-- A to Z;ero -- * 白きザナドゥ *

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11.さよなら教官

 穏やかで、うららかな午後の日差しが、艦長室の丸窓から降り注ぐ。
 航海日誌をしたためているジェフリーの手元も、その暖かい日差しに包まれるていた。

 ──『不明機侵入、国内巡回空母機と接触』

 あの『緊急警戒』の翌日、国内新聞のトップに大きく取り上げられたようだ。
 ジェフリーは日本語は読めないが、その新聞はまだ艦長席の隅に置いたままにしている。
 あの後直ぐに、横須賀から『査問委員』がやってきて聴取を受けた。それも何事もなく、形式通りで終わった。
 無事に隊員を守ったこと、あちらにも損害を与えなかったこと、そして国の一般市民へ及ぶ事件にならなかったこと。それを阻止したことの労いを受け、特に『まずかった』と責められるべき事はなかった。当然、大佐嬢が僅かに関わっていたことも正直に報告したが、そこはジェフリーを助けたとして受け止めてもらえホッとした。

 あれからだいぶ日が経った。
 穏やかな瀬戸内海に入り、岩国基地に寄港し物資を補給。
 温暖な瀬戸内海の航行は内海だったために、日本海ほどの緊張感はなく、あっというまに東シナ海へ抜けた。
 その間にクルー達も、温暖な気候に気持ちが和らいできたのか、ちょっとしたリフレッシュになったようで、艦内は穏やかな日々が流れていた。

 只今、外の気温は22度。
 まるで春のような気候。
 そして何処までも青いマリンブルーの海。
 ──もうすぐ『沖縄』だ。

 甲板から、賑やかな声が聞こえてきた。
 それが耳についたので、艦長席を離れ丸窓からそっと覗いてみる。
 その賑やかな声がなんであるか知ったジェフリーはそっと笑った。

「か、艦長!!」

 ジェフリーは『来たか』と、ちょっと呆れた顔で顎をさすった。
 飛び込んできたのはラルフではない若い補佐官だ。

「た、大佐嬢が外に出て通信機をセッティングし、勝手に訓練の準備を……! しかも管制員までが協力しています!」
「放っておけ」
「は?」
「好きにやらせろと言ったんだ」

 前はここでジェフリーも目くじらを立てたが、今日はあっさりと認め、艦長席に座り直した。
 すると若い部下が『あっさり許可』をしてしまった上官の変わり身に、唖然としたままそこに立っていた。

「どうした? 俺も今日は甲板に出る。大佐嬢の指示で準備を進めてくれ」
「イ、イエッサー!」

 若い補佐官が飛び出していく。
 暫くしてから、ジェフリーも甲板へと向かった。

 

 甲板の出口に辿り着くと、そこではラルフが微笑みながら見守っていた。

「ああ、艦長。見てくださいよ。皆、すっかり乗り気で」
「うん、艦長室から見ていた」

 側近と並び、ジェフリーは甲板はまだ出ずに、息を潜めるように艦内に身を隠し外の様子を見守る。
 葉月の周りには整備員、そしてパイロット達が集まっていた。

「この天気だもの。たまには良いでしょう」
「そうだ。小笠原式で対戦訓練をしようじゃないか。それだって大切だと思わないか?」
「そうよ、そうよ! この前の接戦でも必要性は感じられたわ!」

 葉月とブライアンの張り切る声に、皆が巻き込まれるように活気づいていく。
 湾岸フライトも『空域境界線』での駆け引きをする精神的訓練には、もうだいぶ飽き飽きしているようで『いいな、そうしたい』と意気込んでいる。

