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6.天使と女神は

 葉山に辿り着くと、空の端はもう朝焼け──。
 エドが運転する車は、真一が来た事もない別荘地の入り口で停まった。
 何故なら目の前に大きなトレーラー車が三台ほどそこで停車し、黒い繋ぎ服を着た作業員達が遠くを見るようにして待機しているからだ。

 黒い戦闘服を着たエドが、停めた車から降り、そのトレーラー車へと向かっていく。
 向こうにいる幾人かの中から、栗毛の女性がその繋ぎ姿でエドへと駆けてくる。
 真一も父親から紹介されて顔見知った『蝶運送屋のナタリー』だった。エドがあの後直ぐに連絡したとは言え、その迅速な到着は流石だと、真一は唸った。
 しかし彼女の顔も、緊迫している……。彼女は父親の純一ともとても親しそうだが、仕事であの一軒家に訪ねてきた時は、いつもジュールの側をうろついて彼をからかって遊んでいる。なんでも幼馴染みとか。だからだろうか? そんなジュールを案じてか、とても心配そうな顔だと真一は思った。

(ここが、あの別荘……)

 閑静で趣ある佇まいの別荘が何軒も建ち並んでいる区画。
 その佇まいから歴史がある古い別荘地だと真一は思った。

「貴方も降りる? 大丈夫?」
「先生──」

 大丈夫? ──何が大丈夫と問われているか真一には分かる。
 そう、ここは『母・皐月が死んだ場所』。そして『殺された場所』。
 そう思うと自然と身体が固まり、そして拳を握りしめてしまっていた。

 後部座席でずっと寄り添ってくれているジャンヌ。
 白衣を着たままの彼女が、心配そうに真一の手を握ってくる。
 その柔らかな感触に心を癒されるように、真一も言いしれぬ不安を和らげてもらい頷く。
 彼女と車を降りると、エドがナタリーのトレーラーを確認するように中を覗いていた。真一もジャンヌと一緒にそこへ向かい、エドの後ろからそっと眺める。

 ──すごい!
 トレーラーの中は本当に『ミニオペ室』だった。

「念のため、二台、走らせてきたわ。もう一台は術後、山崎先生の総合病院までの『極秘運送用』──。役に立たない方を祈るわ」

 ナタリーの神妙な面もちに、エドも『そうだな』と溜息混じりに頷いていた。

「こっちからも俺専用の道具を持ってきた。運ばせてもらう」
「手伝うわ」

 エドとナタリーの連携は淡々としているが、かっちりと噛み合っていて、その行動は素早い。
 エドは一台のトレーラーの中に道具を運び込むと、何が起きてもすぐに取りかかれるようにと、そこまでの念入りな体勢を整え始める。
 真一の肌に鳥肌が立ち、寒くもないのにぶるっと震えた。
 何故、皆がここまでの大がかりのことをやっているのか……。分かっているけれど、何故、自分の目の前でこんなことが繰り広げられているのか認めたくないそんな恐怖感が襲ってきたのだ。
 本当に、もし? このトレーラーを使うようなことが起きたら?

 白衣を羽織ったエドがトレーラーの中で色々な機器の動きをチェックし道具を並べる手を止めずに、入り口で見守っているナタリーに言った。

「悪いが。真一様とジャンヌ先生をジュールの元まで届けてくれないか。ここを準備したら、俺も直ぐに行く──。急いで欲しいんだ」

 器具を並べながら淡々と言うエドのその言葉に、ナタリーが一度息を止め、すぐに叫んだ。

「今、死闘真っ直中のあの『現場目の前に』!? 先生はともかく、真一様を──!?」

 それは幾らなんでも危険だと言いたそうなナタリー。
 そして彼女はこうも言った。『それは父親のジュンは願っていない』と──。

「だがそれが真一様の願いで、そして大旦那様と奥様から預かってきた願いなんだ。頼む」

 いつもの感情を宿していないような『冷徹な黒猫の横顔』で、やっぱりエドは淡々とナタリーに言うだけ。
 ナタリーはとても納得できない顔をしていたが、『大旦那様と奥様』と言う名が出てきた途端に、不本意そうだが『分かった』と頷いていた。

