意外だった──。
同期生に渡された住所は、基地を出てタクシーに乗ってもほんの二十分ぐらいの場所だった。
鉄道の沿線、マンションや一軒家が並ぶ住宅地。
駅の周辺はとても賑やかで、いろいろな店舗もそこを中心に並んでいた。
その中の一店──よくある地域に密着している様子の中型のスーパーマーケット。
達也は今、その店の前にいた。
赤い看板を見上げていた。
同期生の八代から『ここで働いている』と聞かされた。
横須賀にいると判ったから、すぐに調べはついたらしい。調べた過程は詳しくは話してくれなかったし、達也も聞かなかった。
そこは元秘書官と秘書官候補生同士。つまり──『企業秘密』というわけだ。それが判るから、結果だけをもらい受けた。
八代の話によれば、母『八重子』は、達也の予想に反して『今は独身』なのだそうだ。
しかも……随分前に。らしい。
それも……彼女が達也と兄を捨てて出ていった若き頃に。カリフォルニアのその住所に長いこと住んでいたらしいのだが、近所の人間の話によると、男性と暮らしていたような気配は、二年程だったという。
たった一人になった日本人の姿は目立っていたらしく……。いや、日本人だからじゃないだろう。と八代が言った。
『近所の人の話では。東洋的な美人だったから覚えていると言っていた。長い黒髪とエキゾチックな顔立ちが印象的な黒髪美人だって……』
そうだ。母は美しい人だった。
そして達也の幼い記憶では『気性激しく、燃える人』で……なのに『脆かった』という記憶がある。
あの頃、働くことには頑固で真面目すぎる寡黙な父親は、山梨のワインのためだと仕事に没頭していた。
慣れない異国。そして環境。そして幼い子供。相手にしてくれず仕事に没頭する夫。美しい人妻。弱まっていく心。側にいる若い男。──そんな条件が揃ったのだ。
今の達也なら傍観するなら『そうだな、ありそうな話だ』と思えるが……。実際に我が事となるとどれだけの気持ちになることか。だから、他人事の話は『ありそう』で流せても、母の事は許せない。
俺はまだ良かったかも知れない。もっと酷く心に刻みつけたのは兄であろうと、弟である達也は思う。
俺は小さかった。だけど五つ年上の兄貴は、もうあらゆることを敏感に感じ取る少年になっていたから……。
気性が激しい母は、結構、子供達にも分かるくらいの苛つきを見せていた。
達也も記憶の底に刻んでいる。あまり思い出さないようにする。
勿論、怖くて不安になった。怯えていた。
そして苛ついた母が鋭い視線で、何事にも手を煩わす幼い達也を見下ろす眼差しも……覚えている。
『達也はまだ小さいんだぞ!』
『うるさいわね! 口答えするなら、出ていけ!!』
かばってくれた兄。
兄ばかりを叱りつける母。
そんな二人が一番記憶に残っている。
達也よりも穏やかな性格で、父親譲りに寡黙にワイナリー家業を手伝っている真面目で大人しい兄。だがそんな兄でも『お母さん』と言えば、人が変わってしまう程に、今度は兄に達也が怒られるという記憶もあるぐらい。──兄が一番、母を恨んでいる。
父親? あの父親はただ黙っていただけだった。妻に裏切られ、捨てられ、しかも一緒に働いていた仲間でもあった若い男に奪われたとて──。狂ったこともなく、泣き叫んだこともなく、子供に当たることもなく。黙々と時を刻んでいたような気がする。
ただ──母親が出ていった後、父は兄弟の面倒をちゃんと第一にしてくれた。それが救いだった。
『お前達、頑張ってくれた。本当に、すまなかったな』
一度だけ、父がそう言った。
それは──父が日本に帰国すると決めた時。達也が八歳の時だった。
山梨に帰っても、父はちゃんと子育てをしてくれた。
だから、いつのまにか達也の中では不安はなくなり……。口に出しては『大変なこと』になりそうな家庭内では、母のことは誰も言わなくなり、達也も言わないようにしていくうちに『なんとか忘れられた』のだ。
十五歳になって、高校に行く道を選ばずに軍人になるべく家を出た。
なによりもその頃、あの兄がなんと二十歳という若さで地元の女性と結婚したのだ。結婚してすぐに、義姉は妊娠した。
兄曰く『早く普通で賑やかな家庭をもちたかったんだ』と言った。
勿論、十五歳になろうとしていた達也は、その若い女性『義姉』と一緒に暮らすことになった。