「艦長。このままでは大佐嬢に乗っ取られますねえ」
「本当だ。沖縄に着いたら俺はバカンスで降りて、お転婆に艦長を引き継ごうかな」

 ラルフのからかいに、ジェフリーもおどけてみせる。

「管制員があっさりと彼女に協力したそうですよ」
「──この前の大佐嬢を、一番近くで目の当たりにした奴らだからな」

 管制長から後の報告で聞かされたのだが──。
 大佐嬢は現場で戦う部下が持つだろう『迷い、躊躇い、戸惑い』は『全て司令官である私が引き受るべきものだから、何も考えずに実行し、帰ってくることだけを考えればいい』と叫んだとか。
 その言葉に、心を打たれてしまった管制隊員が何人もいたそうだ。そしてそれは管制長本人も感銘したと言っていた。

 ジェフリーが彼女に知って欲しかったことを、彼女は見つけてくれた。
 それもあの危機というプレッシャーの中で見出してくれた。
 それにも満足をしたし、そして……。

『でも、艦長の許可がないとね。また叱られそうだわ』
『だったら、全員でお願いしようじゃないか!』

 いつもの『じゃじゃ馬』で周りを巻き込んだことを自覚している葉月は、それでも最後は『艦長の許可が必要』と言う。それを横にいるブライアンが『皆でやろう』と葉月を擁護している姿。

「ほんっとうによろしいのですか? 貴方のお株が全部大佐嬢に奪われてしまいますよ」
「おお、奪ってみろってんだ。どれだけおっきい重い株か思い知らせてやる」

 若い女指揮官が得ていく人望にも、こちらの教官組は全く危機感無しで笑い飛ばした。
 そうだ。彼女はこの航行でも見事に──。ジェフリーが連れてきたクルー達との信頼をしっかり築いた。なによりも彼女以外にも気にかけていた『精密機械野郎』を熱く変えてくれたのは、ジェフリーにも出来なかったことだ。教え子が彼に与えてくれたものだ。それももうひとつの満足。

 するとラルフが若い熱気に溢れる甲板の光景に目を細めながら、一言、呟いた。

「果たせなかった『卒業』……ですね?」

 そしてジェフリーも甲板に降り注ぐ輝く日差しに思い切り微笑んだ。

「ああ。やっと胸の奥でくすぶっていた『心残り』を手放せそうだ。置き去りにした教え子を送り出せる」

 側近の彼も『良かったですね』と嬉しそうな微笑みを浮かべてくれていた。
 ジェフリーは甲板の光の中へと歩み出す。

「さあ、訓練を始めるぞ! 今日は小笠原式ドッグファイだ!」

 手を打って鳴らしながら、大佐嬢と彼等の輪の中に向かっていく。
 大佐嬢を筆頭に隊員達が揃って『艦長!』と驚きながら振り向いた。だが、『許可が出た』と直ぐに判った彼等が飛び上がる。

 笑顔でパイロットを送り出す大佐嬢。
 その教え子の隣に、ジェフリーも笑顔で並ぶ。

「教官チームがお相手? 負けませんわよ」
「十年早いと思わせてやる」

 彼女の顔は輝いている。
 これほど嬉しいことはない。
 教官という経歴の中でも、こういう事を実感できるのが一番嬉しい。

 ──もうすぐ、この教え子はこの艦を降りる。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 そしてその日はすぐにやってきた。

 海の色がマリンブルーに変わってから数日。
 奄美諸島の美しい海の景色に見惚れながらの訓練の日々を過ごし、ついに昨夜──沖縄のとある基地の港に入港。
 目が覚めると、珊瑚礁の海がずっと遠くまで広がっているのが見えた。
 まるで小笠原に帰ってきたかと錯覚させるように、似た風景だ。
 懐かしさが込み上げはしたが、まだまだ。旅は終わっていない。 

 この日の朝、葉月は訓練着ではなく、いつもの制服に着替える。
 それは葉月だけでなく、テリーも、そして小笠原の隊員は皆そうだった。
 この艦での最後の朝食を済ませた葉月は、同室のジャンヌとテリーと一緒に荷物をまとめながら、部屋の片づけをしていた。
 昼前にここを降りて、そのまま基地の輸送機から小笠原基地に直行だ。
 夕方には小笠原に帰れそうだ。