 そんなナタリーに真一は真っ直ぐに言う。

「ナタリー。俺、一人でも行けるよ。俺を危険にさらすまいという気持ち、嬉しいよ。でも、俺──親父と母さんが、そして叔母の葉月が、そして御園の皆が、こんなに長く苦しまなくてはいけなかったのは何故なのか。知っておきたいんだ」
「し、真一様……」
「何も知らない幸せな顔で俺だけ過ごすなんて嫌だ。俺だって家族だ。苦しい時は一緒に苦しく思いたいし、楽しい時は一緒に楽しくしたいってそんな気持ち。『普通』のことだよね?」

  ナタリーの顔が優しく崩れ、そして『そうですね』と頷いてくれた。

「なによりも。もう、親父一人にはさせたくないんだ。俺、力無くても傍にいたいんだ。それだけじゃ、駄目なのかな」
「いいえ。宜しいと思います。分かりました、お供致しますから、『一人で行く』だなんて言わないでください」

 そして彼女がにっこりと微笑んでくれる。『その言葉、きっとジュンは喜ぶわ』と……。父親の目の前で良く見せていた、純一が信頼している一人の女友達の顔を見せてくれた。
 だが、彼女の顔も途端に引き締まる。
 彼女が部下を数名指名し、『銃を携帯せよ』と命令する。彼女までトレーラーから銃を腰に備え、ナイフも備え……。それを目にして真一は祖父の言葉を思い出し、言おうとしたところ。

「そうだ。ナタリー。大旦那様が『警察』に行く決心をしたんだ。もしかするとこちらに来るかもしれない。この日本国で銃を所持する事は許されていない。だから、銃は使うなとのご当主の意志だ」
「なんですって……?」

 またエドの淡泊な声色の報告に、ナタリーだけが驚きの表情を露わにした。
 だがそれも、もう……。彼女もなにもかもを御園に同調する覚悟を決めてくれているのか、すぐに彼女が仕事に打ち込んでいる時の厳しい横顔を見せていた。

「分かったわ。私からジュールにすぐに伝える。ジュール、スナイパーを構えていたもの」
「そうか……。でも……まあ……」
「そうね。私もそう思う。大旦那様の気持ちも分かるけれど、私達に『国』というものなんてないわ。『これが私達の戦い方』だもの。ジュールは使う時はきっと覚悟を持って使い、お嬢様を救おうとするわ……」

 ナタリーはそれだけ言うと、準備に集中しているエドの返答も待たずにトレーラーから背を向けた。
 そしてエドも……。なにか言いたそうなところを、ナタリーが上手く察してくれた為か、言葉も返さずに送り出したようだ。

「さあ、真一様。行きましょう」

 ナタリーとその部下である男性が二人。真一とジャンヌの前を歩きだした。
 ジャンヌがまた手を握ってくれたのだが……。真一はそのしっとりとしている手をそっと柔らかく除けた。

「俺、大丈夫だよ。先生」
「そう。では、行きましょう」

 真一はこっくりと頷き、ついに未踏の地に一歩踏み出した。

 

 少し歩くと舗装されている道とそうでない砂利道がある境目の十字路に来た。
 ナタリーがそこで立ち止まり、うっすらと明るくなってきた淡い朝焼けの中、砂利道の向こうに見える古い別荘を見やった。

「あれが……。そうです」

 ナタリーの言い難そうな声。でも言わねばならないという声。
 真一を気遣ってくれていることも伝わってくるが、それ以上に今、そこで……父が、叔母が、右京が隼人が幽霊と戦っている真っ最中。
 だけれど、そんな気配も感じないし、本当にシーズンオフである冬の別荘地そのものの静けさしかなかった。
 そしてナタリーはその砂利道の向こうにある家へとは向かわず、新しい区の舗装してある道を遠回りに歩みだし、先ほど教えてくれた『御園邸』がやや離れてみえるところで立ち止まった。

 その時だった。目の前に黒い車と数人の黒い男。一人は車の上にうつぶせになっていて、それを見守っていた若い男達が、ナタリーが現れた方向へとかなり警戒した顔で銃を向けてきた。

 だがそれが『仲間』だと分かると、彼等は無言で銃を降ろす。
 そしてナタリーも一言も発しない。
 真一も悟る。『音を発してはいけないのだ』と。隣にいるジャンヌも分かったようで、二人で目線を合わせまた頷き合う。

