-- A to Z;ero -- * 翼を下さい *

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5.邪魔な男

 幽霊のその目が『純一、お前には撃てやしないさ』と、高をくくっていると、葉月にはそう見える。
 そして、葉月もそう思う。義兄は絶対に撃たない。もし、それが出来るなら──。

 また、なにもかもを背負って行く覚悟なのだろうと。

「に、兄様……」

 純一の背にいる葉月は『そんなことやめて』という気持ちで、先ほどからずうっとしがみついている彼の黒い戦闘服を引っ張る。
 だけれど『そんなことやめて』と言う声は、結局は出せなかった。その通りに、今、純一がその銃を除けてしまうと、また目の前の幽霊がナイフを振り上げるだろう。三人で必死にそれぞれへの攻撃を止めたが、それがやっとだったじゃないか。今、アルドだって、その銃口には警戒はしている。ほんの僅かの牽制をしているこの間に『なんとかする次の方法』を葉月は一生懸命に考える。それは葉月の隣に寄り添って警戒してくれている夫の隼人も同じ顔。彼も幽霊を睨んだまま、唇を噛みしめ何かを考えている横顔……。

 だが銃を突きつけられているアルドが、ふと微笑んだ。

「皐月になにがあったか? 知らないな」
「な、なんだと……?」

 いつになく純一の顔にあからさまな怒りの表情が刻まれる。
 少しばかり頬を熱く燃えさせているのは、冷静さの奥に必死に隠した『憎悪』が直ぐそこまで浮上しかけているからだと、葉月は思った。
 だから純一の銃口が先ほどより強く、腕をぎゅっと伸ばしアルドのこめかみに食い込ませる。

 ……駄目よ、お兄ちゃま! この男は今度はお兄ちゃまに罪をなすりつける!

 その男にそんな形で復讐なんてしちゃ駄目!

 葉月は、そんな自分の気持ちは義兄の純一には通じると信じている。
 だけれど……! 義兄の今まで背負ってきた気持ち、苦しんできた気持ちを思うと、やっぱり今は冷静になるのも無理だし、つい最近突きつけられた衝撃の事実についてあっさりと心の整理がついているとは思えなかった。以上に、今まで空洞だった『敵』の姿が、信じられない人間であったというショックも心を平静には保たないだろう。

(駄目。やっぱり私なんだわ──)

 この男は、私と最後を締めくくらなくてはいけない。
 そして……『姉の前』に連れて行かなくては!

 葉月のその思い。
 葉月は純一を押しのけて、もう一度幽霊と対峙しようとしたのだが……。その前に出ようとしていた身体を、まるで心を見透かしているようにして、隼人にグッと止められてしまっていた。
 彼は幽霊を睨みつけたままに顔をあげている姿勢を崩していないが、純一の後ろに座り込んだままの葉月の肩をぎゅっと掴んで離さない。

──行くな。いいか、ここは今、兄さんにとっても大事なところなんだ!

 警戒している夫の顔とは目線も合わないけれど、それでもその白いコートの生地を肩でぎゅっと掴んでいるその力、その顔がそう言っているように葉月には感じ取れた。

 それだったら……。
 葉月もその隼人と同じように、純一の黒い戦闘服をぎゅうっと握りしめた。
 『兄様、駄目よ。駄目。落ち着いて』──と、心の中で唱える。隼人から葉月、葉月から純一へ。その思いは繋がり、通じていると信じたい!

 それが通じたのか? 純一の頬の色が落ち着き、いつもの鉄仮面のような黒猫の顔に戻っていた。

「だったら、何故、義妹をつけまわす」
「つけまわすだと?」

 アルドがふと唇の端をあげ、ククッと小さい笑い声を微かに漏らした。

「つけまわすもなにも。俺が意図しなくても、こんなに引かれ合う運命の『俺達』。残念だがお前が入る隙などどこにもない。もう少しで『俺とお嬢ちゃん』は『一緒になれる』のだから」
「一緒になるだと?」
「そうだ。それで『ふたり』で一緒に、この世をこちらから見限り、『皐月』のところに行くんだ。いいだろう? 姉妹は俺のものになるんだ。どちらもお前が欲しくて、欲しくてたまらなかっただろう二人の女。お前がぐずぐずしているから、俺がもらってやろうと言っているんだ。羨ましいだろう? ええ? 純一」

