-- A to Z;ero -- * 秋風プレリュード *

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11.それは始まり?

 タクシーに乗ったはいいが、やはり泉美の顔色が良くなかった。
 そのうちに彼女が、ふと胸元を握りしめ俯いてしまった。

「い、泉美さん──?」

 彼女が苦しそうでも、笑顔を見せてくれる。
 そして、急ぐように手帳を取り出し、そこから一枚のメモを達也に差し出した。

「昨夜、店長さんに連絡した時に、教えてもらったの。今度は……だいたいじゃなくて、名簿から教えてもらった住所……」
「分かった」

 崩れそうになっている泉美から、そのメモ紙を受け取る。

「……泉美さん、昨夜。あちこちに連絡してくれたんだ」
「……言ったでしょ。アシスタントなんだって」

 ふと見渡すと見覚えのある風景──。
 昨日のスーパーがある駅の界隈まで来ていた。
 その駅前交差点でタクシーが停まる。

「運転手さん、これ、詳しい住所。あとどれぐらいですか」

 達也は今にも崩れそうな彼女を、いつのまにか抱き寄せていた。
 それは自然な行為で仕草で……泉美も力が入らないのか、そのまま達也の腕にもたれてきた。

 タクシーの運転手は『車ならあと五分ぐらい』と言ってくれたが、泉美の様子を見て心持ちスピードを上げてくれたようだった。

「無理しなければ、大丈夫。あんな突発的なのは珍しいの。海野君は運悪く、それを見ちゃったのよ」

 泉美が前もってアンサンブルの丸首から革ひもをたぐり寄せ、ピルケースを握った。

「来そうなときは分かるから、安心して」
「分かったから。少し、ゆっくり休んでくれ。俺も、大丈夫だから」

 何故か──彼女をぎゅっと抱き寄せてしまう。
 そして泉美がやっと安心したように、目を閉じた。

 ……なんて柔らかいんだろう。
 達也はそう思った。
 そういえば、初めて一緒に会議に行った後。これに似た感覚に陥ったことがあった。
 彼女のノーミスの素晴らしさを讃えた後、彼女が素直に頬を染めてやんわりと微笑んでくれた時だ。

 あの時──達也は『俺、疲れているのかな?』と思うぐらいに……。自分の信念へと鞭を打つように鍛え上げてきた乾いた心が、どこか癒しの水を吸い込んだように、ふっと柔らかくなったあの瞬間。

 それに似ている……。

 達也はふと腕に頬を預けている泉美を見下ろした。
 彼女は息遣いは荒かったが、すやすやと眠っているようにも見えた。

「──もしかして、泉美さん。昨夜、ずっと起きていたとか?」
「──」
「そうなんだろっ! 馬鹿だな……!」

 泉美は何も言わず、寝たふりか息苦しくて答えられないふりをしているのだろうが、それで余計に達也は確信した。
 それで……今日は、こんなに疲れているのかと!
 益々、彼女を抱き寄せる腕に……自然と力が入ってしまった。
 そして堪らなくなった達也は、泉美の耳元に向け、切れ切れの声でやっと呟いた。

「……何故!」

 さらに『何故なんだ……!』と繰り返すと、泉美がうっすらと目を開けた。
 その瞳は潤んでた。……涙だった。

「……アシスタントだからよ」
「たったそれだけで……!? これは俺個人の……」
「助けたかったの。だから、アシスタント……したの。海野達也の……。それだけよ」

 達也は首を振った。
 たったそれだけのことで、ここまでしてくれるはずはないと──。
 ましてや、葉月と事情について既に話し合っているならば、達也が昔の恋人であった葉月にすらも何をしたか聞いていてもおかしくない。
 それを聞いても──こうしてくれたのかと……!

