-- A to Z;ero -- * 熱帯模様 *

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7.懐かしき彼と

 ヴァイオリンを持ってきたのも初めて。
 だけれど──この集合住宅地の団地では弾く事は出来ない。
 それでも葉月はヴァイオリンケースを手元に引き寄せて、開けてみる。
 そして輝くヴァイオリンを手にして、明かりにあててみる。

 変わらずに輝くばかりの美しい曲線を醸し出すヴァイオリン。

「それは、どのヴァイオリンなんだ?」
「……」

 葉月は直ぐには答えられなかった。
 隼人が知っている葉月が所持しているヴァイオリンは『三つ』。
 ひとつは、音楽を避けていた葉月がまたそれとなく触れるようになった時に、従兄の右京が大事にしていた『祖母からの贈り物』であったヴァイオリンを譲ってくれた物。
 もう一つは──隼人がヴァイオリンを弾く葉月を初めて見た時に、葉月がフランスまで持っていった物。
 そして……もう一つは。

 けれど、葉月はやっと答える。

「これは──隼人さんがフランスで見たヴァイオリンよ」
「懐かしいな。俺、あの時、ひどい事したもんな」
「そうだったわね」

 彼が姉と慕っているホームステイ先の長女『アンジェリカ』がヴァイオリンを弾いていた為に、それを葉月が勝手に触ったと思って、怒った事もあった。
 でも──それも良い想い出。
 その後、バスに乗り込んだ葉月を追ってきた隼人。
 その後の葉月の一番の傷を打ち明けた白いカフェとカフェオレのアイスクリーム。

 今、葉月と隼人はそっと見つめ合いながら、微笑み合う。
 きっと同じ事を思い出していたね──と、そんな言葉が出てきそうだった。

 だけれど、葉月は今度はそれ以上の事も言う事にする。

「これも義兄様が最初にくれた物なの」
「そうなんだ……」

 隼人の沈んだ声。
 音楽と来れば、必ずと言っても良い程、純一が寄り添っている事を痛感したかのようで。

「そして──去年も、『アマティ』という私には勿体ない名器も贈ってくれたわ」
「──アマティか。すごいな。あの人は……」

 そこは心底、驚いた隼人の様だったが……。
 葉月はそこで、以前から気になっていた事を隼人にぶつけてみた。

「……隼人さん。もしかしてお兄ちゃまに、私にヴァイオリンと向き合うようにとか、頼んだりしていたの?」
「!」

 彼の表情が固まる。
 それで、葉月も確信をした。

「私、病院で隼人さんと話した時に教えたでしょ? 『今、ヴァイオリンと向き合っている』と。あの時ね、お兄ちゃま……最初から分かっていたみたいに、私が来たら直ぐにそのヴァイオリンを渡したから」
「来て直ぐに……か?」
「うん。なんだかヴァイオリン以外の事は、なにも考えないように隔離されていた様な気がしたわ。帰ってきてから気が付いたんだけれど」

 すると隼人が、なんだか心ここにあらずといった風に何処を見ているのか解らないように固まってた。

「隼人さん……?」
「あ、ああ。そうなんだ。そんな事は考えていなかったな俺は──」
「本当に? 勿論、私の気持ちがそうしたいと固まっていたからだと思うのだけれど。でも……義兄様の所にそんな気持ちで行くようになったのは、隼人さんが……」
「純一さんが、そう考えていたんだろう? 俺は知らない」

