そう、突然なのだ。
いつも、そう……。
そして、何を考えているのか一番考えさせられる人。──いや、『従兄』なのだ。
「兄様──。いつまでここにいるつもりなのっ」
「さあ。いつまでだろう?」
「ロイ兄様のところにいかないの?」
「邪魔になっちゃあ、いけないから」
私のところでは、既に充分に『邪魔よっ』と叫びたいところを、葉月はグッと堪えた。
今、従兄の右京は、何故か葉月の大佐室にいる。
そしてお客様をもてなしたり、じっくり話をするために使ったりする応接ソファーで、文庫本片手に悠然と座っちゃって……。しかも、後輩達が入れたお茶をじっくり味わうこと、三時間? 何しに来たのかと問えば『なんとなく』だった。ほんと、訳が分からない。
「あの。よろしかったら、おかわりはいかがですか?」
「お、有り難う!」
気遣い充分の柏木が、従兄の空のカップを見て、そう話しかけ……。従兄もなんの遠慮も無しに、さも当たり前のように空になったカップを後輩に手渡した。
「柏木君! 喫茶店じゃないし、お客様ではないんだから、そんなことしなくていいのっ」
日頃、表情を変えず平坦さを保って仕事をしている『大佐嬢』が、ものすごい剣幕で吠えたので柏木君がおののいていた。
そして──当然、従兄は『お前、なに怒っているの?』という平然とした顔。
「お前、可愛い顔が台無しだぞ?」
「誰が可愛くない顔にさせているの!?」
これまた葉月の迫り来る怒りとは裏腹に、とぼけた顔でいいのける従兄に、葉月はもう……限界! と立ち上がろうとしたのだが。
すると隣の席から、笑い声が湧いてきた。
「あははは! もう……駄目だ。いやー流石、お兄さんというか」
隼人だ……。
彼の笑い声を聞いて、葉月は益々、むくれ顔に。
この隼人が先ほどから、パソコンの画面に顔を隠して肩を震わせつつ、笑いを堪えていたのを葉月も気がついていた。
隼人まで──。そうして従兄が居座っていることには、それほど気にならないらしい。
(いいえ。皆、兄様に遠慮しているだけなのよ)
なんだかんだ言って、皆、右京に気遣って『野放し』、見て見ぬ振りをしているだけなのだ。
普段は『お前は大佐なんだから』と言い出せば、ああしなくてはいけないとかこうしなくてはいけないとか『若娘に無理難題を押しつけるかのような』、シビアな説教を叩き込んでおいて、いざ自分が思う『私事』になると『棚上げなのか!』と、葉月は再び吠えたい。
昼過ぎに突然、横須賀便でやってきて、それからどんな用事か匂わすこともなく、そしてロイやリッキーに連絡をする様子もなく……。
従兄の右京はただここで『暇つぶし』でもしにきたかのように居座っている。
だけどなのだ……。お兄ちゃまに『これは正しい』と思って噛みつくと手痛い反撃でやり返され、『オチビ惨敗』の結果となる。
だから──『何を考えているのか解らない』。一番、手強い兄様なのだ。
そういう『何かあってのことなのか?』と思うので、今は『観察段階』で葉月もなんとか堪えている──。が! 三時間は流石に限界だ。
(ロイ兄様に、知らせてやろうかしら……)
そんなふうにして部下や後輩達の手前、『身内の横行』をなんとか止めさせようと葉月が虎視眈々と次の策に脳内を働かせているときだった。
従兄が腕時計を眺め、ため息をついた。
そして、夢中な様子で読んでいた文庫本をテーブルに放った。
「オチビ、邪魔したな。兄ちゃん、ちょっと出かけてくるな」
「え? どこに?」
まるで葉月の『殺気と攻撃寸前』を察知したかのように、右京が立ち上がり出ていってしまった。
それも──葉月の『どこへ』の問いも聞こえていないかのように。
「なに、あれ。むかつくっ」
さあ、今から『とっちめてやる』と思ったら……。
やっぱり敵わない従兄は、するりとすり抜けていってしまったのだ。
悔しがる葉月を見て、隼人がまた笑う。
「お前も右京さんには敵わないんだなあ」
「なによ」
そして、そんな隼人がふっと柔らかい眼差しで従兄が出ていったドアを眺めた。
「……でも、見ているとやっぱり、お前の兄さんだなと思う。そっくりだ」
「そっくり?」
「ああ。そっくりだ。ふらっとしていて、なにかを狙っていそうなところなんかな。お前のそういうところ、実はあのお兄さんを見て覚えたんじゃないか?」
「……そうなのかしら?」
