-- A to Z;ero -- * 熱帯模様 *

TOP | BACK | NEXT

5.ターニングナイト

「遅かったな。どうだった?」

 隼人の官舎について、葉月がキッチンに姿を現すと、彼がそう言って迎えてくれた。
 葉月は溜め息を一つだけ、大きくついて、彼の部屋に向かっただけ。
 それを見て、すぐに様子を察知してくれた隼人が後を追ってきた。

 彼のベッドに、長袖の上着を放って、そして書類バッグを床に置く。
 ベッドに腰をかけた葉月を、隼人が側に来て見下ろしていた。

 葉月は手短に、あった事を正直に告げる……。
 すると、今度は隼人が溜め息をついた。

「そうか。でも、俺もミラー中佐と同じ返事をするかな」
「そう……」

 自分が下した決断に対し、反する意見に同意した彼に、葉月は特に残念な気持ちは抱かなかった。
 今までは、自分があのように決断した事に対して、『怒られる』とか『間違っている』なんて予想はしていなかった。
 そして、決断している事を初めて人に告げた。
 そうしたら『怒られた』。
 その状況に出会って、葉月は──本当の自分の中にある『決断した理由』に気が付き始めていた。

「ちょっと……自分が恥ずかしくなったわ」
「……」

 そう呟いた葉月を、隼人は黙ってみているだけ。

「もう食事、出来るから」

 それだけ言うと、多くは意見せずにキッチンへと行ってしまった。
 その背に……葉月はそっと微笑む事が出来た。
 『ああ、もう彼は解ってくれている』のだと──。

 自分一人で決断した時は、判らなかった事。
 それがミラーにあれだけはね除けられ、ここに車で来るまでに自分なりに考える。
 そうして、初めて自分で向き合えなかった自分を知ってしまう……。

『その様子だと、お前はもう、自分で判っているようだな』

 葉月が微笑む事が出来たのは、隼人が既にそういう『葉月』を瞬時に判ってくれていた事だ。
 それを見て──葉月は、また、額を抱えて溜め息をつく。
 今度は、ミラーだけでなく隼人も同じ反応を示した事から、『私は私から逃げようとしていたのだ』と『確定』した為の溜め息だった。

 そして葉月は、今度は気持ちを切り替えて、初めて持ってきた『着替え』を手に寄せる。
 訓練着を入れている『お着替えバッグ』の中に、『彼の部屋用』の着替えを忍ばせてきていた。

 いつもの部屋での格好。
 ジーンズと、楽に着られるトップス。
 ここではキャミソールとアンサンブルになっているカーディガン。
 それにひとまず着替えて、キッチンで食事を用意してくれている彼のもとに向かう。

「出来たよ。座れよ」
「美味しそう」

 いつも立派な出来映えの隼人の食事。
 それを目にして、葉月は彼の向かいに座った。

『頂きます』

 そういって一口、メインディッシュを口にして『美味しい』と笑顔で言うと、そこでやっと隼人が微笑んで彼の食事が始まる。
 暫くは無言の食事になる。
 ずっと無言の時もある。
 それでも二人は時々目線を合わせる。
 この頃は、その時は葉月の方から微笑んでしまう。
 そうすると、隼人も微笑み返してくれる。

 以前もそうだったかもしれない。
 同棲していた時の様子と比べる……ところが、葉月の感覚では『前もこうだった? どうだったかしら?』と、情けないがそう思ってしまっている事が多かった。
 つまり──あまりにも側にいすぎて『当たり前』になっていたか、以前の自分という物がそれだけ『意識する事がなかった』のだろう。
 今は──たとえ、それが無言であっても、とても満たされている。
 不思議な程に……。
 だから、余計に以前の事を思い出そうとしているのに、あの生活がまるでなかったような感触に陥ってしまうのだ。

 そんな時──ちょっぴり、隼人に謝っている。
 『ごめんなさい。あんなに幸せだった想い出の生活を、私は意識していなくて……』と。
 その分、今のこのひとときをとても幸せに感じていた。
 それを笑顔でも、眼差しでも、言葉でも……ちょっとの事でも彼に伝えたくなる。
 だから、すぐに笑顔になってしまうのだ。

『お前が笑うと、幸せになる人間が沢山いるんだ──笑ってくれ』

 ふと……そんな声が蘇って。
 葉月は持っていた箸の先を止めてしまった。

(お兄ちゃま……)

