ふと目を開けると、さざ波の音……。
涼風が優しく撫でていく。
部屋の灯りはついていなくて、月が窓辺に見えた。
その縦型の半月が、暖かみある明かりで、青く寂しげな暗がりを包み込むよう……。
『愛しているの……。もう、離さないで……』
そう呟いた後、彼からの口づけ──。
その後、すぐに……葉月は感じた。
身体の奥から、とても狂おしい物が滲み出てくるような、ゆっくりしているけれど、とても痛くて熱い物が身体を駆けめぐっていくのを──。
頬が急に熱くなり、何かが湧いて溢れ出ていく熱い感触を──。
ふと、以前に感じたような『血潮』を感じた。
血が身体中を急激に巡って、全てが熱していくかのように。
青い夜灯りの中。
水色のシーツの上。
もう、足のつま先まで、すっかり素肌になってしまっている葉月の身体を、彼が以前のようにゆっくりと優しく愛している最中。
優しく身体の上にいる彼の懐かしい愛撫をしてくれる横顔に仕草。
それが何故か、とてもゆっくり感じた。
『こんなだったかしら?』と、葉月は心地よく感じながらも、妙な違和感を覚える。
「……ち、違うの」
「……? な、なに・・が」
葉月にはゆっくりに見えるのに、隼人はもう余裕がないかのような夢中な声。
彼がやっと心を無にして愛してくれる所、水は差したくないけれど──でも、葉月にはなんだか『もどかしい』。
そういう違和感だった。
「……そ、そうじゃなくて!」
本当は、今にも我を忘れそうな程に感じてしまって、葉月だって切なげな吐息を漏らしているのに──。
彼の広い肩にしがみついて、抱きついてしまっているのに。
葉月は、まるで癇癪を起こすかのように、下からじっくりと登ってきた隼人の『仕上げの口づけ』から、顔を逸らしてしまった。
そこで、隼人がいったん……葉月の上から少しだけ退いた。
退いたけれど、彼は腕の囲い、胸の重石から、葉月を解放しようとはしていない。
そこで隼人が不満そうに『はぁ』と、溜め息を漏らし、葉月を睨んでいた。
「なにが違うんだ」
「……」
葉月が口ごもると、また隼人が『はぁ』と溜め息を漏らしながら、額にかかる黒髪をかきあげる。
「……変わらないな、本当に」
「!」
何度か、彼を押しのけたり、そっとそっぽを向けた事がある。
確かに──それほど理解し合っていない新たなお付き合いを始めた男性は『怖かった』。
こんなに気遣ってくれる隼人でも、男になれば──『乱暴になる』のではないか? と。
セックスなんて、してみないと分からない。
日頃の姿からは想像も出来ないような願望を持っている男がいっぱいいるのだから……。
でも、それもあったが、それだけの感情だけではなかった。
彼がしてくれている行為に嫌悪を感じていたわけではない。
隼人はそう感じていたようだったが……。
言えなかっただけ。
愛されるのが『怖い』だなんて。
ううん……それは違うかも知れない? 本当は『義兄』以外の人を愛してしまったら、お兄ちゃまを忘れてしまうと何処かで怖れていたのかもしれない? と、葉月は思い直す。
ずっと前、彼が葉月を本気で愛し始めてくれた秋の夜。
彼が大切に、薄いガラス細工を扱うような力を加減した優しい手つきで愛し始めてくれた時。
葉月の頭の中には、『義兄』がいたのだろう。
『また……外の人を、こうして中途半端に受けれる私』を……。
受け入れて愛されたいのに、そこに消化されていない気持ちが奥で疼いた小さな罪悪感があったのだろう。
でも、葉月はそれすらも自覚していなかった。
本人が自覚はしていないのに、心は嘘をつけなかったのだろう。
自然と自覚しないから、『本当に、このままでいいの?』という無意識の指令が、彼を押しのけてきた。
今なら……そう思える、言える。
それで隼人は、今夜も押しのけられてしまい憮然としているのだ。
だけれど、そうして水を差されムードを無視する葉月に呆れてしまった隼人の胸が遠のこうとしている所……。
「いや、怒らないで……違うの」
