今朝の彼は、隣のベッドにいた。
この前のように隣にいないのは、ちょっとがっかりだけれども、それでも目が覚めて『独りではない』ということはこんなにも安心できる物で、そして……不安になる物なのだろうか。
葉月は目覚め、少しだけ幸せすぎる為に出てしまう溜息をついた。
だが、なんて贅沢な溜息をついていることかと……今は、ふとそんな自分を笑ってしまえるのだ。
考えられなかった。
本当に、自分が人の妻となり、そして独りではなく『ふたり』で生きていける日が来るだなんて……。
だいぶ一人で出来ることが増えてきた。
胸は痛いが、横向きになってややうつぶせ気味に両手をつけはなんとか起きられる。
葉月は一人でむっくりと起きあがり、今日も晴れそうな柔らかな朝の光を窓に見る。
昨日は疲れて日中は眠っていたが、なんと余程疲れていたのか夜も直ぐに寝付いたようだ。
葉月の眠る前最後の記憶では、ぼんやりとしたライトに照らされるデスクで仕事をしている夫の姿。ノートパソコンのキーを打つ音。いつものように集中している彼を見て、そのまま、まどろんでしまったようだ。
お陰様で、今日はここ最近と変わらない程々の『痛み』に収まったようだ。
外側の肌、皮膚には傷はあれど、生々しい痛みや血の匂いのような物は無くなってきた。だが、内側のぐっとえぐられ損傷した部分がまだズキリとすることが多い。本当にこれでは、『直ぐにラストフライト』は無理だろう。
……時々、そこに考え至り、葉月はふと脱力してしまう。
いや、まだ諦めてはいけない!
(そうだわ、なんでもやってきたはずよ)
どうしたのだろう?
今までは、なんでも『どうでも良い』と適当に横に除けてきたことも、何故か今はそう前向きになれるだなんて。
葉月はクリーム色のネグリジェのボタンを外し、胸に変わらずに貼られているガーゼと脱脂綿をめくってみる。
だが、中はまじまじと見ずにすぐに目を逸らした。
でも、その時、ふと……柔らかな光の中に艶々と映る自分の胸先を見て思った。
つい数日前、そこの胸先の直ぐ横に『魚のような印』があった。山崎がそれを見つけて、少し表情を止めてしまったのを葉月は知っていた。その時、流石の葉月も顔から火が出そうになったが、そこは良く心得てくれている大人なのか、それとも医者の冷静さなのか、山崎は知らぬ振りで診察を続けた。
後から『忘れていた』と思ったが、それでもそこにある印が、時間が経つにつれて薄くなっていくのが名残惜しくて。薄くなる程に、彼が恋しくなって……。
「消えちゃった……」
もう、とっくに消えていた。
夫の寝息を耳にして、葉月は微笑む。
彼のベッドサイドに、ガラスの天使がある。
それが朝日に煌めいていて、葉月は再び微笑んだ。
・・・◇・◇・◇・・・
午前中は、仕事をすると葉月は決めている。
隼人が職務復帰を決めた頃から、体調が良ければなにと進まなくても、パソコンを開いて仕事の画面に向かう。眺めるだけでもいいのだ。眺めていれば、そこはもう『大佐室』と同じ。いつもそうだったように、いくつもの書類を広げつつ、なにを書き込む訳でもなく、手元には必ずメモ用紙、ペンを手にしてなんでも書いていた。実はそこが、そのメモ用紙の白紙の上が『大佐嬢本領発揮の仕事場』だったのだ。悪戯書きをしていることもある。変にいくつもハートを書いたり、隼人が『ウサギさん』と言った日には『今更だけれど、なんでウサギなの?』と思いながら、ウサギを書いてみたり。時にはただぐるぐると線を描いて苛つきを解消したり。思いついた事を、自分だけにしか解らない点と線と図形を並べて繋げる作業に没頭したりだ。
『なんですか、それ。仕事、しているんですよね』
『まあね』
たいていは、神経細やかで観察力鋭いテッドに見つけられ、彼が呆れているような、それでもそこになにかがあると信じているような困惑した顔を見せる。
