義兄がやっと動いた──。
彼は唇の端を少しだけあげ、ふと微笑みを見せる。
そして何事もなかったかのように、長い腕を伸ばし、葉月が持ってきたあの写真を手にした。
だが、その微笑みの唇と頬は震え。
そして、写真をつまもうとする長い指先も震えていた。
「……よ、よく話してくれた」
「義兄様、私……」
「なにも、心配するな。あとは……」
『俺に任せろ』──葉月の脳裏には彼が言う前に、純一がそう言うという言葉が浮かんだ。
葉月には、純一だったらそう言うということも解っていた。その時、彼がまた何処かに消えてしまわないよう……、今度は必死になって捕まえるのだと決めていた。だから構える。
「義兄様、どうされるの」
「まず……」
『調べる』──またそう浮かんだが、純一はそこで止めてしまった。
今度こそ、言葉にならないなにかが彼を襲っているようだ。
彼はその写真を黒いジャケットの胸ポケットにしまい、ついにテーブルに両手をついてうなだれてしまった。
葉月と真一は揃って顔を見合わせ、同じように襲ってきた哀しみを噛みしめた。
義妹や息子の前で取り乱すまい。
俺が動揺したら、チビ達が動揺し、怯える。
俺はいつも何でもない顔をして、そしてしっかりとした姿で彼女と息子を不安がらせてはいけない。
俺が二人の前に立ちはだかって、守ってやるのだから。──そんな義兄の姿。
彼がショックと、今まで培ってきた使命感との間で葛藤しているその姿。
葉月には手に取るように解ったから、食事の途中だったけれど、そのまま座っている車椅子を動かし、彼の元に行こうとしたのだが……。
「すまない。食事の途中だが俺は帰る。お前達はなにも心配しなくても良い。食事の続きを。帰りはエドに……」
そのまま写真をしまったジャケットの内ポケットから、純一が携帯電話を取り出した。
『まず、調べる』──それをしなくてはいけないと言うつもりの行動。いつものように冷静に判断をし、部下に指示を出し、どんなことも確実にことを運ぶことを生業としてきた義兄のその手先は、慣れているもの。だが、やはりその手先は、どこかもたついているように葉月には見える。──とても見ていられない。葉月は急いで車椅子を動かし、純一の傍に向かう。
彼が携帯電話のボタンを押す。
きっとジュールにかけようとしている、それも、葉月には分かった。
電話をかけた純一が携帯電話を悲痛な面もちで耳当てたその横で、葉月はそっと残っている片方の手を握りしめた。
彼が側に来て手を握った義妹をふと見下ろした。
「義兄様、やめて。調べてくれたのはジュールなの。勿論、これから義兄様の中から沢山の疑問が湧いて、私やジュールにも判らなかったことから新しい事実も出てきて、義兄様なりに調べなくてはいけないことも出てくると思うわ。でも、『今』はやめて!」
「離せ、葉月! お前が俺のことを思って黙っていたのは良しとしても、それを義妹から聞いて黙っていたジュールには文句がある。だが、その前に、ジュールには俺が思ったところを徹底的に──」
「兄様が『すぐに思い立った心配を確かめる』ってなに? それがもし軍だというなら、パパがマイクに連絡して調べているわ」
「! なんだって? やはり、軍と繋がっていたのか!」
「それにジュールを叱らないで! 彼は私に言われてしただけなんだから。私が黙っていてと言ったの。パパにも、私から兄様に言いたいとお願いしたの。悪いのは私よ。なかなか言い出せなかった私なの!」
そして純一はまた葉月を見下ろした。
苦々しいその顔に『俺だけが知らなかったというのか』という、葉月の気遣いを理解しながらも、すぐに言ってもらえずに義妹が自分の部下もそして当主である父親に先に打ち明けていた事が、どうしても納得できなかったようだ。
だが、葉月はそう思われるのも当然の覚悟で今日、やってきた。そしてぎゅっと純一の手を握る。
「お願い、兄様。座って?」
彼の手を強く握りしめ、子供のように引っ張っても、彼は呆然としたまま葉月を見下ろし突っ立ったまま──。
「親父、座ってくれよ。何処にも行かないで、俺と葉月ちゃんと一緒にいようよ!」
「兄様、座って──ここにいて。私達と一緒にいて。お願い」
葉月が必死に握りしめている手、そしてその反対には叔母に同調するように父親の腕を握りしめた息子。