 あの時、葉月には……そんな事をやったからとて、誰が幸せに、どのように幸せになるのだ? と言う反発があったと思う。
 私が笑って幸せになってくれるのは『お兄ちゃまだけで充分じゃない』と……。
 あの時は、そう思った。
 義兄と接している以外の世界など、もう、考えたくなかったから──。

 けれど──あの時、義兄が葉月に伝えたかった事が、今、急に解るようになった気がする。
 遅すぎたけれど、遅すぎても、それをなんとか教えようとしてくれて、尚かつ、この世界へと振り返る機会を与えてくれた純一に、今はとても感謝している。

 だから……遅すぎたかも知れなくても。
 葉月は微笑む。
 心からの喜びを、ちょっとの喜びを……目の前の人に。
 それは愛する男性にだけでなく、私の周りにいる人々に。
 そう思えるようになれた。

 久々に純一の事を思いだした気がしたそんな時。

「前から気になっていたけれど……」
「なに?」

 彼の目の前で、義兄の事を思いだしていたので、急に話しかけられて葉月はドッキリとした。
 けれど、直ぐに目の前にいる彼へと気を傾ける。

「お前はシアトルに行く事は、行くべきだ……と、解っているのに、どうして急に躊躇うような瞬間を垣間見せるのだろう? と」
「……」
「テッドが不思議そうにしているけど、俺もそこは気になっていたな。だとしても……それを『チームの不完全さ』を理由にして、どうにかしてぼやかそうとしているようにしか見えないな」
「……解るの?」
「まぁ。お前も判っているようだから? それなら、本当はどうするべきか解るよな?」
「う、うん……」

 それはつい先程、自分で理解した事……。
 葉月は、箸を置いて俯いた。

「怒られて、初めて解ったわ……」
「だから、『自分が恥ずかしくなった』か。それなら大丈夫そうだな……」

 隼人は淡々と言うだけで、また黙って食事を進める。
 葉月が暫く黙っていても、隼人はもう、その話は終わったかのようにして、何も言わなくなった。

 そこで……葉月は意を決して、彼に言ってみる。

「……最初の流産」
「!」

 今度は隼人の箸を動かす動きが止まった。
 そして彼も箸を置き、今度は葉月の真っ正面にきちんと姿勢を正してくれていた。
 その姿を見て、葉月は……躊躇わずに続ける。

「飛行訓練中の流産だった……と、貴方には言った事があるでしょう?」
「ああ……。もしかして? トーマス教官は、その時、一緒にいたのか?」
「そうよ。上空でそんな風になったから、教官はとても驚いて。でも一生懸命になって、病院まで運んでくれたの。その経緯があって、私がアメリカに来る事になった事も、そして……十代なのに妊娠していた事も、事情を知る事になった……と、言うか……」
「それで躊躇っているのか?」

 隼人がなんだか呆れた顔をした。
 葉月は、ちょっと顔を逸らしたい情けない気持ちになる。

「そりゃ。俺もな? 流産をしたのはお前だけれど、俺も流産した気持ちになるぐらいに落ち込んだからな? それに最初の事……しかも、お前は十代だった。もしかすると、この前の事より……」
「ううん。確かにショックで結果は哀しかったけれど。むしろ……何がなんだったか、本当に自分の身に起きた事なのか、良く解らなかった……が、正直なところよ。ひどく子供すぎた私が、子供が出来るような事を後先考えずにしていたんだもの」
「もしかして? トーマス教官がどうこうと言うより、そんな自分を思い返すのが、とても嫌だったとか? 教官に会う事で、昔の事を思い出さずにいられなくなるから?」

 意外な顔で、やっと沢山、話しかけてくる隼人の質問に……葉月は、急に恥ずかしい気持ちになって、穴があったら入りたい気持ちになってくる。
 そんな小さくなっている葉月を見て、今度は、隼人が呆れたような大きな溜め息をあからさまについた。

「……お前、急に“生きている”って感じだなぁ」
「そうなのよ! だから恥ずかしいし、情けないの!」
「しかも、それを『チームの不完全さ』で逃げていたのか! だとしたら、それはミラー中佐以上に、俺が怒らなくちゃいけない!」