 その隼人を見て、葉月は『嘘』と少しばかりふてくされたくなった。
 葉月の脳裏には、隼人と決定的に離別した秋の日が蘇る。

『そっか──思った通りだったな』
『思った通り?』

『思った通りって何?』
『良かったな。夢──もう一度、叶えるんだろう? それを選べたんだから』

 あの時、葉月にはなんだか『隼人の思惑』が、何処かで自分をこうさせたような気がしていた……。
 お兄ちゃまと彼が『何かで共鳴していた?』と。
 二人揃って対局しているように見せかけて、純一は打って出て、隼人は身を退き──そこまでして、葉月に何かを目覚めさせようとしていた? と。
 勿論、小笠原に帰ってきて随分経ってから、自分と向き合っている内に、気が付いた事ではあるのだが。
 そして日に日に、その気が付いた事が気になるようになった。
 時には『そんな風に二人の男性の愛を一身に受けていた?』と思わんばかりの自分の都合の良い解釈ではないか? と、逆にも考えてみたが、どうにも隼人の『思った通り』と言う言葉が繋がらなかったから──そう思っただけなのだが?

 だけれど、目の前の隼人は、そんな探りを避ける為なのか『それ以上は問うな』と言いたげな怖い顔をしている。
 きっと……彼は『義兄の話などするな』と見せかけているのかも知れない。
 でも、葉月にはその隼人がしている事には、どうにも『芝居』にしか見えなかった。

 けれど、彼がそこまでして『共鳴』を悟られないようにしているようだから……葉月は、ヴァイオリンについての話はやめる事にする。
 そして、ヴァイオリンをケースにしまった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 官舎の風呂場は狭いが、そこで葉月は毎日している事もきちんと堪能して、入浴を済ませた。
 隼人は相変わらず、小さな机に座り、ノートパソコンに向かっている。
 葉月はベッドに腰を下ろして、バスタオルで長くなった髪の水分を丁寧にタオルで拭いていた。

「もう、寝るのか」

 眼鏡の横顔だけが見える彼が、短く聞く……。

「うん。とりあえず、横になるわ」

 葉月もそう言って、楽譜を片手に横になろうとした。
 すると隼人が急に机から立ち上がって、葉月の前に立ちはだかっていた。

「……葉月」

 目の前の彼がとても思い詰めたような顔をしている事に気が付いて、葉月が『どうしたの?』と問いかけようとした時には……もう、隼人に後ろへと押し倒されていた。

「……は、隼人さん?」

 半身を起こし、隼人の姿を確かめると、隼人は急ぐように葉月が着ていたワンピースをたくし上げ、そして露わになった素足に手を滑らしている。
 それでも、葉月はそう欲してもらえる事を、今までとは違う意味で直ぐには受け入れられなくて、思わず足を縮めたのだが……隼人に足首を掴まれ、引き延ばされ、挙げ句には開かれてしまう。
 そこに隼人が構うことなく割って入って来た。

 葉月が受け入れられないのは、その隼人の『思い詰めた顔』が気になったから。
 だけど──もう、葉月は抵抗しなかった。
 それで……気が済むなら、それで隼人の中で渦巻いた気持ちが収まるのなら。
 葉月の脳裏には『義兄様の事を話しすぎた』と言う、隼人がちょっとでも純一を認めてくれているのを知って、そこに甘えてしまったと言う反省が浮かんでいた。

 けれど、隼人に全てを解かれ裸に近い姿にされた時──。
 隼人が葉月の耳元にそっと口づけをしながら囁いた。

「……分からない」

 葉月はただ天上を見上げ、隼人の苦しそうな囁くに耳を澄ます。
 そして隼人の息が再び耳元をくすぐる。

「俺も分からない。でも……急にどうしても……無性に、お前を……」

 それは『欲しくなった』?
 それとも『愛したくなった』?

 葉月の心は揺れたが、でも、そのまま彼に委ねた。

 お互いの吐息が交差する中。
 葉月は気が付いた。
 もし、隼人が純一を気にして抱いているなら……もっと奪われるように激しくなると予想していたのに。
 彼は丁寧にじっくりと葉月の素肌を撫で、そして狂おしそうな吐息をつきながら、静かに深く葉月と一緒になる。
 そして、葉月の目を見て顔を見ながら、栗毛をその大きな手に絡ませ撫でながら……そうして熱い視線でずっと見つめてくれていた。

