-- A to Z;ero -- * 熱帯模様 *

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2.幸せになれる?

 どうしてだろう? 小笠原の雄大な海原が広がっている風景を見ると……こんなに落ち着くなんて。

「澤村中佐、お疲れ様でした」
「うん、お疲れ。ゆっくり休めよ」
「はーい」

 基地滑走路警備口で、小夜と別れる。
 彼女はそのまま基地内にある女子宿舎に帰っていった。

 隼人は駐輪場に向かい、乗ってきたマウンテンバイクのもとへ。
 その自転車を車庫から出して、基地の滑走路向こうにある景色を眺める。
 滑走路向こうの海は夕暮れ時を迎えようとしていた。

 今日は日曜日──。
 金曜日、彗星システムズへの訪問を終え、一泊。
 土曜日は、その結果報告を兼ね、晃司と会う。勿論、小夜も同行で『アシスタント』として晃司にも紹介した。
 そして本日、横須賀基地でやるべき手続きをして夕方……ここに帰ってきた。

 ふと、腕時計を眺めた。
 別に時間が何時でも関係はない。
 行く所は決まっている。
 ただ、この時間なら『彼女』が何をしているかな? と、考えただけだ。

 そして隼人は、なんだかそんな『彼女』に思いを馳せただけで、笑顔を浮かべ基地を後にした。
 向かうのは丘のマンションだ。

 

「おかえりなさい」

 ずっと所持しているカードキーで、以前のように連絡も無し、チャイムも無しで彼女の部屋の玄関を開ける。
 ただ、カードキーを一番外の扉前のチェックに通すと、リビングにあるインターホンが鳴る仕組みになっているから、それに気が付いた彼女は玄関まで出迎えてくれた。

「……? 何処か、出かけていたのか?」
「うん。ロイ兄様の所にね。私も買い物をして、さっき帰ってきたの」

 お洒落を楽しむようになったとは言え、隼人が丘のマンションへ来ると、葉月は以前同様にナチュラルなジーンズ姿かハウスウエアっぽいルーズなワンピースでいる事が多い。
 それが外へ出る時に、彼女が見せるようになった上質感あるフェミニンな格好をしている事に、隼人は気が付いたのだ。

 夏らしいふんわりした茶色のシフォン生地──でも、ブイカットの胸元と裾には、まるでスリップドレスを思わすようなベージュのレエスが縁取っているワンピース。
 『都内でもよく見かけたな?』と隼人も気が付いた最近のデザインらしい物。
 身体の線が綺麗に出ていて、とても女っぽい雰囲気の彼女。
 そして……同じような色の艶やかな栗毛。
 すっかり肩を越えて、毛先はもしかすると胸に届くんじゃないか? と言うぐらいに伸びていた。

 その毛先を指にくるっと巻いて、葉月が微笑んでいる。
 ああ……なんだか懐かしい仕草。
 彼女の髪が長い時を思い出す──。
 あの長い髪であった彼女は、隼人の中ではより一層、魅力的で……それが始まりであったような気がするのだ。
 出会った時、風に広がった煌めく栗毛と、それに反していたとても冷めた顔、口元には煙草……。
 初対面なのに、まるで空気のように隼人の横に座りこんでいた静かさ。
 かと思ったら、思わぬ事を平気で言い出して驚かせる『楽しさ』
 全ての印象が──初めての物で新鮮だった。
 隼人の前に突然現れた『大人びた女の子』。そんな想い出──。
 でも、今の彼女は、あの時以上だ。
 もう……『大人びた女の子』じゃない。
 もう……そこには正真正銘の魅惑的な女性がいる。
 だから、隼人はそれに引き込まれるように、無言で靴を脱いであがっていた。

「外、暑いわね。本島も暑かったでしょう?」
「ああ。もう、疲れた」
「お疲れ様。カフェオレ? それとも、日本茶?」
「お前が良く淹れている香りがある紅茶を、アイスで飲みたいな」
「うん、分かったわ。休んでいて」
「ああ……」

