-- A to Z;ero -- * 白きザナドゥ *

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10.躊躇いを背負う

 いつも大佐嬢の側にいるはずのラングラー少佐。
 そして、訓練補佐をしているダグラス中尉。

 今、二人は葉月の側ではなく艦長室にいた。
 そこで二人であることで向き合っていると、ジェフリーとラルフが戻ってきたところだった。

「お、テッド。管制室にいないと思ったら、ここにいたのか。葉月がウォーカー中佐と監督しているぞ」
「はい。小笠原へ送信したデーターの再確認をしていまして……。今からダグラスと行こうとしていたところです」
「そうか。早く行ってやれ」

 ジェフリーが少しばかり硬そうな表情だったようにテッドには見えた。
 彼は艦長席に座ると、ラルフが忙しそうにしてこの室内にある通信機器に向かい始めていた。

 なにかあったのかと思った。

「テッド。終わったなら早く行ってこい」
「は、はい」

 いつもの笑みがジェフリーから消えている。
 そして『早く行け』という強い後押しをするかのような重い声。それと同時にこの艦長室から追い出されているようにも錯覚したが。それでも上官の指示だ。そして──丁度出ていくところだったし、大佐嬢の元にも直ぐに戻りたいところだ。

 クリストファーと共に敬礼をし、艦長室を出た。

 

「まったくちゃんとしろよ!」
「ごめん、テッド。俺、ちょっとぼんやりしていたかなあ〜?」

 何故、葉月を置いて艦長室にいたかというと──。
 なんでも本部に送るデーターを間違えていたかも知れないとクリストファーが言い出したからだ。
 空部隊のデーター自体はクリストファーの方が専門だが、この特殊な場から外部に送信となるとテッドが管理しているため、葉月に念のため『ついていけ』と言われたのだ。
 だが、それはクリストファーの思い違いで、データーはちゃんと送るべき物が送られていた。
 クリスはホッとしたようだが、テッドは少しばかりイライラ。

 そんなテッドをクリストファーがちょっと澄ました顔で見て、そしてニンマリと笑った。

「もう、早く大佐の側に行きたいーって顔をしているよな」
「う、うるさい! あの人を一人にしておくと何があるか分からないだろう? それでなくても澤村中佐に『頼む』と任されているんだから」
「まあ、そうだよなあ。本当、あの大佐……本当に色々ある」

 いつもにこやかにしているクリストファーが真顔になると、テッドも何故か一緒に真顔になり、彼の呟きに頷いてしまう。

 テッドにイライラされても、彼は無邪気に流すし、そしてテッドを逆にからかう余裕さえある。
 一見、ふわふわとマイペースに見えるようで、彼が真剣な顔になると的確な判断と思い切りを見せる。
 そこはテッドも認めているし、こうして大佐嬢に一番近くに付き添っている同僚としても頼っている。
 そしてそこを見定め大佐嬢の訓練補佐官として抜擢した上官、これは隼人になるが、その見定めは的確だったと言うことになるだろう。だから、テッドとは雰囲気や物事に対する構え方は違えど、『波長』はばっちりだ。

 その彼も、のほほんと物事には無関心のように見せているが、周辺で起きた出来事にはきちんと自分の中で噛み砕いている。
 それに対して『ああだ、こうだ。こう思わないか?』などという話を持ち出しては来ないけれど、こうしてテッドと同じように『身近な上官』である大佐嬢のことは、ちゃんと見ているのだ。

 だからこそ。彼も『色々ある人』として案じているのはテッドも知っていた。

「今、空に出ているビーストームのフライトデーター採取もテリーに任せているから、早く行こう」

 クリストファーの方から走り出した。
 『そうだな』とテッドも彼に追いつくように走り出そうとした時だった。

 

『スクランブル発生! 国籍不明機を確認。国内空域を侵入──! 各部署、スクランブル形態を発令!』 

 

 またスクランブル──! 最近、やや落ち着きを見せていて安心し始めていたのに……。
 等間隔で設置されている通路のスピーカーから、騒々しい『警報音』。そして管制員のアナウンス。
 だがそこでハッとしたことがひとつ。それに気が付いたテッドとクリストファーは顔を見合わせた!
 そして二人一緒に、今出てきた艦長室へと振り返る。

「クリス! 今、『発令』と聞こえたよな!?」
「聞こえたっ。でも艦長は今、管制室じゃなくて……」

 この艦の最高司令官であるトーマス大佐は、今は『艦長室』で管制室は『離席』と言うことに。
 では? 今、その管制室では……!?

