真っ白な光で眩いばかりに輝いている窓辺。
そう、まるで天使が舞い降りてきそうな……。そんな朝だと、ふと目覚めて一番に思ったこと。
時間はそう早くはない早春の朝。
まだ朝方は冷え込む時期だが、この部屋はすでに暖房が入っていて起きやすい室温が出来上がっているようだ。
なにもかもが柔らかい朝。
ふと反対を向けば、そこにはまだ寝息を立てている妻がいる。
彼女はとても安らかで、そうと思えばそうとも思えるような小さな微笑みを携え、幸せな夢を見ているかのような顔。
隼人は少しだけ起きあがり、彼女を見下ろした。
少し肌が汗ばんでいるように見えるが、それが降り注ぐ朝日の中、彼女を余計にしっとりと女性らしく見せているようで、妙に色っぽかった。
そう思ってしまうと、ちょっと旦那さんの方は良からぬ事を考えてしまうのだが、隼人は首を振ってなんとか堪え、小さな口づけだけで我慢する。……といって、小さな口づけは口元にするのは当然なのだが、もう一つは、少しだけはだけている胸元だった。ピンク色のネグリジェのボタンは、いつも二つまで開けられているのだが、そこから僅かに見える肌がしっとりしているように見え、触れずにはいられなかったのだ。
「……ん」
胸元に口づけると、彼女は少しだけ首をよじって眠りからの覚醒を見せ始める。
その少しだけ眉を歪めた妻の顔までもが、妙に色っぽい。それも、肌を合わせている時に見せる彼女の表情と似ていて、それが煌々と朝日に照らされているのを見てしまうと、もう、隼人も『ご挨拶』だけではいられなくなってしまう。
彼女の表情を確かめ、旦那さんの唇はもう一度胸元に、そして指先は、ボタンを一つ、二つ……。
まだ傷を保護している処置がされていても、朝日の中には真っ白な乳房がふんわりと現れる。
そこにも唇と同じ挨拶をして、次には容赦なく男の思うままに胸先の花を口に含んでいた。
「……あっ、な、なに?」
当然、覚醒し始めていた葉月はこんどこそ性感の波を受け止めた表情に歪み、手先が胸元に急に止まった『悪い虫』を払うかのように、隼人の頭を掴んできた。その『悪い虫』が殊の外、大きいことに気がついたのだろう。やっと驚いた彼女が、目をばっちりと開けた。
「……やっ、は、はやとさ・・ん?」
「おはよう、奥さん」
「な、なにしているの!?」
『見ての通りだ』とばかりに、隼人は葉月の目を見つめながら、乳房の先に強い口づけをもう一度……。
「……あ、やん。あ・・」
程良い力加減で吸ったり噛んだりを繰り返していると、最初は文句を言いたそうだった妻の顔はますます色めき、ついには『悪い虫』をひっつかんでいた手さえも抵抗をやめ、すうっとシーツの上に戻っていった。
「反則……」
「なんとでも」
「い、いつ……いつ、帰ってきたの?」
「十時頃。お前、寝ていたから」
「夜の薬、効いてしまっ……あ、あ、いつまで……」
「葉月がその気になるまで」
そう言いながら、もう片方の乳房に口づけると流石に奥さんは驚いた顔に。
ここは家族の出入りもある。そして今は皆が目覚める時間帯。誰が来るとも解らないのに、夫はすっかりその気になっているのだから……。
だが、隼人はやめるつもりはなかった。今の自分にそれは無理。今、彼女が目の前にいたなら愛さずにはいられない。そして確信していた。隼人と眠っている限り、この部屋には誰も入ってこないと……。俺達は新婚なのだから。
「きっと、誰もこないよ」
「……そう、かしら?」
どこかのめり込めない顔をしている妻の乳房の先を、やんわりと指先で押すと、彼女がまた違う顔で呻き声をもらす。隼人はそれを勝ち誇った笑みで見下ろしながら、彼女の唇を今度は強く塞ぎ、まだその気にならない彼女の口先を強引にこじ開けて思うままに愛した。今度の口づけは『愛欲の挨拶』。今から俺の高熱の愛を受けて欲しいという求愛。
やがて、寝起きのけだるさと戸惑いを表していた彼女の唇が柔らかく、ゆったりと……隼人と絡み合ってゆく。
もう乳房を愛撫しているだなんて物足りなくなってしまった隼人の手は、ゆっくりと妻の足を滑り、柔らかいネグリジェの裾をたくし上げる。
