-- A to Z;ero -- * 熱帯模様 *

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6.待ってくれる人

 今週、最後の訓練。
 金曜日の午前中だった。

 今日も葉月の上空では、十機のホーネット。
 根気よく付き合ってくれているウォーカー中佐とミラー中佐の『精密タッグ』が、グングンと空母艦に近づいてきては、幾度となく『ロックオン』──。
 その背後を弱々しく飛んでいる元コリンズメンバー達。

「ちっ……」

 葉月の横で、そんな舌打ちをしたのは、その弱々しくなるばかりのフライトチームの前キャプテン、コリンズ中佐だった。

「これが、俺が残した結果なのか……」

 そして彼は、直ぐに哀しそうな顔になる。

「違います。キッカケがまだ……掴めないだけ。それに私の指示も、あちらには適わないばかりで……」
「そういう問題じゃない。奴らの心の問題だ」
「……でしょうか?」

 いつまでたっても『デイブの影』から離れようとしない有様に、潔くチームを去ったデイブだからこそ、悔しくて仕方がないと言う気持ちは……葉月にも解る。
 彼が潔く去ったのは、後輩達の次なるステップを願っての事──。
 そして今度は地上から見守る事を決し、ウォーカーと葉月が打ち立てた計画に賛同し、フロリダへの転属を選ばずに……こうして願ってはいなかっただろうコックピット以外の立ち位置での指導に心を砕いていると言うのに……。

「……このままでは、ミラー中佐に負担がかかってくるだろうな」
「そうですね」

 デイブも既に、葉月とミラーが狙っている物と姿勢に気が付いてくれていた。
 そして上空にももう一人。
 フランシス大尉も、確認しあった訳でもないが、なんとかチームの軸を指導者達が狙っている方向に傾けようとしているさり気ない気遣いをしてくれているのが解る。
 けれど……チームのメンバーの一人にしか過ぎない彼だけでは、聞く耳を持たない若者の数の方が勝っている状態だった。

 そして、今日もなんの手応えもなく終わる。
 着艦命令が下った中、葉月は日差しを見上げてサングラスを取り払った。

「もう、ここが限界だわ」
「そうだな……士気も日に日に下がってきている」

 葉月の横で、デイブもサングラスを取り払い頷いていた。

 パイロット達が着艦後、コックピットから次々と降りて集まってくる。
 そんな中、葉月はミラーと視線が合ったが、彼は今まで以上の素っ気なさで向こうから逸らしてしまう。
 そこで……葉月は先日の事を思いだし、溜め息をついた。

「デイブ中佐……来週の訓練開始までに。私、ちょっと考えたい事があります。日曜に鎌倉から帰ってきたら連絡しますね」
「おう。待っているぞ、何か……あるのか?」
「……それほど具体的にはまだ」
「そうか。どうだろう? 同じタイプをぶつけてみるとか……」
「同じタイプ──」
「俺のチームにもミラー並みのパイロットはいる」
「……」

 葉月はそのデイブの考えに黙り込む。
 それは葉月もおぼろげには思い浮かべていた……が、まだ、『そこまでしたくない』と言う気持ちの方が勝っている段階。
 そんな葉月の億劫そうな様子をデイブは見抜いたようだ。

「……だろうな? 嫌な役ばかりになるな、嬢は」
「……それをする事で、チームが分裂する恐れがありますから」
「確かに……。もし俺が嬢だったら、俺も躊躇うぜ」

 デイブは『指揮官』の苦悩を察してくれるかのように、肩を笑顔で叩いて労ってくれた。
 それで、葉月も笑顔になれる。

『じゃぁな。鎌倉、楽しんでこいよ!』

 訓練解散後、一緒に連絡船で陸に帰ったデイブが別れる時に笑顔でそう言ってくれた。
 そうして、葉月の頭は……一端は訓練から離れ、週末の『余暇への楽しみ』に包まれる。

 明日は音楽会。
 ヴァイオリンの調律もしたし、着ていく服も決めている。

 ヴァイオリンを握れば、こうしたあくせくした仕事の忙しさも忘れられる。
 今となっては、葉月には適度な余裕を与えてくれる『良きスイッチ』だった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 大佐室に帰ると、隼人の席に座っている女性がいる。
 テリーだった。