「! 葉月……?」
葉月は両手を添えていた彼の両肩を、ぎゅっと自分の胸元へと力強く引き戻した。
今度、隼人は訳の分からないどうしようもない困惑顔で、固まってしまっていた。
葉月は……脇の下につかれている隼人の手をとった。
そして目を閉じ、息を大きく吸いながら、少し緊張しつつも躊躇わずに……その手を、柔らかな太股の上へと滑らせた。
「ん?」
まだ解ってくれない隼人の訝しそうな顔に、葉月はちょっと唇を尖らせて、今度は大胆に栗毛の茂みに触れさせる。
「もう……いいでしょ」
「!」
「もう……そんな優しさなんか欲しくないの」
「え、っと・・・」
目をぎゅっとつむり、はっきりと言い切った葉月の『希望』の意味。
それをやっと解ってくれた隼人が、唖然としている。
今、葉月が一番熱く感じている身体の一部に触れている彼の指先。
きっとそこには既に、とても満ち足りて滲み出てしまっている愛の印が溢れて、彼の指を濡らしている事だろう──。
いつもの睦み合いでは、先程まで彼がそうしてくれていたように、優しくてゆっくりとした『丁寧な挨拶』のような前戯がお決まりだった。
けれど──葉月は、隼人が口付けたあの瞬間に、既にじわっと溢れ出てしまっていた事が判っていたのだ。
口づけだけで、彼を欲してしまう程に燃えてしまった感触……。
だから──そんなの必要ない。
私は……今、すぐにでも。
今、すぐにでも!
「もっと、強く愛してくれないの? そうでないなら……私がそうしちゃうから」
「……お前」
「私達が離れる前──あんな風に、私の事を奪うみたいに抱いて……よ」
隼人にとっては『あの頃』の我を忘れた愛し方は『心の傷』なのかもしれない。
そうする事で、生まれる事になった『小さな命』。
でも──あれは『本物』だった。
あんなに激しく愛された事があるのに、もう、それ以外の『生易しさ』ぐらいでは、今の葉月は満足しない。
少なくとも今夜は──。
葉月は欲しいのだ。
『解った』
隼人が掠れた声で、小さく呟く。
「あ、うっ……。は、隼……」
その後、彼が変わった。
そして……葉月も。
急変した彼に何度も突かれ、その度に身体の力が抜けて、とろけてしまいそうになる。
そして葉月はどれだけお返しの口づけを彼にしたか……覚えていない。
でも、そんな風に忘れてしまうぐらい、ただ……夢中になっている彼に口づけをしていた。
彼の息苦しそうな吐息を塞ぐように。
何度も熱愛を注いでくれる彼に、返事をするように──。
同調してくれているのを、身体の奥で深く実感していた。
私が口づけをすれば、する程──彼は夢中になって愛してくれたから。
その間、葉月の白い胸元で……銀色のクロスとリングが踊っていた。
それを時々見下ろしている彼の眼差しも、葉月はずっと眺めていた。
この久し振りの睦み合いは、とても短かったけれど、とても熱くて濃密だった。
そして痛くて焼けそうで、ひりひりしたまま、あっという間に通り過ぎていった。
「……俺」
「ん?」
遠いさざ波の音が聞こえる程、二人は静かに寄り添っている。
隼人は隣で、両腕を頭の下で組んで、ぼんやりと天井を見ている。
それでも葉月は、シーツに頬を寄せたまま、ずっと黙っている彼をただ見つめていた。
黒い髪と黒い大きな瞳、長いまつげ。
そして、私を愛してくれる唇の形。
それをみつめているだけで、満たされている中、隼人が急に呟いたのだ。
天上を見つめている隼人の遠い目。
そんな彼の眼差しは初めて見た気がする。
本当は何度も、彼の遠い目を見た事はあるだろうけれど、今の葉月は彼のそんな表情に仕草を、一時も逃さないぐらいの夢中さで見つめている。
その上で感じた……遠くて、そして、私の胸が少し痛くなるような、切なくなるような彼の哀しい眼差し。
「思い出していた」
「何を?」
葉月は静かに反応したのだが。
彼がまた黙ってしまう。
けれど、その遠くて哀しくて……何も景色のない天上に映しているだろう彼の脳裏に浮かんでいる情景を思いながら、葉月はただ静かに待つ。