達也も気がついていただろうが、彼は昔から『細かいことは気にしない男』。さらに隼人も気がついているだろうが、彼は『人は人。彼女なりのやり方』と見て、知っているのに知らない振りをしているだけだ。そうしてテッドは、未だに葉月の感覚が『不思議系』なのでついつい聞いてみたくなるそうなのだ。
そんな大佐室にいる自分と同じになる。
葉月はベッドの上で、テーブルに置いたパソコンを開いて。でも、いつものようにメモ用紙に向かっているだけだ。
だが、結局──。そのメモ用紙に書いている事が『仕事』の事でなくなっていることに気がつく。
今、葉月が描いている点は二つ、線は一つ。一つの点は『幽霊の点』。もう一つは『自分』。二つの点を繋いだ糸の線を何度もなぞった。徐々に線が重なり太くなる。だけれどやがて、点の周りに沢山の点を葉月は書き込むようになる。自分の周りに、ひとつ、ふたつ、みっつ。自分と繋がる線、だけれど幽霊とも繋がる線。二人の周りにある点の半分は、幽霊とも繋がってしまうのだ。
だけれど……大佐室にいる時のような閃きはなにも湧かない。
葉月には、解らない。
何故、幽霊は『御園』だったのか。
でも、解っているのは一つだけ。
彼は『私』と強く繋がっている。繋がりたいと思っている。
それは男女の愛憎でもなく、思慕でもない。もっと心の中の根本的な物のような気がする。
葉月は何度も何度も自分と幽霊の線を繋げて、繋げまくる!
そんなことはしたくないのは本心だが、だが、ここから逃げてはいけないのだ。
そう、もう二度と逃げてはいけない!
何度も起こる悲劇はもう沢山!
なにをどうすればいいか、絶対に、絶対に、今度こそ、その原因と答を見つけてやるのだ!
……やがて、何度もなぞった線を描いていた紙に穴が開いた。
「やめろ。もう、今日はやめにして、一休みしよう」
「あなた……」
ふと気がつくと、同じようにデスクで仕事に向かっていた隼人が、葉月の側に来て手を握りしめていた。
葉月のペンを握りしめていた手が力無く開き、ボールペンがころりと穴の開いたメモ用紙の上で転がる。
そして、側にいつもの優しい匂い、貴方の匂いに包まれている──。彼はなにも言わないけれど、葉月を強く抱きしめていた。
仕事でもすれば気が晴れるかと思ったのに。
そうでもなかった……。もう、頭の中は『幽霊』のことでいっぱいだ。
『一足遅かった。これは長期戦だな』
純一がそう言った。そして父もその義兄の言葉に頷いていた。
幽霊は、瀬川はきっと自分の正体がばれたことを知っているはず。これから御園と瀬川はそれを判っている上で対峙していくことになる。相手は今まで以上に姿を見せなくなることだろう。そして今までのように、彼の影を感じつつ、彼にいつしかけられるか判らない日々を送りながら、また彼が動くのをじいっと待つしか『御園の道』はないのだ。
葉月が刺され三ヶ月。幽霊は『やっと俺だと判ったか』と笑っているのではないだろうか?
そして義兄達はすぐに追い詰められると思っていた当初の考えから『今まで以上の長期戦』との考え方に変わってきている。
今日も庭に出て、葉月は庭木を眺めていた。
隼人は側にいない。『一人にして欲しい』と言ってしまったのだ。彼が傍にいるのはとても心強いのだけれど……。今の葉月の考えていることや顔を見せたくない気がした。きっと彼なら『お前、俺に一生迷惑をかけると言っただろう』と言ってくれるだろうし、『そういうところは結婚しても変わらない』とも言いそうな気もする。だがそれ以上に夫になったからこそ、彼はそうした葉月の心情を良く知り、そっとしてくれている気もしたのだ。
そして、葉月は一人思う。
幽霊は、瀬川アルドは『来る』と。
私を迎えに来る。
今度こそ、彼も決着をつけたいと思っている。
だって彼は、あの一刺しで葉月を葬るつもりだったのだ。
だが、それは叶わなかった。
胸への不完全な刺し具合も葉月は気にしていた。
でも、あの時の彼の顔は本気だった。本気だったのに、手元が狂ったのは何故?
