『私、子供のこと……諦めていない』
彼女は検査の話を教えてくれたが、色々な方面の検査をしているが、やはり……思うような結果が出ないとの事だった。
それでも葉月は、まだ諦めていないようだ。
失った子は取り返す。
そう言った所だろう。
葉月の『決心』を知ってはいたが、今回、さらにもっと彼女の決意の堅さを知った気がする──。
その内のひとりは『俺の子』じゃないか?
実感はあまりなかったが、なんだかあの天使を見てから、隼人も急に……実感が湧いたような気がする。
『父親は誰かなんて……今は、そんな事までは考えていないから、気にしないで』
まずは自分自身を把握したい──。
ともあれ、『身体』の事ははっきりさせなくてはいけない……。
彼女がそう言っているのを、隼人も分かっていたし、その意味も受け入れていた。
「はぁ」
「なんですか? 私と向き合っている中佐って溜め息が多くありません?」
「あれ?」
葉月と会話をしていたはずなのに?
目の前には栗毛の彼女でなく、黒髪の女の子がいる。
目を吊り上げ頬を膨らませて拗ねているではないか?
本部事務室の隣にある四中隊の小会議室……通称ミーティング室で、小夜と二人で書類を束ねている所だった。
「あー。仕事中だったのか」
「あ! 失言!!」
「うるさいな……もう」
長机をつき合わせ、書類を並べて順番に束ねて、端をホチキスで留める。
そんな雑用を、隼人は小夜と一緒に向き合ってやっている。
その向かい側にいる小夜が、『中佐らしからぬ失言!』と、隼人に向かってビシッと指でさす。
彼女とは毎日、本当に殆ど一緒にいる。
だいぶ、気心が知れてきた。
彼女がこういった雑用も手早くやってくれるので、空軍管理班の後輩に手間と時間を煩わせなくて済むようになり、彼等は今の体勢を密かに喜んでいる。
彼等のこういった反応も『大佐嬢の計算』にあったのだろう。
ただし、大佐嬢の計算では、隼人の目の前に座っているのは『テリー』だったはずなのだろうが?
それで、彼女ひとりに、この雑用を任せたのだが。
隼人自身の責任ある重い仕事にやや疲れを感じると、こうした彼女の無邪気な会話は、どうしてか? 心が和んでしまう時がある。
それで『つい』──『気分転換に俺もやる』なんて、一緒にやっている所だったのだ。
思った通り。こうしてお互いに口悪をたたき合っても、気兼ねないテンポで会話が続けられているのだ。
だから、隼人は『失言』と言われたお返しにニヤリと微笑み返してみる。
隼人のこういったわざとらしい笑みの『意味』を既に心得ている小夜がサッと引いたのが分かる。
「な、なんですか?」
「俺と二人きりで、嬉しいだろう?」
「中佐って、最低っ。もう、中佐なんて『底意地悪い嫌味な男性』と分かった時から、却下済みですから!」
そこで今度は小夜がにっこりと微笑み返してくる。
「と言う事ですから、ご安心下さーい。“隼人さん”」
「あのな。そういう口のきき方。絶対にもてないぞ!」
「誰かひとりにもてたら、それで結構です!」
「ああ、なるほどなぁ。それ、同感だなー」
「いきなり、共感しないで下さいよ」
こういったやりとりは、隼人もどこか面白くなってしまい心の奥では笑っているのだ。
ところが、そんな気兼ねなくなったやりとりをしていたのに、今度は小夜が溜め息を漏らした。
「どうした?」
「ええ……最近、思ったのですけれど」
急にしんみりと、女らしい手つきで書類を束ねている小夜の厳かな様子に、隼人は手を止めて首を傾げる。
「澤村中佐みたいな男性が素敵に見えたのは、もしかして……御園大佐が恋人だったからなのかしら? って思うんです」
「……」
隼人は眉をひそめる。
「それ、誉められているのか? 『……みたいな男が素敵に見えただけ』ってけなしているのか?」
「どっちもです」
「ああ、もう……いいや。それで?」
はっきりと『どっちもだ』と言える彼女の性格に、隼人も言い返す気力がなくなり、先を急かした。
「御園大佐が美人だからだとか、出来るとかじゃなかったんですよね? きっと……」
「え?」
「好きな人に一生懸命になっている人が素敵にみえたんじゃないかと思っているんです。だから、澤村中佐が素敵なのは、御園大佐じゃないと駄目なんです」
「……吉田さん」
彼女が出した答にも、隼人は胸打たれ……そして、どこかそんな自分の姿を語ってくれた事にも救われた気がしてきた。
