藤波中佐室に戻ると、やっぱり康夫が不機嫌そうに待ちかまえていた。
葉月を見るなり、デスクに手をつき、立ち上がって突っ込んでくる。
「コラッ! じゃじゃ馬! 何処に行っていたんだよ! 長い昼飯だな!!」
早速のお言葉に葉月はプイッと顔を背ける。
「フランス料理って長いじゃない? せっかくだからフルコースで食べてきたの。お陰様で、良い暇つぶしになったわ」
すぐにばれる大袈裟な嘘だが、それぐらい言ってやらないと、すっぽかされて途方に暮れさせられた気が収まらない。
「外に行って来たのか!? まったく……。相変わらずやる事大胆だな」
康夫は怒りつつも呆れ返ったようで、食い付いてきた勢いを緩め、席に座り直した。
だが、葉月はその落ち着いた康夫をよそに、スーツケースとボストンバッグを手にして、そこを去ろうとする。
「じゃあね」
「オイ! 『じゃあね』って……何処に行くんだよ!?」
康夫が再び立ち上がる。
今度は心配顔の彼……。
今度こそ、葉月が日本に帰ると思っているのか……。
「安心して。少なくとも明日は出勤するから。今夜帰ると言っても、もう、便がないしね」
「何だよ。すっぽかされたぐらいで引き下がるのか? おまえらしくない」
いつもなら余裕たっぷりの見透かし笑いで葉月の駄目な部分を必要以上に煽る康夫なのに、今日の彼は小笠原連隊長の申し出を断ってまで自分で始めた企画が倒れるんじゃないかという慌て振りで葉月を引き留めようとする。でも、葉月は言い返す。
「逃げてるのは、『彼』の方でしょ」
葉月のしらけた眼差し、そして静かな口調に、康夫がグッと黙り込んだ。
「二階にいるんでしょ?」
「は?」
「雪江さんよ。挨拶をしたいの。今日はそれからホテルに帰るけど、いいでしょ? 『ちゅ・う・さ』──」
一応、中隊主の康夫に退出の許可を得ようと、わざとらしく念を押してみる。
「あ……ああ。二階の統括科事務局だ。エレベーターで降りたらすぐ目に付くはずだ」
康夫も、側の机の主が帰ってこない限り、引き留めようがないと観念したらしくスッと退いてくれた。
「じゃぁ。明日の朝ね。時差ボケ直しておく」
葉月はこんな時だけ極上の微笑みで手を振ってみせる。
『散々だ』というような康夫を尻目に藤波中隊を後にした。
・・・◇・◇・◇・・・
康夫の妻、雪江に会うために、葉月は今度こそ一人でスーツケースをゴロゴロと引いて、人目にも慣れたせいか手際よくエレベーターに乗る。
辿り着いた二階で、周りを見渡すと、またざわめきのある一室を発見。
ドアの上の札を見上げると、『統括科』とフランス語で記してあり、開け放しているドアをそっと覗いてみる。
勿論、見慣れない栗毛の女性が現れて、統括科の殆どの隊員が雑務の手を止めて葉月を見る。
『また、嫌な視線』と怖じ気づく前に、一人の黒髪の女性とばっちりと目線が合って、お互いにすぐさま微笑み合った。
ショートカットのその日本人女性は手元の作業もほったらかして、嬉しそうに入り口にすっ飛んできた。
「葉月ちゃん!」
「雪江さん!」
二人は国際派らしくお互いに抱き合ったが、クオーターの葉月は百七十センチに近い身長がありパイロットとして鍛えてきた均整の取れた身体で、小柄な雪江を大きく抱き止める形になってしまう。
「よく来たわね! どう? アラ……やっぱり少し痩せたかしら。顔が少し……」
雪江は喜びも半分、葉月のシャープになった輪郭を見てため息をこぼした。
葉月も自分でそう思っていた顔の線を指でなぞって、少しだけ溜息をついてみる。でも、葉月は大好きな彼女の前では笑顔に戻ってみせる。
「ううん。訓練でトレーニングしているからよ。近頃パイロット兄様方にも言われるのよ。『すっかり身体が出来上がってきたな』って。それで顔にも影響したのかしら」
葉月は心配させまいと努めて笑顔をみせたというのもあるが、その言葉は本当のことだった。
パイロットとして、もう新人という域は越えている。その体力作りと訓練が欠かせない毎日ならば、少しは体型も顔つきも変わっていてもおかしくはないはずだから。
「当然よね。マッハのスピードで上空について行くには、重力に耐える筋力が必要だもの。羨ましい……。ぜい肉の一つもなさそうね」
雪江はそんな日本人離れをしている葉月の顔を見上げ……自分の身体を見下ろして溜息をついている。