 だとしてもだ──。
 もしジェフリーが管制室不在でも、管制員が勝手に『発令』をすることはない。
 不在の場合はすぐに艦長室に連絡がはいる。そこで管制からの状況報告を聞いて、危機を感じればその場で艦長が『発令』を出す。
 今回もそれなのか!? もしそうでないのなら……それは!?
 だが、それはともかく……! 今そのスクランブルを発令した『管制室』には、恩師抜き補佐官抜きの大佐嬢が先輩中佐といるだけだ! 早く、彼女の元に行かねばならない!! それが先立ち、二人が揃って頷き、走り出そうとした時だった。

「まずいぞ!!」

 テッド達の背後にある艦長室のドアから、ジェフリーが血相を変えて飛び出してきた。
 ラルフと揃って、ものすごい勢いでこちらに向かってくる!
 やがて彼等がテッド達など見えないかのように追い抜いていったので、二人の青年はそれに急かされるように、ジェフリーとラルフを追いかけた。

 そして追いついたその背に、テッドは尋ねる。

「艦長! この発令……」
「俺じゃない! きっと、葉月だ──!!」
「か、艦長じゃないのですか!?」

 それを聞いて、テッドとクリストファーは顔を見合わせ、一緒に青ざめた。

「なんてことだ! 今、横須賀の管制本部センタから『緊急警戒発令』の周知をもらったばかりで、その確認で艦長室へと離れただけで……!」

 ジェフリーのその『しまった!』という後悔している顔はものすごい形相だった。
 歯を食いしばり、力一杯、走っている! だから徐々に、若いテッド達の方が抜かれてしまっていた。
 だけどその背を若い二人も追いかける。
 するとラルフも走りながら叫んだ。

「一般社会に流れる政治情報とは別に、こういう武力を駆使しての駆け引きめいたことが水面下で実在することは分かるだろう。それが発生したらしいんだ! それが本当なら今からは総指揮を横須賀管制センタが執り、警戒管理下の指令を受けた岩国に任すべきだから、この区域を早く去ってその引継と準備を直ぐに済ませようと……!」

 その彼の説明にもテッドは息を止めそうになった。
 やはり……! 先日からの頻繁なスクランブルの背景には『そこ』が絡んでいたのか!? と。

「では! このスクランブル、今までのとは訳が違うかも知れないのですか!?」

 テッドが叫ぶと、前しか見えていないように走っているジェフリーの代わりに、ラルフが肩越しからこくりと頷いた。

「では!! 大佐嬢が『発令』を決断した程のスクランブルになっているかもしれないと──!?」

 今度は前を見て走っているままの向きで、ラルフがこっくりと頭を動かした。
 それを知って、俄然、テッドの足もスピードが上がった!
 ラルフにも追いついてきた。ジェフリーの背中もすぐ目の前だ。

「それに今、空を飛んでいるのはビーストーム。湾岸部隊が間に合えばいいのだけれど!」
「!」

 並んだラルフのその言葉にもテッドが固まった。

「いつもの『ただのスクランブル』であってくれ!!」
「大丈夫ですよ、艦長! まだ本部から発令が出たばかりですよ?」

 ラルフのその言葉の方がもっともかとテッドも思う。
 横須賀本部から『緊急の警戒』が発令したとしても、直ぐにあちらから何かがあるとは限らない。だが、逆に言えば『それもあり得る』のだ。しかしその場合は『余程の偶然』と言いきっても良い程の『最悪の事態』だ。
 それが起きてしまったのか!? そんな『偶然』、しかもジェフリーがその指令を今から遂行するところだと警戒心をまだ高めていない隙をつくかのように、こんなこと!? だとしたら本当に『最悪』だ!! しかもその『最悪の事態』であるならば、今、それを真っ正面に受けてしまっているのは『大佐嬢』。見事なまでに『大佐嬢』だ! その彼女が『発令』の決断を下したのは、どういう状況だ!? それはまだ分からない。彼女が『念には念を』と必要以上に警戒しただけの『発令』であって欲しい……!

 だけどそれでもここで走っている男達全員、走るスピードが増すばかり。
 それだけ誰もが『悪い予感』を募らせているのだろう!

 ジェフリーはちょっとの隙をつかれた悔しさを滲ませながら、ずっと『なんてことだ、なんてことだ!』と何度も呟いていた。

 管制室はもう目の前だ!

