-- A to Z;ero -- * 砂漠の朧月夜 *

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6.レディ・ゴゥ

 都心に出向くと、ビルや道路、車に信号機……あらゆるものに囲まれると、急に潮の匂いが無性に恋しくなるものだ。
 青空はそびえるビルの狭間で『欠片』のようだ。それでも黒いビルの間に見えるせいか、青色が特に際立って見える。
 ここでは戦闘機は間近には見えない。

「澤村君──!」

 今、最新と言われるテクノビルの厳重な警備を通過すると、そこで待ちかまえていたとばかりの男性の声が響き渡った。

「常盤さん」
「いらっしゃい! 待っていたよ」

 いつものラフなカジュアルスタイルの常盤。そんな彼から隼人に駆け寄ってきてくれ、そして眼鏡の奥の瞳が微かに濡れているのに驚いた。
 ──それほどに? ただ仕事だけの関係だったのではと思わなくもなく。いや、でもその仕事を通じて、散々『悪戯でも、途方もない夢』を語ることが出来た男性だったのかと改めて思った。そう思うと、彼と久しぶりに手を握り合えば、隼人の目頭も熱くなってきてしまった。

「……ご心配、おかけしました」
「軍から君の休職を報された時は、驚いたよ。しかもそれが大佐嬢が事件に巻き込まれただなんて……」
「はい、僕もショックでした」

 俯く隼人の背を、常盤がそっと励ますようにさすってくれた。

「でも安心したよ。大佐嬢は全快とはいかずとも回復に向かっていると聞いて。それに君もすぐに連絡をくれて有難う」
「気になっていましたから」
「そう。良かった。もう君と『子供じみた企み』が語り合えないのかと思った。君が復帰できなかったらと……。でも信じていたよ」

 お互いにやっと以前のように向き合える時が戻ってきたと安堵出来たと、隼人は微笑んだ。

「青柳も待っていたんだよ」

 常盤がそう言って先ほど駆けてきた方へと、手で差した。

「澤村君……」
「やあ、久しぶり」

 こちらも常盤同様に、泣きそうな顔を既にしている。
 そんな同窓生に対して、隼人は明るい笑顔で手を振った。
 彼女も駆けて、隼人の目の前にやってきた。

「大変だったわね。本当、驚いて……オフィスの皆、心配していたのよ」
「有難う。でも、落ち着いたよ。俺も彼女も」
「葉月さんは、本当に大丈夫なの?」
「ああ、車椅子だけれど、すっかり元の彼女だよ」

 佳奈のホッとした顔。彼女の方は、葉月のことがとても気がかりだったようだ。

 青柳から、大佐嬢と話したいと願い出てきて、心ならずとも隼人が大佐嬢へと取りなした。テッドを伴い本島まで会いに出向いた葉月としては『仕事に関係ない私情が交じる良くある話』だったようなのだが『内容は思うものがあった』と帰ってきてから教えてくれた。そして佳奈にとっては『大佐嬢』はある意味『ターニング』だったようなのだ。
 実際にあれ以降、小笠原や本島出張で何度か彼女に会ったが、あの時彼女が垣間見せていた『焦り』がなくなり、ドンと落ち着いて仕事をこなしていた。『常盤のアシスタント』と言う枠をはみ出ることなく、そして男性陣に垣間見せていた冷たい壁もいつの間にかなくなり、彼等のサポートを誠心誠意こなしている姿を見られるようになったのだ。
 ある時、隼人はちょっと彼女をカマかけるように『最近、楽しそうじゃないか』と話しかけると、彼女は無言で不敵な微笑みを見せたのだ。それがなんと『うちのじゃじゃ馬嬢』の侮れない微笑みそっくりで驚いたぐらい。その佳奈が後に一言──『葉月さんには負けない』だった。今度は何を張り合うつもりかと思えば、彼女は小笠原にやってくれば必ず葉月に挨拶をしに来て、二人は大佐室の応接テーブルで他愛もない女性同士の話で盛り上がっているところを何度か目に出来るようになったのだ。
 ──その合間に、葉月の手元にテッドが手渡した『佐々木奈々美』の調査書が舞い込んできた。
 葉月は佳奈にはそんなことを水面下で起こしている様子などちっとも見せないし、彼女のために調べたと言うような様子も見せなかった。