「私は……母様や雪江さんのように黒髪で可愛らしい女性に憧れるわ。こんな身体だと、だーれも女だって見てくれないし」
「よっくいうわよぉ!!」
いつもはつらつとしている雪江に早速パシリと身体をはたかれ、葉月は僅かによろめいた。しかし、それが自分でも可笑しくて笑っていた。
雪江は康夫の妻らしく、明るくていつも元気な女性。
大きな瞳が愛らしくてそれでいてしっかり者。葉月より一つ年上の二十七歳。
彼女に会うと葉月は必ず元気を分けてもらえる。
「それで? 大尉はどうだったの?」
雪江は急に不安げな様子で、葉月をちらりと様子を窺うように上げてきたのだが。
「それが……」
葉月は気心知れた同性とあって、肩肘張り合いの康夫には見せない素直さを彼女の前に出してうつむいた。
「やっぱりね。絶対そうなると昨夜も康夫に言っていたのよ? 『隼人さん』は、本当に康夫なんかより上手なの。当然よね。大尉とはいえこのフランスで十年以上働いているし、おまけに康夫よりずっとお兄さんだし」
『隼人さん』と、軽々いう雪江に葉月はちょっと驚いた。
つまり、それだけ藤波夫妻とは親しいと、いうことになる。
異国の地で日本人同士。当たり前と言えば、当たり前なのだが……。
そして、雪江はさらに呆れた溜息をこぼし続けた。
「康夫はね。隼人さんが『わかった』と言ったから承知してくれたのだと安心していたけど。隼人さんの『わかった』は当てにならないと私は言ったのよ? 隼人さんはね、『自分に正直な人』なの。上に媚びない、下にも甘くない、『出世に向いていない』と、自分でわかっているのよ。それほどの人なの。だからね……」
『なるほどー』と、葉月は雪江がつらつら語る中一人で頷いていた。
『自分に正直』の一言でもう充分──。
彼が今日、葉月……つまり『訪ねてきた総合基地の中佐』に対して取った態度そのもの。
葉月の周りに、そんな人間がどれ程いようか。
なかなかの人じゃないかと……思った。
「残念だったわね。でもね、いくら彼でも、いつまでも逃げていられないと思うし、明日にはひょっこり顔を出すわよ。今日のことは、彼にとっては一つの表現と言うか……けじめと言うか……」
雪江の話に聞き入っている最中。葉月が立っているこの廊下の向こうに、人影が現れてドキリとした。
あの分厚い本を読んでいた眼鏡の彼だったのだ。
パイロットとしての視力には自信があり、葉月はハッとした。
ここで再び鉢合わせをしてしまっては、先ほど一生懸命につきとおした嘘の労力が無駄になる。
雪江と知り合い。並んで、その夫の中佐とも通じているとは思われたくなかった。
「ゆ、雪江さん! 私……基地の外にある月極のホテルアパートに宿を取ったの。もうチェックインしないと!!」
「え? あ……そうね。めでたく大尉と対面したなら、今夜はうちで食事でもと思ってたんだけど……」
「気遣わないで。今夜はゆっくり時差ボケでも直すわ。じゃあ!」
「あ……葉月ちゃん?」
葉月は慌ててスーツケースを引きずり、統括科横のエレベーターの、そのまた横にある階段へと身を隠した。
その身を隠した壁からひょい……と、統括科の入り口を覗く。
眼鏡の彼が、統括科の入り口で葉月に急に置いて行かれて呆けている雪江に話しかけていた。
(事務の用事かしら? さっき、明日のチェックするって言っていたし……)
今、彼は眼鏡をかけていなかったが……雪江は、彼に話しかけられるなり、いつもの素敵な笑顔で彼と挨拶をして、室内に戻っていった。
間もなく──やはり雪江が彼に書類束を手渡していたので、葉月はそれを見届け、今更、彼女達の目線が届くエレベーターの前に姿は見せられないので、いたしかたなくスーツケースを引きずって階段を下りることにした。
・・・◇・◇・◇・・・
「雪江さん、今、誰かと話していただろう? 俺……眼鏡がなくてぼんやりだったけど。スーツケースを引きずっていたような?」
彼の一言に、雪江はムッとして睨み付ける。
「そうね、話していたわよ。それが何か? あなたには関係ない事だと思うわよ」
雪江のつっけんどんな言い方に、彼の表情がピタリと止まった。
何かを悟った顔。このお兄さんは、時々、こうして何かを見通してしまうので雪江も敵わずおののくことが多い。今、まさにそんな顔。彼女が誰かとても気にしている。自分がすっぽかした『上官』だと判ってしまったのかと?