「そんな気がするよ。なんだか本を読んでいるようで、あれは読んでいなかったみたいだぜ? なにか……黙々と考えていたみたいだな。それはそれですごい集中力。お前が芝土手で、物事をまとめている時間と似ているかなというのが、俺の感想」
「……」
葉月は恋人の観察力に唸りつつ、そう言われて『確かに』と妙に納得しそうになった。
「でも──。何しに来たのかしら? いつもの兄様のようで、そうじゃない気がしたわ」
「ああ、なんだか。静かだったな?」
二人一緒に、首を傾げた。
葉月としては、『なんだか違和感』──。
夏の音楽会の頃から……なんとなくだ。
従兄がいなくなったテーブルには、放られたまま置き去りにされた文庫本。
ふと気になった葉月は大佐席を離れ、それを手にとって見た。
それは──先日、従兄が貸してくれたうちの一冊だ。
(あ、一番……良いと思った本)
まるで少女のような恋心を綴った、たとえるなら『青リンゴと白ワイン』。
だけれど、決して思い通りに行かない恋心が描かれていて、これは夢中になって読んだ取っつきやすかった一冊だった。
そう、そう……右京はこう言っていた。『付き合っていた女性が読んでいて、デートの帰りに本屋で探した』と。
ああ、兄様もこんなに爽やかな恋愛に夢中だった時があったのだなと、なんだか幸せな気持ちになってしまい微笑んだ記憶がある。
だけれど──他に借りた文庫本は、すべて大人の世界の『しがらみ』ばかりが描かれていて、葉月も興味本位でそんな世界を怖々と覗き込むように読み込んでしまったけれど、最後までは苦しすぎて読めなかった。
従兄に返した時も、彼の部屋に置いてあるのはそんな……どこか重すぎるばかりの男女関係や、人間関係の本ばかりだった。
しかし、葉月は思った。そんな本こそ、なんだか『今の従兄に似合っている気がする』し、むしろ従兄が『甘酸っぱい恋愛作品』を大切に持っている方が、似合わない気がしたのだ。
それなのに……。今日はこの本を持って、眺めていたのだ。
隼人は読むというよりかは、考え事をしていたとは言っていたが……これを『旅のお供に持ってきた』と言うのが、気になった。
なんだろう──と、葉月は『ごろごろ』する違和感を強く感じながら、その本を元の位置に返しておく。
隼人が『どうかしたのか?』と、事務席と隔てているついたてから覗き込んでくれたけれど、葉月はただ微笑んだ。
そして大佐席に戻って、もう一度、元の集中力を高め始めた時、葉月の手元にある内線電話が隣の事務室経由である音で鳴った。
「はい、大佐席。あら、ジョイ……どうしたの?」
『お嬢、横須賀にいる泉美ちゃんから連絡』
「泉美さんが……? 分かったわ、繋げて」
ジョイも昔なじみだし、彼女の清楚な雰囲気は気に入っているようで割と親しげに近寄っては『これぞ、お姉ちゃん』とか言って『泉美ちゃん、泉美ちゃん』となついている方。彼女は静かだけれど芯は強く、皆は知らないかもしれないが、結構『強情っぱりで頑固者』だったりして、こうと決めたら譲ってくれない強固なところがある。
自分の意志をしっかり持っている女性だ。葉月はそんな彼女を女性としても先輩としても尊敬、敬愛している。
だから、こうして長年、一緒にやってこれたのだ。
周りにはあまり目に見えない『地味な交流』だったかもしれないが、それは彼女だからこそなのだ。
多くを言わなくても、彼女がすぐに察してくれるし、距離の取り方も上手い。やって欲しいことはちゃんと期待以上の結果を出して、貢献してくれていた。
だから、あれこれと分かち合うための時間など必要なかった。彼女と仕事でのやりとりをするだけで、どことなくなんとなく『疎通』が出来たのだ。
『二人はいつのまに、話し合ったの?』なんて、誰かが聞いたとしても、『話し合っていない、なんとなく』という関係だ。
そんな彼女が、わざわざ葉月に連絡──。
『これはなにかあったな』と、葉月は直感。
「はい、葉月です」
彼女とは、ずっとそうだった。
必要でないときは『泉美さんと葉月ちゃん』だ。これも自然とそうなった呼び方だ。
そして向こうも『大佐』とは言ってこない。
『葉月ちゃん、お仕事中ごめんなさい』
「どうかしたの? 泉美さんがこんなふうに連絡してくれるなんて」
なにか『困ったことがあったのだ』と直ぐに思った。
達也となにかあったのだろうか?