 ここは新しい区画の舗装道路。車が停められているのは余所様の玄関先。壁と壁の細い隙間に見える御園邸。そこの御園邸が僅かに見えるだけで選んだかのようなそのポジションに男達がいる。
 停められているその黒い車の屋根にはズッシリ重たそうな大型ライフルが土台の上に備え付けられ、その屋根にジュールが腹這いの格好で構えていた。彼はその銃に付けられている小さな望遠鏡を必死に覗いていた。

 ナタリーは声を発しなかったが、それに及ばす、ジュールが振り向いた。
 ナタリーの横に真一とジャンヌがいるので驚いた顔を見せたが、彼も決して声を発しなかった。
 そのジュールがナタリーを手招きする。近づく許可をもらえたとばかりに、ナタリーが足音もさせない歩き方でジュールの側に行った。
 ジュールは車から降りはしなかったが、側に来たナタリーの口元へと耳を寄せようとしていた。そしてナタリーも、ジュールの耳元に近づき、一言、二言、三言。ジュールはやや驚きの顔を見せたが、そこは先ほどのナタリーのように頷くだけで騒ぎはしなかった。

 そんなジュールが真一をじっと見つめている。
 ──やっぱり、邪魔なのか。追い返されるのか。
 ジュールはそんなところは、ボスである純一よりも冷徹できっぱりしている。ボスの純一が迷うところを代行しているかのような判断を見せてくれる時がある。
 だから、やっぱり駄目なのかと真一は目を逸らしたくなったのだが──。

『いらっしゃい、こちらに』

 彼のそんな声は聞こえはしなかったが、そう言ってくれているような手招きを真一に向けていた。
 戸惑っていると、そんな真一の背をジャンヌが押した。そして彼女は躊躇わずに、ジュールの元へと歩み出す。
 だから真一も、胸の鼓動が早くなってきた緊張感を押さえつつ、ゆっくりとジュールの元へと向かう。

 ジュールの目の前に行くと、彼は口元に『静かに』を意味する一本指を立て、真一に見せる。やはり『声はタブー』という意味なのだろう。真一はこっくりと頷いた。
 そしてジュールは会話が出来ないから、言いたい事も真一に言えないだろうし、確かめたい事も確かめられないだろうに、そのまま迷うことなく真一に双眼鏡を差し出したのだ。

 ジュールの怖い顔。
 その顔が『見ても宜しいですが、その代わり目を逸らしたくなるものが見えてしまうでしょう……』と言いたそうな顔だと、真一には思えた。
 でも、真一は頷き、ついにその双眼鏡を手にする。ジュールが強く頷き、自分が乗っている車の屋根を指さした。

『ここに登らないと、見えませんよ。さあ、いらっしゃい』

 そう言っているのだろう。
 ジュールはそんな真一の気持ちをずうっと前から知ってくれていた一人。だから、言わなくても、彼はもう受け入れてくれていたようだ。
 真一は頷いて、他の部員達が見守る中、ついに黒い車、ライフルが据え付けられ、それをいつでも撃ってやるのだといわんばかりに構えているジュールの横に、同じように腹這いになった。

 使うなと……。ナタリーはジュールに伝えてくれたのだろうか?
 そんな心配が。
 だけれど、ナタリーが言ったように『いざという時は使う事もジュールは厭わない』。きっと隣の無言の男はそのつもりなんだと真一は思った。
 その顔を見れば分かる。そこにいる『兄貴』を。そこにいる『お嬢様』を。そこにいる『新しい旦那様』を。そして捕らえられている『御園家の長兄』を。誰一人欠けることなく、守るのだ。その為ならどんなことも──。その覚悟を決めている『黒猫一番部下』の顔。

 ジュールは今、そこに集中している。
 きっと隣に真一がいることはもう、関係なくなっているはず。

(ヨシ──。今度は俺だ)

 何が起きている?
 でもジュールがなにもせずに見守っている今だから、なにも起きていないと真一は思いたかった。

 大きく脈打つ胸の鼓動。
 それを必死に抑えるようにして、真一はついに双眼鏡を目に当てた。

 そこに見えた光景──。

 ……暗がりで見えなかった。
 真一は驚いて、隣でもっと小さな望遠鏡を覗き込んでいるジュールを見てしまう。
 ジュール、見えているの? そんなことを問いたくて堪らなくなったがなんとか堪えた。

 だがそこは見えているとしか思えなかった。
 彼はつねに何かに照準を合わせようと土台の上で大きなライフルを回転させている。

 その目は暗闇で鍛えられた黒猫の目。
 真一はそう思った。
 そして自分も、暗くて見えなくても……。見えてくるかも知れないからと、もう一度、決意の双眼鏡を構えた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 その瞬間に痛みはなかった。だけれど自分の目の前で幾分かの血が散ったのは見えた!