 すると泉美が涙を流しながら、達也に微笑みかけてきた。
 その頬に急に赤みがさしたように、とても艶々と輝いて……。

「……愛しているわ、海野君」
「!」
「海野君は、全然、知らなかったと思うけれど。昔、新入隊してきた頃から、私、ずっと見ていた」
「い、泉美さん……?」

 それは……可能性がないとも言えなかった。
 自惚れになるかも知れないが、実際に、達也は小笠原にいた間も幾人もの女性に言い寄られたし、好意を抱かせた事を知っている。
 だけれど、『葉月だけ』という態度で全て、はね除けてきた。
 大胆に自信たっぷりに近づいてくる粋なお姉さんも、恥ずかしげにでも思い詰めた様子でやっと告白してくれた純情そうな女の子も──。
 その度に葉月が恨まれるので、そこを上手く回避するのに苦労したし、その『術』とやらを身につけた期間と言っても良かっただろう。ある意味、『お勉強になった』時期だ。
 それは三十代を目の前にして小笠原に帰ってきても同じだった。どうせ、お目当ての大佐嬢には決まった相手がいるのだ──という隙をついて、今度は忍び足で女性が近づいてきた。時には食事ぐらいはしたが、それも彼女たちが気の済む程度に相手しただけ。
 マリアと離婚した以上──。葉月が振り向いてくれないから、振り向いてくれるまでの間は適当に遊べる女と過ごしてみる。なんてことは絶対にしたくなかった。お互いの前途のために、気持ちよく別れてくれたマリアの為にも、達也は『これから一生は、何があっても葉月だけだ』と……決めたのだ。
 勿論──何のためとか、誰のためとかではない。素直に、真っ直ぐに自分の正直な気持ちなのだ。

 側で見ていた泉美が……。何年も四中隊にいた泉美がそれを知らぬはずない!
 なのに……! 彼女が『愛している』と言った!!
 どれだけの覚悟なんだと、達也にもそれは痛切に伝わってきた。

 硬直してしまったけれど、彼女のその熱くて真っ直ぐに見つめてくれる眼差しから、視線を外すことが出来なかった。
 そのまま見つめ合い、今度は泉美が肩を抱いている達也の指先に、そっと触れてきた。

「……それだけの事よ。私だけじゃない。葉月ちゃんも、貴方のこと愛している。『私達』──貴方に幸せになってほしいお手伝いをしようって、話したのよ」
「……葉月が?」
「そうよ。彼女をまっすぐに見つめているそんな一途な海野君も好き。羨ましいばかりだったけれど、そんなふうに愛されてみたいと、ずっと憧れていた。でも……もう、憧れじゃないの。そんな羨ましいなんて、待つばかりの気持ちなんて、もうないの」

 泉美の瞳に、急に生気が宿り、輝きながら達也を見つめ……。達也が抱いている腕をふりほどいて、起きあがった。

「もう一度言うわ……」

 もう……苦しそうな泉美じゃなかった。
 彼女の頬は薔薇色に染まり、そして唇はとても艶っぽく照り輝き、そして瞳は煌めくばかりに潤んでいる。
 その泉美が両手いっぱいに、達也に抱きついてきた。──いや、抱きしめられているというような……柔らかに『抱擁』されていると感じた。
 そんな柔らかさが他で感じたことはない極上の物と知って達也はすっかり虜になりかけるが、泉美の愛の告白はそれだけ済まなかった。

『っい、いず・・・』
『好きよ……愛している』

 ……唇を塞がれていた。

 でも、一瞬だ。
 場所が場所だったし、第三者の運転手だっているではないか……?
 でも、だから一瞬と言うわけでもないようで、泉美にしてみれば、そんなことはもう見えていない様子で自然な気持ちのままの口づけがそれだったよう……。
 そのまま達也を熱っぽく見つめている……。それに達也も少しは気にしたが、もう、彼女しか見えてなかった。
 そんな泉美が、達也の手を再び握った。

