-- A to Z;ero -- * 白きザナドゥ *

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6.波浪注意報

 訓練を終えたばかりのジェフリーは、艦長室で側近のラルフに入れてもらったコーヒー一杯を手にして一息ついたところだった。

「葉月とテッドは帰ってこなかったのか」
「ええ、私が一番に艦長室に戻ってきたみたいで──。先に帰っていると思っていたのですが」
「そうか。食堂で一息ついているのかもな」
「そうですね」

 自分と同じ地位にある教え子と、その若い補佐官。
 歳の差もあるし、勿論、キャリアで言ってもどうしてもジェフリーが上になる。
 それでも若い彼女等と合流した途端に艦内が活気づいたのは、ジェフリーの読み通り。そして教え子の大佐嬢は、そんな師の意図をなんと言わずとも、息を合わせたように上手く汲んでくれる。これはなかなかの手応えで、ジェフリーも満足の日々を過ごしている。

 ふと──昔のことを思い出す。

『…………別に最後の別れじゃないだろうし、今度、会う時は仕事で隊員として会おうな。その時はハヅキはもう綺麗なレディになっているかもなぁ……楽しみだな! それまで、恋人は作らないでいようかな!』

 若さ任せに、そんなとんでもないことを少女であった彼女に言ったことがあったなと、ジェフリーはふと微笑み、コーヒーの薫る湯気をかいだ。
 『恋人』は、まあ冗談だとしても、『教え子と仕事をする』という願いは本物。そしてその少年のようだった少女が美しい女性に成長すること。それは叶ったと思った。

「なにを楽しそうに笑っているのですか?」

 三十代半ばで自分より少しばかり若い側近のラルフが、そんな上官の様子に首を傾げていた。
 彼はジェフリーが一個中隊の隊長だったころからの腹心だ。今回の大佐昇進で彼も一緒に中佐に昇進、そして引き続き側近になってもらった長年のパートナーだ。

「じゃじゃ馬との在りし日を、思い返していたよ」
「結構なお転婆だったと聞かされていますけど、大変だったのですか?」
「いやー。お転婆ならまだ可愛い方だ。暴れ者……だったな。今は良い感じに落ち着いていて安心した」
「暴れ者……ですか。あのお嬢様が」

 当時を知らない者は、今は訓練着を着込んで男顔負けの手腕を振るう大佐嬢でも、その姿から垣間見せている『煌めき』はやはり年頃の綺麗な女性そのものにしか見えないのだろう。
 それだけ、少女の頃の彼女の面影はあまり見られなくなっていると、再会した今はそう思う。そのままふとカップを机に置きジェフリーは眼差しを伏せる。

「そりゃ、もう。彼女も自分の中にある『怪物』をコントロールするのに苦労したのだろう。そう理解してくれる者は僅かだったと思う。ただ、訓練と学業はこれは人一倍の努力を惜しまなかったし、男子学生の上を行っていたな。そこでひがまれていたというのも悪循環の一つだっただろうが、とにかくスイッチが入りやすくて、鋭くて、手の着けようがない『問題児』。俺が見ていた限り、彼女は『いつ辞めさせられても良い』と思っていたみたいで、喧嘩は程々でもやり出したら徹底していたし、一度心が暴れ出すと孤独に殻に籠もったり、思わぬ行動を起こしたり壮絶だった」

 ラルフが『信じられない』と呟いた。
 彼には大方、御園の事情については説明はしている。
 それは先日やってきたフロリダのジャッジ中佐にも伝えておいた。

「──ご家族は長い間、かなりの苦渋を味わってきたのでしょうね」
「俺達など想像しても、彼女等の『現実』には及ばないよ。ただ見守ることしか出来ない。勿論、助けを求められたら信頼してもらった分、協力は惜しまないよ」
「そうですね」

 ラルフも同調するように頷いてくれたのを見て、ジェフリーはコーヒーの続きを味わう。

 すると、艦長室のドアからノックの音。
 ジェフリーは残りのコーヒーを飲み干してから、『どうぞ』と声をかけた。

「お邪魔してもよろしいですか?」

 入ってきたのは小笠原の医師『ジャンヌ=マルソー』だった。
 勿論、ジェフリーは『どうぞ』と笑顔を見せ、彼女を艦長室に迎え入れた。

「昨夜は夜勤だったのでしょう。眠れましたか」
「はい。この頃、海の音が心地よくなってきましたわよ」
「それは良かった。先生のように海に出るのが初めてだと、慣れないことばかりで大変じゃないかと思っていたものですから」
「お陰様で。可愛い若い女の子と同室で楽しくやらせてもらっています」