 一瞬だ。本当にプロの男の手捌きは目にも止まらぬ早さだった。
 それこそ妻が怯えていたように、隼人も幽霊のおぞましい喜びを露わにした眼力に身体が動かなくなったぐらい……。
 勿論、妻の……葉月の盾になったつもり。だが、その瞬間はあきらかに幽霊に石像にされてしまったとしか言いようがなかった!

 その刃を甘んじて受ける!
 右肩の戦闘服がざくっと切れる音がした後は、流れるような曲線で左胸まで引き裂かれる軌道──。それが見えただけ。
 妻がそうだったように……。きっと血は飛び散り、隼人を赤く染め、力無く倒れていくしかないだろう。
 息も出来ない、空気を奪われるような苦しみの呼吸に見まわれるだろう……!

 ──がっっちん!

 左胸でそんな音が響いた。
 何か固いものにナイフのエッジが当たったようだ。それだけじゃない。その刃が思うままの軌道を邪魔したその物体に弾かれたかのようにして、幽霊の手が思わぬ方向にすり抜けていった!
 隼人もその瞬間に驚き、その固いものとナイフががっちりとぶつかり合った反動で弾かれるように足が浮き、妻がいる背後へと押し飛ばされるように倒れてしまった!!

 その時の、幽霊の驚きの顔。
 しかし倒れていく隼人も、目の前の幽霊と同様に驚いた顔をしていることだろう!

「い、いや!! 貴方、どいて、私からのいて頂戴!」

 自分に刃が容赦なく向かってきたから、妻が背中で悲痛の声で叫んでいる。
 だが、隼人はその『奇跡』が起きていることに力が抜けていくように、勢いで倒れるしかなかった。

「次はお前だ! さあ、俺と一緒に皐月に会いに行こうじゃないか!!」

 幽霊はそう叫んでいるけれど、どこか頬を引きつらせ、隼人にはその手が震えているように見えた。
 彼はまた隼人に向かって、いやその後ろにいる妻しか見えない顔でナイフを振りかざしていたが、今までにない妙に不安そうな顔をしている? 先ほど、隼人に食らわした瞬時的に迷いも狂いも無い完璧なまでのナイフを捌くその手が勢いを無くしたかのようにさえ見えた。

 やはり『奇跡』!?
 ついに幽霊に綻びが生じたか!?

 隼人がそう思った瞬間、後ろの妻を気遣う間もなく彼女を下敷きにして倒れてしまった。
 暫くはその一瞬の出来事で、頭が真っ白になっている隼人は動く事が出来なかった。
 それは隼人だけじゃない。もう一人、初めて何かを恐れているかのような幽霊もやはり同じ顔!

 彼の伝説が終わった瞬間だ!
 隼人はそう思った!

 この機を逃すものか──!
 ハッと正気に戻ろうとした隼人の耳に妻の声が入り込んできた。

「貴方が死んでも、私、私……。貴方以外の人とは結婚しない。ずうっと一人でまた寂しく生きていくんだから──!! そうしたら貴方のせいなんだから!!」

 隼人の背に下敷きになっている妻が、隼人の背を拳でごんごんと叩きながら泣き喚いてた。

「ずうっと貴方を思って、寂しく生きていくんだから!! 行かないで、傍にいて、私を置いていかないで!!」

 彼女は拳で叩くのをやめて、泣きながら隼人の背に懸命に抱きついていた。
 その手が熱く、隼人を抱きしめている。下敷きになりながらも、隼人を起こしあげようとしてくれているその小さな力──。

