あれから数日経ち、今日もジュールが葉山に行くという。
葉月はまた、せっせと差し入れを作っていた。
「美味そうだな」
また来た。と、葉月はキッチンに入ってきた純一を見つけて、僅かに睨んだ。
だが葉月が『駄目』と言う前に、純一は出来上がって盛っていた一品に勝手に手を伸ばして『つまみ食い』をしてるのだ。
「純兄様!」
「いいだろう。なんだ、右京だけ得してるな」
ここ最近、毎回、こんな感じなのだ。
そうして純一は、葉月がこしらえた『蓮根のきんぴら』をまたつまむ。つまみながら、葉月の隣でおにぎりを作っているジャンヌを見た。
「先生、上手くなりましたね。握り飯」
「そう? 純さんに言ってもらえたら、安心ね」
つい最近までジャンヌは『ボス』と言っていたのに、純一がそう呼ぶように言ったのか、はたまた右京が『純』と呼ぶせいか、『純さん』と呼ぶようになっていた。
ジャンヌは純一に褒められたことが嬉しかったのか、握ったおにぎりを『おひとつどうぞ』と純一に差し出していた。当然、純一は遠慮なく食べてしまう。
「ん、美味い」
「メルシー。そうそう、葉月さん。その『きんぴら』とか言うお料理も教えてね」
「勿論です。あ、私は先生が言っていた、『はちみつ生姜』をつくりたいわ」
「じゃあ、後で作りましょう。簡単よ。密閉瓶の中に入れた蜂蜜に、スライスした生姜をいれるだけなの。紅茶に、ヨーグルトに入れると美味しいの」
「うわあ。早くやりたいーい!」
「美味そうだな、それも。俺も味見したいな」
そうしてジャンヌと和気藹々と手料理に精を出して楽しんでいた。
──この前の日曜日。
復帰第一週は、仕事が滑り出しながらも家庭事情も大変だった隼人は、慌ただしく再び小笠原に帰っていった。
その時、ふと思いついて、右京に差し入れを作る前に、旦那さんの夕食にと幕の内風のお弁当を作って持たせた。
エドにもちょっと手伝ってもらった。エドにこっそりとお願いをすると、彼は材料を仕入れる時に、ちょっとモダンな風呂敷と和風漆仕様の弁当箱を買ってくれた。鯖の味噌煮に久しぶりにチャレンジしてそれに詰め込んだのだ。
『じゃあ、ゆっくり出来なかった気もするけれど、また来るよ』
日曜の昼下がり。宇佐美重工の佐々木奈々美と約束をしているとかで、隼人は少し早めに帰り支度を始めた。
『昨夜の義兄さんと真一と出かけた夕食は楽しかったな。今度は、お父さんもお母さんも、一緒が良いな』
『そうね、いいわね』
『……そして、右京さんもね』
『そうね……』
夫・隼人の右京を思いやる言葉。
今、たった独りで誰よりも一足早く、一番痛い過去の根本的なあの場所に踏み込んでいる右京。
突然の従兄の退官。
あっと言う間に受理をされてしまったところが、葉月は少し口惜しい。
父と母は『退官願い』を出しその意志は固めているのだけれど、まだ、本部が受理していないようだった。だが、音楽隊の中の一隊、一介の長である少佐の右京は、同じ御園であれど、軍側から引き留められることはなかったと言う。現実にシビアに考えると、それが当たり前であるのだが。でも、葉月にとって従兄の音楽隊は特別だと思っていたから、家族として贔屓目だと言われても、やっぱり軍に惜しんでもらいたかったのだ。
旦那さんとのささやかな週末新婚生活も、こうした御園の重い空気が取り囲んでしまう時間を過ごしただけになってしまった。
今回は隼人もその気になれなかったのか、肌を合わせていない。抱き合って眠ることも、葉月が放つ空気を感じ取った隼人は遠慮をしてくれたようだ。
そのお詫びというわけでもないのだが、葉月は玄関で黒い革靴を履いて『行ってきます』と立ち上がった隼人に差し出した。
『なに、それ』
『お、お弁当』
こんなことをしたのは初めての葉月。
だからちょっと声がうわずってしまっていた。
そして、隼人の驚いた表情がそのまま固まっていた。
