そうして従兄は、やっとそれらしい哀しい顔を従妹である葉月に見せる。
「俺にとって軍隊というものは、最初からどうでも良かったんだ」
それを聞いて、改めて思うことが葉月にもある。
それは右京が『皆が軍人だから、俺もそうであるべき』と、無理に思いこんでいることがあったのではないかと。何度か、思ったことがある。
実際に、右京ほど、軍人に向いていない兄はいないと思っていた。それこそ、純一の方が才能があり、性に合っていた感じだ。だけれど、右京の場合は、それなりに『家風』に合わせてきただけだったのだろう。
葉月はいつのまにか大佐になってはいたのだけれど、右京だってその気になり、あのロイのように高き目標を定めた野心を持てば、絶対に、葉月ではなく彼の方が『今頃は大佐』だと思うのだ。
それが何故か、葉月が軍隊の中で、それとは違う目的で突っ走っている中で、いつの間にか地位がついてしまったのだけれど、兄達のサポートを受けながらただ闇雲に走っている内に『末娘』の自分が大佐になっていた。少佐試験に合格したまでは、葉月ぐらいの年齢でもまあある昇進かと思えたが、中佐から大佐に至るまではそれこそここは『一人の力ではない』と思わずにはいれなかった。勿論、仲間の力もあったが、なによりも『何かを見定めていたような』兄達の思惑に乗せられて──と思った部分が強かった。だから、大佐になった時『私は皐月姉様の身代わりか』とロイにぶつけてしまったこともあったのだ。それと同様に、葉月をこの地位までのし上げてくれたのは、右京の影ながらの支えがあればこそ。そう思う中でも、彼が目指さない分、『地位』という物に関しては、従妹に託していたのかと思うこともあったのだ。
それでも右京は、そんな軍隊という自分の本心とは馴染めない世界の中で、自分の良さを存分に発揮し自分なりの存在感をしっかりと自身で定着させてきた。
これほど華やかな軍人はいないだろうという違和感も、彼はなんなく人を惹きつけ魅了させ、彼独自に皆に自然に思わせてきた。この従兄こそ、地位を思わせない忘れさせる不思議な『存在感』と『威厳』というもので、周りの人々を征してきたのだ。
さらに、自分の命でもあろう音楽を、ヴァイオリンという音だけに限らず、音は音という軍隊金管楽の中にも彼らしい音を愛でる心を見せつけてきた。そして音楽隊の誰もが右京のその音に対する志についてきていた。
従兄は従兄で、軍隊を愛してると葉月は思っていた。
だが、ここに来て……。その糸が切れたのかと思わせる従兄の一言だった。
そして右京はさらに、力無く笑いながら言った。
「だから、まあ。遅れ馳せながら、俺らしくやっていこうかなと」
「それは、音楽を本格的にやりたいって事?」
今の仕事を辞めるなら、従兄にはそれしかないと葉月は、『思いたい』!
先ほどの違和感など、葉月の考えすぎの杞憂だと……。だが、従兄の反応は葉月を安心させる物ではなかった。
「いいや……。なにも考えていない……」
力無く、疲れた顔でそういう右京の様子は、見せかけでも何でもなく本当に心の奥から滲み出てきている『本心』だと葉月は思い、余計に言葉が出なくなってしまった。
なにも考えてない?
その無気力そうな顔が、葉月にはどう反応して良いのか解らなくなってしまった。
「やめて。そんな兄様……嘘よ!」
ただ子供のように歳が離れている従兄に投げつけ、葉月は涙を浮かべる。
だけれど、その葉月の言葉も届いていない淡々としている右京に耐えられず、葉月は車椅子を動かして、その部屋を出ていくことしかできなかった。
葉月はすぐさま二階に上がって、寝室へと駆け込んだ。
そこですぐ目の見えるのは、懸命に仕事をしている夫の背中。
「貴方、隼人さん……聞いて!」
「ど、どうしたんだ?」
妻が取り乱した様子で駆け込んできたためか、いつもは研ぎ澄ましている彼の集中力のスイッチは簡単に落ち、葉月へと向かってきてくれた。
葉月は躊躇うことなく、その夫の胸に抱きついた。
落ち着けと栗毛を優しく撫でてくれる夫の手を感じながら、葉月は両親が揃ってフロリダ本部に退官願いを申し出たこと、そして右京がすっかり退官をしてしまったことを告げる。
当然、隼人もとても驚き──。だが、旦那さんの手がやがて、それらを受け入れたかのように、葉月をぎゅっと抱き寄せるだけで、何も言わなくなる。
貴方、どうして──?