「だから。頑張って下さいね」
「……」
後輩の清々しい笑顔。
隼人も『有り難う』の素直な微笑みを返した。
が……その後は、いつもの天の邪鬼が復活する。
「そんな事、お嬢ちゃんにいわれなくても首尾は上々。上手くいっていないようにみせかけるのも、オフィスでのテクニック……」
「ほら。素直じゃない中佐。きっと、中佐みたいな男性を素敵にしてくれるのは御園大佐だけですよ! 手放したのは中佐だったんじゃないですか!? これも近頃の疑惑なんです!!」
「また、そんな想像を……。ノーコメントだ」
ズケズケと入り込んでくるが、今となっては、隼人も扱い方が判ってきたので余裕だ。
そして小夜も隼人の余裕に任せて、以前とは違う遠慮のなさで……楽しませてくれているのだろう。
最後は二人で笑い飛ばす事もある。
「楽しそうね」
そのミーティング室に、葉月が急に姿を現した。
一人だった。
入り口のドアを閉め、彼女は二人がいる机までやってきた。
「なにか? 大佐嬢」
「お疲れ様です! 大佐。中佐ったらひどいんですよ! 女の子に対してデリカシーゼロ! 大佐、しつけ直して下さい!」
「こら!」
小夜の『はっきりお喋り』は、時々、こうしてドッキリさせられる。
ここまで言われて葉月がどういった反応をするかと、隼人はヒヤッとしながら葉月をそっと見上げた。
「ふふ」
楽しそうに笑っていた。
以前なら、無感情令嬢の名の如く『それが? 今は仕事中』と反応しない事もあったのに。
いや、彼女的には『どう反応して良いか分からない』事もあった上の誤解も多々あっただろうが。
「確かに──。中佐は研修で出会った時から、なんだか意地悪っぽかったわよね」
「やっぱり! でも、今更直りそうにありませんね」
「吉田さんの言う通りね」
小夜は明るく笑い、葉月はクスクスとこぼしている。
隼人はただ一人、降参するだけだ。
こう言う時は女性陣に従うに限るのだ。
「それで? なんだよ。葉月」
「あー急に、亭主関白!」
「もう、黙っていてくれ!」
『はぁい』と、やっと小夜が大人しくなる。
「終わってからでいいから。こっちに呼んでくれる?」
「なにか?」
「シアトルの話よ」
葉月がチラリと小夜を見たが、一瞬。
しかも小夜が上手く視線を逸らしている時にだったが、隼人には分かった。
「分かりました。終わりましたら、彼女に呼びに行かせます」
「ええ。そうして」
そして葉月は、いつもの平坦な大佐嬢の様子のまま、この部屋を出て行った。
その後、小夜との作業が終わった為、彼女に大佐嬢を呼びに行ってもらう。
小夜と入れ替わりで、小さな会議室に再び、葉月がやって来た。
綺麗に片づけた長机に一人座って待っていた隼人は、葉月が入ってきた姿を見て、立ち上がる。
「なんだ? わざわざ、ここで。大佐室では駄目な事なのか?」
「ええ、ちょっとね」
葉月の視点は隼人を捕らえずに、それを通り越した窓辺向こうに広がる海に向けられているようだ。
そして、深い溜め息を一つ。
大佐室で、ゆっくりと話せない事だと隼人には予想が出来た。
「言ってくれ、なんでも」
「そのつもりよ」
葉月は言う覚悟は出来ているのか、ただいつもの笑顔を浮かべただけ。
それを見て、隼人は幾分か構えていた固さが和らいだ。
「そろそろテリーを返したいんだけれど」
「ああ、そう言う事か」
そんな事……小夜を『預けて欲しい』と願い出た時に、その後の事も考えていた隼人には、なんて事はない『筋書き』。
それを大佐嬢が『テリーも小夜も上手に使って欲しいけれど、大丈夫?』などと改まって言わなくても、ちゃんと構えていた物だから、ちょっと拍子抜けした。
そして、葉月は続ける。
「シアトル部隊の空母艦航行に同行する時に、テリーを連れていこうと思っているの。私の側近格にはテッド、訓練補佐にクリストファー。そしてテリーも」
「そうか」
「それまでに、テリーをもう一度、きっちりと空官のサポートが出来るように教え込んでおいて欲しいの」
「分かった」
葉月が『後輩』と共に、出張に行く。
これも隼人自身も認めている事だった。
『何故? 俺が共に出来ない?』──なんて気持ちはひとつもない。
『大佐嬢離れ』を決している隼人には、今回の『同行』は、もし……葉月が『一緒に』と言っても、断るぐらいの気持ちがある。
それは葉月も分かっているだろう。
今──『俺達』は、『一緒に行動』する事に意義を感じていない。