まるで、まるで……高校生か中学生が大好きな先輩とか同級生に、やっと差し出しているようなあの場面。そうあの場面を葉月は思い描く程の、気恥ずかしさに襲われていた。
『ど、どうしたんだよ。弁当なんて』
『い、いいじゃない。少しだけ奥さんをしてみたのよ』
『こういうことをしなくても奥さんだよ』
そして隼人も動揺しているのか、変なことを言い出した。
『ええっと俺、葉月にはこういうことまったく期待していなかったと言うか〜』
それを聞いて、葉月は思いっきり胸にぐさっと何かが刺さった感触を覚えたが、だが『やっぱり』と苦笑いを浮かべる。隼人のその言葉はごもっともだと思うしかない。なにしろ葉月にはこういった『女心』とか『乙女心』を持つ余裕がなかったのだから……。
だけれど、目の前には、満面の笑みを見せてくれる夫の優しい眼鏡の顔がある。
『だからこそ、嬉しいよ。有難う、奥さん』
『あなた……』
差し出す弁当箱を持つ葉月の手を、包む込むように隼人の大きな手が重なる。
そして静かにそっとその弁当箱を受け取ってくれた。
『葉月が作ったなら、和食かな』
『うん。いつも貴方につくってもらってばかりだから、少し腕がなまってしまってエドに手伝ってもらったの』
『そうか。でも、たまの手料理でも今までだって、葉月の和食は美味かったから。今夜、独りの夕食でも楽しみだな』
本当に隼人が嬉しそうに笑ってくれた顔を見て、葉月もこの上ない微笑みを返していた。
そうして隼人が『行ってきます』と、小笠原へと向かっていった。──『今度、帰ってきた時もなにかこしらえてくれよ』と、言い残して。
そしてその晩、葉月の携帯にメールが届く。
──『美味かったー! 完食! 鯖の味噌煮、最高』
からっぽになった弁当箱の写真画像が添付されていて、葉月は微笑んだ。
だから、葉月は今、手料理もリハビリ中なのだ。
次に旦那さんが帰ってきた時に、またご馳走をすると決めて。
そうしているうちに、右京にも差し入れをと思い浮かび、ジャンヌを誘ってジュールに持っていってもらうことに。
そして、今日も様子を見に行くとジュールが言うので、ジャンヌと再び差し入れをこしらえているところだった。
ふと気が付くと、また純一が煮豆を頬張っている。
「お兄ちゃま!」
「いや。お前、腕を上げたなあー。美味いったら、美味い」
「そんなに褒めても駄目!」
だが、葉月はまんざらでもない。
『腕を上げた』と言ってくれるなら、それはおそらく、なんでもしてくれる隼人と一切を共にしない時間が半年ほどあったあの時に、一人できちんと夕食を作っていたからだろう。そう思うと、あの辛く重く思えた反省の日々も、自分のステップの為だったかと今は思える。
なによりも、一番、褒めてくれなさそうな義兄がそこまで言ってくれると、頬が緩んできそう。でも、なんとか堪えた。
「なあ、葉月。また炊き込み飯を作ってくれよ」
「その気になったらね」
「なあ、だったら、隼人が帰ってきた時に作ってくれよ」
あの厳つい兄が、そこまでしてねだってくるので葉月はもう笑い出したくて仕様がない。それでも、まだまだ堪える。
でも、まあ。明日は『鳥五目炊き込み』ぐらい作ってもいいかなと、密かに思ってみる。
これも純一の鎌倉の母親、由子から教わった物。だいたいにして葉月が教わった和食というのは、由子や鎌倉の叔母から引き継いでいるようなものだから、右京や純一に喜んでもらえる味であるのは当然かも知れなかった。
そして……今度は、隼人も。鎌倉の味に馴染むお婿さんになってくれるのかなと、葉月はやっぱり遠い海の向こうにいる優しい旦那さんの笑顔に思いを馳せていた。
・・・◇・◇・◇・・・
丁度、昼時──。
葉月は出来上がった料理を小鉢や、小皿に盛ってお盆に並べる。
右京が退官をしたことを気にした亮介と登貴子は、今日は孫の真一を連れて鎌倉御園家を訪ねに出かけていた。
やはり、父親の谷村宏一から『絶縁』を言い渡されている純一は、こうなっても鎌倉へ足を向ける気はまだないようだ。