声にならず、葉月は心で叫んで、ただ隼人に泣きすがる。
貴方、どうして──?
一家で頑張ってきていたと思ったことが、ここで崩れていくの?
その『説明書』をいつものように、貴方の声で届けて欲しい。
そうしたら、きっと今までのように私の心にも響いて、理解できる。
でも、やはり隼人は何も言ってくれなかった。
ただ、彼の慰めの手が『仕方がない』と言っているような気がしてならなかった。
・・・◇・◇・◇・・・
紅茶を飲み干したカップを再び手に取り、右京は溜息をついた。
退官が正式に受理されたのは、今日のことだ。
午前中、久しぶりに制服を着て、あの音楽隊の事務所を整理してきた。
必ず帰ると約束した親友の『高田』には、また殴られてしまった。
それどころか、彼の妻である『由美』にも平手打ちをされた。
だが、右京は彼等にだけはきちんと正直に言いたいと思い、事務所を後にする時に告げた。
『軍人ではなく、御園家の長兄としてやり残していることに全力を傾けたいんだ』
それは今までの自分の人生を『精算』することだった。
それにはもう……、ふらりとしながら勤めてきた『音楽隊員』という職務との二足の草鞋は、右京には皆無になってきたのだ。それは時間がつくれないとか両立できないとかそんなことではなく、右京の心の問題で、はっきり言えば『やる気がなくなった』のだ。
それは親友の彼等にしてみれば、あんなに待っていてくれたのに、右京が過去を清算し帰ってきてくれると信じてくれていたのに──それは『裏切り行為』の他何物でもなかったと思う。
それでも、もっと現実的に考えなくてはならない。高田の懸命の配慮で、『家庭事情』ということで有給休暇が消化されてしまって後も『休職』という扱いにしてくれていた。だが、それももう限界だ。あの義理の従弟となった隼人が『限界だ』と言って職務復帰を決意したように、右京の感覚でも『これ以上は休めない』というところだ。
誰もが『右京だからこそ、帰らなくてはならないのだ』と言った。伯父の亮介も伯母の登貴子も、純一も、そしてジャンヌも。なのにどうしてか、一番それを言いそうな両親は何も言わなかった。ただ父親に何度か『本当にそれでいいのか』とか『後悔はないのか』と念を押されたぐらい。父の京介にもきちんと自分の正直な気持ちを話した。
『好きにしなさい』
父と母は口を揃え、それだけ。
そして、こうも言った。
『初めてだな。右京が自分からこうしたいと言ってきたのは』
父は哀しそうに目を細め、母は泣きそうな顔で俯いていた。
彼等には……どうも隠しようもなかったようだ。そりゃそうだ。未だに毎日顔を合わせている同居をしている家族、ましてや両親なのだから。
『それで? どうするのかい? 右京』
『解らない』
『いいだろう。この際だから、じっくり見つめ直しなさい……』
まるでその時を待っていたかのように父が言う。
そして、母はついに着物の袖を目元に押し当て、声を殺して泣いていたのだ。
『この歳になって、迷惑かけます』
両親は頷くだけで、だからそれがいけないとも、それで良いとも言わなかった。
……きっと、父・京介も、母・瑠美も知っていたのだ。
右京が心から軍人という職を選んだ訳ではないのだと。
だからとて、その道を選んだ時、両親に強制された訳でもない。むしろ『右京、それでいいのか?』と聞かれたぐらいだ。その時、右京は強制された訳でもないが、軍隊に入隊しないと『そうではない人間』になってしまうような不安を少年心に抱いていただけだった。