 レエスの裾をヒラリと揺らし、葉月が先にリビングに戻っていく。
 隼人も後に続き、リビングに入るなり……『展望』できる窓辺に広がる見慣れていた景色を見て、急に力が抜ける気がした。

「……帰ってきたーって気がする」

 気の抜けた声で、持っていた黒いバッグをテーブルに置いた。
 最近、この丘のマンションに久し振りに足を向ける事を再開させたのに──この『ほっ』とする度合いの大きさに、改めて隼人は驚いていた。

 白いシャツのボタンを外し首もとを楽にしながら、ダイニングテーブルの椅子に腰をかけた。
 キッチンでは、葉月がコンロにやかんを仕掛けている音がする。

『ふふ。どうしたの? そんな声……都会疲れ?』
「……そんな所かな?」

 とは、答えた隼人だが──実際は『やはり、ここの部屋にかなり慣れているな』という感触なのだと、ひとりでしみじみしてしまっただけだ。

 カチャリと音をたてる陶器の音。
 葉月がカップを準備している音。
 それだけで、どことなく心が休まってくるだなんて──。
 熱いお湯で入れた濃い紅茶を、氷を入れたグラスにザッと注ぐ《オンザロックス》という入れ方の『アイスティー』。
 葉月は今、それに凝っているようで、『本島での買い物で、色々、揃えたの』と言う数々の紅茶葉を味わう事を楽しんでいるようだった。
 王道的な紅茶葉は勿論、フルーティーな香りがあるものや、花の香りがする紅茶葉もあり、隼人もいくつかご馳走になっていた。

「葉月。あの赤っぽいお茶、酸味がある……あれが良いな」
『ああ……チェリーとバラの実のね。暑い時はいいわよね』
「ああ」

 ひたすら脱力している中、キッチンからはとても明るい彼女の声。
 またもや、ほっとしていた。

 以前もきっと当たり前のように、こうしてホッとしていただろうに……。
 今は、なんだかとても貴重な瞬間に思えてしまって、それを堪能したく、隼人はさらに力を抜いて頭の中を休めていた。
 しかし、何故? こんなに疲れているのだろうかなー? と、思いめぐらせ始める。
 そんな時、お湯を沸かしている途中の葉月がキッチンから出てきた。

「着替えなくちゃ」

 また裾をヒラリとさせながら、葉月がミコノス部屋に向かっていく。

「……」

 隼人はそれをただ無言で見ていた。
 実は……ここに通い始めたと言っても、まだ、泊まった事もないし、あの懐かしいはずの『彼女の部屋』に踏み入った事もない。
 もっと言うと、林の部屋にも戻った事がない。
 いつもリビングで、このテーブルで食事をして、葉月と談話するお茶をテラスでして……葉月が寝る頃には早々に退散する。
 以前の居つく前みたいに、彼女が寝てしまっても、テラスを借りてそっと帰る……なんてパターンはまだ復活させていない。
 本当に『通い』だけだ。
 葉月が隼人の部屋に来ているのと同様の程度になっていた。
 程度を合わせているわけでもなく、葉月も分かっていると思うのだが、『まだ以前のテリトリーに踏み入る勇気がない』──と。
 彼女と存分に愛し合ったベッドがある部屋。
 彼女に存分に自由に使わせてもらった『俺の城』でもあった林の部屋。
 なにもかもが──『壊れてしまった幻』のようなのだ。
 壊れてしまって、失った物と位置づけていた『想い出の部屋』が、目の前で急に蘇るのは……なんだかまだ痛くて受け入れ難い気がしているのだ。

 それは『無茶はしない』と隼人が決めた事の一つにもなっていて、無理して直ぐに取り戻さないようにしたいのだ。
 徐々に、もう一度──取り戻す? それとも……もっと新しくやり直す?
 その状態具合は分からない。
 だから、葉月も何も言わない。
 泊まっていけとも、部屋を使ったら? とも、私の部屋に来て……とも。
 だから当然『肌の営み』なんて……復活してもいない。