「ふ・・はあ・・・ん」
柔らかくも熱いばかりの口づけと、ゆっくりとそこへと近づいてくる手つきに、葉月の額の栗毛がしっとりと額に張り付き始めていた。
より一層じんわりとした汗を滲ませ、葉月の身体がじんわりと熱くなっていく。なのに、急激に肌に桃色に染まったように見えた。
ベビーピンクのリボンがついている清楚な白いショーツの中に、隼人の手先は躊躇うことなく向かっていく。
すでに潤っている妻の……。隼人がふと彼女を見ると、彼女は少しばかり頬を染めて目を逸らしてしまった。
「またにする?」
「そういうこと、聞くの?」
ふてくれさた葉月の顔を見て、隼人はそっと微笑む。
本当は彼女が身にまとっているもの、全てを取り去って、その白い肌を朝日の中でじっくり眺めてみたい。
だけれど、今の彼女の不自由な体では『脱ぐ』ということさえ、負担になること。仕方がないと解っているが、隼人はかなり惜しい気持ちにさせられる。
それほどに──。彼女の今朝の肌はとても綺麗だ。
ネグリジェのボタンを全部外し、ショーツを取り去り、いつものように下から上へ、彼女の唇を山頂にして愛していく。寄り道をして焦らしたいところだが、どうも隼人の方が気が急いている。
急いで頂点を目指す途中、気になることを葉月がしていた。
「……葉月、隠さないでくれ」
「あ・・・」
葉月が乳房を片手で隠していた。手のひらは乳房を隠しているように見えるが、葉月の心理としては『こんな燦々と入り込んでくる朝日の中、透けて見えてしまうかも』と思って『傷』を隠しているのだ。肩の傷を隠そうとしたことなど、彼女は一度もなかった。なのに、新しい傷のことを無意識に気にしている。そんな手だと隼人は思う。その彼女の手を『胸を見せて』と言いながら優しく除ける。
「せっかく綺麗なんだから、見ていたいから、眺めていたいから……俺が感じられないだろう」
「だめ・・」
「見たいんだ、見せてくれ」
そこをもう一度たっぷりと愛して、隼人は恐る恐る……その処置を施しているガーゼの上から、そこにも口づけた。
「あなた……」
彼女は『あの男のものなのだ』なんて言ったけれど、隼人はそれを許さない。もう、この傷さえもなにもかもが、隼人にとっては『妻』なのだ。
今の、妻の顔は見たくない。きっと彼女は少しばかり気後れした顔で、そして申し訳のない顔で、そして泣きたい顔をしている。夫がそこを気遣ってくれていることを知って……。だが、隼人はそれは見ない。
気にしなくてもいいんだ。──そう、口で言いたいところだが、それを言うときっと彼女は泣いてしまうだろう。そんな顔も見たくない。
隼人は自分からも妻からもそれらの全てを振り払うように、夢中に彼女の乳房を愛し、肌を愛し、首もとを、そして唇を、涙を浮かべそうな瞳を……。そして耳元の栗毛にも散々、彼女の呼吸など気にせずに、しゃにむに愛撫した。
……その時はもう、彼女と交わっていた。彼女の腰が少しだけもどかしそうに動いているのは、哀しみよりも、今隼人が連れ去ろうとした世界へとついてきてくれた証拠だった。
「ああ、朝から……駄目よ」
「駄目じゃない、すごくいい」
「そ、そうじゃなくて……」
「い、いいから……。葉月、こっちに、葉月……、一緒においで」
「う、うん……」
やっと葉月が隼人の首に抱きつき、いつものように愛しそうに狂おしそうに背中を撫で始める。それは、妻が隼人という舟に乗り込んできた瞬間──。
ついにシーツの海に彼女が隼人と一緒に同じような呼吸で泳ぎ始める。
朝日の海の中──。
ゆっくり、ゆったり。
二人で重なって泳いでいく先も、きっと眩いばかりの真っ白な光の中だろう。
・・・◇・◇・◇・・・
思いがけず、幸せな朝を過ごせた──。
起きたらいつのまにか愛する夫が優しく寄り添ってくれていて、そして熱く愛してくれて……。
あの後、短い時間だったと思うのに、随分と長く彼と寄り添っていたような幸福の波に漂っていた気がした。
気がつくと真っ白な光の中で、彼が優しく微笑みながら、柔らかくその腕いっぱいに抱きしめてくれていた。
自分の肌もしんなりと熱くなっていたし、彼の肌も汗ばんでいた。