 だが、結局──。女の友情が芽生えたかどうかまだ怪しい段階だが、青柳佳奈の埋もれ行く心情を葉月が抱き留めたという感触を隼人は感じていた。
 あの、女性達を避けていた大佐嬢が、いつのまにかこんなことを。
 テリーという昔なじみの後輩が戻ってきて、そして反りが合わない後輩であった小夜とぶつかり合ってお互いに丸くなり信頼関係を築いていく中で、葉月はいつのまにかそう出来るようになっていたと言うのだろうか?

(違うな……)

 後輩達との付き合いはともかく。
 佳奈に関しての葉月の接し方は、女性であって女性ではない。どちらかというと『ビジネス』に重心が置かれていると隼人は思う。
 その葉月が『ビジネス』の中に『女性』という要素を取り込んだのは、友情とは別に思えた。そして佳奈もそれだと割り切っているだろう。

 だがと、隼人は今、目の前にいる常盤と佳奈を見た。

 確かに『ビジネス』で出会った人達だ。
 だけれどそのビジネスから生まれた信頼関係もあるのだと……。
 こうして戻ってきたことを、自分の職場外の者がこうして待ち望んでいたことに、隼人はビジネスで得られるビジネス以外の掛け替えのない物が存在することを信じられると言い切りたくなる感動があった。

「本当に有難うございます。また一緒に頑張らせてください」

 隼人が頭を下げると、常盤と佳奈も『こちらこそ』と頭を下げてくれる。
 再会の挨拶はそこまで。オフィスへと案内してくれる常盤は、隼人の隣に並び早速『少年のような夢語り』を始めてくれた。
 そんな男二人の途方もない馬鹿げた話を、今の佳奈は落ち着いた女性の笑顔で見守り、後ろから着いてきていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

『これ、私の新しい名刺です』

 彗星システムズのオフィス。その中の小さな一室で行われたいつものメンバーとの久しぶりのミーティング。
 若い彼等にも隼人は熱烈に迎え入れられた。
 皆が揃ったところ、さあ今から待ち構えていた話を始めようとした時、隼人は『知らせたいことがある』と切り出し、一人一人に丁寧に『新しい名刺』を手渡した。
 それを確かめた時、常盤も佳奈もおろか、誰もが絶句した顔で隼人の姿を確かめたのだ。
 その名刺には『御園』の文字。隼人からはっきりと『婿養子になった』と伝えると、こちらも四中隊と同じように『騒然』。

「あ、あの軍人一家の婿養子!? よく決心したな」
「自然でしたよ。僕にとっては」

 隼人のいつもの余裕ある笑顔に、さらにその場がしんと静まりかえる。──というか『のろけだ、のろけ』という野次がすぐに返ってきて、その後直ぐに一同揃っての『ご結婚、おめでとう』の祝福をもらうことができ、隼人は照れ笑いを浮かべてしまっていた。
 ──この時、誰もが思っただろう。暴漢に襲われた恋人を失いそうになり、彼女が意識を戻したから、今までのどの躊躇いも打ち消し結婚したのだと。そうであって、そうでない部分もあるが隼人もそれはいちいち言わないし、彼等も問うては来ない。
 ただ、そんな彼等の『おめでとう』は間違いなく、心よりの言葉だと隼人も心よりの礼を述べた。

 本日のミーティングは、真剣な会議と言うよりかは、現状を確かめ合うのを第一目的としながら、『再会』を喜び合うと言った和やかさで始終した。
 メンバーとの和やかな再会を果たした会議の後、隼人は今までもそうしてきたように、常盤の課長室に案内され、そこで二人で好きなように話す時間も堪能した。
 時は既に夕方。各所のオフィスが終業定時を迎える時間帯となっていた。