葉月の『静かな考え』はいつも一巡りしてはそこに戻っていた。
そこになにか、誰も知り得ない彼がいる気がした。幽霊の顔をしている瀬川ではなく、本当の『瀬川アルド』がいる気がする。
そして彼も思っていることだろう。『今度は間違うことはない』と、彼の今までの思惑通りの『完璧さ』で『最後の犯行』を狙っているはずだ。
しかし、彼のその『最適な時期』と言うのが葉月には読めない。
彼が、どのようにすれば『これが仕上げだ』と思うのか。
今までのように、幸せの絶頂を突き落とすような時期をわざと選ぶような『愉快犯行』か。それとももっと違う何かを秘めた想いを『今度こそ』垣間見せてくれるのか。
葉月が一番危惧しているのは、『私に次ぎに起こりうる幸せ』だった。
結婚は無事に済んだ。それでもそれを壊そうとする彼の思惑は見え隠れしていた。それは彼の娘の美波が阻止したのだが──。その時、彼は何を思っただろうか? 隼人が狙われるのではと思ったこともある。だが……今の葉月は思う。彼の目的は、やっぱり『御園』である葉月なのだ。今、葉月が感じているのは『御園の生け贄として差し出せ』と幽霊に、生け贄として白羽の矢を立てられているとしか思えなかった。隼人を傷つけても、生け贄が息絶えない限り、彼は満足はしないだろうから……。
そして結婚が駄目なら、次の葉月の幸せ……。
その時、葉月は空を見上げ、そして腹をそっとさすった。
それは、この身に愛する夫との結晶、生命を宿した時か。
これは御園の戦いなんかじゃない。
瀬川アルドという男に選ばれた女としての戦いのような気がするのだ。
胸が痛い。
彼が新たに葉月に授けた傷が、また新たな試練を与える。
いつまでも、いつまでも──。古傷が癒えたら、新しい痛みと傷を。
そして最期の苦しみを、哀しみを。
彼が持ってくる。
彼から持ってくる。
長期戦なんかじゃない。
彼も手ぐすね引いて待っている。
さあ、来い。俺と一緒にとことん地獄を見ようじゃないか。
彼の声が今ははっきり聞こえる。
葉月がずっと胸に隠してきた真っ黒いどろりとした沼から、その男ははっきりとした顔を見せ、葉月に笑いかけている。
「葉月。お客様だ」
車椅子の背後から、夫の柔らかい声。
その声に救われるように葉月は笑顔で振り向いた。
するとそこにはスーツをきっちりと着込み、花束を持っている男性が一人。
短く刈り込んでいるスポーツマンのような顔つきの若い青年──確か、名前は『テル』。
「先日は、失礼致しました」
あの時は、とてもふざけた雰囲気で、だらりとした格好をしていたのにと葉月は目を丸くした。
そのスーツの着こなしも、たまに着るといったぎこちない物ではなく、きちんと着慣れている風だったからだ。
「翼君のアパートにいる時に、会ったんだって? こちらの彼が話があるから行かせると、また翼君から連絡があって……」
隼人とテルの視線が合い、まるで既に見知っているかのように柔らかく頷き合っている。
そうして彼は、翼経由で御園が滞在する敷地内にその姿を現したようだ。
そのテルが、今日はピンとした背筋で葉月の前に歩み寄ってくる。そして小振りの花束を差し出したのだ。
「お加減如何ですか? これはお見舞いです」
「あ、有難う……」
真っ赤な薔薇と深紅のガーベラーとグリーンのアレンジ花束。
葉月はそれをやや呆然としたまま、テルから受け取った。
「どうかな。中で一緒にお茶でも」
「そうね。えっと、あの翼さんからは『テル』さんと聞いてるけれど……」
名を確かめると、彼はよくぞ尋ねてくれたとばかりの、あの時のような不敵な笑みをにっこりと葉月に見せた。
「相田照実。テルミなんて、女みたいな名前っしょ? だからテルと呼んでもらっています」
その時の彼の可笑しそうに笑う顔は、あのふざけたような顔。
