夜が明けようとしてる。
今日の朝焼けはとても鮮やかだ。
真っ赤に空の端を染め、夜空で見えなかった雲も、そして消えゆく星も月も茜色に見えた。
真一は双眼鏡で『御園邸』を見つめていたが、建物はよく見えるようになってもやはり家の中までは見えなかった。
ときどき桜の木の梢にちらちらと動く人影だけが見える。それが見えると、その度にドキドキした。
いつか見えるのだろうか? 光が射してきて見えるのだろうか?
真一は夜が明けきるのを心待ちにしながら、見えない影を心で見守っていた。
そんな時、凄い集中力を漲らせていたジュールが、真一の横でぴくっと動いた気がした。
彼は急にライフルの望遠鏡から目を離し、肉眼で遠い御園邸を一度見ると、なんだか戸惑った顔でまたライフルのスコープへと戻っていった。
何かあったのだろうか? これだけ集中していたジュールが起こした急な動きに、真一は不安を募らせた。
スコープを何度も見直しているジュール。
どこか顔色を変えて、彼らしくないが少しばかり狼狽えているようにも見えた。
そのジュールが急に、屋根に立ち上がった! あんなに息を潜め、物音がたたない細心の注意を払っていた彼が、屋根をバンと蹴るようにして飛び降りてしまったのだ。
「ナタリー! エドを乗せたトレーラーを持ってこい。至急、庭先までつけろ」
彼に従っていた若い部員も、ナタリーも、ジュールのその声に顔色を変えた。
だからナタリーも慌てた様子で尋ねた。
「だ、誰なの? ジュール!」
真一もそのやりとりに驚いて、まだ屋根に腹這いになったままで懸命に双眼鏡を覗いたけれど、やっぱり見えない。
まさか……まさか……? 親父? 葉月ちゃん? 隼人兄ちゃん……? それとも人質として怪我をさせられているという右京おじちゃん!?
心が冷たく凍る思い、だけれど身体は血が駆けめぐり、があっと体温があがる。
ジュールは黙っていた。
だが直ぐに答える。
「幽霊だ。それから隼人様が負傷している。右京様もだ。早く、持ってこい!!」
ジュールの吠えるような声に、ナタリーは『分かった』と答え、直ぐに駆けていった。
その後、ジュールが真一へと振り返る。その顔がとても怖く、真一に対して何かを窺っているような顔……。
「真一様、一緒に行きますか?」
真一の胸がドキリとうごめく。
つまり、そこに行くと言う事はたった今決着がついただろう『死闘の現場』に行くことを意味し、さらに『母の敵』に会いに行くことを意味し、尚かつ『母が虐げられ、死に至った場所』に行くことも意味している。
すべてに対して覚悟なくしては向かうことが出来ない『元凶の場』なのだ。
一瞬、躊躇した真一。
だが、これで行かなかったらどうなる? あんなに強く『見届けたい、見守りたい』と願っていたのに、ここで引き下がるのか?
真一の中で自ら問いかける声。
だが、真一は決める。
「行く!」
「では、私と一緒に。さあ、急ぎますよ!!」
「私も行くわ」
「では先生も一緒に」
真一は黒い車の屋根を飛び降り、走り出したジュールの後をジャンヌと共に懸命に追う。
走っている途中、ジュールがついにインカムマイクに向かって誰かと通信を始めた。
「ボス! 貴方は大丈夫なのですか? はい、はい……こちらから確認できました。エドが準備を整えておりますから、今、治療車がそちらに向かいます。私も向かっています!」
その通信を聞いて、真一は幾分かほっとする。
どうやら父は無事のようだ──。
だけれど、隼人は? 右京は?
エドのあのオペ用トレーラーが必要な程に? それに幽霊も負傷ってどうなったのだろう?