義姉は、美人というわけではなく、どちらかというとふくよかなころころとした可愛らしい感じの人。さっぱりとして明るい性格で働き者。今では海野ワイナリーの『若女将』と言ってもいいぐらいだ。
彼女が海野家にやってきて、家の中はものすごく明るくなった。女手が出来たので、家の中も華やいだし活気づいたのを覚えている。彼女が海野家に彩りを添えてくれたのだ。
なんだか達也もホッとしたし、短かったがあの賑やかな家庭に少しの間だけでもいられたことは良い思い出だ。
だけど──達也は既に決意をしていた。元々、興味があり憧れていた職業であった『国際軍人』になろうと。
家の者は誰も反対しなかった。父も送り出してくれた。──そして達也は『横須賀訓練校』に入校。寄宿生活をしながら、山梨の実家を行き来した。
そうしているうちに、母のことは霞んでいった。
あの明るい義姉がやってきて、二人の子供をあっと言う間に産んで、賑やかな家庭になった。
義姉の笑顔と声が聞こえた。
『たっちゃん。いつでも帰っておいで。待っているよ』
達也が寄宿舎に戻る時、成人してからも、実家に戻ってまた出ていくときは必ず、暖かい笑顔で送り出してくれる。
彼女のあの暖かさがあればこそ、達也は山梨を離れて方々を飛び回る仕事に没頭することが出来た。
『もうあの家は大丈夫だ』と思ったし、『いつ帰っても良い場所だ』と安心した。
だから、もう『忘れても良い』、『思い出す必要もない』、『終わったことだ』──と、益々霞んでいったのだ。
(忘れたのか……?)
達也は違うだろう? と今になって思う。
忘れていたなら、仲が良かった同期生がロスアンゼルスに行くことを知って、真っ先に母のことを思い浮かべただろうか? そして、『見てきて欲しい』なんて頼めただろうか?
『達也こそ──。会いに行った方が良いと思う! 達也は助けてくれたお兄様に、遠慮しているだけなんだわ!』
まだあどけなさを残す葉月が、今よりもっとフロリダの両親と隔たりがあり反抗的だったので、彼女を案じて『説教』をした時の事だったと思う。
むくれつつも黙って聞いていた葉月が、突然言い出した一言がそれだった。
彼女にはなんでも知って欲しくて『今までの俺』なども割と話していたから、母との事も知っていた。そして葉月は達也の事も──『理解しすぎていた』のだ。
本当は、母親を兄ほど恨んでいない事を。本当は、『俺は会いたい』と思っている心根を……彼女は見抜いていたのだ。
そんなところ、今思えば『彼女はよく分からない女だったけど、俺のことをちゃんと深く見つめてくれていた』と。
だけど──その時、達也が起こした行動は、酷いものだった。
『──二度と言うな! 俺の前で、あの女のこと、二度と言うな!!』
……彼女を本気の力で張り飛ばした。
彼女はものすごい勢いで吹っ飛んだと言った方がいい。
後にも先にも、母親のことでものすごく感情的になったのはこのときだけだ。
よく言えば、葉月だからこそだった。彼女に心を許して、彼女に分かって欲しくてしていたことが、結局、彼女に甘えていたことにもなっていたようだ。
だが、葉月は泣きもしなかったし、達也のことを責めたり、その後、避けるだなんてことはしなかった。
暫く頬は腫れていたが、彼女は『夜、走り屋と喧嘩しちゃった。勿論、やり返して私が勝った』と周りには誤魔化していた。そう、あの時の葉月と達也は『あぶなかしい若者』だった。周りの先輩達も心配しつつも、葉月のそうした『夜遊び』は呆れる暗黙の了解だった。彼女が喧嘩しつつも、いつのまにかその島の走り屋すらも束ね始めてしまったぐらい。しかし、中佐になったあたりから仕事に没頭し始めたためか、彼等とは疎遠になったようだ。
今はどうかしらないが、達也が知らぬ振りをしていると、『軍人を束ねる大佐嬢』と『島では顔が知れている地元の青年』として、なにやら情報を交換するような交流をしている気配を感じる。隼人がそれを知っているかどうかは達也も知らない。
それは余談として……。
それから葉月は、達也に殴られたことなどなかったかのように接してくれた。
逆にそんな彼女に素直になれなくて、避けてしまったのは達也の方だ。なんと言っても女性を殴るなんて以ての外。しかも、男性の暴力には一番のトラウマを持っている女性に手を挙げたのだ。
それどころか彼女から謝ってきた。──『ごめんね。言わなくてもいいことを、言っちゃって。元は私を心配してくれた話だったのにね』──と。『反省している』なんて、泣きそうな顔で言ってくれたのだ。