だけれど、葉月はそれは彼のちょっとした『ひょうきんな一面』かと思えるようになって、一緒に笑っていた。すると、彼はもっと楽しそうに笑う。側にいた隼人も、微笑ましい顔で眺めてくれていた。
夫が押してくれる車椅子がバリアフリーの玄関を上がり、そしてテルも靴を丁寧に出船に揃えて脱ぎ、上がってくる。
車椅子の後を隼人とついてくる途中、ジュールがリビングから『いらっしゃいませ』とお客を迎え入れる姿勢で出てきた。
「お嬢様、お茶を」
「そうね。私の部屋でご馳走したいわ」
「そうですか。かしこまりました。後ほど、お持ち致しましょう」
ジュールのこの上ない微笑みに、少しかしこまっていたテルも肩の力が抜けてきたようで、葉月もホッとする。
二階の寝室に彼を案内する。
葉月には分かっていた。彼が来たのは『美波の話』をしに来たのだと。
「どうぞ。さっきまで主人と仕事をしていたので散らかってるのだけれど……」
「お邪魔致します」
テルはきちんと部屋の前で一礼をして、入ってくれた。
隼人が使っている簡易デスクには、散らばっている紙束に積まれているファイル、そして起動したままのノートパソコン。
そして葉月のベッドテーブルにも同じように。床には二人のマシンをそれぞれ動かす配線が張り巡っている部屋。
テルはそれをひと眺めしていた。葉月もそっと素知らぬ顔でそんな青年の目の動きを、息を潜めて窺ってみる。彼の顔は、柔らかい表情のままだが、目だけは光っている。葉月の中で、先日、彼から感じた『素質』と言う物への興味がびんびんと音を鳴らし始めていた。
「葉月さんは、たしか『大佐』でしたよね」
「そうね。そんな肩書きは頂けたのだけれど、一人じゃ駄目なの。何人もの補佐に支えられてやっとなのよ。ね、貴方。主人もその内の一人なの」
テルが隼人を見て『そうですか』と答え、隼人は小笠原でそうであるように、大佐嬢に付き添っている側近の顔でただ微笑み返しただけだった。
「ですが、やはり大佐ともなるといろいろあるのでしょうね」
「そりゃね。ただの肩書きでは済ませてくれませんから」
「いえ、でも。貴女を中心とした若い一隊があると知って、凄く興味を持ちました」
葉月は少しだけ『おや』と期待を持つ。その通りの気持ちを彼に言葉でぶつけてみた。
「その気はある?」
「そうですねえ……」
テルの少し迷う顔。
葉月はそれを見て『やはり』と、思う。そしてほんの僅かな期待を馳せた分だけの、ほんの僅かな残念な気持ちも持った。
彼は磨けば『いい素材』だろう。でも、だからとて『軍人』という磨き方では駄目なのだと……。葉月は分かっていた。
「相田君、貴方は『組織』に属しては駄目だわ」
「そうなんすよね。ほんっとうに性に合わなくて……」
「それで伸びる人もいるわ」
「そう思われますか? 一個中隊の隊長にそう推してもらえると、このまま行ってみようと言う自信になりますね」
「自信を持って。貴方の素質は素晴らしいと先日思ったの。これからの活躍、楽しみにしていますから。貴方の今までの努力のお陰で、『御園』として大きな情報を得ることが出来ましたから」
「いえ、今回は……その『可愛い後輩のため』と言うか……」
「いいえ。美波さんが大金で雇ったという情報屋よりも、『私のこと』を詳しく掴んでいたみたいで驚いたわ」
葉月がどうやって調べたのかと聞くと、そこはテルは押し黙ってしまった。つまり『企業秘密』ということらしい。そういう彼なりのポリシーも気に入った。
すると葉月とテルの『誘拐当日』で交わしたが故の話を聞いていた隼人が、妙に横で頷いている。それが不思議に思えたのだが、その隼人が急に思わぬ事を言いだした。
「どうかな。奥さんの許可さえあれば、俺が『御園の婿』として彼と個人契約を結ぶというのは」
つまり御園と属する訳でもないが、協力は得たいという話。
いつでも仕事を提供するという話だ。
葉月もそこをうっすらと描いていたのに、旦那さんはグンと距離を縮めて現実にしようとしている素早い決断に葉月は驚いた。