その段階は終わったのだ。
葉月がテッドを補佐候補にと決めた時。
そしてクリストファーを訓練補佐にと決めた時。
さらにテリーという見知らぬ女性隊員をいきなり大佐室アシスタントにと決めた時。
その時には驚きがあったが、半年見ている内に、隼人には大佐嬢が狙っている事が理解する事が出来たから、隼人は隼人なりの方向付けを始めたのだから。
大佐嬢は今、『主力は固まった。次はその下の二段目主力陣の育成』に力を注いでいる。
だから、今回の『私の挑戦』には、隼人は用いずに、全て『後輩』を使うだろうと──。
「テリーなら、僅かな時間でものになるだろう。分かった……明日から、彼女をこっちにつけてくれ」
「それで……問題なんだけれど」
「あるのか、やっぱり」
葉月がこっくりと頷く。
隼人も、この状態がやって来たならば、『一点』確認しておかねばならぬ事がある。
これは、いざテリーと小夜を一緒にアシスタントとして使う日が来た時には、『きちんと』大佐嬢に問いただそうと決めていた事だ。
そして、それは葉月も『言わねばならぬ日』を覚悟していたようだ。
それが今……。
開け放している窓辺から、爽やかな風が入り込んできていた。
それに誘われるように、海に視線を馳せていた葉月が、長くなった栗毛を風にそよがせながら窓辺へと寄っていった。
「隼人さんは──私の身体の傷の中で、それが何の傷か? と言う事は、どれに対しても尋ねなかったわね」
「? いや? 最初の……時は、左肩のは随分と気になって、ムキになっていただろう? 俺……」
「他のは?」
そう聞かれて、隼人は黙り込む。
左肩の傷。
それは逆に、美しい想い出となったキッカケでもあった。
それは葉月もそうだろう。
彼女の傷を知って、どうしてか『もっと彼女を知りたい』と思った想い出。
今思えば、それは既に『恋だった』と言い切れる想い出だ。
それはきっと……葉月もそうだろうと信じている。
二人を近づけてくれたキッカケだったのだから。
だが──確かに。
その想い出の中で、一番、綺麗であろう『肌の触れ合い』が叶った時に、隼人の目に驚きを与えた物もあった。
傷はそれだけではなかった。
腕の裏、そして……脇腹にもうっすらと『切開』した跡があった。
腕の裏は康夫から聞いた通り、『任務負傷』だと分かっていた。
その話ももう二人の間では消化されていた。
が……脇腹の『手術跡』は分からないが、だいたいは『こいつの事だから、なにか無茶して怪我をしたんだろう?』ぐらいで、隼人の中で位置づけする事によって、触れる気は失せていた。
それに葉月のその『手術跡』について、小笠原の仲間から『こぼれ話』もなければ『噂』も聞こえなかったから、本当にそのように信じる事が出来ていたのだが?
「……ひとつだけ。判らない傷はある」
「一度も、聞かなかったわね」
窓辺で海を見渡していた葉月が、ふっと振り返り微笑んでいた。
隼人はそのまま葉月をじっと見つめて、返答はしなかった。
すると、葉月がその傷の位置をそっと手の平で押さえながら俯いた。
「刺されたの」
「え……!? だ、誰に……!」
「……」
葉月から笑顔が消え、彼女がそっと隼人から顔を背けた。
「大佐の奥様」
「大佐って……まさか……」
「遠野大佐の奥様」
「!」
葉月が躊躇う様子はないが、小さく静かに答える声に……そして、その内容に隼人は凍り付いた。
『そんな修羅場が……!?』
と、思ったのだが……! 隼人はふと思い直す。
はて? 今は、『テリーと小夜』を一緒に扱う事について、どうだ? と言うのが議題ではなかったか? と──。
隼人がどういう事かと、あれこれと糸口を探している間に、葉月がきちんと告げた。
「本当は、刺されそうになったのは……『テリー』だったのよ。私はその時、たまたま側にいて……彼女をかばったの。この件は、おそらく大佐、ううん……ロイ兄様が極秘に処理したから、あまり表沙汰になっていないわ」
「けれど……! 一歩間違えたら、事件じゃないか!?」
「……そうね」
葉月が、また俯く。
「でも──テリーは『噂』で、私は『張本人』。刺されるべき人間が刺されたのよ。これも私の罰……」
彼女の目が窓辺の空を仰いだ。
「じゃぁ……」
隼人の脳裏に、少し前の場面が蘇る!
『遠野大佐との事は無実なのに、根も葉もない噂をたてたのは貴女達じゃないの!』
あの落ち着いているテリーが、我を忘れたように必死に叫んだあの言葉!
