こちらは穏やかな秋日和。
まだまだ温暖で、朝顔だってまだ目に付く気候だ。
ウサギはどうしているのだろう?
うららかな日差しが眼鏡の縁をひときわ強く光らせているのが、かけている本人にも判る。
近頃の『ウサギの噂』といえば。
『噂』ではないが、航行のスケジュールの報告があった。
帰って来るのは十二月の半ば。との事だった。
「わ。兄さん、なんなの。そのパンフレットの山!」
会議から帰ってきた達也が、ぼんやり窓を眺めていた隼人に話しかけてきた。
「ああ。旅行に行こうと思って」
「は!? だ、誰が……?」
「俺が」
「まさか、ひ、一人で……!?」
隼人は一時黙ったが、もう良いだろうと思い『いいや、二人で』と淡泊に答えていた。
だが、達也はなんだか驚いたようにして、隼人のデスクにかけてきた。
「本気なのかよ……!」
「本気だけど。まだ場所は決めていない」
「どうやって休むんだよ? いつ行くんだよ!」
「そこなんだよなあ。そこ困っているんだよなあ」
「葉月はなんて言ってんの?」
……やっぱり、まだ。葉月となると逐一把握したがるなあ。と、隼人は分かっていても溜息をこぼしてしまったのだが。
「うん。すごく楽しみにしているみたいで。俺にすべてを任せてでかけていったから、帰ってくるまでに決めておきたいんだ」
「! 葉月が『行く』って──?」
「ああ。葉月から『何処か行きたい』って言ってくれたんだ。だからこうして」
達也がとても驚いた様子で黙り込んでしまった。
隼人はふとそんな達也を見上げて、眺めた。
葉月が自ら望んだ。と言うことが、驚きだったのだろう。
彼女、そういう願望を持ったことがない生き方をしてきたのだから。
本島へ女の子らしく買い物に出かけることだって、最近見られるようになった葉月の『新しい面』だ。それが今度は『旅行』になったのだ。
そんなこと──。達也と葉月はしたことも、そしてそうする余裕もない若者だったのだろう? もし、そんなチャンスがあっても葉月が『行かない』と言いだしている可能性は大だ。
だけど、暫く茫然としていた達也の顔が引き締まった。
「それ。叶えてやらなくちゃな!」
「え? ああ、うん」
「のんきだなー!? 兄さん! 早く休暇を決めないと、他の本部員達の休暇で埋まってしまうぞ! 葉月が帰ってきて直ぐに行くんだろう?」
「うん、そうしたいけど。どうしようかと」
「ああっ! じれったいな! 兄さんは早く旅行の計画を立ててくれっ。大方のスケジュールが決まったら俺に言ってくれ。年末休暇のローテーション、なんとか調整して、日数を弾き出すから!」
「けど。まだ何処に行こうか決めていなくてさ。葉月、何処が良いんだろう? 何処でも良いとかしか言わないんだ」
ネットで注文したパンフレットは全て隼人の手元に揃ったばかりで、見れば見るほど何処へでも葉月を連れて行ってやりたくなってどうしようもない。
そのパンフレットを手にして、のんきにぱらぱらめくっていると、目の前に達也のじれったそうな顔が接近していたので、隼人はおののいた。
「何処でも良いんだよ。あのじゃじゃ馬は……! シンプルに『兄さんといたいだけ』なんだから!」
「そっか」
「そうだよ! もう……なんだか見ていられないなっ」
やっぱりまだ葉月のことになると熱い男だなあと、それすらも隼人はのんきに見てしまっているのだ。
そして達也はまだ引かない。
「俺も協力する! きっと葉月はうんと楽しみにしていると思うな。葉月から言い出したなら叶えてやらなくちゃ」
「達也……」
この男も『シンプル』になったのかもしれない。
男と女という関係もしがらみも通り越して、本当に相手の幸せのみを純粋に願っている姿。
愛していた女性が今の相手の男とどうなるかという気持ちなど、何処にもなく、そのライバルだった男にも真っ正面から協力すると言っているのだ。
──これは隼人も『すげえ』と思ってしまったし、とても有り難くなってしまった。