「お帰りなさいませ。大佐」

 彼女特有の魅惑的な笑顔で、迎えてくれた。

「お疲れ様、テリー。澤村も食事をしていたから、もうすぐ帰ってくるわよ」
「はい」
「どう?」
「なんとか……。こんなに具体的な処理をするのは初めてなので。でも、大佐のご期待に添えるよう頑張ります」
「ええ、期待大よ。頑張ってね。ああ、でも……無理は禁物よ。そっちが大事」
「……はい、それはもう……そう言う点では私は『前科者』ですから……」
「そ、そういう意味で言ったんじゃないのよ」

 『前科者』と言う返答に、葉月の方が驚いて、取り繕ってしまった。
 テリーとしては、数年前……一人で抱え込んで、本部を去る程に追いつめた自分の事を言っているのだ。
 けれど、今、葉月に向けているテリーの瞳は輝いていたので、それで葉月も安心する。

 そんな風に頑張る後輩を見て、葉月は己を呪う。
 確かに……チームが不安定故に、トーマスが誘ってくれた訓練に参加する事には不安がある。
 けれど、行くなら行くで、こうして後輩達の力も下準備させておかねばならないから、隼人にテリーの指導をお願いした。
 これで……もし? 葉月の一存で『やはり、今回はやめる』などと言い出せば、今、目の前で大佐嬢の期待に応えようと頑張ってくれている後輩の努力すらも無にする事になるのだ。

(なんで、あんな事を……)

 ここまで自分で解っているのに……。
 心の中で思っていても、ミラーに決断として言ってしまったのか?

(もしかして……?)

 葉月は急にハッとする。
 もしかして……『それが間違っているのだ』と、はっきりと『怒ってもらいたかった』のか!? と。
 彼のように媚びずに怒ってくれる人に、『間違っている!』と言われたのならば……自分で逃げている事の『逃げ道』を閉ざしてもらえる?
 そう思っていたのだろうか?

 急にそんな風に思えてきた。
 葉月自身……意外な感触だった。

 上官ともなると、『こうすれば良い』と行く道を逐一示唆してくれる者は少なくなる。
 上へ行けば、行く程──自分より高官になる上官すら……『自分で考えろ』と言う風に、口出しをしなくなるもの。
 さらに自分の部下達も葉月の判断に身を委ねる立場故、余程でないと意見もしてこなくなる。
 ロイがいちいち指導する立場でないように。
 細川が半年黙っていたように。
 隼人が昔程、介入しない姿勢になったように。

 だからこそ──葉月自身の判断は、とても重い責任を背負う事になる。
 それが『大佐』であり『隊長』と言う立場にいる者の『常』で、役割。

 ともかく、そんな中で、位は下でも経験豊富な年上の先輩が、媚びずにはっきり言ってくれる事は、とても貴重な事なのだと……。
 葉月は認めたくなくても、既に何処かで認めていたのではないか? と、急に思えてきたりした。

「ごめんなさい、テリー……。また、出かけるわ。帰ってきた中佐には、直ぐに戻ってくると伝えておいて」
「はい、解りました」

 葉月はそのまま大佐室を飛びだした。

 

 パイロットやメンテナンサーより一足先に陸へと戻る葉月は、細川と佐藤と一緒に食事をしているこの頃。
 だから、今ならまだカフェで彼等は食事をしている最中だろう。
 カフェテリアを一直線に目指し、葉月はそのフロアを見渡した。

(いたわ!)

 壁際の隅になる席で、ミラーは丁度、食事をしている所。
 葉月は迷わずに、その席に向かった。

「ミラー中佐」
「大佐嬢……?」

 いつも一人で過ごしているランチに、誰かに声をかけられるのが珍しかったのか……?
 ミラーはカップ片手に、思わぬ顔で葉月を見上げていた。

「あの先日の事……」
「!」

 葉月が話を始めようとした所、ミラーがザッと立ち上がった!
 それもまた、すごい形相で、さらに、葉月のシャツの後ろ襟首を掴み取ったのだ!