 半ば怒鳴りそうな隼人の声に、葉月は目をつむって硬直しそうになり……。
 でも、葉月も自分の事を主張するように声を張り上げる。

「分かっているわ! 怒らないでよ! ちゃんと自分で判ったんだから!!」

 自分でも意外だった気がして、ハッと葉月はつむっていた目を開けると……
 隼人の方が、驚いた顔をして唖然としていた。
 そして、直ぐ次には彼が声をたてて可笑しそうに笑い出した。

「……初めてだな」
「え?」

 とても嬉しそうな、そして優しい笑顔が葉月をみつめていた。

「今まで……葉月は自分の身に起きた事、それに対して感じてきた事は、あまり自分からは話してくれなかったから」
「そうね。そうだったわ」
「そうしていつも。俺はお前を理解したくて、あれこれと、うるさいぐらいにお前の周りをうろついていた……」
「でも! それは、私にとっては、とても有り難い事で、嬉しかった事だったのよ。隼人さんのお陰で、前に進めた事いっぱいあったし、ちょっとだけでも自分を見ようと言う意識も持たせてくれたじゃない? それに私『うるさい』と嫌に思った事なんか一度もないわよ? ああ『偉そう!』とは言っていたけど、あんなの売り言葉に買い言葉だったって分かってくれていたんでしょう?」
「ああ……分かっている。でもな、『葉月の為』……それが故に。俺はあれから、『やりすぎた』と思っていたんだ」
「……やりすぎ……ね」

 隼人が言いたい所の『やりすぎ』の意味。
 多くを語らなくても葉月には意味が分かった。
 結果──葉月はこうして『生きている感覚』を携える状態になれたのだが、一歩間違えたら……ううん、それこそ二人揃って『破滅』と『破局』をする程の多きなリスクを背負った『近道の賭け』すぎたのだ。
 結果オーライとは……言えない。
 上手く乗り越えられたとも言えない。
 ただ……偶然ともたまたまとも言っても良いように、本当に何処かで判断を違え、何処かで自分を見失い、何処かで結論を間違えていたら、葉月はここにいなかっただろう。
 その後の事から今夜までもそう。
 隼人と葉月が心を痛めながらでも、何処かでどちらかが逃げていたら──こうして彼の部屋で食事もしていなかっただろう。
 逆に言えば、それだけ『心が離れなかった』とも言えるのかも知れないが、それはこういう結果が得られてから言える事だから。
 隼人の『やりすぎ』は……葉月にも分かっていたが、葉月には『結果は良かった』としか言えなかった。

 でも、隼人はそこを悔いているようだ。
 それが彼の『やりすぎ』なのだろう?
 そう思っている間に、隼人が急に思い詰めたように……思わぬ事を言い出した。

「……俺は純一さんのように、時間をかけてとか、いつかを信じるとか、己の一生を無駄にしても側にいるなんて事が出来なかった男だ」
「!」
「危険な賭に葉月を巻き込んだんだ……」

 葉月は……言葉が出なくなった。
 隼人が……再び義兄の事を口にした! それもとても静かな口調で……!
 どうにも反応が出来なくて黙っている事しかできなかった。
 でも、隼人は続ける。

「勿論──こんな風にして、葉月が再び、俺の前で笑ってくれている訳なんだけれど。俺としては『奇蹟』みたいなもんだよ」
「でも、現実……こうしているじゃない」
「運良くな」

 彼の目がなんだか険しく煌めいた。
 その目が、葉月から逃げることなく真っ直ぐに向かってくる。

「俺……待てなかった。葉月と一時でも早く、幸せになりたかったんだ。一時でも早く、葉月を俺だけの女にしたかったんだ。純一さんとは逆だった。むしろ……純一さんの方が、お前をこの世界に返してくれた……と言う気が拭えなかった」
「そんな事……思っていたの?」

 彼が義兄を恨むどころか、認めてくれている事に葉月は驚きを隠せなかった。
 彼の全面降伏をしているような弱々しい顔にも、葉月は固まった。

「そして、今度は俺に真っ直ぐにひたむきになってくれる葉月の姿も、怖かったよ。なんだか、それに値するだけの男じゃない気がする反面、それは兄貴の身代わりになった気もして……」
「み、身代わり……!」