「じゃあ、隊長代理のお言葉に甘えて。大佐嬢と共に三日、出来たら四日……休暇を下さい」
「そうこなくっちゃ。三日四日と言わずに、一週間ぐらいとっちまえよ」
なんと大胆なことを言う隊長代理かと、達也の提案に隼人もおののいた。
そんなこと出来るのかと言おうとしたところ、そんな隼人の言いたいことは顔を見て判るとばかりに達也が先に言った。
「それぐらいの留守番が出来なくて何が『御園中隊』だ。大佐嬢一人で動いているんじゃないって証拠をここで見せてやる!」
「おお、すごいな」
それもそうだと隼人も思い、その一週間とかいう休暇は無理だと思うが、それぐらいの気持ちで計画を立てると達也に言うと、彼も満足そうに納得してくれた。
近頃の達也は今まで以上の自信を垣間見せ、それを頷かせるぐらいに威風堂々とした隊長代理の風格を発揮している。実力が開花してきたというのだろうか。
それもこれも、全ては葉月と一緒にやってきたからこそ。達也もそこは自分でよく分かっている。
負けたくない女同僚であると同時に、やはり守っていきたい女上司であり……そして『幸せになって欲しい女性』。それ以上はもう言葉では言い表せない『存在』になっているのだと隼人にも分かる。
彼のその意気込み。彼が今、そしてこれからへと向かい始めた彼の新しい闘志なのだと隼人は感じた。
そして──隼人はというと。
(俺はもう、こっちが主力だな)
緑の牧草地が広がるニュージーランドや、古い石の建造物が並ぶイタリアのパンフレットを手にとって、ふと微笑む。
仕事も勿論、新しい空軍システムを後世に送り出すという『夢』と共に向かっていく気持ちも強いけれど、もっと手放したくない物がある。
彼女無しでは『夢』なんてないも等しい。
空軍のシステムが出来上がっても、それを一緒に喜んでくれる彼女の存在無しでは意味がない。
パイロットである彼女も喜んでくれるシステムを世に送り出したい。
彼女に出会う前から、少年の頃から思い描いていた夢を──。彼女が引き出してくれた。そしてそれが叶えられるような道を風になって運んでくれた。
だから……今度は。
ところで──と、隼人は思う。
彼女の夢は、なんだろう? と──。
隼人は今更ながらはたとし、振り返ってしまった。
そうして思っていると、手元の携帯電話が鳴る。
パネルをみると『横浜・父』と出たので、隼人はこんな時間になんだよ? と、思いながら面倒くさそうにして電話に出る。
「はい。親父?」
『元気か? 仕事中にすまないな。お前、今度はいつ帰ってくるのか?』
「ああ、そうだな。再来週ぐらいに一度、本島への用事をまとめて片づけに行く予定だよ」
『そうか。どうだろう。一度、彗星の常盤君に会ってみたいのだが、どう会えばいいかね』
「ああ、そうか。別に俺からの紹介という形でも大丈夫だと思うよ。解った。課長にも聞いてみるし、課長も親父には会いたいと言ってことがあったから喜ぶと思うよ」
『そうか。それなら私が場所は用意する』
「解ったよ」
それから今後の展開について、ここは親子だけの遠慮ない話で弾んで、いつものように何気ない親子の会話で締めくくり切ろうとした時……。
隼人の目の前には国内国外問わずに取り寄せた旅行会社のパンフレットの山。その時、ふと気になって、父親を呼び止めた。
「なあ、親父」
『なんだ』
「ええっと……。親父とおふくろは、旅行とか行ったことある?」
その息子の珍しい質問に、父・和之の息遣いが一瞬止まった。
そして電話のやり取りを聞いていない振りだろうが聞こえてしまっている目の前の席にいる達也も、ちょっと驚いたようにこちらを見てしまっていた。
『なんだいきなり──』
「今度、葉月と出かけようと思っているから」
『!』
その方が父親は驚いた様子。
だけど、父・和之はすぐに可笑しそうに笑い出したのだ。
『なんだ? どこにも決められないのか』