「大佐嬢、いや大佐奥さんにお大事にと。ああ、いけない。『おめでとう』、お幸せにと伝えておいてね」
「有難うございます、課長」

 いつものように、オフィス前で常盤が見送ってくれた。
 その傍らには、こちらも祝福の笑顔を見せてくれている佳奈も『私からも、おめでとうの伝言を』を見送ってくれていた。
 さて、今度は小笠原でと別れようとした時、隼人は佳奈の顔を見た。彼女と目があったが、彼女はふと首を傾げている。

「すみません、課長。同窓生として彼女と話したいのでお借りして宜しいですか?」
「え? ああ、いいよ。じゃあ、今度は小笠原で。今日はお疲れさま」
「お疲れさまでした」

 彗星オフィスの入り口の廊下。
 そこで常盤が手を振ってサッと一人でオフィス内へと去っていく。
 彗星の社員しか通らない青い絨毯敷きの静かな廊下には、隼人と佳奈の二人だけになる。

「なに? 澤村……じゃなくて、御園・・中・・さ?」
「旧姓でいいよ。基地でもここ数日だけで混乱されて、同室に御園が二人はややこしいって、通称名としても使うことにしたから」
「そう。じゃあ、なに、改めて」

 少し佳奈がホッとした顔。
 隼人の顔、話し方が本当に『同窓生』だと分かったからなのだろう。
 その佳奈に隼人は微笑む。

「良かったら、今夜どうだ」
「どうって?」
「え、食事だよ。俺がご馳走すると言っているんだよ」

 佳奈があからさまに驚いた顔を──。

「馬鹿じゃないの? あんなに酷い目にあった奥様を放って? 真っ直ぐに帰りなさいよ! 直ぐそこなんでしょう病院」
「うーん。なんて言うか。今日来たのは奥さんも目的であって、でも青柳も大事な目的だったというか〜」
「どういう意味!?」

 また佳奈が驚いた顔。
 そこには嫁さん以外の女性になんの目的があるのかという、妙に不審な顔。
 隼人はそう思われることも覚悟ではあったものの、バツが悪い感じで黒髪をかく。

「なんていうのかなー。じゃじゃ馬の小間使いと言っておこうか」
「なに、それ!?」

 佳奈は益々分からないという顔をしていたが、葉月の用事と分かったのか、仕事が終わったら連絡をくれるという約束をしてくれた。
 隼人はそれまで、あのカフェで待つことにする。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 彗星システムズのビルがある側の、カフェ。
 夏に小夜と見つけたカフェは、その佇まいを変えてはいなかった。
 そして、夏の終わりに今は妻となった葉月ともここに来たことがある。

 その時、彼女と向かい合った席が空いていた。
 隼人は思い出をなぞるように、その席に向かい座り込んだ。
 ……あの時、佳奈が常盤に黙って隼人を呼びつけ、常盤に言われた用事だと偽ってでも同窓生である隼人に『見て欲しい』と手渡した彼女の『作品』。常盤が作ったと見せかけたのだろうが、言われたとおりにチェック作業をしてみれば、それは一目で『常盤ではなく、彼女が作ったもの』と分かった。
 その佳奈の小さな暴走──。女と言うだけで、アイディアを起用してくれないというジレンマ。彗星システムズを捨て大企業へと躍進していった後輩を妬み、ライバル視するばかりの女心。それが後押しをし、社外にいる今回の『大仕事』を共に手がけることになった隼人に向けた『大嘘』。
 その為に、呼びつけられる、常盤から依頼された仕事だと思わされ、無駄な仕事をさせられる。と言うように同窓生の彼女に隼人は振り回され、せっかく恋人としての関係に修復が出来た葉月との、都会で一晩じっくり愛し合い過ごした余韻を楽しむ二日目のデートをキャンセルせねばならなかったという思い出があるカフェ、席だった。