 そんな風に思われていた事は、結構、ショックだった。
 葉月としては、本当に『義兄から卒業』した上で、初めて隼人という男に全てを傾けていたから。
 でも……それは感じてはいけない気持ちだった。
 何故なら、隼人こそ……葉月に全力で向かって来てくれた男だったのに、葉月は難攻不落の鎧の心で自分だけの守りを鉄壁の如く貫いていたから……。
 それに向かい続けていた彼の気持ちは、どれほどだった事か。
 その苦しい全力疾走を思えば、葉月のたった一年弱の始めたばかりの彼への気持ちを否定されていた一時の事なんか……比べ物にならないに違いない。
 なのに隼人は自分の事をこう結論付けた。

「つまり、やりすぎた男の末に臆病な男になっていたってこと。これが俺の代償だったんだろうな」

 そんな風に隼人が思っているのが……なんだか葉月には耐えられなく、彼に即座に言い返す。

「……だったら? 私はどうなのよ? 貴方にした事も、今までの事も……! 隼人さんは何にも悪くない!」
「だから、『私はこんなだった』と言うのを話してくれて……嬉しくなったんだよ。今」
「え?」

 意味が分からなくて、葉月はきょとんとしてしまった。
 すると、やっと隼人が笑顔になる。

「……葉月が自分で『情けない』とか『いけなかった自分』とか思っている事を、俺に話してくれたから。前なら、絶対に話してくれなかったよな?」
「それだけ? の事で?」
「それだけ? 『それだけ』が……意外と俺達、出来ていなかったな? と、俺は思わされたぜ」
「なるほど?」

 分かったような? 分からなかったような感覚。
 でも、葉月も『初めて』という感触があったので、なんとなく頷いてしまっていた。

「それからもう一つ、聞いてくれ。俺、もう、葉月の事はあれこれ言わない。そう決めていた」
「そうだったの……」

 急に手放して、葉月を独りで泳がせている感覚は、確かにあった。
 最初は『もう、面倒くさい』と思われているかと思った時もあったが、いつからか『それでもやっぱり、彼は遠くでも私を見ていてくれている』と思えるように、信じられるようになった。
 おそらく──『甲板から落としちゃえよ』と、ミラーと対決する事を煽ってくれたあの時から……。
 それが、隼人がこんな風に……彼もこんな風にして『あれから』、自分と向き合って変わろうとしていたのだと……分かって……。

「なんだか、俺も今ので気が楽になった。俺、葉月に構う事ばかりで、俺自身の事とか話した事あったかな? とも思っていたもんだから……。だから、つい、純一さんの事……」

 途端に隼人が俯いてしまう。
 そんな隼人も珍しい気がする。
 とても弱々しくて、情けなさそうで──。
 それは彼が美沙という女性と向き合うと決めて躊躇っていた15歳の少年に見えた時以来……の、気がする。
 本当に、ちょっと見間違えれば、憂う少年に見えなくもなくて、葉月は自分の目をこすりたくなる。

 これが、あの隼人さん? と。
 でも……どうしてか、すんなりと受け入れている自分がいた。
 訳なんかない、訳なんか思いつかない。
 ただ、それでも『彼だ』と感じている自分が……いた。

「驚いたわ。兄様の事……急に言い出すから」
「良かったよ。言えたのが今で」
「え? どういう事?」
「お前が鍵を初めて使って入ってきてくれたあの晩だったら……俺、お前の首を絞めるように抱いていたかも知れなくてね」
「あ、ああ……」

 それは葉月も覚悟していた晩だったので、隼人の言いたい事は良く分かった。

「あの時……お前のあの姿がなかったら、本当に俺はお前の上に兄貴を重ねて、首を絞めるように抱いていた。ある意味、葉月には一番してはいけないような抱き方をしていたと思う。そうする事は、許される立場なのだと……」
「もし、そうされていても。私は……」
「その方が取り返しがつかなかったと……今思えば、そんな俺自身が恐ろしいよ」
「……隼人さん」
「だから俺はやっぱりお前を選んで良かったと今は思っているよ。そんなお前の事、俺は誇らしく思っている」
「……」

 なんだか急に、涙が滲んできた。
 『誇らしく思っている』なんて、言ってもらえるとは……思ってもみなかったから。

「葉月は俺の『やりすぎ』を乗り越えて、そうして、誰のお陰でもない。お前は自分で今の自分を手に入れたんだ」
「隼人さん……」
「そして罪ある自分から逃げずに、俺に償おうと今までの自分の全てを捨ててでも……俺に向かってくれた。その上……こんな風にして、ちゃんとありのままの葉月で俺の目の前に『帰ってきてくれた』事を……俺は誰に感謝したらいいのだろう?」