「今夜、すごく愛されていると……思えたんだけれど」
「……」
なんだか否定的な答を予想させるような言葉に、葉月はドキリとしながらも……そっと耳を傾けるだけ。
でも、隼人がなんだか微笑んだ。
「そうか、あの時も──すごく愛してくれたなぁって。思い出していた」
「私の事?」
それは何時のどんな時の事? と、葉月は以前の自分の想いが、今になって隼人の中で蘇っている情景がすごく気になる。
けれど、隼人は静かに笑って、明かしてくれる。
「ほら、お前が『行ってしまった日』だよ。航空ショーが終わった後だ」
「……もしかして、『バッジ』の……事?」
隼人がこっくりと頷いて、やっと葉月の方を向いてくれた。
「あんなに葉月に激しくキスされた時の事だよ。俺……あの時、本当はお前をさらって、官舎に連れて帰って、何もかも忘れて愛し合いたいと思ったんだ」
「! そ、そうだったの?」
そんな彼の心情を知らなかった葉月は驚いて、身体を起こしあげ、隼人を見下ろした。
すると隼人は、急に……致し方ない力無い微笑みを浮かべて『ああ』と小さく答えていた。
でも彼の手が、葉月の栗毛の毛先をそっと手に取った。
その毛先を隼人が静かに、葉月の柔肌ごと撫でる。
「愛しているって……言ってくれていたのにな。今夜みたいに。同じ目で……綺麗な目で」
「……」
彼の手が栗毛を指に巻いてほどいては、また巻き付けながら、笑っている。
「バッジ……渡したくなさそうに躊躇っているお前を。俺はあの時、突き放してしまったんだよな」
「もう、やめて。あの時の事はもう……」
葉月は自分の髪で手遊びをしている彼の手を、そっと握った。
自分がしてしまった事から逃れる為の『やめて』じゃない。
そうしてまた、自分がした事を責めようとしている彼を止める為……。
でも、隼人は続ける。
「そう、あの時──お前をさらっていたならば……。お前をこんな目に合わせなくて……」
「違うでしょ」
「……葉月」
葉月はきっぱりと言い、隼人を強い目で見下ろした。
そんな葉月を見て、隼人の顔から笑みが消える。
だけど、葉月は彼の手を強く握った。
そして、その手に口づけて、頬に寄せる。
葉月はそっと目を閉じ、微笑みを浮かべて呟く。
「これで、良かったのよ。少なくとも私はね」
「そうか。そうかもな……」
「貴方を傷つけたけれど──でも、有り難う……」
葉月が目を開けて、微笑みかけると──。
『お前がいいなら、もういい』とでも言いたそうな彼の晴れた笑顔がそこにあった。
「これ……」
今度、隼人の手は、葉月の胸元に揺れたままのリングへ。
葉月もその彼の指先を見下ろした。
「ごめん。俺……まだ……」
何がごめんなのか、葉月には直ぐに判った。
だから、それにも葉月は彼に微笑んだ。
「解っているわ。私も……まだ、ここにしていたいわ」
「そうか」
「まだ……指につける自信なんて、私にもまだない……」
そう言うと、隼人の指がそこから退いていった。
「……うん。俺もだ」
「でも……こうしていても、いい?」
ちょっと怖々と聞いてみる。
「ああ、嬉しいよ」
やっと彼が満足そうに微笑んでくれて、葉月も笑顔になれる。
それだけで、葉月も嬉しくなって、もう一度、彼の隣に横になる。
そして、そっと彼の腕に頬を寄せた。
「私も、嬉しい」
そう言うと、隼人の手がそっと滑らかに栗毛を毛先まで撫でていく。
「よく考えると──俺も、若かったなー。なんだか、お前には申し訳ないけれど、あのプロポーズ、取り消したいよ」
「ふふ。それを言うなら、受けた私なんか『幼稚』だったわね」
『幼稚?』と、隼人が笑う葉月の言葉に首を傾げた。
「そうよ……私……。貴方の翼につかまって飛ぶなんて。頼りない事を言っていたもの」
「俺は……それでも良かったけれど」
「だめよ。私、自分で飛ぶわ」
そして葉月は、隼人の左手を取った。
「私も、印……つけていい?」