『貴方、今日はそのお仕事に集中した方が良いわよ。私との時間を大切にしてくれる気持ちはちゃんと分かっているから』

 隼人はこの日のデートが終わってから、この仕事に取りかかると言うのに。葉月はさらっと言い除けて、『どんなことでも仕事となれば、手を抜くな』とばかりにあっさりと小笠原に一人で帰ってしまったのだ。

「参ったな。あの時は──」

 手元にやってきたカフェオレを手に──。今の隼人は窓辺の景色を眺めながら、微笑んでいた。

 そして隼人は、あの時と『違う気持ち』を持ち始めていた。
 あの時、佳奈が持ち込んできたどうしようもないシステムだ。
 隼人の判断は『企画へと推せるレベルではないが、悪くないものはあった』だった。そしてそれ以前に、彼女の『空軍』という未知の世界に対して取り組んだものが、あの時点では『知らないまま作っている』物として、あまりにも安易で、作っている内容の底が『ゲーム玩具のよう』だったことが、悪くはなくても最大のネックだったのだ。

 あの時は、『今までの隼人の感性』で、突っぱねた。
 だが、もう一度、見てみようと言う気になってきた。
 だからと言って、あの彼女の作品がよく見えるようになるとか、そういう奇跡的な物は起きないと思う。ただ、それでも何かを押し進めるきっかけが見えてくるかも知れない──『今の隼人』なら。
 それもこれも、葉月が言った『女性が考える防衛。男性が口を挟まなかったらどういうものが出来るか見てみたい』と言い出したことが、急に隼人の中で気になり始めたのだ。
 どちらかというと、隼人は物の構造を確かめたりとか、それをいじくるとか、物を造ってみたいとか、そんな部分に強い『興味』がある。その上で今まで『男と女』の違いなんて考えたこともなかった。あるとしたら『この世界は男が多くて、女性は少ない』ぐらいの感覚で、だから隼人が興味ある航空工学なんかでも、男が多く携わっていくのは当然でしかないと思うぐらいだった。それを、あのウサギは『男と女の違いを見てみたい』と言い出したのだ。もっと簡単に言えば、『男性スタイリストが施したメイキャップ、女性スタイリストが施したメイキャップ』とか『男性がデザインしたランジェリーとか女性がデザインしたランジェリー』とか、その世界でも当然男と女はないが、多少はそういうものが僅かながらに垣間見える、そういう『僅かでも決定的な違い』を葉月は見たいと言いだしたのだ。
 それが徐々に、隼人の中ではあの時とは違う心境に作り替えていったのだ。
 これはまさか、隼人がここまでの心境になると見越した、じゃじゃ馬の仕業? だとしたら、なーんて恐ろしい奥さんなんだろうと思ってしまうところだが……。隼人はなんだかそれすらも嬉しくなってしまい、一人で頬を緩めながら暖かいカフェオレを飲んでいた。
 そうしていると、約束した時間を20分ぐらいオーバーして佳奈が現れた。

「おまたせ。遅くなってごめんなさい」
「いいや、そんなに待っていないよ」

 春らしいアイボリーのパンツスーツに、キャメル色のスプリングコート。オフィスでは目にしなかった華やかなスカーフを首に巻いている彼女。
 夏の頃より、なんだか少し変わった気がした。柔らかくなったように見えるのは、春特有の優しい色合いを差し込んでいるファッションのせいだけなのだろうか? 前は隙も見せない印象を与えるきっちりとひっつめたまとめ髪をしていたが、今は同じまとめ髪でもゆるやかに、目に付くアクセサリーを使ってまとめている。
 ──変わったなと、隼人は思った。
 その佳奈は、隼人の向かいに腰をかけ、手にしていた小さな正方形の紙袋をテーブルに置いた。

「これ、ささやかなんだけれど。結婚祝い。どれが良いか迷って。それで遅くなってしまって……」
「え!? や、やめてくれよ。こんなことをしてもらうために報告した訳じゃ……」
「分かっているわよ。報告は仕事上でも大切なことでしょう。特に澤村君、大事なポジションにある中佐なのに名字が変わったんだから。これはね、私の気持ち」
「気持ちって、青柳……」