 普段は医者らしく表情を出さない彼女だが、穏やかな笑顔を見せてくれる。
 彼女とはこれが初めての対面ではない。最初は『まあ、ちょっとした付き添いですが、御園家の事情は存じています』という挨拶を彼女からしてきてくれた。だから、その範囲内で『教え子の件』についてなるべく疎通出来るように、合流した当初から時にはこうしてお茶を挟んで談話をしたりした。
 彼女からこうして訪ねてくることもあるし、ジェフリーがすれ違いざまに誘ったこともある。
 そして数日前、フロリダから葉月の兄分で一族にも深く関わってるジャッジ中佐から、ジャンヌが付き添っている本当の目的を教えられて驚きはしたが、そこはジェフリーも昔から知ってはいることだったので、彼女本人に改めて問いただしたところ『実はそうだ』という返事を聞くことが出来た。彼女も『艦長も記憶のことはご存じでしたか』という話になり、それからも益々彼女とは疎通を図りつつ警戒は怠らないようにしていた。

 その昔、ジャッジ中佐から『ある部分記憶がなく、それを思い出した時はまずいと思う』と聞かされた教官時代も、かなりの注意を払ってきたから、御園嬢に対しての配慮はこれが初めてではない。
 それでも、今度は一人ではない。こうして同じ気持ちで見守ってくれている同志がいることは、ジェフリーも心強いところだ。
 しかも教え子と同性の女性で、医師だ。
 ジェフリーの手の届かない範囲も、フォローしてくれそうだという期待が持てた。

 今のところ、ちょっとした昔話を交えながらも『滞りなく業務進行中』である大佐嬢の安定性に揃って安堵してる具合だった。

 ラルフが彼女にコーヒーを一杯入れている間に、向き合える席に二人で着いた。

「艦長も、中佐と交代で見回っているみたいで、なかなか大変そうですね」
「いえいえ。それが今回の私の務めですから。この広い艦の中、それを全て把握するのは大変ですが、見えぬところで何かが起こってからでは手遅れですからね。私の責任とかはこの際当たり前のこと。そこで問題が起こり、部下の誰かが取り返しのつかないことになるのが一番、嫌なことです」

 ジェフリーとしては自分の信念をそのまま言っただけの事なのだが、それをジャンヌが『素晴らしいわ』と感心の笑みを見せたので、思わずこちらも照れ笑い。

「そんな大佐だからこそでしょうか。隊員達も落ち着いておりますね。実際、私も乗船したばかり時は『男性寄りの社会』だとやや警戒はしておりましたが、それほど自分が『女性として気をつけなくては』という必要以上の警戒は抱かずに済んでおります。そこは他の女性隊員達も、精神的に安定しているようですね」
「そうですか。いえ、ですけどね? 実は女性隊員達に『マルソー先生が来てくれてから、安心感がさらに広がった』という感想を聞きましてね。今後の『女医さん』の必要性についても今回教わった気がしました」

 これは本当のことで、自分がシアトルから連れてきた女性クルー達からそんな一言を聞かされ、彼女たちは何かあればジャンヌのところに雑談でも顔を見せに行くというぐらい、ジャンヌの人気はこの頃、ちょっとしたものだった。

「女医という立場で、同性の役に立てることは光栄ですわ。艦長のお役にも立てましたら……。予定外で乗船させて頂いたのですから」
「まあ、今のところ。『一族の方々』が過剰に心配しているようですが、大丈夫のようですね」
「ええ。まあ、あちら一族を『過剰』にさせたのは、私が余計な心配をしたからだと……。そう終わればよいのですが」
「いいえ。先生のその先を見越した心配というのは大切なことですよ。私がこの艦を守るように……ね」
「そうですわよね。私は医師として、そして大佐は艦長という任務を遂行するために。お互いにそうなりますよね」

 そこでラルフがコーヒーをジャンヌの前に丁寧に置いた。
 それと同時に艦長席の内線電話が鳴る。側近のラルフがすぐさま向かった。

「……ええ。マルソー先生なら、ここにいますが」

 ラルフの声が妙に強張っていたので、ジェフリーも気になって振り返ると、彼はジャンヌを確かめるように見ていた。
 そしてジャンヌも何事かと思ったのか、そっと立ち上がった。