まだ確かめない分、真一は不安で堪らない。ジュールもそうなのだろう。もの凄い速さで駆けていく。真一も一生懸命に走った。ジャンヌも少し遅れているが、白衣を翻しながら彼女も懸命に走っている。
遠くから眺めていた『御園邸』の目の前に来る。
初めてきた場所。そして忌まわしい場所。
だけれど真一には、この別荘の佇まいの印象なんか感じる間もない。ジュールと一緒に直ぐに庭に入った。
庭に桜の木があることだけが目についた。その次に直ぐに目に付いたのは『割られている窓』。その窓も、割れたまま開けられている。
『兄様! なんとかして! この人を絶対に死なせたくない!!』
『分かっている。今、エドが来る』
『間に合わない、間に合わないわ……!! こんなに、こんなに……』
葉月と父の声。
葉月も無事だったと分かって真一はほっとする。
だけれど、『この人を絶対に死なせないで』と叫んでいる声に、真一は青ざめた。
まさか、隼人の負傷が? それほどに酷いとか? 隼人は葉月をかばって幽霊に傷つけられて、それで親父が幽霊を退治した??──そんな筋書きが頭に浮かんで、やっぱり真一の心臓はばくばくとその緊張の音は鳴りやむことはない。
その窓をついにジュールが覗いた。しかし……彼がそこで呆然とした顔で立ちつくしてしまっていた。それを見ただけで、真一はそこを覗く気持ちが弱まってしまいそうになる。
だけれど、真一は気を強くしてジュールの横から『その光景』を目にする。
目が大きく見開く。
床に赤黒い血の大河が出来ていた。
そこに何も着ていない裸の葉月が、一人の男に寄り添って手や胸元、頬に毛先を血で染めていた。
右京はソファーの傍で、気力が尽きたようにぼんやりと、従妹と男がいる方を眺めているだけ。そして隼人は葉月の側にいるが、動きづらそうにしている。父純一は、葉月と一緒に手を赤く染めその男の首元を止血しているようだった。
何故? 真一の頭に直ぐに浮かんだのはそれだった。
だって、そいつの為に苦しんできたのに? 何故? そんなふうに助けようとしているのか?
右京の服も頬も血だらけ、隼人も顔に血が付いて戦闘服が切れてそこが赤く濡れているのが分かる。それほどの『死闘』をしたはずなのに、その敵を射止めたはずなのに、『そいつがいなくなれば、平和になる』はずで、それを願ってきたはずなのに?
どうして?
だが、真一が直ぐ感じたその気持ちは、次に聞いた葉月の言葉で覆される。
「死なせるもんですか、死なせないわ! 貴方は姉様の前に行って、言わなくちゃいけないことが残っている。姉様になにも言わずに死ぬ事なんて許さない!! あの世があったとしても、貴方は死んでも姉様には会えないのよ! だからここで言うのよ! それまで、死ぬなんて許さない!!」
──『そんなのずるい!!』
ばちばちん! と、頭のてっぺんから凄い電撃が真一の身体の芯、心の奥まで貫通していく!
真一はその壮絶な痕跡を残すリビングに、躊躇わずに駆け込んだ。
そして迷いなく真っ直ぐにその血だらけの男の元に向かった。
「俺も手伝う」
「し、真一!」
「……し、しんちゃん、どうして!?」
二人の驚いた顔。だけれど真一も上着を脱ぎ、セーターを脱いで下に着ていた白いティシャツを脱ぐ。
それを口にくわえて、めいっぱいの力で引き裂いた。
「葉月ちゃん、どいて」
葉月の隣に移動し、真一は毅然とした顔を葉月に向けた。
「この手のレスキュー訓練もしているから。俺の方が上手いと思うよ」
「しんちゃん……」
葉月の手がのいた。
真一は葉月が押さえていた部位の具合を確かめて、その応急処置をする。
(駄目だ……。駄目かも知れない)
そう思った。
だけれど、あの設備のトレーラーがあれば。
だけれど、輸血はどうするのか?