葉月の自信に満ちた笑顔に、隼人が『え?』と首を傾げる。
そして、そんな隼人に構わずに、葉月は彼の左手……薬指にくちづけた。
「!」
隼人がとても驚いた顔をして、そして、彼の目が僅かに潤んだ気がしたが。
葉月は、隼人に輝く笑顔を見せる。
「今は、印だけね……」
「あの時……の……」
隼人が去年、プロポーズをしてくれた時に、葉月が『OK』の返事で彼にした事を……今度は自分から。
「今はお互いに見えない印だけ。どうなるか保証なんてないわ。でも、もう少し……今のままの私で、頑張らせて」
葉月がそう言うと、『無理するな』と言う泣きそうな息だけの声が聞こえた。
でも……隼人にとてもきつく抱きしめられていた。
葉月も彼の耳元に囁く。
『貴方もね──』
もう一番、無理をさせたくないのは彼の方。
今度は自分で飛ぶ。
私の中に息づいた『私達の天使』の為にも──。
そして葉月は心でそっと呟く。
私は一人で飛ぶけれど、きっと私の見える位置に、貴方がいるわ──と。
それは隼人が捕らえる景色でなく、葉月が捕らえ続けたい物。
隼人には見えなくても、葉月は彼が見える位置に、いつでもいたい──そう思っていた。
・・・◇・◇・◇・・・
これでやっと……シャツのボタンが開けられる。
この夏、葉月が戒めていた事。
密かにしているネックレスとリングを首にかけている事を知られない為に、白いシャツ制服の第一ボタンすら、開けないように気を付けていたから……。
『本当に毎日しているんだ』
あれから、大佐室ですれ違った隼人に何度かそう言われた。
シャツのボタンを少しだけ開けた隙間を、隼人も確かめていたようで。
そして、それを目にした彼は、そっと嬉しそうに笑ってくれていた。
そんな姿で、今日も大佐室で仕事をする。
週中で、もうちょっとすれば、二連休の週末休みと日曜日がやって来る。
残念──せっかく隼人と『本格的な復縁』の状態になった初めての週末なのに。
葉月には随分と前から予定があった。
そう……鎌倉に帰って、音楽会に出席する。
でも、残念な思いもあるけれど、葉月は『これはやめない』という強い気持ちは健在だった。
そして、その予定を知らせた隼人も笑顔で『行っておいで』と言ってくれていた。
ここで隼人と一緒にいたいが為に、せっかく取り戻した『音楽との触れあい』をやめては、以前の状態に逆戻り。
そして、葉月にとっても、これは既に大切な事。
やっと『ヴァイオリン』を身近に取り戻したのだから。
そうして、週末には出かけられるようにと、やり残しが出ないように仕事に集中している時だった。
なにかが……葉月の栗毛に『こつん』と当たった感触。
「?」
葉月が訝しみながら顔を上げると……手元にクシャクシャに丸めた紙が一つ。
開いてみたけれど、何も書かれていない。
(もうっ)
誰がやったかなんて、一人しかいない。
達也だ。
葉月は頬を膨らませながら、左側の中佐席を睨んだ。
けれど、達也の顔はモニターに隠れていて見えない。
彼は時々、こういう『悪戯』をしては葉月にちょっかいを出して、楽しもうとするのだ。
もう、昔から。
葉月は呆れながら、その丸まっている紙を右側の足元に置いてあるゴミ箱に捨てる。
その時、葉月は右側の中佐席を見る。
こちらの中佐は、冷たい眼鏡の横顔。
今、大佐嬢がちょっと動いても、それも気にならないぐらいの集中力で仕事をしている。
それを見て、葉月もまた同じように机に向かった。
ところが──! 『こつん』と、また左にそんな感触。
再び手元に、丸められた小さな『紙くず』が転がる。
何か意図があると解って、葉月は今度も試しにその紙を開いてみる。
また……白紙だ!
(なんなのよー!?)
葉月がやっとムキになって、左の席へと顔向けた途端──!
小さい紙くずが、たて続けに三つ連続で飛んできた!
それが頬にあたり、次は顔をかばった腕にあたり、最後の一個は頭の先に当たった!
葉月は『うーっ』と唸りながら、大佐席を立つ!