「急患ですか? 今、交代したばかりだったのですが。私の手も必要になるようなことが起きたのでしょうか?」

 やはり医師なのだろうか? 何が起きても落ち着いていられるといった感じで、そこは流石のジェフリーも目を見張るところだった。
 しかし、次にラルフが言った。

「いえ。大佐嬢が食堂で喧嘩を始めた隊員達の仲裁に入って殴られ倒れたまま、様子がおかしいとか……。ラングラー少佐がマルソー先生を呼んでこいと言ったらしくて……!」

 その報告に、ジェフリーはおろかジャンヌも顔色を変えた。

「なんだと!? 葉月が……?」
「は、はい。医務室に先生を呼び来た隊員がそう言っているそうです」
「食堂なのね!」
「行きましょう。先生! ラルフ、お前も来い!」
「ラジャー」

 三人は一斉に艦長室を飛び出した。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 ジェフリーはしまった! と、顔をしかめた。
 丁度、そんな時期だと葉月とテッドにも話したばかりで、そこで彼女等も変な巻き添えにならないよう上官らしく落ち着いた注意をしてくれたらいいと思っていたばかりだ。そして葉月とテッドの二人なら、それが出来ると信じていた。しかし──だった。

(そうだった! あのお転婆なら、恐れずに割って入ったか!)

 その昔、男子訓練生と取っ組み合いの喧嘩ばかりしていた葉月を思い起こす。
 あの時だって、殴られたことはあった。
 愛らしい頬を真っ赤にして、それでも葉月は痛いとも言わなかったし泣きもしなかった。そして悔しそうでもなかった。ただ──殴られてもそれでも良いといった絶望的な目を……ジェフリーは今でも忘れていない。
 あんな目をする教え子だったから、ずっと案じていた。
 いつか、こいつは『死のうとする』のではないか。実際に、その繰り返しをしてきたようだが……。

 それほどに殴られるとか男の取っ組み合いは目にするのも、間に入るのも慣れているはずなのに。
 それでも、今回は違ったか……!?
 ジェフリーの心配を決定づけるように、ジャンヌが『まずいわ、まずい!』と何度も呟きながら誰よりも先に食堂へと猛進していた。

 三人で食堂に着くと、厨房とダイニングを仕切っているカウンター前に隊員数名が固まっていた。

「そこ、どうした!」

 ジェフリーの吠えるような声に、若い隊員達がびくっと振り返った。
 彼等の青ざめた顔を見ればそれだけで『やってしまった、どうしよう』という不安に怯えているのがうかがえた。
 そこでとっつかまえて事情聴取をしたいところだが、それどころじゃない。
 だがジェフリーより先に、やはりジャンヌが真っ先に葉月に駆け寄った。
 後を追うと、テーブルの下、椅子が沢山倒れている中で、紺色の訓練着を来ている葉月がぐったりと倒れていた。
 そしてテッドが彼女の上半身を抱き上げて、声をかけている。
 しかし、ジェフリーはその有様に直ぐに凍り付いた。
 教え子の顔が……。気を失っているのではなく、ぼんやりと目を開けたまま呆けている顔だったからだ! まるで魂が抜けてしまっているかのような異様な姿だと一目で判るほどに──。

 勿論、ジャンヌもそれには驚いたのか、すぐに葉月の元に跪いた。

「大佐──。葉月さん……! 分かる? 私よ?」

 ジャンヌが声をかけると、僅かに葉月の口元が動いた。

「・・・て」
「なに? 大佐……!? ここよ。ここに皆がいるわよ……! ここにいるわよ!」

 ジャンヌが彼女を呼び戻すかのように必死に声をかけ、さらに葉月の頬を叩いた。
 その途端だった。葉月がハッとしたように身体をびくっとさせて目を見開いた。

「──私!?」

 急に彼女の頬に血の気が戻り、そして目に輝きが戻った。

「……!? 先生?」
「大丈夫? あまりの痛さにびっくりしてしまったの?」

 ほっとした様子のジャンヌが優しく柔らかな手つきで、やや腫れている葉月の頬を撫でると、益々、葉月の顔つきが正気に戻っていく。
 気がついた葉月は、何事かと周りをきょろきょろと見渡し始める。