そんな事が頭の中に駆けめぐった。
「私も手伝うわ。この男にはまだやってもらわなくてはならないことがあると、私も思うわ」
目の前に白衣のジャンヌがいた。
彼女も右京が心配だろうに……。葉月の叫びを聞いていたのか、それとも右京と何か疎通しているのか。負傷している恋人のことを放って、いつもの女医の顔で脈をとりだした。
「づ、る……」
もう意識が朦朧としているその顔で、男が僅かに唇を動かした。
葉月も純一も、それを確かめるように再び男に近づく。
「ち……づ、る・・。み・・・な」
「ちづる? み・・な? 先輩、なんて言っているんだ?」
純一がいつもの父親の顔ではないことに真一は気が付いた。
『先輩、先輩』と声をかけているその姿。真一は泣きそうになるが、手元に集中した。
すると葉月が、耳元で聞き届けたその呟きが何であるのか分かったのか、義兄に向けて言った。
「美波さんのお母様の名前よ。それと美波さんも……」
「昔の恋人と、娘を……?」
すると父純一は何故か『くそ!』と拳を床に叩きつけていた。
「……皐月じゃないのか? ええ!? 最後に皐月の存在一欠片もなく逝くというのか!?」
父が急に男の首元に手をかけ、身体を揺すろうとした。
「やめろよ! 親父!! 揺すると出血がひどくなるだろ!!」
「……くそっ」
「気持ち、分かるけれど……」
「く、そ……」
あの父が……。床に両手をついて力無くうなだれてしまったその姿。
やはり真一は泣きたくなる。
そして同じように怒りも湧いていた。そして真一も思う! 『この男、死なせるものか! 母さんの墓前に引きずり出してやる!!』と──。家族の名を最後に死なせるものか。でも……この男にも家族の情があったのかとも思うと、やっぱり泣きたい気持ちにもなった。
「美波さんも待っている。帰ってくると信じているわ。どんな父親でも。あの子は私にそう言っていたもの!! そうどんな父親でも……。こんな父親でも……、この男、ちちおやで……それで、だから……」
すると今度は葉月が『わあ……!』と床に崩れて泣き叫んだ。
わんわんと泣き始めたので、真一は最初目を丸くした。だっていつだって感情の波が少ないあの叔母が、本当に子供のようにわんわんと泣き始めたのだ。
そこに隼人が這うようにして葉月の傍に寄ってきた。
「は、葉月、葉月……。そうだな、うん。言いたいこと、分かる。お前の気持ち、分かるよ。本当はそうじゃなくて、悔しさばかり。そしてそうしたくないのにそうせねばならない複雑な気持ちも」
「ああああっ! あああ、ううっっうっ……」
「葉月。大丈夫、きっと……。エドがすぐ来るから……」
隼人も痛みがあるようだが、顔色はそんなに悪くはない。
一番軽い負傷だろう。出血も血管が切れているとかではないと真一は判断する。
隼人は素肌で泣き崩れる葉月の背を優しく撫でているが、葉月はそのままわんわんと泣いている。
そんな隼人が、葉月に言う訳でもなく、ぽつりと呟いた一言。
「やっと、泣けたんだな。葉月」
その一言に、誰もが隼人と葉月へと振り返った。
子供のようにわんわんと泣いている葉月。
隼人のその一言を聞いた途端に、真一にはそこで裸で泣いている大人の女性が急に『十歳の女の子』のように見えてしまった。
だけれど、それは自分だけではないよう……。目の前にいる純一もジャンヌもそんな顔。そしてその少女が行き着いた場所を、安堵だけではない途方もない哀しみも消えないことを、見届けることしか出来なかったという顔。右京はその従妹と共鳴するように、彼もすすり泣いていた。
それで父純一も我に返ったのか、急に男から離れ部屋の片隅に散らばっている何かを手にし葉月の元へと向かう。
純一が手にしていたのは、白いブラウス。それも血の付いた指の跡がついてしまったが、それでも純一は隼人が撫でているその背にブラウスをかけた。義妹の露わになっている素肌を優しくブラウスで覆いながら、話しかける。
「葉月。頑張ったな」
「うううっ……! ああああん・・・」
「もう少し、頑張ろうな。お兄ちゃんも、まだお前と一緒に頑張るから……」
そんな父親の優しい口調を初めて聞いた気がした真一。
そこは十歳に幼児返りして置き去りにした姿を取り戻している葉月と、その当時どうすることも出来なかった若き青年、その義兄妹が寄り添っているように真一には見えた。
そう、きっと……。葉月だけじゃない。父純一も【あの日】に帰れたんだと真一は思えた。
それならば……!