「私たちがいるわ。海野君……頑張って。伝えたいこと、伝えて……。きっと通じるわ」
「……」
「……きっ・・と」

 そこで、泉美が力尽きたように、また……身体をくったりとしならせた。
 それを達也は慌てて受け止める。
 だが、それと同時にタクシーも停まった。

 運転手が呆れた顔で、後部座席に振り返る。
 その男性と目があって、達也は流石に頬を染め、体中の体温が上がってしまった。
 だが、その男性が真剣な顔でひとこと。

「兄ちゃん、その姉ちゃんにそんだけ言わせておいて、やっぱ駄目だわ。なんて、わしが許さへんよ。はよう、行っといでや」

 やや方言混じりの男性が、まるで父親のような顔で言い放った。
 だが、だからとて泉美を置いていくわけにはいかない……が。

「運転手さん、有り難う。ご迷惑おかけしました」

 急に泉美がしゃきんと起きあがったのだ。
 運転手の驚いた顔。

「あんた、無理せんと。ここで休んでもかまんので。おじさんが許しちゃるから」

 だが、泉美はそれが聞こえていないように、達也の身体を開いたドアへと押し出す。

「何しているの! 早く行きなさいよ!! 見て、引っ越し業者のトラックが停まっているじゃない!!」
「!」

 泉美が言った通りだ。
 古くはないが、良くある小綺麗なアパートの前に、引っ越し業者の小型トラックが停まっていた。

(くそ……! やっぱり、すぐさま消える覚悟だったのか!!)

 それを悟った達也は、泉美とそして初めてあった店長、そして遠い海の向こうで泉美と結託してくれた葉月……ついでに、目の前のタクシーのおじさん。それぞれの人々への感謝の念がすぐさま湧いた。
 もう少しで、またもや手遅れになるところだった……と!

 彼女たち……いや、特に泉美の強い想いに包まれるように、達也はなにも考えずにタクシーの座席から飛び出していた!!

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「……い、いかなくちゃ」
「無理や、姉ちゃん。あんた、どこか弱いのやろう!? おじさんを信じて、そのまま横になっときなさいや」

 人なつこいのは商売柄なのか?
 本当に父親のように、心配そうにくしゃくしゃにした顔が……離れて暮らしている父親を泉美に思い出させた。
 お礼のつもりで、泉美は彼に微笑み返す。ホッとしてくれたおじさんの顔。

 それでも、泉美は外に出た。

「姉ちゃん! やめとき……!」

 運転手のおじさんの声は聞こえてきたけど、振り払う。
 だって……やっぱり心配だ。
 ……見届けたい。ここまで勇気を出して自分の思いを全てぶつけたのだから、見届けたい!
 誰のためでもない。自分のために。
 また彼が母親に拒否されても、彼が打ちひしがれて帰ってきても。それでも彼の思いを、お母さんには知ってもらいたい……。
 それは、達也の為でもあって、既に『私のため』なのだ。

 そのアパートの階段を泉美も上がる。
 達也が二階まで駆け上がって角を曲がったのが見えたから、きっと二階……。

 その角を曲がると、二階の部屋のドアが並んでいる。
 その中央のドアが開いていて、引っ越し業者の従業員が数名、困った顔でたむろしている。

『……八重さん! 逃げるのかい! 息子さんがこうして会いに来てくれたんだよ!! 待っていたのではないのかい!?』

 あの店長さんの声が聞こえた。

『うるさいわね! いつ誰が待っているだなんて言ったんだよ! 余計な事をしてくれたね!! 見損なったよ!』

 やっぱり……!
 一筋縄ではいかないか。葉月から聞いた『昔話』ひとつで、どれだけ根が深いことか予想がついただけに……。
 それに女性にしてはなんて迫力ある声。とても強そうな人だ。
 流石、達也の母親だと言いたいところだが、あれではもしかすると、小さな息子の心のままを置き去りにしてしまっていただろう達也には、とてもじゃないが敵わないかもしれない……! 子供が母親にあんなに怒鳴られたら、きっと、怯える。それと同じ事が起きている気がした……。だから、泉美は気が競って、今度は通路を駆けようとしたその時──!

『……うっ!』

 来た……!
 泉美は胸を押さえ、そこにうずくまった。
 ……大丈夫、これぐらいなら。
 落ち着いて、落ち着いて……。いつもそうしているように呪文を唱えるようにして、泉美は革ひもに繋いでいたピルケースをたぐり寄せる。

 ……昔、別れた恋人が『切れないように』と付けてくれた革ひもだった。
 別に未練があったわけでもないし、別れても半年すれば元の生活に戻ったように忘れられた短かった恋。
 ただ、やっぱり……使い勝手が良くてそのままにしていたのだが……。

 その革ひもが、何故か今日に限って、なかなかたぐり寄せられなかった。
 どうしてか泉美の手がものすごくもたつき、ピルケースを手にしても滑って落ちていってしまうのだ。ついには癇癪を起こしたいようなじれったさに耐えられないかのように、引っ張りあげ引き寄せようとした拍子に……。『ぷつ』と言う音と共に泉美の視界から消えてしまった!!