「良かった……! 大佐。俺の心臓、止まりかけましたよ!?」
「テッド……。ああ、私、さっき……殴られたの?」

 ジャンヌのほっとした顔。
 そして彼女が母親のように、葉月の両頬を柔らかに包み込んだ。
 すると葉月の戸惑いも落ち着いたようだ。

「──喧嘩は?」

 葉月が側で安堵のあまり脱力しているテッドに問いかける。

「収まりましたよ。貴女が殴られちゃって、皆、驚いたのですから」
「そう」

 そこで葉月が『喧嘩は終わった』と聞いて、良かったとばかりに微笑みを見せたのでジェフリーは眉をひそめた。
 ……先ほどの異様な顔つきは、殴られて気を失っていた。そんなものではなかった。
 それを彼女は『自分の中で確実に何かが起きていた』はずなのに、なにも起きていなかったかのように、自分は『気を失っていた』ぐらいにしか思っていないような様子が、今度はものすごく違和感だったのだ。

「葉月。お前、なぐ……」
「艦長。これで一件落着ね。ただの喧嘩でしょうが、大佐嬢を殴ったのはやや問題だわ。隊員達から事情を」
「あ、ええ。そうですね。勿論です」

 思わず……。教え子に『殴られてどうしたのだ』と問いただそうと思ったら、それを阻止されるかのようにジャンヌに遮られる。
 それが故意である遮り方だったと分かったので、ジェフリーは黙り込んだ。
 ここはこの女医に任せた方が良さそうだという勘が働いた。

「立てる? まったく貴女らしいわね。男の子の喧嘩に入ってしまうなんて」
「いえ、殴られたのは偶然で……」

 ジャンヌが葉月を立ち上がらせようとするのをテッドも手伝い、葉月は少しばかりおぼつかない足取りでもちゃんと立ち上がった。
 そして頬を押さえながら、そこで困惑している若い男子隊員達へと顔を向ける。彼等がびくっとした顔になる。
 だが、葉月は彼等に微笑むと次にはジェフリーに微笑みかけてきた。

「艦長。他愛もない男の子らしい喧嘩だと思います。止めに入ったのは確かですが、殴られてしまったのは止めに入った際の偶然で、彼等の故意ではありません。そこのところ、よろしくお願い致します」
「──そうか」

 なんと、ジェフリーはその教え子の落ち着きぶりに逆に驚いて、力が抜けそうになった。
 教え子のその微笑みと部下に対する配慮は素晴らしかった。 
 若い彼等がすぐに大佐嬢に詫びを入れる姿がそこに。

「大丈夫よ。ねえ、艦長。艦長が私の教官だった頃なんて、男の子との取っ組み合いなんて珍しくないことでしたよね?」

 私は慣れているのだから大丈夫と、若い彼等を安心させようとする。
 勿論、ジェフリーも『そうだった』と笑って見せたのだが……。

「艦長、こちらで暫く大佐嬢をお預かり致します。こんなに頬が赤くなってしまって……。早く冷やさないとひどい顔になってしまうわ」
「ええ、そうしてあげてください。こちらのことは私が──」

 ジャンヌは頷くと、そのまま『大袈裟だ、大丈夫だ』と言い張る葉月をテッドと共に連れて行った。

「──あれで良かったのでしょうか?」
「……先生に任せた方が良いだろう」

 ラルフもやや不安そうに見送っていた。
 彼もジェフリー同様に、『異様な様子』を感じたのだろう。

「ラルフ。とにかく事情を聞こう。彼等を連れてきてくれ」
「イエッサー」

 ラルフが不安がる若い隊員に『大佐嬢の事はともかく、こうなった事情は形式的に報告してもらう』と数名をまとめ始める。
 ジェフリーはそこは側近に任せ、とにかく艦長室に一人で戻る。

 ああ、久しぶりだ。
 ジェフリーは額に汗が滲んでいるのに気がつき、そう思いながら手の甲で拭った。
 ラルフの一言が気になる。

 本当に、『あれだけのことで良かった』のだろうか?
 教え子はあの状態で何を見ていたのだろう?

 気を失っているようには見えなかった。
 当の本人がそれを実感していないのが、どうも気になった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 頬がジンジンと火照ってくる感触が徐々に強くなってきていた。
 やっと痛みを感じ始め、葉月は頬を押さえる。

「さあ、これで冷やしなさい。後で湿布を貼りましょう。その可愛い顔に貼るのは気になるけど、腫れ上がるより良いでしょう?」
「はい、先生」

 医務室に連れてこられて、そこでジャンヌが凍らしていた保冷袋をタオルに包んで手渡してくれる。
 葉月はテッドに見守られながら、それを頬に当てた。

「すみません。俺だけが割って入るべきでした」
「何を気にしているのよ。今までの私を見てきてくれたテッドがそんなに気にするなんてがっかりだわ。達也を投げたりとかいろいろ見てきたでしょう?」
「でも──」