こういう事だったのか!? と!!
「それで? テリーは『噂』のぬれぎぬで、『飛ばされた』って事か!?」
「違う。そんな事……ロイ兄様は分かっていたもの。後輩である遠野大佐と私がどのような仲になってしまったかも。だから、奥様が『噂』を信じて起こしてしまった事件だった事も。テリーの身は潔白であるのは分かっていたんだもの」
「たとえば……だけれど? テリーの噂がなければ? その事件は起きなかった……?」
と、隼人は問いながらも……答は解っていた。
『あの安穏妻なら、噂の方を信じて、本当に起きている事には絶対に気が付かなかった』と言う性分を。
だけれど『不倫の罪』を背負っている葉月には、そんな事は答えられるはずがない。
たとえ、起きなくとも──『刺された』事は因果が巡って、自分に襲った事と。
「それで、初めて──奥様が大佐を愛していてると、身に沁みたの……」
「……」
隼人は暫し黙った。
黙ったのだが……。
「その話は、もういい」
「え?」
「大佐嬢? それで? その様な事件があった事はわかりました。それで? 私にどうしろと?」
「……」
きっぱり切り捨てた隼人を、葉月はただ……見つめている。
そんな話。
もう、終わった事じゃないか?
そう、終わった事。
俺達が始める時に、既に終わった事。
彼女が悔やんでいた事も、反省していた事も……そして、やっぱり遠野を『尊敬』していた事は、何度でも見てきた事。
そして隼人の答は、それほど女性になりきっていなかった彼女が『愛してたのではなく、尊敬して頼っていた』ぐらいの事だったと答を出していたから。
彼女は『愛していた』と言うかもしれないが、隼人からみれば『そういう状態の物』でしかなかった。
彼女の本当の『愛』を知っている隼人には、『葉月、あれはまやかし──お前にとってまやかしだったんだ』と言いたいが、それは彼女の『成長段階』に置いて、ある意味『重要な出来事』でもあっただろうから、否定はしないだけだ。
そして葉月も認めたくないだろうが、自分では重々認めているだろう。
『好きだったし、一生懸命だったけれど──あれはまやかしで、過ちだった』と……。
彼女は、もう知っているはずだ。
自分が本気で人を愛した時に見た物、感じた事──その熱さも痛さも。
それが『義兄』だと隼人にも分かっていたから、遠野の事情とは違って、流す事が出来なかった……。
「あの……そう言う事だから」
「分かった。それで? テリーが通信科に異動した理由は?」
これ以上は隼人は聞く耳をもたないと分かった葉月は、少しばかり申し訳なさそうな顔をしていたが、『仕事の話』としての姿勢になんとか戻ろうとしている戸惑いはまだ見せている。
でも、彼女も割り切ったのか、やっと大佐嬢の顔で隼人を見つめる。
「……あの頃はね。私が今の隼人さんのような立場で、忙しさだったの」
「訓練と空官、側近をこなしていたって事か」
「そう。私が貴方にアシスタントを付けたように、遠野大佐もそうしようとしてくれたのね。それが……テリーだったの」
「そうか、先輩はテリーの能力をかっていたのか」
それは今の彼女を見ても、隼人は先輩なら見過ごさずに、起用しただろうと判断が出来た。
「つまり、吉田さんが言っていたように、ふと見れば『お気に入り』と見間違える程、大佐は彼女に普通の経理ではさせないような仕事をさせたりしていたから、私に付ける前に、予行練習みたいに既に大佐室に出入りをさせていたの」
「なるほど。それは俺も今回で、女性の感覚とやらは随分と目の当たりにさせてもらったよ」
「そうね」
葉月が苦笑いをこぼしたが、隼人は真剣に答えていた。
「だから……風当たりは強かったけれど、大佐という後ろ盾があって、テリーは活躍していたの。それが、大佐が亡くなったら……分かる? どうなったか」
「……守ってくれる後ろ盾がいなくなって、彼女が一方的に攻められた……か?」
「そうね。いわゆる、ひがみがイジメにエスカレートしたというか。私にも守りきれなかった。いいえ……私が……気が付いてあげる余裕がなかったの」
つまり、遠野が亡くなって、葉月の肩に中隊管理の責任がかかった。
それだけでなく、葉月にも精神的なダメージが加わり、自分の事で精いっぱいだった。
その間に、テリーを守る事が出来なかった──と、言う所だろうか?