そのいじらしさにものすごく胸を打たれたのだ。だから、達也からも当然、謝った。『本当に悪かった。やっちゃいけないことをやった』と葉月に土下座をして謝った。
だけど、そんな達也の目の前に座り込み、葉月も土下座をして言った。『私が……素直じゃないことばかりしているから、あんなことになって。ごめんなさい』と。
(そういえば。あの後……激しかったんだよな)
一晩中──彼女と唇も肌も指先も何度も重ね合わせ、睦み合い、抱き合った。
そして──次の日の朝も。彼女が達也の隣に素肌のままで、ちゃんと寄り添ってくれていて、愛らしく微笑んでいたのを思い出した。
ふと、身体が熱くなる。
なにかいつも葉月の身体に対しては遠慮したり、気遣ったり、ちょっと怖々と触れたりしていたし、彼女も固く縮こまらせて達也に抱かれていたのに。
そんな『しがらみ』みたいなものが、なにもかも解けてしまい、本当の『素』になって抱き合った覚えがある。あの葉月がとても熱くなってくれた感激を、昨日のことのように思い出すことができるぐらいに……その時の葉月は最高だった。
彼女と抱き合った思い出の中で、鮮やかに焼き付いている幾晩かの一夜になる。なんて、ふと一人で頬を染めるような甘い思いに浸って達也はハッとする。
目の前の赤い看板をもう一度、見上げた。
「そうだ。……忘れてなんかいなかった。葉月、俺……行って来る」
達也は、そこのスーパーマーケットに──躊躇いを振り払うように入った。
・・・◇・◇・◇・・・
『いらっしゃいませ』
すれ違った店員は、皆そうして『いらっしゃいませ』と言ってくれる。
客も結構、入っている。
もうすぐ夕方だからだろうか? 主婦らしき女性の姿ばかりだ。
それほど広くはない店内を歩き始める。
壁際に巡らされている生鮮のコースを一回り。なにもそれらしき人物には会わなかったので、今度は中央に配置されている陳列棚の通路をひとつづつ覗いた。
「!」
そうしているうち台車に乗せた段ボールから、商品を一点ずつ取り出しながら、棚に並べている女性がひとり。
赤いエプロンをして、床にひざまずきながら懸命に並べていた。
達也の身体が縮こまった!
一目見ただけで判った!
顔も見えないし、声も聞いていない。
でも、分かる……!
三角巾で頭を隠してるが、それでも判る。
手つき? 仕草? それとも身体全体から感じる印象?
それは判らないけど、とにかく『母だ』と判ってしまったのだ。
そのまま通路の入り口で、達也はたたずむだけなり、でも……まだ、こちらに気がつかない『彼女』から視線を外すことは出来なかった。
そのうちに、反対側の入り口から同じエプロンをした男性が顔を覗かせた。
「八重さん、終わったらこっちお願いな」
「はい、店長。任せて」
──『ヤエさん』。そういった!
もう完全に達也はフリーズ状態に陥った。
もう確定だ。間違いなく確定だ。
俺の勘? 息子の勘? 親子特有の勘? もう、どれだっていい!
勘は当たっていて、思った通り『彼女』は、『母、八重子』だったのだ!
そうして達也がただ固まっているうちに、店長がこちらを見たのだ。
「──あ」
何故か? その男性の顔色が変わった。
両親よりかは少し若そうな、五十手前ぐらいの男性だ。
その男性が、達也を一目見て固まり、慌てるように『八重さん』の肩を叩いたのだ。
そして──ついに、その彼女がこちらを訝しそうに見たのだ!
彼女の表情がみるみるまに驚愕の色に変化し、強張っていった。
その異様な変化に、益々、達也は確信した。
(おふくろ……!)
……本当に、いた。
こんな近くにいた。
遠い異国で生き別れた母親。彼女の姿は異国の中に置き去りにしてきた。
緩やかに並ぶ丘陵の葡萄畑にそよぐ夏の風、真っ青なカリフォルニアの空、そして柔らかになびく漆黒の長い髪。
艶っぽく微笑む赤い口元。その口びるが、ちょっと悪戯っぽい笑い声を立てながら、俺の名を呼び、散歩した夏の日。
彼女はそこでしか『生息』していない。永遠に閉じこめようと『絵画』のようにすり替え、胸の奥に飾ったまま、埃をかぶったように、ぼやけ、色褪せ──。
だが、その目の前の『彼女』を見た途端に、その色褪せた『絵画』が一気に鮮やかな色合いを取り戻し、彼女の笑い声ごと動き始めた!