今思えば、あの時は『とりあえず、家風に合わせて軍人になっても──取り返しがつく──』と思っていたのではないかと、大人になってから思った事がある。だが、その『取り返しがつく』と安易に思っているうちに『あの事件』に遭遇した。それからは、ご覧の通りの生き方しか出来なくなった。
「あら、右京……」
「お疲れ、先生。また来てしまったよ」
深海を漂うような日が続く中、右京の向日葵が顔を覗かせると、つい海面へと浮上しトビウオの気分になる。
金色の髪は今日もきっちりとまとめているのに、太陽のように煌めき、それに反するキリッとしている涼しげな顔。その彼女特有の女医の顔が、右京だけが知り得る女性の顔に和らぐ瞬間も、何とも言えない。出会った頃は、こんなふうになるだなんて思いもしない女性だったのに、今はもう、彼女が一番だった。
その彼女が、今日はどんな日だったか知って、私服でそこにいる右京を慈しむ眼差しで見下ろしていた。
「御園少佐、お疲れさまでした」
「有難う、ジャンヌ」
「私は最初は反対したけれど、でも信じるわ」
そして彼女はやや涙を浮かべた顔でこう言った。
「これは貴方が貴方らしくなるための決断だったのだと」
「……でも、俺は愛していたよ。あの事務所も、仲間も、可愛い後輩も。そして金色の楽器も。勇ましい音も、規律正しいマーチングの美しさだって」
「貴方は、一生懸命にやってきた。貴方が言わなくても、皆、知っているわ」
『大丈夫』──目の前に立っている彼女は、その白衣の胸元に、座っている右京の頭を柔らかく引き寄せてくれる。
右京はそのまま、彼女の腰に手を巻いて『ああ』と安らぎの声を彼女に聞かせた。
「本当に愛しているなら、旅の終わりには、またそこに戻れるわ」
「そうかな。もう、それはないと思っている」
ジャンヌは『そういう後戻りだってあっても良いと思う』と、遠回しに言ってくれているのだ。
でも、右京にはそれはないと思っている。
もう、軍服は着ない。もう、先ほど、ここに来る前に脱ぎ捨てたのだ。誰に見届けてもらうわけでもなく、右京自ら一人でひっそりと……。鎌倉の青空が見える自分のあの部屋で、いつものように脱ぎ捨てた。
「葉月さんに言ったの?」
「勿論。泣いて飛び出していったよ。今頃、旦那のところで泣いているだろうさ」
「そう。大好きな尊敬しているお兄様が、自分と共有していた身近な物を知らぬ内にあっさり手放したことが哀しいのだわ」
「……悪いと思っている。でも、どうしようもなかった」
そして、右京は心の中で呟いた。
『瀬川アルド』の名を聞くまでは──と。
右京の退官決意は、ここ数日で心を追い立てられるように決めた物だった。
それぐらいで? 何も悪いことはしていないのだから、辞めることはないだろう? そう言う人間もいるだろう。実際、それを口にしたのは幼馴染みの『純一』だ。
右京は瀬川アルドを知らぬわけでもないが、だからとて親しいわけでもなかった。
音楽隊という所属である以上、純一や皐月が家族同然で知られていても、『陸部隊』とは縁が薄い。ただ純一が慕っている先輩であり、皐月が憧れているとこぼしていた先輩であることは知っていた。そして、顔だって何度か合わせたこともあるし、言葉だって交わしたことがある。まあ、だいたいが純一に会いに行った時とか、純一と彼が一緒にいた時に、ぐらいだった。
それなのに、何故、瀬川アルドという男が、小さな従妹が思いだした我が家の天敵と知って、このような決意に駆り立てられたか──。
実は訳などなにもない。
強いて言うなら『勘』だ。
今まで、悶々とさせてきた何かが、ぱあっと解き明かされようとしている恐怖に確実に出会うだろう焦りと言おうか?