「ああ。葉月が何処でも良いとかそんなことしかいわなくて、全部俺に任せて、空母艦航行にでかけてしまったから」
『そうか……』
ふとそこで父親からの声が届かなくなった。
昔を思い馳せているのだろうか? そんな感じの静かな間を隼人は感じた。
そして、父・和之が答えてくれる。
『身体が弱かったからな。あまり連れて行くという事は出来なかったな。近場の日帰り旅行なら小さなお前を連れて何度か、それぐらいか』
「そうか……」
『ああ、でも。新婚旅行は行ったぞ。これは母さんが絶対に行きたいと言うから行ったんだがね』
「へえ。母さんが……自分から行きたいって?」
そこに生きていた母の面影が揺らめく感触を久しぶりに感じて、隼人もかなりその話には興味津々になる。
『そうだ。結婚してすぐには行けなくて、沙也加の体調が整ってから出かけたんだ』
「そうだったんだ。だったらおふくろ、よっぽど行きたかったんだな」
『そうだな、絶対に行くと引かなかったからなあ。ああ、そうそう。その新婚旅行の後に、お前が出来たって分かったんだった』
「ええ!? じゃあ、俺って……」
『そうだ。いわゆるハネムーンベイビーってやつだな。沙也加はそういってかなり喜んでいたかな』
何故か隼人が赤面した。
両親のこういう話は、何故こんなにも照れくさく感じてしまうのだろうか?
と、いうことは……? 『俺ってつまりそこで出来たも同然じゃないか?』と気がつき、次にはそこはどこだか和之に問いただしていた。
父親がその想い出の新婚旅行の場所を教えてくれる。
隼人はそのパンフレットを探した。あった……!
どうしてか──。その土地が急に行くべき場所に思えてきた。
隼人自身が行ってみたくなったのだ。
両親が愛し合った場所で、そして母親が切望した土地。そこで生まれた生命。
母はそこで何を感じながらお腹に生命を宿したのだろうか?
「決めた。親父、有り難う。葉月とここへ行ってみるよ」
『まあ、他にも検討してみなさい』
「いいや、もう、ここにする」
『そうか。そうすれば母さんも喜んでくれるかもな』
結局嬉しそうだった父親との電話を切り、隼人はそのパンフレットを笑顔で眺める。
そうと決まると、沢山の計画が頭に浮かび始めた。
何処か気になったのかパンフレットを覗きにやってきた達也も『お、いいじゃん〜!』と賛成のようだ。
さあ、輪郭が出てきた。
場所が決まれば、計画も立てやすくなる。
もうそのパンフレットしか隼人には見えなくなってきた。
「そうだ。達也ももうすぐ本島へ行くんだよな」
「ああ。悪いけど、泉美のこと頼むよ」
「勿論。洋子さんも、寄宿舎では吉田が協力すると言ってくれているから安心しろよ。おふくろさんによろしく」
「ああ……」
なるべく自然に一般的な感じで言ったつもりでも、達也は『おふくろさん』と言われるとまだちょっと複雑そうな顔をする。
それでもその母親に会いに行くというのだ。
なんだか達也は達也で、とても硬い表情になった。
なにかを決意しているような……そんな顔に見えた。
・・・◇・◇・◇・・・
ドアが開いた音。
(……先生、やっと帰ってきた)
この部屋のもう一人のルームメイトとでも言おうか。
葉月も出発前にロイから聞かされて驚いたのだが、いつも産科医として向き合っている親しい女医先生が同行することになり、小笠原から来た女性はこの部屋の三名だけとあって、同じ部屋になった。
多少の疑念はあるのだが、葉月としては先生と一緒の部屋で過ごせるなんて思いもしなかった嬉しいことには変わりはなかった。
彼女はいつも不規則だ。
早く眠って夜半に出ていく時もあれば、今夜のように皆が寝静まっている夜中に帰ってくることもある。
そこは元々詰めている軍医と交代制にしていると聞かされている。
そのジャンヌ先生が帰ってきて、白衣を脱ぐ姿。
葉月はそれをふと眺めていた。
だけど先生は結構、豪快というのだろうか?