あの頃の美しき女性の面影は、もうない。今、そこにいる『おばさん』は、くたびれた綿パンにありきたりなポロシャツ。老けを否めない肌。
でも──目が、目が、変わっていなかった!
その目が、急激に達也を睨んだのだ。
その目も……覚えている。
達也が一番、二度と見たくなかった『怖いお母さんの目』だった。
身体がより一層、固まった。
そして達也を威嚇した彼女は、すっと立ち上がった。
「店長、あっちにいくよ」
「え……。八重さん!?」
「!」
……行ってしまった!
それにあの声。あの妙にドスが利いた声。
迷いのないきっぱりした言い方も、あの母の特徴だ。
その言い方で、さっと彼女が姿を消してしまった。
なにもできない。
どうして良いか判らない。
やっぱり彼女は俺なんかに『会いたい』なんて思いもしなかったし、こうして来ても迷惑なのだ。
そう──彼女は『俺達』を捨て、自分一人の『自由』を選んで消えたのだ!
(もう、会うこともないだろう)
ある意味、気が済んだ。……と思う。
そう心で呟きながら、なんとか崩れないように背を向けた。
そうだ、そうだった──。達也は唇を噛みしめ、拳を握った。
……馬鹿だった。会いに来るのではなかった。忘れた痛みをこんなに激しく生々しく思い出しただけになった。
苦々しい思いを噛みしめ、達也は足早にスーパーを出る。
店内のアナウンスも雑音も、なにもかも聞こえなかった。
そう……先ほどの店長とかいう男性が『待ってくれ! 待ってくれ!』と必死に追いかけてくる声すら聞こえず、達也はそのままなにもかもを捨て去るように走り去った。
・・・◇・◇・◇・・・
一冊の文庫本を閉じ、泉美は目の前のコーヒーカップを手にした。
……雨だ。ふと眺めた窓辺に水滴が滑り落ちていく。
ホテルに帰ってきても、日はまだ沈んでいないし、夜の予定もない。
ビジネスホテルの部屋は本当に泊まるだけを目的にしているからシンプルすぎて味気ない。そしてこぢんまりとしている部屋は、彼女がずっと過ごしてきた寄宿舎のワンルームより息が詰まった。だから、こうしてホテルのロビーと隣接しているレストランで、外の景色が見える席で、のんびりと読書とお茶で時間を潰している……。
と、そう過ごしている自分を振り返り、泉美はそっと頭を振った。
違う。心のどこかで妙に切ない思いが交差していた。
近辺の書店に出向いて買った近頃流行の書籍でも読めば、少しは気が紛れるかと思ったが、失敗だった。
活字を拾って何かを考える『隙』がなくなっている。これなら料理雑誌かファッション雑誌の方が気が紛れたかも知れないと、泉美はため息をつく……。
そう、泉美は自分をこのホテルに置いて、どこかへ出かけてしまった『男性』を待っているのだ。
それに……今、気がついた。
外の雨模様を眺める。
すると、『本当の気持ち』に気がついた泉美を試すかのように、その喫茶のガラス張りになっている窓の外通りを、軍服姿の男性が過ぎっていったので驚いた。
『海野君……』
達也だった。
傘もさしていないためか、足早にレストラン向こうにあるホテルの入り口へと向かっていく背中。
それにしては、なんだかとても急いでいるように見えて、泉美は立ち上がる。
『泉美さん。俺、すぐに出かけなくてはいけなくて。何かあったら携帯電話に連絡してくれ』
『そう。分かったわ。気をつけていってらっしゃい』
気のせいか? 彼の顔色がいつもと違う気がした。
とても慌てているようで、気が競っているようで……。それでいて、何事も茶化して余裕でいる天真爛漫な彼の顔からは、いつものさっぱりとしている明るさがうかがえなかった。
女性? まさか。泉美も周知のところ。彼には『葉月』しかいない。
あの横須賀の同期生と彼が二人きりで話してから、達也の様子は明らかにいつもと違っていたのだ。
どうしたのか聞けるわけもなく、上の空と言っても良いような彼と一緒に宿泊先に帰った。というよりかは、『泉美さんを送り届けた』と言ったような感じで、ロビーで一緒にチェックインした後は、部屋までいこうともせずに、そのままそこに荷物を預けて出かけてしまったのだ。
とても急いでいるように見えた。
そして──帰ってきた今も?