 何故かテッドがそこで口ごもる。
 そして彼がなんだかジャンヌに助けを求めるような眼差しを向けた気がした。一瞬だが……。

「そうよ。ラングラー少佐。大佐嬢が言うとおりでしょう。なんてことないのよ」
「そ、そうですね……」

 何故か。先ほども同じような感覚に陥った。
 ジェフリーもジャンヌの発言に従っていたような感覚。
 そして、ここでも──。テッドはジャンヌの言葉に素直に従っているように葉月には見えた。
 そしてジャンヌも……? 同じ女性だから『女の顔』を大切にしなくてはという気持ちから、葉月が思う以上に大袈裟に処置してくれているのかと思ったのだが? その『大袈裟』な割には『なんてことない』と簡単に片づけようとしているその『落差』を葉月は感じてしまった。

 だが、それ以上に『痛い』。

「はあ──。やっぱり痛い。この感じ、すっごい久しぶりだわ」

 ジンジンとする頬を氷で冷やしながら、脱力するようにうなだれた。

「久しぶりって……。もう、大佐ったら余程のお転婆だったのですね」

 テッドに呆れられて葉月は『まあね』と苦笑い。
 ふと顔を上げるとジャンヌと目が合う。
 なんだかその目がとても真剣に葉月を見ていたようだ。だが、目があった途端に彼女は何も感じなかったようにすっと落ち着いた素振りで目を逸らしてしまった。それにも違和感が……。
 その目を背け、湿布を切り分けている白衣の背中を見せながら、彼女が笑いながら問いただしてきた。

「──殴られて、驚いた?」
「え? いえ、殴られた瞬間の痛さは覚えて……」

 テッドがダウンしてそれに目を向けようと顔を背けた途端に、思わぬ方向から飛んでくる『拳』の映像は覚えて……い……る……。

「!」
「──大佐?」

 葉月はそこで止まる。
 何かが一瞬、見えた。
 はっきりしていないけど、そこに映って動いているものがいるのは確かだ。
 その動いているのは何人かの人間で……。

 何人かの男が好き勝手に振る舞う光景。
 まるで地獄から這い上がってきた怪物のような姿。
 本能の赴くままに──。

 ああ、そうだ。
 日頃はどこかに押し込めている『あの日の光景』だ!

「うっ……。き、気持ち悪・・っ」
「大佐!」

 手に持っていたタオルが床に落ち、葉月は座っていた椅子の上でうずくまった。
 急に頭痛と共に吐き気が襲ってきた──!
 テッドが慌てて支えてくれるが、葉月は力が入らずに構わずにテッドの胸の中に顔を埋めてしまう状態になった。

「どうしたの? 大丈夫? 頭を強く打ったのかもしれないわね」

 ジャンヌも駆け寄ってきて、床に跪きながら優しく葉月の背を撫でてくれたのだが、葉月は嗚咽を吐きながらうずくまるまま。

「ち、違う。違うわ」
「なに? 何か嫌な感じがするの?」

 葉月は素直にこっくりと頷く。
 そして『あの日が見える』とはっきりと答えた。
 するとジャンヌの手は背中にあったままだが、テッドがそっと葉月から離れていってしまった。
 気を遣ってくれたのだと葉月も直ぐに分かる。まだそれぐらいの判断力は残っていた。

「だ、だいぶ心の奥に薄れてきても……。時々、こんなふうに鮮烈に思い出してしまって……」
「大丈夫よ。ここではそんなことは絶対にないから」
「わ、解っています。で、でも、ちょっとしたキッカケでこんなふうに嫌に思い出すのだって、何度もあって──」
「そう。そして貴女は何度もそれに向かって『乗り越えてきた』のよ! 負けていない、勝ち続けてきたのよ!」

 ジャンヌが身体一杯に抱きしめてくれる。
 とても強く。そして柔らかく。
 葉月の脳裏に、あの柔らかな彼女の裸婦像が浮かぶ。
 大人の、姉のような母親のような潔くて豪快で、そして女性として怯むことのない強さを思わせてくれたしなやかなで柔らかそうな裸体。
 その柔らかさにつつまれて、幾分か、ごつごつと卑しい匂いを運んできた人間の姿が薄れていく。
 そして葉月が今までのように最大の防御として心を閉ざしてしまう前に、今ある場所に留まるようにと強い言葉で訴えてくれる懸命さも伝わってきた。