 革ひもが切れて、通路のコンクリの上を滑っていってしまったのだ!

『…く、ううっ』

 苦しくて、血管が引きちぎれそう!
 慌てた泉美を嘲笑うように、いつになく大きく胸を締め付ける鼓動がドクリと聞こえた気がした……!

(はあ……っ)

 ついに、横に倒れ込んでしまった。

「姉ちゃん……! 言わんこっちゃない!」
(おじさん……!)

 目に映ったのはタクシーの運転手のおじさん。
 だけど彼は『どうすればいい、どうすればいい』と狼狽えているだけだ。
 しかしやっと、目の前にいた引っ越し業者に叫んで助けを求めてくれたようだ。

 それでも……! 薬には誰も気がつかない、気がつかない……!

『でも……。もう、いいわね。やるだけ、やったかもしれないわ』

 告白した。
 憧れの男の子と、キスをした。
 彼はまったく感じなかったかも知れないけれど、あの時、泉美には甘やかな痺れが走った。
 一瞬でも、最高の瞬間だった。
 それになによりも、彼の腕の中で安らげた。

 彼には……愛する彼女がいる。
 きっとこれからも、彼は一途に真っ直ぐに、彼女のために生きていくだろう。
 そして彼がそうしているように、私は……彼のように彼だけを見守っていけるのだろうか?

(……それは、ちょっと)

 涙が浮かんだ。
 頑張れたけれど、それを持続していく自信はなかった。
 ただでさえ、ハンディ有る身体とのつきあいで精一杯に生きてきた女。
 もし、彼に思いが通じても……重荷になるだけだ。

 泉美は、力を抜こうとした。
 そうすれば、楽になれるのだと……。

『泉美さん! 口を開けてくれ!!』
「……?」
『ちょっと! しっかりしなさい!! 達也、ちゃんとなさいよ!!』
『だけど……。開けてくれないんだ!!』
『どうして、巻き添えにして、無茶をさせたんだよっ。この馬鹿息子!』

 強いけれど、でも妙に柔らかい皮膚が泉美に触れている感触。
 女性に頬を叩かれているようだけど、痛みはなかった。

(違うんです、お母さん……。海野君が無茶させたんじゃなくて、私が勝手に)

 言えるはずもなく……。
 だから、力無く、なんとなく……口を開けたら、いつもの感触と味がしたから、そのまま口を動かした。

 やがて、泉美を縛り付けていたものが、緩まっていく感触がした。
 息も深く吸えるし、血が流れ出したのも分かる。
 いつもの『助かった感触』だった。

 目の前に幾人かの人間の顔が、泉美を見下ろしていた。
 だけど一番、近かった人の顔は──。

 そっくりな『母子』が、必死になって泉美を呼び戻している顔だった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 なんて暑いんだ。冷房を切られたか。
 シーツに汗の匂いが染みこんでいくのが分かった。
 素肌にもじんわりと滲む汗。

「……暑いっ」

 もう我慢できないと、右京はシーツをはいで、起きあがった。
 が、すぐにだらりんと、呆けた顔に。
 側にあった置き時計を眺めると、もうすぐ昼だった。
 まったく崩れてしまった栗毛の頭を、もっとくしゃくしゃとかいて乱した。

 髪型が崩れていたって、すでにこの格好自体が『乱れている』。
 裸でシーツにくるまって、汗ばんだまま、昼まで寝ていたのだ。
 しかも──『女の部屋』で。

「あーあ。本当につれなかったなあ」

 少しばかりヒゲが伸びてしまっている顎を右京はさすった。
 こんなこと、右京にはあり得なかった。
 女と、たとえ一晩だけ過ごしたとしても、『素敵な朝』の演出は忘れない。
 ヒゲは多少生えてしまっていても、朝の目覚めの一杯は『男の仕事』だと思っているぐらいだ。
 そして、ちゃんとシャワーを浴びて、爽やかに彼女の目覚めを待ってあげるのだ。
 勿論、おはようのキスが始まりだ。そして、それは昨夜の蜜愛のお礼であって仕上げでもあるのだ。
 それが、今朝は──まったく、起きる気も湧かなかった。
 この味気ない部屋のせいだろうか?