 隼人と同じ『驚き』に包み込まれてしまった幽霊が、その隙をつかれ、起きあがった純一にその腕を掴まれていた。

「俺の弟にまで……! もう許すものか! お前は幽霊だ。幽霊なんだ!!」
「くっ! じゅ、純一……め!」

 幽霊は抵抗をするが、もう純一も迷いはない力強さで戦っている。
 それを目にして、隼人は仰向けになっている状態から、起きあがろうと……。右側に寝返ると、痛みが走った。顔を歪め、歯を食いしばって今度は左に寝返ると、こちらはちっとも痛みがない。

(う、嘘だろう? 確かこっちに力を入れ、狙いは……)

 幽霊のそのナイフは右から左に、そう、その左胸をえぐるような軌道、力加減だったはず。
 だが途中で『がち』という妙に鈍い音が一瞬大きく響いて、隼人の耳に聞こえた。その瞬間、幽霊のナイフも弾き飛ばされるように……。綺麗に描かれそうだったその曲線が、とても不規則なラインに変化して彼の手を妙な方向に飛ばしていた。

 その左胸を押さえながら、寝返る。
 押さえた手のひらを確かめると、左からは出血がない? 隼人も半信半疑だ。

「う、うそ……。は、はやとさん?」
「……葉月」

 気がつけば……。
 寝返ったその目の前には、下敷きに倒してしまった妻の顔。
 涙でくちゃくちゃになって、まるで子供に戻ったかのような顔をしていた。
 笑いかけたいが、右肩の痛みが結構きつい。がっくりと頭が垂れると、また葉月が泣き出す。

「貴方、貴方。しっかりして!!」

 何を言っているんだ。俺はこんなに大丈夫──と言いたいのに、隼人は声が出ず。胸の下にいる葉月が泣きわめいて抱きついてきた。
 身を挺して守ってくれた夫が動けるほど無事だということも、隼人と同じように葉月も半信半疑なのか。彼女は隼人がまだ何処かに行ってしまうのではないかとばかりに必死だった。『貴方、私が見える? ねえ、こっちを向いて!』と首に抱きついて抱きついて叫ぶばかり。

 彼女の真っ白い春コートに、血が染み始めていた。
 ある程度の出血はしているようで、隼人も、もう……力がはいらない。
 それでも、抱きついて離れず、そのコートを夫の血で汚しても泣いている妻の頭を抱き寄せた。

 やっと安心してくれたのか、泣き声が止まる。
 少し息が切れる声で妻の名を呼んだ。

「葉月……」
「貴方」

 ぴったりと抱きついて離れなかった葉月が、やっと腕の力を緩め、隼人にその顔を見せてくれる。

 いつも冷たい横顔。
 何を考えているのか教えてくれない顔。
 時には愛らしい笑顔を垣間見せ、時には隼人も気圧されるほどの勇ましい顔を見せてくれた。
 だが、彼女はいつだって、感情に任せた顔など見せなかった。

 やっと笑顔も泣き顔も、素のまま見せてくれるようになったと思っていた。
 だけれど──。と、隼人はなにか熱いものが込み上げてくる思いで葉月の顔をまじまじと見た。
 目の前にある妻のその泣き顔はくちゃくちゃ。頬も目も真っ赤で、涙で汚れた顔。彼女の涼やかな整った顔を知っている者が見れば、それはもしかするととってもみっともない顔なのではないかと思うほどの──。
 そこに『心のまま叫ぶ』ことが出来ている妻の顔。みっともないくちゃくちゃの顔になってでも必死になって隼人の為に泣き叫び、いつだって『そう、仕方がないのよ』とどこか冷めていた彼女の顔なんかではない。そこにきちんと心が生きている熱くなれる表情があると隼人には思えたのだ。
 だから隼人はその妻のくちゃくちゃの真っ赤な顔に微笑みかけていた。

「そんなに俺でないと駄目なんだ? 知らなかった」

 傷の痛みで声は掠れていたが、いつもの調子でにやりと微笑みかけたつもりだ。
 途端にいつもの『やられたようなウサギの顔』を見せてくれる妻。そしてまた、彼女は子供のような顔で涙をぼろぼろながし、やっと安心したのかまた抱きついてくる。隼人は笑いながら、彼女を抱き寄せた。

「さあ、幽霊! もう気が済んだだろう。これで、お終いだ!!」
「まだだ! あの娘は俺と同じようにしないと生きていけないんだぞ! あの妹を愛し尽くして苦労したんだろう!? お前が一番良く知っているはずだ!」
「なにを。妹はお前に何度傷つけられても『生きていく』! もう渾身の体当たりもやりつくしただろう!? どうだ、俺達は誰もお前に奪われていない。妹も!」

 目の前で、純一と幽霊が揉み合っている。だが、やはり隼人の感じた事は的中したのか、幽霊に集中力はなくなっているのか……?