仕事どころじゃない。本当に今度こそ、ピリオドを打たねばならない。
これはただ『犯人を捕まえろ』という心構えではやっていけなくなった何かが右京を駆り立てていた。
そこにはっきりした事はまだ判断できないのだが、右京の勘が、いくつかのキーワードを打ち出していた。
『執着』、『愛憎』、『信念』、『友情』、『妬み』……まだまだ、ある。
それは人間が自分の中に持ったり人と対する時に持つだろう様々な気持ち、そしてその絡み合い、それらが全て一気に噴出された……そんなエネルギーを初めて感じたのだ。
そして右京にはそのエネルギーの証が、『従妹の身体についた傷』だと思えて仕方がないのだ。
従妹は完全に無関係なのに巻き込まれてしまった最大の被害者だ。
様々な大人達の渦巻く感情の矛先が、幽霊という手に宿り、そして彼の手が行き着く先が『いつも従妹』なのだと。
そう思った時に、右京はとてつもない恐怖感から震えが止まらなかったのだ。
つまりそんな展開があったことを右京は知らずに、ただ闇雲に『犯人探し』に精を出していたのだ。
だが、天敵が『知人だった』と知ってからは、考えががらりと変わった。
(会わねば……会わねばならない)
今、右京の心にはそれしかなかった。
今度は、可愛い従妹は本当に殺される。
あの時の右京のほんの少しの『皐月への憎しみ』で簡単に置き去りにした二人の従妹に償わねばならない。
従妹と幽霊がどんなに『因縁の関係』で何度も巡り会ってしまう運命でも、それならこの僅かな自分勝手な気持ちで大きな傷を負わせた従妹のために、なんでも捨てる覚悟で生きてきたのだから。なにがなんでも、葉月と彼が接触する前に、右京がその間に入るだけでも入りたい! それが如何に無意味で無力なことでも、だ!
会わねばならない、会わねばならない……!
「右京、私もお茶をご一緒にしても良い?」
彼女の柔らかい声にハッとする。
いつもの笑顔を浮かべて、右京は彼女を傍に座らせた。
もうすっかり見慣れた様子のジュールの前では、ジャンヌもすっかり恋人としての顔を見せている。そして、ジュールも平然と、ジャンヌ先生の『休憩時間』に協力するように、黙って彼女にお茶を運んでくる。そして右京のカップにはおかわりを注いで去っていく。
その彼女がカップを楚々と手にし紅茶を一口。
「……私はどこまでも、貴方を見届ける覚悟が出来たわ」
彼女のそのなにげなく呟いてくれた言葉に、右京は流石に驚き、ジャンヌをまじまじと見た。
あんなに『たった一人で解決しようと、一人だけで頑張るのはやめて』と反対していた彼女が……。
「そうか。有難う、ジャンヌ」
「いいえ。愛しているわ、貴方」
彼女の優しい手先が、右京のまだ迷っている手を包み込んでくれる。
俺も君を愛してるよ──。言葉には出来ず、でも、右京は彼女を見つめながら手を握り返した。
君を置いて行くだなんてできやしないよ。
俺は必ず君のところに戻ってくるよ。
大丈夫、俺と君は、幸せになれるよ──。
……そう言えたなら、どんなにか。
心の隅で何度も何度も、愛してしまった彼女に謝っている自分がいる。でも悔いはない。彼女に本当の気持ちを晒したからこそ、ここ最近、向日葵の彼女と存分に愛し合うことが出来のだから。
あの男に会う方法を、今、右京は考えていた。
・・・◇・◇・◇・・・
それでも、軍隊を離れて、幾分か気持ちは軽くなったのだ。
ジャンヌが仕事に戻ったので、右京は庭に出て晴れ渡る三月の空を見上げた。
そうだ。あの事件は二月の寒い時期にあった。
そしてこれぐらいの季節になった頃、小さな従妹がなんとか落ち着いた頃だったと。
『いい香りの花だろう? 今、沢山咲いているんだ』
鎌倉の庭に咲いていたフリージアの花を数本持ってきて、虚ろな顔になってしまった葉月の病室に活けた。