 一年前の同窓会で彼女と再会し、この仕事でより一層に顔を合わせるようにはなった。それでも『同窓生』としながらも、前提は『社外と軍外にいる同分野の仕事仲間』でしかないはずだ。実際に、彼女とプライベートでこうして食事をするのは初めてだし、仕事以外の話も滅多にしなかった。本当、言ってしまえばビジネスと割り切り、十数年ぶり再会した同窓生なんて関係ない素っ気ない方だったと思う。
 なのに……。彼女が結婚祝い。気持ちは嬉しいのだが、不思議だった。
 そんな隼人の困惑した顔をして、目の前の彼女が笑い出す。

「まさか、同窓生の貴方にと思っている? 違うわよ。どちらかというと、葉月さんへというところかしら」
「葉月に?」
「そう。小笠原に行くたびに、彼女は笑顔で迎え入れてくれたからね。ほんとう、同じ女性としてどれだけ励みだったか分かるかしら? 携帯電話の連絡先を教えてくれて交換はしたけれど、それだけ。連絡なんてとりあわない。だけれど、ほんとうそれだけで小笠原に行けば『彼女がいるんだ』と思えるというか……」
「そうか。有難う。葉月もきっと喜ぶと思うよ。俺からもお礼を」
「いいのよ。その代わり、私が結婚したら二人で祝ってよね」

 隼人は『勿論』と微笑み、その紙袋を受け取った。
 そうか。彼女と彼女は、隼人と佳奈の同窓生という関係よりももっと強く結び合っていたのかも知れないと思った。確かに彗星オフィスの小笠原訪問に佳奈が同行していた場合は、彼女達は必ず顔を合わせて、楽しそうに話をしていた。耳を立てれば、それは本当に他愛もない女性の会話だったのだが、それだけでも彼女達には充分に解り合える時間だったらしい。

 さて、青柳。じゃじゃ馬からの爆弾のような贈り物もあるぞ。

 隼人は珈琲を頼んだ彼女に、無言でニンマリと微笑んでいた。

「な、なによ?」
「はは、青柳はまだまだじゃじゃ馬を知らないだろうから、今夜はたっぷり味わってもらおうと……」
「なんなのよ」

 彼女も徐々に不安になってきたような表情に歪める。

 そのカフェでの一杯で一息ついた後、店のセレクトは佳奈に任せ、二人は日が暮れた街へと出かけた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 佳奈が連れて行ってくれたのは、彼女が葉月を招待したという料亭風の和食店だった。

「おー、いいな。この雰囲気」
「でしょう。お二人も気に入ってくれたから、澤村君もどうかなと思って」

 特にテッドが料理や店の佇まいを堪能して喜んでくれたと、佳奈は話す。
 二人で手狭になる小上がりに襖がつけられたぐらいの個室に落ち着き、二人は最初の『一杯』を頼んだ。

「葉月さんに連絡したの?」
「ああ、カフェで待っている間にな。彼女じゃなくて、お兄さんに……」
「お兄さん? 葉月さん、お兄さんがいるの? 私と話していた限りでは、小さなお子さんを残して亡くなったお姉さまだけがご兄弟だったって聞いているけれど……」
「うん。その子供の父親。つまりお姉さんの『その時の恋人』かな。結婚する前に子供だけ産んで亡くなってしまったんだ。だから義理の兄。葉月と本当に兄妹みたいで、今までも随分と面倒を見てきてくれた人なんだ」
「で? なんで葉月さんじゃなくて、そのお兄さんに『食事はいらない』なんて連絡をするのよ」
「え?」

 そう言われてみて、隼人は初めてはたとした。
 確かに、何故、純一に連絡をしたのだろう? と。

「うーん、今、気がついた。なんて言うのかな。義兄さんが婿先輩って言うか、なんて言うかー」

 理由が見つからず、隼人が唸っていると佳奈は『変なの』と呆れた様子で箸を持ち、本日の『突き出し』である梅肉とくらげの和え物を食し始める。
 うん、確かに変だった。と、隼人も腕組み唸った。