『さあ、今度はあんたの番だ! あんたも【あの日】に帰って、【あの日】の母さんを連れ戻してもらわなくちゃならない!!』
そう真一も強く思い始める。
だが、葉月のコートはもう殆ど赤く染まっていた。
「バイタル、とても低いと思うわ。まずいわね」
ジャンヌもとても気になるようだ。
医療に携わってきた二人に焦りが生じたその時。庭先に騒々しい車の音が響き、そこに停車した姿が見えた。
来た──! エドと医療車が来た!
ジャンヌと真一は顔を見合わせ、頷き合う。
「只今、参りました。どのような状況ですか──」
エドが瞬く間に飛び込んでくる。
彼はボスの報告も待たずに、部屋中を見渡し、やはり幽霊を目にして驚愕の顔。真一とジャンヌがやっていること、つまり応急処置という『救助』をしている姿を目にして、エドもきっと真一と同じ事をまず思ったのだろう。だから、真一はエドに叫んだ。
「この男、絶対に死なせちゃいけないんだ! 母さんをあの日の母さんを消されちゃ困る!!」
「し、真一様──」
「エド、お願いだよ。この男を、死なせないでくれよ!!」
皆の願いを背負ったような気持ちで、真一は叫ぶ。
するとエドの顔がいつもの冷たい顔に引き締まって、彼が素早く動き出す。
「的確な処置ですね。ジャンヌ先生、真一様、このままトレーラーに運びますよ」
「うん」
「分かったわ」
「俺達も手伝おう」
「私も運ぶの手伝うわ」
ジュールとナタリーも駆けつけてくる。
ナタリーの部下が担架をもちこみ、外にはストレッチャーも用意している。
数人で、もう屍になっているかのような血塗れの男を運び出す。
黒猫達の息の合った作業で、男は瞬く間にトレーラーに運び込まれた。
エドが白衣を着て、口元にはマスクをする。
そのエドがまるで『リーダー』のようになり、彼が皆に指示を出す。
「ジャンヌ先生。右京様と隼人様の処置を、もう一台のトレーラーで。お願いできますか?」
「勿論よ。でも、貴方、一人で大丈夫なの? アシスタントが……」
「部下に看護師の心得のあるものがいますから大丈夫です。早く右京様の元へ行ってあげてください」
エドがそう言うと、ジャンヌは今度こそ……。右京の元へと真っ直ぐに駆けていった。
それを見ていると、エドの鋭い眼差しが真一へと向かってきてドキッとする。
「と、いっても手が足りません。真一様、先生を手伝っていただけますか?」
真一はこっくりと頷いてまた庭へ、家の中へと駆け出す。
空が真っ赤に燃えていた。
真一は庭先でそれを見上げる。その見たこともない激しく染まる茜の空。まるでそこに……いるように思え。
「あ……」
夜が明けたその忌まわしい最後の戦場、その庭先に──小さな花が咲いていた。
桜がひとつだけぽつんと。
本当にそこにいるのではないかと思いながら、真一は目をこすった。
思う人は見えやしないけれど、でも、花は確かに咲いていた。
それは、やっと浮かべることが出来た微笑みのよう……。
息子の自分はそう思えた。
そして、共に苦しんできた妹は……。
リビングからはもう、先ほどの叫び声のような泣き声は聞こえなくなり静かになっている。
真一が覗いたリビング。ジャンヌに抱き上げられ、やっと安心したような右京の顔も、そこの桜がほんのりと咲いたように微笑みを浮かべている。
そして葉月も……?
彼女は夫と義兄が寄り添うその場所で、安らかに眠ってしまったようだ。
その顔もまた? いや、彼女はとても疲れ切った泣き顔のまま寝付いたようで、叔母には桜が咲いたのだとは真一には思えなかった。
【あの日】の少女は、行き着くことが出来たのだろうか?