『少佐。私は仕事に行きますので、ごゆっくり』
『うん。気を付けて』

 ほんと、つれない。
 結局──昨夜、あんなに愛し合えたのに、初めての朝の感想がそれかい? と言いたくなる。
 のだが……右京も、あっさりしてしまっていた。自然になってしまっていたのだ。シーツにくるまったまま、いや? 寝ぼけたまま? 彼女のその声に返事しただけだった。
 つまり……眠くて仕方がなかった。ともいえるが、この部屋の雰囲気が『そこまでしてなんの意味があるんだ?』と、急にそんな気になって、朝方二度寝した。
 それにあの先生の事だ。右京がそこまで演出したとて『なにしているの、こんな朝早くから。コーヒー? いらないわ。まだ、眠いから』なんて、素っ気ない顔であっさりと言い除けて、それだけで終わってしまいそうで。それでいて女性としての感動なんて見せてくれそうもなかったからだ。

 以上に──。

(寝顔がこれまた、可愛いんだよなあ……)

 昨夜、想像以上に乱れまくってくれた『女性』と同じとは思えないほどに、愛らしい人形のような顔をしていたのだ。
 起こす方が、罪のような気がした。
 だから、彼女の顔を眺めながら……そのまま右京も満足げに眠ってしまったようだ。

 昨夜、案外、身体を預けてくれた彼女の様子に、また胸が熱くなる気がした。
 やはり大人の女性と抱き合ったという感触だった。
 恥じらうばかりで、男任せ、遠慮ばかりの慣れていない女性というわけでもなく、その気になった彼女は……。

「どうしたんだ〜。俺ー」

 恋はしないと決めていたのではないのか?
 我が御法度を破ってしまった。
 そして──従妹の掛かり付けの医師であり、その従妹に関する心配事で協力し合うだけの仲になるはずだったのに。
 ……もし、この関係が方々に知れたらどうなるだろうか? ロイが知ったら? 葉月が知ったら?
 ……いろいろ考えた。様々な『ちょとまずいかもな』が浮かび上がったが、右京は焦ったりはしなかった。
 だが、一つだけ。焦ったかも知れない。

「……俺がね。後先考えずに突っ走っちゃうとはね」

 だが、右京は微笑んでいた。
 小さなシングルのベッドは、窓際に寄せられていた。
 そこから暑い残暑の日差しが降り注いできていたのだ。
 昨夜は、この小さくて狭いベッドで分かち合い、そして……何故か、ずっと前からそうだったかのように、肌を寄せ合って眠ったのだ。

 なにもかも分かり切った大人の睦み合いだったのに、その安心感はなんだったのだろう? と、右京は今になって振り返る。
 だが、何もかも分かり切った大人とも言えない、甘酸っぱい思いが少なくとも右京を狂わせようとしている。

 そして、右京は心躍る清々しい気持ちでシーツをはいで、素肌のまま立ち上がった。
 いったんそこで満足の伸びをした。

 ここはジャンヌの借家。
 アメリカキャンプ内にある小さな一戸建ての官舎だ。
 部屋は日本官舎団地と同じぐらいの大きさで、それが平屋になって並んでいる内の一つと言った具合だ。
 だが、ここだけアメリカみたいな雰囲気は、さすがにキャンプ内と言うのだろうか?

 口説くなんていう手順はいらなかった。
 だが、右京としては彼女を簡単に落としたとも思っていない。
 彼女の思惑はまだよく分からないが、それでも分かる。『悪くは思われていない』と……。
 それに彼女もあっさりしていた。
 『冷凍ピザを食べる』という名目で、家に連れてきてくれたが、そのままシャワーも浴びずに右京の誘いにすぐさま応じたぐらいで。

『私も、回りくどいことは嫌よ』

 途端に艶めいた目で、まるで右京を射抜くように輝かせた眼差しを思い出しても……。
 それなりに『抱かれても良い』と思ってくれたのだろう。
 それに彼女は抵抗はしなかった。右京がリードするままに身を預けてくれ、そして彼女も右京が熱を込めた分のお返しもしてくれるという。
 なんとも『するする』と喉越しがよい。と、たとえたくなるぐらいに、スムーズな睦み合い。スムーズでも蜜愛と言っても良いぐらいの熱さは感じられた。

 ──けど。右京は安心はしていない。
 今までの自分が自分だっただけに。
 そして……彼女も。
 身体で始まるのは簡単な『二人』であるのは、きっとお互いにこれで分かってしまっただろう。
 これからなのだ……。
 右京は呟く『所詮、身体なんて』と……。
 なのに、その繋がりを捨てきれない、どこかで『愛の繋がりには不可欠なもの』と握りしめたままの『俺達』が、今までおざなりにしてきた『身体以上の気持ち』をこれから、探していくということになるのだろう。

 だけれど──彼女はどうなのだろう?