 『愛されている』──そう感じる事が出来て、葉月は静かにやって来る快楽に時には目を閉じ、また開いて、同じように隼人を見つめた。

 絡み合う腕の中で、彼がそうして求めてくれるから、葉月も抱き返す。
 熱いというよりかは、暖かい気がした──そんな睦み合い。

 一時して、二人の腕の絡まりが解かれた時、横になった隼人が呟く。

「……俺は純一さんのようには、愛せない。だけど、俺はあの人に色々と教えてもらった気がしている」
「隼人……さん?」

 葉月の隣で背を向けて横になっている隼人を、葉月は驚いて見つめる。
 また──どうしてか彼の背が急に小さく見えた気がしたけれど、その方がなんだか受け入れられている自分がいて、葉月は暫く黙っていた。
 そうして、背を向けているばかりの隼人を見ていると、その彼の背がまたさらに小さく丸まったように見えた。

「……本当は俺の方こそ、あの人に感謝するべきなんだ」
「ど、どうして?」

 義兄と一緒に、この人をあんなに傷つけたのに?
 どうして隼人の口からそんな言葉が出てくるのか……葉月には、解らなかった。
 今まで隼人は、何事も広い視野で寛大に受け止める素晴らしい感性を持っていると、葉月は尊敬していた。
 だけど、いくらそんな彼でも、義兄と逃避行した事に関しては、隼人はもっと責める事も許される立場とも言えるのだから──そこまで言える彼に、葉月は驚きを隠せない。

 でも、隼人は再び呟く。

「今の……は、俺なりに愛した。何も考えずにお前だけを見つめて」
「!」

 それが……今夜の睦み合い?
 葉月はそれを聞いて、胸が張り裂けそうになる。
 彼の小さくなっている背に、葉月は抱きついた。

「……隼人さん」

 愛されていると、幸せに思えた。
 素敵なひとときだった……。
 そう言いたいのに、なんだか言えなくて、葉月は隼人の背にそっと頬を寄せるだけ。
 ただ寄り添って、その小さく丸まっている背中にキスをした。
 それだけ……。
 隼人が言葉じゃなくて、抱きしめる事で葉月を愛してくれたから……葉月も言葉じゃなくて、その小さなキスに思いを込めた。

「葉月」
「……私」

 伝わっただろうか? と、葉月は少し恐れながら、その声に顔を向ける。
 肩越しに振り返った隼人の眼差しが、いつもの彼のしっかりした目に戻っている。

 そして、隼人がそっと微笑んだ。

「来てくれよ……」

 隼人の腕が葉月の腰に伸びる。
 手首を掴まれ、彼の胸の中に引き込まれる……。
 そして、栗毛を捕まえられる。

「良かった。いつも冷たい肌だった葉月が暖かい」
「隼人さんは、ずっと前から暖かかった。覚えている。そして、まったく変わっていないわ」

 彼が笑って、私を抱きしめている。
 彼が優しい手つきで、私を抱きしめる。
 葉月はただ、その昔からあっただろう隼人の仕草を、ひとつ、ひとつ……目をつむって感覚を研ぎ澄まし、肌に胸の奥に刻みつける。

 今度こそ、隼人の全てを。
 私の全てにするように……。

 彼に抱きしめられ、葉月はそのまま、まどろみ始めていた。

 

 朝になり、葉月は鎌倉へ帰省する為の身支度を済ませた。

「気をつけてな」
「うん。日曜日に帰ってきたらすぐここに……」

 『また寄っても良い?』と、言おうとしたら……隼人にそっと唇を塞がれた。

「あの……」

 来てはいけない事があって、口元を塞がれたのかと葉月は隼人を不安そうに見上げてしまう。
 だけど、そこには以前同様になんだか葉月をからかうような余裕で見つめている隼人がいた。