 それでもなんだろう?
 前よりずっと葉月が側に来たように感じる……そんな感触を少しずつ実感していた。
 きっと『話しをする時間』が増えたからだろうか?
 前は無言でも通じ合っていると思っている部分もあって、確かにその感触が信頼感を深めてきたのも事実。
 だが、それでも『言葉』も必要なんだ──と、この頃は思えるようになった。
 意思疎通も、言葉の必要性も、全てが同じように必要であって、どっちも偏ってはいけないものだったのだと。
 もちろんその両立をさせるべく、バランスを得る事も保つ事も大変で、得難い物ではあるのだが。

 でも……前よりずっと、生き生きとしている瞳と笑顔で、快活に自分が思っている事を話してる葉月は、とても眩しかった。
 それを眺めて帰るだけでも、なんだか充実している。

 見つけたお茶の話。
 今、好きな曲の話。
 今度、何をしたいかと瞳をキラキラと輝かせて熱っぽく語る葉月。
 艶やかなピンク色の唇が、忙しく動いて、隼人を退屈させる事はなかった。

 しかし彼女が静かになると……輝きがふっと陰りを見せる。
 輝きが一瞬衰えたというのに、その伏せた眼差しの影に、妙に胸がかき立てられた。
 その『影』は、神秘の海を思わす、思わず覗きたくなるような、でも……覗いたら海底に引き込まれてしまいそうな恐怖すらも感じられる色を落とす。
 なのにその『影』に捕らわれてしまいたいような……誘いすらも感じる。
 そんな艶やかな女性を思わす匂いが、隼人をくすぐる。
 海の表情、空の色、風の匂い、星の輝き──そんな事を絵を描くように、彼女の瞳に映り、指先が空気を彩っていく。

 隼人はただ……それを眺めて、密かに堪能している。
 『極上の鑑賞』──と言いたくないが、今はまるでそんな状態である彼女がその部屋に入っていくのを、そう思い返しながら隼人は『また、眺めている』のだ。

 だが、葉月はドアを閉めようとはしない。
 当たり前か? 彼女は隼人と暮らしていた間、いつからか着替えの時すら部屋のドアを開け放していた。
 そこにいる『男』が、隼人ならば……今更、閉める感覚など既に崩壊しているのだろう。

 ベッドの側に立った彼女の手が、ワンピース後ろのファスナーに。
 スッと下げ、茶色の後ろ身頃が左右に開くその間から、白い肌が現れる。
 そして──お決まりであったスリップドレスは身につけていなく、見えたのは黒い線──黒いブラジャーの後ろ線。

「! お、驚くじゃない……!」
「何故? お前がここを開けているのに?」

 その時、隼人は既に葉月の部屋のドアに立っていた……!
 気配を感じた葉月が振り向いて、驚いている顔もすぐ目の前にある!
 隼人自身も『いつのまに!?』と思っているのだが……。

「あっ」

 本当に『いつのまに!?』──今度は、ファスナーを降ろしきっていない葉月を背中から抱きすくめていた。

「怖くないのか?」
「怖くないわよ?」

 長くなった栗毛に、隼人は鼻先も頬も唇も埋めていた。
 隼人の腕に力がこもる程に、葉月の方が身体の力が抜けてしんなりと柔らかくなる。
 その感触が、隼人の腕に伝わってくる。