 そして隼人が呟いた。

 『俺は今、とても幸せだ……“前よりもずっと”』──と。

 それだけで、葉月はもう泣いていた。
 けれど、そこには泣きながらも笑顔を浮かべて彼を見つめている自分がいた。
 目の前で、それをそっと笑顔で受け止めてくれている人がいる──。

「それは……貴方もきっと自分で勝ち得た事だと思う。貴方にこそ、誰よりも誇って欲しい……」

 そして葉月も呟く。

「貴方に誰よりも、幸せになって欲しいの……。私の事なんか、もう、どうでもいいからね」

 そうしたら……。
 どうだろう? 今度は隼人が急に泣き出していた。
 男泣き……って、こういう姿なのかな? と、葉月が戸惑う程に。

 でも、さっきと同じ。
 そんな彼の事も、なんだか愛おしい。

 初めての気持ちのような気がした。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 食事を終え、以前もそうしていたように、彼にはカフェオレで一息ついてもらい、葉月は洗い物をする。
 葉月の後ろにあるテーブルで、隼人が新聞を読みながらカフェオレを味わっている気配。
 その感覚は場所は違っても、丘のマンションにいる時と同じに感じていた。
 すると……カフェオレをすすっている音がした後に、隼人が急に一言。

「純一さん……どうしている?」
「!」

 葉月は驚いて、振り向いてしまった。

 そこには、やっと聞けたと言う……隼人の緊張している顔があった。
 でも、それが言えたのも、今夜の先程の話し合いがあったからなのだろう。

 丁度、洗い終えたので、葉月は蛇口を締め、隼人に向き合う。
 そして、そっと首を振った。

「知らないわ……」
「そうか」

 隼人が俯いた。
 葉月が暫く、そんな彼の様子をうかがっていると……また、隼人が意を決したような顔で葉月を見た。

「あのな。信じてくれないかもしれないが、今なら言える」
「……なに?」
「義兄妹なんだろう? そのままでいいのか?」

 彼のその問いに……葉月はただ微笑んだ。

「そうよ。私達、義兄妹……」
「だったら……その……。会えるなら、会った方が……」

 彼の自信がなさそうな、でも、心配してくれている顔。
 それにも葉月は、そっと首を振った。

「まだ、会えない」
「どうして?」
「分かるわ。きっとお兄ちゃまも……私と同じ事を思っているって……」
「……」

 言ってはいけない言い方だったかもしれないと葉月は思った。
 でも、この事もいつかは隼人と話さずにはいられない事だと思ったから……今、自分の中で思っている事を正直にいっただけ。
 自分の中にある気持ちを彼には、もう、誤魔化してはいけないとも思っている……。

 そして、隼人はやはり……何かにやられたような顔になって俯いてしまっていた。
 だから、葉月は続ける。

「一緒に飛ぼうって言ってくれたの」
「一緒に……」
「でも飛んだ後は、別々で。それでもお互いに何処かで飛んでいると信じている。一緒に飛んだけど、私も兄様も、お互いがどう飛んでいるか知らない。少なくとも私は知らない。でも、信じてるの。お兄ちゃまもきっと、あの日から飛んでいるはずって……」
「そうなんだ……」

 そこで隼人は分かってくれたのか、ホッとした顔になったと同時に、『義兄妹の誓い』にも理解をしてくれたような晴れやかな笑顔を見せてくれた。

「あの人の事だから、きっと飛んでいるだろうな」
「うん」
「俺もそう願っているよ」
「有り難う──」

 なんだか隼人の笑顔が、前よりずっと輝いてきているような気がして……葉月も嬉しい。
 お互いに微笑み合うその隙間に、とても柔らかい空気が入り込んできている事を実感せずにはいられない、そんな彼の笑顔に……。

「この頃、真一と会えなくなったけれど、真一は大丈夫なのか?」

 そう……真一はついに三回生になり、益々多忙な訓練生生活になっていて、葉月に会いに来るのもやっと……という日々を送っている。
 そんな真一の事を口にする隼人も久し振りだった。

「忙しそうにしているけれど、元気よ」
「そっか。この前、俺に声をかけてくれた時はすごく大人の顔になっていて驚いたよ。背丈もついに超されていたな」
「そうなの! あんなに大きくなるって思わなかったわ」
「丁度、成長期だったんだな」