 アルドがそこで高らかに笑った。
 再び、純一の顔に憎悪の色が浮かび上がる──。

「幽霊。お前なんかに、『皐月も葉月も』手渡すものか。魂だけになっても皐月は俺のもの、葉月は俺の大事な最愛の妹だ。誰にも渡さない」

 純一のその顔──。
 先ほどまで、まだ『幽霊』ではなく『慕っていた先輩』という心の揺れがあった。だが、今のその顔にもうその迷いはない。純一はついに目の前の男に対する『懐かしき未練』を捨て去ったのだと、葉月には思えた。
 そして、葉月の目に涙が滲む。時には義兄は姉を愛しているから振り向いてくれないのだと、姉に嫉妬に似た気持ちを抱いた事もある。だけれど、今はそんな姉に対して、はっきりと『俺のもの』と言ってくれたことが妹として嬉しい。そして自分の事も──『最愛の妹』だ、と。
 そう……男女の仲としては添い遂げられなかった義兄妹の私達だけれど、それでもお互いに『最愛の義兄妹』だって、葉月も胸を張って言える想いがある。それを同じように純一が持ってくれているその喜び。

 だが、そんな喜びに浸れるのも僅かで、今までもそうだったように『幽霊』が私達に残酷に微笑みかける。

「それはお前の勝手。そして俺も、俺の勝手。お前がなんとほざこうが、俺は『姉妹とは切れない』と思っている。俺と皐月さえ、切れなかった。そうだろう?」

 純一、だからお前の手元に彼女はいないのだ。──彼は最後にそう言って笑った。
 純一がぎりっと噛みしめ、幽霊を睨みながらさらに銃口をこすりつけるのだが、葉月はもう、その効果はないようにも見えた。

 そんな時だった。

「……皐月は、あんたのこと、いつも褒めていた」

 そんな弱々しい声が、幽霊の背後から聞こえてきた。
 それは後ろで力無く横たえている右京。

「あの人と一緒にやっていけば、必ず私達の時代がやってくる。あの人と純一と一緒に活躍が出来る。いつも、そう言って俺に聞かせてくれていた。その時の従妹の顔はとても輝いていた。家族として一緒に暮らしていた俺にだって、本当にその先輩が好きなんだと思っていたのに……」

 右京のその声に、幽霊の愉快そうだった表情がピタリと平静に固まる。

「そうだ。俺にもそう言っていた。皐月が時には興奮するほどに……。あんたとやっていけば、必ず導いてくれると」

 悔しそうに唇を噛みしめている純一の顔が、後輩の顔に戻る。
 そして今まで以上に哀しみに堪えられない目元で、先輩に尋ねている。
 それにも幽霊はぴくりと反応した。

「……何故、なんだ。皐月はあんたに何をした」
「何故なんだ。『アル先輩』──! 皐月は最後まであんたのことを一言も言わなかったし、残した日記にもあんたのことを恨むようなことをひとつも書き残していなかった!」

 『どうしてなんだ!?』──。
 兄達が苦しんできた声。
 そして葉月の記憶が戻って知った真実に、より一層苦しめられた事実。
 それを切実に知りたいのは、この哀しみに苦しみがなんであったのか知る事が出来ない限り、兄達の中ではよけいに終われないのだろう。

 今、義妹と義弟である二人は入り込めない時代の話になっている。
 葉月が固唾を呑んで見守っている間も、隣にいる隼人は葉月をしっかりと掴まえてくれていた。

 そして『幽霊』の顔は、真っ平らになり微笑みが消え、そうとは認めたくないがどこか哀しみともとれそうな眼差しを伏せた瞬間。何故か、葉月はその目を見てドキリとさせられる。

「純一。答えろ」

 アルドの唐突な、しかも威厳を見せつけるようなその命令口調に、あの純一の身体が硬直したのが側にいる葉月に伝わってきた。
 それだけ義兄の中では『頼もしき尊敬する先輩』として根強く残っているのだと、つくづく思わされる反応。純一は表情は崩してはいないが、幽霊のその威厳に気圧されているようにも感じられる。
 銃を突きつけられているそんな後輩に、アルドが真っ直ぐな眼差しを向けてきた。