その二人に必死に引き留められ、ついに純一は椅子に座ってくれた。
だが、徐々に湧き出てくる怒りを抑えに抑えているようで、唇は震えているし、彼の胸は大きく上下していた。
食事を続けるという気分ではなくなってしまった。
葉月はせめてデザートになってから言えば良かったと、言わねばならぬことだったがせっかくの雰囲気を自ら壊してしまった自分を呪いたくなった。
「待っていてね、兄様」
真一がしっかりと腕を掴んでいるのを確かめ、葉月はさらに車椅子を動かし、純一から離れた。
「どこへ行く」
「すぐ戻ってくるわ」
明確な行き先を言わない義妹に少しばかり苛ついた顔を見せる義兄。
そんなやりとりだって、昔から変わらない。彼はいつだって『義兄』であり葉月より『大人』でなくてはいけないという使命感を『勝手』に抱えているのだから。
なので葉月は少しばっかり小さい溜息を落として、ダイニングホールを出る。出る間際に遠くで食事の進行具合を窺っていたギャルソンに『メインの途中だけれど、デザートを出して欲しい』と頼む。少し不思議そうな彼が了解をし、ホールに入っていった。ホールの外にはエドがいる。彼が葉月が一人で出てきたのを見つけて、早速寄ってきてくれる。
「どうかされましたか」
「兄様に瀬川のことを話したの」
それだけでエドが驚いた顔をし、そしてふっと心配そうにホールにいる純一を確かめた。
「いろいろな気持ち。必死に抑えているわ。今、デザートを頼んだから、そこで少し気を静めてもらって……。それから、次の場所に行きたいのだけれど」
「あの……。お帰りにはならないのですか」
「ええ。三人で行きたいところがあるの。兄様はあの通り、取り乱してはいないけれど、心はとても乱れているわ。エド、運転をお願いしてもいい?」
「勿論です。では、お車を用意しておきますね」
「もし、兄様が飛び出してきても──」
「分かっております。決して、ボス一人だけで飛び出さないように……ですね」
エドが葉月の気持ちを知っていてくれたので、葉月は思わず嬉しくなり微笑んでしまった。
「エド、ボスに逆らえるの?」
「時と場合には。ボスのためになるのが一番でしょう?」
ジュールは純一に対して忠実でありながら『駄目出し』をピシリとする部下であるのに対し、エドは本当に純一の言うとおりに動く男だと思っていた葉月。だが、彼もここに来て『そればかりでは救えない』と思ってくれたのだろう。
それなら、安心だと葉月はエドに微笑んだ。
葉月はエドにもう一言、言い残す。
──この後、三人で行きたい場所を告げると、彼が『それは良いですね』と微笑んでくれた。
・・・◇・◇・◇・・・
ホールに戻ると、目の前の食事などどうでも良い純一が一人で考え事に没頭している姿がそこにあった。
そしてその隣で、父親の腕を掴んだまま不安そうに見守っている息子・真一の姿も。
……言わねばならなかった。
でも、言いたくなかった。せめて、この席で言うべき事ではなかったのかも知れない。
葉月は何度もそう思ってしまい、幸せすぎて嬉し涙を輝かせていたほんのちょっと前の三人揃っての輝きを、一気に曇らせ暗がりに放り込んでしまったことから目を背けたくなった。
だが、葉月は顔を上げて、席に戻る。
用意されたデザートは誰も手をつけないまま……。
それでも、葉月は小さな銀のフォークを手にして一口、口に運んだ。
春らしく、苺のミルフィーユ。さっくりとしたパイには甘い粉砂糖。夢のような彩りと楽しみを与えてくれるはずのデザートだが、味がしなかった。
それでも葉月は味わう……。
「ごめんなさい。楽しくしていたのに……」
パイを噛みしめ、今度は甘酸っぱい苺を頬張った。
甘酸っぱいその味を舌が知った途端に、涙が滲んできた。
すると目の前で、真一がスプーンを手にした。
「ううん。美味しいよ。俺、ミルフィーユ大好き。親父は駄目かな。いらないなら葉月ちゃんにあげたら?」
いつもの笑顔で真一は言うのだが、それでも声に張りはなかった。
彼も一生懸命に胸に襲ってきた事実の衝撃に耐えている。
けれど、真一はこの前、葉月と誓い合った『オチビだから出来ること』を忘れてはいないし、まさに今、その使命を全うしようと頑張ってくれているのだ。