「今の人、栗毛の女の子? 『通訳』の仕事できているのだろう?」
『なんのこと?』──と、雪江は葉月のことを『通訳』と決め付けている彼の言葉に眉をひそめる。いったい何処から『通訳』という予想が出てきたのか見当もつかないことを言い出すのだから。
「違う?」
「そうね。通訳かもね。でも何故? 彼女が通訳で秘書科の子だって知っているの?」
「え? いや〜その……」
彼が急に照れくさそうに口ごもったので、雪江は訝しく思いながら首をかしげた。すると──
「そうか。じゃあ『通訳』の仕事でなければ、『パイロット』かもな」
彼は葉月が去った方向を眺めて、大きな溜息をついた。
でも、雪江はその一言でとても驚く。
目の前の彼の目は、なにかを強く確信している目。彼がいつも夫の康夫以上に物事を見通して判断する時の目をしていたのだ。
「じゃあ、知っていたの? 今のが『御園中佐』だって!?」
まだこの時点では二人が出会う接点などあるはず無いのにと思って雪江が驚きの声を上げると、彼が少しの間だけ驚いた顔を見せる。そして再び、今度は大きくて深い溜息を足元めがけてついていた。
『やっぱりね』と、黒髪をかく彼──。
「やっぱり……て?」
雪江には、分からない。
「いいや。こっちの事。それより、俺さ……。今日ちょっとヤバイんだ。康夫に言っておいてくれる? 明日の朝、必ず会うから、今日のことは見逃してくれって。俺、このままもう帰るよ」
彼が書類束を小脇に抱えて去ろうとしている。
「本当なの? 本気になったの? 彼女に会ってくれるの?」
雪江の驚き声に、彼が踏みとどまった。
雪江にしてみれば『どういう心境の変化?』と言ったところで、彼の口から『会う』という言葉が出た事が信じられなかったのだ。
すると彼はまた、どこか照れくさそうに前髪をかき上げている。
「うっかりってヤツさ」
「うっかり?」
雪江には彼が何のことをいっているのか本当にさっぱり解らない。
そんな中、彼がちょっと口の端を上げて微笑んだのだ。
「まあね。そう、明日。ちょっと面白いことになるかもね」
彼は、雪江にはにっこりと満面の笑みを向け、『じゃあ』と片手を挙げて去って行く。
「あ……! ちょっと!? 『隼人さん』?」
雪江は、中途半端で意味不明な言葉を残す彼を呼び止めたが……彼は、葉月が去っていった階段の方へと足早に行ってしまった。
(なあに? まったく……。いつも何を考えてることやら……?)
雪江は首をしばし傾け、元のデスクへと戻ることにした。
会わなくてはならない、会えない二人が、実は既に鉢合わせているのを知っているのは──彼、『澤村 隼人』のみだった。
隼人は、葉月が去っていった後を追ってみる。
階段を下りて行くと、重たそうに一人でスーツケースを引きずっている彼女を見つけた。
上から階段の手すりの影で隼人はジッと栗毛の彼女の様子をうかがう。
まるで、『一人でも大丈夫』と言うように、一生懸命スーツケースを引きずっている──出逢ってしまった女の子。
(なるほどねえ〜)
隼人は手すりに頬杖を付いて、葉月が見えなくなるまで一人でクスクスと笑っていた。
Update/2007.9.8