「ちょっと! いったいなんなのよ!!」
葉月がそんな声を張り上げて立ったので、静かに仕事をしていた隼人すらも、ハッと顔を上げてしまった。
なのに。それともやっぱり? 根元である達也は、知らん顔をしているのだ。
葉月はそれを見て、さらに息巻く。
「ただの悪戯なら、いい加減にしてよね!! それともなに!? 言いたい事があるの!?」
葉月が腹立たしさまぎれに叫ぶと、今度は達也がザッと席を立った。
でも、達也の顔が……思いの外、真剣だったので、急に葉月の中で盛り上がった熱がサッと引いてしまう。
「ある。あっちに行こうぜ」
達也が親指で大佐室の外を指した。
その真剣な顔と、こうした葉月をムキにさせるぐらいのちょっかいに、葉月は『それ程の意図』があるのだと解って頷いた。
達也の後をついて出て行こうとしている葉月を、いつもなら『またか』と放っている隼人が……じっと見ていた。
彼も達也がいつものちょっかいまでは『彼らしい』と思ったのかも知れないが、なんだかいつもと違う『かまかけ』かと思ったのか……気になっている様だった。
達也と一緒に大佐室を出て、達也に連れて行かれたのは、意外と直ぐそこの廊下。
彼がいつも喫煙をしているソファーだった。
そこに来たので、達也は習慣のように胸ポケットから煙草を一本取りだして、口にくわえる。
「いるか?」
「いらないわ」
何故か、達也は時々こう言う。
葉月が煙草をやめたのを知っているくせに。
そして、いつも断る葉月の反応にも、それほど気にしていないように、ただそれだけなのだ。
達也は煙草に火を点けると、ソファーに座った。
「なんなの?」
「お前、何か忘れていないか?」
「忘れている?」
達也がちょっと自信がなさそうに、小さな声。
葉月はそこで、ふと首を傾げ……。
「ああ。週末の事?」
「まだ、返事をもらっていない」
「来ても良いってお兄ちゃま言ってくれていたわ。その代わり、スーツでね。軍服はタブーですって」
葉月がサラッと言うと、達也は渋い顔。
「お前なー。早く言えよ!」
「ご、ごめんなさい。だって、達也も急かさないから、もしかして……気まぐれだったのかと……」
「もういいっ」
彼は拗ねて、火を点けたばかりの煙草を、灰皿に手荒くもみ消す。
「スーツだな……解った。時間は?」
「夜の7時からよ。場所は横須賀にあるレストランを貸し切ったから、後で住所と地図を渡すわ」
「ほんとに、定期便の席が取れなかったら、お前を恨むぞ」
「そこまで言う?」
今度は葉月が拗ねると、やっと達也が笑う。
「よっしゃ。楽しみだ。お前は何を着るんだ?」
「……」
葉月は一時、躊躇い……『ドレス』と小さく答える。
すると、達也の顔が益々輝いた。
「本当に、楽しみだ。一年ぶりだな! お前のドレス姿!」
「そうね」
昨年の誕生日は、フロリダで迎えた。
そして、恋人が選んでくれたドレスを着た。
そして……この彼と、仲を深めたマリアに盛大に祝ってもらった想い出。
「右京兄様も、達也が来るなら楽しみと言っていたから」
「そっか。お兄さんと話すのも久し振りだな」
二人揃って、微笑み合ったのだが……。
急に達也の表情が曇る。
「どうしたの?」
「いや……嬉しいんだけれど」
葉月が首を傾げると、今度は彼がちょっとだけ申し訳なさそうな顔。
そして躊躇ったように言い出した。
「……兄さんは?」
「え? 隼人さんの事? 隼人さんは小笠原で仕事があるから、出かけないと言っていたわ」
「俺の事は……?」
「言ったけれど。なんにも言っていなかったわよ?」