だが、純一はそんな息子の言葉にも取り合う余裕もないほど、眉間に皺を寄せたまま黙りこくっている。一点を見つめ、そのまま……。運ばれてきた珈琲にだって興味がないようだった。
真一が、自分の『息子としての力』なんて結局はなんの役にも立たないのだという、口惜しい顔に歪める。
そんな頑張ってくれている甥っ子のそんな顔は見ていられなかった。
だが、急に純一が珈琲カップを手にして一口。
やがて葉月を見て、息子を見下ろすと、二人がそうしているように純一も銀色のフォークを手にしたのだ。
「いや。俺も食べよう……」
葉月も食べている、真一も食べている。
息子は食べないならせめて、甘い物が大好きな女性である葉月にあげたらどうだと言った。
だが、純一も二人と同じようにデザートを味わい始めた。
幾分か落ち着きが戻ってきたのか、食しているその姿、フォークを扱う手つきがいつもの純一に戻ってきたように見える。葉月と真一は顔を見合わせ、少しばかり嬉しくなる笑顔を揃えた。
そんな中、ゆっくりと食している純一がふと呟いた。
「もう、義妹のお前に、『俺の躊躇い』を食べさせていくばかりではいけないからな」
「じゅ、純兄様──」
この前、彼が食べかけた『オレンジタルトの半分』。
あの時の葉月の言葉を思い出してくれたのだ。
純一は、ゆっくりと落ち着いた姿で、二人と同じように食べ続けている。
『躊躇いを食べさせない』──その言葉の中に、『お前達の言いたいことは分かった』と言ってくれている気がした。
そんな純一、そしてほっと安堵をした真一に向かって葉月は言う。
「この後、鎌倉の海に行きましょう」
そこは『私達の故郷』。
三人で一緒に、そこに行きたい。
葉月の静かな微笑みを見た二人が、その気持ちも分かってくれたのか同じように微笑みを浮かべ頷いてくれていた。
・・・◇・◇・◇・・・
今日は風が強い。
春になる前に吹く季節の変わり目特有の風だった。
その風に煽られた海の波は高く、そして轟音のようなうねる音を響かせている。
海は荒れているけれど、空は明るい水色。
風も、真冬ほど冷たくはない。
それでも、車を降りた葉月は白いコートの襟を立てた。
「ひっさしぶり!」
真一は、生き返ったように元気に砂浜へとかけだしていった。
いつもの彼と変わらないのだけれど、それでもこうして無邪気に元気に見せてくれるのは、少しでも元の雰囲気に戻そうとしてくれているようだった。
そんな真一を見て、車椅子のハンドルを握ってくれた純一と顔を合わせ、一緒に微笑みも合わせた。
海岸線、防波堤、そして長く続く砂浜に降りる階段。
そんなところにエドが運転する黒い車は停車した。
この天候のせいか、人はまばらだが、この波を楽しみに来ているサーファーはちらほらと波打ち際を歩いている。
真一はそのサーファー達を目指すように、瞬く間に波打ち際を走っていく。
「残念だな。車椅子では降りられないな」
「いいわ。このままで……」
横へと広く伸びている階段。結構、段差が大きい。
それでもこの高さからだと、波打ち際にいるより、海がよく見える。
春の午後の光に煌めいている波と水平線。水彩のような青空。
それだけで気分が安らいでくる。なによりもここは『私達が良く知っている海』。潮の香りも潮騒も、海の色合いも、ずうっと昔から馴染んできたものだ。
車椅子は階段のてっぺんに。その石段、葉月の隣に純一が座り込んだ。
「吸っても良いか」
「良いわよ」
純一は胸ポケットからジッポーライターと小さく平たい携帯灰皿を取り出し、最後につまみ出した一本の煙草をくわえると、強い風の中にもかかわらず、慣れた手つきで簡単に火をつけた。そして、一呼吸。ふうっと溜息にも似た息を煙と一緒に吐き出す。
そして暫く、渚を見つめていた。
その目はもう、先ほど奈落の底に落とされ動揺していたものではなく。いつもの何事にも表情を崩さないような、憎たらしくなるぐらいに堂々としている彼と変わらなかった。
『おーい! こっち来ないのー!』
波打ち際まで辿りついた真一が、父親と叔母が揃っているこの場所に向かって両手を振っていた。
葉月はにっこりと微笑み、手を振り返す。純一は手を振りはしなかったが、葉月と同じように笑っていた。
「──こういう事をお前は言いたかったのか」
葉月が言いたかったこと。