「嬉しいけれど。そんなに俺の為、俺の為ばかりのウサギになって欲しくない」
「……」

 『来なくていい』と、はっきりと言われているのだが、でも……どうしてか隼人はとても柔らかな口元で微笑んでいるだけで。
 葉月はそんな隼人の様子をただ眺めているだけ。
 そんな隼人の顔が、幸せに見えるのだけれど。
 それは、昨夜あんな風に愛し合えた事に満たされている葉月一人の傲りなのかと思いながらも──でも『彼も幸せに感じてくれているに違いない』と思いたくて、それが嘘じゃないと思いたくて、目が離せないと言うか……。
 すると、そんな風にじっと視線を外さない葉月の様子に気が付いた隼人が、さっと視線を逸らした。

「や、やめろよ。そんなに俺を見るなって」
「どうして?」

 すると、隼人が照れくさそうに顔を背けたまま呟いた。

「お、お前のそんな一途な目が……こんなに……」
「こんなに、なに?」
「だから、その……う、嬉しいというか、胸をかき立てられるというか。そんな情熱的な目は……どっきりするだろ」
「情熱的?」

 葉月が首を傾げると、そこでやっと隼人がクスリといつもの大人顔でこぼした。

「気が付いていないんだな。お前、最近──そんな目をして……」

 そして隼人がそこまで笑いながら言って、最後は小さく呟く。
 『そんな目をして、また俺を惑わすウサギ』──と。
 照れくさそうに顔を逸らしている隼人の頬に、今度は葉月がキスをする。
 そんな葉月の小さな愛情表現の積み重ね。
 隼人もそれに気が付いたのか、今度はちゃんと顔を向けて葉月を見つめ返してくれる。

 もう隼人も逃げない、葉月も──。
 そこでやっと抱きしめ合う。

「日曜は俺が行く。丘で帰りを待っていてもいいか?」
「本当? 待っていてくれるの? 嬉しい」

 ただ素直に喜びを言葉にした葉月にも、隼人は嬉しそうに微笑みを浮かべ、頬にかかった栗毛をそっと払いのけてくれた。

「行ってきます」
「ああ、達也にもよろしくな。楽しんで来いよ」
「うん」

 胸元から下へと大きなフリルが揺れる白黒ストライプのブラウスに白いスカートを着込み、ヴァイオリンケースを手にしている葉月を、隼人が見送ってくれる。

「葉月」

 ドアを開けた時、葉月の背にそんな優しい声。
 葉月は、その柔らかい声につられ笑顔で振り返る。
 だけど……そこには予想外に真剣な顔をした隼人がたたずんでいた。

「……隼人さん?」
「葉月。また義兄さんにもらったヴァイオリンをしまい込むのか? せっかく贈ってくれたアマティを」
「……それは」

 隼人の目に力が入った気がする。
 葉月は、そんな隼人の気迫に圧され、声が出なくなる。

「──違うんだな。そうじゃないんだな」
「!」

 葉月の目を見ただけで? 隼人は急にホッとしたように厳しい眼差しの力をフッと緩めたのが分かった。
 そして、葉月が言おうとした事を、隼人が先に言ってしまった。

「早く……アマティに近づくといいな。頑張れよ」
「……は、はやと……さん」
「その時は、義兄さんに聴かせてあげろよ。彼が最後に置いていった願いだろうから、アマティは……」
「……」

 葉月は俯いて、唇を噛みしめる。
 どうしてか、急に涙が溢れてきた。
 嬉しいのか……それとも?

「……女王様には、なかなか近づけないんだから。すごく手厳しい、私の女王様なんだから」
「うん、そうみたいだな。女王様を捕まえられたら、俺にも聴かせてくれよ」

 そんな事を遠慮がちに呟いた隼人を、葉月は涙顔で見つめ返す。

「約束よ。一番に聴くと、約束して」
「……! は、葉月」
「行ってきます」

 勿論、感謝している義兄にも聴いて欲しい気持ちはある。
 でも、もう違う。
 葉月は今……探している。
 隼人に聴かせられる音を。
 まだ自信がないけれど、こうしてささやかでも、日常の中で弾き続ける道を選んだ。
 その音を探す為に、葉月は出かける。