「まだ分からないのか、幽霊! お前の傍にはもう、妹は『いない』! 妹は自分の力でそこから出ていったんだ!」

 純一のアルドに突きつける叫び声。目の前で隼人がそれを見ていても、やはり幽霊の身体捌きもキレが悪くなっているとしか思えない。ついに純一が背中から羽交い締めにしてしまった。今後は義兄さんの本気の勝利。

 そして隼人も……。隼人は『奇跡』は何故起きたかもう分かっていた。戦闘服の左側の胸ポケットに手を忍ばせる。だが、その忍ばせた指先がポケットの中でそれに当たった感触に隼人は、愕然とした!
 ポケットの中で、ガラスの天使が……。六つ八つというぐらいに粉々になっていたのだ。

 幽霊が左胸をえぐるようにナイフをぶつけてきた瞬間に『ガチリ』と音を立て、その硬さでナイフの軌道を変えたのは……?
 こんな小さなガラス細工が? そうだと言うならば、なんて偶然が重なり合ったことか。ナイフの軌道、ナイフの刃先、その力加減、全てがその小さな一点で受け止め吸収され、弾き飛ばしていた事になる!?

「なんだ。何が起きた……!」

 純一に羽交い締めにされている幽霊。
 そうなると純一の身体の大きさに、元よりある武術に制されると、流石の幽霊も純一の腕にジタバタしてる。
 その幽霊は、いつもそうしているように『確実な仕事をしたはず』なのに、目の前の狙った獲物が僅かな負傷で済んでいる事。そして一番の獲物であったはずの『お嬢ちゃん』が隼人と抱き合っているその姿を信じられない顔で見ていた。
 そして最初は何故という顔ばかりだった幽霊が、真っ赤な顔をしてこちらに嫉妬しているかのようにあがいているその姿……。それはもう、さきほどまで三人で攻防せねば誰かがやられそうだった勢いの天下無敵の幽霊の顔ではなくなっていた。

 その顔は、瀬川アルドなのか?

 『何故、奇跡は起きたのか』。まだ誰も知らない。隼人しか知らない。
 だが隼人は幽霊の目の前で、倒れているその床の上でより一層に妻を抱き寄せ、彼を見つめた。

「ここにいる」

 隼人のその言葉に、隣に寄り添わせている妻も、幽霊を力の限り掴まえている純一も、そして向こうでなんとかしようと立ち上がろうと頑張っていた右京も……一斉に動きを止め、隼人を見ている。それは幽霊もだった。
 隼人はそのまま静かになった空気のなか、さらに呟いた。

「いるよ。あんたの傍に皐月さんが来ているんだ」

 ふと気がつけば、リビングはほのかな朝焼けの柔らかい光が染みいるようにじんわりと入り込んできている。
 徐々に各々の顔も見え始めている。
 その赤い朝焼けの柔らかい光の中。『そんなことあるはずはない』と隼人だって分かっているが、そう言わずにはいられなかった。そして本当に、『姉さん』がそこにいるような錯覚に陥らずにはいられない『奇跡』が起きている。

 だからか……。幽霊は妙に隼人の言葉に敏感に反応した顔。
 口答えもしなければ、先ほどまで余裕綽々で葉月へと向けていた執念深い勢いも萎えている気がした。
 唯一、自分が仕留められなかったもの。
 なんど魔の手を伸ばしても、ちっとも道連れに出来ない彼の『闇の同居人』、そしてその同居人を闇から連れ出そうとしていた『邪魔な男』に起きた奇跡。
 それが目の前で抱き合って幽霊を見ているからか。それが信じられない光景なのか、それともついに諦めたのか分からない。