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「大佐嬢……」
「大佐──!」

 艦長不在で緊迫している管制室──。

「ビーストーム1、ビーストーム3 向こうからの攻撃、続いています!」

 管制員の誰もが、その命令を言えるただ一人の上官、葉月を見て待っている。

 大佐嬢、決断の時──!
 だが、葉月がその『決断の一言』を口にしかけた時、それを感じ取ったかのようにミラーの叫び声が葉月の耳に響いた。

『大佐嬢──! 俺に構うな! そこに艦長がいないなら来るまで待っているんだ!!』
「そんな! 間に合わないわ!」
『それを言ったら、俺は攻撃をしなくてはならない。それは、重大責任だぞ・・!』
「──中佐」

 こんな時に、彼は葉月の事を案じながら飛んでくれているのか?
 それを言ったら、確かに何かあった場合は、全ては葉月の責任となる。
 しかし、そんなことで迷っている場合では──!
 もう一度、葉月が思い切って口を開きかけた時、今度はそれを止めざる得ない状況を報告する管制員の声……!

 「1、3──! 両機、空域線、国外へ侵入手前です!」

 ミラーの反撃無し、一方的に受ける攻撃を交わしながらの飛行。
 葉月が見上げている電光板レーダーに映っているミラー機の点は、空母から遠ざかり──あっと言う間に空域境界線まで流されている!

「大佐! こちらが国外へ侵入してからの反撃命令は、元は正当防衛の為『迎撃』が事実であったとしても後の国家レベルでの影響が……」

 管制長のその言葉は、葉月もよく分かっている。
 そんな訓練もジェフリーから何度も受けてきたのだ!
 つまり今、ミラーが攻撃をされているのは……!? こちらが『空域線を越えて、あちらの領域で発砲した』という状況を作るため!?
 これは『仕組まれた攻撃』なのか!?
 いつまでも彼を仕留めないところ見ると、葉月の読みは当たっているのか? 彼が空域線を割るまではじわりじわりと誘い込むように、その線へと追い込むように攻撃をしているようだ。

「ビーストーム3! 後退、攻撃を逃れました」

 一機、解放されたようで葉月は一瞬ホッとしたが、その次にはもっと最悪の事態が頭に浮かんだ!

「ビーストーム1、二機に囲まれています!」
「……大佐! もう空域線を割ります。これはビーストーム1を餌食に狙っているとしか思えません!」

 ミラーがあちらの国に連れて行かれる!?
 連れて行って執拗な攻撃の末に、こちらに反撃命令を出させるのか?
 いや!? ミラーが空域線を割っただけで『攻撃する名目』が出来る。『あちらが侵入したのだから、迎撃、撃墜したのだ』と──!
 いくら正常なデーターが残っていても、色々な手で曲げられていくのが『政治』の世界では多々ある。いや、そんなことどうでもいい!! ミラーが空域線を割ってしまうのだけは阻止せねばならない!

 その悪夢のライン、一歩手前──!

『大佐、大佐嬢! 頼む……。俺の言葉を、俺の彼女への気持ちを息子への気持ちを、君に話したとおりに伝えてくれ……!』
「ミラー中佐……!」

 彼の何かを覚悟したかのような悲痛な声!
 葉月は拳を握りしめ、歯を食いしばる!
 そして彼の『大事な言葉』がまた聞こえてくる!

『彼女と息子に愛していると伝えたい』

 そんなの『私』じゃ意味がない!
 それを伝えられるのはたった一人。
 ブライアン=ミラーだけだ!

 葉月は電光板へと顔を上げ、ヘッドホンのマイクを口元へ近づけ静かに呟いた。

「やるのよ。撃ちなさい」
『大佐嬢、それは駄目だ!』
「やりなさい! 司令官命令よ……! ビーストーム1、撃ちなさい……!」

 だが、ミラーが攻撃する気配はない。
 まだ葉月に気遣っているのか!? 冗談じゃない!

「なにをしているの、精密機械! 貴方に『感情は必要ない』! 貴方達の『迷い』、『躊躇い』、『戸惑い』──それらは全て司令官である『私がすべて引き受ける』べきもの! 貴方達は何も考えなくていい! 『帰ってくる』事だけを考えればいい!!」
『大佐……!』

「空域線を割ります──!」

 その管制員の声と同時に葉月も叫ぶ。

 

『全機、反撃開……!』

 だがその時、握っていたヘッドホンがサッと消えていった!?