すると、彼女はなんの前置きもなく、驚くことを言いだした。
『急いでいるの。葉月ちゃんは知っているわね、きっと──。今日、海野君……二十年ぶりにお母さんに会いに行ったみたい』
「……! 達也が!?」
達也の母親が『横須賀にいた』!? あまりにも近い場所に居たのだと葉月も驚いた……。ううん、それよりも! それを思い浮かべて、すぐさま葉月の頭を占領し始めたものが……!
当然、葉月の中で『悪夢』が蘇る。
達也に本気の力でぶん殴られた『大喧嘩』の光景が、ぶわっと脳裏に浮かんだ。
いや……それはもういい! 昔、昔の話でもう苦かったり懐かしかったりの思い出だ。
その原因となった『彼の母親』のことを泉美が知っていることに、既に遅いことが起きてしまっていないかと、ぞっとした。
だから、慌てて確認する。
「い、泉美さん……! 大丈夫なの?」
「え? なにが? 私じゃなくて、大丈夫じゃないのは海野君よ。再会……駄目だったみたい」
「え……」
それにも葉月は何も言えなくなる。
達也から昔、昔に聞いた話でも、おそらくそれは『当然の結果』とも思えるぐらいの『確執』があることは知っていた。
でも──だ!
「泉美さん……。達也から会いに行ったの!?」
『そうみたいよ。良く知らないけど』
そんな素振り、出かける前は微塵も見せていなかったし、達也自身思い悩んでいる様子だってなかったじゃないか?
それなのにどうして? 急にそんなことに? 葉月は困惑した。
そして、そんな葉月の尋常じゃない反応具合に、隼人も異常を感じたのだろう。仕事する手元を止めて、こちらを心配そうに見ていた。
だが、泉美が急いでいる口調で続ける。
泉美がどうして知ることになったのか。
ロビーであった出来事、スーパーの店長との約束、そして達也との『いさかい』。
彼女はすべて事細かに話してくれた。
そんな彼女が、急にこんなことを言いだした。
『葉月ちゃん、貴女にこんなことをいうのは、変なんだけど』
「なに?」
一時、泉美が黙ってしまった。
だが、それは一瞬──彼女が、葉月が良く知っている『芯を持った声』ではっきりと言った。
『私、海野君を愛している』
「!?」
『さっき……。気がついたわ。私はただ側で見ているだけしか出来ない存在にしか成り得ないと思っていたから、鎮めてきた。でも、もう、駄目よ。愛しているしかいえない』
「い、泉美さん?」
『嫌われてもいいわ。彼のこと、なんとかしたいの。でも、私が今、出来ないこと……貴女にしか頼めなくて』
「──」
葉月は絶句した。
いつの間に!? 泉美が達也にそんな強い想いを膨らませていたのかと!
確かにそれほどに感情を外に出さないお姉さんだった。だけれど──彼女が達也にふとした好意を抱いているような気はしていた。
だけれど、それだけ。それがまさか、こんな強い想いに発展していたなんて! と。
葉月の絶句は、泉美にも気がつかれる。
『──貴女と彼が深く繋がっていること、良く知っているわ。私はずっとそれを見てきたのだもの。それでも、貴女なら解るわよね? 愛するときは、そんなことももう、関係なくなるって……!』
そして気が高ぶってしまったのか、彼女が涙声で『今の私は、それなの』と震える声で呟いた。
葉月が耳に宛てている受話器──。そこに『熱い息』が届いたような感触に陥った。
葉月は拳を握った。
その熱い息、確かに受け取った!