なんだか脱ぎっぷりがいつも潔いのだ。
白衣を脱いだら、ブラウスのボタンをさっとといてベッドに放り投げ、スラックスもさっと脱いであっと言う間に、スポーティーな下着だけになる。
その姿で寝ている時もあるし、葉月やテリーもその格好でリラックスすることもある。女同士の部屋だから、そこはまったく砕けていた。
ただ、葉月は……彼女等が気にしない程度に、それぞれの傷が見えない程度の上着を羽織ることは心がけているけれど。
その潔く下着姿になった先生が、いつも結っている金髪をばっさりと降ろす姿。
腰まで落ちてくる金髪はかなり豪華で、葉月もテリーもそれを初めて見た時は、『素敵』とときめいたりしたものだ。
先生はその姿になると、ふっと柔らかな仕草で丸い船窓に指先を馳せ、まつげはじっと甲板へと向けられていた。
暫くすると、先生は……下着を全部取り払った姿に!
もう一緒にシャワーも浴びたから、初めて見たお姿ではないのだけれど、葉月は毛布にくるまったまま、何故かドッキリ。
その下着を脱ぐのも、すごく潔い。
しかも……一糸まとわぬ全裸になった先生は、金髪をかき上げながら、暫くそのまま、また窓辺に視線を馳せているのだ。
なんだろう。同じ女性の葉月でもすごくドキドキしてきた。
この先生。普段はまったく地味なのに、素肌になると凄い女性の匂いがぱあっと放たれる。葉月はそんなふうに感じている。
その堂々としている女性としての素の姿に、躊躇いがひとつもなくて──そして、背中に沿って降りている金髪の毛先が揺れて、ふと覗く女性らしいライン。グラビアやファッションといったモデルの体型美、そしてデザイン画にある比率正しい体型美でもない。どちらかというと画家が好みそうな裸婦画にある熟女のラインだった。ラインの美というよりかは肉体の美を感じさせる、奇妙な感覚だった。
それがすごく色っぽい。これがフェロモンなのかと葉月は感じたぐらい。
先生の、その裸婦として堂々としているのが、さらなる豪快さと潔さを感じて……。
先生は今、そうして何を思っているのだろう?
ふとそう思ってしまった。
いつまでもそうしている……。
そのうちに、相手が知らないのに黙って見ているその空気に葉月は耐えられなくなってきた。
「先生……」
そっと起きあがって葉月はジャンヌに声をかけた。
先生はその葉月の呼びかけに驚きはしなかったようで、それこそ、その堂々としているままに振り返ったのだ。
しかも『あら、起きていたの』なんて笑顔だった。
そこでやっと先生は裸でも堂々とした様子で、自分の荷物から新しい下着を取り出して身につけ始めた。
「医務室は遅くまで大変ですね」
「軍勤めじゃない時でもそうだったから大丈夫よ。特にね産科医となると、年中無休」
そうなのだ。ジャンヌは本当は軍医ではなく、非常勤のような形でロイに雇われてやってきたと言った方が良い。
それはジャンヌだけではなく、そういう形で軍に中途採用でいる医師もいれば、ある程度の期間での契約で勤めに来ている非常勤医師も結構いるのだ。
ただ──そういうポジションで勤めている彼女が、こうして正式な軍医と同様に母艦に乗ってきたというのが、ちょっと違和感だったのだ。
まあ、あのロイ兄様のことだから? なんでも手配できて、いろいろな目的をお持ちなのだろうとしか思えなかったのだが。
それに葉月も、先生が隣で眠っているだけでも、すごい安心感があるのは確かだった。
まさかとは思うが。ロイの本当の目的はまさか……?