(……もしかしたら。これっきりと思っているだろうな)

 一度きりの睦み合い。
 それに慣れた男と、昔の罪を背負ったまま、たまたまその気になったかも知れない女。こういう男である右京が、あんな言い慣れた言葉を並べて言い寄っただけのこと。一度寝ておけば、二度と煩わしい駆け引きをしなくて済むようになる。……ぐらいやりそうな女性だ。

 そう思うと、流石の右京も苦笑いが浮かんできた。

 きっと、『素敵な一夜』とか『男性と甘い一夜』とか『一度きりの良い思い出』とか。そういう思いを抱いている様子はなかったように思えた。むしろ……『一度、寝ておけば』とあっさりと割り切ってしまえそうな彼女の方が実に『イメージ』通りだ。

「──それでも、いいけどな」

 とりあえず、今は……。
 右京はそう呟きながら、昨夜放ったシャツだけをとりあえず羽織った。

『なんでも、勝手にしてちょうだい』

 出かける彼女はそうも言っていた。
 部屋を見渡しても、女性らしい片鱗はない。
 キッチンを拝借しても、本当に冷凍ピザしかなかったし、飲み物は牛乳とインスタントコーヒーだけだった。
 とりあえず、コーヒーを一杯入れたが……。右京としては『俺じゃないな』と思えるスタイルだった。
 リビングに戻って部屋全体を見渡しても、官舎の備え付けの家具と電化製品だけで、仮住まいのように味気ない。
 彼女らしいが……。右京はそれを見て哀しくなってくる。

 昨夜の素肌の彼女は味気なくなんかなかった。
 あれは一度は愛に燃えたことがある女の姿だったと感じたからだ。

 燃えに燃えて、燃え尽きてしまったのだろう。
 それを垣間見せてくれたのは……もしかすると、右京も脈有りなのか。

「……ふう。なんだ、居心地良いな」

 小さな古びたテーブルに右京は腰をかけたままぼんやりしてしまっていた。
 あり得ない、あり得なかった。こんな味気ない空間でくつろげるだなんて?

 休暇は明日までだ。明日の朝、一便で横須賀に帰る予定。
 だけど、決めてしまった。今日のスケジュール。
 この部屋で彼女が帰ってくるまで待っていようと。

 そろそろ昔なじみの男達にも、小笠原入りしていることがばれる頃だ。
 さて……従妹にはどこに泊まったと言えばいいだろうか?
 あれこれと考えてみた。

 そのうちに笑えてきた。

「なんで俺が、オチビに言う『外泊』の言い訳を考えているんだ?」

 これでは、まるで少年だ! 女の子と示し合わせて親の裏をかく理由を一生懸命に探っている少年みたいな気持ちだった。
 右京は可笑しくて堪らなくなって、この味気ない女性の部屋で一人……膝を叩いて大笑いをしていたのだ。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 もう、本当に先ほどのタクシー運転手の男性には、感謝をせねばならない。
 達也は今、母・八重子と一緒に近所の総合病院に来ていた。
 あのタクシー運転手が乗せていってくれたのだ。

「あの、これ僕の名刺です。良かったら連絡先を教えてください」

 去ろうとしているそのおじさんに、達也は深々と頭を下げて名刺を差し出した。
 だがおじさんは『なに、たまたま居合わせただけで、やることやっただけ』と、遠慮して去っていこうとしているのを必死で引き留め──なんとか、名刺をゲットした。
 後日、お礼をしたかったからだ。