『そっか』──と、達也は小さく漏らすと、ソファーから立った。
「それだけ。俺、ちょっと班室を廻ってくる……」
「そう? いってらっしゃい……」
今度は急に、力が抜けたような……彼らしくない背を見せて、行ってしまった。
葉月は、ただ首を傾げるだけだった。
・・・◇・◇・◇・・・
その日、いつもの業務を終えた葉月は、四中隊棟の一階、ある班室に向かっていた。
一階に並んでいる班室は、現場にでる外勤隊員が多いので、そこをサポートしている事務系の隊員が残業していない限りは、既に帰宅している時間帯。
暗がりの廊下に一つだけ、扉が開け放してある班室がある。
葉月は廊下に光が差し込むその入り口を、そっと覗いた。
事務室の中では、小さな応接テーブルの後ろにある給湯シンクで、コーヒーを入れている銀髪の男性が一人きり。
「お疲れ様、お邪魔致します」
「やっと来たか。待ちくたびれた」
葉月の声に、振り向いたのはそこの班室の長。
ミラー中佐だった。
「君もお疲れ。隊長業務は大変そうだな」
「もう、慣れました。それに訓練より、ずっと楽だわ」
「だろうな? これほどに惨敗が続くのは、『仕掛けた』大佐嬢も予想外だっただろうしな……」
「面目ございません」
葉月が真面目に呟くと、何故かミラーが優しそうに微笑んだ。
「どうぞ」
「相変わらず。紅茶は入れて下さらないのね」
「大佐嬢にも、女性としての君にも媚びるつもりはないからね」
「頂きます」
それでも、ミルクをたっぷり入れて欲しい要望は既に分かってくれているようで、葉月は嬉しくなり微笑んだ。
彼と小さなテーブルを挟んで、班室で二人きり向かい合った。
彼とはこうして、皆が帰ってしまった時間帯に密かに会うようになっていた。
キッカケは共通の上官であるトーマスが、『一緒に訓練をしよう』と持ちかけてくれた時から。
最初こそ、ショットバーで鉢あった時のやりとりは最悪だったが──仕事の事で、向き合うようになってから、お互い少しずつだが素直に自分の事を話せるようになったのだ。
今夜もそう。
仕事の話で葉月は訪れ、そしてミラーは葉月を待っていてくれたのだ。
そのミラーが入れてくれたミルクたっぷりのコーヒーを葉月は味わう。
大佐室にいれば、『上等』を目指す補佐達が入れてくれた気を遣ってくれる極上のお茶を楽しむ事は出来る。
だが、班室に備えてあるお手軽なキットで入れられた気さくな味も、葉月は好きだった。
パイロットの先輩達と馬鹿騒ぎしながらお茶を楽しんでいた時期を思い出すから……。
「美味しい」
葉月がそう言うと、ミラーはただ静かに微笑み返してくれるだけだった。
あんなに口が悪い人だったのに。
実はこんな風に、寡黙に語らない方が多い人なのだとも、初めて知ったりした。
葉月がこうしてミラーと密かに『ミーティング』をしている事は隼人も知っている。
その隼人が言うには『ウサギが彼をお喋りにしたんだ』と言う事らしい?
良く分からないが、ともかく……バーでやりあっていたような関係ではなくなっていた。
そんなミラーが溜め息をついた。
葉月もカップを置く。
「そろそろ“次の更新期日”がくるんだが……」
「そうね」
その『期日』とは、彼が細川と取り交わした『半年の契約期間』ではない。
葉月が『ミラー中佐の契約が切れる二ヶ月の間に落としてあげる』と訓練中に豪語したのは、もっと前……春頃の事。
今はもう真夏を迎えようとしている。
とっくに彼の契約期間は過ぎていた。
なのに、どうして彼がいるのか?