「でも、良かったわね。葉月さん、無事で」
「ああ、本当に。その時はどうなるかと思った」
「あの……犯人、早く捕まると良いわね……」
「有難う、俺も……そう願うよ」

 佳奈がそれを言って良いのかどうかと迷うような様子は、そこは葉月を案ずるために言ってくれていることは隼人も分かっていた。
 『犯人』と皆は言う。『通り魔』だと皆思っている。──『犯人』は、もう判っている。ただし、それは一族のものだけが。今夜も帰ったら、それを知ることになった父親の亮介や義兄の純一からいろいろと聞かされるだろう。……少し、気が重くなった。
 そこで最初の一杯がやってくる。同じ冷酒を彼女と頼んだのだ。

「ごめんなさい。やっぱり言わなければ良かったわ。その時の、心労がどれだけのものだったか……」
「いいや、そりゃ、思えば今でも気が重くなることだけれど。そう、気遣わないでくれ。俺がそんな顔をするのは、今は当然のことと、受け流してくれ」

 気遣ってくれる佳奈に気がついて、隼人から桃の花が描かれている冷酒硝子瓶を手にした。
 お揃いの硝子御猪口を佳奈が手にし、隼人はお礼の気持ちを込めて注ぐ。お返しに佳奈からも。

「では。乾杯はやっぱり『結婚、おめでとう』ね」
「はい。有難うございます。結婚、おめでとうはもうお腹一杯ですが」

 隼人がそう言うと、私の時にもお腹一杯にしてくれと、佳奈が笑い出した。
 幾らか頼んだ料理が少しずつ運ばれてくる中、今度は隼人がいない間にあった会議の話や、隼人もここ数日、小笠原に帰ってきて気がついたことなどを話していた。すると、徐々に佳奈がじれったそうな顔をしているのに気がついた。
 その彼女が、それに気がつけとばかりに、もう無くなりそうになってきた冷酒瓶を隼人に差し出してきた。

「それで。今夜の本題は?」
「あ、ああ」
「葉月さんから、私に何か伝言?」

 隼人は御猪口を彼女に差しだし、最後の一杯を注いでもらった。
 それを一口だけ、すすって静かに手元に置きながら、小さく首を振る。

「伝言じゃない。だけれど、大佐嬢が動き出した」
「なに? 彼女、私達の仕事には、私は分野外のノータッチという顔しているじゃない」
「まあな。そういう視点でないところに、あのじゃじゃ馬嬢は『面白味』を見出して手を出そうとしているんだ」

 『なに、それ?』と、佳奈が困惑した顔。
 まったく予想が出来ないのだろう。

「青柳。思い出してくれ。この店で葉月と話したことを……」

 すると彼女の顔が強張る。
 隼人は一部始終を葉月から報告されたわけではないが、葉月とテッドから聞いた話でだいたいを把握していた。そして佳奈も、隼人が部下だったり、テッドの先輩であったりと仕事の関係上でも、そして大佐嬢の恋人というプライベートの点に置いても『隼人には聞かれる』ことは覚悟してただろう。
 だけれど、それを面と向かって『聞かされている』ことを、知ってしまうのはなんともバツが悪いことだ。
 それだけ、この店で彼女が葉月と話し合った時の自分の状態や、話した内容も、大佐嬢を本島まで部下と共にこさせてしまったやり方にも、彼女は恥じているのだろう。だが、彼女にとってはあそこで全ての思いをぶつけ、恥をさらしたから『今』があるのだ。そして、彼女はあの時が『ターニングポイント』。葉月に『話にならない』と突き落とされ、徹底的に裸にされたあの時から、彼女は自分で自分を認め、そして許し、這い上がり始めているのだ。
 だから、彼女の顔が強張ったのは一瞬。次には彼女も冷酒を一口含むと、穏やかに微笑んでいた。