もう、義兄は良く知ってくれたようで、葉月はさらに微笑んだ。
「そうよ。私達を置いていった兄様は知らなかったでしょ」
「ああ、知らなかった」
そこには、家族のそういった笑顔や支えひとつで、少しでも気分が変われること、救われることを知ったという顔をしてくれていると葉月は思いたかった。
きっと今までもそれに似た環境は黒猫の仲間の中であったことだろう。だけれど、純一にとって葉月はともかく──。
『ねえーこっちにおいでよーー!』
真一が妙に急かしている。
『無茶言うな、馬鹿』と純一はぼやいていたが、くわえ煙草で笑っていた。
……そう、真一のあの姿だけは隣の義兄にとってはどんなことがあっても特別のはず。彼はそれを知らなかっただろう。その息子の笑顔の『救い』がどれだけのものか、彼は知らなかったのだ。それ以上に『どんな苦であっても、二人には危険を近づけさせない。その根の始末をやらねばならない』──それが彼が選んだ使命だった故に。たった一人で遠くでただがむしゃらに暗闇の中を途方もなく一人の男を捜しながら、自分を責め、痛めつけ……。そんな人に『息子の笑顔』の素晴らしさなど、わかりはしなかっただろう。
『車椅子なくても、いいじゃーん! 親父が葉月ちゃんを連れてこいよー!』
真一が大きな声で叫びながら、波打ち際に押し寄せてくる潮に捕まらないようと前へ走っては波から逃げての鬼ごっこをしていた。
それを見て、葉月はいつしか涙を流していた。
「いいえ、兄様だけじゃない。私も、知らなかった」
「葉月……」
「一人でいなければいけないと思っていたわ。だって、私は重荷だもの。誰にだって重荷だもの。その重荷でも大丈夫だって言ってくれた人沢山いたわ。でも、信じられなかった」
『せっかく来たのに、つまんないよー』
真一の再度の呼び声。
静かに涙を流す義妹。そしていつまでも『来てよ、来てよ』と叫んでいる息子。
それを交互に眺めた純一が立ち上がる。
吹きすさぶ潮風の中、純一が泣いている葉月を見下ろしている。少し困った顔。
「義兄様だけは何故か『私は重荷じゃない』と思えていた。だけれどね、それは……」
「人を信じれば、他の人間の愛情も、とてもよく分かることだった。だろ?」
葉月が言いたいことを、純一が神妙な顔で呟いてくれていた。
葉月は頬を濡らしたまま、顔を上げる。そしてゆっくりと静かに頷いていた。
「信じることは難しいことかもしれない。勇気がいることかも知れない。だが、信じることを信じれば、それ以上の喜びがある……か」
葉月が上手く言葉に出来ないこと。
ここにいる言葉少ない義兄が、そんな感じたことをちゃんと伝えてくれない義兄が、微笑みの中で言葉にしてくれていた。
彼は穏やかな顔で、波打ち際で潮と鬼ごっこをしている息子を見つめていた。
青い空、微かに白い雲、強い潮風に短い黒髪が僅かに揺れ、そして彼の黒い瞳は輝き始めていた。
その義兄が、今度はその満ち足りた笑顔で葉月を見下ろした。
「お前が教えてくれた」
「純兄様──」
「わかった。もう、何処にも行かない。そしてお前達と一緒に行こう」
「に、兄様」
十八年前、その男を追うために全てを捨て、闇に身を投じた義兄。
その彼が本当に帰ってきてくれたと葉月は思い、さらなる涙が頬を濡らした。
『なんだよー! せっかく、来たのにーーっ』
波との鬼ごっこにも飽きた様子の真一が、今度は砂の上にべったりと座り込んで拗ねていた。
葉月が笑うと、純一も笑っていた。
そして葉月は、車椅子の肘掛けをぎゅっと握りしめ──。形だけ履かせてもらった白いパンプスをコンクリートの階段の上と降ろす。
グッと力を込めると、胸の中心にびりっとする痛みが走るのを堪えつつ顔をしかめる。それでも葉月は『立ち上がろう』としているのだ。
「何をしている。無理をするな!」
「行くの。しんちゃんのところに、行きたいの」
今によろめきそうになり、純一が手を差し伸べてくれたが、葉月は首を振って拒否をする。
気持ちだけでも、気持ちだけでも。『私も頑張るから』と兄様に伝えたい、知って欲しい。その一心だった。
だが、葉月の腕に足に力が入っても、立ち上がる時に胸にかかる負担、傷の痛みには敵わない。
葉月はついに立つことはままならないまま、前へ、階段の下へと倒れそうになった!