「気が付いたら、テリーは精神的に我慢していた事が、身体に来てしまって……私が知った時は、彼女は入院する程になっていた時よ」
「入院?」
「まぁ……胃潰瘍程度だったけれど。もう本部には出入り出来ない精神状態になっていたみたい……」
「! あの、テリーが?」
彼女は強気──だと、思っていたので、それは隼人にはやや驚きだった。
「フロリダか、彼女の故郷であるシアトルに返そうと思ったの」
「帰らなかった? と言うのか?」
葉月がこっくり頷く。
「あれで結構、負けず嫌いなのよ。絶対に帰らない……本部以外の部署で構わないから、四中隊には残りたいって……」
「……」
やっぱり、そこは気強いのだ? と、隼人は黙った。
「それで、通信科……か」
「うん。小池のお兄さんが預かってくれる事になって。私がテリーにしてあげられたのは、そんな事だけ。自分の事ばかり考えていた事に、その時初めて気が付いたわ。口惜しかった……」
「葉月……」
目の前で、葉月がその時の『情けなさ』を現したかのように、唇を噛みしめている……。
では? と、隼人は暫く考えた。
そして、思い当たった事があり、それを恐る恐る聞いてみる事に……。
「そのどうでもよい『ひがみの嵐』の中心格が、吉田さんか?」
葉月が首を振る。
「吉田さんは、テリーと一緒でその頃は新人で。今はフロリダに帰ってしまった結構年上だったアメリカ女性数人がいてね。彼女等がそうしていたから、従っていただけだと思うわ。けれど、テリーにとっては違うのよ」
「……だろうな。テリーにとっては『経理班』全てが敵だったと言う事か? でも、洋子さんはその時どうしていた?」
「洋子さんは、大尉になったばかりで──。初めての班長業務だったの。私と一緒。何も出来なかったと、私以上に悔やんでいたわ。洋子さんにもまとめられなかったのよね」
「なるほど……」
これで、だいたいが分かった。
遠野の殉職後──不安定だった四中隊を誰もどうする事も出来ない中での犠牲者がテリーだった。
そして、テリーは数年をかけ、誰にも文句を言わせない程の力量をつけ、帰ってきた。
そして──葉月も待っていた。
テリーが帰れるまでになる潮が満ちるのを。
そして、小池も葉月の気持ちを汲んで、しっかりと教育してきた……と言うところらしい。
「吉田さんは、何も悪気がないだろうけれど。テリーはそうではない……。そこをね、貴方に知っておいてもらいたくて」
「そうか……」
隼人は額をかかえて、ほうっと溜め息をついた。
「参ったな。こういう女性的な感覚は、俺の前でやられても『仕事には関係ないから無視』するのが主義だったけれどな……」
『主義』であったが。
隼人が無視しても、問題は解決しないだろう。
それに大きな声ではいえないが、二人の違う女性を部下に持って……どちらも『貴重な部下』になりつつある隼人には『無視』なんてもう出来ないだろうと言う本心に気が付いた上での、溜め息だった。
「では、私も大佐嬢としてはっきり言うわね」
「ん?」
神妙に同じ女性としての感覚に悩んでいた風だった葉月が、急にいつもの冷静な顔になる。
「どうにもならなくなり、切り捨てるような事になったら──吉田さんにして」
「!」
「テリーを先輩と一緒になって追い込んだ子だから……じゃないわよ。今、どちらが必要かとなれば、貴方はどちらを評価するの?」
「……」
答えなかったが、隼人の気持ちも葉月と一緒だった。
今ならテリーだ。
小夜にも可能性はあるが、どちらか仕事で選べというなら、暗黒の時代を乗り越えて見事に返り咲き……いや、そんな彼女の歩んできた過程での評価でなく、『現時点のレベル』だけで決めても『テリー』だ。
葉月のその判断には反論はない。
「それか……貴方の上官としての新しい采配に期待するわ」
「……承知……致しました」
「どうにもならない状態になったら、一言、相談して。吉田さんの芽も潰したくないから」
「ああ、そうする」
話が終わったようで、葉月はまた窓辺に一人向かって、暫く……海を眺めて黙っていた。
隼人はそれを眺めつつ、大きな問題を抱えた事に、少しばかり頭を痛める。
すると、葉月が背を向けたまま、ぽつりと呟いた。
「私には分かるのよね。むしろ……テリーの方が『問題』かもしれないわ」
「問題? それはテリーの方が、こだわっていると言う事か?」
「そう。傷ついた者にも、気を付けなくてはいけない『ひがみ』はあるのよ。そうして今度は、その傷ついた者が……次に人を傷つけてしまう……」
そっと彼女の眼差しが陰る。
また……隼人がこの頃思っているような、深海を覗き込みたくなるような深い色合いの……。
だが、それは一瞬で、直ぐに彼女の横顔が微かに微笑みを浮かべてたので、隼人は密かに驚く。
窓辺からの風にそよぐ栗毛がふわっと舞い上がる。
でも、その僅かな微笑みはどこか晴れやかに見え、隼人の心も安心する。
「お前、だいぶ、自分の事……」
そこまで呟いて、隼人はやめる。
葉月が『なに?』と笑顔で振り返ったから……それでもう良い気がした。
俺の栗毛のウサギは……。
そうして『我が影』とも、ちゃんと向き合ってきたのだろうと、理解する事が出来たから。
ただ、そこに在るだけの彼女の姿に隼人も微笑みかける事が出来た。
もう、いいよ。
そんなに過去の自分に縛られなくても。
もう充分、苦しんだだろう?