「あの時の話がなにか?」
「あの時の青柳が、大佐嬢を動かし始めているんだぞ」
「え?」
「大佐嬢、『女の土俵』を作り始めている。青柳、君が望んだことだろう?」
「は、葉月さんが……!?」

 彼女の驚いた顔。それもそうだろう……。この店で葉月に『自分の土俵で頑張れ』と切り捨てられ、彼女の目の敵である『佐々木嬢』との勝負を切り捨てられたのだから。
 だが、葉月はそう言いながら、佳奈とは違う想いでマリアを動かし隼人を動かし、なにやら始めようとしているのだ。
 驚いている佳奈に、隼人は言う。

「それで、さっき、俺は『小間遣い』とは言ったけれど。それは本当のこと。フロリダにいる工学科の女性大尉を含めて君達でミーティングをしてもらう。俺は女性達のやり方に口を挾まない『言いなりのお手伝い』を申し付けられたというわけ」
「本気で言っているの? それマクティアン大佐は許可してくれたの?」
「たぶん、あの先生は大佐嬢に簡単に言いくるめられるというか、言いくるめられたふりをすると思うよ。おそらく、半分、面白がって『大佐嬢の非公式のお遊びだ』とかいって、高見の見物をしそうだな」
「そういうものなの?」
「うん。小笠原でいつのまにか出来上がった方式だ?」

 佳奈が呆然と言った溜息をついた。

「本気なの?」

 まだ信じられないと言った感じだ。
 忘れた頃に、望んでいた話がやってきたのだから。
 だが、佳奈は暫くすると目を伏せ、沈んだ様子で俯いてしまった。

「でも……。澤村君も聞いたかと思うけれど、『もう、あの時の私じゃない』の。葉月さんに言われて、気がついたから。だから、そんなミーティング、もう意味がないわ」

 そう言って静かに冷酒を口に含む彼女に、隼人は手を差し出した。
 佳奈がまた、その隼人の唐突に出てきた手のひらを見て、首を傾げる。

「だったら良いじゃないか。君は俺達が作る土俵に上がるのではなくて、自分の土俵を自前で持ってこられる。冷静な気持ちで『自分』が見せられるはずだ」
「さ、澤村君? その手は?」
「あの時のディスク、もう一度貸してくれ」

 佳奈がどうして? と、また息を止める。
 隼人があの時『最悪のフライング』と言って突き放したあの彼女のどうしようもない『作品』だ。

「それとも、あれはもう破棄してしまったか?」

 隼人は彼女の目を真っ直ぐに見て、手を引っ込めなかった。
 すると佳奈が、暫く黙り込み、顔を上げては俯いてを繰り返している。明らかに何かを迷っているふうだった。
 だが、やがて彼女は意を決したように側に置いていた大きな肩掛けバッグを膝に寄せてきた。

「あるわ。だってあれは駄作でも、私の中では『ベース』だから」

 残っていてホッとした隼人の目の前に、彼女があの時のディスクを……。いや、一枚だけじゃなく、数枚、隼人に差し出してきた。

「これは?」
「新作。『趣味の上で勝手に楽しんで作っていた』新作。指導者もいないから、知識はないわ。だから想像だけで独自に改良したつもり」

 佳奈はちょっと恥ずかしそうに教えてくれたが、隼人は驚いた。

「す、凄いじゃないか」
「どこが? 貴方と課長に突っぱねられても、まだ諦めずに勝手に作っている馬鹿な私のこと、笑えばいいじゃない」
「いや、だから……それが大事なんだと思うよ。じゃあ、これは青柳の情熱って訳だ。大事に預かるよ」
「本当に??」