ふと、そんな彼の様子を気にして、泉美も部屋の外で待っていたと言っても良い。
──気になるなんて。と、自分でも『もう、駄目かも知れない』と噛みしめた。
それどころじゃない。出かけるときから様子が妙だった彼が、やっぱりいつらしからぬ様子で帰ってきた気がして、泉美は喫茶を出てロビーに急いだ。
丁度、彼はフロントでキーを受け取ったところのようだ。
泉美は追いかけようとしたのだが、足の長い彼は思わぬ早さでエレベータに乗り込んで姿を消してしまった。
(……やっぱり、おかしいわ)
──でも、泉美が気にしたとて、どうなると言うのだろう?
どうしたの? なんて聞くこと自体が、彼にとっては『鬱陶しいおせっかい』に聞こえるかも知れない。
先日──彼が自分に対して仕事とは分かっていながら親身になってくれたせいか『うっかり』気を緩めてしまった。長年思っていたことを達也に投げかけてしまい、『しまった』と思ったばかりだ。それから、達也に警戒されているのを泉美は感じていた。
だいたいにして、『私など』、昔から彼の眼中にはないのだから。
もし。彼に何かあっても、彼の周りに集まってあれこれと彼のことを案じたり、彼が案じて欲しいのは、少なくとも『泉美』じゃない。
大佐室の『彼女』だったり、同僚の男性達だったりするのだ。
分かっている。そんな事。
だけど──気になるのだ。
……今まで、気にしないように努めてきた。
彼の負担にならないように、なるべく素っ気なく。
そうでなければ、『こんな側に来てしまった以上』、押し殺してきた気持ちが露わになってしまう。
泉美はふと、溢れ出しそうな『想い』がこぼれ落ちないように自分を抱きしめてなだめていた。
「あの……! こちらに、えっとなんて言ったかな……えっと。あ! そうだ……『ウンノ』という軍人さんが泊まっていると思うんですけど」
達也が去ったばかりのフロントに、一人の男性が駆け込むように現れた。
「どちら様でいらっしゃいますか?」
ホテル従業員の警戒した声。
無理もない。その男性、赤いエプロンをしていて、息を切らしていて──どうみても『異様』な慌てようだ。
フロントの従業員にそう問われ、赤いエプロンの男性は『ええと、ええと』と何を言えばよいのか困っている様子で狼狽えていた。
そしてその男性が叫ぶようにやっと一言。
「彼の母親の知り合いです!」
(海野君のお母さん?)
彼の声は結構響いたので、泉美のところまで聞こえた。
従業員は訝しそうだったが、とりあえず……と言った感じで内線を手にしていた。
取り次いだなら、なんとかなるだろと、泉美もほっとしたが、やはり気になってそこから去れなかった。
「申し訳ありません。『そのような方は存じない』と……お客様はおっしゃっておりますが」
「……そんな。なんとか彼とお話させて頂けませんかね」
と言っても、フロント側としては宿泊客の達也が『知り合いじゃない』と言った以上、無闇に取り次げなくなったところだろう。
エプロン男性のがっかりした顔。
そして、彼はうなだれてフロントに背を向けた。
「あの」
「?」
泉美は──迷う間もなくエプロン男性に声をかけていた。
穏和そうなその男性と目が合う。
「私、海野と一緒に仕事をしている者です。今日は一緒に出張に来ていて」
「え? じゃあ、軍人さん? 出張? 彼は横須賀にいるのではないの?」
「小笠原から来ました。私は彼のアシスタントをしている事務官です」
「そ、そうなんだ!」
すると男性がハッとなにかがひらめいたような顔をした。
慌てた手つきでエプロンのポケットを探ったり、スラックスのポケットを探ったり。
「お嬢さん、メモ。もっていない?」
「え、ああ。はい」
手に持っていたハンドバッグに入っている手帳を取り出した。
それを開いて彼に渡してみると、鬼気迫ったようにそこに何かを走り書きしている。
「これ。彼に渡してくれるかな? たぶん『拒否』するとは思うけど。アシスタントさんなら、彼は親しいでしょ。なんとか渡すだけでもできないかな?」
「これは……?」
泉美がそれを眺めると、そこには住所。
「彼の母親の住所。ごめん、だいたいになっちゃうな。それに電話番号は店に帰って住所録みないと分からないよ。あの人、今時、携帯電話を持っていないんだ」
「あの」
「お嬢さん、ごめんね。それ以上はおじさんにも言えない。勝手で悪いけど、ここで外したら『二度とない』気がしてね!」
「失礼ですが……」
「あ、おじさんはね!……こういう者です」