隼人は心で彼女に呟く。
でも、そんな自分の清々しい気持ちが、少しばかり陰る。
まだ──義兄とあった出来事は……。
でも! たぶん──『義兄』の事も。
もうちょっとすれば、隼人の中では『もう、いいよ』と言えるかも知れない。
まだ窓辺で海を一人で眺めている彼女の横顔を見て、隼人はそう思っていた。
・・・◇・◇・◇・・・
外はすっかり日が暮れ、もう夜空になり星が散らばっている。
葉月が時計をみると、時間は20時だった。
隼人も今日は先に帰った。
今夜は彼の部屋で一緒に過ごす約束だったから、彼が食事を作ってくれるだろう。
それもあって、一足先に帰ったようだ。
ところが? 隼人の部屋に行く約束だったはずなのに、先に帰った彼が官舎の部屋にいなかった。
部屋は暗く、葉月は暫く待ってみたが……帰ってくる気配がまったくない?
(達也に捕まったのかしら……?)
そういえば、暫く、この男同士が出かけている姿を見ていない気がした。
『もう、帰ろうかな?』と溜め息をついて、玄関に向かった途端に、携帯電話が鳴る。
隼人だった。
『俺。ごめんな、丘に来てしまったんだ。こっちでメシ作ったから。それで、そろそろ終わるかと思って……』
なんと約束とは違い、彼は葉月の部屋にいると言うではないか?
どういうつもりなのか? と、首を傾げつつも──隼人が一人で葉月の部屋に『抵抗無くいけるようになった』と言う嬉しさがこみ上げてきて、直ぐに、自宅に向かった。
「おかえり。ごめんな、いきなり来てしまって」
「ううん。どうしたの?」
「さぁな? なんだかこっちの気分になった」
「そう」
リビングにはいると、制服姿にエプロンをしている隼人が迎えてくれる。
もう、何にも捕らわれていない以前同様の暖かい笑顔がそこにあった。
近頃、隼人が少しずつ元に戻ってきているようで、葉月の心は密かに舞い上がる。
今日もあれこれあったし、明日はあれもこれもやらねばならない──などと葉月の頭の中は、仕事の事がまだ駆けめぐっている。
だが、それはさておき、葉月の心は徐々にプライベートモードに切り替わろうとしていた。
まず部屋に入って、着替える事にする。
ベッドに小脇に抱えていた長袖の上着を放り、黒い肩章がついている白い半袖シャツのボタンを外そうとした時だった。
「大丈夫か? なんだか疲れているみたいだな」
「!」
また隼人がいつのまにやらそこにいる。
いつから、そんなに気配なく近づけるようになったのかと、この葉月が驚くぐらいに、そこにいるのだ。
それとも──葉月が、考え事をしてしまっている隙なのか? ともかく、そこにいる。
「もう! 着替えるから、あっちに行って!」
部屋の入り口にいる隼人を、追い出そうと彼の胸を押した。
なのに、その手首を隼人に取られてしまう。
「どうも、おかしいな?」
「な、なにが?」
手首を掴んだままの彼が、落ち着いた眼差しで葉月を探る目。
葉月は、どっきりとする。
そう、着替えをみられたくない訳がある。
特に『制服の時』だ。
何回か隼人は丘に来ていたが、制服の時の着替えに気を遣っていたのは確か。
それを隼人が気が付いていた?
そんな……焦りだ。
「この前は、まったく抵抗無く俺に触らせてくれたような気がしたが。なんだか『平日』に限って、妙に俺を警戒していないか? ドアを閉めたりして……」
「え? そう? たまたまでしょう?」
なんとかやり過ごして、早く……隼人が手首を解放し、離れていく事を葉月は待つ。
「ね? 今夜は何を作ってくれたの?」
「そうじゃないだろう?」
だけれど、彼はちっとも解放してくれない。
それどころか、隼人は葉月を押して部屋に入ってきたし、葉月が考えてもいない行動に出てきた──!