「ちょっと、来い!」
「え? ええ??」

 ある意味、乱暴な行動?
 シャツの後ろ襟首を掴んで、葉月を強い力でズンズンと引っ張っていく様は、まるで突然侵入してきた猫の首根っこを掴んでつまみ出す……と言った感じで、葉月はカフェテリアの出口まで連れて行かれた。

 その間、葉月も『なに? これは!?』と驚いている中、カフェテリアにいる沢山の隊員達も、唖然とした顔を次々と並べていた。

 階段へと向かう出口まで連れてこられ、そして階段の曲がり角まで引っ張られ、そこでやっと彼が『ポイ』と言った感じで、葉月を手放した。

「こら!」
「はい!」

 葉月の頭に向かって、ミラーが声をあげる。
 そして葉月は、縮こまるようにして下を向いて……何故か、そんな返事をしてしまっていた。

「君は馬鹿か!? どうして人の目の前で俺に声をかける!」
「す、すみません……。その、どうしても……」
「最近の君はどうかしているのではないか!? 甲板ではもっと冷静で的確な判断をしているじゃないか!」

 他の隊員が見たら、首を傾げるだろう?
 今となっては『大佐嬢』というある意味、特有の呼称で呼ばれるようになるまでにその地位を安定させた葉月を、まだ小笠原では新人に値するミラーが怒り飛ばしている姿を……。

「……ったく。俺にこんな事を……させるか!?」
「し、失礼致しました。でも……お伝えしたくて!」

 大人の男性に叱られる……という畏怖が、既に葉月の中で定着しつつある『中佐』。
 それでも、葉月はその男性と対等にならねばならない。
 なりたいのではなくて、自分が大佐だから『なる努力』をしなくてはいけないのだ。
 だから、また怒られる事をやってしまったとしても、自分をここまで突き動かした素直な気持ちを口にしようと顔を上げる。

 すると……!? ミラーが笑っていた。
 『え?』と首を傾げると、そんな葉月を見て、またミラーがケタケタと笑い出してしまったのだ。

「あの……中佐?」
「いや、その……なんなんだ? 君は……本当に……」

 そうして彼はお腹を抱える程までに暫くはそうして笑っていて、葉月はそれを呆然と見ているだけだった。

「お、俺……こんなに予想外でひっかきまわされ、俺が、俺が……」

 そうしてまだ笑っているのだ。
 葉月はただ眉をひそめ、見ているだけだ。

「だめじゃないか? メンバーが食事をしている目の前で、君と俺が親しそうに話してしまっては……」
「あ……。そうでしたわね」
「そうでしたわね。じゃ、ないだろう?」
「あ、それで……ワザとこうして、乱暴にしたのですか?」

 今度は葉月が自分で、シャツの後ろ襟を引っ張った。
 その姿が可笑しかったのか? また、ミラーが笑い出してしまった。

「ち、違う……。咄嗟にしてしまった本気の行動だったな」
「また、怒らせてしまいましたね。すみません……」

 そうして葉月が俯いてしまうと、また……彼の笑い声。

「だから……演技じゃなかったから、驚いているんだ。自分で……」
「はい?」
「本当に、君には降参だ」
「は……い?」

 葉月がただ訝しんでいると、ミラーは急に真顔になる。

「先日の事……とは、あの夜の事か?」
「そうです。私は、自分から逃げていただけだと気付きました」
「そうか……」

 何故か、彼が階段の踊り場にある窓に見える青空に遠い目を馳せる。
 葉月はまたそんな彼の良く解らない仕草を、黙って見つめるだけ……。

「ジェフリーから、連絡があったんだ」
「教官から?」
「ああ、君の返事が即答でなくて曖昧に判断つきかねている状態を知って、様子はどうか? と……俺にね」
「そうでしたか……」
「ジェフリーは、君がそうなる事も予想していたようでね。訳は教えてくれなかった」
「……」

 葉月はそこで黙り込む。
 それだけで教官も『訓練生時代』にあった事を、気にしているのだと解ったから……。

「訳なんか、俺にはどうでも良い事。けれど、俺に少しだけ思い出した事があってね」
「思い出した事?」
「ああ……君も知っていると思うが、トーマスと言う男は、とても気さくで快活で明るく人に慕われる」
「はい。そういう方でした。私だけでなく、他の男子訓練生からの信頼も厚かったですもの」
「だが、ひとたび『使命』と言うものに向かうと、非常に冷静で判断も的確な男だ。見かけの穏和な風貌からは想像が出来ないくらい時には冷徹になれる。そしてその冷徹な判断にも自分の責任として全うする。そういう『頼れる男』──」
「はい……」