『待っているよ……その日を』

 振り向かずに出てきた葉月の背に、そんな隼人の声が届いた。
 朝のそよ風の中にそっと、柔らかに聞こえたその声を胸に、葉月は大空に微笑む。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 同じ官舎にいたはずだが、葉月と達也は別々に滑走路に向かい、落ち合う事になっている。
 葉月は密かに唸る。
 きっと達也は迎えに来たくても、『お泊まり出発』の葉月など、見るのは嫌だったのだろう……と。

 なので、葉月はその落ち合う場所になっている滑走路警備口で、達也を待っていた。

「お、早いじゃないか?」
「達也が遅いのよ」

 ライトグレーのスーツに、白黒ストライプのクレリック襟シャツをコーディネイトして来た達也が現れた。
 やはり右京に会う為か、達也もかなり気遣った『お洒落』を決め込んできたようだ。
 葉月の目から見ても『これなら、お兄ちゃまと並べる!』と唸るぐらいに……。
 こういう所は達也は完璧なのだ。隼人と違って、外見的な事でも人の目に触れる事には負けん気が強いというか、手を抜かないと言うか……。
 そして、達也も葉月が着ているブラウスに目を留めていた。
 二人並ぶと、まるでお揃いみたいな格好だった。

「偶然?」
「そうよ、偶然よ。ぐ・う・ぜ・ん!」
「そんな否定しなくても。あ、もう、こんな時間だ。チェックインしようぜ」
「そうね」

 そこで二人は、警備口で予約番号と席を記した軍便チケットを差し出す。
 乗客は少ない定期便、全部、警備員の手作業だ。
 二人のチケットを警備員が笑顔で返す。

「お前の席、どこなの?」

 達也には、招待が遅れてしまったので、席は別々に予約した。
 だから、達也は葉月が何処に座るのかと、手元のチケットを覗き込む。

「えっと、F−Cよ」
「……マジかよ!」
「え? どうしたの?」

 驚いている達也が、フッと葉月の目線にチケットを見せてくれる。
 そこには『F−D』と記されている!?

「え? 隣……!?」
「うわっ。鳥肌が立った! お前と一緒にいて、久々に鳥肌が立った!!」

 葉月も呆然としてしまった。
 勿論、同じように何かが『ぞわ』と身体を走り抜けた感覚があった!

 そう、昔からそうなのだ。
 本当に恐ろしいぐらいに、達也とは『偶然』が重なったりする。
 だから……彼はよく『俺達は運命』とはばかることなく口にしていた。
 流石に、三十路目の前の男になる今は……いや、葉月と別れてからは、そんな事は言いもしないが。

「あー。そう言えば? 俺の席、キャンセル席だったとかで、航空管理課の受付の女の子に『海野中佐、ラッキーでしたね』と言われたんだ。そっか、それがお前の隣だったわけだ?」
「ふーん。そうなの」
「あ、急に冷めたな。お前は昔からそうだ。感動は一瞬で、あとは『それがなに』って冷めるんだよなー」

 それはごもっともな所なのだが、葉月は『あら、そう』と軽く受け流す。
 そしてそれにも達也は呆れた顔をして『つまらねぇー』とぼやいて終わるのだ。

 ──こんな偶然が起きたのに、お前の感動はそれっぽっちなのか!?──

 葉月の脳裏に、そんな達也の声がこだました。
 ああ、そうだ──昔、そうして彼はよくムキになっていた──と、思い出して、今度は葉月が一人で微笑んでしまっていた。

「あ、なんだよ。一人で楽しそうじゃないか」
「だって。昔の達也を思い出しちゃったんだもの」
「それって、何時の俺? 何時の俺!?」

 急に盛り上がり必死な達也にも、葉月は笑い出す。
 だけど葉月は『内緒』と笑って流して、前に歩き出す。
 ふと気が付くと、隣には達也はいなくて、葉月は振り返る。
 そこに立ち止まったまま、達也が不思議そうに葉月を後ろから眺めていたのだ。