二階の親子が共に寝起きをしている部屋へと葉月は訪ねる。
純一はそこで、仕事をしていた。
「純兄様、入るわよ」
『ああ、いいぞ』
ドアを開けると煙草の匂い。
窓際に寄せている簡易デスクに向かっている純一の背中が目に飛び込む。
彼は後ろ姿だけれど、口元からは紫煙がゆらりと伸びてくる。くわえ煙草のその顔が肩越しに振り返り、葉月の姿を確認した。
「これ、さっきの。良かったらお昼に食べて」
「そうか。すまないな」
ううん、と、葉月は笑顔で首を振る。
純一は回転椅子をくるりと回すと立ち上がり、葉月の元へと来てくれる。
車椅子を部屋の中に入れてくれ、そして葉月が膝に乗せてきた盆を受け取る。それを再び机の上に置いて、早速、箸を手に持ってくれた。
「うん、美味い、美味い」
先ほど、つまみ食いをしていた時と同じ顔を見せてくれた。
葉月もほっと静かに頬をほころばせ、そうして眺める。
豪快に次から次へと食べていくのがまた義兄らしい。
味わってくれているのか、そうでないのか。それほどに空腹だったのか。義兄は食べるのが早いし、結構大口で食べるのだ。
──それも、ちっとも変わらないと葉月は目を細めていた。
息子が祖父母と実家の鎌倉に帰るのを見送った純一。
真一が使っているベッドには、いつものように彼の部屋着が散らばっていた。一方、父親である純一のベッドは意外ときちんと整い、あるのは本日のネクタイが一本放ってあるだけ。
「しんちゃん、もう、学校、駄目ね」
かれこれ三ヶ月休んでいる。
もう留年だろうと葉月は思っている。
口出しはしなかったけれど、この純一と真一の間でここ一ヶ月ほど『戻る、戻らない』の口論をしていたのを知っていた。
亮介も登貴子もある程度は口を出したようなのだが、そこは純一と真一を存分に話し合わせる姿勢を取り、見守る姿勢をもどかしそうに保っていた。
そして隼人も『父子の問題』として、真一が自らこちらの若叔母夫妻に相談をしてこないかぎりは見守るべきと……。
その真一の主張が『今は戻りたくない。勉強する気がない』だった。
もう出席日数が足りなくなるボーダーラインの時期に来た時、焦っていたのは父親の純一で、葉月の結婚式が終わると『ロイに頼んであるし警護もつけるから戻れ』と今まで以上の説得に力を入れていた。
だが、息子真一の意志は『ノー』だった。そして彼の主張にはもう一つある。『医者はめざす。必ずなる。だけれど、今の自分に納得できていない』だった。そして何よりも今は一家の一大事。真一の一番強い気持ちは『家族のみんなと一緒にいたい』だった。
それを言われると、やっと家族という心持ちや形態を整えてきた純一も弱いところ、迷うところだったようだ。
その口論は、純一が犯人の正体を知った頃、影を潜め、近頃は聞かなくなった。
するとそう経過を辿っていた葉月に、純一が静かに言った。
「真一も、訓練校を辞めたいと言い出した」
「え!? しんちゃんも……」
純一の深い長い溜息。その大きな手でがっちりと持っていたご飯茶碗を盆に置いて、食べるのをやめてしまった。
「なんでも。軍隊の中での医学ではなく、やはり大学から出ていく医学に興味を持ち始めたようだな。きっとお前が治療しているのを傍らで見てきて、医療センターとこの総合病院での違いをありありと見てしまったのだろう。マルソー先生とかエドとか山崎院長。同じ医者でも、それぞれの立場の持ち方の違いも知ったのだろう」
「そうなのね……。小さな頃は、真お父さんのような優しいお医者になるとか言っていたものね」
「真が軍医をしていた印象が強かったのだろう。そして真一も右京と一緒だ。そうでなければ御園じゃないという強迫観念もあったのかもしれない」
そのことはつい最近、葉月もありありと突きつけられたので、何も言えなくなった。
そうなのだ。何故? 御園だから軍人でなくてはとなったのだろう?