「ほら、見ろ! 無茶なんだ、お前は!」
気がつけば、そこは煙草の匂いがする黒いジャケットの腕の中──。純一に抱き留められていた。
葉月はそのまま彼の腕の中に身体を委ね、目を閉じる。
変わらなかった。いつだって変わらない。この前、抱きしめられた時とも。ずうっと昔からも。そして、また消えていきそうになってしまったお兄ちゃま。どんな彼でもその腕の囲いの広さ、深さ、暖かさ、そして匂い。煙草の匂いと海の匂い。若い頃からちっとも変わらない葉月が一番長く深く知っている男の人。
そうして純一の腕の中で、いつまで漂うこの感触は──。そう、この『鎌倉の海と似ている』と葉月は思った。生まれた場所のなにもかもが、ここにある気がした。
「義兄様、帰りましょう」
葉月はふと呟く。
訝しそうに葉月の顔を覗き込んだ純一。葉月はまたその彼の顔をまっすぐに見つめる。
「私達、ここを捨てかけていたわ。一緒に帰りましょう。ね、また鎌倉で笑っていた日々。絶対に取り戻せるわ」
純一が驚いた顔。
それもそうかもしれないと葉月は思った。
何故なら、自分こそ──。こんな言葉を言える日が、そう思える日が来るだなんて思ってもいなかったからだ。
あの日々は絶対に戻らないと思っていた。もう、鎌倉は私達の鎌倉ではなくなったと思っていた。
だけれど、どうしてだろう? どうしてこのように思えるように言えるようになったのかは分からない。だけれど、今は心の底からその気持ちが溢れてきているのだ。
傷ついた心は二度と元には戻らない。
この葉月の肩と胸に刻まれてしまった生傷のように。
それでも消えなくても、また取り戻せるのではないか──。
そう思える日が来たのだ!
だが、それには『みんな』がいなくては葉月には意味がない。
両親も、叔父も叔母も、従兄姉妹も、甥も、谷村の家族も。そして、新しい家族になった──隼人も、黒猫も。
失ってしまった人が、姉がもう一人の義兄はもう戻らないけれど、自分たちがいれば、その二人だっていつまでも生きていけるのだ、『私達の中で』。
言葉では理屈では何度も、何度もそう思ったし、言われてきた。
だが葉月は今この時になって、やっと自分の中の『言葉』と『気持ち』として得ることが出来ていた。
それを、純一だけじゃない。
家族の誰にも伝えたいし、誰にも同じ気持ちになって欲しい。
そう思っていたことを目の前の義兄に伝える。
「純兄様がいなくちゃ、私の鎌倉じゃないわ……」
「葉月」
「帰ろう、お兄ちゃま……!」
よろめく足下をしっかりと支えてくる腕の中。
見つめている純一の黒い瞳が青空を写したまま揺れていた。
「俺も同じだ。葉月、お前がいなくては俺の鎌倉じゃない」
そう言いきってくれた純一。
ふと気がつくと、葉月の唇の先に義兄の唇が重なっていた。
その口づけは、今まで愛し合ってきた時に交わし合ってきた情熱的なものでもなく……。葉月がそう区切ったように唇の端でもなく……。唇だけ。そこにただ重ねているだけの口づけ。
葉月はびっくりして、顔をひき、純一の顔を確かめようとしたのだが、彼はそれを許してくれず、潮風になびく長い栗毛をかき集めるようにぎゅっと後ろ頭を掴んで、再度、強く塞がれてしまった。
「・・に、さま」
純一は何も言わなかった。
唇を強引にこじ開けることもなく、ただそこに重ね、時には唇の先で葉月の頬に鼻先を口づけるのを繰り返していた。
当然、葉月の身体はぎゅうっと熱くなったのが、どちらかというと『驚きで呆然』と言ったところだった。
そのまま身体を固めていると、やっと純一が腕の力を緩めてくれた。
「……もう、ないだろう」
彼が切なそうな眼差しで葉月を見下ろす。
そして葉月もこっくりと頷いた。
最後の口づけ。
もう唇の端にも、大好きなこの人は口づけてはくれないだろう。口づけさせてもくれないだろう。
「忘れないでくれ」
「忘れないわ」
「一緒に、帰る。お前と真一と……帰る」
「うん、帰りましょう。純兄様」