「どうしたの?」
「……いや。うん、その」
「なに?」

 なんだか急に歯切れ悪い達也の戸惑っているような口調に、葉月は首を傾げた。
 でも達也は直ぐに笑顔になって『なんでもない』と、いつもの明るい調子に戻って葉月の隣にやってくる。

 一緒に搭乗し、『偶然の席』に並んで座った。
 いつものように週末連休の為、本島へと出かける隊員や家族で、小さな飛行機の座席は直ぐに埋まっていく。
 その間に、割と前列に位置しいてた二人を見かけて、声をかけてくれる者が結構いた。

 『おはようございます』と、挨拶をしてくれる若い女性隊員達。
 『お二人で、出張ですか?』と、声をかけてくれる他部署の男性隊員達。
 そして、二人の制服以外の──しかも揃ったような服装に目を見張って、ただそのまま通り過ぎていく隊員達。
 様々だが、やはりその視線はありありと葉月と達也に向けられていた。

 そして、これもいつもの事だが、達也の方が愛想良く、その場を和ませる。
 葉月は横で、言葉少ない反応で会釈をする程度。
 そして隊員達も、そんな大佐嬢と側近の雰囲気をそのまま受け止めて流れていく。

「ふう。やっと離陸か」
「そうね」

 隣でやっと社交を終えた達也がゆったりとシートに身を沈める。
 そして、達也が左腕を振って時計を眺める。
 その時に『シャラン』と言う時計ベルトの音がしたので、葉月はそこへ目線が向いたのだが……。

「……そ、それ」
「……あ、ああ。出てきたものだから。懐かしくなってさ」

 白いカフスの下から覗いた銀色の時計。
 そんなに高価なものではないが、若者がするにはそれなりに値がある時計。
 ただ、ちょっと……達也ぐらいの年齢になる男性には『若すぎるかな?』と言うブランドの。

 その時計を達也が慈しむように眺め、そしてそっと指で撫でた。
 葉月はその彼の顔を見て、なんだか急に胸が熱くなった気がした。

「俺の誕生日にお前が贈ってくれた時計。まだ、俺、持っていたんだな──いや、実際、忘れていた。毎日、決まった時計しかしないからさ。覗かないんだよな、アクセサリーケース」
「そ、そうなの」

 立派に決めている今日の達也の服装には、少しばかり浮いてしまう若い時計。
 なのに……どうして?
 葉月と一緒に出かけると思って、してきてくれたのだろうか?
 だとしたら……。
 葉月は思わず、達也をじっと見つめてしまった。

「あ、有り難う……」
「わ。な、なんだよ。お、お前らしくないじゃん!?」

 思わず呟いた一言に、達也がおののいていた。
 葉月としては素直な気持ちだった。
 彼の誕生日に、ただサラッと渡した記憶がある。
 その時も達也は『お前はムードがない、色気がない、素っ気なさすぎ!』と、かなり怒っていた記憶もある?
 そういう淡泊な女だった葉月が、ちょっとした感情を口にした事が達也には驚きだったのだろう。

 そして葉月の『有り難う』の意味も、達也はきちんと捉えてくれたようで、彼は急に照れくさそうにして落ちつきなく旅行鞄から何かを出そうとしていた。
 彼が取り出しのは文庫本だった。

「本、読むの? 達也が……」
「ほらまた。俺がただ外を駆け回っているだけの男だと思っているだろ?」
「だって、達也が本を読んでいる姿なんて見た事ないもの」
「まぁな。フロリダで秘書官になってからだからな」
「そうだったの!」
「そこで、そういう驚き方はするんだな? 嫌味なヤツ」
「なによ」

 そして飛行機が離陸体勢に入った為、二人は黙り、達也は本を脇に置いて姿勢を正していた。

 上空で機体が安定し、葉月も楽譜を取りだして静かに眺める。
 頭の中は音でいっぱいだ。
 葉月にとって音は声のようなもの。
 その声を、今日はどんな情緒で表せばいいのだろう? そんな事で頭がいっぱい。