その花が今、足下に咲いている。右京はそれを今度はいつまでも眺める。
後悔しているのは、皐月と喧嘩し、あまりにも腹が立った勢いで成人していた彼女はともかく、女だけになるその場所に小さな葉月を置き去りにしたことだ。
今の自分なら、なんとでもあしらえる事を、あの時は若さも手伝って感情を抑えることも出来なかったのだ。
それに皐月の物言いが、右京を一番苛立たせるものだったからだ。もっと言うと、幼馴染みの純一がそうして皐月の思惑に従わなかったのも、彼女よりもずっと親しんできた親友の右京の心を知っていたからだ。そう考えると、純一が皐月の言葉を信じずに、皐月の招待に応じなかったのは、右京が抱えていたその『心根』が本当の原因だと思ってしまうのだ。
『俺に対抗心をもつのは、お門違いだぞ』
『いいえ、右京は私の道を邪魔している! 軍人なんかになりたくなかったくせに、なんでなったのよ?』
つまり、御園の跡取りは『軍人であるべきだ』という皐月の考え。
だから『やる気のない者』は早く去れ。と言うのだ。
そこは『そうでなければいけない』という不安を抱えていた右京には、妙に崖っぷちに追いやられるような気持ちにさせられたのだ。
年下の生意気な従妹に、そうして心を追い詰められていく──。
別に右京は、跡取りになりたいだなんて思ったことは一度もない。あるのは家族愛であって、たまたま右京の代では『男子』が右京だけだったので、どんな形でも男として家を守っていきたい。ただそれだけだ。だが、皐月にはそれが目障りだったようだ。軍人になりさらに『長兄』だから、右京が跡取りとされるかも。皐月の危惧が、入隊後からそうして右京を敵視するようになったのだ。
はっきり言って右京には、本当にお門違いの『やっかいな従妹』だった。
跡取りなど、彼女が欲するならそうすれば良いと思っていた。ただ、『あんたは音楽が好きなだけの役立たず』のように言われるのが腹立っただけだ。『音楽だけ、やっていれば後は全部、私がやる』──。いや、皐月はそんな『役立たず』だなんて言葉も『音楽だけやっていればいい』だなんて言葉も一度も言っていやしない。単に右京が、皐月にそう思われている言われていると『思いこんでしまっていたのだ』。そして今のこの歳になった右京なら言える。それは自分が一番、不安に思っていたことだったのだと。音楽だけの毎日を欲しながらも、それだけではやっていけないから家族にならって軍人になった。その本心を従妹は見抜いていたのだろう。もしかすると『右京兄は、好きなように音楽をやってみてよ。家のことは私がやりたいからやらせて』と、そういう親切心だったのかもしれないと。
そう思うと、本当に皐月にも申し訳ない気持ちでいっぱいなのだ。
従兄妹同士だからこそ、あんな遠慮ない物言いになってしまっていただけじゃないのか。
……時が経ってからそう思い辿り着いた。そして時が経つほど、若い未熟なあの時の自分を呪った。
そしてその『勇ましい従妹への特殊な憎しみ』を放っていた匂いを隠すように、虚勢的な生き方で誤魔化してきた年月。
あの時、俺は音楽、お前は御園家の当主になり、そして俺はお前を影ながら支える長兄になるよ──と、言えていたなら。
そして右京は、いつしか、軍隊で突っ走るようになった小さな従妹を影ながら支える長兄となり、自分はただ音楽隊で勤めてきた。
葉月が身代わりだなんてことはないが、やはり皐月の妹かと何度も思わされた。小さな従妹がそれを望んで大佐まで登りつめたことではないのは知っている。ただ、そんな道筋へとひたすら走っている従妹がその道を行くので、応援してきただけなのだ。
「いっぱい咲いたわね。鎌倉にも咲いた?」
そんな女の子の声がして、右京が振り返るとそこには車椅子に乗っている葉月が微笑んできた。
「お兄ちゃま、長い間、お疲れさまでした」