「出来れば、ここは『御園』という名を名乗ることになった俺の『初仕事』とさせてもらいたいね」
「いいの? 貴方」
「奥さんの許可があれば、だよ」
そりゃもう、葉月は『許可』だ。その上、葉月が迷っていたことを、旦那さんは『ここは俺の責任』とまで言って話をまとめようとかなり本気だった。
だが、テルの返事は違う物だった。
「有難うございます、すごく嬉しいです。だけれど、俺の今の立場上……そこはちょっと保留にしてもらえませんか」
その時テルは、葉月ではなく契約提案をしてきた隼人を真っ直ぐに見てはっきり言ったのだ。
流されない意志も、葉月は『気に入った!』と言いたくなったぐらい。だからこそ即答でなかったのは残念だったが、彼の『立場』と言うのも分かる気がした。
彼は幽霊の娘である『美波側の人間』なのだ。幽霊と御園の間にある諍いは、美波にとって望む物ではなく、そしてまだ真実も明らかになっていない。そこへ来て御園と契約を結ぶと言うのは、彼にとっては『御園側につく』に等しくなり、美波側の味方としての立場を捨てることになるのだ。
すると、提案を持ちかけた隼人がふうっと降参した溜息をこぼした。
「相田君、すまない。ちょっと急ぎすぎたね。妻の目が、君の実力が欲しいと言う顔をしていたのでつい……」
「いいえ。本心は『光栄』すぎて、ちょっとよだれがたれています。俺も仕事として確立して行くにはそういうバックアップが欲しいところですから」
だけれど、ここは仕事のステップアップよりも『友人』と言う意志を見せた彼に、葉月はほっと頬をほころばせていた。
「そうね。今は……まだ、ね」
「ですが、美波の為になることであれば、御園への協力も惜しみません。それを今日は言いたくて来ました。翼からも、立場をはっきりさせた方が良いと言われまして」
「そう。でも、嬉しいわ。貴方のような人に出会えて」
「うん。いいね、若い力。俺達の中隊もそうだもんな。範囲は違っても、お互いに頑張っていきたいね」
葉月に続く隼人の言葉に、あのテルが純真ともいえる少年のような笑顔を見せたので、夫妻は顔を見合わせて笑った。
「どう? 美波さんはその後……」
「それが、急に気力が抜けたようにしてあれから翼の部屋から一歩も出なくなってしまって──」
それも報告しに来たと言うことだったらしい。
翼はそんな美波に付き添っていて、二人で訪ねに来る状態じゃないらしいのだ。
彼女は、葉月が座っていたあの窓辺で膝を抱え、ただ空を眺めているだけなのだと──。
その話を聞いた葉月は、思いもしない彼女の変化に驚いて、側にいる隼人を見上げた。
「俺が思うに、美波は父親がどのような人間であるか『認め始めている』のではないかと思うのです」
「……そう」
葉月は胸を痛めながら、目を伏せた。
そして美波は、葉山へ向かうこともしなくなったと言うのだ。
「それから気になることを美波は口にしているそうです。それを今日は翼の代わりに……」
テルが翼の代わりに伝えに来たことはこうだった。
美波が、虚ろな顔で『父親は葉月さんを奪いに行く』と言っているとか。
それを聞いた葉月は、驚きはあれど『ついに来た』と言う武者震いのような物を感じてしまう。そして葉月にはそれが姿を見せない幽霊が、葉月にだけに送ってきた娘というアンテナを通した暗号のようにも聞こえたぐらいだった。
だが、隣にいる隼人の顔は、青ざめていた。無理もないかと葉月は顔を俯かせる……。
「有難う。相田君」
「いえ。美波はきっと阻止したいと思っていることでしょうから」
「そう……」
いつまでも彼女がその状態なら、葉月から会いに行こうと思った。
「さあ、お話はそれぐらいにしましょう。今日はお茶を楽しんでいってね」
「いやー。優雅すぎて」
テルは、お嬢様風で勧める『ティータイム』の雰囲気におもはゆい様子。