 まったくその通りだった。
 彼は……トーマスは穏和で人当たりも柔らかいが、さて『御園の教育』と言う使命になると、葉月にも厳しい要求を容赦なく課した教官だった。
 だからこそ、葉月が『ツーステップ』と言う過程を辿る事が出来たのだ。
 彼はその確かなレールを敷いて去ってしまったが、その後、葉月はそのステップをやり遂げ、今のキャリアを得られたも同然。
 それは目の前の中年中佐も、彼のお陰で今の地位にステップ出来たのだろう。
 ミラーは葉月が知っている男を、同じように知っている。
 それを実感する事が出来た。

 が……それが? と、葉月が彼を見上げると、ミラーがフッと葉月を試すように見下ろしていた。

「だが……彼が言っていた。『一度だけ、どうにも慌ててしまった事がある』と。それが何時の話かと聞いたら、彼はなんだかとても哀しそうな顔になり『御園かな? 予想外の事と言えばあの子しかいない』と……次には笑っていた」
「……! どうにも慌ててしまった……?」

 葉月の胸の鼓動が大きく波打った。
 間違いなく『あの時の事だ!』と──。

 葉月はあまり覚えていない。
 彼が副操縦席で、いつものようにセスナを操縦している葉月を見守っていた。
 その時、急に腹痛に襲われ、訓練着のズボンの裾が真っ赤に染まっていく……あの時の光景だけ覚えていて、その後、きっと教官が操縦して着陸したのだろうが、病院で落ち着くまで何が起きてどうしてそこに来たのか覚えていない。
 ただ、彼がずっと付き添ってくれていた事だけ覚えている。

『御園……! どういう事なんだ? これは!?』
『しっかりしろ!』

 そんな彼の言葉だけ脳裏に残っている……。
 落ち着いた時の『男には興味が絶対にないと思っていた……。それにお前みたいな若い子を……』──そこからが鮮明な記憶。

「やはり、何かがあったのだな」
「!」

 過去を思い返している葉月の様子に、ミラーは確信を得たようだ。

「そうですね……。今は、言えません」
「いいだろう。トーマスも『女性には男性の力ではどうにもならない事がある』と言っていたからな」
「そうですか」
「しかし、俺が感じた所──トーマスは『それを気にされては困る』と言った風だったから、あの男がそれと今回の企画は別物と言っている所を、君が『個人的理由』で、逃げようとしていたので……それで……」
「では、ミラー中佐……」

 彼は……なんとなく葉月『個人』の事を解っていた上で『逃げた』と知り、それであれだけ怒ったのだ──と、葉月は理解し、そして驚いた。

「ま。気が付いたみたいだから、良しとしよう」
「ミラー中佐のお陰です」

 葉月がそういうと、彼が驚いたのか目を見張って見つめていた。
 だが、葉月は微笑む。

「私には、今の私には──中佐が必要です。私、もう一度、頑張りますから。お願いです、まだ、シアトルに帰らないで下さい」
「大佐嬢……」

 ミラーの意外そうな顔。
 だが、彼は次にはまた、厳しい顔になっていた。

「だから──君は『甘い』んだ」
「甘い……ですか?」

 また、彼に叱責されそうな険しい雰囲気に変わってきたので葉月は緊張する。
 そしてミラーは渋い表情で続けた。

「──『叱ってもらえる、厳しくしてもらえる』。それは『甘え』の一つだ」
「甘え……」
「いいか。君は今まで細川中将やコリンズ中佐に叱ってもらっていた。それにより、確かな方向性を安定させていたはず。どうだ? 今は叱られない事が不安でたまらないだろう?」
「……! そ、そうです、確かに……」
「つまり、それは君の次なる大事なステップの課題だ。誰に叱られなくても、自分で方向性を定める。部下に意見を言われても、もしくは、言われなくても、自分で決めて実行した事には責任を取る。それが……『大人』だ」
「大人……」
「だが……忘れないで欲しい。自分一人でやらねばならぬ立場になって、失敗もあるだろう。その失敗が我が責任となっても……『失敗しても』君を信じてくれる人、そして待って迎え入れてくれる人が、必ずいる事を──」
「!」

 葉月の頭に、もの凄い衝撃が走った!
 『失敗しても、待っている人がいる』──!