「泉美さん──。私、何をしたらいいの?」
『葉月ちゃん……』
「泉美さん、私はもう……彼に『愛している』とは言えない。でも、達也を愛していると言える泉美さんと想いは違っても、私だって達也の幸せを願っているわ。それに──彼のお母様のことも、ずっと気にしていた。いつかその時が来たら、力になりたいと思っていた。だけど……今、彼の側で、それをするのは『私じゃない』。泉美さんだわ。だけど、私も協力する」
葉月がそう言うと、それを眺めていた隼人は驚いた顔になっていた。
そりゃ、そうだろう? 泉美が達也を愛していると激白、その上に『母親』が絡んでいる事態が起きているのだから。
『有り難う、葉月ちゃん。だったらね……』
頭の良い彼女は、既に計画を思い描いていたようで、葉月に次々と『どうしたいか、どうして欲しいか』を話してくれる。
葉月も頷きながら、手元にメモを取る。
そして葉月は、葉月としての『アドバイス』を泉美に話した。
達也が感情的になってどんなことをしても、許してやって欲しいと……。昔、殴られたことも、正直に話した。
だけれど、そんな『アドバイス』は余計なお世話だった。
『葉月ちゃん、私、それぐらいとっくに覚悟出来ているわ……。大丈夫よ。むしろ、それぐらいやってくれたら、私と向き合ってくれたということにならない?』
このとき、葉月は『泉美の愛ってすごいな』と驚いたし、……なんだか感動させられた。
益々、彼女を後押ししたい気持ちに駆られた。
「解ったわ。すぐに手配するから、こっちのことは心配しないで」
『──葉月ちゃん。私に、海野君を任せてくれるの?』
泉美のちょっと遠慮した声。
だけど、葉月は微笑んだ。
「グッラック、泉美さん。もう、そうとしか言えないわ」
『有り難う。必ず、貴女に一番に報告するわ』
──彼女から電話を切った。
葉月は『泉美の戦いが始まった』と思った。
『彼女の相手が誰であれ』──『頑張って』と言う言葉が心の中で素直に浮かんでいた。
相手が、長年……様々な想いと関係を紡いできた『元・恋人』でも、『同期生』でも、『同僚』でも。
それはもう……葉月にはどうにも出来ないこと。
私にも、もう想いを止められない『人』が出来てしまったから……。
だけれど、達也の幸せだって願っていた。彼が『お前の側にいるだけで、お前の側で頑張らせてくれるだけでいいんだ』と、それを一番に望んでいるなら、そうさせてあげたかっただけ。彼の気の済むように、そして……彼の生き様を最後まで、誰でなく『この私が一番に見届けるのだ』と。そうすることでしか応えられない。
泉美が達也に向かって、どうなるかは判らない。
今までの達也のままなら、残念だが泉美は『玉砕』だ。
でも──もしかしたら? そうなったらどうなるのだろう?
葉月は『そうなって欲しい』と思うのは、泉美のため。だけれど達也のためには『そうしたらいいのに』なんて……言えそうになかった。
本当に達也の熱い思いを、なんども感じてきたから。
そんな複雑な気持ちをなぞっていると、すぐ側から声がした。
「女性同士の相談みたいだけど。俺でも良かったら、手伝うけど?」
「隼人さん……」
葉月が書き殴った適当なメモを隼人が手にして眺めていた。
「……定期便、キャンセルか。二人は明日は帰ってこないってことか。なるほど」
「泉美さんが、時間が欲しいって。だから、とりあえず二日、休暇にさせたわ」
「そうか」
「二日後の小笠原行きの定期便に変更して。それから、達也が出る予定の会議にミーティング、私と隼人さん、それから山中のお兄さんにジョイで割り振って代行にするわ」
「OK。じゃあ、俺、オンラインで定期便の変更手配する」
隼人が動き始め、彼はデスクに戻るとすぐにマウスを手にして画面に向かった。
葉月も内線電話を手にする。
「テッド──。緊急を要する用事が出来たの。手伝って」
テッドがすぐにやってきて、ありのままの事情を説明した。
泉美の穴も上手く、それとなく埋めてもらわなくてはならない。
それは総合管理班長のテッドの仕事だ。
テッドも『事情』には驚いたようだが、すぐに笑顔で『任せてください』と、達也のスケジュール表を手にして眺め始めた。
泉美は『時間が欲しいから、二人揃ってなんとか休暇にして欲しい』と言った。
定期便も明日の午前に予約している。それも変更して欲しいと。
葉月も了解した──。泉美にはそのことに集中するようにして欲しいから、こちらの職場にかかる負担は葉月がなんとかする約束をした。
仕事も大事だ。
だけど──泉美と葉月、いや隼人もきっと思った。
仕事よりも、今は、『最後のチャンス』である母子の方が大事だ!