それでも隼人が、いつものテーブルと椅子を整えると楚々とジャケットの襟を正して椅子に座った。
簡易型の丸いテーブル、葉月は彼の隣に車椅子を落ち着かせる。
「ああ、そうだった。これ、葉月さんに」
「え? 何かしら?」
これまた彼がちょっと隼人を気にした目で、バツが悪そうに葉月に箱を差し出してくれた。
綺麗に包装され、赤いリボンがかけられている。葉月はそれを受け取った。
「えっと。中身は『ブラウス』です。よ、良かったら着てください」
中身を聞いて驚いた葉月。たぶん、先日、彼が、葉月の傷を確かめたいが為にふざけた振りで本気で破ってしまったことを気にしてのお詫びなのだと……。
「まあ、あ、有難う」
「い、いえ」
葉月がすんなりと、出会ったばかりの青年からの突然のプレゼントを受け取ったので、流石に隼人が疑わしい顔をしているのだが。直に隼人は、いつもの素知らぬ顔で、ジュールが運んできたお茶を味わい始める。
「相田君の、今までの武勇伝を聞きたいな」
「武勇伝だなんて」
「ううん、私も聞きたいわ。ね、貴方」
隼人自らのムード作りに葉月はおろか、テルもホッとしたようだった。
彼が今までの経歴を彼が話してくれる分だけ聞かせてもらう。室蘭でもそれなりに真似事はしていたようなのだが、今は翼が働いているショットバーが、どうもその仕事が舞い込んでくる『仮事務所』なのだそうだ。翼に呼ばれたこの数ヶ月で、彼経由で舞い込んでくる若者特有の『悩み事相談』は尽きないらしく、美波のことを調べる傍らでこなしてきるそうだ。彼の客層は今のところそこにあるようで、ちょっとした『兄貴』になっているらしい。
小笠原という隔離された世界にいる葉月には、自分と同世代、または少し若い彼等の世界の話はとても新鮮だった。そして隼人もすっかり聞き入っていたようだ。
彼はお茶を小一時間楽しんだ後、すぐに御園家を後にした。
彼が帰った後、箱のリボンと包装を解いてみると、中から破かれたピンクのブラウスと同じようなしなやかに波打つフリルがたっぷりある真っ白なブラウスが出てきた。
「なんで、彼からもらうのか? 早速、ウサギにお熱とか?」
「うふ。そうだったら、どうする?」
葉月はそのブラウスを手にとって、隼人の前に広げてみた。
「別に」
いつもの天の邪鬼な、冷めた目つきを見せられ、葉月はちょっと笑ってしまう。
隼人はそのまま知らぬ振りで仕事を始めたが、暫くは指先をこつこつと意味もなく机の上で鳴らしていた。それが少し苛ついているのだって……奥さんはお見通し。そこでも笑いたいところを堪えつつ。
「あのね……」
どうしてブラウスをもらうことになったのか、正直に話すと、隼人は最初は凄く嫌な顔をした。それは当然のところだろうが、そこから後が『私の旦那さん』で、あらゆる事を考えまとめ、『そうだったのか』と笑顔になった。
「まあ、今回はなかったことにしようじゃないか? その代わり、義兄さんに知れたらお前、あの子をかばってやれよな。下手したら殺されるぞ」
「まさか。相手は若い青年で、それに比べたら純兄様は大人なんだから」
だが隼人が小さく『甘い!』と吐き捨てたのが聞こえて、葉月は首を傾げた。
そして隼人は『お前は兄貴をなんにも分かっていない』なんて、思わぬ事も言うのだ。
どうして? と葉月が首をさらに傾げても、もう隼人はなんにも答えてくれなかった。
だけれども、葉月も心の中では『絶対に、兄様には言えない』と思っていた。
このブラウスを着たら、純一にはなにか聞かれるだろうか? 葉月は少しだけ唸った。
・・・◇・◇・◇・・・
その日の午後だった。
隼人が欠勤した分、小笠原と連絡をしながら仕事に没頭しているので、葉月は暇を持てあまし一階のリビングでぼんやりしていた。
「よう。葉月、元気そうだな」
「右京兄様!」
いつものようにリビングの窓辺に従兄が現れる。
彼はここのところ毎日、鎌倉から通ってきている。