もしかしたら、姉の悲劇もそんな当たり前と思っていた『一念』が招いていやしないか? 『軍人一家が崩壊する』と一瞬絶望をした葉月ではあったが、途端に右京が凛とした姿で誰よりも強く前に進み出した姿を見て、軍人でなくなっても『御園は御園なのに』と思うようになれた。
葉月が感じたように、もしかして、真一も? それは純一も感じてるようだった。
「右京があっさりと退官したのも、真一には強烈だったのだろうな」
「そうね。私もそう思うわ」
「よくよく考えれば、俺達は家族で何を守ろうとしていたのだ?」
義兄のその何気ない疑問に、葉月は黙り込む。
直ぐにはそれが何かは言えないが、やはりもっと大事な事を私達は忘れていたのではないかと、そんな気もするのだ。
やがて純一は、どうしようもないとばかりの顔をしたまま、食事を再開させる。
先ほどの蓮根をかじっている純一。
「昔、俺は真に『体力が問われる軍隊での医者にならなくても、一般大学から民間医療でも充分同じ医者になれる』と勧めたことがある。ここでも真も『御園と一緒にやって行かねば、そうじゃない人間になってしまう』と思ったのもあっただろうな。なにせ、俺はなりたかったから入隊をしたんだが、あの音楽だけだった右京が音楽学校を蹴って軍隊に入隊し、あの大好きだった皐月まで入隊したんだから。置いて行かれたくなかったんだと思う。実際に、軍隊に入ってから、身体も鍛えられて丈夫になったから、そのうちに親も止めなくなった」
その兄と姉たちの軍隊で繋がっていく関係は、幼かった葉月も目に焼き付けている。
お兄ちゃま達とお姉ちゃまは、仲良く同じお仕事。そしていつだって皆で集まってはわいわいとしていて、小さな葉月をいろいろ楽しませてくれていた。とても眩しい存在だった。
だけれど、兄達や姉にも、もう既にその時から、それぞれの闇の部分は見え隠れし始めていたのだと……。今になって葉月は思う。
「俺があの時、弟に言った言葉を、今度は弟が守ってくれた俺の息子に言い返されるとはね……」
「そうだったの。それで、どうするの?」
すると純一は一時、緩い笑みを浮かべて黙っていたのだが。
やがて葉月に晴れやかな笑顔を見せてくれる。
「勿論、息子が選ぶ道を信じてみようと思う。そして応援するのさ」
「義兄様──」
「俺も一時期は、お前は御園の跡取りだから、しっかりしろ、強くなれなんて言いつけてきたが、その中には『母親が望んだ軍人で上を目指し、御園の繁栄を』と思っていた。だけれど、違うよな?」
違うよな?