 そして、達也は……そんな葉月と解ってか、いつもの『ちょっかい』は一切せずに、文庫本を眺めているだけ。
 通路側の席で頬杖をついて、片手で文庫本を開いて眺めているその姿。
 隼人なら、とてもしっくりと見慣れた姿になるだろうに。
 達也だから、なんだか違う人がそこにいるみたいで、葉月は時々気にして眺めてしまっていた。

 離れている間に?
 それとも……葉月が達也という男を気にしていない間に。
 彼はこんなにも変わっていたんだと、葉月は改めて感じたような気がしていた。

 そこには葉月が知っているようで知らない大人の男性がいた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 無事に横須賀基地に到着し、二人は飛行機から降りる。
 やはり降り立った途端に、真夏の熱気に襲われる。
 そこはもう南の島から北上してきても、本島も夏真っ盛り、暑いとしか感じようがない。

「暑いわ」
「暑いな」

 またステレオの如く、一緒に呟いてしまったので、二人で顔を見合わせた。
 なんだか変な感触になってきたのか、葉月だけでなく達也まで顔をしかめるようになってしまった。

 二人でいればいるほど、ずっと前に『あまりにもかっちり合いすぎていた』恐ろしいまでの一致感が、急に怖くなってきたのだ。
 少なくとも、葉月は、だ。
 いつもの大佐室なら、こんな偶然は『時々』感じる事で、そこはやっぱり『私とあなたらしいね』とか『俺とお前の事だけあるな』と笑えたり、懐かしい程度。
 そして、こういう感覚が重なる前に、隼人を始めとした沢山の人々が二人の間に関わっている現在。
 二人きりで若い隊員生活を楽しんでいた頃とは、関係図がまったく変化している。

 そして、やっぱりその間で『隼人がいない』と言う感触を葉月は得るのだ。
 それは達也も同じだろう。
 大佐室でいつも三人一緒でも、達也と二人きりになるなんて事は……そういえば、あまりなかったと葉月は振り返る。

「駐車場だよな」
「うん。きっと兄様が来ているわ」

 一緒に航空待合い室側の駐車場に出向いた。
 いつものように右京が迎えに来てくれているはず。

 そうして二人が駐車場に出た途端、目の前に白いBMWが停まっていてクラクションを鳴らした。

「レイー!」

 だが? その白い車から降りてきたのは優雅な従兄ではなく、煌めく金髪の美女だった。
 彼女は真っ白いワンピースに長いスカーフを首に巻き付け、ピンク色のサングラスをした姿で、真っ直ぐに葉月に向かって走ってくる。

「アリス……!」
「ひっさしぶりー! 待っていたわよ! なぁに? 暫くご無沙汰で、ちっともこっちに来てくれないんだもの。忙しかったの!?」

 彼女はいつもあっけらかんとしている。
 こうして、恋しい思い人にやっと会えたかのような抱擁が彼女の挨拶。
 最初はこの大胆な挨拶に葉月は戸惑っていたが……今は『久し振り』と彼女に微笑みながら、その背をそっと抱き返すのだ。

「急に、訓練でやらなくちゃいけない事が増えてね。甲板から離れられなかったのよ」
「相変わらずね。せっかく『あれから』軍人以外の自分らしい生き方を始めたのに」
「そうなんだけれど……」

 アリスのふてくされた顔。
 そして、彼女が葉月の為に言ってくれる言葉。
 それに葉月は俯いた。
 だが、アリスはすぐに微笑みを投げかけてくれた。

「でも。それがレイが『あれから』選んだ生き方だもんね。空を飛ぶ、自分が見つけた仲間と生きていく、進んでいく──だったわよね」
「そうよ」

 葉月の迷いない返答に、アリスも優美な笑みで受け入れてくれる。

「──『あれから』ってなんだよ?」
「!」

 右京に挨拶をするべく遠くで眺めていた達也が、女二人の再会に割って入ってきた。
 『あれから』は、女二人だけのキーワード。
 だから、葉月とアリスはドッキリとして達也に誤魔化し笑いを浮かべる。