「大佐嬢、これは貴女の物よ」
「あ、そうです。有り難うございます」

 ジャンヌが差し出してくれたのは、葉月が丸窓前の棚に置いていた『歯ブラシの束』だった。
 出発前に隼人が持たせてくれた物だ。

「貴女、準備が良かったわね。歯ブラシを沢山持って来るだなんて思いつかなかったわ」

 ジャンヌの感心してくれる声に反応したテリーが、葉月の頭上、上のベッドから顔を出した。

「本当。落として汚れちゃったりした時は、私もどうしようかと思ったけれど、大佐がスペアを持っていてくれて助かりましたもの」
「私は歳かしら? どこに置いてきたか持っていったか忘れちゃったりしてね」
「やだ。先生ったら!」

 ジャンヌとテリーが一緒に笑い出す。
 その度に葉月は隼人が持たせてくれた歯ブラシを一本ずつ彼女たちにあげたのだ。
 おそらく、隼人も若きメンテナンサーとして母艦航行に就いていた旅で経験したことだったのだろうが、同じように航行生活を経験してきた葉月もそこまでは思いつかなかった。こういうところ、隼人は本当にきめ細かいというか。すごい……と思う。
 それに、歯ブラシの束を見ただけで、彼がそこにいてくれるようで……。それで棚の上に出しっぱなしにしていた。

「大佐、このバスセット。本当に頂いて良いのですか?」
「いいわよ。うちにはいくらでもあるの。気に入ってくれて嬉しいわ。使ってくれたらもっと嬉しい」
「じゃあ。遠慮なく」

 葉月が持ってきた『バスセット』とは、花の香りがする石鹸やシャンプー。そして『足浴』にしか使えなかったけれど入浴剤。
 男寄りの生活になる空母艦の旅ではあるけれど、せめて香りだけでも、女性らしい心へとほぐす材料になればと持ってきたのだ。
 テリーと一緒にシャワーを浴びた時に、彼女が気にかけたので貸してあげた。すると彼女もとても喜んで気に入ってくれたので、使わずに残った物をプレゼントしたのだ。

 そんな女性同士の生活も、楽しかった。
 今まで男とばかり仕事をしてきたので、それは葉月にとっても新しい想い出になりそうだった。

(やっと、会えるのね。今日)

 握りしめた歯ブラシの束を葉月はそっと胸に抱きしめる。
 そして彼にもらった花束でもしまうかのように、葉月はバッグにその歯ブラシを入れた。

「あっと言う間だったわね」
「本当……」

 ジャンヌのしみじみとした一言に、テリーも名残惜しそうに振り返る。
 綺麗に片づいた狭き部屋。
 だけれど短い期間を女同士の香りを感じながら過ごした思い出深い部屋。
 葉月も無言で、二人と同じ気持ちを噛みしめる。

 いつもこの部屋に僅かな光を採り入れてくれた丸窓には、まるで絵葉書のような青空と碧色の海。
 それを目の端に掠め、葉月達はそこを後にした。

 

 『お別れ』は艦長室ではない。
 艦長室の片付けは、もう前日までにテッド達と綺麗に済ませた。
 その間も、この一ヶ月半を共に過ごしてくれた『恩師』とは、いつもどおりに接していた。
 向こうもしみじみとした話も持ちかけてこないし、葉月も……。
 何を話せばいいかと言うよりかは、もう話さなくても教官が言いそうなことは解ると言った方が良いかも知れない。そしてジェフリーも……。『教え子のお前なら、言わなくてももう解っている』と感じてくれているようだ。
 彼はいつもの陽気な笑顔で、いつもの明るく笑える話だけしかしなかった。

 ……もしかして。何か向かい合えば涙が溢れそうな気持ちになってしまっていた葉月のこと、見抜かれていたのだろうか? 葉月は恩師の陽気な笑顔をそうなのかもと思っていた。