「……ちょっと、待って!」
だが、葉月が小さく『きゃあ』と声を漏らした時は、背中に位置していたベッドの上……隼人の胸の下だった。
「ど、ど、どうしたの!?」
繊細な隼人の事だから、暫く、彼の気持ちが完全に整理がつくまでは、絶対にない……と、くくっていた葉月には驚くしかない。
だが、掴まれていた手首を離してくれない隼人の顔は真剣だった。
でも……どうも違う意味での『真剣』だったらしく、隼人はこう言い出した。
「なにを隠している?」
「な、なんにも」
「仕方がないな」
「え、え!?」
違う意味の『真剣』だから?
それとも本当に、『そっちの方の真剣』!?
ともかく、隼人は迷いのない顔で、葉月のシャツのボタンに手をかけてきた!
「やめて」
「どういう意味の『やめて』だろう? 前と一緒か、今は何かを隠す為の『やめて』なのか?」
「帰ってきたばかりだから! どうせなら……その、夕食後……に、ゆっく・・・」
自分から『どうせなら、あとでゆっくりと抱いて……』なんて言えるはずもなく。
でも……そう言えそうだった自分の『本心』に驚きながら、葉月はくちごもる。
けれど、隼人は葉月の身体の上を占領し、そして手は葉月の首元をすっかり捕らえ、ボタンを開けてしまう。
それでも、葉月は隼人が開けてしまった襟首を、サッと閉じて抵抗する。
だから、葉月は思わず──隼人の胸を押しのけるようにして、なんとか起きあがろうとした!
そうしたら……意外と軽く、隼人が退いてくれたので、葉月も起きあがる。
起きあがると、隼人は葉月を見下ろして固まっていた。
葉月は『遅かったか』と、顔を逸らしてしまった。
「そう言う事か」
隼人はそういうと、直ぐに葉月の身体から降りて、ベッドの縁に腰をかけた。
葉月はベッドの上で、その彼の背を、そっと見つめる事しか出来ずにいた。
「……はは。もう『捨てられている』ぐらいの覚悟はしていたんだけれどな」
「これは……」
葉月は、襟元から手を離す。
両襟がそっと開いた。
その首元には……葉月が毎日、密かに隠していた『ネックレス』
青い石がついている銀色のクロスにかけられている『銀の指輪』が、ちらりと葉月の首元で光っていた。
「……そんな風にして、持っていてくれたなんて。流石に思わなかった」
「私にとっては……私がここにいるのは、この指輪があったから……」
背を丸めてうなだれている隼人。
葉月も、そっとうなだれる。
彼にとってそれは『別れ』を思い出す品でしかないのだ……と。
でも、葉月は顔を上げて、怖いけれど……彼の背に言う。
「餞だったかもしれない。でも、私には『貴方の愛、全て』だと思っているから。ただ、指に付ける資格がないだけ──。だから、ここに……」
「俺の愛──全て?」
隼人が、苦笑いで肩越しに振り返った。
葉月はその視線が痛く感じて、顔を逸らしたくなったが堪える。
余計な思い入れだったとしても、『これ』がなければ……今はなかったと信じているから。
葉月にとっては、彼の全てを投げ打ったあの最後の日の『はなむけ』がなければ……この現世との繋がりを全て、いとも簡単に断ち切っていたと思う。
あの晩に……葉月が目覚め始めていたのは……。
遅すぎた『目覚め』だったが、その目覚めはこの指輪が手元に残っていたからだ。
隼人との想いにすれ違いがあっても、葉月には意味がある!