「あーら。ウンノが今回のお供なの?」
「ボンジュール、マドモアゼル=アリス。プライベートなんだから、『お供ではない』……と、言いたいところだな」
「おかしいわね。ウンノがお供だなんてー」

 アリスと達也は大佐室で見知った仲であるが、そうは親しくはしていない。
 が、何度か葉月を訪ねに大佐室に来たアリスと達也は、ロイの親戚という範囲での会話は取り交わしている。
 そんなアリスは、葉月を取り巻く男性達とのそれぞれの関係も、今となってはかなり把握しているのだ。

 そして──葉月がどのような状態になってしまっても、『もう、彼だけ』と言う気持ちも。
 そして──いつかは『鎌倉の音楽会に招待したい』と言う事も。

 女性としての気持ちは、アリスには包む隠さず、素直に打ち明けていた。
 そんな中、今回は『昔の恋人』で今は『ただの同僚』であるはずの達也が先に来てしまった。
 それを見て、アリスはつまらなさそうに達也を見上げるだけ。
 そして次には責めるような眼差しが、葉月へと向けられたのだ。

 そんなアリスの意味深で納得が出来なさそうな眼差しに、達也も気が付いたようだ。

「そりゃね。澤村中佐が妥当なお相手だけれど。俺は俺で、諦めていないわけ」

達也の自分の気持ちに対する堂々とした物言いに、葉月は驚きはしないが、それが『大佐室』という限られた場でない事にハラハラしてしまう……。
 だが、アリスは……。

「私、そういう心持ち、大好きよ」

 あの煌めくばかりの美貌の笑顔を輝かせ、なんなく達也の言葉を受け止めている。
 それで葉月はホッとしたが、それをきっかけに達也とアリスの会話が弾み始める。

「あ、そうなんだ? 怒られるかと思った。アリスはまるで葉月の『女のご意見番』て感じだからさー。二人の間を邪魔するなとか」
「そんないらぬ親切みたいな事、興味ないわよ。どうであれ、『恋するのは自由』なんじゃないの? ただし自由でも『やり方』によっては、まったくもって野暮で無粋になるのでしょうけれどね」
「イメージ通りだな。マドモアゼル=アリスの発想は自由だ」
「私!?」
「ああ。葉月なんかより──」

 アリスは達也の評価に驚いていたようだが。
 だが、それも嬉しい褒め言葉だったのか、達也に満足そうな麗しい笑みを見せていた。
 それでも、達也はその美しい女性の笑顔にも動じず、知り合いの女性にただ返すべく笑顔を見せるだけだった。
 そして、アリスもそんな達也の堂々とした落ち着きにも、女性としての不満はなさそうに清々しく微笑み続けている。

 それはアリスが達也の本心も知っているからだ。
 そんな達也の今回の『目的』も既にお見通しのよう。
 そして葉月も、達也の気持ちを分かっている上で……。
 そしてきっと、隼人も……分かっていて二人を送り出したに違いない。

 達也も気が付いている。
 けれど、そんな緊張感も意気込んだ気持ちも微塵も見せない。
 それが海野達也だ。

 『決着』とか、そんな大袈裟に騒ぎ立てる『やり方』など、達也からすると『無粋』なのかもしれない?
 だけど──葉月は肌で感じている。
 もう一人の自分が、密かに着々と何かに近づいているような感覚を、ピリピリと……。
 そんな葉月の息を潜めたような緊張感は、逆に達也も気が付いているはず。

 ある時、二人は若かったけれど、こういう感覚の緊張感の糸で結ばれていた時があった。
 なんて懐かしく、刺激的な感覚だろう。

 達也との視線が、真夏の太陽の下で激しく絡まった気がした──。

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