何処までも優しく包んでくれる義兄と抱き合う。
それはもう、愛は在れど、義兄妹の抱擁だった。
義兄に支えられ、葉月は一緒に鎌倉の海を見下ろした。
『帰るわ。絶対に、帰るわ』
十八年前、鎌倉を出ていった義兄と一緒に。
十八年、父親を待ち望んでいた甥っ子と一緒に。
そして、愛する夫と一緒に──必ず。
葉月の瞳が輝き始める。
姿を現した幽霊へ挑む眼差し。
「さあ、ボウズがうるさいから行くぞ!」
「きゃあ!」
途端に純一に足下をすくわれ、高々と抱き上げられていた。
階段を軽やかに降り、純一は拗ねている真一の元へと一緒に連れて行ってくれる。
真一の目の前、その砂の上に葉月は降ろされた。
「見たぞ、親父! 反則なんだからな! 隼人兄ちゃんにいいつけてやる!」
「どうぞ、どうぞ。望むところだ。あの隼人がどんな顔をするかね」
「うっわー! 俺の親父ってサイテー! ぜえったいに親父みたいな男になるもんか」
真一が一握りの砂を父親に向かって投げつけた。
だが真一は笑っていた。そして純一も大人げないことに、息子に向かって同じように一握りの砂を投げつけてきた。
それが強い風で散らばって、側にいた葉月にも降りかかってきた。
「なんだよ! 親父、大人げないぞ!」
「なんなのよー! 兄様、サイテー!!」
そして純一も笑っている。
あの少年の日の彼のように笑っていた。
葉月には、鎌倉は近いと思えた。
……この時は。
・・・◇・◇・◇・・・
車椅子を寄せた窓辺は、もう夕闇が迫ってきている……。
その日の夕方。葉月は部屋に戻ってから隼人に電話をかけた。
一回目は留守電だった。
やはりどんなに『いつでもかけてくれ』と言ってくれても、仕事は仕事なのだと葉月は思った。
まだ復帰して二日程、一番、忙しい時だろう。
そう思ったのだが、溜息をつきながら眺めていた携帯電話が直ぐに鳴った。隼人だった。
『葉月か』
「うん」
『ごめん、今、手が離せなかったんだ。もう、大丈夫、どうした?』
「ううん。忙しいなら、また後でゆっくり……」
『そうか、ホッとした。何かあったかとドキドキした。お前ならただの連絡なら、もっと夜遅くかけてくるだろう? 俺の仕事、一番分かっている大佐奥様だもんな』
「そうね、そうだったわ」
夕方、一日のひとまとめに、事務作業が一番手間取る時間帯だと分かっている。それでも直ぐに隼人に伝えたかった。純一に話したことの報告もあるが、『皆と鎌倉に帰るのだ』と言う葉月の新しい気持ちを……言いたかっただけ。
それを夫に教えたかったという本当にただそれだけの気持ちが溢れて、彼が、いや自分が勤めていても絶対に忙しいだろう時間帯に連絡をしてしまったのだ。だから『じゃあ、またね』と切ろうとしたが、そこは流石、隼人だった。
『やっぱり、何かあったんだな。もしかして……話せた?』
遠い海の向こうにいても、そうして見通してくれる旦那さんに葉月は驚き……。降参したように微笑んでいた。
「うん、話したわ」
『そうか。頑張ったな』
「有難う」
頑張ったと言ってくれる人。
葉月は、今日散々襲ってきた様々な波にもまれた心臓が、優しくほぐれていくような癒しを感じた。
『義兄さん、大丈夫だったか?』
「最初は、思った通り。何処かに行っちゃいそうだったわ」
『引き留められたんだな。真一と一緒に』
「うん──」
『良かった』
なにもかもを知ってくれ分かってくれる夫の声に、葉月はほっと笑顔をほころばせる。
だけれど……と、葉月は顔を引き締め、一呼吸置いた。
『どうした?』
顔が見えない電話でも、隼人はそんな葉月の呼吸を察している。
葉月は少しばっかり俯いて、でも、と隼人に呟いた。
「義兄様に、愛しているって言った……」
少しの沈黙の間。
……一年前なら、この一言を言った時彼を信じていなかった。
今は信じられる。そして彼がどう言うかも。
そして、待っていられる。この沈黙の間を。
葉月にその沈黙の間をワザと与えていたような彼の声が届く。
『言えたんだ。良かったじゃないか』