 そうして最後の朝がやってきたのだ。
 小笠原隊員は朝食を済ませたら、部屋を綺麗に掃除し荷物をまとめて、定めた時間に甲板に集合だ。
 葉月達も同じく、そうして今、ジャンヌとテリーと共に部屋を出て、甲板に出てきたところだった。

 

 甲板に出ると、沢山の隊員が集まっていた。
 その人々の塊の先頭でジェフリーとラルフが肩を並べていつもの笑顔で雑談をしている。
 だが、甲板に出てきた葉月の姿に一緒に気が付いた二人の表情が引き締まった。
 ──葉月もそこで『別れ』が本当にやってきたのだと、実感する。

『整列!』

 ラルフのかけ声で、湾岸隊員達がザッと一斉に綺麗な列を作りだし、規律正しく並んだ。
 その先頭にジェフリーとラルフが並ぶ。

『小笠原隊、整列!』

 次は、先に出ていたテッドのかけ声で小笠原隊が並んだ。
 補佐とウォーカーとミラー中佐を始めとしたパイロット数名。
 僅かな人数の小笠原隊の先頭に、葉月はテッドと並んだ。

 大人数で見送りに並んでくれた湾岸部隊と向き合う。
 輝く甲板は既に沖縄の強い日差しを受けて熱気を上げている。
 その間に南国の優しい風が吹き抜けていった。

 先頭にいるジェフリーと目があったが、彼は微笑みもしない。
 だけど葉月の目をじっと見つめ続けている。
 葉月も、恩師のその目を逸らすことなく見つめた。

 まるで、その眼差しで会話をしているような気分。

『敬礼!』

 ラルフのかけ声で、湾岸部隊、小笠原部隊が揃って敬礼。
 『直れ』の合図で、敬礼を解く。

「大佐からどうぞ……」

 隣にいるテッドが『小笠原から挨拶を』と促してきた。
 葉月も頷いて、ジェフリーを先頭としている湾岸部隊を見渡し向き合う。

「皆様、大事な任務の最中に、こちらの『実務と平行した訓練を……』という企画でやってきました私達を受け入れてくださいまして有り難うございました」

 葉月はサッと敬礼をする。
 すると何も号令をかけていないのに、テッドが同じく敬礼すると後ろに並んでいるパイロット達も敬礼をしているのが分かった。
 小笠原隊の心からの『お礼』。それが自然と揃ったので葉月は驚き、そして笑顔が浮かんできた。

「それとは別に、いろいろな交流が出来たことも、私を始め補佐もパイロット達にも良い想い出となることでしょう。充実した航行生活が送れたのは、湾岸部隊の皆様のおかげです。まあ、一部……わたくし自身が皆様をお騒がせした事も、ここでお詫び致します」

 葉月が最後におどけて謝ると、小さな笑い声があちこちから湧いた。
 勝手に甲板に出たり、男性同士の喧嘩に巻き込まれ、湿布を貼った顔で歩き回っていたり……そういう葉月のお転婆から起きた様々な『騒ぎ』を思い起こしてくれているのだろう。中には笑えない場を目にした隊員もいただろうが、それもこうして無事に降りる日を迎えた故の、終わった笑い話にしてくれていると思えた。
 テッドも笑っていたし、ジェフリーも笑っている……。
 すると彼が『かしこまった挨拶はそれでもう充分』と手で制してきた。
 今度は彼が一歩前、小笠原隊に向かってくる。

「こちらも淡々とした航行生活の中、小笠原というシアトル隊にはない風を吹き込み、隊員達に良き刺激を与えてもらい礼を言う。慣れている部隊にはないものを知ったことは、今後も彼等の良き糧となりそして良き想い出となることだろう。小笠原の諸君、ある時は君達の勇敢な姿に感動させられ、ある時は君達の意気盛んな情熱に心打たれ……」