 

「全機、反撃開始だ! ビーストーム1、撃て!!」
「!?」

 葉月の頭上に響いた男性の声──。
 そこには雄々しく反撃命令を叫んだジェフリーがいた。

「ビーストーム1、攻撃開始しました!」

「只今、湾岸部隊到着──」
「よし! ビーストームは1以外母艦付近へ後退、待機だ。管制キャプテン、空域線は割ったか!?」
「いいえ。ギリギリ手前でした」
「そうか。間に合ったか……! よし、湾岸部隊、迎撃体勢で擁護せよ!」

 電光板に湾岸部隊の数機が境界線に集結する点が点滅している。

「湾岸1、一機ロックオン……!」
「ビーストーム1もロックオン……!」

 どうやらミラーも応戦しているようだ。
 湾岸部隊の擁護で、ミラーの機体が国内に完全に戻ってきている!
 それを見て、なんだか葉月は腰の力が抜けてがっくりと落ちそうになったが、それでも通信機の上に手を付いてなんとか立ち続けるよう堪えた。
 そんな葉月の腕を隣の男性が引っ張り上げていた。ジェフリーだ。

「きょ、教官──」
「すまない、ちょっとの隙に。横須賀総本部から『緊急警戒』が発令され岩国部隊が出動準備をする矢先だった」
「……え」
「相手国が先手を取ったようで、こちらは間に合わなかったと言うことだ。だが良く堪えた。そこで黙って見ていろ」

 ジェフリーが先ほど、電信書を手にして出ていった訳。
 それがこの急な攻撃の『警戒体勢』へと国が入るためだったのだと──。
 だが、日本が一歩出遅れた形になったのだろう。緊急警戒態勢は間に合わず、一番側にいるこの艦に襲いかかったのだ──。それを知って葉月はなんだかゾッとした。
 任務で他の指揮官と陣頭に立ったことはあるが、こんなたった一人の肩にかかることは初めてだった。そして、なによりも『ただのスクランブル以上のもの』が日本でもあることが……!
 今回だって一歩間違えれば、部下を失う上に国に損失を与えていたのかも知れないのだ。その判断ひとつで──!

「不明機、空域線国外に出ました!」
「よし! 撃つな……!」

 管制員の集中した監視に、ジェフリーの迷いのない命令が続く。
 葉月はもう、それを『絵空事』のように茫然と眺めていた。

「湾岸1、ロック解除」
「ビーストーム1、ロック解除」

「不明国機、一機後退!」
「もう一機も、国外へ後退確認!」

 こちらの『反撃、迎撃状態』に固められ、その上両機ともロックオンの危機を察知し……。ついに、諦め帰るべき場所に帰ったのか?

「──不明国機、退去。確認」

 管制長の落ち着いた声。
 一気に管制室が静かになった……。

「くそ。やってくれたな……危機一髪だ」

 ジェフリーはホッとしたというよりも、さあ今からという前の隙をつかれた為かとても悔しそうで、拳を通信機に振り下ろしていた。
 その音が響き、管制員の誰もがうなだれていた。

「大佐嬢は慌てず先走ることなく早まることなく、しっかりと見定め、よく堪えていました。お見事でした──」

 そう言ってくれたのは、この管制室の『キャプテン』である管制長だ。

「ああ、ブライアンの国外、国内での際どいラインを良く見極めたな。経過はどうであれ、両国、人命損失は免れた。これが一番の功績だ」
「……」
「葉月──?」

 皆はそう言ってくれるが、葉月はここでついにがっくりと床に跪き、両手も冷たい床に付き、うなだれた。
 立派だったとかお見事だったなどまったく思えない! 自分がいったい何が出来たというのだ?
 ──冷静に判断なんかしていやしない。むしろなにがなんだか分からなかった!
 ──怖かった。
 自分が重い責任を背負うこともそうだがそれ以上に……。
 部下の命が風前の灯火であったことが!
 もしあのまま反撃命令の意を決さずに、ミラーを失っていたら……! 悔やんでも悔やみきれなかっただろう……!!
 自分の無力さを葉月は今、噛みしめていた。

「立て。司令官はそれでもここで立っていなければならないものだ」
「教官──」
「どうだ。コックピット以上のスリルがあっただろう? ここはお前の新しい戦場だ。気に入ったか?」
「……」