泉美のその愛が、なにもかもを包み込み……。
そう、彼女の愛は『包み込む』。とても柔らかでしなやかな優しさを思わせた。
葉月にはそんな気がした。
問題は、今は塞ぎ込んでいるだろう自分のことに精一杯の達也が、泉美が水面下で始めたことを知ったときに──『どうするか』だった。
・・・◇・◇・◇・・・
「本当につれないよな〜」
その部屋の窓からは、海は見えない。
一階だからだ。
芝の中庭と、赤い花をつけているサルスベリが揺れている木立。
すこし穏やかになった小笠原の九月の風が吹き込んでいた。
その窓辺で、右京がそうぼやいても、デスクに向かっている彼女は知らぬ振りだ。
「……三日前に、連絡したのにな〜。今日、行くから、中休みでも取られた従妹の大佐室に連絡してくれと」
それでも彼女はデスクで事務作業だ
諦めて、ふっとため息を漏らしつつ、窓辺に寄りかかり外の景色を眺めて黙ることにする。
すると暫くして、やっと彼女がペンを置いた。
「ごめんなさいね。すっかり、忘れていたわ」
「……ああ、そう。忘れていたんだ」
「貴方がくるのは分かっていたけれどね……。意識していなかったのは悪かったわ。ご覧の通りなのよ、私」
彼女が金縁の眼鏡を取り去り、椅子を回転させてやっと右京の方に向いてくれる。
──しかも、笑顔だった。
そう、右京は『ジャンヌ=マルソー』の事務室にやってきていた。
彼女に会うためにやってきたのに、約束したとおりに彼女が連絡をくれないので、しびれを切らしてやってきてしまった。
そろそろ診察時間も終わるころだろうと、思ってやってきた。
それでも──診察室にこもっている彼女に『事務室で待つように』と看護師伝いに言われて待っても、一時間は待たされた。
「……歓迎されていないかと思った」
「歓迎してくださらなかったのは、そちらでしょう? 私は歓迎していますよ」
「ふうん?」
「なんですか?」
この前とは違って、随分、柔和だな──と、右京は彼女を眺めた。
まあ、右京の方は『歓迎しなかった』から、彼女があのように固く構えたのは仕方がないことだったかもしれないけれど?
それも笑顔を見せてくれるなんてな。と、右京は『嬉しい』というより、心の中で悪戯心が疼きだしてしまい、ニンマリと微笑む。
「先生。今夜はどんなエスコートをしてくれるの? この前はあんな雰囲気になっちゃったから、お食事おじゃんになっちゃったし」
「さあ。私、キャンプから外に出たことはないので。キャンプ内の食堂でよろしいのでは?」
「やだな〜。アメリカ出身の独身隊員ばかりが集まる場所でしょ? 先生、そんなところに通っているの」
「ええ、そうですよ。それに独身男性ばかりじゃありませんよ。ちゃんとファミリーでも食事に来ていますし。元々、そういう場所ですよ」
それでも右京は顔をしかめたが、ジャンヌはけろっとしていた。
「そんなかんじ。先生、料理とかしないだろうな」
「そうね。忙しくて。家には冷凍ピザしかないわね」
「……やっぱり。じゃあ、先生の部屋で手料理ってかんじではなさそうだな〜」
「冷凍ピザでよろしかったら、どうぞ」
そこで右京は、さらにニンマリ。
冷凍ピザなんて嫌だと俺が言うと思って、あっさり堂々と『どうぞ』と言ったのだろうな……と。
「いいな。先生の綺麗な指で出される冷凍ピザなら、十枚は食べてみようかな。しかも……ちょっと身体の上に乗せてくれたら、もっと美味しくかぶりつく」
これで、彼女がしらけても面白いし、ちょっと恥じらっても面白い。
どっちにしても面白い。彼女のことだから、きっと怒るかもしれない。それも面白い!