 ジェフリーのそんな……彼らしい熱のこもった別れの挨拶が続いていた。
 だけど葉月にはその言葉は聞こえていなかった。
 ただ、目の前の恩師の頼もしく凛々しい姿を目に焼き付けるようにじっと見つめていた。

 やがて、どちらの挨拶も終わり、最後の敬礼で『見送り会』の幕が閉じる。

 いよいよ艦を降りる時がやってきた。
 甲板から桟橋へと降りる階下まで、ジェフリーの後をついて降りていく。
 その間も、なんの言葉も交わさなかった……。
 艦はすでに着岸をしていて、桟橋へとタラップが降ろされる。

「大佐嬢、お元気で」
「また会いましょうね、大佐嬢」

「有り難う。貴方達もお元気で。そして頑張ってね」

 通路でもすれ違った隊員達に挨拶。
 それにもそれぞれに言葉を交わしながら、タラップへ向かっていく。
 タラップの降り口で、ジェフリーとラルフが揃って並んだ。

「さあ、下船だ。お疲れさま、御園大佐」
「お疲れでございました。御園大佐」

 二人の先輩が神妙な顔つきのまま、揃って敬礼をしてくれた。
 艦の下を見下ろすと沖縄隊員達が待ちかまえている……。
 だけど葉月はもうこれでジェフリーには会えなくなるかも知れないと思うと……足が動かなくなる。

「大佐。輸送機の時間を狂わせては……」
「解っているわ……」

 後ろにいるテッドがちょっと言いにくそうにして葉月に小さく囁いた。
 彼も別れを惜しんでいる葉月の気持ちが通じているようだ。

「葉月、こっちへ来い」
「は、はい……」

 その躊躇ってる間をじれったそうにして、ジェフリーがまた命令するような口調で葉月を手招きした。
 葉月もその命令口調には弱く、言われるままに足が動いた。

 降り口に立つと、より一層潮風の匂いが鮮烈に葉月を取り囲んだ。
 柔らかな南国の風。正面には金髪の教官がいる。
 彼は名残惜しそうでもなく、いつもの葉月がよく知っている『職務中である確固たる大佐の顔』をしていた。

「教官……あの、」

 なにか、なにか、彼にお礼の言葉を言いたい。
 昨夜からずっとそう思っていたのに、何から言えばいいのか解らなくて……。こんな最後になってしまった。
 『有り難う』の一言だけじゃない、それ以上ある沢山の思いはどう伝えればいいのだろうか?

 彼の目を見つめるばかりで、葉月の唇はちっとも上手に動いてくれない。
 すると、恩師はその硬い表情のまま訓練着の胸ポケットからある物を取り出し、葉月に差し出した。
 首を傾げた葉月に、やっとジェフリーが微笑みかけてくれた。

「卒業証書だ」
「……卒業!」

 恩師が言ったその一言だけで葉月にはあらゆる事が通じた。
 十二年前、彼は転属でまだ指導途中の葉月を置いて、シアトルに行ってしまった。
 あの後、もっとベテランの教官が担当となり、ジェフリー以上のレベルの指導をしてくれた。
 ジェフリーが担当でなくなった訳は、転属する彼が言ってくれたとおりに『もう若き教官が指導するレベルではない』──だから、彼はいなくなったのだと、葉月も納得した。
 でも──『物足りない日々』になった。
 彼に対して何か、何か、やり残したような。 そしてなんだか『熱』が伝わってこない日々。
 ああ、そうなんだ。あれが『熱意』というものだったのだろうか?
 ジェフリーが去ってから、少女心にそう思ったことがある。

 そして、十二年……。
 彼に会おうなんて一度も思ったことはない『恩知らず』だったのに、恩師の方から『会おう』とその機会が巡ってきて彼がそこを逃さずに実現させてくれた。
 そうして今、ここに。
 もしかすると葉月だけではない、恩師自身の『心残り』を示す物が、目に見える心に実感できる物として、ここに姿を表した気がした。

 ──卒業。

 葉月は、ジェフリーが差し出している物をそっと手に取った。
 布製のワッペンで、そしてそれは縫いつけてあった物を衣服からはぎ取ったかのような跡がある。縫い糸が所々出ている。
 青い夜空の刺繍に、稲妻──。
 その絵柄に葉月は驚いて、ジェフリーを見上げた。
 それと同時に『昔の噂は本当だった!!』のだと……!