 新しい戦場──。
 葉月の中でその言葉が大きく響いた。
 そしてここが『空女房』になるには、立っていなくてはいけない『新しい場所』なのだと──。

 葉月は立ち上がった。
 そしてジェフリーの顔を見上げる。

「御園大佐。確認をしておく」
「はい」
「御園大佐は『撃て』とは言ったが、『反撃開始』は言っていない。そしてその『反撃命令』を下し、パイロット達に攻撃指示したのは『この私』、艦長だ。いいな?」
「……はい」

 のちに査問などがあるだろう。
 その時、特例で乗り合わせていた大佐嬢が最終命令を下したとなると、不在であったジェフリーはおろか、この乗り合い乗船の企画を出した小笠原にも問題とされるだろう。
 しかしそれは免れたようだ。
 それでも危機一髪、葉月がその言葉を言いかけていたのだから。だが、それでもジェフリーのその念押しは『なにもかも俺の責任、お前は何も考えるな』と……。それこそ葉月が先ほどミラーに叫んだように『お前達の迷いは全て俺が引き受ける』と言うことなのだろう。

「只今空域線、パトロール警戒中」
「不明国機──、消えました」

 管制員とパイロット達の警戒はまだ続いていた。

「よし。ビーストーム全機、すべて着艦せよ。湾岸フライトは引き続き、境界線から離れたパトロールを……。直に岩国部隊に引き継ぐ」
『ラジャー!』

 戦いの波が退こうとしていた。

「良かった。これでブライアンも帰ってくる……」
「私……」

 ジェフリーがやっとホッと安堵した声を漏らした。
 もう危険ではない。そこから脱する事が出来たのだ。
 そう思うと、今度は──涙が。
 その潤み始めた目を、ジェフリーに見られてしまった。
 彼はちょっと戸惑い、そして葉月に何かを言おうと口を開きかける。

 それを見て、葉月はジェフリーに背を向け、そこを飛び出した!
 管制室を飛び出し、通路を走り抜ける。
 どうしようもなく流れてきた涙は、なんの涙なのだろう?

 驚いたショック?
 怖かったショック?
 それともミラーを失いそうになったショック?
 国家の狭間で揺れさせられる責任の重さと、部下の命の重さを守る責任を痛感したショック?

 分からなかった──!
 でも胸が張り裂けそう……!

(隼人さん──。会いたい!!)

 今、ここに彼がいたら、迷わずに飛びこんで声を上げて泣きたい!
 葉月はただ通路を走り抜けていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 艦長室からすすり泣く声が聞こえる。
 それでもその声はかなり押し殺していることをうかがわせる泣き声だった。

 テッドの横で、テリーも泣いている。

「きっと怖かったと思うわ。そんなに私達と歳だって変わらないのに……。いつも大佐はこんな思いばかり……」
「大佐なのだから当たり前だ」
「それはそうだろうけれど……。でもちょっとぐらいそう思わないの? テッド……!」

 こんなになってもいつも通りの落ち着きと手厳しいシビアさを見せるテッドの態度に、テリーが珍しく憤りを見せた。

「俺もテッドと同じ、そう思う。大佐自身もそれぐらいの覚悟はしている。けど……泣きたいよな。でもきっと自分の立場というものは、涙は見せるものではないと分かっているんだ。だから今は……一人にしておこうよ」

 クリストファーが男感覚のテッドと女感覚のテリーの間で呟いたことに、二人は一緒に納得し頷き、そして俯いた。

「クリスの言うとおりだわ。今、大佐は誰にも見られたくないのだと思う──。どんな時も、ずっとそうだったもの。遠野大佐の殉職の時も。そして岬任務の時もきっと……」

 テッドよりも彼女の方が葉月と近しく付き合ってきた年月は長い。
 テリーが通信科に転属してしまった後も、葉月は毎日通信科へと足を運んでテリーにつかず離れず見守っていた……。テリーがいつもそう言う。
 それを葉月はありありと出さず、いつも小池に会いに来た振りをして、三日に一度は一言でも声をかけてくれた。だからこの数年、いつか本部に戻ることがあったら、葉月のためになる働きをするのだと精進してきた。それがテリーの目標で、今年、それが叶ったのだと。
 そして同性としても分かるのだろう。大佐なんて肩書きを取ってしまえば『同じか弱い女の子』なのだと。