エプロン男性が、今度はワイシャツのポケットから名刺を出して泉美に差し出してくれた。
横須賀市内にあるスーパーマーケットの店長──と判る。
「そうだ。何かあれば」
彼はそうして名刺の余白に携帯電話の番号まで記し始めた。
「ごめんね。ただのお仕事の関係なんだろうけど、手間をかけさせて」
「いいえ。海野中佐にはお世話になっていますから」
「──中佐?」
「はい。若いけれど一個中隊を束ねる大佐の側近で。とても優秀なんですよ」
「へえ!」
どうしてか、その男性。まるで自分のことのように嬉しそうな笑顔を浮かべたではないか。
「あの店長さんは……お母様の?」
「ああ。同じく『同僚』です。あ、でもおじさんの場合は『子分』と言った方がいいかな。同じく、うんとお世話になっているんだ」
泉美は『子分?』と首を傾げたが、その男性は『よろしく頼みます』と泉美に深々と頭を下げてきた。
「出来るところまでしか出来ないと思います。期待はしないでください」
「ああ、分かっているよ。ごめんなさいね、突然押し掛けてきて、無茶を言って。ただ……」
彼の表情が哀しそうに曇る。
「おそらく二十何年ぶりの再会だったと思うよ。これで終わりだなんて……哀しいじゃないか」
「! 二十年ぶり、再会?」
「あ。あのねこういってはなんだけど、あまり首を突っ込まず、でも突っ込むというのかな。確執ありそうだから」
「……そうだったのですか」
思わず『達也の事情』を知ってしまった泉美は戸惑った。
だけれど──この店長がなりふりかまわず来た気持ちは泉美にも解るような気がした。
『ここを外したら二度とない』
彼はそう言った。
きっと『再会は失敗した』のだと泉美も悟る。
『子分』の彼は、それでも余計なお世話と分かりつつ、ここまでやっているのだ。
──それだけ。彼の母親のことを案じているのだろう。
「分かりました。渡すだけ、渡してみますね。後ほど、連絡いたします」
「本当? 助かります。助かります!」
彼は泉美に何回も頭を下げて、とりあえず安心した様子でホテルを出ていった。
目の前でタクシーを捕まえて乗っていったところを見ると、仕事姿のままなりふりかまわずに達也を追ってきたというのが分かる。
それにしても──勤務中の男性があのようにして追いかけてきた程。『再会は良きものではなかった』のだろう。
先ほどは迷いもなく突っ込んでしまったが、こうなると、泉美も少し躊躇った。
それほどに『親しい』わけでもない達也。
ただでさえ、彼にはどこか避けられているのに──こんな事に首を突っ込んでしまったら、彼はとても嫌な想いをするのではないかと思った。
泉美は住所だけ書かれたメモを見た。
いいや。それでも良い。
これが『彼の最後のチャンス』なら……。
それでも良い。
泉美は覚悟を決め、そのメモを握りしめた。
あれこれと頭の中に様々なものが動き出す。
そのまますぐに達也の部屋に向かった。
・・・◇・◇・◇・・・
一応、部屋を訪ねる前に携帯電話で連絡してみたが──。
案の定、それどころではないのだろう? 泉美の名前が携帯画面に表示されているだろうに、彼は一向に出てくれなかった。
だから、躊躇わずに彼の部屋にある呼び鈴を押した。
やはり応答はない。
仕方がない……。泉美は意を決してノックをして彼を呼んでみた。
「海野君。笹川です」
こんこん……と軽く叩いていたが、なかなか、予想はしていたが反応がない。
無理もない。二十年ぶりに『息子』から会いに行った様子だったが、思うような再会が出来なかったようだから。
(明日でも、いいかしら……)
そんな時は、ひとりきりにしておいた方がいい。
泉美もひとまず、第一段階としていったん引き下がろうと諦めたときだった。
ガチャリという鍵が開く音がして、ドアが開いた。
「泉美さん? なにかあったのか?」
白いシャツ姿の彼が、髪をタオルで拭きながら出てきた。
傘も差していなかったから、髪が濡れてしまったのだろう。
だけど──そんな妙に色気ある彼の顔をつい眺めてしまい、泉美はハッとしてしまう。
「さっき帰ってきたのが見えたから」
「それだけ? 身体は大丈夫なのかな」
「……」
何かにつけては『泉美さん、身体は大丈夫なのか』と彼は聞く。
あの発作を見てしまったのが、余程のショックだったのだろうと思うけれど、今度はそこが泉美にとっては鬱陶しい。
そうして人を腫れ物を触るかのようにして扱い、『あれして大丈夫、これして大丈夫』と何事にも心配して恐れてしまう人達。泉美の精神は自由であってもいつも『相手』の方が、そこに縛られて泉美の気持ちとは『シンクロ』してくれなくなるからだ。