「そうだ。俺が『雷神』に所属していた時のチームワッペンだ」

 驚きのあまり、葉月は声も出なくなった。
 葉月の側にいたテッドも『嘘だろ?』と、葉月の手元にあるワッペンを物珍しそうに眺めているぐらいに。

 葉月が所属しているフライトが『蜂嵐(ビーストーム)』なら、ジェフリーがいたチームは『雷神』となる。
 それは今はもうなくなった『伝説のエースチーム』だった。
 彼が若手のホープであったのは若教官としての手腕を見ても判っていたが、『雷神にいた』というのは噂に尾ひれがついてのでっちあげられたものだと……そう思っていた。
 それほどに、このフライトにいる男全てが選び抜かれた、国際連合軍最高峰の『エース級のパイロットチーム』なのだ。
 では……後輩が起こした事故死ひとつで、彼はこのワッペンをあっさりと腕からはぎ取ってしまったのかと……。彼が指導することでパイロットを守るという使命を決意した大きさを知らされた気がした!

「でもこれは、教官がパイロットとして……」

 一番の勲章のはず。どのパイロットでもなれるものではない、そしてもう誰もなれはしないパイロット達憧れの伝説のフライトチームだ。だから、今まで持っていたのではないかと葉月は言いたいのに言えず、ただジェフリーを見上げていた。
 だけど……彼が変わらずにいつもの陽気な微笑みを浮かべた。

「もう存在しないチームのワッペンだから希少価値はすごいぞ。それを今度はお前が持ってくれ」
「でも……!」

 躊躇う葉月のその手を、ジェフリーが強く握りしめ、ワッペンを手中へと押し込めた。

「御園大佐。次は大佐嬢である貴女がこれと思った空の人間に引き継いでくれるかな? それが俺の新しい願いだ」
「──!」
「この度は有り難う。お前が大人になった姿を見て、俺は安心することが出来、胸が軽くなった──。なによりも教え子からこんなに素晴らしい指揮官が誕生したことが、誇りだ。それを感じさせてくれる満足できる旅を有り難う」
「……きょ、教官」

 有り難うを言いたいのは葉月の方。なのに彼から『有り難う』を言ってくれる。
 葉月の目は熱くて仕方がなくなった。
 涙が一粒、頬をつたう。
 だけれど、何も言えずにいる葉月の肩をジェフリーが握り、タラップの下へ、上陸する桟橋へと葉月を向かせた。

『さあ、行け。御園大佐──』

 ジェフリーの後押し。
 葉月は一歩、タラップへと足が出た。
 まだお別れの一言を言えていない葉月は振り返る。
 だけれど、恩師は振り返った葉月にとても怖い顔をしていた。

「さあ、どうした。雷神のワッペンを持った者は振り返らない。日本の神風のように……。潔く前へ行くのみ!」

 手のひらを開き、葉月は何度も何度もその幻のワッペンを指で撫でる。
 これが卒業証書。そして新しい巣立ちに持たされた次なる目標を秘めた彼の願い。

 葉月は敬礼だけをジェフリーに向けた。
 有り難うの一言はいらない。前に行け。それが彼に対する『恩返し』。
 恩師がそう言いたいのだと判ったから。
 きっと葉月が感じたことはジェフリーにも今、通じたのだろう。
 彼が、とても凛々しい顔で敬礼をしてくれた。
 そしてその目はずっと『行け!』と吠えているように見える。