「特に、君にはそういう仲間が沢山いるだろう。君は『幸せ』なんだ。何を怖れる事がある?」
「……中佐」
「たとえ、君が大佐でなくても。人生でも同じ事。自分で決めて、自分がやった事にも逃げない。それが失敗してしまったと言う結果でも。叱ってもらえる所に安定を求めているようでは……まだまだだな」
「……」

 葉月は俯いた。
 『まだ叱って欲しいから、帰らないで欲しい』──それも、甘えだと。
 また……叱られたのだから。

「だが……有り難う」
「え?」

 なのに、また……ミラーが予想外の所で微笑んでいたのだ。

「俺も言い過ぎたと、反省していたから。悪かったな。確かに、今の状態では、君が前に進むのに足踏みするのも、『一種の正しい判断』だとは俺も思ったのでね」
「……」

 しかし──葉月は、もう、気が付いてしまっていた。
 この中佐が、あまりにも冷静でしかっりとしている先輩だったから、葉月はいつのまにか彼の言動や行動に判断をとても気にするようになっていたのだ。
 それはつまり『尊敬』していた事になる。
 彼の行動に判断に甘えていたという事にもなるだろう。
 だから……彼が葉月の判断を『それも正しい判断に違いない』と評価してくれても、納得する事が出来なかった。

「いいえ。私……やはり中佐に、甘えていました」
「それで?」

 ミラーの涼しい眼差しが、次に葉月が下す判断を試しに待っているようだ。
 そして葉月はその目に怖れずに、告げる。

「来週から、方法を変えます」
「へぇ? それはある意味、挑戦状かな?」
「違います」

 そして今度は葉月が、彼を真剣に見つめた。

「これ以上、貴方に憎まれ役をさせませんから」
「ん? どういう事だ?」
「私も一緒に、憎まれ役になります。それでチームの流れが変わるなら、憎まれても……」

 最後まで言葉に出来なかったが、ミラーがどうしてか理解してくれたかのように、頷いていた。

「よし、来週が楽しみだな」
「はい」
「では、行く気なのだな」
「……失敗しても……ですよね」

 葉月が微笑むと、ミラーもやっと納得したように微笑み返してくれた。
 のだが──すぐに彼の笑顔が消えた。
 葉月が少しばかり不安に見つめていると、彼が呟く。

「……偉そうな事を言ったが。そんな事は年の功に過ぎないかもしれないな。君はその若さで、そこまで自分で見つけられているのだから……」
「いいえ。細川中将が貴方を選んでくれたのは、正解だと……。私は貴方がこんな私の所に転属してきてくれた事を感謝しています」
「……それは、違うな」
「違う?」

 ミラーの顔が暗くなり、葉月から視線を逸らしてしまった……。
 だが、彼は意を決したように顔を上げる。

「実は……俺は。湾岸部隊でキャプテンをしていた時に、あまり人には信頼されないキャプテンだったからな」
「え!? そ、そうなのですか?」
「ただ飛んでいるだけ。形式の訓練をするだけ。出来ない者は出来ないだけ、それまでの事。俺は俺で最高の飛び方をしていられたなら、他人の飛び方などどうでも良いと……。あまり部下に心を砕いた事がない」
「!」

 葉月はとても驚いた。
 あのトーマス教官を尊敬しているのに? 彼の側にいたのに? 尊敬している上官にならえなかった男が、教官の部下だったのか? と……。
 それとも? 自分がどうしてもそうなれないから? 教官を尊敬しているのだろうか!? と、頭の中に駆けめぐった。