最後の終わりの挨拶の口づけも、なかなか終わらなくて、やっと二人で着替えて一階に降りると、既に食卓には家族が顔を揃えていた。
もう既に皆の食事は終わりにと差し掛かっていたが、誰もが笑顔で新婚の二人を迎え入れてくれる。
そう、誰も『幽霊』に近づいてきたことなど、顔には出していない。
いつもの朝。葉月が近頃、特に気に入っている家族が揃っている朝と変わらない。
それも幸せに感じていることだった。
時々、葉月は『もう、このままでも良い』と思ってしまうことがある。
家族の繋がりさえ取り戻せたなら、もう幽霊のことなど……。ふとそう思えてしまうこともある。だが、やはりそんな心境が僅かに芽生えても、心に根付いている『悔しさ』と『憎さ』は簡単には消えないし、直ぐに蘇る。
だからとて、それは葉月に限ったことではない。今、ここでは家族の誰もが『少しだけ巡ってきた元の幸せ』と『忘れられない傷』を交互に感じては、『幸せ』になろうと努力をしている顔を見せているのだ……。
「ジュールのフレンチトーストは、ほんっとうに美味いなあ!」
「隼人様だってお上手でしょうに」
「いいや、これには負ける。なっ、葉月!」
「どちらもそれぞれ、美味しいわよ」
今朝は隼人がいて、そして楽しそうに朝食を食べている。
彼はまだ新参者かもしれない。だけれど、隼人はもうそこを気にしていないだろう。それだったらそれが俺の役目とばかりに、誰もが突き抜けきれない明るさを今朝は運んでくれ、より一層、この家の幸せに彩りを添えてくれる。
──でも。
葉月は、持っているフォークをふと、人知れず止めて俯く。
そう、でも。やはり忘れてはいけないのだ。
どんなに幸せになっても、忘れられないものだし、忘れてはいけないものなのだ。
それは逃げ切れないもの、逃げてはいけないもの。
待ち望んでいた幼い時に壊れた家庭がここに戻りつつあっても、葉月はそれを決して忘れまいと心に誓う。
朝食が終わると、隼人は早速、軍服を着込み、残っている仕事に向かおうとしていた。
つまり、もう出ていったら今日は小笠原に帰ってしまうと言うことだ。
昨夜は話す間がなかったので、今、昨日の仕事の報告をしてくれていた。
「それで、今日は宇佐美重工の彼女に会うの」
「そうだ」
「なかなか、中佐は流石、やり出すと手早いわね」
「これは大佐嬢に訓練されましたから」
「そう? そんなだったかしら?」
詰め襟制服の金ボタンを留める隼人が、『とぼけるな』と笑った。
だが、葉月は大佐嬢としてホッとする。なんだかまた隼人に押しつけた形となったが、やはり『適任だった』と思えた。
彼は小笠原に帰って三日ほどで、これだけ動いてくれていた。それもなんだかすっかり『俺の仕事』として楽しんでいるようにも見える。
「そういうことで。次の週末に帰ってくる時には、いろいろと土産話も増えそうだ」
「報告、楽しみにしているわ」
「そうだ、今回は急に押し込めた仕事だから持ってこられなかったけれど、週末には葉月のヴァイオリンと『俺達の』天使を持ってくるよ」
「う、うん……」
葉月はどっきりとした。隼人はヴァイオリンは『葉月の』と言い、天使のことは『俺達の』と言ってくれたことに……。
「貴方、待っているわ」
「ああ、行ってくるよ」
薄いグレーの制服の上に、今日も紺色の軍コートを羽織って出かけようとする隼人の笑顔。
『俺達の天使』──。彼ももう、あの時いなくなってしまった天使のことを、痛みなく自分の中に存在するものとして留めてくれていると思え、葉月は微笑んだ。 私達の間に僅かな期間だけ存在していた『子供』。なのにその父母となる自分たちは、自分たちの気持ちの整理でせいいっぱい。相手のことを考えすぎて、愛しているはずなのに、その愛が相手を傷つけて……。
──きっと、僕はまだ駄目なんだよね。
『あの子』がそう言っているように聞こえてしまう葉月。
どうしてだろう。いつからか、あの子が今まで以上に側にいる気がしてならない。
何処かで会ったような気がしてならない。
……あの子と弔っている硝子の天使にお留守番をさせているせい?