(考えすぎよね。いくら兄様でも……)
ただ葉月が安心するための『付き添い』を手配するなんて、大袈裟なことはしないか……と、思いたい。
実際に、今よりもっと不安定だった時も、葉月は当直出張で母艦の勤務をしたことがあるのだから。
その時は、デイブがいろいろ助けてくれたのだけれど。ロイもそれで安心していたのだから、これだけ今、自己コントロールの舵をとれるようになった葉月に対し、そこまではしないだろう……と、思いたい。
そう考えている内に、ジャンヌがタンクトップを着込んだ下着姿で、葉月の目の前を過ぎり、隣のベッドに腰をかけた。
「眠れない……という顔ではないみたいね。でも、とっておきを飲んでみる?」
「はい」
彼女はいつも一目で葉月の様子を嗅ぎ取ってくれる。
それは大人の女性だから? お医者様だから? それとも……それが『ジャンヌ』という人だから?
ともかく、先生はいつも不安を安心に変えてくれるような『小技』をいっぱい、さりげなく見せてくれるのだ。
先生のとっておきはあのカモミールティだった。
テリーと用意した小型の魔法瓶へと先生が向かっていく。
葉月の目の前を、一番下でくるっと巻かれている金髪の毛先がベールのように翻って通り過ぎていった。
すっきり手入れをされているとは思えないぐらいに、毛先が不揃いで所々痛んでもいるのに……。
どうしてだろう? とても綺麗に見えるのだ。
本当に絵画みたいな雰囲気を醸し出していて、いつも見とれてしまう……。
「貴女も職業柄? 熟睡している様子は一度もないわね。いつも話している『時には眠れない』とは違って、今は『眠らない』に見えるわ」
わ、正解。と葉月はおののいた。
「そうなのですよね。なんというか、パイロットでなくてもこうした二十四時間勤務にあたっている者は、私だけでなくそういう物なのだと思います」
「そうみたいね。艦長もウォーレン中佐と一緒にまだ起きていたみたいで、二人が入れ替わりでうろうろしていたわよ」
「艦長はなおさらでしょうね〜」
葉月には『いざというときに温存しておけ』とは言っていた恩師だが、彼も彼なりに自分の職務には全力であたっているのだろう。
「でも、トーマス大佐だからこそ。この女性が何人も搭乗している今回のクルーを任せることが出来たみたいね」
「教官は昔からそうですから。私にもちゃんと女性として最低限の扱いは決しておろそかにしなかったし、けれど、やってはいけない女性扱いは絶対にせずに男子訓練生と同じものというシビアなラインの分け方は素晴らしかったと思います」
「きっと、貴女で鍛えられたのね」
「え? そうなのでしょうか?」
「他にいない司令官だと思うわ。その方が貴女の恩師というのは頷けるわね、大佐嬢」
「はい、尊敬していますし、彼の教え子であることが誇りです。先生に前にもお話ししたけれど、今回は教官にも『感謝』が伝わるような恩返しになるよう頑張ります」
私は今までおろそかにしていた『感謝』を人々に伝えて返してきたい。
そんな葉月の中で芽生えた新しい気持ちは、素直にジャンヌには話していたから……。彼女は今回もそんな葉月を見て、『良いと思うわ』と、とても嬉しそうに微笑んでくれている。
お互いに準備して持ってきた『専用マグカップ』。
その葉月のカップに早速入れてくれたカモミールティが目の前に差し出された。
葉月はお礼を添えて、それを飲む。
ベッドに座って味わっている葉月を、先生は立ったまま、微笑みながらみつめていた。
とても優しい、安心感がある眼差し。お姉様という感覚は勿論なのだが、以上に時々──『お母様』ぐらいの大きさを感じる時がある。
「先生はもう、朝まで?」
「ええ。本日は終了。明日の朝は少し遅く出るかも知れないわ」
「そうですか」
「──彼女はよく眠っているみたいね」
先生はまた、そんな落ち着いている優しい目でテリーが寝ている上段をみあげた。
二人でひとしきりお茶を楽しんで一緒に横になった。
けれど──先生が先に寝付いたのを葉月は感じたことがない。朝になると『あれ、私が先に寝たのかな?』と思うことが多いぐらいに、一緒に横になった日は彼女が先に寝付いた気配を感じたことは一度もない。