「もし今、誰かを欲しているなら。澤村中佐しかいないわ」
「そうだな。俺達は──」
「──うん、こうして見守るしかないんだよね」

 三人はもどかしい思いを噛みしめながら、漏れてくる泣き声を暫く聞いて……。
 聞かなかったことにしようとそこを去ろうとした。

 すると、そこにはジェフリーとラルフが立っていた。

「お前達も忘れるな」
「艦長──!」

 すすり泣く声がそっと漏れてくる艦長室ドアへと、ジェフリーが視線を馳せる。

「俺達軍人が、どのような意味で責任を持っていて、『人』と対し関わっているのか──その重要性を」

 それが今。大佐嬢が直面したことそのものなのだと言うことが言いたいらしい。
 仲間を失う怖さ。自分の判断一つで社会を揺るがす可能性を秘めている怖さ。
 そして、相手もロボットや架空の機械じゃない。そこには自分たちと同じように任務という使命を持ち己の命を懸けて、敵と同じように情勢の枠組みの中で動かされている『同じ人間』が存在していることを──。
 自分も命を失う可能性があるのと同様に、逆に自分も人の命を奪ってしまう可能性も同じぐらいに持っているのだと。

 ジェフリーの『何もなければそれが一番良い』と常日頃言っている言葉が、若い三人には、この日は心にずっしりと響いた。
 まだ、葉月がすすり泣く、そして小さく声をしゃくり上げている声が聞こえる……。

「二人きりにしてくれ──」
「はい、艦長」

 ジェフリーは側近のラルフにそう呟くと、静かに艦長室のドアを開けた。
 テッド達はそれをただ眺めているだけだった。

「君達も驚いただろう。俺も驚いた。食堂で一杯、休憩しよう」
「はい。中佐」

 食堂へと歩き始めたラルフの後に続く──。
 だけど若い三人は揃って振り返る。

 まだ、彼女の密かなる泣く声は微かに響いていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 ジェフリーは静かに艦長室に入る。
 ああ、懐かしい──。ジェフリーはそう思い、切なく目を細める。

 自分の艦長席の影で、彼女がうずくまっている姿があった……。

 それが遠い昔と重なる。
 あの少女が訓練校の隅、裏庭の物陰、人気のない場所に出向いてはそうしてうずくまっていたことを。
 泣いている時もあったし、ただじっと一点をいつまでも見つめて何かを考えているような怖いくらいの眼差しでいるだけの時もあった。
 まだ無邪気でいても許されるはずの年頃に、彼女の眼差しは痛く大人びていて、そして……哀しさで溢れていた。

 ただ今、あの時と同じように子猫がうずくまって鳴いているような姿はしていても、『声』が全然違っている。
 まだ何処かで『独りでいたい。誰にも知られたくない』と声を殺してはいるが。それでもその彼女がすすり泣く声は、とても感情的な熱さが秘められている。
 『無感情令嬢』と呼ばれる教え子は、今はとても感受性豊かに……哀しみ、悔しさ、無力さ、恐ろしさ。その様々な物をいっぺんに感じ取ったことを素直に受け入れているのだと思えた。

 だがジェフリーが戻ってきたと知ったのか、その小さな泣き声がピタリと止んだ。

「どうした。泣きたい時は涙が枯れるまで、気が済むまで泣いておけ。邪魔なら出ていく」

 ジェフリーは艦長席に広げたままにしていた書類を束ね、その隅に置きながら呟いた。
 すると、椅子の側でうずくまっていた葉月が、すっと立ち上がった。

「いいえ。もう、大丈夫です。失礼致しました」
「……」

 そうだった。昔もそうだった。
 彼女はこういう『切り替え』をさせたら天下一品だ。
 それが何処で一番役に立っているというならば、やはり『大佐嬢』という立場である時、または『職務人』のときであって、それは大いに役に立っていることだろう。
 だがそれを見て、ジェフリーは哀しくなるのだ。
 それが『正解』のはずなのだが、泣きたい時にきちんと泣こうとしない教え子のその姿が痛々しくてどうしようもない。
 きっとそれはジェフリーだけが感じたものではないはず。彼女と真っ正面に向かった人間なら、きっと一度や二度は目の当たりにしているだろう。彼女の恋人もそして彼女を慕っている後輩達も。そして彼女の周りにいる仲間も。
 そして彼等もジェフリーと同じ気持ちになっているに違いない。
 ──なんて哀しい姿だろう。と。

 だから目の前の教え子は、すすり泣いていた声を止め、力無くとも立ち上がり、そして感情を押し込めてしまった涼やかな顔に残る涙を、跡形もなく手の甲でぬぐい去ってしまった。