右京の悪戯。もうそこは顎の線をなぞりながら、ワクワクしていたのだが──。
「いいわね。それ」
右京以上の『にんまり』とした意味深な笑顔が返ってきて、逆にドッキリとする。
そうして止まってしまった右京を傍目に、彼女がカルテやら書類を片づけ始めた。
「まったく、貴方に『本気』はなさそうね」
「ばれたか」
「そういう繰り返しをしてきたのでしょうね」
「……まあね」
先日会ったときのように──。
思い切りふざけていたのに、途端に素直にさせられてしまう。
この前は、戸惑ったが、今日の右京はもう……清々しいくらいに表情を崩して、素直に柔らかく微笑むことが出来ていた。
だけど、右京……。彼女のことも知っていた。
あれからもっと調べた。彼女の男性遍歴というのだろうか……。
それが原因で彼女は精神科医を辞めて、産婦人科医になっている。
だけど──そんなこと、もう彼女もだいぶ悔いているだろうし、過去のことだ。
彼女と向き合った男性が、それを知ってどう反応するか。それは人それぞれだろうが、まともな男ならあまりいい気はしないと思う。そんな過去だ。
だけれど、右京はそうは思わなかった。
「やっぱり。先生の冷凍ピザ、食べに行こうかな……」
なんとなく、呟いていた。
「……少佐。私のこと、ご存じなのでしょう。やめた方が良いわ。私はただ……」
「俺は良いよ。俺……先生には回りくどいことやめるんだ。俺が調べてしまったことも、ちゃんと分かっているしな。本当、なにもかもこっちのこと、お見通しなんだ。敵わないよ」
「……」
「良く分からない……。でも」
こんな少年のような『訳の分からない気持ち』は久しぶりだった。
だけど、もう……良い大人でもある。
自分がどんな気持ちをもっているのか、ある程度時間をおけば、それなりに把握できた。
だから、右京はそのまま口にしてみた。
本当に、久しぶりに。
「あれから、先生のことが訳もなく、頭から離れなかった……」
「──!」
「これでも、いっぱい、いっぱいで来たんだ。仕事、これから立て込む時期だから必死でこの日を空けてきたんだ。逃したくない」
だけどジャンヌはふっと呆れたように笑った。
「貴方、どうかしているわ。また、そんなこと」
「今度は先生が怯えているな。やっぱりもう男は懲り懲りか。だったらなおさら燃えてきた」
「……やめて」
「じゃあ、今回だけでいいよ。その後は従妹のことだけ一緒に考えようじゃないか」
「……」
「それでも駄目なら、ここではっきり、俺が納得するように言ってくれ」
だけど、ジャンヌは力無く首を振る。
それだけで、右京は胸が痛んだ。
どうしてなのだろう?