 そうだ。今までも自分でも訳が分からなくなるぐらいに、どうにもならなくて暴れたり、気持ちが収まるまで、その光景が自分を占領しないようにするために一晩中車で走り回って危険な遊びもしたし、何度も命がけなことに向かうことで気を鎮めてきた。
 そのたびに、『生きたいのだ』と、後ろを振り返って『生還』してきた。
 それほどのエネルギーを使わないと、気が晴れない。

 今は……その術がない。
 もし今日、コックピットにいたならば、周りが驚くような飛行をしていたかもしれない。
 それぐらいに今の葉月、その胸はドクドクとした脈を打ちながら心臓が暴れ出しそうなほどの苦しい感覚が体内で繰り広げられている。

 だけど先生が耳元で何度も言ってくれる。

『貴女は負けていない、勝ってきたのだ』

 そうなの? 私は『負けていた』のではなくて『勝ってきて生きている』の?
 急にそんなふうに思え、葉月はだったらここでも顔を上げるべきだと、苦しいながらも頭を上げた。

「大佐」

 そこに困惑しているテッドの顔があった。
 どうして良いか解らないと言った見たこともない情けない顔。
 だけど葉月はその彼に、微笑んだ。
 テッドがとても驚いた顔をしたのが、なんだか感極まったように、再び葉月の側に跪いて、ジャンヌと一緒に背中を撫でてくれる。

「大佐、大佐──。頑張ってください! 負けないで……!」

 いつも落ち着いている彼の声じゃなかった。
 年相応の同年代の青年が素になって、葉月を励ましてくれる懸命な姿。

(独りじゃない──)

 ここに『戻っておいで』と言ってくれる人がいると。
 今の自分は素直に思える。
 前ならそう言われても聞こえているのに心には届かず、素通りしてきただろうに──。
 こうして自分を戻そうとしてくれる人が、ここにちゃんといる!

「も、もう、平気──」
「俺、紅茶……作って持ってきますね!」
「テ、テッド。冷たいレモン水……」
「分かりました──。すぐ戻ってきますから!」

 なんとかしたいという必死な彼の顔。
 テッドが医務室を飛び出していった。
 葉月の側ではジャンヌが変わらずに、柔らかに包み込んで、そして背を撫でてくれている。

「せ、先生」
「なに?」
「私をもっと、強く抱きしめてくれますか?」

 ジャンヌが少し驚いた顔をしたのだが、次にはいつもの優しい笑顔を見せてくれた。
 そして、その柔らかな胸の中に葉月を包んでくれる。
 ほっとする。この柔らかさにほっとする。
 葉月は深呼吸をする。
 ドクドクと脈を打ち、暴れそうだった心臓が静かにその脈を整えていくのが分かる。

 もしかして闘うのは独りじゃなくても良いのかもしれないと初めて思った。
 そしてそれは自分の全てを受け入れてくれ愛してくれる『恋人』である隼人だけを頼るのではなく、自分独りでもなく、こうして他愛もなく側にいる人に、こうしてぐったりと頼ることだって──。

 葉月はふと、眠りたくなってきてそのままジャンヌの胸元で目を閉じてしまった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 艦長室での事情聴取が終わる。

 ラルフの質問に、喧嘩を起こした若い隊員達は従順に答えてくれていた。
 ジェフリーは側近に任せ、艦長席で黙って見守っているだけ。
 だがしっかりとその経過は聞き取っていた。
 葉月が言ったとおりに本当に『他愛もない喧嘩』だった。
 トレイの角がぶつかって、作業着が汚れたとか、簡単な詫び方だったので腹が立ったとか。本当に良くある原因だった。
 これだけの『乱闘』なら、艦長が目撃していなければそれだけで終わっているような男同士なら良くある出来事だ。
 だが、運悪くそこに上官である大佐嬢が目にしてしまい、『偶然』にも彼女が巻き添えになった……と言えばいいのだろうか?
 彼等もカッとなって誰が止めに入ったかはラングラー少佐しか視界に判らず、まさか大佐嬢が割って入ってきたとは思わなかったと言う。さらに、彼女に拳を向けたわけではないと、殴ってしまった本人も、反省した様子で言う。
 そこにいる彼等全員がうなだれ、反省している姿に嘘はないと判断できた。
 こうして『上官の知る由になった騒ぎ』になったからには多少のお仕置きはせねばならない。