 こんな風に、彼女を腕に抱きしめるのも──今日が初めてじゃない。
 『やり直そう』と彼女と決めた時から、時にはこうして強引でも抱きしめていた。

「私、汗ばんでいて……」
「構わない──」

 汗をかいているという事は、肌も熱い──だから、その熱で、彼女がさり気なくつけているトワレの香りが激しく立ちこめていた。
 首の線、そして肩の線──隼人は鼻先と唇でそっと静かになぞった。
 いつも耳元には青みがかった小粒のパールピアスを付けているのが、彼女のお決まりだったのに……。
 近頃は様々なピアスをつけるようになっている。
 今日は小さなダイヤで出来た花のピアスが、キラキラと耳たぶに煌めいていて、それを見ながら隼人は唇を寄せる。
 指先が向かう方向も決まっている。
 抱きしめたら、自然と彼女の栗毛を触っている──耳元からずっと毛先までを指で追って、そのまま彼女の柔らかい乳房を包んだ。
 まるで馴染んでいる挨拶のように手順が決まっている隼人の愛撫に、葉月の身体の力がますます抜けていく。

 だが、今日は少し違った。
 隼人の手は、衣服の上からでなく──今日は彼女が開けたファスナーから覗いた白い肌に吸い込まれていくように、生地をくぐって素肌の上を滑っていった。
 そして……その怪しげな黒いランジェリーがどのような物か興味をもちつつも、確かめようとせず、その下着すらも押しのけて……素肌の乳房をつかみ取っていたのだ。
 当然、そこまでくれば、慣れた指先は彼女の胸先を巧みにつまんで弄んでいた。
 そして、花のピアスの輝きに惹かれるように耳たぶに口付けた時、やっと葉月が悩ましい声を小さく漏らし、肩越しに振り返った。

 何も言わない。
 瞳が甘く緩んで、ただ……『感じている』と隼人を見つめている。
 そのまま、隼人の胸にしなだれていく葉月は、まったくの『全面降伏』とでも言おうか?
 全てを隼人の手に委ねている。

 一日、一日──。
 彼女をこうしてただ抱きしめて、ほんのちょっと指先と唇だけで愛撫するだけの戯れ。
 なのに、彼女は日に日に隼人の腕の中に、『落ちていく』感触がある。

 暫く、そうしていると、その内に彼女の方から『やってくる』。
 隼人の腕の囲いを解くことなく、振り向いて──今度は彼女が隼人を抱きしめる。
 指の力を込めて背中にしっかりと抱きつく時もあれば、精いっぱいつま先を立てて、隼人の首に細い腕を巻き付けて抱きついてくる時もある。
 今日は背中だった。
 いったん、隼人の胸に頬を寄せて、それから思いっきり唇を押しつけてくる。
 その時──隼人は抵抗しないし、彼女に任せる。
 絶対に隼人からは、求めない。
 彼女がいかほどに、隼人を欲しているのか試すかのように──そして、葉月がどれほどに熱っぽく『俺を愛してくれるのか』その感触を堪能するかのように。
 葉月が隼人の唇を愛し、唇を押し広げ、そして奥の奥まで、我を忘れんばかりに愛してくれるまで、隼人は動かない。
 その口づけを感じてから葉月をやっと抱きしめ返し、今度は隼人が唇を奪うのだ。

「うう、ん……」

 そして葉月の顔が、悩ましく色めく。

「も、もう……」
「……」

 葉月の物欲しげな顔。
 隼人はそこで眉間に僅かにしわを寄せ始めてしまう。

 隼人の腕に、くったりと全てを預ける葉月の『重さ』
 それが以前とまったく違う事を、隼人は気が付いていた。
 前はこんなに……重く感じなかった気がする?
 気のせいなのか、本当なのか……それとも『気にしすぎているせい』なのか?

 それほどに、隼人に任せきっていない『狂っていない』気持ちが、葉月の中に以前はあったのだと。
 俺が──あんなに狂って、お前を愛していた時、お前は同じように狂ってはくれていなかったのか?
 こんなに悩ましげで、物欲しげで、それでいてこんなに熱っぽく! 男の手でなくて、今にもお前の方から淫らに落ちていきそうな色めく女になるのに……以前は、ここまでではなかった!
 それを……今、ここで『俺』に投げ出せるようになったのは、『あいつ』を失ったからなのか?
 今度は『俺』にそれを捧げようと? 今度は『俺』でないと、ぶつけられない『情熱』を──それまでは『兄貴に見せていた』のか!?