「……気が済んだのなら。それでいい」

 そうとしか言えなかった。
 そして昔も。彼女と別れる事になった時も。

 それはシアトルの訓練校に転属する事を、教え子である葉月に告げた時の事だった。
 ジェフリーは彼女を置いていくことを案じながらも、でも、異性としてではなく、彼女をただ案じている一人の人間としてその気持ちを伝えたくて……。
 彼女に一人ではないのだと感じて欲しくて。彼女には『タブー』と思っていても、その冷たそうな身体も顔にも『暖かさ』を知って欲しくて。
 ただその想いひとつで『抱きしめてあげたい』と手を伸ばした事がある。
 だけどそれはジェフリーの一方的な『傲慢』であったのかもしれない。目の前の時に儚く見えてしまう少女が望んでいるのは、ジェフリーのそんな想いではなかったのだ。
 ジェフリーの指先を拒絶し、顔を背けた栗毛の少女……。
 その毛先だけでも触れて、彼女に知って欲しかったのに、それすらも拒絶される。
 その教え子の透き通った瞳が、今までに見せたことのない目だった。
 ──『男の手』。
 彼女の目がそうしてジェフリーの指先を『蔑む』ように見つめていた。
 彼女が一番嫌っている『姉を奪った男の手』と重ねられていると分かったのだ。

 誰の手も信じないという、頑なな教え子の心。
 それも哀しかった。
 彼女はこうして何もかもを拒絶して生きていくことになるだろう。
 ジェフリーはもう去って行かねばならない。
 ……何もしてあげることが出来なかった。

 そうして十二年が経ったわけだ。
 今回の再会で幾分か良くなっていることで安心させてくれた葉月ではあったが、それでも……その哀しい『習性』は健在している。

「たいしたもんだ。大佐としては申し分ない」

 一人の人間としては哀しく思えるのだが、大佐嬢の恩師としてはそう褒めることが出来た。
 いつもの涼やかな大佐嬢の顔に戻った教え子。
 彼女がジェフリーを見つめてきた。彼女がこうして見つめてきた時は、ジェフリーは必ず目を逸らさないようにする。彼女は目を見ただけで、様々なことを察知してしまうからだ。

 なのに『たいしたもんだ』と大佐として褒めた彼女のその顔が、急に泣き顔に崩れる。
 そして葉月はまた溢れ出てくる涙を手の甲で一生懸命に止めよう、何度も拭っていた。

「──こ、怖かった」

 切り替えが上手くできる教え子であったはずなのに。
 その教え子がそのコントロールが出来なったかのように、またとりとめなく涙を流しているじゃないか。
 ジェフリーはただ、それを眺めていることしかできなかった。つまり驚いているのだ。
 だがその間も葉月は何度も涙を拭う。もう、涙も止められなくなったのか

「……こんなに怖いと思えたのは、初めてです。わたし……。私は今までこのような思いを、沢山の人に愛してくれた人々にさせていたのですか?」
「葉月──?」
「知りませんでした……。そしてこんなふうに哀しませていることを、これっぽっちも思っていなかったのだと思い知らされました」

 教え子の涙の訳と『怖さ』の訳を聞かされて、ジェフリーは驚かされる。
 ただ、『突然の危機』に襲われたショックで泣いていたわけでもなかったかと──。
 そしてやはり、そう感じることが出来たかと次には微笑むことが出来た。

 そこでジェフリーはほっと一息つきながら、そっと葉月の前へと向かった。

「葉月──」
「教官……?」

 あの時のように、ふっと指先が伸びる。
 異性の感覚無しでの、教え子に対する愛おしさが溢れる指先が……。

 そしてその指先を彼女のガラスのような瞳がじっと見つめ、追っている。
 昔は、ここで彼女が顔を背けた──。
 だがこの日、ジェフリーの想いを乗せた指先は、そっと彼女の頬に触れることが出来た。
 濡れた頬に張り付いていた栗毛をそっと頬の外に除け、そして瞳の下の涙の跡を消すように拭った。

 葉月はその仕草を静かに受け入れてくれ、そして瞳はずっとジェフリーを見つめ続けてくれていた。

 彼女に『人』として受け入れてもらえた。
 いや、教え子が『受け入れることが出来る心』を取り戻したのだとジェフリーは痛感した。

「ずっと前は、拒絶された」
「……あの時は」

 『まだ子供だった』──葉月が申し訳なさそうに呟いた。
 子供とかそういうものではないとジェフリーは思うのだが、そう言うことにしておいた。

「もう、お前に教えたいことはないな」

 ジェフリーはそっと受け入れてもらえた指を降ろし、緩く微笑んだ。
 葉月は『そんなことはない、まだあるはず』と言うが、ジェフリーはそっと首を振った。

「葉月。俺がコックピットを降りたのはなあ……」

 彼女がびくっと固まった。
 自分がパイロットを若くして辞めた訳について、いろいろな噂が流れている事はジェフリー本人も知っている。
 そして教え子の葉月もいろいろと聞いてきたことだろう。だが、余程でないとジェフリーは口にしなかった。
 それを言おうとしている為か、葉月が身構えているのが分かった。それでもジェフリーは続ける。