「葉月……」
あの優しい夫の胸に飛び込んで、心を落ち着けてくれたようだった。
そしてそれ以上に、右京が選んだことも受け入れてくれたよう。その健気な笑顔に、右京の胸は熱くなる。
「でも、残念。私、お兄ちゃまが指揮するマーチング、綺麗に揃っているマスゲーム。大好きだったから。それがもう見られないのね。金色の指揮棒を持って、真っ白い制服で先頭を行進するお兄ちゃまはとっても格好良かったのに。自慢だったのよ、本当よ」
何故かそこで涙が溢れてくる。
きっとそう思ってくれていただろう死んでしまった従妹の妹が、代わりに言ってくれているようだ。そして何よりも、誰よりも大切に可愛がってきた末の従妹に言われるのも、心が洗われてくる思いだった。
「泣かないで、お兄ちゃま……」
葉月が車椅子を寄せ、フリージアの前に立ちつくしている右京の腰元に抱きついてきた。
「お兄ちゃま、ヴァイオリンだけは忘れないで。ねえ、私みたいにならないで? お兄ちゃまが一番良く知っているわよね?」
「あ、ああ……」
今、ヴァイオリンを弾く気がどこからも湧かないのだ。
音が出てこない。無理に弾けば、その音は右京を苦しめる最悪の音になるはずだ。
この従妹がそうだった。そうして音を愛しているのに、音に苦しめられてきたのだから──。
「私、待っているからね。今度は、私がお兄ちゃまの音を待っているわ」
なにもかも解ってくれる従妹は、やっぱり長年音を通して寄り添ってきた家族だからだろうか。
フロリダの実家を避けてきた従妹だから、彼女は本当に鎌倉を我が一の実家のようにして甘えてきてくれた。従兄と従妹といえども、そこは本当に兄妹同然、義兄妹の強い間柄を持つ純一との絆にも負けないと右京は思っている。
「葉月、お兄ちゃんは大丈夫だ」
必ず、ヴァイオリンをまた……。
そうじゃない。右京の脳裏には今はもう……。『お前を差し出したりしない』、幽霊に望まれても決して差し出さない。
それのみだ。
その数日後、右京はあの『葉山の別荘』に、十八年ぶりに向かった。
黒猫の張り込みがあるのは分かっている上で、ついに、あの地獄絵図を焼き付けたこの別荘の玄関へと立ち、鍵を開けた。
そして何かを迎え入れるように、一人で『掃除』を始めたのだ。
・・・◇・◇・◇・・・
一人で掃除を始めると、なにやら違和感が襲った。
どことなく人がいたような気配。
使われた痕跡を思わすような物やゴミ類などは見あたらないのだが、ところどころ『埃』が薄くなっていたり、まったくかぶっていない場所が目に付くようになった。
まだ、葉月が引き寄せたと聞かされた『美波』と言う娘には会ってはいないし彼女がまだ白状もしていないようだが、右京は『確かにここにいた』と確信した。
俄然と掃除をする手に力が入る。
彼奴の足跡、彼奴の手あか、彼奴の吐いた息。全部、綺麗に拭い、浄化させてやる気持ちで掃除をする。
いつも気取った格好で洒落込んでいたこの俺様が、今はくたびれたジーンズに、ただの真っ白なよれよれのシャツを着込み、すすけたタオルを頭に巻き、汗まみれで泥水になったようなバケツにモップを突っ込んで、床という床を拭いていた。
……遠い昔に実況検分をした跡まで残っている。白いチョークで書き込まれている柱の文字。暖炉の枕木に残っている指紋採取の跡。なにもかもを元通りにするように右京は掃除をする。
髪は乱れ、頬は真っ黒な跡が付き、汗まみれ。誰が見てもあの『御園右京』とは思わないだろう。
まだリビングには手はつけていないのだが、一階の寝室を掃除している時だった。
「お邪魔致しますよ」
初めて誰かが訪ねてきて、右京はドッキリとした。
「ジュールか」
「外で見張っている者が、心配しております」
「俺がいる間は、張り込まなくても良いと言っただろう」