義兄が急にその疑問を葉月に確かめるように投げかけてきたので、葉月は面食らう。だが、葉月も微笑み返す。
「ええ、そうよ。私達、軍人じゃなくても『誇りある御園』よ」
「ああ、俺もそう思う。そして真一も分かっている。どのような職に就こうが、次に家を守っていくのは『この俺』だと、心に刻んでいることも俺には分かった」
義兄と甥っ子がぶつかり合って出した答に葉月は、微笑む。
ただ『御園』という線でかろうじて結ばれていただけの父子が、新しい道をみつけ、それに怖じ気づかず進もうとしていた。
「それで、真一も今日は鎌倉の俺の実家に報告に行っている」
「そうなの……。あの、兄様は……いつ……」
絶縁状態である谷村の実家。
純一にそのまま尋ねるのは、葉月も躊躇うところ。純一もそこはちょっと困ったように黙っていたのだが。
「約束しただろう? お前と真一と一緒に帰るんだと。その時、あのうるさいクソ親父がどんだけ老けたか笑ってやる」
「まあ、ひどい言い方!」
だが、二人は何故か一緒に笑い出していた。
そして純一は、晴れ渡っている三月の空を見上げ、満足そうだった。
「義妹の飯は美味いし、息子は大人になっているし──」
その空に、純一は『よしよし』なんて呟きながら、ご機嫌で白飯を大きな口にかき込んでいる。
真一は訓練校を退学した後、大学検定(現在:高認=高校卒業程度認定試験)を、受ける勉強で一年を費やす決心だとか。
留学もしたいと言っているそうだ。
父である純一は、それを見守る決心をしっかりと固めていた。
・・・◇・◇・◇・・・
そして外の空気はすっかり春を迎え、あの肌寒さがなくなってきていた。
右京の退官というショックからだいぶ立ち直ってきた葉月。そして御園の家族。誰もが同じような事に思いを馳せ、御園の新しい道を探し始め、その糸口を見つけたような気もしてきた。哀しいが、やはりこれも従兄が退官したからこそ、気が付いたような気もした。
葉月は今、昼下がりの窓辺でヴァイオリンを磨いていた。
窓を開け、花や緑の香りがほのかに漂うようになったそよ風が入ってくる青空の窓辺で──。その輝く『彼女』を綺麗に磨く。時には顎に当て、ボウを手にして音を出してみた。まだ流れるような旋律は胸に響くので弾くことが出来ない。だけれど、葉月には『ヴァイオリンを取り戻した戦歴』がある。左肩の傷からついた身体的な損傷と精神的な損傷に苦しめられながら、やっと取り戻したヴァイオリン。今度も同じだ。どんなに今は胸が痛くても、どんなに音が出せなくても……心の中には音がある。
きっと大丈夫。また、取り戻せる。
なにも焦りはない。だから今は、音は出せないが大事な愛する彼女を綺麗に磨き、そしてせめてもの調律を施す。
それだけでも、心が安らぐ。
すると、ベッドサイドに置いていた携帯電話が鳴った。
葉月はヴァイオリンを置き、そして車椅子の肘掛けを両手でぐっと掴み、足の裏にも力を入れる──そして、『立ち上がる』。
一歩、二歩ならお手の物。焦らずゆっくりと身体と足を動かし、葉月はなんなく離れていた場所にある携帯電話を自力で手にした。
電話の主は『旦那さん』だった。
『元気か? 何していた?』
「ヴァイオリンの調律よ」
『楽しく過ごしているようだな』
「うん。今日は東京は良い天気。もう桜がいつ咲くかなんて話を耳にするようになってきたわね」
『そうだな。もうすぐ開花予想日も聞けるようになりそうだな』
「今年は横浜で桜を見たいわ。あ、鎌倉も! 鶴岡八幡宮が綺麗よ」
『いいな。葉月の弁当を持って、皆で行こう』
なんて素敵な計画。
葉月はもう、幸せで仕方がない。笑顔しか出てこない。
「素敵。楽しみだわ。勿論、横浜のお父様と美沙さんと、和人君と、湯浅のおじ様とー」
『すごい大家族になっちまうよ』
だって大家族になれたんだわと、葉月はご機嫌だった。
『おっと、連絡したのはそうじゃなくて、また翼君から連絡があったんだ』
「翼さんから?」
そうして葉月は、暫くそっとしていた美波のことを思い出す。
隼人と翼はこまめに連絡を取っているようだったが、美波は翼の元に身を寄せたきり何処にも出かけなくなったという。勿論、翼がさりげなく、御園の別荘の場所を教えたらしいが美波は『そこに父親と一緒にいた』とは決して口にしないとの事だった。そしてやはりそれが正解だったのか、右京が掃除をするのにこもっているため、父親が戻ってくるはずもなく、美波は葉山に向かおうとすることもしなくなったそうだ。それどころか益々打ちひしがれた顔で、翼の部屋から一歩も出ない生活になってしまっているとか……。何よりも時々『アルに捨てられた』と泣いている時もあるそうだ。