 そう思いながらも情けない事に、隼人は目の前の『激しく色めく女』に捕らわれたように、激しく唇を吸っていたし……ワンピースを肩からずらし、荒っぽく下へと引っ張り脱がしてしまっていた。
 今日はジャスミンのような香りが立ちこめる彼女の熱い肌。
 真っ白な肌に黒いランジェリーはとても際だって、艶めかしい……。

 このまま……!

(駄目だ……!)
「!」

 心の中でそう叫んで、隼人は寄りかかっている葉月を押しのける。
 葉月が……急に強制送還されたようなハッとした顔を。
 そのうっとりとしていた極上の瞬間を奪ってしまったのだと、隼人は顔を背けた。

「……」
「……」

 当然の沈黙……。
 だが、そんな事──隼人がどうしてこうなってしまうのか──そんな事は、隼人自身も葉月も判っている。
 だから、葉月は傷ついたような顔や様子は見せない。
 むしろ、そんな顔を背けている隼人を、しっかりと見ているようだ。
 しかし、それも一瞬──彼女はまた、隼人の胸に戻ってくる。
 彼女から、戻ってくる。

「葉月──」
「もうちょっとだけ」

 そう言って、隼人の胸に頬を寄せて微笑んでいる葉月。
 とても満たされている暖かい微笑みに……隼人は釘付けになる。

「ああ、もうちょっとだけ……な」
「うん、ちょっとだけ」

 そうして隼人はやっと……素直に葉月を抱きしめる事が出来る。
 もし──あのまま葉月の素肌を求めていたならば、きっと……。
 まだ消える事のない渦巻く気持ちが、こうして過ぎ去れば──素直に抱きしめられるのに。

 そんな隼人を知っているはずなのに、それでも葉月は微笑んでいる。
 それでも葉月の微笑みは、本当に見ているこっちが逆に『幸せ』にさせてもれるような……そんな幸福感へと誘ってくれるものだ。
 隼人も、それを見て──なんだか心が和らぐのが分かる。

 やっとお互いに抱きしめあい、そっと唇を重ねる事も出来る。

 やかんの湯が沸いた事を知らせれる音が、リビングまで響き渡った。

「いけない……!」

 ワンピースを脱がされてしまった葉月は、下着姿のまま、キッチンへと飛んでいく。
 葉月が腕から飛びだしていって、隼人はふと……やっと踏み入っている懐かしい彼女の部屋を見渡した。

『!?』

 夕焼けに染まる部屋の中──。
 窓際にあるジュエリーボード。
 その上段のガラスの向こうで、煌めく物が見えた。
 それに目を奪われ、隼人はそっと歩み寄る。

「なかったよな……?」

 隼人の目線より、ちょっとしたにある段に並べられているアクセサリー。
 そこは葉月が『ロザリオ』を並べているケースの場所。
 姉と義兄の真を一緒に弔っている大きなロザリオ──。
 そして、お腹の中で亡くなってしまった彼女の『子供』を供養している小さなロザリオ。
 それより前に、『天使』のガラス細工が置いてあった。

 ふっとガラス越しに指をあててみる。
 何故? ここに一つだけ……天使がいるのだろうか?
 そんな違和感だった。
 この部屋に出入りするようになり、隼人にとってもこのロザリオの意味する事は『死』というイメージだった。
 『死』だからこそ、葉月がそれでも忘れたくなくて『形』にしているのだと思っていた。
 その『死』を意味する空間に……ポツンと天使がひとつだけ……。

 どうしてか、その違和感に捕らわれたまま、隼人はただその天使を見つめていた。

「男の子と女の子──天使はどっちに見える?」
「! 葉月……」

 葉月がいつの間にか、戻ってきていた。
 下着姿のまま、なんだか神妙な目で、隼人を真っ直ぐに見ている。

「……どっちだろう? 中性的だよな? 宗教画でも」
「私は──その子は男の子の様な気がしたわ」
「!?」

 葉月の真剣な目。
 何故だろう? まるで何かに対して急き立てられるような気持ちに、隼人はさせられる。
 葉月に『これだけは、貴方にも同じ気持ちを感じて欲しい!』──そう訴えられているような……。
 その胸騒ぎの果てに、隼人が感じた事は一つだった!