別れた恋人もそうだった。
労ってくれるのと、必要以上に過保護になるのは泉美にとっては意味が違う。
彼はそこに気遣いすぎて疲れていたのだろう。小笠原の第一中隊の本部員だったが、岩国に転属した途端に疎遠になった。そう……彼の方から疎遠になって、遠距離恋愛という形になると半年で破綻。最後に会った時に彼に『もう無理だ』と言われたのだ。
彼は『遠すぎて疲れた』と言ってくれたが、泉美はそうではないと思っている。常に日常でそうして気遣って『優しいあの人』は離れてやっと『精神が自由』になったのだ。
達也が『大丈夫か』と聞く度に、泉美はそのことを思い出さずにいられない。
そしてその彼と達也の気遣いが『余計なもの』に感じて仕方がない。
だが──泉美はそこで一呼吸、『達也』にそんなふうにはなって欲しくない泉美の『勝手な願い』はここでは収めておく。
『身体が大丈夫か。俺には同行者として責任がある』──そう思って、今、『それどころじゃない』のに出てきてくれたのだろう。
そこは、感謝しつつ。もっと言えば『たまには自分の身体が心配されることも役に立つのだな』なんて思ったぐらいだ。
「これ。さっきロビーで会った男性に渡されたの」
「!?」
誰とも言っていないのに、達也が過剰に反応した。
「よく分からないけど。貴方のお母様の……だいたいの住所らしいわ。もし、なにかあるなら先ほどの男性に連絡してみたらどうかしら?」
本当は『沢山知ってしまった気持ち』ではあるのだが、『よく分からない』と言っておく。
そして、先ほどのエプロン男性が渡してくれた名刺も一緒に泉美は差し出した。
「……どうして、泉美さんが」
予想した通りだった。
彼の表情が、いつもの余裕なく強張り始め、頬が引きつっていた。
「たまたまそこにいたの。その男性、とても必死に貴方に取り次いで欲しいとかフロントで騒いでいたから。私は一緒に仕事をしてる者だと……」
「その男と、話したんだ」
「ええ、そうよ。とにかく、これ……渡すように言われたから……」
すると達也の形相がみるみる間に変わった。
なんとなくこんなこともあり得るのじゃないかと思ったが、流石に目の前にすると泉美もドキリと胸が動いた。
「──余計なことを! 上司である中佐に近づく不審人物に、俺の許可もなく勝手に接触したのか!」
「……」
そこまで変貌するのか。と泉美は思った。
もしかしてと思ったが……。残念な気持ちが湧いてきた。
「そうよ。逆に言えば、上司に接触する人物を見極めなくてもいけないと思うわ。それに……それが逆に『良きこと』だったなら、チャンスを逃すことになるかもしれないじゃない!」
「なんだって……?」
泉美もいつになく、感情的に叫んでいた。
だから達也も驚いたのか、益々、構えた顔つきになってしまっていた。
「……そんな男性、知らないとフロントにも言ったはずだ」
「そうですか。では、こちらは破棄致しますよ」
「ああ、構わない」
「分かりました。失礼致しました」
泉美はツンとしてそのメモをわざと、手のひらの中にグシャリと握りつぶした。
──僅かに、達也の表情が『どうしようか』という迷いを見せた気がしたが、泉美はそのまま背を向けた。
すると──達也が一言。
「泉美さんも完璧かと思ったけれど、そういう判断不足なことをしてくれて残念だ」
「……!」
本心で言っているのか。それとも怒り任せで言っているのか。
どちらかであるだろうが、流石にムッとした。
「でしたら。こんな判断を下してミスをした私など。さっさと経理班に返せばいいでしょう。言っておくけど、私を必死に説得して、側にいるような仕事をさせようとしたのは誰だったかしら? もう、こういうことならいい加減にして。こっちも身体に負担がかからなくて、それほど頑張らなくても良くなるし、せいせいよ!」
「!」
彼が表情を固め、そのまま激しくドアを閉めてしまった。
分かっていたから『それぐらい痛くもかゆくもない』。
だいたいにして泉美は……そんな『海野達也』をずっと見てきていた。
遠い存在だったけれど、若き頃より、あのやんちゃで快活な男の子をいつも見て憧れていた。
年下だったから、若い頃はより一層……年上であることで遠慮してしまっていた。
……ううん。と泉美は弱く微笑む。年上とか自分が地味だったとかそれ以前の話がある。