「大事にしておあげや」
「はい」
「おいさんは、ええ娘さんやと思うたで?」
「はい」

 照れも迷いもなく『そうだ』と返事をはっきりとした達也の真剣顔を見て、おじさんはホッとしたようにタクシーに乗って去っていった。

「達也。先生が呼んでいるよ」
「……」

 なんだろう。先ほど達也が姿を現したときは、異常なまでの怒りを見せ引き留めていた店長に食ってかかり、今にも暴れるのではないか? というぐらい激しい拒否反応を示していた彼女が、そんなことなかったかのように、自然に達也を息子として呼んでいる。

 だが、まだお互いに目を合わせていない。
 だけれど、アクシデントではあったが、泉美に駆け寄って一緒に介抱したときには、妙な繋がりを実感できた。

『馬鹿息子!』

 ああ、そうだった。ああいう怒鳴り声を出す母親だったなーと、達也は遠い記憶を蘇らせていた。
 幼い頃はその一言、一言に傷ついて兄にかばってもらい慰められてきた苦い想い出だが、なんだか今日は『じん』としている自分がいる。おかしな事だ。

 達也を呼ぶだけ呼んで、さっさと診察室の前に行く母親の後を達也も急ぐ。
 待合室までくると、そこには既に泉美が立っていた。

「泉美さん……! だ、大丈夫なのかよ?」
「……だから、言ったでしょう? 病院なんて大袈裟だって。私たちのような身体を持っている者は、こういうことは当たり前で、日常なの。入院するなんてよっぽどなのよ。勿論、定期検診は受けているから、先生も安静にしていればいつもどおりだと言ってくれたわよ」

 確かに──。彼女の顔色は良くなっていた。今朝の儚そうな様子はもうどこにもうかがえない。

「でもね。お嬢さん、今日は帰って休んだ方がいいよ」

 八重子のきっぱりした言い分に、泉美が微笑む。

「お母様、ご迷惑……おかけして」
「いいや。迷惑をかけたのは『私たち二人』だね。悪かったね。馬鹿息子が巻き添えにしたみたいで」

 なんだと? このやろう? と。達也は密かに前に立っている母を睨みつけた。

「いいえ……。私が勝手にしたんです、お母さん……。私、彼のことが好きなんです。だから、海野君に幸せになってほしかったから。お母さん……海野君の話を聞いてくれませんか?」
「──!」

 泉美の包み隠すことない真っ直ぐな達也への愛を感じたのだろうか?
 何故か、八重子が赤くなって……しかも後ろに立っている達也を何度も見上げてきた。
 達也もだ。タクシーでのキスまで頂いてしまった『大胆告白』だけじゃなく、ここでも平気で言ってのけてくれる泉美のさらなる率直な愛に、顔から火が出るぐらいに照れてしまったではないか。

「お願いです。私、このままホテルに帰りますから。お二人でごゆっくり……」

 泉美が楚々と一礼をして、去ろうとしていた。
 母子は揃って『え』と、すたすたと歩き去る泉美を見送ってしまった。

 そこで初めて──。母と顔を見合わせた。
 目が合う。短い白髪交じりの黒髪、そして切れ長の目。
 俺にそっくりだ? 達也がそう思っている間に、目の前の母の顔がまた強面に変化した。

「なにやっているんだよ! あんた、ここまでしてもらって、あのか弱いお嬢さんを一人で返すのかい!?」
「え、え?」
「ったく! まどろっこしいね! そんな無責任な男が私の息子だなんて、がっかりだよ」
「簡単に『息子』って呼ぶな!」
「あーあ。そうだった。私には息子なんていなかったけねえ。そうだ、もし私の息子だったなら、確かに無責任な血筋なわけだ? そうとも言えそうだわねえ」

 けろっと開き直られて、達也の頭に血がぐわっと上りそうになったが。
 ……堪えられた。今、達也の目の前にはその『か弱いけど、芯有る女性』が……母親よりちらついて離れない。

 そして、泉美がやってくれた事は無にしたくなかった。

「──おふくろ」
「!」

 母さんではなくて、おふくろと言ったせいか? 八重子がとても驚いた顔で達也を見上げた。

「ひとつだけ。教えてくれ……。何故、横須賀にいたんだ。正直に教えてくれ……!」
「別に。昔、馴染みがあった土地だったからだよ。若い時に地元の山梨を出てきて働いていたこともあったしね」
「……!」