「お前、一緒に俺と働いていて、俺が何か間違っていると思った事はあるか」

 その口調は、幽霊というよりかはやはり先輩だった。
 今、きっと……。葉月の目の前で繰り広げられているのは十八年前の青年だった日々の再現のように見える。
 当時、そこに存在し得なかった少女だった葉月には、どこにも入る隙のない、『大人の世界』を見せられているような、少女として据え置かれているようなそんな錯覚に陥る光景。そんな中、純一の目も『アルド先輩』の問いを真剣に受け止めている顔。

「なかった。でも、今は疑っている」
「なるほど」
「先輩は、時々、俺にも分からないようなちょっと見えない仕事をしていたという記憶もある」

 その『ちょっと見えない仕事』という一言で、葉月もピンと来た。
 彼は今は部外契約傭兵ではあるが、それでも軍にとってはその使いっぷりは『秘密隊員』に等しい重責ある仕事を任せたりしている。マイクの調べでは、身体能力もさることながら、内勤の手腕もずば抜けていて、あのまま隊員として残っていれば、間違いなくあのロイと匹敵するエリートコースを難なくこなしていたか、現場にいれば腕の立つ最高の兵隊だっただろうと。それだけの評価があれば、行き着く先は軍の中枢に触れる『秘密隊員』であったことだろう。
 それを当時から任されていたのだと葉月は思った。
 マイクの調べでも出てこないのなら、軍側にも何か? 隠匿してしまうなにかがあったのだろうか?
 ──もしや。その隠匿した何かに姉が関わっている?
 葉月にそんな疑問が新たに湧いてきた。

 だからか? アルドは純一のその問いには黙りこくっていた。
 やはり、それが彼の言いたくない事のひとつなのか。

 葉月も右京や純一のように、彼に問うてみたい。口を出したい。
 だけれど、今、そこで四十代の男三人が取り巻いている空気は、『十八年前の青年時代』。葉月には本当に割り込めそうになく、そんな疑問を自分の代わりに兄達に聞いてもらいたいと心で願っていた。すると右京がそれが通じたように、アルドの背から再び。

「皐月とあんたの間で、軍では知れてはいけない何かがあったのか? そうとしか思えない。だが横須賀の大本部にも教育隊にもその形跡はなかった」
「俺も調べたが、何も出てこなかった」

「そう、なにもなかったのさ」

 アルドがふと微笑んだ。
 そしてそこは急に、葉月にも目を疑いたいほどの目を彼が見せた。
 邪気がなく、純一を見つめるその目には、暖かさがあった。
 先ほどまで、葉月を道連れにとか、純一に対しても情もなく、ナイフを振り回す狂気の男の顔をしていた幽霊が、純一に向けて澄んでいる目を……。そう、あの娘のミーナそっくりの目をみせてくれたので、葉月の胸の鼓動が早くなる。
 ……そんな目。そんな目を隠し持っているだなんて。嫌だ。認めたくない!
 彼には許し難い幽霊でいてくれないと、葉月の中では認めがたい『事実』が出来てしまう。それが出来たらそれを受け入れるのに凄い精神を浪費するのだから。憎い敵のままでいて欲しいのに、何故、そんな目をまだ捨てずに持っている?
 だが、そう思う反面──。その目が残っているなら、姉のところに連れて行けるかも知れないと思った瞬間でもあった。

 アルドがその目で純一に言った。

「なにもなかったのさ。皐月も、なにも言わなかったのなら、それが彼女の気持ちであった。そう思わないのか?」
「言わせないようにしたんだろう!?」

 純一の言葉に、アルドが首を振る。

「馬鹿みたいに白い女。俺が皐月に思う事はそれだけだ」

 アルドのその一言に、純一も右京もそろって眉をひそめ視線を合わせていた。
 それっきりアルドは口を閉ざし、純一の目も見なくなった。

「それだけ。本当にそれだけなのか!!」

 再び銃口を突きつける純一。その顔は、『真実』を闇に葬ろうとしている男への怒りを表していた。
 純一がついに引き金に指をかける!

「義兄さん──」
「純兄様──!」

 隼人と葉月は揃って、純一に落ち着くようにと止めた。
 だが純一の指は引き金から離れる事はない。

「これが最後だ。幽霊! もう一度聞く。皐月と何があった」

 幽霊の返事が返ってくる。

「なにも、ない」

 純一の顔に血が上ったのが分かる!