 そして、隼人がまた呟く。

「父親に似てきたな……って思った」
「……」
「顔つきが大人びてきたせいもあるのだろうけれど。なんだかすごく男らしさを思わせるような落ち着きがあって……」
「そうね。どちらかというと『叔父様似』だと、私は思うけれどね」
「真さんって事か?」
「そうよ。あんな意地悪なお兄ちゃまに似てしまったら……」

 そこまで言って、葉月はちょっと口ごもる。

「ああ。あの人──なんだか素直そうじゃないもんな。確かに……真一とは似ても似つかないものはありそうだ」

 隼人がそう言ってしまったので、葉月は笑い出していた。
 そんな葉月を見て、隼人も肩の力が抜けたかのように笑顔を浮かべていた。
 それもあったのか、隼人の話は止まらない。

「……せめて、息子と会ってくれる気になっているといいのだけれど」
「ああ、会っているみたいよ」
「本当かよ!?」

 葉月と今後会う会わないについては『分からない』と答えたのに、息子の真一には『会っている』とあっさり答えたので、隼人は驚いたようだ。

「うん。いつもシンちゃんの事後報告なんだけれどね。あれから直ぐのお正月も、この前のゴールデンウィークにも……『会ったよ』って教えてくれたわ」
「そ、そうだのか……! 真一……喜んでいた?」
「うん。嬉しそうに、何をしたか話してくれたわよ。でも……私がまだ兄様と会わない手前、遠慮しているような報告だったけれどね。何を話したかとかまでは、シンちゃんも言わないし、私も聞かないわ」

『親父ね。一度だけ、葉月は元気か? って聞いたよ。俺、元気に頑張っているとだけ言っておいたからね』

 それだけ教えてくれた。

 その事も隼人にはちゃんと告げる。
 すると、隼人は表情を曇らせることなく……今度こそ、笑顔で受け止めてくれた。

「そうか。良かったな……! 甥っ子と兄さんが親子関係を始められて」
「うん……」

 そんな隼人を見て、葉月はそっと顔を背けた。

「葉月……?」

 訝しそうな隼人の声。
 葉月は、言いにくいけれど……言ってみる事にする。

「……貴方は怒るかも知れないけれど。きっと、義兄様は貴方に感謝していると思う」
「!」

 隼人の驚く反応を息づかいで感じ取りながらも、葉月は続ける。

「だって……貴方がああさせてくれたから。義兄様も出口を見つけたんだと思うの。『私達』……」

 それ以上は言えなくなった。
 『私達の為だった』──そう言いたいけれど、隼人はきっとそうは思っていないだろうから。

「葉月……」
「隼人……さん!」

 またいつのまにか、葉月の直ぐ後ろに彼が立っていた。
 そうして、彼がなんだか感極まったように葉月を抱きすくめる。

「……それで良かったのなら、それだけでいい。もうそれ以上もそれ以下も……俺にはない」
「隼人さん……」

 もう終わった。
 終わったのだ──。

 葉月は隼人の腕の中……そう思える事が出来た。
 そしてやっと自分で自分を許しても良いような気にもなれた。
 勿論……忘れてはいけないから、ずっと『罪』は刻み続けるのだけれど……。

 その『罪の印』である胸元のリングを、隼人が指でなぞる。
 その罪を彼が優しくなぞってくれるのも、葉月には既に心が安らかになる仕草──。

 背中から葉月を抱きしめているその手が、葉月の顎をそっとなぞって上に向ける。
 葉月が逆らうことなく……上を見ると、直ぐそこに彼の熱っぽい目をした顔がある。
 そっと目を閉じた直ぐ後に、柔らかい口づけがやってきた……。

 葉月もそのまま、その柔らかさに溶け込むように、唇を寄せる……。
 その内に、背から伸びている彼の手がそっと──いつものように、葉月の身体を沿っていく。
 キャミソールの下から、柔らかな腹部をそっと上へとなぞっていく手と……ジーンズの腿の上を沿っていく手。
 やがて一つは乳房に辿り着いて、そして……もう一つは……。

「……隼人……さん?」

 足にあった手は、ジーンズの後ろから背筋をそってスッとショーツへと向かっていく。
 その感触に、葉月はゾクッと少しばかり震えてしまう。
 その彼の大きなはずの手が、細い一本の筆のような感触で、葉月のヒップの谷間へと滑り込んでいった。

「・・・だ」

 『だめ』と言いそうになって、葉月は止める。
 『だめ』なんだけれど、何が『だめ』なのかって……あまりにも心地よすぎるから……。
 もう、本当に『だめ』
 きっとキスをした時から、その時から既に『だめ』になっている。

 その『だめ』の証拠に……彼が触れてしまう……。
 それを知られるのが恥ずかしい『だめ』なのだ……きっと!