「ここに来るまでに、かなり限界を感じていた。そこでだ……細川中将が中佐クラスのキャプテンになれるパイロットを捜しているとトーマスが聞きつけ、それで、彼が俺に転属を言い渡したんだ」
「教官が」
「そうだ。トーマスはこう言った。『お前に無い物を御園は持っている。会ってこい』と……。納得は出来なかったが、彼がそう言うからには何かがあると思って決心した。そうしたら……期待はずれの君がいた」
「そ、それで……」

 葉月の脳裏に、初めて彼とバーで会った時の『最悪のやりとり』が浮かんだ。
 そこで……何もかもが霧が晴れたかのように、解ってきた感触が広がる。

 そんな驚いている葉月を見て、ミラーが微笑む。

「だが……最近、解ってきたよ。俺になくて、君にあるものが……」
「そんなもの……。私は何もないし、何も出来ないどころか……」

 『重い物ばかり背負い込んでマイナス地点にいた』──そうして周りの人々に心配をかけ、あまつさえ、傷つけ、期待を裏切ったのに──と、言いそうになり、葉月は口をつぐむ。
 それでもミラーは、葉月を慈しむように見下ろしていた。

「知らなかった。部下の事を、これだけ思って毎日を過ごすという事を。君と対しているうちに、いつのまにか……そうなっていた。その上……」

 そこで、ミラーはしおかしい表情から一転、またクスクスと笑い出す。

「俺を感情的にさせるだなんて、今までになかった。君が初めてだ」
「あの……」

 ミラーが次々と語り出す本心が、葉月には嘘のように信じられなくて。
 嘘と言っても、逆に嬉しさを感じたい話だったが、だからこそ……信じて良いのか分からなくて言葉にならなかった。
 すると、葉月が黙っている間に、彼がはたと気が付いたようにまた呟く。

「いや……もう一人いたか」
「もう一人?」
「……」

 ミラーは一時、照れくさそうに黙ったが、言い出す。

「──別れた女房か」
「……奥様!」
「こっちはプライベートでの話だけれどな」
「そうでしたか……」

 葉月は彼を違う人を見るかのように、何度か顔を確かめてしまった。
 空を飛んでいる時と一緒……彼はロボットのような『精密機械』だと思っていたのに。
 今そこにいるのは、葉月以上に、荒波に揉まれて生きてきた『血のある人』が急に現れたようで……?

 でも、葉月も人の事が言えた人間でもない。
 私は『無感情』と言われ、仕事の時も『感情を持たないロボット』と言われてきたではないか?
 教官は『御園にあって、ミラーにない』と言ったようだが……? もしかすると『似たもの同士?』と思った方が近い気がした。

「私こそ、実は──あまり感情がない人間だと、思われていますけれど」
「まさか」
「いえ、本当ですって」

 ミラーがまた、葉月を静かに見つめる。
 また……何かを探るような目で。
 とても緊張する。

「……先程、『君は幸せだ』と言ったが。訂正する」
「訂正? ですか……?」
「そう。君には仲間がいる『幸せ』。それは間違いなく君が築き上げたものに違いない。そうでなければ、どうして皆は君を信じているのだろう? 自信を持って良いと思う。だから……怖れる事はない」
「……!」

 それは……昨年、信頼されている仲間に不義をしてしまった葉月には、とても痛切な言葉だった。
 でも彼はさらに付け加えてくれる。

「きっと君の生き方で、何か感じるものがあったのかも知れないな? 俺は……まだ君と一緒に飛んでいないから良く解らないが……少なくとも君が本気になってからは、言葉での表現は出来ないが揺さぶられてしまった程だ。きっと、トーマス隊長も、なんだろうな?」
「あ、有り難うございます……」

 なんだか思わぬ人に『許しをもらえた』気がした。
 ただ、それは……自分がここに帰ってきたから分かる言葉。
 本当ならば、その評価は勿体なさすぎる言葉で、受けられない言葉。
 それでも……やっぱり心が救われた気がした。
 そして、改めて『何を失いそうになり、裏切ろうとしていたか』知る事ができ、そして如何にそれらが大切なのかを気づかせてくれた気がする。
 もしかすると、もうちょっとで泣き出しそうになりそうで──でも、泣いたら、せっかくの言葉を無駄にする気がして、葉月は小さく答えて堪えた。