『おまけだ。あと一ヶ月いてやる。それで駄目なら、本当にシアトルに帰る』
彼はいつまでも成長しない『とろいチーム』なのに、『あと一ヶ月なんとか付き合う』という答を出してくれたのだ。
そして、そんな彼の期限延ばしは『期日更新』と呼ばれ、今後は一ヶ月更新となる……という宣言をしていたのだ。
そこには既に、ミラーという半年以上付き合ってくれたキャプテンの『チームへの愛着』と『愛情の裏返し』が現れていた。
『お嬢さんがやろうとしているのは徹底的にコリンズ流をやらせて、それが通用しないと分からせる事なんだろう?』
……見抜かれていた。
そして、彼に見抜かれている事に関して、嫌な思いもなかったし、彼が葉月の意図を分かって飛んでいてくれた事に嬉しさを感じたぐらい。
『そうです。ですから、私とは喧嘩をしている姿勢でお願いします。そして、手加減なく彼等を徹底的に落として下さい』
『解った』
だから『喧嘩をしている』として、犬猿の姿勢は崩さなかった。
だが、こうして指導者のミーティングをしている内に指導側の信頼関係は深くなっていたのだ。
そして、ミラーは見せかけで『仕方がないな、契約更新で、あと一ヶ月付き合ってやるさ』──と、『憎まれ役』をかってくれているのだ。
その期日更新の一ヶ月がもうすぐやって来る。
今回……また更新をすると、今度は『何故? チームに愛想をつかして、シアトルに帰らない?』と疑問を持たれる事になるので、彼は今、次なる方法を考えているのだ。
だが、葉月は彼にはっきりと言う。
「後一ヶ月だけ、お願いします。それで成果がなかったら……」
「俺は……小笠原にいても構わないのだが……」
彼が自信なさそうに呟いたので、葉月はふと彼を見た。
「シアトルに戻りたいのでは?」
「どちらでも……いい」
葉月の問いかけに、彼はぶっきらぼうな言い方で、コーヒーを飲む。
葉月は暫し黙って、目を見開いていたが、そんなミラーの様子を悟って深くは追求出来なくなり、話を戻す。
「ですが、いつまでもこのままでは……ミラー中佐もお気づきでしょう?」
「ああ。あの状態のままでの空母艦は、まずいだろうな。乗ったとしても難しいスタートになるだろう」
「今となっては、皆、頑なになってしまった様な気がして。ミラー中佐の飛び方を否定させるようにして、たきつけたのは──私のやり方が間違っていました」
「いや……。はっぱのかけ方までは良かったと思う。だが『コリンズ神話』が根強すぎる。彼等は外部のパイロットを受け入れない。自分達だけで最高の飛び方が出来ると思っている。任務でもチーム単位で動く事は多々あるが、逆にそうでない事もある……。現場では特にそうだ。何が起きても柔軟に対応できてこそ、現場で役立つパイロットだからな」
『確かに──』と、葉月もコーヒーを一口。
暫く、沈黙が流れたが、葉月は『今日』、彼に告げようと思っていた事を口にする事に……。
カップを置いて、静かに言う。
「もう一ヶ月、お願いします。これで駄目だったら私の指導不足です。『シアトル行き』は今回は諦めようと思っています」
「なんだって?」
「教官の……大佐就任の最初の仕事。迷惑はかけられませんから……」
葉月は静かに言ったのに、ミラーが思わぬ反応を示した。
彼が持っていたカップを『ガツン』と強めにテーブルに置いて、葉月に向かって来た。
「やはり、君は『その程度』なのか!」
「え? ですが……」
「がっかりだ!」
「ですから……」
「君なら、出来ると思った! 力不足は経験がないのだから仕方がないが、ないならないなりの方法で『やる』大佐だと思ったからこそ……!」
「!……中佐……?」
耳を疑った!
この彼に……『評価』された?
一番最初に打撃を受けていた葉月には、信じられない言葉……!?
それで、葉月がまた驚いて黙ってひたすら彼を見つめていると、それに気が付いたミラーは急に顔を逸らしてしまった。
「……サワムラが言った通りだ。俺は……どうかしている」
「あの……」
なんだか彼が……彼らしくない動揺をみせているではないか?
葉月も同じく動揺しているので、言葉が続かなくなった。
「分かった。君が出す結果など、もう、どうでも良いが──。あと一ヶ月だ。それで駄目なら、本当にシアトルに帰らせてもらう」
「そ、そうですか……」
「話は終わりだ。帰ってくれ」
「……」
どうやら、彼を怒らせてしまったようだ。
葉月は黙って、席を立つ。
彼にはお辞儀をして、そのまま班室を出る。
暗い廊下に光が差し込む班室のドアの前。
そこで葉月は、もう一度、振り返った。
葉月に顔を逸らした時のまま……彼が俯いている。
それほどに、『私の判断は、間違っていたのか』と、葉月は自分の気持ちを振り返りながら、静かにそこを去る。
「隼人さんが言った通りって、なに?」
一人で歩いていて、急に我に返る。
先程は気に留めなかったが、今になって『それ、なによ?』と眉をひそめた。
それが気になって、急に早足で進む。
今から、その彼の部屋に行くのだから──。