彼の明るい声。
決してその声は不自然ではなかった。
それどころか彼はさらに言ってくれる。
『それは葉月の中にある偽ってはいけない気持ちだ。俺は知っている。俺の奥さんは義兄さんを愛している。そんなの分かって結婚した。その心ごと……俺のところに来てもらったんだ』
「貴方──」
葉月の目に涙が浮かぶ。
ただ、あの時のように彼を傷つけたようなことは二度としたくない。今、自分が持っている気持ちは偽らず、伝えておきたかった。
そして今は誰よりも、彼が葉月の中にある沢山の愛を知っている一番の理解者。ひいては、義兄妹故の切れない愛は誰にも受け入れられるものでもない苦しいものだったのに、それを良く知って、よく見て、何処までも付き添い見守ってくれた誰よりも良く知ってくれている人だったのだと……。
『泣いているのか?』
「だって……。本当は言っちゃいけないことでしょ」
『嘘をつかれる方が辛い。俺はそれがどんなに辛いことか、良く知っているだろう?』
「そうだわ、そうだった……」
そして葉月は短く、三人で鎌倉に帰るのだと話し合い、鎌倉の海で笑って帰ってきたと報告した。
隼人が電話の向こうでじっくりと耳を寄せ、静かに微笑んでくれるのが伝わってくる。
「その時は、貴方も私と一緒よ」
『勿論。俺も葉月と鎌倉を歩きたい』
「横浜もね」
『ああ、勿論!』と、隼人の嬉しそうな声が聞こえてくる。
今の彼は一点の曇りもない笑顔を見せてくれていると葉月には信じられる。
『お前のひとつの愛が実った気がする』
「……そうなのかしら」
『俺、そういう葉月であって良かったと思う。義兄さんと真一には絶対にお前が必要だ。俺がお前が必要なように……。俺はそんな女性を妻にしたんだ。義兄さんへの愛を抱えている妻と知っていて結婚した。だから、いざという時、お前の愛が義兄さんを救えたことは、本物だったと俺は認められる』
──それが俺の妻だから。
彼の優しい声が海を越え、美しい夕闇を越え、春先の緩やかになった冷たい夜風に乗って……。窓辺で一人、車椅子に乗って星を見上げている葉月の元に届く。
──そして、そんな貴方が私の夫。
「どうしよう。私、今すぐ、隼人さんに会いたくなっちゃった」
『残念、今、仕事中だ。もう、切るな』
「意地悪……」
今度こそ、甘えたい気持ちが溢れて泣いていた。
隼人は本当に電話を切ってしまったけれど、最後には楽しそうに笑う声。
──葉月、直ぐに会えるよ。俺も楽しみにしている。
その一言だけを残して、優しい声は消えてしまった。
葉月は気を取り直して、もう一度、宵の明星を見上げる。
自分はこのままでいて良いのだと、そう思える日も訪れていた。
次の日の事だった。
葉月はその日、庭に車椅子を出してもらい、一人きりで車椅子を動かして散策をしていた。
庭の中だけ。真一にもらった写真集を手にして庭木を眺め、何という名前なのかページをめくって楽しんでいた。
今日は、一人が良い。その『気分』を誰も邪魔しなかった。両親も純一も、遠くから見守ってくれているのが分かるけれど、一人で散策をしたがった葉月をそっとしていてくれた。
誰もが幽霊の正体を知った昨日となったのだが、不思議と誰もその事は口にしない。……胸の内に秘めていることが沢山あるという空気は伝わってくる。それは葉月も一緒だった。
昨夜、父が一言、言ったのだ。──『マイクの調べがつくまで、誰も動かないで欲しい』。それこそ御園家の当主の顔で。そこに夕方帰ってきた右京も事実を知ることになったのだが、ジャンヌと共に同席し当主である亮介の指示に頷いていた。そこでは誰もが当主である亮介の言うことに従う顔を見せていた。
──それまでは、きっとこんな日々。僅かながらでも、家族揃っての安らぎの日々となるだろう。
「ただいま」
そんな声が後ろからして、葉月は驚いて振り向いた。
驚いたのはそれが待ち望んでいた声で、昨夜、無性に恋しくなった男の人の声だったからだ。
「は、隼人さん!」