「俺の……子」
「私の子」

 隼人は、そんな葉月の静かな眼差しに急かされるように、ふっと振り返る。

 ガラス越しの小さい天使。
 母親が置いている天使。
 それを初めて見た……!
 葉月が……こんな事をしていたなんて!

 ロザリオじゃない事が、また驚きだ。

 葉月がどのような感覚だったのかは、隼人には判らない。
 けれど──そこには、『少しでも生きていた』証のようにして、こっちを見ている。

 隼人が先程、感じたように──そこにあるのは『死』という結論でなくて、『生きていたよ』という結論。
 急に胸が締め付けられるようで……隼人は胸元のポケットのあたりを、片手で無意識に握りしめる。
 僅かに汗ばんできているのが、自分でも判る緊張感。

『俺は、この子を見捨てた』
『俺は、この子を突き放した』
『俺は……この子を……』

 そんな罪悪感が、身体中を走り巡る!
 だが……! それが何故か、暫くして、スッと消えていった。

「お前は……生きていたと……」

 隼人はうなだれて、葉月に呟いた。

「……」

 葉月は黙っていた。
 返事をしてくれない葉月は、ベッドの上に置いているジーンズを手にとって、手早く履く。
 そして、黒無地に白い小花柄がちりばめてあるキャミソールを着ると、また、隼人に向き合った。

「隼人さん──。私達、幸せになれると思う?」
「え?」

 唐突な質問に、隼人は顔を上げる。
 重苦しい思いをしているのは、隼人だけなのか?
 葉月は、その天使の話など『もう終わった』とばかりに、サラッとした軽い口調で、途方もない事を尋ねてきた。

「私達が、これから先──やっぱり、一緒にいられなくなっても。そして、やっぱり、元通りに戻れても……『幸せになれる』と信じている?」
「……それは……」

 隼人は口ごもる。
 一年前なら、隼人は不安定な彼女を見下ろして、笑顔で答えていただろう。

『ああ、信じていれば。幸せになれる──頑張ろう、葉月』

 だが──そうではなかった。
 全力を出しても、全力で彼女の為に走った果てには──自分が望まない物もあったし、二人が望まない物が襲ってきたり、それによって思わぬ結論を生む事もあるのだと。

 だから、即答ができず、なおかつ、葉月から顔を逸らしていた。
 彼女をさらう事も、引き留める事も出来ず──独りよがりに、彼女を『これが正解』と向かわせてしまった結果を生んだ男だ。
 彼女に罪を刻印し、彼女の身体から血が流れる結果を導いたのに、最後まで共にいられなかった男だ。
 そんな男が『また頑張れば、幸せになれるさ』なんて笑顔は、もう通用しないだろうし、説得力もないだろう。

 今の隼人には、そんな事は言えない。
 だが、葉月がふっと微笑んだのが目の端に映ったので、隼人は訝しみながら、葉月を見た。

「私も……そう思う。即答が出来るなんて、答なんかじゃないわ」
「え?」
「……幸せになれるかなんて、『今』は、私にも判らないもの」
「……そ、そうだな?」

 何故か、葉月は答えられなかった隼人を見て、可笑しそうに笑っているのだ。
 そして、葉月はそっと隼人の側に歩み寄り、ジュエリーボードの前に並んだ。
 彼女が麗しい眼差しと優美な微笑みで、天使を見つめている。
 隼人も一緒に、見つめた──。