 だが幽霊は、隼人を見たまま唇を震わせていた。
 真っ青な顔で、そして、真っ青な唇で……。

 そんな彼に、隼人は今まで『新参者』として後ろに一歩下がり見守っていたからこそ『つぐんでいた口』を存分にここで開く。

「俺は思う。皐月さんは……『姉さん』は、なにもかもあんたに捧げたから死んだんだ」

 その一言に、抱きしめている妻の身体が固まり、目の前で幽霊を掴まえている純一の表情も固まり、向こうにいる右京もハッとした顔をしていた。
 それ以上に、目の前の幽霊が一番青ざめた顔をしていた。

「妻と兄さん達の話を聞いているうちに、皐月さんは最後まであんたを信じて死んだのではないかと思った」

 ますます青ざめていくような幽霊の顔。
 隼人は止まらずに続けた。

「どんなに虐げられても、最後まで思い改めてくれる事を信じて──。それを信じてあんたに会いに行った。そう、今日の妻のように『丸腰』でいったはずだ。それで刺されたんだ。あんたは皐月さんを奪ったと思っているかも知れないが、違う。皐月さんは最後まで信じようと、命すらもあんたに捧げたんだ。殺されなければ、そこであんたが悔い改めてくれた事になる。それが、一番の願い。だけれどそうでないなら、あんたの思うとおりに死んでやろう。そして死んだら、あんたの傍にずうっとひっついてやろうとね」

 だから、今日『姉さんはここにいる』!
 隼人はそう叫んだ。
 だから、あんたの攻撃は今日はことごとく阻止されているんだ。

 自分の身に『奇跡』が起きた。その『奇跡』を受けた男が言うならば、そこには本当に皐月の魂が漂っているように聞こえるのかもしれない。
 だからか、ついにアルドが叫んだ。

「ち、違う!! 俺は皐月のなにもかもを踏みにじって……うば・・・、奪ってやったんだ!! あの女は俺に捧げてなんか・・捧げてな……」

 ついに感情的になったところを見ると、どうやら隼人が思い描いていた事は、的中してるのか?
 御園の、いや皐月の家族は『殺された、殺された』と言っているし、それも事実。だが一歩引いて控えていた隼人には、申し訳ないが少しばかり客観的になれる部分があった。後ろで、『皐月は一言も瀬川のことを口にしなかった』とか『誰が実行していたか決して口を割らなかった』とか、皐月がどれだけ辛い目に遭わされても、口を割らなかった理由なんて、実はそんなところなのではないかと隼人は思った。他に理由はあったかも知れない。だけれどそう思うと、妻との数年の付き合い、その妻の家族との親交から受けてきた亡くなった姉の印象とピッタリしっくりくるのだ。
 隼人は信じている。──きっと皐月姉さんは、そんな真っ直ぐな人だったんだ、と。もっと自分を守る事も出来たはずなのに、彼女はそうして真っ直ぐに自分の信念を貫く道を選ぶ事で、己の誇りを守り貫き、そして散っていったのだろう。

「う、嘘よ! 姉様が、そんな……!」
「そうだ。皐月が……まさか」

 妻はまた隼人の胸の中で泣き始めた。
 やっぱり姉様は自分から死んだようなもの。そうなることが受け入れられないようだ。
 だが、純一は違った。それは信じがたい婚約者の心情のようだが、でも──『皐月なら、有り得る』とも思えている顔をしている。

 そして幽霊がついにがたがたと震え始めた。
 彼は『違う、違う』とぶつぶつと呟き始めている。
 ……そして、ついにがっくりと純一の腕の中でうなだれていた。

 純一が力を緩めても、きっと彼はそこに立ちつくしているだろう。
 そう思えるほどの脱力している姿に、隼人が突きつけた事は本当の事と彼は『既に知っていた』のだと思えた。

「妻が言っていたとおりに『認めて』、あの日に戻ればいい。それがあんたの本心、願いだったのではないか?」

 彼は十八年。奪ってやろうと燃やしていたその心を皐月にぶつけた時。彼女の丸腰の信じる心を刃で貫き、実はそれが『捧げてもらっていた』ことに気がついていたのだろう。
 だが……。認めたくなかった。だから十八年『幽霊』となって生きてきた。
 そして今日、彼は『瀬川アルド』に戻る。
 隼人はそう思う。