「ただいま。今、庭に入ったらお前が見えたから」
そこには制服姿で、アタッシュケースを手にしている隼人の姿。
「ど、どうしたの?」
「昨夜、会いたいって言ってくれたくせに。どうしてはないだろう?」
「そ、そうだけれど」
眼鏡をかけている隼人は、制服の上に薄い軍コートを羽織っていた。
その膝丈のコートの裾を春風に翻しながら、颯爽と妻の車椅子まで歩いてくる。
「直ぐには来られない旦那で悪いな」
「……な、何言っているのよ。充分、直ぐに来ているわよ!」
本当は直ぐに抱きついて喜びたいのに、葉月はただ驚くことしかできない。
直ぐに駆けつけてくれたのは嬉しいけれど、仕事を放ってきたのかと……そんなどうでも良いはずのことが一番に浮かんでしまった。
すると目の前にやってきた隼人は小さく吹き出している。
「あ、大佐嬢の顔だ」
「え?」
「俺って、旦那より先に中佐ってわけか。がっかりだな」
「そ、そうじゃないわよ。ただどうしてって……」
「まあ、お陰様でやらねばならぬ仕事は沢山あるだろう? そのうちのひとつを『理由』にすることだって実は簡単だったり」
笑いながら、隼人は黒いアタッシュケースを掲げた。
その仕事とは? 隼人が東京に出てくるとすれば……ひとつしかなかった。
「彗星さん?」
「ああ、ご無沙汰してしまったからな。月曜に早速挨拶の電話連絡をしたら色々とね。久しぶりに常盤課長とメンバーとミーティングをすることにしたんだ」
そして隼人は『なかなか良い理由だろう』と笑ったのだ。
「おかえりなさい、貴方」
「ただいま、奥さん」
車椅子に乗っている葉月の目の前に、隼人が跪く。
そして葉月が膝に広げている図鑑写真集を一目見て、一時不思議そうに首を傾げたが、直ぐにその上にある手を握ってくれた。
お互い同じ目線にある瞳を見つめ合い、ふと一緒に目を閉じると春風が吹き込んできた。
昨日よりも今日、今日よりも明日。そよ風は日に日に暖かくなってくる。そう、この人のように……。
葉月の唇に柔らかく『ただいま』と囁く彼の口づけに、葉月はもう何も言い返せないほど、つむっている瞼の奥は桃の花が沢山開いていくようなとろける感覚……。
僅かな挨拶の口づけが終わると、隼人はそっと頬を包み込んでくれた。
「それでも、明日の夕方便で帰るし、今からオフィスに直行なんだ」
「ううん、これだけで充分よ」
「本当か? だったら今夜は何処かにいってしまうぞ」
「ほんっとうに意地悪ね。帰ってきてよ!」
葉月が拳を握って隼人を叩くと、動きが自由な隼人はひょいと除けてしまう。
そうして笑っている声に気がついたのか、木の陰にいた葉月のところに人影が……。純一だった。葉月の側から男性の笑い声が聞こえて、不信に思ったのだろう。だが、その笑い声の正体を知って、こちらも驚きの顔を見せた。
「隼人じゃないか……!」
「義兄さん、ただいま。こちらの工学オフィスの仕事に来たんだ」
「そうか」
「どうですか」
隼人の『どうですか』は、妻である葉月から義兄妹の事情をすっかり聞いていることを表しているようだった。
そして純一もその義弟の一言の意味をちゃんと捉えたのか、少しばかり気後れした顔で、黒いスラックスのポケットに手を突っ込んで顔を背けてしまった。
「まあまあだ」
「そう」
だが、純一が顔をあげる。
「今夜は泊まっていくのか」
「ああ、その予定にしている」
「そうか、待っている。今夜は俺と一杯、どうだ。良いワインを開けるぞ」
「うん、いいね。楽しみにして帰ってくるよ」
純一の笑顔に隼人のそれに答える笑顔。
そこにも彼等だけ特有の繋がりがあるように葉月には見えた。
隼人はその後、言葉通りに直ぐに出かけていった。
「義兄様、また芝庭に行かない? 連れて行って」
「ああ、そうだな」
春風の中、義兄があの緑の芝庭に散歩に連れ出してくれる。
その時、この家を取り囲む木立の小径で黒髪の女性とすれ違い、彼女が葉月に振り返っていたことなど──ちっとも気がつかなかった。