だからそう思っている自分を信じて、もう一度、隼人にはっきりと言う。
「これがなければ、私は……今の私はいないから。これは指につける意味がなくても、今までもこれからも、ずっと私にとっては『一番重い物』なの! 私がここで生きていく事を目覚めさせてくれた一番の物なの! 隼人さんが見たくないなら、もう、ここにはつけない。でも、私は手放さない!」
「……葉月?」
隼人が驚いたように、振り返った。
そして、彼がそっと笑った。
「──そんな『重い』は、やめてくれ。俺は……お前にそんな『重荷』になるような気持ちを贈った覚えはないから」
「だから……えっと、その……だったら、どういえば良いの? とにかく……」
言葉をまた間違えたかと思い、葉月はもっと上手い表現を探そうと、目をくるくるさせたけれど……思いつかなかった。
けれど、そんな葉月を見て、隼人は笑い出している。
「……分かったよ。お前の言いたい事」
「隼人さん」
「知らなかった。お前を引き留めていたキッカケになっていただなんて……」
「私……!」
言葉で上手く表現できない『私』でも……。
彼は『私』を見れば、思っている事を解ってくれる。
それを知る事ができ、葉月は思いあまって、彼の背に抱きついていた。
「……俺に知られないように、俺と会う時は外していたんだな」
「知らない……そんな事、知らない」
秘めていた想いが、彼に通じて本当は嬉しいはずなのに。
葉月は、まだこの期に及んで、隠していた想いを否定していた。
でも──それは口だけ。
まだ自分の罪は忘れたくないと言う思い、絶対に一生、忘れてはいけない事を自分に言い聞かせる為に……。
許してくれそうな彼の優しい声に、反してしまう『口』。
なのに……もう、葉月の手はしっかりと彼を抱きしめ離そうとしていない。
「……俺の想いを断ち切ったから。『持ち続けている』事で俺に許してもらうようなキッカケにはしたくないと……そっと一人だけで持っていたのか?」
「違う、違うわ……!」
隼人の手が、葉月の肩を抱きしめる。
葉月は、彼の背に顔をこすりつけて、泣き始めていた。
いままでの……彼への罪悪感の重さ。
そして……全てを投げ打ってくれた彼とは比べ物にならないだろうけれど、『愛せる資格』を許してもらえるまで、溢れ出しそうでもそっと秘め続けてきた『新しい愛』。
それがもう、彼に見破られて、限界だったから……。
葉月の両手が『本心』
隼人を抱きしめて、離す事が出来なくなっていた。
我を忘れる程に、まるで、彼を何から引き留めるが如く──ぎゅっと強く、うんと強く。
「葉月……」
「!」
彼が再び、葉月をベッドに倒した。
今度は静かに……柔らかに。
そんな彼の穏やかな顔と優しい手つきを感じてしまった葉月の中で何かが弾けた!
「私、もう……だめ」
「え?」
「……もう……だめ」
涙と一緒に、もう堪えられない想いも一緒に──。
溢れ出してくる全てを、まだ抑えるかのように、かすれたような声で、小さく呟き続ける。
「……もう、だめ。私、貴方を……隼人さんを……」
「葉月──」
なんだか怖くて、葉月はぎゅっと目をつむってしまっていた。
ただ愛されていただけの自分だったからこそ、それを言葉にするのは怖かった。
愛しているなんて、何度か彼に言った事がある。
彼だけじゃない。
私を愛してくれた男性達に、何度か、呟いた事がある『簡単な言葉』。
義兄には、あたりまえみたいに呟いていた。
本当に愛していたから、彼には惜しみなく呟いていたと思う。
でも、だからこそ──もう一度、この彼に言うのはあまりにも安易すぎる気がして、躊躇った。
だけれど、葉月は『今こそ』と、目を開けた。
「愛しているの……。もう、離さないで……」
安易にとられても、仕方がない覚悟はした。
それで今はとても敏感になっている隼人の心に不信をあたえてしまっても……。
でも、葉月の目の前で見下ろしている隼人の瞳が、ふっと潤んで輝いている。
そして、彼は何かを言いたそうにして、言葉にならない様子で、ただじっと葉月を見つめていた。
その漆黒の綺麗な瞳が、ずっと葉月から離れる事はなく……。
やがて、彼の唇が急に照り輝いた気がした。
その唇が、そっと葉月の口元を優しく塞ぐ。
とても熱かった。
そのとろけてしまいそうな熱くて、ゆっくりとした口づけに、葉月の中にある力が全て抜けていく気がして、うっとりと目を閉じてしまう。
彼が愛してくれている。
あの頃のように……私の唇を。
葉月がその感動に浸るまま、目を閉じて愛し合っていると、隼人がそっと呟いた。
「出会ったあの日も、指輪を外した日も……別れた日も。一緒に、思い出すか?」
彼の指が、そっと首元のクロスにかかっている指輪に触れていた。
「……俺には苦い想い出になってしまったはずなんだけれどな」
「……ごめんなさい」
けれど、隼人は葉月の上に覆い被さったまま、可笑しそうに静かに微笑んでいる。
「良かった。無駄じゃなかったか……」
そうして指輪をつまんで、隼人は暫く眺めていた。
彼の指先で、夜灯りに若草色の石が久し振りに煌めいていた。
「俺も──なんとなく、今夜のような気がしていた」
「え?」
「……だから、こっちに来てしまった」
「そ、そうだったの?」
隼人の中でも、気持ちがある程度は固まっていた事を知って、葉月は驚いたのだが。
その時にはもう……彼の手にさらわれ始めていた。
直ぐにわかった。
彼の手にはもう、迷いがない事が。
そして、葉月も──。
全てを彼に……。
委ねるだけじゃない。
気持ちが溢れるままに彼を求めている熱い想いが、もう、止められなくなっている自分を感じていた。