 ツンと顔を逸らされてしまい、母はきっぱりと達也の期待を裏切ることを言い除けてくれた。
 ……達也は拳を握った。期待していた通りに言って欲しいという、もどかしさがある。
 だが、泉美が言ってくれた言葉を思い出す。──『伝えたいこと、伝えて……。きっと通じるわ』── そんな彼女の芯があってでも柔らかい声がこだました。

 達也は急いで胸ポケットから名刺を出して、そこにペンで電話番号をいくつか記した。

「いいよ。母さんが何処に行ってしまっても、何処でも行きたいところにこれからも行ったらいいさ。今に始まったことじゃないもんな。でも、俺、ここにいる。待っているから」
「──た、つ……?」
「待っている。会えて良かった……。今日は彼女が優先。俺は、また、来るよ。母さんが消えてしまっても、また、この横須賀に会いに来る……」
「達也……」

 達也はそれを、有無を言わさずに母に握らせる。
 彼女の細い指先が戸惑いを見せ、力無かったが、ぎゅっと握らせた。

 やっと達也を見上げて、達也の顔を直視してくれる母の顔がそこにあった。
 先ほどまでのツッパった彼女でなく、それは遠い記憶にも残っている懐かしい母親の顔だ。
 そして、とても情けない顔をしていた。

「……分かったよ。早く、行っておいで」
「ああ。じゃあ、またな」
「……」

 八重子は返事をしてくれなかった。
 でも達也自身は、言いたいことは言ったから、達也はそこを後にして泉美を追う……。
 名刺を眺めているのか、泣いているのか? 途端に力無く俯いている母親を、達也は名残惜しく振り返る。
 もう一度、歩き出そうとした時だった。

「あの最新基地とかいう小笠原の中佐か。だいぶ立派になったんだね。頑張ったね、達也」
「……おふくろ?」

 涙を流している彼女が、達也を見ていた。

「ごめんね、達也。悪かったと思っているよ。──ここに、残るよ。だけどね、暫く時間をくれないか」
「いいよ、いつだって。待っている」
「──これ、有り難う。とても嬉しかった。……うれし……」

 名刺を掲げ嬉しそうに微笑んでいた母。しかし、とうとうあの強面の母が泣き崩れてしまった。
 達也も驚いて、駆け寄ろうとした時だった。

「来るんじゃないよ! 馬鹿息子……! やること、残っているだろ!」
「──!」

 途端に彼女は立ち上がり、また、達也を叱責する。
 だけど、今度は達也は微笑んでいた。──そうだ、それが『母さんらしい』と。

「待っているぜ。おふくろ」

 そのまま走り出した……!
 肩越しにはもう、一人でしゃんと立って勇ましい笑顔で見送ってくれている母親がいた。

 ……走っている内に、今更ながら、涙が溢れてきた。
 嬉しいのか、安心したのか、よく分からない。
 だけれども、涙で前が滲んでしまっても、今は、彼女を捕まえなくてはならない。

 病院一階、正面玄関のロビーに出てきて、やっと後ろ姿を見つけた!
 平日で沢山の人々が行き交うロビーでは、彼女のような『ありきたりな女性』は溶け込んでしまいそうなのだが、今の達也には一目で分かった。

 走って……彼女の背をめがける。
 そして、彼女を呼んだ。

「泉美さん……!」

 彼女が肩越しに振り返る。
 達也が追いかけてきて、驚いている顔。
 でも──『また、駄目だったのか』と思ったのか、とても案じた顔。

「海野君、どうしたの!? お母さんとちゃんとお話ししたの?」

 なんて、お姉さんぶった口調なんだ。
 今になってちょっと悔しくなってきた。

 だが、達也はそのまま泉美を抱きしめていた。
 彼女の身体が驚きで強張ったのが分かったが、そのまま構わずに抱きしめていた。

「有り難う。有り難う……!」

 そうとしか言えなかった。
 暫くして彼女の身体が、既に達也が良く知ってしまっている柔らかさに、ふんわりふわふわと戻っていく……。
 そして、彼女は何も言わずに、柔らかに達也を包み込むように抱き返してくれていた。
 抱きしめているのは達也のはずなのに、その小さな彼女に大きく抱かれているようだった。

 

 こんなに柔らかに抱かれたのは、初めてだったかもしれない。

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