「なにもないのに、皐月をいたぶったというのか!?」

 葉月と隼人は『もう駄目だ』と義兄の怒りが爆発寸前まで追い詰められ、そして純一が覚悟を決めたと揃って目をつむった!

 純一の指先がぴくりと動いてしまう!
 右京も『純、やめろ!』と手を伸ばして叫んでいる!

 だが葉月の目の前で、その幽霊も素早く『敵方の動きを読みとった』という鋭い目を輝かせ、その冷徹な顔のまま腕が素早く動いた。
 純一が本当に銃を撃つつもりだったかどうかは分からない。それでもその危険性は大いにあると目の前の『撃てやしない』と高をくくっていた男も判断したのか、目にも止まらぬ早さで動いたその腕が、ガンと純一の銃を持っていた腕を跳ね上げた。
 純一の『あ』とした顔と同時に、銃はついに手から離れ、銃に舞う! それだけじゃない。目の前で黒猫で強靱であるはずの純一が、その腕をアルドに掴まれ、ねじられ、ついには身体ごとひっくり返され、床へとたたき落とされてしまったのだ!

 なんて見事な身体捌き!
 心得がある葉月にも、その素早さも的確さも驚嘆する完璧なもの!

「おまえ、本当にぬるいな。命がけの仕事、どれだけやってきた? 『噂の黒猫』が呆れるな。噂は噂か──」

 床に叩きのめされた純一を見下す目で見ている。
 そのアルドの目が、再び、葉月に注がれた。
 葉月の背にゾッとした悪寒が走る! 先ほどの一瞬心を緩めたような目などもう何処にも宿しもいない魔の眼が自分に注がれていた!
 また葉月の身体が動かなくなる。今度は床にぺたりと座ったまま魔王に睨まれていた。

 そんな葉月の事も、ちゃんと分かっているのか純一は叩きのめされたショックなど直ぐに払いのけるように立ち上がろうとしていた。

「葉月は、渡さない!」

 だが、そこで幽霊の眼が葉月に向かって輝いた!

「そうだ、嬢ちゃん。お前は俺の言う事はちゃーんと聞けるのだよな? 聞かないとどうなるか、それもよーく知っているよなあ?」

 葉月の身体が余計に固まる!
 あの日のように、泣き叫んだり、助けを求めたり、必要以上に物事を要求すると、髪の毛をひっつかまれて床や壁に押しつけられたり、酷い時には身体ごと投げ飛ばされた。口が切れて初めて味わった血の味。目が霞んで遠くで苦しんでいる姉の顔。幻でパパがそこに立って見えた時だってある。
 そうあの時からきっと、泣いたり、喚いたりする感情が薄れていったのだと──。

「い、や・・」

 声も出なくなる。
 覚悟を決めてやってきたはずなのに、やっぱりあの日の怖い顔にはまだ支配されたまま!

 その眼でにたりと笑ったその顔は、まさに葉月を苦しめてきた泥沼から這い上がってきたあの黒い物体そのもの!

 駄目よ、ここで向かわないと。
 一生、この男に苦しめられる。
 この男に立ち向かわないと──!

 覚悟を決めた心はそう叫んでいるのに、それでも身体と意識はちっとも改善されずそのままの葉月。
 そのにたりと笑った男が起きあがろうとしている純一の背に飛び乗り、踏み台にするようにして葉月の目の前に舞うように飛んでくる!!
 飛んでくるその男は、懐からナイフを取り出しまた振りかざしている!! やはり『丸腰なんかではなかった』──。先ほども葉月と差し違えようと企み、だからこそわざと誘っていた事を知り、改めて、幽霊が黄泉の道行きの共に、葉月を望んでいることに驚くしかない。
 また右京が『やめろ!』と思うように動けない痛みある身体で起きあがろうと叫ぶのだが、その助けは間に合わない!

「さあ! 散々苦しんだこの世と、ついに別れられる時が来たぞ!」
「い、・・・」

 いや。確かに私は『こんな世の中』と思っていたわ。
 だけれど、何処かで望んでいた。
 ずっと生きたい。そして笑いたい。そして泣きたい。
 そうして生きていきたい。
 それが出来ないまま死ぬ事の方が、実はずうっと怖い事だってやっと解ったんだから!!