「艦内の各所のシャワー室、女性専用を除き、五日間掃除だ」

 ジェフリーが窓辺を見ながらそういうと、彼等が『え?』と驚いた声を発した。
 つまり『お仕置き程度』で済んだからだろう。
 本来、上官を殴ったとなると不可抗力であっても『数日間の謹慎処分』となってもおかしくない。
 ただ今回は葉月が言ったように『偶然』だ。それに殴られてしまった『上官本人』が『これは他愛もない偶然。彼等は悪くない』とすかさず言い放ったのだ。
 自分が殴られたことなどなんともなかったように。彼等に余計な負担をかけないようにと。
 だからジェフリーは溜息混じりに青年達に呟いた。

「もし俺が止めに入ったにも関わらず乱闘を続け、偶然で殴られたとしても! 二、三日の謹慎だ。だが大佐嬢が『他愛もないこと』と言ってくれたことに感謝しろよ」

 本当は厳しくするべきところだが、今回は彼女に免じて見逃してやると言うことだ。
 彼等がほっとした顔に。

「あの──。大佐嬢にもう一度謝りたくて……」
「私もです」

 彼等が口々にそう言ったが、ジェフリーは『今は医務室で休んでいるから、落ち着いたらな』とだけ彼等に言い、業務に戻るよう命じ、外に送り出した。

「ふう、どうなるか分からないものだな」

 ジェフリーは艦長席でうなだれた。

「事が起こるとはそういうものでしょう。注意を払っていても起きることを言うのですよ、きっと」
「そうかもな」

 いつもそうしてなだめてくれるラルフの言葉に、ジェフリーもふっと立ち直る。
 では、一服しようかと二人でやっと一息つく。

 いつもの一杯が手元にやってきて、ジェフリーは艦長室の窓を眺める。
 この日の気分にぴったりと言いたくなるようなどんよりとした空模様に海模様。波が高く甲板に波しぶきが散っていた。

「今夜は荒れそうだな」
「天気予報でも今夜は波浪注意報が出ているようで、雨風が強くなるとか……」
「各セクションに注意をするように伝達をしておいてくれ」
「かしこまりました──」

 そうして暫く今夜の航行についての注意を頭に描いていると、艦長室にジャンヌがやってきた。
 葉月が落ち着いたのだろうか。その報告に来てくれたのだと、ジェフリーは再び彼女を迎え入れる。

「先生──。葉月はどうですか」
「ええ。大丈夫……だと思います。念のため、軽い睡眠薬を飲ませ、少し眠って休むようにさせました。今、テリーが部屋で付き添っています」
「それで──『兆候』は!?」

 教え子の魂が抜けきったかのようなあの呆け方が目に焼き付いて離れないジェフリーは、そこはジャンヌに食いつくように尋ねた。
 その途端に彼女がやや疲れたように首を振る。

「分かりません。彼女があの状態で何を見てしまっていたのか。彼女が自覚できたのは『無い記憶』ではなく『有る記憶』の方でした。その度々起きていただろう『有る記憶』から引き起こさせる発作的なものが出ました」
「──あの。暴れそうになるようなものですか……!」
「はい。おそらく艦長が教官時代にも何度か目にしたことがある彼女の行動の一端が現れたに過ぎません。彼女も何度もそれに向かって、大人になり幾分かコントロールを覚えたものが、久しぶりに暴れそうになった……程度のようですね」
「……そう……ですか」

 『無い記憶』が出てきた様子ではなかったと判断されて、ジェフリーはほっとした。だが、それでも。ジャンヌは医師として『発作』と言っているのかもしれないが、十代の少女だった時にジェフリーの目の前で見せつけてきた葉月の『突発的に起きる壮絶な行動』を思い起こせば、それだって非常なことが起きたのだと青ざめる。

「──その昔。一緒に飛行訓練をしていた時でした。彼女はステップをする若い少女だったので、まずは『セスナ』から空と飛行機という乗り物に慣れる……というカリキュラムを私が特別に組んだのですが……」
「その時も、発作が……?」
「そうあの『流産』の直後だったと思います。勿論、私が隣の副席で教官用の操縦桿を握ってはいたのですが。それでも──彼女は突然急降下を始めたりして、その時の真剣な切羽詰まった目が忘れられず……」
「──そうでしたか」