勿論、この夜も……だった。
・・・◇・◇・◇・・・
その日の航行も、変わらず淡々と日本海を西へと進んでいた。
やがて対馬を通り、瀬戸内海に入って岩国基地に寄港する予定。そこで物資と燃料の補給をし、太平洋から東シナ海に出て沖縄へ。そこでも一時沖縄基地で寄港停泊。そこでこのトーマス大佐の艦を降りて、輸送機で小笠原に帰る予定だ。
その予定を小笠原の四中隊本部に連絡したばかりだ。
「中佐達、大佐のこと心配しているでしょうね」
「まさか。どうせじゃじゃ馬のやること、俺達は暫くのんびりできるなんて思っているわよ」
「かもしれませんね」
お騒がせなお嬢様がいなくて、側近の中佐達は確かに──『のんびり』はしているだろうなと、テッドも思う。
けれど、そういいながらも隣の大佐嬢は、ちょっと頬を染めた様子で、胸元を握りしめていた。
……この航行で葉月の側に一日中いるせいか、テッドも知ってしまった。その彼女が胸元を握りしめる癖がなんなのかとずっと前から思っていたが、そこに『銀のリングを通したネックレス』を肌身離さずにつけていることを。
そうだ。昨年、彼女の指にあったはずなのに、昨年の無断欠勤事件から帰ってきた時には、彼女もそして隼人の指からも消えていた『銀色の指輪』。それがそんなところに忍ばせられていたことを、つい最近知ったのだ。
葉月は今日もそのリングをそっと胸元で握りしめる。
その時の彼女の表情は、柔らかでほんのりと薔薇色に染まっている女性の顔だった。
そんな顔を離れていてもさせる彼女の恋人。
ちょっと悔しいが、それでも彼女がそんな顔が出来るならば、テッドも嬉しい。
「今日の訓練も厳しかったですね。艦長は……」
一緒に通路を歩きながら、テッドは大佐嬢の隣で一つ溜息。
ジェフリーの訓練は、激しいと言うよりも『根気とねばり』を要求される訓練が多い。それが今、彼と湾岸部隊の課題のようだが、そこは小笠原のパイロット達にも今までに余りない物ではあったので、彼等もついていくのに必死のようだ。訓練が終わった後は皆疲れ切っている。精神力を消耗すると言えばよいのだろうか。
するとそんなテッドの消耗した様子を察してくれたのか、葉月が優しげに『休憩しましょう』と言ってくれた。
「すぐそこだから、食堂で一休みしていきましょうよ」
「そうですね。艦長室に戻ったらまた事務作業ですし」
テリーとクリストファーは、訓練後のデーター管理でまだ管制室。
テッドは大佐嬢の後をついて、一緒に食堂に入った。
ところが──。淡々としている航行生活ではあるが、その食堂で『たまに見る光景』が繰り広げられていたのだ。
『なんだと! お前の方からだろ!』
『お前だろう!』
男性隊員達が数名、向き合ってなにやら言い合っていた。
「ああ。ついにですかね。こうした隔離世界である母艦航行中はストレスがあっても当然。そろそろその頃だって、艦長も言っていましたもんね」
目にしてもテッドは慌てなかった。
そして葉月も横で『本当ね』と頷く。
交代制で不規則な生活にもなるし、手が離せなくて思うように食事が取れないということは、乗船している隊員の皆がそういう勤務状態。
そこでなかなか思うように過ごせない中、身も心も休められる時間の一つである『食事』で、さらに思い通りにならなければ、たまにはそういう『衝突したくなる気分』になることも、まあ、あることと言えばある事。
今、目の前で起きていることも『原因』は分からないが、もしかするとそう言う『些細なことが大袈裟に』なっているのだろう。
まわりの同僚達が『どっちも悪くない』、『やめろよ』と止め合っているので、『あれなら大丈夫でしょう』と葉月が呟いた。
それでもである。
それを傍目にコーヒーを一杯なんて出来るはずもない。
テッドと大佐嬢はどちらが言い出すわけでもなく一緒にその集団に歩み寄っていった。
──『何をもめているのか』と、まずテッドが声をかけようとした時だった。
『この野郎!』
『なんだと──!』
ついに。取っ組み合いの喧嘩に発展!