 隼人が数枚のディスクを受け取ると、佳奈が呆けた顔になった。

「それから、こっちの『ベース』は、工学が解らない大佐嬢に見せるには解りやすいと思うから、どっちかというと今夜は『このベース作品』が目的なんだ。だから改良バージョンは今回は君に返す。今度、課長達がいる時に見せてもらうようにするから。大事に持っておいてくれ」
「あれを、葉月さんに、見せるの?」
「ああ。パイロットに見せなくちゃ意味無いだろう。出来れば他のパイロットにも見せたいところだね。それには俺達にしか解らない専門的な造りなんて、彼等には関係ないんだから」
「あの……こんなことをしていいの?」

 隼人はグッドサインを彼女に見せて、笑った。

「大丈夫。明日にでも今度は俺が常盤課長にも、宇佐美重工にも頼んで話をまとめ、許可をもらうから安心してくれ。改良版はそれからみさせてもらう」
「……宇佐美、にも」

 佳奈の声がすぼんだ。あれだけ立ち向かいたかった手強い後輩と向き合う時が近づいてきたからだろう。実際にそうなれば、彼女自身も不安になったに違いないと。
 そんな彼女に隼人は告げる。

「……つまり、そう言うことで。明日は『彼女に会う』約束をしている」
「奈々美に……?」

 隼人が頷くと、佳奈の緊迫感はますます高まったようだ。

「彼女にも『ベース』を作ってもらうように、既に依頼してある。明日はそれを受け取る予定なんだ」

 そして佳奈はついに固まった。
 そう、彼女が望んでいた『女の土俵』は着々と造り上げられ、そして既に取り組みは始まっていたのだと。
 佳奈は佳奈の土俵で、佐々木嬢は佐々木嬢の土俵で。そしてきっとマリアも……。

 佳奈はやや迷いを見せていたが、帰る時には覚悟を決めた顔をしていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 帰る時間になり、店の外に出て佳奈と別れた後──。何故かジュールが現れ、待ち構えていたことに驚いた。
 聞けば、隼人が葉月と別れて病院を出た時から、密かに警護をつけてくれていたとのこと。ジュールは交代で、先ほどここに到着したとのことだった。
 車ではなかったようで、帰りは来た時と同じように、電車を乗り継いで共に帰った。

「早速、忙しそうですね」
「ああ、もう、葉月がやり出したら、いっつもこんなんだ」
「出来れば、急に帰ってくる様なことはお控え下さい。必ず、お知らせ下さいませ」

 『今は特に』──。ジュールにそう言われ、隼人は奥さんを驚かそうと、連絡も無しに本島にすっ飛んできたことを少し反省。
 だが、ジュールは『お嬢様、とても喜んでいましたよ。流石ですね』と、笑ってくれていた。

 彼と共に見慣れた庭を通り抜け、玄関に入ると、迎えてくれたのは純一だけだった。

「葉月は、もう寝てしまったみたいなんだ」
「そう。待ちきれなかったか……」

 夜の十時を回っていた為、今の彼女の療養生活ではまどろみの時間になっている。
 それは分かっていたのだが……。

 隼人はリビングでくつろいでいる御園の両親に帰ってきた挨拶をして、直ぐに妻の部屋に向かう。

 ドアを開けると、既に灯りもついていない部屋で葉月が横になって眠っていた。
 それでもベッドの横の灯りはついていて、静かに近寄ると、庭で彼女が膝の上に置いていた庭木の写真集が広げられたまま……その本の上で彼女は寝息を立てていた。

「ただいま。遅くなってごめんな」

 耳をなぞりながら、かかっている彼女の栗毛をかき上げる。
 そこに小さく、小さく、眠っている彼女が気がつかないように口づけた。

 今夜の彼女はよく眠っているようで、起きはしなかった。
 隼人は暫く、妻の寝顔をライトの灯りの下で眺め、それを消した。
 そっと部屋を出ると、ワインボトルを手にしている純一がそこにいた。
 別室で、彼と一緒に暗がりの中、グラスを傾けあった。

 純一はまだ、幽霊の正体を知った心情は口にはしてくれなかった。
 無言で傾け合うそのグラスに映った月を隠す雲を、彼は見つめているだけだった。

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