 私は貴方とは違う!
 私はちゃんと戦ってここまで来たんだから。
 もう私は貴方と同じ場所に、執着は持っていない。

 私はまだまだこの世で、苦しんでもいい!

 きっとそこには同じような数だけ、喜びもあるはずだから!!

 貴方とは行かない!!

 葉月の目に、涙が一筋流れていた。
 それは恐怖の涙ではない。
 生きたいという願いの涙。

 そして葉月の動かぬ身体、その手先がさあっと動く。
 動いた手先が向かったのは、隣で立って見守ってくれていた夫の足。そこを掴んでいた。

「あ、貴方と、い、いる、ず・・っと」

 やっと出た声がそれで……。
 だからこそ──。目の前で信じられない事が起きてしまった!!

「妻は俺といたいと言っている」

 そんな静かな声。そして目の前に立ちはだかる夫。
 隼人の目は真っ直ぐに宙から飛んでくる幽霊に向けられていた。
 それも──。葉月がそう望んだように、隼人もナイフも銃も手にせず、そのただ静かに何かを待ち構えているその姿。

「は、隼人さん!!」

 やっと出た声!
 だけれど、遅かった!

「お前が一番、邪魔な男だ!」

 幽霊の眼が、一番の獲物を確実に仕留めようとしている喜びの輝きを見せていた。
 銀色の閃光が、夫の肩から左胸へと弧を描いたのが葉月の目に見えた。
 葉月には隼人の背しか見えないけれど、その彼の横頬に細かい血がぽつぽつと散ったのが見えた……。
 ──『貴方!!』 やっと出た声、やっと動いた身体。葉月は立ち上がり、隼人のその背に抱きついた。

「次はお前だ! さあ、俺と一緒に皐月に会いに行こうじゃないか!!」

 振り上げられるナイフ。
 だが葉月のその腕には、血を散らせた隼人の身体は重くのしかかってくる。
 倒れてもまだ盾になろうとしてくれているのか!?

「い、いや! 隼人さん、いや……!」

 隼人の身体を除けて幽霊の魔の手から逃れてもらおうとしても、それが彼の本意なのかそれともそれほどに深くナイフで傷つけられて倒れるしかないのか。とにかく隼人は葉月を背に隠したまま、幽霊と真っ正面に向き合ったままのいてくれない!
 ついに葉月は隼人に押しつぶされるような形で、床に再び倒れ込んでしまった。

 幽霊の笑い声。
 夫も死んだ。さあ、お前もこれで思い残す事はない。
 彼がそう言っている訳ではないのに、葉月の耳には昔から自分を苦しめてきた黒い物体の声がこだましていた。
 それ以上に葉月は悲鳴を上げていた。隼人の背を抱きながら……。

 やっぱり、駄目。
 もうどんなに傷つけられても、もうどんな哀しみがあっても……。
 これ以上に何があるって言うの? これ以上何を泣き叫べと言うの?  幽霊にそう突きつけたけれど。『やっぱりある』。
 生きている以上はある。どんなに何回も哀しみを越えても、やっぱり生きている限りはある。
 そして……『愛している人がいる限り』。その哀しみは必ず、やってくる。

 いや! 貴方にまで私は置いて行かれるの?
 また愛した人を見送らねばならぬ人生を送れと言うの?
 俺が犠牲になった、俺が守った命だから、一生懸命に生きろ! 貴方ならきっとそう言うわね……?

 でも、嫌──!!
 やっぱり嫌! 貴方が死んだら私も……。

『死んだ人間はそこまでなんだ。残った者が強く思い続けてくれても、思わなくても。それはお前が一番良く知っていると思う。その気持ち、俺に与えるな。もし与えたら、俺は貪欲に、次も同じぐらい幸せに過ごせる女を見つけてやるんだ』

 送り出してくれた時、隼人がそう言った言葉が葉月の頭に蘇る。
 でも葉月はそうは思わない!

「貴方が死んでも、私、私……。貴方以外の人とは結婚しない。ずうっと一人でまた寂しく生きていくんだから──!! そうしたら貴方のせいなんだから!!」

 だから傍にいてよ。
 行かないで。私を置いていかないで!!

 葉月の熱い血が吹き出そうな思いで叫ぶ言葉……。
 もう彼には届かないのか。

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