 ジャンヌもそれを聞いて哀しそうだった。
 ジェフリーも静かに溜息を落とす。

「──今はそうはならないと信じたい」
「おそらく。その辺りのコントロールはその十六歳の時よりかは研ぎ澄まされ、それこそ彼女は『訓練』してきたのでしょう」

 だが、ジャンヌが強く言いきった。

「ですが、油断は禁物。無い記憶を見た、見ないにしろ、あの様子は確かに尋常ではなかったと私は判断します」
「……そうですか。分かりました。ですが、私は再会し、成長していると感じられた彼女を『信じる』。そうしたいと思います」
「勿論──。私もです」

 二人はそこで一緒に頷いた。
 静かになった艦長室には、荒れ始めた海原の波が甲板で砕け散る音が響いてきていた。

 もうすぐ日が沈む──。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 夕食も済み、いつもの夜間業務の時間帯に突入する。
 時間は21時だ。

「はあ、なんだか今日は疲れたな」

 艦長日誌を書き終えたジェフリーは、デスクで大きな一息をついた。

「私が起きておりますから、艦長は一休みしてはどうですか?」
「……悪いな。今夜はそうさせてもらう。だが24時には起こしてくれ」
「はい」

 デスクの上を片付け、この艦長室と続きになっている小さな寝室へと入った。
 艦長だからと特別な部屋の造りではない。もし特別があるとしたら、やや広いことと、気心知れた側近と二人部屋というところだろうか。それぐらいで、寝床などは一般隊員と同じ大きさの二段ベッドだ。
 その下段にジェフリーは横になる。
 下段が落ち着くのだ。何か有れば直ぐに飛び出せるという感覚からそこを好み、上段はラルフが使っている。
 今夜は風の音が激しい。波の砕け散る音もする。
 今ここで休んで夜中は自分で見回りを行いたい。そんな夜になりそうだ。

(葉月は眠れているだろうか──)

 夕食はジャンヌが彼女の部屋に持っていき、大事を取ってそこで食べさせたと聞かされた。
 今日はもう休むようにとジェフリーが伝えたので、あれから教え子の顔は見ていない。同性で医師のジャンヌに任せたのだ。
 そしてジャンヌも逐一様子は報告してくれているので安心してはいるのだが……。

 心配はしているのだが、色々と神経を使ったせいか、いつも以上の脱力感がジェフリーを襲う。
 眠気は直ぐそこにやってきていた。
 ああ、教え子にこの眠気を分けてやりたい。そう思うぐらいに眠く……そして……教え子が安眠していることを祈り……。
 次にはもうジェフリーは深い眠りに落ちていた。

 

『──長!』
『艦長──!』
『大佐!』

 どれぐらい眠ったのだろう?
 聞き慣れている側近の声に気がついて、ジェフリーは唸りながら寝返りを打った。
 なんだか今夜に限って目覚めが悪い。

「艦長! 大佐嬢が……!」
「!」

 その一言で、ジェフリーは一発で起きあがった!

「葉月がどうした……?」
「よく眠っていると安心したのか、テリーがふと目を離して部屋を空けた途端にいなくなってしまったと……!」
「なんだと?」

 ジェフリーはそれでも落ち着いてベッドから降りた。
 そしてラルフと共に艦長室へと移る。

「落ち着け。薬の効果が切れて目を覚まし、どこかへ出かけているだけじゃないのか? テッドはどうした」
「彼のところにも来ていないとか。マルソー先生も同じく、今、二人が思い当たるところを探していますが、それでももう三十分は経っています」
「──三十分? この広い艦内、それぐらいの時間でいなくなったと判断するのか?」
「しかし……。大佐と先生の警戒はそんなものでは……」

 ジェフリーがこうして焦っている側近をなだめるように『それぐらい』と言っているのは『それぐらいで終わってくれ』と思いたいからだ。
 だがジェフリーのその願いは打ち砕かれる事に──。
 艦長席の電話が鳴り、ラルフが素早く向かい手に取った。

「──なんだって? それは何処だ!? ……甲板の……。分かった。艦長と直ぐに向かう!」
「! どうした……」

 ラルフの顔色が変わったのを見て、ジェフリーにも嫌な予感が過ぎる。
 そして側近が先に走り出しながら叫んだ。

「甲板に。大佐嬢が出ているそうです。それも、今にも飛び込みかねないような端に立っていると、整備員からの報告です!」
「なんだって──!?」

 先に飛び出した側近を追うように、ジェフリーも走り出していた!

 先ほど艦長室から垣間見た甲板は、眠る前よりももっと波が高く甲板を濡らすほどに上がってきていた。
 そんなところに──?

 もしや、また……なのか!

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