 隼人の腕の中で泣いていた葉月が、アルドに呟いた。

「お願い。姉様に話してあげて──。お願い」

 それが妻の願い。

「先輩。あの時の先輩に戻って、やり直してくれ。『償い』というやり直しを──」

 それが純一の願い。

「頼む。本当のことを教えてくれ。皐月が何を思って最期を迎えたのか……」

 それが右京の願い。

 

 そこには真っ白になっている幽霊がただ立ちつくしていた。

 

 隼人が純一を見ると、彼は力なく首を振る。
 もう話もない。戦闘意欲もない。彼は真っ白に燃え尽きているかのようで、純一は『終わってしまった』と最後まで彼から真実を聞き出す事に至れなかったためか、やや残念そうにうなだれていた。

「先輩、行こう。俺が付き添う」

 羽交い締めにしたままだが、純一はゆっくりと瀬川と共に、外へと向かい始めた。
 まだ安心は出来ないが、本当に燃え尽きたかのようなアルドは後輩の意のまま、いや、まるで本当に付き添われている老人のようにしてうなだれて歩き始めたのだ。

 ──終わったのか?

 隼人もまだそんな実感がない。
 妻もそうなのだろうか? 隼人に抱きついたままただ動かずに、義兄と幽霊が歩き出したのを見つめていた。

 ところどころに散らばっているナイフ。
 誰のナイフだか分からないが、その横を通りすがろうとしているその時──。
 やはり、幽霊の目が光ったのだ!

 うなだれていたアルドは、急に凛と背筋を伸ばしたかと思うと、純一の腕から力強く飛び出したのだ。

「兄さん──!」
「純──、危ない」
「純兄様──!」

 純一もそこは油断していたのか、せっかく捕まえていた幽霊を開放してしまっていた。
 幽霊が床にあるナイフを低い姿勢でざあっと掴み取る。
 その顔はまた、あの不敵な幽霊の顔──!

 攻撃されるなら、目の前にいる純一が一番近い。
 また、彼の狂気の暴走が始まる!?
 隼人も葉月も今はもう、思いっきりに動く事は出来ない。
 二人で抱き合い、もしここに再び幽霊が来たならば、今度は……!?

「なにが償いだ! 俺の傍に皐月はいない!! いない!!」

 天に向けるようにナイフを掲げるアルドのその手の行方は──。

「誰にも『俺達の瞬間』を知られてなるものか!」

 銀色の刃、その閃光は、純一の元へは行かなかった。
 そして隼人でもない、葉月でもない──。
 それは、その刃の直ぐ真下にいる男『幽霊』へと振り落とされた!
 銀色の閃光が、彼の首元をざあっと切り込んでいった!

 誰の目にもそれは一瞬の出来事。
 幽霊はこんなときでも、本当に手早く誰も寄せ付けない──。『自分が死ぬ』時ですら!

 目の前に噴き出た赤い鮮血。
 床に花びらのように散り、隼人と葉月の足下にまで飛び散ってきた。

「アル先輩!」
「せ、瀬川め! そこまでしてでも……!」

 純一はすぐさま駆け寄っていったが、真実を知りたかった右京は闇に持ち帰ろうとした幽霊の最後のあがきに怒りの叫び。
 首から血を流す幽霊。力無く膝を床に落とし、そのまま土下座でもするかのような格好で額をごとりと床に付け動かなくなる。

「い、いや・・・」
「葉月──」

 葉月は目の前の光景に目を見開き、そのまま動かず黙っていた。
 だが、それは一瞬──。
 隼人の腕の中、ただそこで夫と寄り添っていた妻が、幽霊へと駆けだしていた。

 血塗れになっていく幽霊の元に葉月が駆けつけ、なんと、素肌に羽織っていたコートを躊躇わずに脱いだかと思うと、急に瀬川の首元に当てた。

「し、し……死なすもんですか!! 行くのよ! 姉様のところに行くのよ!!!」

 妻の必死の顔。
 やがて彼女もその白い肌に、血をつけながら、それでも必死に止血をしようとしている。
 それは慈愛でもなんでもない。ただ葉月という苦しんできた彼女の『最後の執念』だった。

 隼人はそれを見て、頷いていた。
 そうだ、葉月。その男を逝かせてはいけないと──。

 隼人は左胸のポケットを握りしめる。
 砕けた天使はもう、ここにはいないのだろうか?

 もし、いるならば……。

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