先日──。一度だけ、ほんの少しの時間を過ごした女性に囚われてしまったなんて。
この御園右京、不覚だった。
最初の印象は最悪だったのに、彼女の魂の色合いが……忘れられなくなっていたのだ。
「貴方ほどの男性に。わたしが? この味気ない私が?」
「先入観だ。先生ならわかるでしょう? そんなのは先入観だって」
「自分のことは、そんなに器用じゃないわ。だから……私は……」
「若い頃の話だろ? そんなことなら俺もある。俺はそれでも構わないと言っているんだ」
「……」
彼女の顔が変わった。
鉄面皮な女医でもなく、女性としての色合いを消し去ろうと必死になっている彼女でもなく。
紛れもなく、女性としての『熱』に今、まさに心が色めき立った……。だから、頬が紅潮しているのを右京は見逃さなかった。
そのまま、彼女が座っている椅子に近づいた。
後ろから彼女の首を捕まえるように抱きついた。
ジャンヌの身体が強張る。でも、確かに頬は熱くなっている。
「ほら。熱くなっただろう。忘れていないみたいで、安心した」
「や、やめて。少佐」
「味気ない女性でいるのは罪滅ぼしなのか? 丁度良い。他の男には見られなくて済む。だけど、俺の前ではそうはいかない」
「お願い……。離して」
「冷凍ピザ──に、決定だな」
ジャンヌは頷いてはくれなかったが、駄目だとも言わなかった。
強がっているのは右京だけじゃない、彼女もそうだ。
会ったときから、お互いにそれを知っていて、そして相手にも見抜かれていることが分かっていた二人だ。
もう、強がりも駆け引きもいらない。惹かれた理由もいらない。恋なんてある日、突然だ。自分の気持ちに戸惑って、言い訳をするように遠回りをする無駄なことも、俺達にはいらない。
少なくとも魂が惹かれたしまった右京は、あっという間ではあったが──本気だった。
・・・◇・◇・◇・・・
何も食べずに、着替えもせずに、そのまま眠ってしまったらしい……。
部屋の灯りすらも消していたようだが、でもホテル特有の遮光カーテンの隙間からは、眩しそうな光が射し込んできていた。
達也はおもむろに起きあがった。
とりあえず、シャワーぐらいは浴びようとバスルームに向かう。
シャワーもなんとなく浴びた。
「帰らなくちゃな。午後、あっちについたらいきなり会議が一本入っている……」
そう呟けば、『俺は、海野中佐なのだ』という一番の支えが達也を立ち上げる。
旅行用のスポーツバッグから、新しい夏シャツを出して、袖を通した。
見繕いを終えると、やっぱりどんなに落ち込んでも腹は減るんだなと、腹をさすった。
下のレストランで軽く朝食を取ろうかと思いながら、電源を切っていた携帯電話のスイッチを入れた。
そう……昨夜は、『シャットアウト状態』にしてしまっていた。
仕事で緊急の用があると思ってもだ。……そんなことをしてしまうだなんて、中佐失格かも知れない。それでも、そうしたのだ。
その中には『俺が捕まらなかったら、泉美さんに連絡が行くだろう』なんて、甘えもあったかもしれない。
すると、途端に携帯電話が鳴った。
泉美だった。
丁度、『甘えてしまった』と思っていた彼女からの連絡だったので、達也は慌てて電話に出た。
『海野君……? 起きたの!?』
「泉美さん。何かあったのか?」
彼女の慌てている様子に、達也は仕事で何かあったのかと、しまったと思った。
だけど、矢継ぎ早に泉美が話し始めたことは、全く、違う事──。
それで先ほどから何度も電話しているのに達也が出てこなかったらしく、泉美が『良かった』と、ホッと胸をなで下ろすような声。
だけど、それを聞いて達也の頭に一気に血が上った!
自分が一人の世界にこもって、なんとか母親のことは忘れようよ思っている間に……。そんな余計なことをしてくれていたのか! と、達也の怒りは再び燃え上がろうとしたのだが。
『何言っているのよ! 店長さんの話では、八重子さんのことだから、このまま消えるかも知れないって。慌ててお母さんの自宅まで引き留めに行ってくれているのよ!』
「……え?」
『このままでいいの? 海野君!』
なんでアンタがそんなに必死なんだよ。と、達也は泉美の熱さに逆にしらけてしまう。
「良いって言っているだろ! それにアンタには関係ないだろっ!」
凄んだ声で怒鳴っていた。
これで大人しい彼女なら、驚いて引くかと思ったのに……!
『いい? 海野君。仕事では貴方は上司でも、そうでなくなったなら私はお姉さんですからね』
「はあ?」
『良く聞いてよ。聞かないと、そっちの部屋に押し掛けるわよ!』
その泉美こそ凄んでいる声に、達也がギョッとして思わず携帯電話を耳から離して、それを泉美本人を見るかのように眺めてしまった。
本当に『これ、泉美さん?』と、なんだかそこにじゃじゃ馬が乗り移っているかのような錯覚に陥ってしまったではないか!?
『海野君……。お母さん、何故、横須賀にいたと思う?』
そんないつも聞いている彼女の落ち着きある優しい声が聞こえてきた。
達也は携帯電話を耳に戻した。
『横須賀の前は、カリフォルニアからフロリダに移っていたそうよ。それで横須賀に来たんですって』
「!」
泉美のその話に、達也の中にある線が繋がる!