でも、彼女にもきっと……。
・・・◇・◇・◇・・・
その後、隼人も一眠りしてしまったようだ。
気が付けば、山崎病院の一軒家に戻っていたようで、寝室のベッドで目が覚めた。
右肩に包帯が巻かれ、動かせば痛みが走るが、それは堪えられる程度のものだった。
それからあっと言う間に時間が経ち……。
「まだなのか?」
純一は隼人の顔を見れば、そればかり言う。
「まだみたいだね。時々、目を覚ますけれどなんだか虚ろで。また直ぐに眠ってしまうんだ」
「そうか……」
心配そうな純一の顔。
葉山で迎えたあの真っ赤な朝焼けの日。
最後の決着がついた日。いや、実際にはまだ最後まで決着がついたとは言えないが、それでも真っ正面で『命を懸ける程の対戦』は終焉したと隼人は思っている。
あとは、当人達が今後どうするかだった。
葉月はあれだけ大泣きした後、瀬川がオペに入った途端、疲れ切ったように眠ってしまった。
隼人は右京の後に手当てをしてもらい、トレーラーで東京に向かう途中、痛み止めが効いてきたようで眠ってしまったのだ。
それで寝室で目覚める。隣のベッドでは母親の登貴子が付き添った状態で、葉月も眠っていたのだ。
その登貴子に『俺はどれぐらい眠っていたのか』と聞くと、『朝から夕方まで』という事だった。そして葉月も帰ってきてここに運ばれてから一度も目覚めないと言う。目が覚めた隼人も、傷は浅く済んだので妻を見守っていたのだが、その夜に一度目が覚めただけで、彼女に『帰ってきたんだぞ』と言うと暫く彼女は辺りを見渡すために瞳を動かしただけで、何を思っているのか分からない表情のまま、また眠ってしまったのだ。
そうして一晩が明けた。
だが次の朝も、葉月は目を覚ましてもうつろに窓を眺めては、眠ってしまうのだ。
あまりにも心配になってきて、ジャンヌに『なにかショックだったのだろうか?』と尋ねると、彼女も『あるかもしれないわね。今はなんとも判断できない。でも、ただ休みたいだけなのかもしれないわ』──もう少し様子を見ましょうと言われたのだ。
戦いを終えた次の日も、その次の日も、そしてまたこの日も、葉月は食事もせずに、眠ったまま。
そろそろ隼人だけじゃなく、純一を始めとする誰もが不安を抱き始めていた。
終わったのではないのか?
あれだけ、ありったけに戦って。ありったけに傷ついて、ありったけに泣いて。ありったけに……。
あの戦いはお前にとって、『未来』を意味していたのではないのか?
あんなことになって。瀬川が血だらけになってなにもかもを終わらせようとしたあの瞬間がそんなにショックだったのか。
いや、そうじゃない──。夫の隼人は妻の今までを思う。どれだけの日々だったことだろう。そのなにもかもを凝縮した時間だったのだろう、あの戦いは。彼女の全てを、ありったけに使い切ったのだろう。──十八年。彼女の十八年。だから、いいじゃないか。一晩眠ったままでも。目が覚めてもまた眠りたくてしようがなくても。彼女は十八年、幾晩も眠れない日々を過ごしてきたんだ。だからいいじゃないか。今日も眠りたければ、眠っていれば良いんだ。
隼人はそう思いながら、葉月の横にずうっと付き添っている。
妻はもう過去を彷徨っていない。そう信じていた。
結局、その日も夕方になっても葉月は目覚めようとしなかった。
その夕方に刑事が訪ねてきた。先日の横須賀の件を担当している刑事が葉月に会いに来たのだ。
だが、この状態を知り、とりあえず帰ると言う。葉山で決戦をしていた最中、亮介と登貴子は警察へ出向いたと後で聞いて隼人も驚いたが……。でも隼人はそれで良かったと思う。やはり最後はそこに行かねば終わりとは言えない。義父と義母もそれに気が付いたのだと。隼人はその決意に従う。
刑事は暫く亮介と話し込んで、葉月に付き添っている隼人にも挨拶に来た。隼人は寝室を出て、そこの廊下で刑事と挨拶を交わす。
「どうなのでしょう、奥さんは」
「時々、目は覚ましているのですが。無気力……いえ、まだ眠っていたいという感じでしょうか」
「そうですか。お話、いつか聞かせて頂きたいのですが」
刑事の不安そうな顔。
精神的に参ってしまったのではないのか?