そう──『海野達也』には、『御園葉月』しか見えていないと言うどうにも覆せない最強の事実があって、どんなことも、どんな女性の想いも片っ端から潰してきたのだ。
その証拠に、彼はフロリダで結婚していたのに、離婚してまで舞い戻ってきた。
戻ってきた彼は、もう……やんちゃで活発なだけの男の子ではなくなっていた。とても素敵で敏腕な男性に成長していた。
それでも、そんな彼が『何故、戻ってきたのか』という話を聞けば、久しぶりに彼を目にしてときめいた心も、いつもの如く『潰される』。
彼は離婚をして『一生を彼女に捧げる覚悟できたのだ』と言うことらしいと、皆が口々にいっていた。そしてその様子は達也の行動からもはっきりと見て取れた。
泉美の二十歳頃の淡くて甘いときめきは、まるで少女漫画の中のときめきのようにささやかで、まるでアイドルに憧れるかのような気持ちだった。
活発で、生意気でも誰からも愛されて。そして……将来有望なハンサムな『海野君』。
そんな彼が目の前でくるくると動き回っているのを眺められるだけでも、楽しい毎日があった。
それだけで良かった。たとえ、彼があの『栗毛の適わないお嬢様』に夢中でも。それは見えているようで見えていない話。
まるでブラウン管の中でだけで起こっている『ドラマ』のようにしか泉美には見えていなかった。
素敵だな──と、憧れるぐらいいいじゃないか。そんなときめきで彼を眺めているうちに、彼は……傷ついたような様子で、小笠原を去っていった。
そのうちに泉美にも恋人は出来たのだが……。先ほどの話の通りだ。
二十代の後半、そして三十代に入った今──随分と長いこと独り身でいるが、それも気が楽で良いものという境地に達し、ただ淡々と日々を過ごしている毎日は、若き二十代で『ああじゃない、こうじゃない』と様々なことを噛み砕き、ある程度社会人としても女性としても精神的にも落ち着いてきた泉美にとっては『やっと手に入れた平和』とも言えたかも知れない。前は必死に社会にしがみつくような気持ちで仕事に向かっていたが、今はその術も身につけ『やっと得たポジション』の上で、毎日それで終えたら『それだけで、良いじゃないか』と収まっていた。
気になるあの男の子は、益々、遠い人。彼の愛する彼女と共に、泉美が存在し得ない世界で一緒に精進している姿は、もう──泉美が眺めることが出来ていたドラマでもなんでもなく、『別の世界』。そして大人になった泉美は前よりもっと『諦め方』も上手くなっていたから、すぐに横に流すことも出来ていた。
なのに……。彼が突然、『俺の側に』とか『俺と頑張ろう』とか言い出したのだ。
若い頃に憧れていてそして素敵な男性になって帰ってきた彼が、遠い場所を動き回っているのではなく、毎日、すぐ隣にいた。
真剣な横顔も、彼らしい天真爛漫な憎めない笑顔も、そして……心をくすぐるような激しいまでの男性的な匂いも。泉美の直ぐ側にあって、まるで誘惑でもされるかのような錯覚に陥るほど。ただの『憧れ』が『恋』に変化し、やがては……どうにもならない熱いものが溢れ出してくる。そんな感触をふと感じ、泉美は必死に堪えていたのだ。
何度も言い聞かせた。彼は上司で愛する女性がいて、一途で譲らない精神を持っていて。ただ一緒に仕事をして彼の役に立てばいいのだと。
彼と仕事をするにあたって、躊躇っていたのは──それもひとつの理由。
仕事以上の感情を持つようになり、きっとその膨れてしまう想いに身も心も焦がれて苦しむ日々になるのではないかと──。
望みのない『恋』。彼が一心に大佐嬢を愛する姿を目の当たりにすることにもなるだろう。……実際、そうなった。
でも──それ以上に、その彼の匂いが自分の周りに満足してしまうほどに充満していく喜びの方が勝ってしまっていたから。
……泉美は自分の部屋に戻る。
ドアを閉め、そのドアに寄りかかった。
涙が──溢れ出てきた。
「あんな事、言いたいわけじゃなかったのに……」
握りしめた『大切なメモ』。
それが拭った涙で湿りそうになって、泉美は慌てて、バッグにしまう。
「……いいのよ、私はこれで。泣いている場合じゃなかったわ」
涙を拭いて、泉美はふと微笑みを取り戻す。
行動は即開始せねば、なにもかも後手になり手遅れになる。
泉美は部屋の中にある、小さなテーブルに腰をかけた。
手帳を広げ、そして、携帯電話とこの部屋の電話を手元に置く。
まるで今から『事務仕事』でもするかのように、手元を整え、姿勢も気持ちも整えた。
まず、ホテルの電話を手に取る。
連絡先は──小笠原の御園中隊本部だった。