 そうして彼の指先に躊躇っているのだけれど、そのまま任せている葉月のときめき。
 それをやがて、隼人が知る瞬間がきた。

 彼の指がヒップの谷間を滑った先の……栗毛の茂みの影。
 そこにまた滲み出てしまっているだろう『白蜜』を……。

 隼人が耳元で囁いた。

「今夜は……ヴァイオリンの調律があるから、帰る……だったよな」
「そ、そうよ」
「……残念だな」
「そ、そうね……」

 そういいながら、彼の指は……判っているくせに、そこで止まったまま。
 進むなら、進めばそれで葉月は溺れてしまう事が出来る。
 なのに、そこで退こうともしない彼の指がただ、吸い付くように停滞している。

「……とても熱い。俺の指……」
「……」

 葉月は足が震えているのに気が付いた。
 そして、彼の囁きに答えていたのは、吐息……その息も震えていた。
 そんなどうにもならない状態にさせらたまま……もう、どうにかなってしまいそうな震えだった。

「前みたいにはなりたくない」
「も、勿論よ……だから、お願い。離して……」

 すると急に隼人の指先が……鋭い角度で茂みの谷間へと入り込んだかと思うと、ぎゅっと上に奥へと貫いた。
 濡れるような儚い声で葉月は小さくうめいてしまった……。
 当然……そこで葉月の身体の力が抜ける。
 それを隼人が片腕で、抱き留めていた。

「離せないな。だって、お前が、こんなに……。今夜は、どうしようもなくなりそうだ」
「私も……」

 既に葉月の中で、彼の指先が熱く貫いているのに……。
 隼人はそれでも、やはり流されずに躊躇っているのが判る。
 それは今までのような『怖い』ではない事も葉月には通じていた。

 以前のようにどうしようもない熱愛に溺れたが為に、止めようもない愛に流されたが為に……起こってしまった事を、二人で同じように思い描いている事だろうと。

 すると、スッと潔く、彼の指が遠のいていった。

「またな」
「ええ」

 彼の方がしっかりした顔をしている。
 葉月の方が、熱に侵されているように彷彿としているままだった。

 意地悪な人。
 そう思えてしまうぐらいに、暫くは惜しむように隼人を見つめてしまっていた。

「そんな顔も……初めて見た」

 彼の満たされたような笑顔と、くちづけ。
 もう逃げ出したくなる……どうせ、崩れるがままに今夜は愛し合えないのなら。
 今すぐに逃げ出さないと、葉月の方が彼に噛み付いてしまいそう。

 葉月はなんとか気を戻して、帰り支度をする。
 着替えは置いていく。
 制服に着替える間も、隼人はとても熱っぽい眼差しでいるのに、落ち着いて見ているだけだった。

 なんだか葉月の方が、残念な気にさせられたのに……。
 でもその落ち着きは、とても、安心感がある物だった。
 着替えると、彼が玄関まで見送ってくれる。

「もう一度、ミラー中佐と話し合った方がいいな……」

 玄関で見送ってくれる隼人を葉月はじっと見上げた。

「? どうした?」

 まだじっと見つめている葉月を、隼人が訝しそうに見下ろしている。
 そして、葉月は呟く。

「私……もう、飲んでいないから、よろしくね」
「は? なにを?」
「ピル……」
「!」
「お、おやすみなさい!」

 驚いた顔をした隼人を見て、葉月はそれだけでサッと玄関を出た。
 今度はちゃんと言っておかなくちゃ……そう思っていたから言ったけれど、なんだか自分から言うという事がくすぐったい感覚で……。
 だって、まるで『貴方の子が欲しい』と言ってしまったような気がして……!

 今度は違う意味で葉月の身体は熱くなっていた。
 葉月はそれを振り払うように、外に停めている赤い車まで、真っ直ぐに走った。

TOP | BACK | NEXT
Copyright (c) 2000-2007 Yuuki Moriya (kiriki) All rights reserved.