家族の神経を逆なでしないよう、それは口にしなかったが、家族でもそれを不安に思っているのだから、隼人には刑事もそれを案じていることが直ぐに分かった。
だが、隼人は毅然として言う。
「妻は、瀬川とまだやらねばならぬ事があると言っていましたから。今はただ、今まで眠れなかった分、休みたいだけなんだと思います」
「そうですね。当時の担当者からも聞きましたが……。証言が固まれば、それはそれで、また酷い事件になりそうだと。奥様は幼い頃からずっと苦しんできたことでしょう。その心を休めていたいという気持ち、お察し致します」
刑事のその温かみのある目に、隼人はなんだか泣きそうになったほど。
恰幅の良い普通の親父さんと言った感じの刑事だった。
彼はまた来ると言って、隼人に背を向けた。
「ああ、そうだった。今、御園のお父さんにも伝えたのですが──」
彼が肩越しに振り返って言った。
「瀬川の意識が戻ったそうです。彼もまだ、眠ったり目覚めたりの繰り返しのようですがね──。処置が早かったからだろうとのことです。口がきけるようになるのはもう少し先になりそうですが、直に警察病院に移す予定です」
「そ、そうですか……」
瀬川はあの後、エドの必死の処置でなんとか一命を取り留め、そのまま山崎の病院にスピード搬送し、エドと院長が再度オペを施し、そのままこの病院のICUに入ったままだった。
誰も瀬川のことは口にしないが、純一は逐一様子を窺っているようだった。
そして隼人の携帯にも、一日に何回か『翼』からのメールが入るようになった。
【美波が泣いて詫びています。こんな父だけれど、助けてくれて有難うと──。今は、貴方達に合わせる顔がないと言っています。俺達、今、付き添っています。俺からも礼を……。いえ、聞き入れてくれるような礼だとは思っていませんが、言うだけでも言わせてください……】
【俺は美波と共に、親父さんの償いの道に寄り添っていく覚悟です】
そんなメールだった。
そして、隼人も彼に返信は送らない。……きっともう、彼等と会うなら、この前のようには会えないだろう。そしてもっと先になるだろう。
これから、また新しい戦いが始まるのだろうか?
なんてことだろう。人が人を傷つけること、そして傷つけられることは、こんなにも長い戦いになるのか。なんてことだろう。
だが、それでも顔をあげて──。
隼人は痛む心を、しぼみそうな心を、なんとか奮い立たせる。
妻は……。いつもこんな戦いをしてきたのだろうか?
そう思うと、奮い立たせた心がまた痛む。
肩の傷なんて、本当にどうでも良くなる痛みだ。
きっと妻も、肩の傷よりも心の傷に苦しめられていたんだ。分かっていたのに、分かっていたはずなのに。でも今、もう一度思い知らされる妻の痛みに隼人は、泣きたい気持ちになりまた寝室に戻った。
春の優しい風。
夕暮れの優しい光。
庭の桜があの日から少しずつ咲き始め、枝先はだいぶ桜色に染まり始めている。
そんな優しくて柔らかな夕。
「いっぱい咲き始めたのね」
そして目の前に、柔らかく微笑む妻が、その窓を眺めていた。
ベッドから起きあがって、その窓辺に立って、優しい風にあの綺麗な栗毛を揺らしている。
「は・・づき……」
まるでなにかの幻でも見ているかのようで、隼人はかすれた声で妻を呼んでしまった。
何故、幻かと──?
その優しい夕暮れのまま、そこにやんわりと溶け込むように微笑んでいる彼女が……。暖かい目元を、そして透き通る瞳を輝くままに見せてくれる『葉月』がそこにいるからだ。
「貴方──。隼人さん、桜、いつから咲いているの?」
隼人はそのまま真っ直ぐに、その窓辺へ駆けた。
そしてただただ強く彼女を、妻を抱きしめるだけ。
いっぱい眠ったか?
今まで眠れなかったぶん、眠っていたんだろう?
もう、いいのか? もう充分、休めたのか?
そう言いたくても、やっぱり声にならず、隼人はただ葉月を抱きしめ、何度もその栗毛を撫でた。
彼女からいつもの優しい匂いが戻ってきていた。
そして、いつまでも彼女は微笑んでいた。
きっとそんな笑顔だとずうっと待っていた。哀しみで曇っていないその顔を俺はまだ知らなかったけれど──。
隼人がずうっと前から待ち望んでいたものが、舞い降りてきた。
翼を広げて、舞い降りてきた。
……そんな気がした。