──もうすぐ、会えるから待っていてね。
旦那さんが出かけた部屋で、葉月は窓辺に降りかかる日射しを空へと見上げる。
何処かで、私をみているの……?
そして何かの縁なのだろうか?
隼人が出かけた後、佳奈から頂いてきたという『結婚祝い』の包みを開けてみると。なんと天使の絵が描かれたフォトフレームだった。
中に小さなメッセージカードが入っていて、葉月への見舞いの言葉と結婚祝いの言葉が添えられていた。最後にひとこと『貴女とご主人の心に残る記念の写真をこれに飾ってくださると嬉しいです』と。
小笠原からもらった沢山のメッセージカードを受け取った時のような感激が、葉月の胸に溢れる。
葉月は躊躇うことなく、ベッドサイドに置いていた携帯電話を手にしていた。
「ご無沙汰しています、佳奈さん」
『は、葉月さん……!?』
何かあったら連絡をしても構わないと葉月から彼女に連絡先を渡し、交換したけれど、かけたのはこれが初めてだ。
だからか、佳奈がすごく驚いた声。
「彼からお祝い受け取りました。今、開けたところです。すごく嬉しくて……電話をしてしまいました」
『まあ、喜んでもらえたようで私も嬉しいわ。声もお元気ね。良かった、良かったわ』
「ご心配、おかけしました。また会える日を楽しみにしています」
『勿論、私も──』
昨夜、隼人と話した内容は彼女は言わないし、葉月も隼人から報告された内容を聞いたとも言わない。
ただそこには仕事で結ばれたはずの関係なのに、それを取り払っても繋がっていられるという清々しさが滲んでいた。
今日はとても気分がよい。素敵な天気だった。
葉月はまた車椅子を動かし、庭へと向かう。
庭木の写真集を手にして。
・・・◇・◇・◇・・・
小さな鳥が枝先に留まっている。
そんなことまでもが気になるようになるだなんて。そんなことを気にする余裕があるだなんて……。
葉月にとってこの一軒家での療養は、治療以上に心の隅々まで癒してくれる日々となっていた。
今日もこうして一人で庭に出させてもらい、午前中の暖かくなってきた日射しの中で、庭木鑑賞を楽しんでいる。
遠くの藤棚があるリビングの窓で、純一が煙草を吸いながらこちらを眺めてくれているのが分かる。
そして、葉月の車椅子の背後、視界に届くような位置でジルが彼の後輩と背を向けて雑草を抜いたりして、庭の手入れを本気でしている。カルロは作業着姿で、門から玄関までの庭の小径を、竹のほうきを使って枯れ木の掃除していた。
なんとなくであって、葉月からつかず離れずの警護をしてくれているのが判るのだが、葉月が二階の窓から見下ろしている限り、婚礼のあの日よりも緩くなっている気がした。
ジュールがそう判断を下しているのだろうが、少しばかり彼らしくない気もした。純一は警護はジュールに任せきりだが、この状態をどう思っているのだろう。
そこまで思って、葉月はハッとした。
「いやね。せっかくの療養なのに……」
そんな警護の状態を眺めて、何がどうなっているだなんて考えてしまう癖が……。まるで大佐席に座って考え事をしているようだった。大佐嬢の哀しい癖かもしれない。
せっかくなんだから、今はここにある綺麗で心が和む風情をたっぷりと味わいたい。夫が妻の中に刻み残していった幸せの塊が身体の芯を暖めてくれるこの幸福感の中で──。
どうせ、完治したら嫌でも『大佐』に戻るのだから……。