「駄目です。貴方が一人になると、瀬川がやってきてしまうから」
『それを待っているんだ』と、右京は言いたいが、口が裂けても言うつもりはなかった。
そしてそれはジュールに見抜かれているようだった。
「これ、差し入れです。少しは食べてください」
この別荘の掃除を始めると彼に告げた時、彼は止めはしなかったが『業者と一緒にしてはどうか』と勧めてきた。
だが、右京はこの手でこの目でじっくりと、十八年前に置き去りにした『過去』と『地獄』を再確認し、そして自分の手で出来る分だけの浄化をしたかったのだ。夜は流石に寝泊まりできる状態ではないので、一端、鎌倉には帰る。だが、それ以外はずうっとこの家にこもってひたすら掃除をしている。確かに……食べていない。
ジュールの差し入れを有り難く受け取り、右京は床に座って包みを開いた。握り飯三つとちょっとした惣菜が入れられている弁当だった。手作りだが、和食ならエドの手製だろう。右京はその握り飯を手にして、かぶりついた。
春になり、ジュールも白い薄手のトレンチコートを黒スーツの上に羽織っている。
その裾を翻しながら、部屋の中を歩き回っていた。
「良い物件になりそうなのに、勿体ないですね」
「誰が、血痕があって、何人も傷ついて死に至ったこの家で、余暇を楽しむって言うんだ? 更地にしたって使い道あるもんか。格安でそれでも良いという買い手はいそうだが、そうしてまで始末しようだなんて思わないね」
「では、いっそのこと、『花畑』にでもしましょうか。たとえば、チューリップとか」
ジュールとしては、例えば……という何気ない提案だったようだが、右京は初めてはたとした。
チューリップは従妹が好きだった花。博愛とか幸福とかそういう花言葉があったような気がする。
右京は、握り飯を持っていた腕を力無く落とし、笑っていた。
「そうだな。それもいいかもな。じゃあ、その花畑の管理人は、俺だ」
勿論、今はまだそれを実行する気なんてさらさらない。
それでも少し、気持ちが安らいだ気がする。
「有難う、ジュール」
「いいえ……」
「他の者はどうしている?」
この家に入ってから、東京の療養家には通っていない。
ジュールにだけ、このことを知らせ、彼の口から純一や葉月に隼人、そして亮介と登貴子に言ってもらうように頼んでいたのだ。
誰もが近寄りたくない捨て置いたこの別荘に、再び踏み込む決意をした右京のことをどう思っているかと……。だが誰も様子を見に来なかったのは、やっぱり、近寄りたくないからなのだと右京は思っていた。それが証拠に、第三者となるジュールが様子見に来たのだから。
「やはり、流石にですね……皆さん、右京様の様子を知りたい、見に行きたいのに、思いあぐねていますね。ボスもですよ。躊躇っています」
「だろうな。純一は俺とは違う地獄絵図をここで見たからな」
右京は再び、握り飯を大きな口で頬張る。
純一は純一で、愛する皐月の無惨な死に際を目にし、それ以外にも幽霊が描いたシナリオで出来上がった『舞台絵図』である五人の学生の集団死の現場を見てしまっているのだから。
この家のリビングは、『狂気の舞台』。人間の欲望が渦巻いた舞台。
右京はまだその舞台を手につけていない。
「どうです。そのランチは、美味しいでしょう?」
黙々と食し、悶々としている右京に、ジュールがいつもの優美な微笑みを見せてくる。
「ああ、美味いな。エドは益々和食の腕を……」
「違いますよ。それ葉月お嬢様が車椅子で作ったんですよ。握り飯は、マルソー先生が、お嬢様に教わりながらね。初めてご飯を握ると大騒ぎでしたよ」
右京は驚いて、手にしている握り飯を改めて眺める。
「ジャンヌが……!?」
「ええ。あの落ち着いている先生が大騒ぎ。楽しかったですよー」
そしてあの小さな従妹がこしらえたという惣菜の美味いこと!