 もう振り返らない。

 葉月はそのまま真っ直ぐにタラップを降りる。

 やがて陸に、その足が辿り着く。
 葉月が陸に降り艦に向き直ると、同じく降りてきたテッドが隣に並ぶ。
 そしてクリストファーが、テリーが……。
 ジェフリーとひとしきり握手をして別れを惜しんでいたミラーも、パイロットを引き連れ降りてきた。
 最後にジャンヌがなにやら茶化し合うような言葉を交わし合ったのか、こちらは笑い声を立てていた。そして、恩師とラルフと握手をして降りてきた。

 葉月の後ろに小笠原隊の全ての揃ったと同時に、湾岸部隊の隊員の手で早々にタラップが上げられてしまった。

『小笠原──全員、敬礼!』

 テッドの声が沖縄の青い空に響き渡る。
 彼の号令で陸に降りた全員が敬礼をすると、ジェフリー達湾岸部隊も通路に一列に並んで敬礼を返してくれる。
 暫くはそれで向き合っていた。
 だが、この艦はこの日はここに停泊する予定なので、このまま去っては行かない。
 その代わり──ジェフリーから、そこを離れていった。

「……教官」

 もうなんの名残惜しさもないかのように、彼からあっさりと顔を背けた。
 冷たい横顔。彼はもう一介の『大佐』に戻り、恩師である陽気な笑顔は見せてくれない。
 皆の先頭を歩き、通路を行き、艦内に消えようとしている。

「教官、教官──!」

 艦の下に降りた葉月は、消えようとしているジェフリーの背を見上げながら、後を追うように桟橋を一歩、二歩、と歩き出す。
 そして葉月は走り出す!
 ジェフリーの後についてきた補佐官に湾岸部隊のパイロット達は、艦の通路から桟橋を走って叫んでいる葉月を見下ろしているのに。ラルフだって、ちょっとは肩越しに振り返ってくれたのに……!
 ジェフリーはもう、振り返ってくれない!!

「教官! トーマス教官! 私……っ」

 通路突き当たりの扉へとジェフリーの背が消えようとしていた。
 葉月は思いきり叫んだ!

「教官……! 有り難うございました……! 私、絶対に皆を守ります! 守り……教……」

 走っていた葉月はそこで立ち止まった。
 もうジェフリーの姿は消えた。
 桟橋に青い潮風が優しく葉月を包み込む中、そっと独り呟く。

「さようなら、教官」

 もう教官と呼んではいけない。
 彼はもう教官ではない。
 葉月と同じ空部隊をまとめる『大佐』
 これからは『トーマス大佐』と『御園大佐』──同志でライバルなのかもしれない。
 だからもう、優しく振り向いてはくれないのだって……そう思った。

「大佐……!」
「大佐嬢……」

 桟橋の先で立ち止まり、いつまでも艦を見上げる葉月の側に、テッドとミラー……そして小笠原のパイロット達が集まってきた。
 葉月は彼等に振り返る。
 そして、片手にある『雷神』のワッペンを握りしめる。

 ──ここにも同志がいる。

 テッドにミラー。クリストファーにテリー。そしてウォーカー中佐。リュウにパイロット達。小笠原の仲間が……。
 そして彼等の後ろから、金髪の後れ毛を風にそよがせるジャンヌが現れ呟いた

「大丈夫。大佐嬢の気持ちはもう、ちゃんとトーマス大佐に届いているわ」

 ジャンヌの一言に彼等も頷いてはいるのだが、葉月の今の心を写しだしてくれるように切なそうな顔をしてくれていた。
 だから、葉月は彼等に微笑む。

「……いきましょう」

 南国の少し湿った風に、葉月は栗毛をなびかせ歩き出す。
 その風に泳ぐ栗毛の毛先を追いかけるように、彼等が微笑みながらついてきてくれる。

 真っ青な空は、今の葉月の心のよう。
 すっきりと晴れ渡り、何処までも澄み切っていた。

 ──さようなら、教官。

 教え子は、彼の新しい願いを胸に飛び立つ。

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