「──決めた。せめてトーマスとの航行訓練を終えるまでは、絶対に、奴らと一緒にいると」
「ほ、本当ですか?」
「ああ、だから、君も諦めないで本気になってくれ。俺の本気を無駄にしないでくれ」
「! わ、解りました!」

 徐々に彼の目が、いつもの冷徹さを備える。
 葉月はそれに置いて行かれないように返事をした。

「丁度いいだろう。俺と君の仲の悪さは、きっとカフェテリアから基地全体に『噂』になるだろうさ」
「……そのままで良いとは、私は思っていませんけれど」
「今のところはそれで良いだろう」

 ミラーはカフェテリアの入り口を見つめ、腕を組みながら溜め息をついていた。

『さて、問題は……奴らをそれまでにどう持っていくかだな』

 ミラーはそう結ぶと、葉月に軽い手振りをしてカフェに戻っていった。

 葉月は──なんだか色々な事を急に話して、聞いたので、呆然と彼を見送っていた。
 でも、どことなく『熱い』感覚。

 そう……なんだかまだそれ程に深く知り合っていない人と、素直に話せた……と言う感じが。
 いつまでも自分の側でじっくりと付き合ってくれる人以外には心を閉ざしていた自分から、向き合えた事。

 まだ葉月の中で、熱く漂っている。
 そして、それを隼人に今すぐ伝えたい気持ちが溢れていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 手には旅行用の革鞄、そしてもう片手にはヴァイオリンケース。
 それを手にして葉月は、彼の部屋にやってきた。

「来たか」
「お邪魔します」

 荷物はそれでも、格好は制服姿でやって来た葉月を隼人が迎えてくれる。
 玄関にはいると、彼が以前同様の気遣いで、鞄を手に取ってくれた。

「食事はどうした? 電話で言っていたようにしてきたのか?」
「うん。やっぱりジョイが遅くまでいたから……カフェで久し振りに一緒にしてきたわ」
「そうか」

 彼の部屋に入り、葉月はヴァイオリンケースを置いて、着替えを始める。
 隼人はいつものようにキッチンに行ってしまうのだが……。

 葉月は革鞄から、新しい追加の着替えを取りだし、ジャージ素材の動きやすいワンピースを素肌に着込む。
 着替えているその間に、キッチンから隼人の声が聞こえてきた。

「良かったな。ミラー中佐……」
「そうね」

 昼休みが終わって大佐室に戻ってきた隼人と二人きりになった隙に、葉月はミラーと話した事をすぐさま伝えていた。

「全てはトーマス大佐の仕業だったと言う感じだな」
「本当……。教官ったら」

 葉月は一人でそっと微笑んでいた。
 でもその葉月の姿が見えなくても、その声の様子で隼人は葉月が笑っているのが判ったようで、部屋に戻ってきた彼も微笑んでいた。

「また、来週から新しいチャレンジだな」
「うん……頑張るわ」
「ああ、期待している。俺は……」

 そこで隼人が黙ったので、葉月は彼を見つめた。

「なに?」

 すると、ワンピースの上に黒いカーディガンを羽織り終えた葉月の側に、隼人が寄ってくる。
 そして……そっと柔らかく抱きしめられる。

「俺は、ただ見守っている」
「隼人さん──」

 葉月もしんなりと、頬を彼の肩先に預ける。

「うん。それで充分よ……」

 ミラーの言葉が、蘇ってくる。

『失敗しても、君を待っている迎えてくれる人は必ずいる』

 あの言葉のように、目の前の彼は、もう何事にも手を差し伸べてはくれなくなったけれど、それでも『私を見ていて、待っていてくれる』……そう思える。
 だから、葉月は微笑みながら『私も貴方を待つ人になりたい……』と密かに心で呟き、彼の背中に腕を伸ばし抱きついた。

「風呂、もう入るか?」
「うん。早いけれど、そうする……」

 隼人が離れて、部屋を出て行った。

 今夜、明日出かける支度でこの部屋に来たのは、『泊まる』為だった。
 葉月が『残念、残念』としきりに呟いていたら、隼人が思いきるように『だったら、行く前の晩に俺の所に来るか?』と言ってくれたのだ。
 それで、葉月は二つ返事でやって来た。

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