それを聞かされ、葉月は本当に胸痛む思い──。
たとえ彼女が幽霊の娘でも、今はやはり『美波』という一人の女の子としか思えなくなっていた。
『美波ちゃん、やっと決意をしたのか、お前に会いに行きたいと言っているらしいんだ』
「本当に?」
『ああ。翼君の話では父親のことを話したいと』
葉月はまた『来た』と思った。
やっと美波と向き合って話すことが出来ると。
だからとて、彼女に何処まで話すべきかはまだ迷っているのだが、彼女に覚悟があるなら言おうと思っている。
そして彼女も言えなかったことを、葉月には言う覚悟を決めてくれたのだ。
「分かったわ。私の都合はいつだって良いと伝えて」
『分かった。話がついたらまた連絡をする』
仕事中だから、隼人はそこで手早く電話を切ってしまった。
もうすぐ街は桜色の気配。
だが、まだ少しだけ暖かいそよ風が、葉月が着ている青い模様のスカートの裾を揺らしていた。
そのひらひらと揺れるシフォンの生地の優しい動きを眺めながら、葉月は何かを迷い……車椅子に座る。そして意を決し、葉月は車椅子を動かし始めた。
向かったのは隣の部屋。父子の部屋。
ノックをすると真一の声がした。
「あ、葉月ちゃん」
真一の顔は今まで以上に晴れやかで、そしてなによりも益々精悍で意気揚々とする頼もしい青年の顔つきになってきていた。
やはり御園というレールではない、自分自身で見定めた道へと進む心積もりが整い、理解を得られたからなのだろう。
「お父さん、いる?」
「ううん。煙草を吸おうとしていたから追い出した。俺、絶対に二年内に親父を禁煙させるんだ!」
「そう。それがいいわね。お医者様になる息子に追い立てられたらひとたまりもないはずよ」
二人で笑うと、真一は『庭で吸っているよ』と教えてくれた。
その庭へと葉月は車椅子を動かす。
義兄は白いワイシャツと黒いスラックスの後ろ姿を見せ、空を見上げながら煙草を吸っていた。
そう言えば、近頃、純一は空を見上げていることが多くなった気がする──。
「義兄様」
「なんだ。今、俺を黙って眺めていただろう?」
振り向かずに純一が間髪入れない返答をしたので、葉月はその背を見ながらドキリとさせた。
彼の空に伸びていくような長い背中を、車椅子を停めて暫し眺めていたのを気配で気が付いていたようだ。
まだ背を見せたまま、煙草を空へと向けて吸っている純一。葉月はそうっと車椅子から静かに立ち上がり、一歩、二歩とその義兄の背中を目指した。
「! 葉月、お前……危ないだろうっ」
けれど遅い。葉月は小幅で進み最後はとととっとステップをするようにつまずき、純一の腕にしがみついた。
彼が驚いたように、その腕に受け止めてくる。
「いいか、少し歩けるようになったからって張り切るな」
「でも、歩けたでしょう!」
寝たきりの生活。苦しく痛む胸。
それは確かに確実に癒され、回復してきてる。
歩けるようになると、その喜びはひとしおだった。
葉月の嬉しい思いは抱き留めてくれた義兄にも共鳴する。
彼もとても嬉しそうに微笑み、そしてしっかりと足りない力をその腕で補い、葉月を立たせてくれた。
彼の煙草の匂いがするシャツの頬を埋め、葉月はふと煙草をくわえたままの純一を見上げた。
「どうした?」
その笑顔も、葉月は取り戻せたと思える滲む微笑み。
葉月はその微笑みを見たら、今度こそと心に決めてきた決心が鈍りそうになった。
でも……!
葉月は思わず、そのまま純一の背にしがみつき、不安がるように彼のシャツに頬を埋めた。
『どうした』と今度は心配そうな優しい声が聞こえてきた。
さらに葉月は純一のシャツをその手一杯に握りしめる。
「兄様、教えて」
葉月の胸の鼓動が早くなる。
今から聞くことは、葉月にとってはとても聞きたくないことでもあるからだ。
「なんだ」
「教えて……姉様はどこで殺されたの? どんなふうに殺されたの?」
純一の心臓の音が、彼の胸に耳を押し当てている葉月には大きく蠢いたように聞こえた。
そして、彼の息遣いも引いていた。
ぴたりと、止まっていた。