『店長さんに漏らしていたことがあったらしいの。次男は軍人なんだって。それだけしか言わなかったらしいけど。店長さんは、その息子を一目見ることが出来るかも知れないと思っていたんじゃないかって……。もし軍服の青年が八重子さんに会いに来たらきっと息子だって思っていたらしいわよ。だから、昨日も貴方を必死で追いかけてきてくれたのよ!』
「う、嘘だ……。偶然だ!」
『お母さん、あのスーパーにパートから就職したらしいけれど、ものすごくやり手らしくてあっと言う間に社員になったらしいわよ。今は主任なんですって。だけれど、店長の話が出ても横須賀市内以外の異動でも、すべて断ってきたらしいわよ……! それ、どうしてだか、分かる!? 基地の側にいたかったからだと思うわ!』
「……う、嘘だ!!」
もう相手が誰であれ、達也は子供のように叫んでいた。
だったら、どうして……もっと早く、基地に問い合わせるとかして会いに来てくれなかったのか!?
そんな寂しい気持ちと哀しい気持ちが達也にいっぺんに襲った。
『海野君……。いきま・・』
電話を切って、その携帯電話をベッドに投げつけた!
「だったら、どうして昨日……は……!」
元々会いたかったなら、やっとの思いで会いに来た息子に何故、微笑みかけてくれない!?
達也は頭を抱えて、ベッドの側にうずくまった。
するとドアを叩く音が……!
『海野君……!?』
何故だ。どうしてだ?
どうして彼女がこんなことを俺に運んできたんだ!?
『早くしないと、また……行ってしまうわ。きっとお母さん、貴方に会いたくても自分を戒めて、会わないようにしているだけなんじゃないの!?』
あの大人しいお姉さんが必死になって、ドアを叩いているじゃないか?
あんなに声を張り上げて……!?
『せめて。貴方が会いたかったことだけでも伝えた方が良いと思う!!』
泉美のその声が、ものすごく達也の胸の中にこだました。
そして、あの時の声も聞こえてきた……!
『達也こそ──。会いに行った方が良いと思う!』
葉月の声だ。
そして泉美も──。
彼女たちは、必死に、そして達也の本心を見てくれている……!
そうだ……。
俺は会いたかったんだ。
そして、会いに行った。
そして、そして! 受け入れてくれなくても『俺は会いたかったし、会いに来て欲しかったんだ』と言いたかったんだ!
彼女たちの声で、達也は立ち上がった。
「!?」
あんなに必死になっていた泉美の声が聞こえなくなって……静かになっていた。
(まさか……!?)
あんなにいつにない大声を張り上げて、無茶だったのではないかとひやりとして、ドアに向かって駆ける。
「泉美さん……!」
彼女がドアの前で、座り込んでいた。
「ご、ごめん……。俺……」
「息切れしただけよ。ああ、良かった。本当にこういう時は私の身体も役に立つのね」
確かに胸を上下にさせて息を切らしているが、彼女の笑顔はとても輝いていたので、達也はドッキリとしてしまった。
「海野君が行かないなら、私が行っちゃうから……」
「でも、今日は小笠原に……」
「……休暇、取って置いたわ。葉月ちゃんも、行って欲しいと言っていた。だから海野君、行こう?」
「泉美さん……。どうして」
「だって、私は海野中佐のアシスタントよ。一緒に出張している今は私しかいないじゃない」
塞ぎ込んでいる間に、彼女たちが、こんなにしていてくれた必死さに、達也は茫然とした。
「……分かった。行こう。確かに──あのババア、姿くらますならお手の物に違いない!」
「海野君……」
そのまま直ぐに達也は部屋を出た。
泉美にはこれ以上無茶はさせられないと思って、置いていこうとしたのに……。
「いや……。私も行くわ。絶対、行く」
何故か、そんなふうに言い張って、とてもじゃないがそこで揉み合う余裕もなく、そのまま連れて行った。
一緒にタクシーに乗った。
達也は一言──『有り難う』──と、彼女に呟く。
泉美はただ、何かを達成したかのような清々しい笑顔をみせてくれただけだった。