葉月が苔の上に植えられている小さな白い花を見つけた時だった。
「あの花はなんていうの」
聞き慣れない声がして、葉月が振り返ると、垣根の向こうに黒髪の女の子が立っていた。
葉月は庭の隅の手前にいて、垣根とは少し離れたところにいた。そして車椅子の背後の、それほど離れていない位置にいたジルがこちらに目を光らせたかと思うと、少しばかり表情を固めた気がした。
ジルが俯き、なにやらぶつぶつと呟くように口元を動かしているのは、何かの報告をしているのだろうか? それが証拠に、遠目にいるカルロが動かしていたほうきの持つ手を休め、こちらを見たのだ。
「ほら、あの木の、白い花だよ」
彼女はなんの遠慮もなく葉月に話しかけてくる。
無表情でいて、なのに話しかけてくる声はどこか無邪気で……。女の子? いや、彼女の身体つきも振る舞いも、若いけれど大人の女性だった。歳はおそらく二十歳前後だろう。
「白木蓮よ」
「ふうん。あの花って『ここ』では三月に咲くんだ」
「そうね。春の花だわ」
「綺麗だね。枝先にいっぱい綿がついたみたい」
「ええ、綺麗だわ」
彼女はちっとも微笑まないけれど、声は『花、綺麗』という気持ちがこもった声に葉月には聞こえた。だから、葉月は微笑んだのだけれど……。
「どちら様ですか」
いつの間にか、葉月の側にはカルロが立っていた。
ベージュ色の作業帽のひさしをきゅっとあげ、彼は黒髪の彼女を睨んだように見えた。
確かに……。黒猫の警備はこの家に誰も近づけさせようとしなかった。ごくたまに散歩に来た患者が紛れ込んでくるけれど、どの人もこうして漏らすことなく話しかけ、カルロ達は木立の外へ出ていくよう、外周の小径へとそれとなく誘導して遠のけてきていた。
今度のこれも、そういう手順のうちの一つなのだと葉月は思っていたから、黙っていることに。
「外来のお客様なら道を間違っておりますよ。あちらへどうぞ」
「そう、有難う。お邪魔して、ごめんなさい」
彼女はとても落ち着いた口振りで、カルロを見つめさっと身を翻した。
だが彼女は立ち止まり、もう一度葉月へと振り返った。
「綺麗な庭ですね」
「・・え、ええ。私もそう思うわ」
「お身体……。お大事に」
「あ、有難う」
急に彼女の声が哀しそうに変わった気がし、葉月はどういう事なのだろうかと首を傾げた。
ショートボブの黒髪、そして黒い革ジャンにジーンズ姿にブーツを履いて、まるでバイクに乗るライダーのような格好の女の子。
「お嬢様、今日はこの辺に致しましょう」
「え? カルロ、どうして?」
彼女が去ると妙に慌てた様子で、葉月の車椅子を動かそうとした。
「カルロ、そのままにしてくれ」
「チ、チーフ」
そこにジュールが姿を現す。
ジュールの威厳ある声にカルロが葉月の車椅子から離れ、一礼をして去っていった。
「どうぞ。お嬢様、庭木鑑賞のつづきを」
「……え、ええ」
ジュールはいつもと変わらぬ笑顔を見せ、そのまま去っていこうとした。
それがどうも腑に落ちなくて、葉月は去っていくジュールに問いかける。
「ジュール? 今の女性を知っているの?」
彼が立ち止まり、暫く振り向かないまま、葉月に黒いジャケットの背を見せていた。
だが、いつもの微笑みを肩越しに見せたジュールは『いいえ、存じません。迷子でしょう』と言った。
迷子? あんな大きな女性を捕まえて迷子?