「ある時の任務で……。後輩を亡くしたからだ」
「──そ、そんなことが?」
「彼は新人だった。負けん気が強くて、俺にライバル心を燃やして。そんな彼をコントロールすることが出来なかった。俺の先を、先手を取ろうと躍起になっていた彼は、無茶な突っ込みをして事故を起こした。任務で敵があって死んだんじゃない。『事故』だ」

 そしてその時、誰もジェフリーのことを責めた者はいない。
 だけれど、ジェフリーは自分を責めた。
 何処かで『こんな新人に抜かれてなるものか』と密かに自分もムキになっていて、彼を拒絶していた部分があったのではないかと──。
 葉月は黙って聞いていた。

「では、その後輩の方。私のように……無茶ばかり?」
「ああ。お前が持っていた気持ちとは異なるだろうが。お前も周りを顧みずに無茶をしてきたのだろう? 飛んでいたのは自分の為だけだったはずだ」

 気恥ずかしそうに葉月がこっくりと頷いた。
 それも既に反省しているような顔だ。

「昔、この区域で起きたスクランブルでキャプテンを助けようと思って、二機の間に突っ込んだことがあります。帰還した後、彼にひどく叱られ、彼の奥様にも怒られました」

 その時、叩かれたのだろうか?
 葉月は頬をそっと撫でていた。
 そして、笑っていたのだ。

「──簡単に死ねる、簡単に殺せる事を知って欲しかった。自分が一人で飛んでいる時は感じ難いだろうが、何人もの命を預かる上官となるならば、そこは知っておいて欲しかった」
「教官」
「それが、今回──。どうしても最後にお前に知って欲しかった」

 沖縄に着くまでに、訓練の中で徐々に染みこませていくつもりだった。
 しかしこの日の『怪我の功名』というのだろうか? 思いもしなかった出来事に教え子が遭遇してしまった訳だが、成果は大きかったとジェフリーは思った。

「俺がコックピットを降りたのは、自分を責めただけじゃない。以上に、新しい使命を見つけたからだ」
「新しい使命……」

 その『使命』──。
 コックピットを降りると決めた教え子は、もう分かっているような顔をしていた。
 そしてジェフリーはその言葉を言う。

「帰ってくるパイロットを育てる──。送り出す。見守る。それが新しい目標だった。コックピットに未練はなかった」
「そうだったのですか……。教官」
「そして、なによりも──。軍で勲章をもらうことよりも、愛する者の元に帰るのが一番の勲章だ。それをお前がこれからはパイロット達にしてあげて欲しい」

 葉月がまた……胸に込み上げる物があったのか、瞳を潤ませ、一筋の涙を流した。

「必ず、必ず──。そうなります! 彼等を守る『女房』に……!」

 ジェフリーは静かに微笑み『よし』と頷いた。
 そして……『終わった』と思った。

 何年も案じていた少女はもう大丈夫だ。
 長年の気がかりが気化し、空に高く昇っていったような感覚になる。
 もう彼女を送り出しても大丈夫だと──。

 

「──大佐嬢!」
「ミ、ミラー中佐!」

 

 突然、艦長室のドアが開き、そこからブライアン=ミラーが飛び込んできた。
 ノックも無しにドアを開けたところを見ると、一直線にすっ飛んで来た事がうかがえた。
 あの冷たい精密機械も、すっかり熱い男になっているとジェフリーはさらに微笑んだ。

 お互いの絆で戦い抜いた二人が、同時に駆け寄る。

「ああ、良かった……。中佐、私!」
「大佐嬢──。有り難う、有り難う! 俺のための重い決断を、有り難う」

 二人ががっしりと手を握り合い、そして労りの抱擁をする。

 自分から駆け寄り、そして素直にその温かみを抱きしめ、受け入れているその姿。
 全てを拒絶していた少女が、世の中を愛し始めている。そう思えた。

 ──この教え子は、いつかきっと『空軍の母』になる。

 師は、そう確信した。

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