「昨日、幸せじゃなかった。明日は……幸せじゃないかもしれない。でも『今』、幸せにしたいな……。それの連続でいいのではないかしら?」
「!」
「明日、幸せになりたいな。今日、一日を幸せに過ごしたいな。ううん、一時間先、今、一分先を楽しくすごしたいな。そう、楽しくしよう、なるべく、楽しくしよう──。真珠のように繋げるの。上手く糸に通る時もあって、糸に通せなくて幸せの真珠がこぼれ落ちていく日もある。糸に通したのに、急に割れてしまう真珠。手に持ったらヒビが出来ちゃった不完全な真珠。大きかったり、小さかったり、綺麗な色だったり、くすんでいる時も──。それでも糸に通し続けていくの。そう言う事でしょ? それが、どのような連なりで出来映えになるか判らない。それと一緒なんでしょう?」
「また……葉月らしい例えだなぁ……」

 ふと心の琴線に感触があったのに、葉月らしい例えに隼人はつい小難しい顔で眉をひそめてしまった。
 しかし、彼女が言わんとしている事は、分かった!

「そうだ。なんにも保証なんて……ないんだ」
「そうね……。でも、思い通りにならない事ばかりでも、頑張ったのに結果が出なくても、そんな小さな事を続けていく事なんでしょうね? 『生きる事』は──」

 『生きる事は』──で、葉月の目が輝いた。

「……変わったな」
「そう……?」

 初めて、実感した。
 葉月の様子が変化し始めている事など、彼女が帰ってきてからすっかり見慣れていたつもりだった。
 だが──こんなにも、内面の深い所が変わってると実感したのは、初めてだった。
 すっかり気を抜かれてしまっている隼人の呟きに、葉月は照れくさいのかサッと栗毛をかきあげている。

「この子はね。私が『生きている』と、教えてくれた証」
「生きている……?」

 そして葉月が、隼人を見つめて──とても柔らかに微笑んだ。
 けれど、何か感極まっているのか、瞳には既に涙がたまっていた。

「そうでしょう? 確かに、痛かったし血も流れたわ。 でも、痛いし血も流れる。その痛さと生暖かい血があったのは『この子が、本当にいた』と一番実感出来た瞬間でもあったわ!」
「……葉月」

 隼人が一番に悔やんでいた瞬間を、彼女は『生きている』と感触を一番に得た瞬間だと言った!

「その痛さと血の中で、あの子は生まれたんだもの。私の中で、生まれたんだもの。消えちゃったけど、私の中に息づいたんだもの」
「息づいた?」
「そんな風に感じたの……初めてだったの。今までの妊娠で、初めてだった。哀しかったけれど、初めてだった……」

 敏感な話題に、隼人はただ硬直し、葉月だけを見ていた。
 葉月も……自分の気持ちをどう言えばいいのかと、もどかしそうに言葉を探しているように見えるが、少しずつでも言葉を語ろうと口を開く。

「お兄ちゃまとイタリアに行けば、私にはもう無責任に生きていける夢のような時間しかなかったと思う。それでも力を抜いた私には、幸せだったのかもしれない。でもね……。『生きている』と感じられた痛さは、強烈だったと言うか……」
「強烈?」
「うん。これが生きているという事なのかな? って。そう……出て行く前に墜落しかけたでしょう? なんだかあれに似ていた気がするわ」

 そして葉月はそこで『ごめんなさい、上手く言えない』と、俯いてしまった。
 けれど、隼人はそこで、葉月をそっと抱き寄せていた。

「隼人さん……?」
「有り難う。なんだか気持ちが楽になった気がする」
「この前……そう言えば良かったんだろうけど、隼人さんとても気にしているみたいだったし、私も……どう言えば隼人さんの気持ちの負担にならないか解らなくて。でも、その天使……早く気が付いて欲しいなって思っていたの」
「……そうか」

