐はそれを知っていたのでとても驚き、『それは……。祖父さんからもらった宝物だろ』と、たじろいだ。
『だから、絶対返して下さい。持って帰ってきて下さいよ』と差し出すと、葉月より八つも年上の男が少年のように嬉しそうに微笑んで、それを受け取ってくれたのだ。
『じゃぁ、これを代わりに……。無いと吸えないだろ? じゃじゃ馬』
そういって、この世で最後に見た彼が、葉月にこのシルバーのジッポーライターを交換で渡してくれたものだった。
ところが、彼はゲリラに鉢合わせてしまい、あっけなく銃弾に倒れて亡くなった。
彼は葉月のライターを握りしめた姿で発見され、その時には息絶えていたと聞く。
葉月のライターには血糊がべったりと付着した状態で、元の持ち主だった葉月の手元に戻ってきた。
しばらくその血糊は拭くことが出来ずに、まるで彼の最期の血とばかりにそっとしておいた。
彼が亡くなって一年経って、やっと拭くことが出来たのはつい最近のこと。
(どうして……? あんなに勇ましいあの人が死んでしまったの?)
葉月はこの一年こうしてふと、闇に捕まって深みにはまる日々を過ごしてきたのだ。
今だって、こうして風の中。
彼も好んで吸っていた煙草の煙の匂いに、彼のぬくもりが残っているこのライターを握ると聞こえてくる。
葉月、葉月。笑ってくれ。帰ってきたら、ずっと側にいてもらうからな。
『女房とは別れ話がついた。だから、帰ってきたら、もう、お前と二人、今度こそ離れないで生きていく──』
彼の最後の熱い声。
なのにそれに戸惑うばかりで、迷っていた自分。
この時『はい』と言えなかった。
でも、遠野は『俺はもう独りじゃない』と嬉しそうに葉月を抱きしめてくれた。
葉月も……。そう思っていた。『私も独りじゃない』……。そう思ったのに。言えなかった……。
『女房とは別れる』──。葉月と遠野大佐はそういう仲だった。
赴任してきた時、三十代の彼には妻と幼い一人息子もいた。
だが、フランス勤務、フロリダ勤務を単身で務めていく内に、少しもついてこようとしなかった妻とは疎遠な仲になっていた。
日本の小笠原に帰国しても妻は離島でなど暮らせないと側に来ることはなかったし、本島で華やかな生活ばかりしていて、夫の遠野は夜遊びに身を投げている始末。
彼が赴任してきた当初、元々他人様のことに関心が薄い葉月だからこそ、上司の所行に呆れはしても、そこは私生活だからと放っておいた。
これで仕事が出来ない男だったら配属をした連隊長に抗議をしてやると言うほど、小笠原赴任当初から女と夜のそぞろ歩きをしていたのだ。
ところが、遠野が本気になったのは無感情でロボットのように働く葉月のほうだったのだ。
『少しは、笑え』とか、『固いだけじゃ仕事にならないぞ』とか。
そういって、葉月の心の固い扉をこじ開けようと、しつこいの何の……。
葉月も彼のふざけた誘いに反抗するので精一杯。
最初はパートナーワークなどひとつもなかったのだ。
しかし、仕事は出来るのに私生活はふざけている上司が、本当は孤独な男というのを垣間見てしまってから、葉月はいつの間にか、強引な遠野を心の中に入れてしまったのだ。
世間では、二人の仲を『不倫』と呼ぶのだろう。
葉月も、彼の妻が美しい姿で島に訪ねてくる度に罪の意識が生まれた。
しかし、遠野のほうが葉月から離れてはくれなかった。
夜のそぞろ歩きはピタリと止んで、妻と離婚の話し合いまで始めたのだ。
遠野は『遠征から帰ってきたら、一緒に暮らせるようにする』と、はりきって出掛けて……そうして、亡くなってしまったのだ。
その上、妻の方は遠野が遠征中に他の男の子供を身ごもってしまい、今は、その男と暮らしていると聞いている。
……本当に、最後まで『孤独な人』。
葉月は、彼が本気になっても、離婚すると言ってもやっぱり無感情な女だったかもと今思っていた。
妻に悪いと思っていた部分もあるが、彼の熱烈な求愛にも、どこかしらポッカリ穴が空いた様に静かな自分がいたのだ。
それに気付いたのが、彼の葬儀の時。
『私はまだ全部あなたに伝えてない。全力で愛していなかった。本当はうんと必要で愛していたのに!!』
心でしか叫べなかった。
彼の棺が火の海に入って、もう二度とその肉体に触れられないのかと思うと、いても、立ってもいられずにしがみついて泣き叫んだのだ。
この時、後輩だった康夫も葬儀には参列していた。だから、彼は葉月の哀れな取り乱しをその目で見ている。だからこそ……今回も……。
その遠野大佐が想い出の中にしまっている後輩が『澤村大尉』と知ってそれが一番の理由で会う気にになった。
つまり……『澤村大尉』の中から『生きていた頃の遠野祐介』を見たいが為に……。
そんな、よこしまな心で来た葉月から、見込まれていた大尉が何か察して逃げるのも無理はないし、葉月には責められない。
しかし、そこは流石、遠野と懇意にしていた男だけあるかもしれない、と、葉月は急に冷静になる。
つまり、遠野という男の側にいる女は、遠野にイカレて遊んだ女。『ろくな女じゃない』と見られていてもおかしくないと言うことだ。
そこを既に見抜かれていると葉月は確信していた。
(なるほど。あの大佐が言うだけあってよっぽど勘が良いか、上下関係も気にしない手厳しさがある人のようね……)
葉月は、それこそ『遠野が心に残していた男』と、ふと笑ってそのライターをスカートのポケットにしまい込んだ。
(大佐……か。本当に、大佐が大尉の話をしてくれなかったら、ここまでこなかったわ)
未だに遠野を心の奥にこびりつかせている自分に葉月はため息をついた。
その時──。
煙草を半分まで吸い終わった時、急に風向きが変わったような気がした。
父に仕込まれた勘なのだろうか?
ふと、人の気配がしてそっと木の幹の裏に顔を覗かせてみる。
そこで、眼鏡をかけて本を読んでいた黒髪の男性とばっちり目が合ってしまい、今まで気配が分からなかった葉月はとても驚いた。
黒髪の、眼鏡の男性。東洋系……日本人?
そして目が合った眼鏡の男性も、その黒い瞳に驚きの様子を見せ、葉月の煙草の煙に見入っていた。
Update/2007.8.24