そしていつだって笑顔。一時期、幽霊を追い詰めてやるという切羽詰まった気迫は影を潜めてしまっていた。
今までのような派手な格好をしなくなり、それでも流石自分に似合うものを知っていると感心するナチュラルな服装で現れるようになった。
「今、どうしている?」
「うん。さっき、山崎先生のところから帰ってきて、仕事部屋にいるわよ」
「そっか。じゃあ、もう少ししたら行くか」
そう、こうして毎日ジャンヌに会いに来ているのだ。
ジャンヌは相変わらず仕事の顔は崩さないが、それでも右京が訪ねに来るのはとても楽しみにしているようだった。エドが落ち着いて一軒家にいる時は、ジャンヌも夜は右京との時間を楽しむ余裕さえみせるように。そして右京も、もうジャンヌしか見えないという様子なのだ。
(良かった。従兄様も幸せそうになって……)
葉月はそれで良いと思っている。
純一もそうだが、右京は前に出るタイプではないのだが、やはり『長兄』という密かなる使命感を強く抱えている兄。葉月はそれを良く知っているつもりで、彼が今までそうして自分の何かを犠牲にしてきてくれた気がしてならないのだ。
ふざけたふりして、放蕩息子の顔をして、そうして影ではたった独りで自分を責めている。そんな気が葉月にはしていた。
だが、それはジャンヌという女性と出会って一変したと葉月は安心していた。そう思えるのも、葉月もジャンヌに出会って色々と変化をもたらたしてもらえた部分が多かったからだ。同じような痛みをもつ従兄が、そこを一人の男性として癒されたというなら、それはジャンヌという女性だったからだと葉月は思えるのだ。
ジュールがいつものように出した紅茶を、従兄は美味しそうに味わっていた。
「ねえ、兄様。私ね、隼人さんに頼んでヴァイオリンを持ってきてもらったの」
「へえ……。そうか」
右京の気のない返事に、葉月の胸はどこかズキリとした重い痛みが走った。
彼の反応が今までと違う気がしたのだ。
ある時から愛しているヴァイオリンを、だからこそ憎み避けて、引き寄せては憎く当たり散らしてきてヴァイオリンを『忘れないで欲しい』と必死に持たせてくれたのは、純一の他にはこの従兄だった。
葉月以上に音楽を愛でている従兄は、葉月のことを『俺の愛弟子、相棒』とまで言ってくれ、葉月がカノンの相手をするととても喜んだし、鎌倉に帰れば必ず右京にせがまれた物だ。
それなのに……。ヴァイオリンを傍に寄せたことを知らせたら、従兄は直ぐに『おお! いいな、早速一緒に弾こうじゃないか』と言ってくれると思ったのに……。その気のない反応。
それでも葉月は気のせいかと思って、同じくジュールが入れてくれた紅茶を右京と一緒に味わっていた。
すると従兄は、飲み干したカップを置くと、それまでのような優雅な仕草で長い足を組んで、遠い目。
まだ、そんな顔はするのだと、葉月はそっと窺っていた。どんなに素敵な恋人が出来ても、やはり従兄も消えぬ傷が今はえぐられるほどにズキズキする時もあるのだと。
「ああ、そうだ。葉月にも言っておこう」
「なあに?」
「俺、退官したんだ」
葉月は『え?』と、カップを持つ手を止めてしまった。
つまりそれは軍隊を辞めたと言うことか? と……、そう聞きたいのに葉月は聞けなかった。いや、言葉が出なかったのだ。
だが、右京はなんとも感じてないような平静な顔で続ける。
「親父もおじさんも、ジャンヌも、純も──皆、知っている。うん、止められたさ。でも、俺の気持ちをちゃんと話したら、最後には親父は許してくれた」
何故!?
葉月の心はそう言っているが、声にならない!
父と母が退官願いを出した次には、音楽隊を勤めている従兄が──!?
何故? これは幽霊の呪い?
彼が軍隊と関わっていると判った途端に、その呪いが効果を発揮し始めるように『軍人一家』の形態を崩しにかかっているように葉月には思え、硬直するだけだった。