葉月は益々腑に落ちなくなり、不思議な雰囲気を放っていた黒髪の女の子が、木立の向こうに消えていく背中をいつまでも眺めていた。
……何処かで見た顔のような気がしてくる。
胸に何かが支えたままのような気分になってきた。
・・・◇・◇・◇・・・
その後もジュールはなんの様子も変えず、いつもの仕事を淡々とキッチンとリビングでこなしていた。
義兄は……と、言えば。あれから落ち着いてくれているものの、庭を眺めることが出来る一人がけのソファーに座っては、英字新聞を膝に広げたまま、遠い目でぼんやりしている時間が多い。
おそらく『犯人』を知って、あれこれと思い巡らせているのだろうと葉月は思っている。こういう時は彼に話しかけてはいけないのだ。それは幼い頃から心得ている。そのうちに心の整理やバラバラだった過去を繋ぎ合わせて動き始めるだろう。
「ただいま」
「パパ、お帰りなさい」
「これ、土産だ。皆で食べなさい」
出かけていた亮介が帰ってきた。
スーツ姿で出かけるようになった父が、近頃は出かけたら必ず、娘の葉月に手土産を持って帰ってきてくれる。今日はケーキのようだ。
大抵は菓子だが、葉月が好みそうな小さな雑貨を持って帰ってくることもある。またその雑貨が、本当に葉月が喜ぶツボを捉えたものばかりなのだ。父がここまで知ってくれていることは意外で、そして嬉しかった。
その手土産を葉月は嬉しげに受け取った。
手渡してくれた父の顔は笑顔だったが、父はネクタイを緩めると、妙に落胆を見せる溜息をついたのだ。
「パパ、どうしたの?」
「あ、ああ……ちょっとな」
葉月が首を傾げている間に、亮介はジャケットを脱ぎ側にあるソファーの背に置いた。そして脇に抱えている書類袋をテーブルに置くと、そこのソファーに腰をかけ、また深い息を……。
同じようにソファーに座っていた純一が、当主のお帰りにたった今気がついて目が覚めたような顔を亮介に向けた。
「お帰り、おじき。何かあったのか?」
「ああ。京介のところに、フロリダのマイクから情報が届いたと言うから取りに行ったのだが……」
「……なにか分かったのか?」
純一が背もたれから、がばっと起きあがり亮介に詰め寄る。
葉月も『ついに彼と軍の繋がりが判明した』と判り、車椅子の上で固まってしまう。
だが純一はすかさず、亮介の手元にある書類袋を手に取っていた。
亮介も止めやしなかったから、純一はすぐにその封筒から中身の冊子を取り出し、膝の上に置くと急ぐようにめくって眺め始める。
葉月も義兄がどのような反応をするか、固唾を呑んでいた。暫く、純一がザッと眺めていたのだが、やがて『くそ!』とその冊子をテーブルに叩きつける。
「純兄様?」
「部屋にいる。暫く、一人にしてくれ!」
怒りに打ち震えるような声を発し、純一はリビングを出ていってしまった。
葉月が呆然としていると、また父の深い溜息。そして亮介は純一が叩きつけたその報告書を手にすると、立ち上がり葉月の側まで来て、目の前に差し出してくれる。
葉月は、恐る恐る……それを受け取り、めくってみる。
そして、そこにある『瀬川』の数々の功績に目を丸くした。
「か、彼。そういう人なの」
「そうだ。信じられないけれどな」
「し、し、信じないわ! 私も、こんなの信じない!!」
葉月も純一と同じようにその報告書を高く振り上げ、信じられない想いを振り払うように床にたたき落とした。
その報告書はばさりと音を立て、ぐしゃりとした折り目がつき亮介の足下に辿り着いた。
『マイクが調べたものだぞ』と、父はそれを大事に拾い上げ、しわを延ばし始める。
「さて、どうしたものか。下手すると私達は『悪者』になるかもしれないな」
「どうして! 確かに私達は虐げられているのよ、パパ!!」
そして、亮介が追いつめられたような哀しい顔で葉月を娘を緩い微笑みで見た。
「葉月、彼は『正義の男』と呼ばれているそうだ」
「嘘、嘘よ!」
そう、報告書の中には、彼が軍から請け負った仕事の数々の結果が……。
それがどれもこれも、軍の功績に繋がった手柄を表すものばかりだった!
葉月が大佐としても風の噂で耳にした、大きな作戦でも彼は功績をあげている。
この男を『悪者』だと言うものはいないと父は言う。
もしいるなら、この『御園家』だけと言うこと……。
つまり『幽霊』の悪魔の顔は、ごく僅かの者、『御園家の者』しか知らない。ひいては彼が犯行と呼べるものを犯したのは、御園家に対してだけということになる。
御園家の敵は『正義の男』。
この男を攻めたとき、人々は御園家をなんと言うのだろうか……!?