 言葉に不器用そうな彼女の顔が、一年前に良く見ていた『小さな女の子』を垣間見た様な気がして、隼人は笑っていた。
 そんな隼人の力が抜けた穏やかな表情を見た葉月も、そっと安心したように笑顔に輝いた。
 そして──また、二人一緒に、天使を見つめた。

「飛べなかったみたいだから、私が飛んであげなくちゃ」
「葉月。お前……」

 葉月が笑った明るさに、隼人はもの凄く驚いて、ただ見つめているだけが続く。

「私ね。生きていると実感することが出来るのは……こっちだと思ったの。ごめんなさい。義兄様でもなく、貴方でもなかったわ。私が帰ってきたのは『もう一度、生きよう』と思ったからなの。それは別れた義兄様も同じ」
「兄さんが?」
「うん……。忌まわしいあの日から、何も始めていないから。お兄ちゃまは、お兄ちゃまであの日から始めるんだって。今からでも、始めるんだって。だから──義妹の私も一緒よ」
「そ、そうだったのか?」

 やっと純一が葉月を手放した訳を知った気がした。
 それは『男と女の問題』だけでなく……元よりあった『義兄と義妹』という関係の時からつきまとっていた物から、解放される為。
 『義兄妹として決めた再生』──が、それが一番の答えだったのだ! と、なんだか急に隼人も判ってきた気がした。
 彼等は今後、『男と女』として互いに生きていく道よりも、『義兄妹』としての関係を保つ道を選び、そして『再生』する……。
 『悪夢に打ち勝つ!』──突然、この義兄妹の強い声が聞こえてきた気がする!

 そう初めて理解する事ができ、呆然としている隼人に、葉月が問いかけてくる。

「あの生きていると強烈に思わされた痛さと熱い血を感じたのは……どうして?」

 隼人は答えられなかった。
 それでも葉月が、堂々と言ってくれる。

「貴方に出会うまで、辛いこと、いっぱいあったし。貴方と出会ってからも、痛い事も沢山あったわ。──でも、そんな世界でも、貴方と愛し合ったから……」
「葉月──」
「その真珠は、とても大きくて真っ白にピカピカで重いの。一番、目立っているわ」
「……」

 もう──頭が真っ白になった。
 その時は、もう……彼女をただ抱きしめていた。

「それ……早く、言ってくれよ。馬鹿野郎」
「だって。聞いてくれたの?」

 彼女を怖れて避けていた隼人には、その言葉に反論は出来ない。

「あ。お茶──忘れていたわ」

 隼人の腕の中で、葉月は急にハッとして出て行ってしまった。

 ベッドの上に置いてある白いカーディガンを手にとって、羽織ろうとしている所。

「! は、はや・・と……」

 カーディガンを羽織りながら、出て行こうとしていたその手首を隼人は掴んで強引に引き込んでいた。
 隼人の胸の中に、再び、ウサギが戻ってくる。
 引っ張り込んだまま、彼女が迷う隙も与えずに、今度こそ、今度こそ──隼人から彼女の唇を愛していた。

「有り難う。お前は俺を救ってくれたんだ」
「救う? 言葉が違うわ。私は……んっ……」

 それだけ呟き、夢中に彼女を愛していた。
 彼女の栗毛を鷲づかみにし、強く自分の口元に引き寄せる口づけ──。
 そして……葉月の手から、羽織ろうとしていたカーディガンが絨毯の上にスルリと落ちていった。

 葉月の頬に熱い涙が一筋だけ……流れていた
 彼女の『償い』を思う気持ちは、もう、終わりにしてあげたい──。
 二人で招いた『最悪の結果』だったかもしれない。
 でも、苦しんで選択をした彼女が出した答に……救われていた。

 もう、怖くない。
 彼女の肌の熱さと、柔らかな感触を抱きしめて──予感する事が出来た。

 きっと……もうすぐだ。
 また……彼女を熱く愛する事が出来るはず。
 それは、きっと……もうすぐ!

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