相手の襟首を取り合う。だが、がたいがある男の方が優位にやや小柄の男を持ち上げる。だが、少しばかり劣性の小さめの男も負けちゃいない。背を反り弾みをつけたかと思うと、大きな男が拳をあげる前に、彼の額にガツンとヘディング攻撃をした!
当然、火花が散るほどに痛かったのか、大きな男が襟首を離して額をさえてうずくまる。小さい男の勝ち誇った顔。
「ちょっと、やめ……」
さらに葉月が今度こそとばかりに喧嘩がこれ以上発展しないように仲裁に入ろうと駆け寄ったのだが。一歩届かず、大きな男が目にも止まらぬ素早いパンチを一発……! 放ったのだが、それは仕返しすべき喧嘩の相手でなく、彼等を取り巻いて止めに入っていた相手の同僚の顔面に見事に命中したのだ。
殴られるいわれもないのに、殴られて、関係のない彼も腹がったったのだろう。
当人達は勿論、同僚達を巻き込んだ大乱闘にあっと言う間に発展した。
「やめなさい──! 離れなさいよ!」
「やめろ! 謹慎になるぞ!」
テッドも葉月と一緒にその乱闘を止めようと、掴める手を掴んだりして止めたのだが、彼等はすっかり頭に血が上っているのか? それとも、やっぱりストレスが溜まっていて思い切り憂さを晴らしているのか? ともかく走り出して止まれなくなった暴れ馬のような殴り合いをやめようとはしない。
「このっ! 艦長が来るまでにやめないと……お前達、たいへんな・・・」
「うるさい! この小笠原の小僧が……!」
「ぐっ──!」
だが、ついに……テッドが巻き添えで殴られる!
テッドは片頬を殴られてよろめき床に跪いてしまった。
「テ、テッド──!」
葉月がダウンしたテッドに驚いて、こちらに目を向けてくれた瞬間だった。
──ガツン──という鈍い音が、テッドの頭の上で聞こえた。
殴られた頬を押さえながら顔を上げると……。そこにはもう、葉月はいなく、もっと向こうで椅子などがなぎ倒されていく激しい音が食堂中に響いていた!
「た、大佐──!!」
『うわ──!』
『ま、まずいぞ……』
女性の葉月が男の思う存分の力で殴り飛ばされたのだろう!?
長机一つ分のテーブルを飛ばされ、向こうのテーブルの下、倒れた椅子の中に紛れて横に倒れていた。
当然、カッとなっていた若い彼等は血の気が引いたかのように、乱闘をやめ、『大佐嬢』を巻き添えにして殴り飛ばした事に我に返ったようだ。
テッドは駆け寄って、倒れている葉月の側に跪く。そして彼女の身体を揺すった。
「大佐……! 大丈夫ですか!」
返事がない。
そっと顔を覗くと……。
「! た、大佐……?」
気を失っているようでもなく、彼女は目を開けていた。
だが、その黒目の動きがいつもと違っているように見えた。
ただぼんやりと一点を見つめているように、目を開けているまま眠っているかのような異様な目つきだった。
彼女の頬が赤くなっている事よりも、テッドはゾッとした。
そして、ふと嫌な予感がして、そこにいた若い隊員に叫んだ。
「マルソー先生を、直ぐ、呼んでくれ……!」
『ラ、ラジャー』
乱闘をしていたうちの数人が慌てるように食堂を飛び出していく──!
「大佐、大佐……。俺ですよ! 判りますか……!?」
彼女は動かない。
目は開いているのに、テッドが持ち上げようとしてもぐったりと重く、まるで息をしていない人形のように思えた。