何時の間にこんなに上達したのかと、右京はそれもまじまじと眺めてしまっていた。
「勿論、右京様が始めたことに、お嬢様が一番戸惑っています。だけれど、それがお兄様が決めたことならと、せめてこれだけでもと……」
そうか、そうだったのかと、右京は弁当箱を手にとって眺めた。
そして、無言ではあるが気持ちを込め、額がひっつくぐらいに弁当箱にお辞儀をした。
ジュールに礼を述べ、二人の女性にも『有難う』と伝えてくれるように頼む。
彼はそれから間もなく、去っていった。
また午後になり右京は一階の長い廊下のワックスがけを手がけ始める。
すると、鳴らないはずのチャイムがなり、右京はドキリと胸を蠢かせ緊張を走らせた。
──まさか、来たか。
ゆっくりと玄関に一歩、一歩、近づく。
その間に、さらにチャイムが鳴り響いた。
ドアノブに手をかけ、右京はゆっくりとドアを開けた。
「よう。手伝いに来たぜ」
「ヒ、ヒロシ……!」
そこには、音楽隊で同期生だった親友の大男が立っていた。
彼の手にはバケツに雑巾、そしてモップやブラシ。やる気満々の準備を手にしているのを見て、右京は唖然と彼を見上げた。
「もう我慢できないのでね。鎌倉の実家に押し掛けたんだ。そうしたらおふくろさんが、今はここにいると……」
「か、帰ってくれ!」
右京はドアをバタリと閉め、鍵も締めた。
だが、彼があの大きな手でどんどんとドアを叩いていくる。
「右京! なんでもいいんだ。お前の手伝いをしたいんだよ! させてくれよ!!」
「馬鹿野郎! この家がどんな家かお前、知っているだろう!! 目が汚れる、夢に出てきちまうぞ!!」
俺がそうで、それに苦しんできたんだ。
こういう相棒を持った不幸以外は、なにごとも平凡に生きている彼に、想像も出来ないような悲劇の現場など見せられるか! 右京はそこは言えずとも、必死に追い返そうとした。
「分かっているさ。それでもいいんだ! 俺はお前が何処で、どのような物で苦しんでいるか、同じように染みついても良いんだ!」
「馬鹿! なにを、それがどういうものかわかってんのか!?」
その気持ちだけで、充分だ。
だから帰ってくれ。
右京は叫んだ。
だが、彼のドアを叩く手はやまない。
「右京さん! 貴方、ここを綺麗にしたいのでしょう。私達にも一緒に綺麗にさせて! 貴方のお掃除、手伝いたいの!」
突然に聞こえた女性の声に、右京はドア越しで目を見開き息を止めた。
──由美だ。ヒロシの妻である由美。そして右京が昔、密やかに恋し、密やかにその恋に幕を閉じた女性。
「右京! 音楽隊をやめたって、俺はお前のこと諦めないぞ」
「私もよ! この人と何処までも貴方を追いかけていくんだから!!」
今度は夫妻でドアを叩いている。
右京の目に、涙が溢れてくる。
独りじゃない。
何故、今になってそんなことを、ありありと突きつけてくるのだろうか?
やがて右京はゆっくりとドアを開けてしまった。
「……馬鹿か、お前達」
だが、そこには右京が閉ざした心のドアを開けたように見えたのか、夫妻のこの上ない嬉しそうな笑顔が揃っていたのだが、やがて夫のヒロシから表情を引き締めた。
「覚悟しているんだ。見てしまっても良い」
「私もよ!」
「リビングだけは駄目だ。絶対に見ない、入らない。それが条件だ」
そうして右京が、ドアを大きく開けると、夫妻は丁寧に一礼を揃えて入ってきた。
由美の手には花束が──。
「これ。皐月さんに……」
「ああ、覚えてくれていたんだ。有難う」
それは、チューリップの花束だった──。